バニラ

大学受験に失敗した。十八歳の春、高校を卒業してすぐのことだ。
 もともと狙っていた大学は、偏差値が足りなくて諦めた。第二志望の大学は、回答欄を間違えて、一つづつずらして記入してしまったため、当然のように落ちてしまった。滑り止めに受けていた大学の入試は、インフルエンザにかかって受けられなかった。
 結局、どこにも行き場所の無くなったぼくは、一人部屋に引きこもって、一か月を無為に過ごした。いつの間にか桜の花は散っていた。最初の頃は友人たちからも時折メールが送られてきていたが、それも次第に来なくなった。皆、それぞれの生活で忙しいのだろう。 
 高校時代に、「離れても、ずっと親友だ」と約束して、「卒業してからも毎日メールするよ」、と言ってくれていた男からきた最後のメールは「彼女が出来ました、お前も頑張れ」だった。それから二週間がたったけど、それ以来メールは来ない。
 お前に言われるまでもなく、ぼくはぼくなりに頑張ったのだ。その結果が今である。
 一度電話をかけたけど「今デート中だから」と切られてしまった。
 思わず通販サイトで藁人形を探した。五寸釘も探した。セットで見つかったけど、五件の入札が入っていて、諦めた。それ以上に、怖くなった。
 それから、自分も藁人形を作って出品してみようかとも考えたが、止めておいた。もし入札が入ってしまったらどうしようと、そこまで考えて止めた。
 そうこうしているうちに、ゴールデンウィークが終わった。せっかくの長期休暇だが、あいにくと今のぼくは毎日が日曜日である。ゴールデンウィークになんの価値も見出せなかった。
 ただ、一つ変化があったとするならば、それは父方の祖父が他界したということくらいだろうか。
ぼくは祖父の葬式に参列することになった。久しぶりの外出が、葬式である。
大学の入学式で着る予定だったスーツを着て、悲しみに暮れる参列者の中に混じる。
そうやってじっと式に参列しながら、ぼくは祖父のことを思い出していた。
祖父が暮らしていたのは、隣の県だった。父が何度も一緒に暮らそうと言っていたが、祖父はそれを断り続けた。体調を崩して入院しても、足が不自由になっても、我が家に頼ろうとはしなかった。きっと、今の住処を離れたくなかったのだと思う。
 祖父は小さな古本屋を営んでいた。早くに亡くなった祖母と一緒に始めた古本屋だと聞いている。客が来なくても、自分の死期が近いと知っても、祖父はその古本屋に固執し続けた。生前に撮った祖母の写真をレジカウンターの横に立てかけ、日がな一日、それを眺めながら店番をしていた。
 ぼくにはそんな祖父の姿が、死に場所を見つけた老兵のように見えた。それから、頑として、自らの城を明け渡そうとしない気高き王のようにも見えた。
 そんな祖父の姿を思い出して、今の自分と比較する。ぼくはいったい何をやっているのだろう。このまま無気力に生き続けているだけで、ぼくは祖父のような最後を迎えられるのだろうか。白装束に身を包んだ祖父の顔は、どこか満足そうだ。
 そう思った瞬間、実感の湧かなかった祖父の死が、急に現実味を増して、ぼくに襲いかかる。
 祖父の死が悲しくて、今の自分が悔しくて、ぼくはただ黙って歯を食いしばった。
 祖父の城だった古本屋を継いでみないか、と父に言われたのは、祖父の葬式が終わってすぐのことだった。
やるべきことも、やりたいこともなかったぼくは、直ぐにその提案を承諾し、一週間もしないうちに、祖父の生前暮らしていた家に移り住んだ。家の一部を改装し、店にしているらしい。埃の舞う店内には似合わない木で出来た革張りの大きなソファーが、カウンターの横に置かれている。表に掲げられた看板は雨風にさらされ、何と書いてあるかも判別がつかない。
 錆だらけのそれを修理する気にもなれず、ぼくは、ほとんど客の来ない店のカウンターに座り、日がな一日、本を読みながら店番をしていた。
 晴れた日には、午後五時を過ぎると、窓から差し込む夕日が店内をセピア色に染め上げる。そんな中、ぼくはゆっくりと本の頁を捲る。
 一ページずつ、慎重に、本を傷めないように気をつけながら。
 そういえば、ぼくは本を読むのが好きだ。本の内容と言うより、読むと言う行為自体が好きだ。
 だけど、別に内容がどうでもいいってわけじゃない。例えば何かが自分の心に響く本を読むとしよう。それがどんな内容で、自分はその本を読んで何を感じるかは、読み始めるまで分からない。しかし、十ページ、五十ページ、百ページと読み進めていくと気付く。ゾゾゾゾっと、なんとも言えない快感のようなものが、ぼくの背中を駆け抜けて、どこか心の奥深くをノックする。それはきっと、ぼくの魂がその本を、自分の一部だと認めた感覚だ。それから世界中の何事でも許せてしまいそうな幸せな気分になる。どこまでも、自分とその物語が溶けて混ざって一つになるような、失っていた心のカケラがピッタリと嵌るような、得も言われぬ幸福感を感じる。
 ぼくは、その本と自分が溶けて一つになるような感覚が気に入っている。
 だから、ぼくは、至福の時間を邪魔されるのが、ブチ壊されるのが大嫌いだ。
 なのに、あの日、ぼくの幸せな一時は、君の何気ない一言でブチ壊された。

「ねぇ、そこのソファー、いくら?」
 五月も終わりに近づいたある日の昼下がり、店に入ってくるなり彼女は開口一番そう言った。黒いミニスカートに、黒いニーソックス。上も黒いシャツと、全身黒づくめ。薄茶色の髪を軽く巻いた、気の強そうなつり目の少女だ。
 カウンターでぼんやりと「不思議の国のアリス」を呼んでいたぼくは、一瞬何を言われたか理解できずに「は?」と訊ね返した。
「聞こえなかった? ここのソファー、いくらするの?」
 彼女は、履いていた、底の厚いブーツを脱ぎ棄てると、カウンター横のソファーに飛び乗る。クッションが潰れ、埃が舞った。重厚な木の背もたれがギシッという音をたてる。
 目を閉じて、ソファーの感触を確かめると、少女は幸せそうにため息を吐いた。
 それから、視線をぼくに戻して「で? いくらで売ってくれるの?」と言う。
「いくらで売るもなにも、それは売り物じゃない。ここが何屋か分かってる?」
「見たところ古本屋でしょう? でも、あんな錆錆の看板じゃあ、何屋かなんてわからないわよ。っていうか、なんて名前のお店なの?」
「知らない」
「はぁ? あんたの店でしょう? ここ一週間くらい見てたけど、あんた以外に従業員もいないみたいだし。なんで知らないのよ?」
「死んだ祖父の店なんだ。だから、知らない」
 ぼくがそう答えると、彼女はそっかと、意外なほどあっさり納得してくれた。どうでもよかったのかも知れない。彼女が興味を持って、売って欲しいと望むものは「人間失格」の初版でもなければ、海外のファッション誌でもないし、最近はやりの恋愛小説でもない。今、靴を脱いで彼女が我が物顔で腰掛けている、木製のソファーなのだ。
「っていうか、買ってどうするの? こんなもの」
「部屋に置くの」
「なんで?」
「置きたいからに決まってるわ。あ、言っておくけど、これじゃないとダメだから。この使い込まれた感じがいいのよ。新品とか、ボロボロなのとかはいらないの。このソファーの状態が、これでもかってくらいにベストなの」
 彼女が何を言っているのかが理解できない。
 が、しかし、このソファーがとても欲しいということだけは理解出来た。
「それで、いくら? 十万円までなら払えるのだけど」
「一つ聞いていいかな? なんでそこまでしてこんなくそ重たいソファーを欲しがるんだ?」
「うーん……。なんて言うかな……」
 彼女は腕を組んで、暫く目を瞑って何か悩んでいた。自分の気持ちを言葉にしようとしているのだろう。だけど、それには時間がかかる。心からの本当の想いを口にするのは、ものすごく大変なことだからだ。心は言葉じゃ伝えられない。
「ピッタリした? っていうか、ビビッときた? これじゃなきゃダメなんだって思った……? なんていうか、これからの私には、このソファーが必要なの。この立派だけど、使いにくい、そんなソファーが」
「これからの私?」
「そう、これからの私。来週から私、ゴスロリデビューするから!」
 彼女は、満面の笑みを浮かべ、胸を張ってそう言った。
「………………」
 ぼくは、何も言えなかった。ただただ、どうでもよかった。
 どうでもよかったけど、堂々と自分のことを語る彼女は、なんとなくカッコよかった。
「まぁ、別に売るのはいいけど……」
「え、ほんとに?」
「まぁ、ね」
「じゃあ、できれば四万以内で売って貰いたいのだけど」
「四万? なんで?」
「服を買うのにもお金がいるのよ。春休みの間にバイトしたんだけど、それでも十万が限界だったの。それにゴスロリって高いのよ」
「はぁ、ん。なるほどね。まぁ、そこは検討しよう」
 っていうか、いくらで売るべき品なのかも分からないのだから、値段の付けようがない。そもそも売り物ですらないのだし。
「ところでさ。売るのはいいけど、どうやって持って帰るんだ?」
「え? 届けてくれたりは?」
「しない。うちは古本屋だぜ? 取りに来いよ」
「こんなか弱い女の子が、一人で持って帰れると思う?」
「思わない。じゃあ家族にでも頼めばいいだろ」
「一人暮らしよ。それに、こんなソファーを買うだなんて言ったら呆れられるわ。どう見たって実用的じゃないし、綺麗な品でもないじゃない」
 ……。だよなぁ。なのにどうしてここまでこの椅子に執着するのか。
「なら、友達に頼めば?」
「いないわよ、そんなの。単身この町に来て、大学が始まって一カ月……。私は、誰とも口を聞いていないのよ」
 堂々と言うことじゃあない……。そう思ったが、しかし、よくよく考えてみれば、ぼくも似たような状態なので、人のことは言えない。
 知り合いもいないまま、この古本屋に一人。
「困ったな。ぼくも頼める友達なんていないし。配達業者にでも頼むか?」
「嫌よ。面倒くさい。それに私、配達業者って嫌いなの。高校の時に一回、通販で注文したエロゲを、玄関先で落とされてさ。タイミング悪く、雨が降っていたせいで、包みが濡れてしまったたからだろうけど、透けて、親に見られちゃって、そりゃもう、怒られたのなんのって」
「君のせいだろ。高校生がエロゲ買うなよ」
 ぼくも買ったけどさ。やっぱり人のことは言えない。
「ふん。とにかく業者任せは嫌。あ、そうだ、じゃあさ、あんた、手伝ってよ。私の部屋、けっこう近いし。二人で運べばよくない?」
「よくない……、と言いたいところだけど、一応君も客だしなぁ。分かった、それでいいよ。だけど、ソファーの代金は、送料込みで頂くよ?」
「それでいいわ。でも、一応ってなによ?」
「ここは古本屋なの。看板は錆ついてるけどな」
 ぼくがそう言うと、彼女は、突然ぼくの手から「不思議の国のアリス」をひったくるように取り上げた。
「じゃあ、この本も頂くわ」
「………まいどあり」
 笑顔で財布を取り出す彼女は、実に満足そうな目をしていた。
 自然と、ぼくの口元も緩んでいくのが分かった。こうやって笑ったのは、そういえばいつ以来だろうか? なんて、思い出そうとしたけど、虚しくなってやめる。
 今、笑えたのなら、それでいい。

 そうしてやってきた次の日曜日。もともと開いているのか閉まっているのか分からないような店に、本日店休日の張り紙を貼って、ぼくは彼女がソファーを取りに来るのを、いつものようにカウンターに腰かけて待っていた。
 昨日、買ってきた週刊誌にパラパラと目を通しながら、缶ジュースを啜る。
 高校時代は、よく、買ってきた週刊誌を友人間で回し読みして、感想を言い合ったり、馬鹿みたいに笑いあったりしていたな、と、懐かしい記憶が蘇った。
 皆今頃何をしているのか……、と、思わず、ポケットに入れたケータイに手を伸ばしそうになった。なっただけだ。ぼくの指は結局、ケータイに触れることはなかった。丁度その時、彼女が店の入り口を開けて、店に入ってきたからだ。
 しかし……。
「驚いたな。なんて格好してんだ、君は」
「ゴスロリ。ゴシック&ロリータ、が正式名称ね」
 そんなこと聞いてるんじゃないのだけど。まぁ、いい。
 今日の彼女は、この間店に来た時とはうって変わって、黒いロングのジャンパースカートに、白いブラウス。フリル満載のリボンカチューシャ、肩から下げた黒いエナメルのバッグ。真っ黒なストラップシューズという出で立ちだった。五月も半ばを過ぎ、そろそろ半袖でもいいかな、という陽気の中、これでもかと言うくらいに肌の露出が少なかった。
 手首から先と、顔の部分以外、肌は外気に触れていない。その上、レースで縁取られた黒い日傘までさしている。これから魔女のミサがありますの、と言われても納得できるであろう、そんな浮世離れした格好だった。
「まぁ、いいや。じゃあ、さっそくソファーを運んでしまおうか。っと、その前に、代金を貰った方がいいのか。ええと、二万円、でどうだろう?」
 それが高いのか安いのかは知らないが、少なくとも定価で購入するよりは安いと思う。
 仮に安すぎるとしても、もともとぼくには必要のないものだ。どこかに中古として売り払うよりは、彼女に売ったほうがお金になるだろう。
 高すぎたとしたら、申しわけないけど諦めてもらう。もともと十万までなら出すと言っていたのだ。それくらい構わないだろう。
「あー……」
 ところが、彼女は上目遣いでぼくを見て、靴の先で店の床をぐりぐりしたまま、言葉を探しているような素振りを見せるだけで、財布を取り出そうとはしない。
 嫌な予感しかしない。
 そして、嫌な予感と言うものは、だいたい的中するようにこの世界は出来ている。
「申しわけないのだけど。ええ、本当に、心の底から申しわけないと思っているのよ? 出来ることなら土下座でも土下寝でも、なんでもして謝りたいくらいなの。お洋服が汚れるからしないけど……。まぁ、お金ないのよね」
「…………」
 だとは、思ったけど。
「なんで?」と、ぼくが訊いたら、彼女は視線を泳がせて、こう言った。
「買い過ぎちゃった」
 テヘっ、なんて、ペコちゃんよろしく舌を出して見せる。可愛らしい仕草がこの上なく、イラっとする。
「買い過ぎたって、服をか?」
「服っていうか、パニエ」
 そう言って彼女は、スカートの裾をつまんで持ち上げて見せる。そうすると、今までスカートに隠れて見えなかった、白いフリルの塊みたいなものが姿を現す。どうやらそれがパニエというらしい。
「これを買い過ぎちゃって……。一着九千円もするのよ」
「それ、何の意味があるの?」
「スカートにボリューム感を持たせるの。外からは見えないけど、ちゃんと仕事してるの。あなたとは反対ね」
「ぼくだって仕事してるよ……」
 基本的に座ってるだけだけど。それはともかくとして。
「じゃあ、どうすんのさ。ソファーの代金。ローンでもいいけど、君は今一信用ならない」
 またどうせ、お金が入ったら、服に費やす。そんな気がする。
「ええ、だから、こうしましょう。私がここでバイトをするの。もちろん給料はいらない。どう?」
「一人で事足りてるんだけど?」
「いいじゃない、一人ぐらいバイトを雇っても。返済が終わるまでの間、ただ働きでいいのだし。私も暇なの。友達いないから。お金もないし。どう?」
「はぁ……。じゃあ、それでいいよ」
「ありがと。感謝するは」
 まずはもっと謝罪してほしい。そう思ったけど、言わなかった。
 それからぼくたちは、ソファーを軽く拭いて、それを運び出せるように店の入り口の扉を外す。二人で運べるか不安だったけど、持ってみたら案内イケそうで安心した。
 一気に運んでしまうのは無理そうだから、途中で何度か休憩を挟むことにはなりそうだけど、なんとかなるだろう。
「じゃあ、運んでしまいましょうか」
 ソファーを外に出して、店の扉をはめ直し、鍵をかけたのを確認すると、彼女は肩から下げていたバッグをソファーの上に放り投げて、そう言う。
「そういえば、君。名前は? 聞いてなかったよね?」
「訊かれなかったから。そうね、バニラと呼んでちょうだい」
「バニラ? なんだそれ? ハンドルネームか何か?」
「似たようなものね。だけど、ちょっと違う。バニラは私のソウルネームよ」
「ふぅん。じゃあ、バニラ。運ぶから、そっち持って」
 君の言動にいちいちツッコミを入れていては、時間の無駄だと、ぼくは学習したのだ。
 スル―も立派なスキルである。
 
 多少の言い争いや、口喧嘩などはあったものの、ぼくとバニラは、なんとかバニラのアパートまであと半分ほど、という所までソファーを運んで来ていた。
 その間、無言で運ぶのもつまらないということで、ぼくたちはそれなりにお互いのことを語り合った。バニラはぼくが大学受験に落ちた話を聞いて爆笑していたし、ぼくはバニラが友達のいないまま高校時代を過ごしたと聞いて、鼻で笑ってやった。
 笑いながら、罵りあって、思ったより時間がかかったけど、やっとのことで、ぼくたち道程の半分を消化した。
 今は、公園のベンチの横にソファーを置いて、そこに座って休憩している。
 殺風景な公園だ。遊具は何もないし、人だっていない。ただ、枯れかけた百日紅の木だけが植えられている。公園の裏には神社があるようだが、そっちにも人影はない。
 風が吹くと、植物のなんとも言えない青臭い香りが漂ってくる。森林浴でもしている気分だ。隣に座ったバニラも気持ち良さげに目を閉じている。
 と、その時、ひときわ強く風が吹いた。砂埃が目に入らないよう、ぼくは慌てて目をつぶる。
「あっ! しまった!」
 隣から、甲高い悲鳴のようなバニラの叫び声。風が収まったのを確認して目を開く。さっきまで隣に座っていたバニラはいつの間にかいなくなっていた。
「どこ……って、探すまでもないか」
 もともと目立つ服装だったのに加え、周囲に人影はない。だからバニラはすぐに見つかった。
 右手を前に伸ばしたまま、とてとてと神社の方へ駆けていく。ひどく不格好な走り方だ。きっと運動が苦手なのだろう。伸ばした手の先には、ついさっきまで彼女の髪を束ねていたフリル満載のリボンが風にさらわれて宙を舞っている。
「あぁ、風で飛ばされたのか」
 放っておくのもどうかと思ったので、ぼくも彼女の後を追うことにした。ソファーをこのまま置いておいていいものか、と一瞬迷ったが、どうせぼく一人では運べない。子供の悪戯も、この人気のない公園では心配いらないだろう。
 ぼくは駆け足で、バニラの後を追う。
 幸いバニラはすぐに見つかった。神社と公園を仕切る朱塗りの柵を越えたところで、立ちつくしていたからだ。
 リボンもすぐに見つかった。彼女の眼前に植えられた樹の枝に引っかかっている。
「リボン、取らないの? 届かない高さじゃないでしょ?」
「………………」
 返事はない。と、そこで気付いた。よくみるとバニラは小さく震えている。化粧のせいで分かりにくいが、顔色も心なしか悪くなっているようだ。
 ぼくの声が聞こえているかどうかも定かではない。彼女の視線はまっすぐ、リボンのひっかかっている樹の幹に注がれている。
 そこには、数本の五寸釘で樹の幹に打ちつけられた、ぼろぼろの藁人形があった。
 力任せに何度も何度も打ちつけたのだろう。釘はどれも曲がっていて、樹の幹も打ち損じた金槌によって抉られていた。それほどまでの想いが込められた藁人形を目の当たりにして、ぼくはそれ以上バニラに何も言うことができなくなった。
 

 それから、ぼくたちは無言で、もといた場所まで戻ってきた。バニラのリボンも回収済みである。しかし、バニラは、せっかく見つけてきたリボンを付けることなく、ずっと握ったままだ。
 風で飛ばされただけで大慌てするほど大切にしていたリボンなのに、皺が寄るほど強く、握りしめている。たぶん無意識の行動なのだろう。リボンを握る拳が、小さく震えていた。
 バニラは、ソファーに深く腰掛け、じっとしたまま身じろぎ一つしない。視線はどこか虚空を彷徨い、唇を強く噛みしめている。はぁはぁと、呼吸を乱し、唇の色は紫に……。
「おい! どうしたのさ? さっきから様子がおかしいぞ?」
「お、おか、おかし……。おかしいのはあなたの服装」
「ほっとけ。っていうか、大丈夫か?」
 バニラの顔から、ポタポタと汗が滴り落ちる。顔は青ざめ、どうみても平気そうではなかった。よく見ると、小さく震えてすらいる。
 ぼくは、どうするべきか、ちょっとだけ考えて、とりあえず近くの自動販売機でスポ―ツドリンクを買ってきて飲ませることにした。
 これで、少しでも落ち着いてくれるといいのだけど……。
 プルタブを開けて、缶をバニラに手渡す。カタカタと小刻みに震えながら、バニラはスポーツドリンクを喉に流し込んだ。
「ゲほ……。はぁ。あ、ありがとう」
「おお、どういたしまして。って言うか、大丈夫かよ? 持病か何かか?」
「平気よ。そう言うのじゃないの。ただ嫌なこと思い出しただけ」
「嫌なことって? さっきの藁人形がどうかしたのか? あれを見てからだろ? 君の様子がおかしくなったのって」
「ええ、私も以前、ああやって、藁人形を買って、それに呪詛を込めたことがあったから。そのことを思い出していたの。……ついでに、余計なことも、思い出してしまったけど」
 と、言って、バニラは再び俯いてしまった。
 もしかしたら、ぼくが思っている以上に、藁人形なんかにすがってでも誰かを呪いたいという人は多いのかもしれない。藁人形に呪いを込めたって、何も変わらないと分かっていても、それでも釘を打ちこまずにはいられないのだ。
 多分単なる自己満足。だけど、何もしないよりはマシなのかもしれない。
「なんか、嫌な思い出でも思い出した?」
「まぁ、そんな感じ。それよりも、そろそろ行こう。あと半分くらいだから」
 ぼくの視線から逃げるように、バニラは立ち上がって、ソファーに手をかける。
 ぼくは、それ以上、何も訊けなかったし、何も言えなかった。
 
 公園を出発して暫くたった。最初は無言で下を向いていたバニラだったが、次第に元のように振る舞い始めた。どこか演技している風ではあったけど、それはまァ、仕方ないと思う。多かれ少なかれ、人は皆、演技をしながら生きている。
 ぼくだって、演技をしながら生きてきた。友達と話をしている時も、無理して笑ったことがあった。一度や二度ではない。楽しんでいる振り、感動している振り、悲しんでいる振り。色々ある。ぼくは卒業式の日、泣くことが出来なかった。隣の席の女子は泣いていた。ぼくが泣けなかったのは、ずっと演技を続けていた代償だったのかもしれない。隣の席の女子の涙が、演技でないなんて証拠もないけれど……。
 メールを送っても、返事をくれない友人。もしかしたら彼らは、友達の振りをしていただけなのかもしれない。ぼくが無理して笑っていたように、彼らも無理して、ぼくと一緒にいたのかもしれない……。本当は友達だなんて思っていなかったのかもしれない。
 それなら、それでいい。バニラも、今は笑っている。ちゃんと、演技を思い出したみたいだ。だからもう、ぼくが気を回さなくても大丈夫……。
 だと、思ったのに。
 安心していたのに。
 ぼくの期待は、直ぐに裏切られた。

それは「もうちょっとで到着するから」と、バニラが言った直後のことだった。
 横を通りかかった、大学生くらいの女性がバニラを見るなり「あっ」と叫んだのは。
 どこにでもいるような、女性だったが、バニラは、その女性を見るなり、頬を引きつらせて、俯いてしまう。
「あんた、咲じゃない? なに? そんな似合わない格好してさ」
 咲と言うのは、バニラの本名だろうか。
 馴れ馴れしく、バニラの肩に手を回す女性。手が触れた瞬間、バニラはビクッと、大きく身体を震わせた。それを見て、その女性はニヤニヤと嫌らしく笑って見せる。
 どう見たって、友達には見えない。女性が何事か、バニラに話しかけているが、バニラは震えるだけで、何も答えようとはしない。
「なんて言ったけ、そういうの。ゴスロリ? 変な格好だよねぇ」
「………変じゃ、ない」
「あ? 聞こえないってば。もっとハッキリしゃべりなよ? え?」
「ご……ごめん」
「だから聞こえないって。何度も言ったよね? そこがむかつくって」
 女性は、バニラのリボンカチューシャを指でつまんで引っ張る。
 見ていられなくなって、ぼくは女性に声をかけた。
「すいません。彼女は今、バイト中ですから」
「はぁ? あァ、すいません。でも、こんな奴、雇うの止めた方がよくないっすか? こいつ、トロいから、なにやらしても上手く出来ないし」
 なぁ? と、女性はバニラに向かって声をかける。バニラは顔を俯かせて、無言。
「それはこっちで決めるんで。それより急いでるんで、もういいですか?」
「ん? あァ。じゃあわたしは行くけど、またね。咲」
 つまらなさそうに鼻で笑い、それから自分の電話番号らしきものを書いたメモをバニラに握らせて、女性は立ち去っていく。
 最後にチラとぼくの方に目をやると、ボソッと何かを呟いて、歩き去る。
 女性の姿が見えなくなるまで、ぼくとバニラはその場に立ちすくんだまま動けなかった。
 
 ぼくたちは、その後、一言もしゃべらずバニラの部屋までソファーを運んだ。
 バニラは運び込んだソファーに腰掛け、下を向いたままじっとしている。ぼくは、そんなバニラに何も言えないまま、ソファーの隣に立ちつくす。
 空気が重い。沈黙には慣れていたつもりだったけど、それはあくまで一人きりでの沈黙に対してだった。二人での沈黙は、落ち着かない。
 このまま帰るという手もないではないが、何故かそれをする気にはなれなかった。俯いたまま、身じろぎひとつしないバニラをこのまま放っておくのも、気が引ける。
 渡されたメモを握りしめ、バニラは動かない。
 耐えきれなくなって、ぼくはバニラの隣に腰掛けた。柔らかいクッションが、ぼくの体重を受けて沈み込む。
「なァ……」
 ぼくが声をかけると、バニラはビクッと、身体を跳ねさせた。
 ため息を一つついて、バニラの手からメモをひったくる。
「ぼくにまでオドオドすんなよ。調子狂うな、もう」
「…………ごめん」
「謝らないでもいいけどね。あの子は?」
 メモには予想通り、走り書きで電話番号が記されていた。
「同級生。高校の……」
「友達?」
 バニラは首を横に振る。それだけはあり得ないとでも言うように、強く、何度も。
 ぼくにはそれが、嫌な記憶を追い払おうとしているようにも見えた。
 バニラはメモの代わりに、スカートを握りしめる。爪が食い込むほど強く。白い手の甲に、うっすらと血管が浮き上がった。
「友達じゃない……。ただの、同級生、でもない……けど」
 なんとなく、予想がついた。
 口に出すのも、ちょっと気が引ける。ぼくが踏み込んでもいい話かどうかの、区別がつかない。もし不用意に踏みこんだら、バニラを傷つけてしまうかもしれない。
「さっき言ってた、藁人形って、あの子に関係ある?」
「うん……。彼女だけじゃないけど、ね」
「副数人……か。三年間、耐えてきたんだ」
 いじめ、だろう。多分。
 それも、トラウマになるようなレベルの。
 ぼくが通っていた高校でも、そんなことはあった。ぼくはそれを見ないふりしていた。教師も、見ないふりをしていた。問題が起きからじゃないと、事の深刻さに、誰も気付かない。ああしてればよかったとか、相談に乗ってやればよかったとか。
 後から何を言おうと、それで救われるのは自分だけ。罪悪感を感じていた心がちょっとだけ楽になる。いじめられていた人間にとっては、なんの意味もない。
 だから、忘れるのが一番いい。いじめられていた人も、それを見て見ぬふりしていたぼくたちも……。実際、今まで忘れていた。関係ないって顔して、クラスメイトを見捨てた。
 バニラにしたって、ぼくには何の関係もない。
 関係ない、ハズなのに……。落ち着かない。
 だけど、なんて声をかければいいのか、分からない。元気出せよ、なんて、言ったところで虚しいだけだ。そんな言葉だけで元気が出るなら、とっくの昔に自力で立ち直れているはずだ。結局、ぼくに出来ることはないらしい。
「どうするの? 連絡、すんの?」
「分からない……。けど、しないまま、また会ったら……」
「何をされるか分からない、って? 連絡とっても一緒じゃない?」
「うん。そう思う……けど」
 完全に、悪循環。恐怖心とか、トラウマとか、そういった感情がバニラの行動と思考を束縛している。
「バニラは……。どうしたいんだよ。一回は藁人形に釘を打ち込んだんだろ? またそうする?」
「もうしない。効果ないって、分かったし……。それに、これは私の問題だから、あなたには関係ない」
「まぁね。関係ないけど。とはいえバニラ。君はうちのバイトだぜ?」
「だからなに?」
「何って言われると……」
 なんて答えればいいのか分からないけど。
「なんとなく、ほっとけないんだ。だからと言って、なにかしてやれるわけじゃあないんだけどね。話聞くくらいは出来るぜ?」
 それだけしか、出来ないけど。聞いてどうなるわけでもないけど。
 ぼくなりに、精一杯なんだ、これでも。あの女性をぶん殴って、バニラに無理やり謝らせたっていいんだけど、それじゃあ多分なんの解決にもならない。
 しばし、無言。
 ぼくはバニラの隣に座ったまま、じっと彼女の返事を待っていた。
「やっと、逃げられたと、思った」
 そのうち、小さな声で、バニラが話し始める。
「高校卒業して、こっちに引っ越してきて、それでやっと、逃げられたと思った。こっちに来て、変わろうと思った……」
「それで、思い切って、ゴスロリに手を出したわけだ」
「そう。だけど、逃げただけじゃあダメだった。まさか、こっちに来て、また会うなんて思ってもいなかった。またいじめられるんじゃないかって思ったら、怖かった」
 スカートを掴む指に力が入る。皺が寄ったスカートには今にも破れそうなほど、爪が食い込んでいる。しゃべり始めたら、嫌なことを思い出したのか、ポタポタと涙が零れる。
 泣き声を漏らさないように、きつく唇を噛みしめ、震えている。
 公園でも、その嫌な記憶を思い出していたのだろう。
 そのまま暫く、バニラが落ち着くまで、ぼくは彼女の隣に座っていた。
 三十分もしただろうか、バニラが無言でぼくの方に手を差し出した。
「何?」
「そのメモ、返して……」
「なんで?」
「彼女に、電話するの……」
「それで、どうすんの? もう関係ないから、って、言うわけじゃあないんだろ」
「うん……。だけど、連絡しなかったら、今度見つかった時にどんな目に合わせられるか、わからないから」
「ふぅん……」
 なんだろう。
 なんとなく……。
 なんとなくだけど、しかし、ハッキリと。
 理由は分からないけど、腹が立つ。腹が立つ。腹が立つ。
 むかむかして、イライラして、今すぐにでも、叫び出してしまいそうな、そんな気分だ。
 だからぼくは、バニラに返せと言われたメモを、その場で二つに裂いた。
「え! ちょ、何を……」
「何をしてるかって? ぼくにもわからねぇよ。だけど、こうしたかった」
 そう言って、ぼくは二つに裂いたメモを、さらに二つに裂く。それから、もう一回、ニ回、三回と、もともと小さかったメモが、これ以上小さくならないくらいの紙くずに変わるまで、何度も何度も破きつづけた。
 バニラは、そんなぼくの行動を、ポカンと口を開いたまま見つめていた。見開いた目から、涙が零れる。顔を真っ赤にして、涙と鼻水を流すバニラの顔は、かなり笑えた。
 だから、笑ってやった。盛大に笑いながら、ぼくは紙くずになったメモをばら撒いた。
「あはは、なんて顔してんだよ、バニラ。口に虫が飛び込むぜ?」
「あ、え……。やだ。ちょ、見ないでよ。っていうか、なんてことしてくれてんの」
「はっ! 思った通りのことさ。なんか、ムカついたんだ。だから、破った」
 破りたかったから。理由は分からないけど、こうしたかった。したかったから、した。
 そうしたら、結構気持ちよくって、ぼくは間違ったことをしていないって思えた。
 心の声に従って、思った通りに行動した。
「なぁ、バニラ。君もやってみろよ。気持ちいいぜ、これ」
 ぼくは、ずっと、こうやって、思いっきり感情をぶちまけてみたかったんじゃあないだろうか。だけど、我慢していた。我慢しなきゃあ、この世界はやっていけないから。
 嫌なことも、悲しいことも、我慢しなきゃあいけない。周りに合わせて、楽しい振りをして、友達の振りをして、今の生活に満足している振りをして、逃げ出さないで、生きていくしかないから。
「バニラ、君は逃げてきたんだろ? 嫌な思い出から、自分に出来る精一杯のやり方で」
 なのに、追いつかれてしまった。嫌な思い出に、自分をいじめていた同級生に。
 追いつかれて、それで、逃げるのを辞めようとした。
 ぼくにはそれが許せなかったんだ。
 ぼくも、バニラみたいに、嫌なことも、今までの自分も、全部捨てて、逃げたかったのかもしれない。だけど、ぼくは結局、逃げ出せなかった。今までの自分にしがみついて、薄っぺれな友情を信じて、それに囚われて。祖父の死をきっかけに、この町に来て、それでも結局過去にすがったままで。暇さえあれば、かつての友人からメールが来るのを待って。来ないって、頭の奥底では分かってるのに、たった一欠片分の期待を残したまま、どうしても諦めきれない。諦めて、逃げ出したいのに、ぼくにはできなかった。
 だからバニラ、ぼくは君が羨ましかったんだ。全部捨てて、自分からも過去からも逃げようとした君が。すごく、羨ましかった。
 だからバニラ、ぼくは君に腹が立ったんだ。たった一度、逃げたはずの過去から追いつかれただけで、逃げるのを止めてしまおうとした君に。
 それが、悔しくて、仕方ない。
「逃げるんなら、逃げ続けろよ、バニラ。過去を捨てたんなら、捨てたままでいろよ。変わったんなら、変わったままでいろよ。そのためのゴスロリだろ? そのためのソファーだろ、バニラ! 君は過去に囚われたままでいるべきじゃないんだ」
「そ、んな……、こと、言ったって」
「いいや、バニラ。何度だって言うぜ。逃げるべきだ。嫌なら、迷わず。言うだろ? 逃げるが勝ちって。だけど、ほとんどの人は逃げたくても逃げられない。色んなものが邪魔するからだ。社会だったり、自分自身だったり。自分を変えるのが一番大変なんだよ。だけど、君は自分を変えた。変えようとした。逃げた。それでいい。嫌なことから逃げるなって、ぼくは何回も言われたけど、でもそれは間違いだ。嫌なことはどうしたって嫌なんだ。勝てないかもしれない。だったら、バニラ。逃げるしかないだろ。逃げて逃げて逃げて、逃げ続けるしかないだろ。だって、自分がそうするって決めたんだ。嫌なことは追ってくるし、過去はずっとついてくる。自分自身からは離れられない。戦ったって、負けるだけだ。だったら、逃げ続けるしかない。自分を変えるしかない。そうだろ? 君は、そう思ったからそうしたんだろ、バニラ」
「あ……。う?」
 バニラは、ぼくの勢いに押されたかのように、仰け反り、そのままソファーから転げ落ちる。膝のあたりまでスカートが捲れて、どっさり仕込んだパニエが露わになった。
 よろよろと、床の上に転がったままバニラが頭を上げる。
 それから、床に手をついて身体を起こした。
「あ……」
 何かに気付いたように、バニラは自分の右手に目をやった。ゆっくりと指を広げると、そこには細切れになったメモが握られていた。倒れた際に、指の間に挟まったものだろう。
 バニラはじっと、そのメモの欠片を見つめ続ける。
「そっか……。いいんだ、私」
 ポツリと、吐き出すようにそう言った。
 ぼくは、バニラに向けて手を伸ばす。
 バニラはそれを見て、首を横に振った。
「いい……。一人で立てる、私。一人で……逃げられるから。変わったんだった、私」
「はは、やっと思い出した? そうだ、バニラ、それでいい。君は変わったんだろ? 逃げるんだろ、君は」
「うん。そうだった。そうだよ。あんな奴とはもう決別したんだ。藁人形買ってさ、五寸釘を打ちつけて……。気持ちよかったな、あれ。そうだ、藁人形で呪い殺したのはあいつらじゃない。私だ。弱虫で、逃げることすらできなかった、私自身を殺したんだ」
 床に散らばった紙くずを拾い集めると、バニラはゆっくりとその場に立ちあがる。それから、ソファーに目を向けて、そこに乗った。座っているぼくの隣、ソファーの上にバニラは立ち上がる。
 ギュッと、忌々しげに紙くずを握りしめて、バニラは言った。
「ねぇ、あなた。このどうしようもない怒りを、私はどこにぶつけたらいいと思う?」
「どこでもいいよ。好きにしな。思った通りにやっていいんだ、君は」
「そう。そうよね。私はもう、あいつらにいじめられていた頃の私じゃないんだもの」
 そう言って、バニラ、君はキッと握りつぶした紙くずを睨みつけ、ソファーから飛び降りた。
 それから、部屋の一面にある小さな窓に駆け寄って、勢いよく窓を開け放つ。
 すぅ、っと息を吸い込んで、君は叫んだ。涙をぼろぼろ零しながら、感情に任せて、紙くずを窓から外に向かって投げつけながら。
「死んじゃえ、バカやろォォォォォォォォぉ!!」
 と、叫んだ。
 泣きながら、だけど、とても気持ちよさそうに……。
 風に乗って、紙くずがどこか遠くに運ばれていくのが見えた。
 そんな君を見て、ぼくは、もう大丈夫だと判断した。
 君はこれで、逃げ続けられる。君は、なりたい自分のままでいられる。
 そう思ったから、ぼくはそのまま、君に背を向け、君の部屋を後にする。
 ぼくが部屋を出て、ドアを閉める時、君は窓の下にしゃがみ込んで、大きな声で泣いていた。我慢しないで、子供みたいに、泣き崩れていた。
 バニラ、それが今、君のしたいことなんだね。
「頑張れ。バニラ」
 そう呟いて、ぼくはドアを閉めた。

 そして、翌日。
 今日も今日とてぼくは、客のこない古本屋で、日がな一日、本を読みながら店番をする。
 昨日ぼくは、バニラの部屋で思いっきり啖呵を切って、帰ってきた。彼女の気持ちや都合は無視して、自分の想いだけをぶつけてきた。今思い出すと、恥ずかしくなってくるけど、あんな風に、人に自分の想いを嘘偽りなく吐き出したのは、たぶん生まれて初めてだ。
 バニラの手から、メモをひったくってビリビリに破いた時は、気持ちよかった。
 バニラが、窓から破れたメモを放り捨て、力の限り叫んだのを見て、嬉しくなった。
 昨日はそこで、帰ってしまったけど……。
 そういえば、バニラはこの店でバイトいてソファーの代金を支払うと言っていた。
 時間とか、日にちとか、決めていなかったけど、たぶんそう遠くないうちに彼女はこの店に顔を出すだろう。
 またバニラと顔を合わせることになるのだと思うと、嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な気分になってくる。
 だけど、午後四時を過ぎた頃、店に現れたバニラの姿を見た時、嬉しいとか、恥ずかしいとか、そう言った感情は抱かなかった。
 ただただ、驚いたのだ。
 店にやってきたバニラは、ボロボロだった。頬は赤く腫れているし、唇の端からは血を流している。髪も縺れているし、せっかくのゴスロリファッションも土で汚れ、ところどころに穴まで開いてしまっていた。綺麗に整えていた爪は欠けて、手の甲からは血を流している。鼻血を止めようとしているのか、鼻にはハンカチを当てていた。
 汚れて、怪我して、ボロボロで。
 だけど、目だけは活き活きしていた。一仕事やり終えたみたいな、そんな顔だ。
 きっと「おじゃまするわよ」なんて言って、奇麗な服で、笑顔でやってくるものとばかり思っていたので、今のバニラの格好を見て、驚きが隠せない。
「どうしたんだよ。それ……」
「さっき、あの女に会ってきた」
「は? どうやって? メモは破り捨てただろ? 連絡先なんて、分からないじゃん」
「だから、今日は一日中、あいつを探してたの。それで、やっと見つけて、引っ叩いてきた。いままでよくもいじめてくれたなって、何回も、引っ叩いた。だけど、やり返されて、こんなことになっちゃった……」
 スカートをつまんで広げて見せる。土で汚れ、垂れた鼻血が付着し、穴が空いている。
 だけど、バニラは笑って見せた。唇は切れているし、頬は腫れているしで、とてもじゃないけど、奇麗な笑顔とは言えなかったけど。
 それに、この様子じゃ、今までの仕返しをして、勝ってきたってわけでもないのだろう。
 だけど、君はとても満足そうで。あぁ、君は変わることが出来たんだな、とそう思う。
「やってやったわよ、私。これでやっと、本当に変われた。心おきなく、過去を捨てて、逃げられるわ。さぁ、何でも言って、私はバイトをしに来たの」
「そっか。お疲れ様。じゃあまずは、顔を洗って来いよ。ひどい顔してるぜ、君」
 と、奥の洗面所を指さす。
 バニラは顔を赤くして、駆け足で洗面所へ向かった。

 バニラが顔を洗って、戻ってくる。相変わらず服はドロドロだが、顔に付いていた血と泥を洗い流したため、それなりに見られるような顔になっている。
 ハンカチで口元を拭うバニラに、ぼくは声をかけた。
「ところでバニラ。ぼくは結構あのソファーを気に入っていたんだ」
「なに? 今更そんなこと言ったって。返さないわよ?」
「ああ、いいよ。たださァ、これからも時々、座りに言ってもいいかな?」
 ぼくがそう言うと、バニラは一瞬目を丸くして、ぼくの顔を見つめる。
それから直ぐに、フッと拭きだすように笑った。
「そう。それじゃあ、その時は、美味しいバニラティーをごちそうするわ」



バニラ。
ねぇ、バニラ。ぼくは君の本当の名を知らないけれど、思うんだ。
バニラの実は甘そうに見えて本当は苦いから……。とびきり可愛い格好をしているけど、ちょっと苦い過去を抱えている君に、ピッタリの名前だよ、と。
ぼくは、視線を手元の本に戻す。君は、カウンターの裏に回って来て、ぼくの隣に腰をおろした。
 目を閉じると、甘いバニラの香りが漂ってくる。そんな気がした。


                                    END
 
 

バニラ

バニラ

大学受験に失敗して祖父の経営していた古本屋を受け継ぐことになった主人公は、毎日暇を持て余していた。 そんなある日、店内に置かれていた木製のソファーを売ってほしい、という妙な少女が店に訪ねてくる。 ゴスロリファッションに身を包んだ少女と、今一やる気のない主人公の話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-30

Copyrighted
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