無言の歌よ、響けあの日の大空に

1

 ここに一枚のメモがある。どうやら手帳の一頁のようだ。相当慌てていたのだろうか、勢いよく破った上に、乱れた文字で次のように書いてある。

「篠宮麻希が好き。麻希を忘れない、忘れたくない」

 芹沢雅成は、メモを手にとって、しばらくその意味を考えた。鉛筆で書かれたこれらの文字は、長年の歳月を経て、滲んでしまっている。それでもこれは自分の若い頃の筆跡である。疑う余地はない。
 問題はその内容である。雅成はこの短い文章を反芻してみた。ついには声に出して読んでみた。
 しかしこの文章が一体何を意味しているのか、さっぱり分からないのだ。
 どれだけ過去をたぐり寄せても、この篠宮麻希という人物にまるで心当たりがないのである。
 この人物は、一体誰なのか。
 文面通りに、これが自分の恋した女性の名前だとしたら、今も覚えている筈である。しかし「篠宮麻希」という四文字は、何も心に訴えかけてはこないのだ。
 ひょっとして、これは芸能人か、あるいは小説、映画の登場人物の名前ではないだろうか。そんなことをふと考えてみる。
 いや、それはあり得ないのである。雅成は即座に否定した。
 そんなものをどうして紙に残しておく必要があるというのか。
 それに、「忘れない、忘れたくない」という箇所である。ここには、何か切羽詰まった状況を感じる。やはりこれは架空の人物なんかではない。身近にいた人物と考えるのが自然である。
 そうなると、どうしてそんな大切な人を忘れてしまっているのか、それが分からない。
 結局、謎は堂々巡りするだけで、答えに辿り着けそうもなかった。

 雅成は、明日に高校の同窓会を控えていた。
 それで押し入れの中から卒業アルバムを引っ張り出してみた。十年ぶりに再会する仲間の顔と名前を確認しておこうと思ったのである。
 アルバムの表紙を開いた途端、ひらひらと木の葉のように落ちたのが、このメモだった。
 高校のアルバムに挟んであったからには、やはり高校時代の知り合いの名前だろうか。
 そう考えて、アルバムを最初から最後まで、穴が開くほど見返した。
 しかし、ついに篠宮麻希という名前は発見できなかった。彼女はどうやら公式のアルバムにさえ、見放されたらしい。
 それとも先輩か後輩の名前だろうか。それは今、ここでは調べようがない。明日、同窓会の出席者に、心当たりがないか訊いてみようか。
 それにしても、考えれば考えるほど、気持ち悪くなってきた。名前も忘れてしまう女性を好きだと言っている自分が、ひどくいい加減で、腹立たしく感じられるのだ。

 突然、部屋の電話が鳴り響いた。
 両手から卒業アルバムを解放すると、受話器を取った。
「もしもし、高校のクラス委員だった、谷山です」
 電話の向こうから、やや控えめな声がした。
「ああ、どうも、こんばんは」
「お久しぶり、芹沢君。懐かしいね」
 谷山は急に馴れ馴れしい口調に切り替わった。それは彼らしい演出のように思われた。
 谷山は、成績優秀でずっとクラス代表を務め上げ、スポーツも万能だった記憶がある。そのため女子からは常に人気があった。今もその面影を残しているのだろうか。
「確認のため電話したんだ。明日は、芹沢君は来てくれるんだろ?」
 谷山は早速そんな話を切り出した。
「はい、もちろん行きますよ。夕方六時に高校だったよね?」
「そう、グランドが駐車場になっているから、車はそっちに入れてくれ」
 今回の同窓会は母校の体育館で行われる。
 実は来年、この体育館が老朽化を理由に、建て替えられることになっていた。そのため、消えゆく体育館を会場にしようという案が持ち上がったのである。
 体育館に生徒、恩師が一同に会し、料理もそこへ運ばれる手筈になっているらしい。
「それじゃ、明日は遅れずに頼むよ」
 谷山は最後にそう付け加えて、電話を切りそうになった。
 雅成は間髪いれずに、
「あ、ちょっと待って、聞きたいことがあるんだけど」
と踏みとどまらせた。
「うん? どうした? 二次会のことかい?」
「いや、違うんだ。谷山君は、篠宮麻希って名前に聞き覚えがあるかい?」
「シノミヤ?」
 怪訝そうな声が、受話器から伝わる。
「二宮じゃなくて?」
「いや、篠宮麻希っていうんだけど」
 お互いが受話器を手にしたまま、無言になった。谷山はしばらく考えているようだった。
「そんな名前は名簿にはないけど」
「転校生とか、そういう子は?」
 雅成はなおも食い下がった。
「いや、そういうのも全部名簿には入っているから、間違いないよ」
「そうか」
 雅成には、さほど失望感はなかった。こちらも卒業アルバムで確認済みである。あくまで念のため、という程度だった。
「上級生か下級生なら、どうだろう? 知らないかい?」
「いや、僕の知る範囲では、そんな名前はいなかったと思うんだが」
 人脈が広かった谷山が言うのだから、間違いはないだろう。
 それでは篠宮麻希というのは一体、どこの誰なのか。謎は謎のままである。
「その篠宮ってのは、どういう子なんだい?」
 今度は谷山が逆襲してきた。雅成は返答に窮した。まさか例のメモの話をする訳にもいかない。
「いや、いいんだ、こっちの勘違いだな、多分」
「そうか、じゃ、明日楽しみに待ってるから」
 そこで谷山は急に思い出したように、
「ところで、まだギターは弾いているのかい?」
と訊いた。
「ギター?」
 一瞬、何の話か分からなくて聞き返した。
「ギターだよ、ほら、文化祭で弾き語りしただろ?」
「ああ、あれか」
 雅成は今、やっと思い出した。確かにそんなことがあった。
「今もやっているのかい?」
「いや、全然」
「そうか、残念だな。もし今もやっているなら、明日体育館で弾いてもらおうと思ってさ」
「いや、あれからまったくやってないから無理だよ」
 雅成はきっぱりと言った。
 谷山は、快活に笑うと、
「それじゃ、明日はよろしくな」
と言って、電話を切った。
 文化祭でギターを弾いたことなど、今の今まで忘れていた。体育館に特設ステージを設けて、学生コンサートが開かれた。歌や楽器に自信のある連中が、次から次へとステージに上がって楽曲を披露した。
 自分もギターを片手に、そのコンサートに参加したのだ。そう言えば、それほどうまくもないギターを、どうして人前で弾こうと思ったのだろうか。今にしてみれば、不思議である。
 当時、確かにギターに興味を持って、独学で練習を始めた記憶がある。しかし、それをコンサートという大舞台で披露するほど、うまくなかった筈である。それに、そもそも自分はそんな活発な性格でもない。
 一体どういう経緯で、コンサートに参加することになったのだろうか。
 今となっては、これも謎である。
 しかし谷山は、本人ですらとっくに忘れていることを、よく覚えていると感心する。いや、いくら彼でもそれは不可能か。おそらく、同窓会での話題作りのために、当時のイベントのプログラムや写真を掘り返して見たに違いない。
 もしそうなら、明日はそのギターの話がみんなの前で持ち出されそうだ。それはそれで少々恥ずかしいな、と思った。
 それにしても、谷山は大変である。確かに彼とは同じクラスだったが、そんなに深い付き合いがあったわけではない。それでも彼は幹事である以上、当時目立たなかった自分を持ち上げるような演出をせねばならない。
 ふと壁の時計に目をやった。夜の十時を回ったところである。谷山はおそらくこの後も、一人ひとりにそういった電話を掛け続けるのだろう。とても自分には務まる仕事ではない。
 さて、どうやら明日の同窓会には、篠宮麻希が現れないことだけは確かである。名簿に載ってないのだから、それも当然である。
 明日クラスメートの何人かに篠宮麻希という名前を訊いてみようと思う。谷山ほどの人物が知らないようでは、おそらく期待薄ではあるが、ひょっとすると何か分かるかもしれない。
 篠宮麻希のことはともかく、雅成は、明日の同窓会が楽しみになってきた。
 自分は、決して人から注目される存在ではなかったが、それでも今、高校時代の懐かしい日々が蘇ってくる。
 そんな思い出に身を委ねていると、いつしかその不思議なメモの存在を忘れてしまっていた。

2

 季節は春を迎えていた。学校に続く坂道には、桜の花びらが無数に乱れ飛んでいる。それは無事入学を果たした新入生に、拍手を送っているかのようであった。
 時折吹く風は少々冷たいが、空は抜けるように青く、新たな出会いを演出するに相応しい風景だった。
 高校二年の芹沢雅成は、そんな坂道を無感動に登っていた。目の前には去年と同じ光景が広がっている。
 彼の周りには、慣れない制服を身にまとった後輩たちが、どこか緊張した面持ちで学校を目指している。自分も去年はこんなふうだったのか、と考えた。
 新入生らは脇目も振らず、ただまっすぐに歩いていく。希望の中にも、不安が大きく影を落としているのか、心にゆとりが感じられない。彼らは、ただゴールまで突き進む競歩の選手のようである。
 一方、上級生はこんな風景を目の前にしても、気分が高揚することなどない。あるのは、日々の惰性と適度な怠惰だけである。
 友人と並んで登校する生徒は、どうしても歩くのが遅くなるようだ。楽しい時間を少しでも長く共有しようと考えるのだろう。
 雅成は、そんな彼らを縫うように先を急いだ。特に慌てる理由もないが、孤独であることが彼の歩みに速度を与える。
 何も自分に限ったことではない。一人寂しく登校する者は、その場を早く去りたいのか、どんどん歩いていく。その歩き方は、どこか新入生と共通するものがある。
 すぐ目の前に、女生徒の後ろ姿が現れた。長い髪を後ろで束ねている。
 彼女は一人でいるにもかかわらず、歩くのが遅かった。まるで周囲を確かめるように、ゆっくり進んでいく。
 不思議な少女だった。
 明らかに新入生だと思われた。坂道を埋め尽すほどの桜に、圧倒されているのだろうか。
 それにしても彼女の歩みは遅すぎる。まるで小学生が、通学路で目にする物に心を奪われて、立ち止まっては進む、そんな感じなのである。
 雅成はそんな彼女をあっさりと追い越した。同じ高校生でありながら、まるで勝負にならなかった。
 少し先に進んでから、何気なく後ろを振り返った。慌ただしい朝に、ふらふら歩いている新入生の顔を、ちょっと拝んでやろうという気持ちだった。
 彼女の姿は遥か後方になっていた。
 意外にも大人びた、整った顔つきをしていた。自分よりも年上に見える。背はやや高く、すらりと伸びた足がもつれるような動きをしている。
 彼女は、舞い降りてくる桜の花びらに、一々気を取られているようだった。次の瞬間、その姿は制服の波にすっかり飲み込まれてしまっていた。

 雅成は新しい教室に入った。今日が新学期の初日である。残念なことに、数少ない友人は誰一人として同じクラスになれなかった。
 この日の教室は、一年で最も騒がしい朝を迎える。
 同じ組になれた喜びを、身体全体で表現する女子や、隣の教室から激しく出入りする男子らで賑わっている。
 そんな教室に収まりきらぬ騒音の中で、雅成だけは静かに指定の座席に腰掛けた。窓に近いこの席からは校庭が見下ろせた。学校を取り囲む桜の木々が見える。
 しばらくして、新しい担任が姿を現した。すると、それまでの喧騒が嘘のように消え去る。こうやって学年最初のホームルームが始まるのだ。
 ふと隣の席に目をやると、そこはまだ、ぽっかりと空間が陣取っていた。教室を見回しても、空席はまさにここだけである。
 この席には誰が座るのだろうか。まさか、初日早々遅刻してくるのだろうか。
 担任もその異変に気づいたようだった。名簿に目を落として、早速出席を取り始めた。
 十人ほどの名前が流れた後、突然教室のドアが開け放たれた。その大げさな音は、クラス中の視線を集めるのに十分であった。
 女生徒が立っていた。
 足が長く、背の高い彼女は、顔立ちがはっきりしていて、大人の女性を思わせた。口を真一文字に結び、教室の奥を睨むような目をしている。いや、それは窓から差し込む光が眩しくて、目を細めているだけなのかもしれなかった。
 雅成は驚いた。まぎれもなく、今朝、出会った少女だった。まさか自分と同じ二年生だったとは思いも寄らなかった。
 教室は水を打ったように静かだった。彼女の出現に誰もが呆気に取られているのだ。
 担任が座席を指示すると、彼女は歩き始めた。明らかに雅成の隣の席へと向かってくる。そんな彼女の動きを見守っていたら、とうとう最後には、視線がぶつかってしまった。
 彼女の目はひどく挑戦的に映った。雅成は慌てて目を逸らした。
 彼女は初日から遅刻したことを、まるで詫びる様子もなく、憮然とした態度で席に着いた。教室のどこかで彼女への悪口ともとれる、囁くような声が漏れた。
 机の上に置いた学生鞄には、金属製の可愛らしいネームタグが付いていた。
 そこには「篠宮麻希」という文字が刻印されていた。

3

 チャイムがやたら遠くに聞こえていた。午前の授業はこれで終わりの筈である。
 雅成は心底救われた気分だった。
 授業中、強い睡気と何度も格闘を繰り返していた。気を緩めれば、それこそ泥沼に引きこまれそうな感覚があった。
 春休みの間にすっかり生活習慣が乱れてしまったのだ。学校が始まった今でも、平気で夜更かしをしてしまう。
 休憩時間になると、かろうじて活力が回復した気になるのだが、授業に戻ると、再び倦怠感に襲われる。
 新学期が始まってもう一週間が経つというのに、これほど自堕落な自分に、少々嫌気がさした。
 しかし隣にいる篠宮麻希は、そんな自分に何の関心も払っていなかった。
 来る日も来る日も、貝のように口を閉ざしたままである。それどころか、自分に一度だって顔を向けたという記憶がない。
 確かに彼女は、授業だけは真面目に受けていた。教師の言うことを興味深そうに聞いていた。黒板を見据え、しっかりとノートも取っていた。それは真面目な女の子という印象であった。
 その点においては、彼女は立派な高校生である。雅成には、かすかな敗北感が湧いていた。
 しかし自分だって、最初はこんな風ではなかったのだ。
 麻希の真剣な姿を目にして、自分も彼女と共に頑張ろう、そんな気でいたのである。
 だが彼女がこれほど自分に無関心では、徐々に張り合いがなくなってくる。
 隣の席に座ってはいても、二人は見えない壁で分け隔てられているようだ。こちらからいくら大声で呼びかけても、彼女の耳にはまるで届かないのだ。

 確か、出会って二日目のことだった。
 雅成は篠宮麻希に話し掛けてみようという気になっていた。同じクラスで、席が隣になったのも何かの縁である。
 それに、毎日長い時間を一緒に過ごすのである。早く仲良くなることは、お互いに得策と思われた。
 麻希はチャイムが鳴る寸前に教室に姿を現した。初日と同じく、慌てる様子も見せずに、のんびりと席までやって来た。
「篠宮さん、おはよう」
 雅成は思い切って声を掛けた。女子に向かって話すのは緊張する。こんな挨拶一つするのに、随分と心の迷いがあった。しかし勇気を出してみたのだ。
 麻希は雅成の顔を盗み見るようにして、
「おはよう」
と抑揚のない声で返した。
「今日はぎりぎりセーフだね」
 雅成が気安くそう言うと、彼女はそれには応じず、椅子に掛けた。
 それから長い髪をかき上げるようにして、忙しそうに鞄から勉強道具を取り出し始めた。それはまるで、これ以上話す隙を与えないぞという意思の表れに思われた。
 雅成はそんな彼女の態度に少々腹が立った。こちらは折角友好的に声を掛けているというのに、彼女は無視を決め込むつもりらしい。
 相手がこんなでは、自分が馬鹿らしく思えてくる。
 確かに新学期のクラス内は、初対面同士ということもあり、誰もが自己主張を控え、相手との距離を保とうとしている。
 その結果、教室の中には緊張した空気が流れ、みんな孤独に似た気分を味わうことになる。
 もちろんその空気は時間とともに薄らいでいく。現に教室のあちこちで、いち早くその緊張を解くことに成功した者同士の姿も見られる。
 しかし篠宮麻希だけは徹底していた。
 彼女は心にシャッターを降ろして、どんな人の気遣いも受け付けないといった、強い意志を持っていた。孤独になることを、自ら選んでいるようにさえ見えた。
 
 クラスは昼食時間を迎えていた。
 雅成はいつものように弁当箱を取り出すと、一人で食べ始めた。
 隣には、髪を肩まで垂らした麻希の横顔があった。
 彼女は鞄の中から菓子パン一つと小さな飲み物を取り出した。昼食は毎日決まって、たったそれだけなのである。
 そのくせ彼女は、いつも食事に時間をかけている。
 何か考え事をしながら、パンをちぎっては口に運ぶ。時に思い出したように、飲み物を口に含む。
 一昨日だったか、クラスの女子が孤独な麻希を見るに見かねて、声を掛けた。
「篠宮さん、あっちで一緒に食べない?」
「はい」
 麻希は表情一つ変えることなく、席を立った。
 そして女子連中に混じって、昼食を取り始めた。
 しかし彼女は、無表情にパンを口に入れているだけで、周りと打ち解けようとはしなかった。折角、友達ができる機会を自ら逃しているようであった。
 さすがに固まっていた女子たちも、麻希をどう扱えばよいのか、困り果てているようだった。賑やかで楽しい筈の昼食が、麻希のその態度によって台無しになってしまったのだ。
 そんなことがあって、麻希はついに女子からも相手にされなくなってしまった。
 人付き合いがそれほど上手くない自分にも、友人はいる。
 しかし麻希には、一人もいないのだった。
 去年のクラスで友人はできなかったのだろうか。あるいは同じ出身中学の知り合いはいないのだろうか。
 今、隣でぼんやりと食事を取っている篠宮麻希は、実は転校生なのではないか、そう思えてくる。
 でも、それはあり得ないのだ。担任からそんな紹介は受けていないし、本人も学校の勝手は知っているようである。
 篠宮麻希というのは、何とも不思議な存在である。
 雅成は、いつしか彼女のことを気に掛けるようになった。
 どうしてなのだろう。
 自分の中にどこかほんの少し、彼女の気持ちが分かる部分があるような気がするのだ。
 彼女は感情をひた隠しにして、平静を保っているが、実は心の中ではもがき苦しんでいる。そんな心の不整合が、他人に対する冷たい態度となって現れるのではないだろうか。
 教室で麻希と別れた後も、雅成は彼女のことを度々考えた。
(何か彼女の力になってやれることはないだろうか?)

4

 体育の時間だった。
 体育館の窓からは、校庭が臨める。激しい雨足が遠くの景色をかき消していた。連日降る雨を、大地は黙々と受け止めている。
 雅成のクラスと隣のクラスの男女が、一同に集められていた。
 六月のこの時期、体育館は肌にまとわりつくほどの湿気が充満していた。じっとしているだけで汗ばんでくる。
 この日は体育館の半分を、男子がバスケットボールに、もう半分を女子がバレーボールに使用していた。
 今、目の前では、クラス対抗のバスケの練習試合が始まっていた。
 床の上では、シューズが急ブレーキを掛ける音が絶え間なく響いている。
 雅成はコートの外で、ぼんやりと自分の出番を待っていた。
 運動がそれほど得意でない自分にとって、他人の試合を見学するという時間は実にありがたい。ここは女子の目もある。自分の格好悪いところを晒したくはなかった。
 雅成は、何気なく隣のバレーコートに目をやった。
 女子もクラス同士で試合をしているようである。こちらと同じく、試合に出ていない生徒が、隅の方でその行方を見守っている。
 雅成は、ちょっと興味が湧いて、篠宮麻希の姿を探してみた。
 それほど苦労することもなく、彼女が目に映った。
 今、ちょうど奥のコートに入っている。彼女は手足が長く、身長が高いだけに、本来なら頼もしいバレー選手の筈である。しかし身体の構え方がどこかぎこちなかった。どうやらスポーツはあまり得意ではない、そう雅成は直感した。
 今、相手のコートから強いサーブが繰り出された。体育館の空気を切り裂くような音とともに、白いボールが鋭角に飛び込んできた。それは麻希の身体にたちまち吸い込まれた。
 突然襲いかかったボールの勢いに、麻希は身体を動かすことすらできなかった。不用意に突き出した手に当たったボールは、彼女の顔面を強打したようだった。身体が二つに折れ、床に崩れ落ちた。すかさず相手クラスの女子から笑いが起こった。
 サーブを見事に決めた女子は、戻ってきたボールを意のままに操っていた。自分のプレイに何の疑いもないようだった。どうやら相当バレーの経験を積んだ人物に思われた。
 麻希はのろのろと身体を起こした。少し頭を振るようにして、それから鼻の辺りを手で押さえた。そしてネット越しに、相手を睨みつけた。しかし足がわずかに震えているようだった。
 さっきのサーバーが、控えの女子に、目で何か合図を送った。それから二度目のサーブを打ち込んだ。今度も体育館が震えるほど激しい音がした。
 白いボールはまたもや麻希を襲う。今度は足をかすめて、思わずバランスを失った。長い髪が助けを求めるように左右に揺れて、床に尻餅をついた。隣のクラスからは歓声が沸いた。
 そこで笛が鳴り響く。
 教師が、不格好に足を投げ出す麻希に駆け寄った。そこでメンバーが交代となった。麻希は右足をかばうようにして、コートの外へ出ていった。
「あれは、わざとだな」
 雅成のすぐ近くで、誰かの声がした。
 気がつくと、周りの男子の視線は、みんなバレーの方に吸い寄せられていた。
「あのサーブは俺たちでも取れないぜ。あいつ、バレー部の副部長なんだ」
「狙い撃ちってやつか」
 雅成の知らない男子がそう言った。
 やはりそうか。あのサーブは悪意に満ちていた。みんなの前で麻希に失態を演じさせ、それを笑いものにしようという意図が感じられた。
 どうしてそんなことをするのだろうか。
 確かに麻希は、人とうまく付き合えない人間かもしれない。しかしだからといって、彼女を非難する権利は誰にもない。彼女だって自分の意志で生きている。それを他人が矯正する立場にないし、またその必要もない。
 ふと公開処刑という言葉が頭をよぎった。
 こんなやり方で麻希を苦しめるのは、それは卑怯というものである。
 あのバレー部員を始め、こんな馬鹿げたことを企てた女子たちが心底憎くなった。
「おい、お前ら。どっちを見てるんだ」
 体育教師の怒鳴り声が響き渡った。

 更衣室で着替えをしていると、隣のクラスの東出祥也が近づいて来た。彼とは去年まで同じクラスで、数少ない友達の一人だった。
「さっきおまえのクラスの女子、随分とやられてたな」
 いきなりそんなことを言った。
「見てたのか?」
 雅成はどう反応するのが一番自然なのか分からず、とりあえずそんな言葉を発した。
「ああ、あれは明らかに一人を狙って攻撃してたんだ」
「でも、どうして?」
 雅成にはそれが正直疑問だった。
 彼女はいつも孤独なのだから、人畜無害の筈である。人から妬まれたり、恨みを買う人間には到底なり得ない。
 東出は声をひそめて、
「どうも変な噂があるらしいんだ」
「噂?」
「ああ、どうやら彼女は不良らしい」
「不良?」
 雅成は驚いて訊き返した。にわかに信じられなかった。
 麻希は確かにぶっきらぼうな所はあるが、決して不真面目というわけではない。毎日きちんと学校に通って、授業もしっかり受けている。
 自分は一日中隣に座っているから分かるのだが、彼女は不良なんかではない。何かの間違いではないのか。
「女子が話しているのを聞いたんだが、放課後ヤバい所に出入りしたり、校内でタバコを吸ってるって話だ」
 東出はますます見当違いのことを言う。
 雅成はついつい笑ってしまった。
 そんなことはあり得ない。みんな、麻希のことを誤解している。
「それで、うちのクラスの女子にとっては、あれが制裁のつもりだったんだろう」
 東出はなおも続けた。
「制裁?」
「そうさ、中途半端な不良は叩かれるんだよ」
「どういう意味だ、そりゃ?」
 雅成は着替える手を止めて、東出を睨むようにして訊いた。
「本物の不良だったら、後が怖くて手が出せないだろ。ところが、仲間もいなくて、身体も強くない不良なら、叩いても平気というわけさ」
 何とも勝手な論理である。
 本当に制裁を加えたいのなら、むしろ本物の不良にこそすべきではないのか。中途半端な不良なら、話し合いでけりが付く。
 つまるところ、これは単なる弱い者いじめに過ぎない。こんな馬鹿げたことに付き合わされてる麻希が可哀想である。
 それでも東出は、
「お前もあんまり関わらないように、気をつけろよ」
と最後に付け足した。

 教室に戻ると、ちょうどチャイムが鳴った。
 体育の後の休み時間というのは、いかにも短すぎる。特に女子は着替えに時間が掛かるのか、まだ誰も戻ってきていなかった。
 それでも日本史の教師は、何食わぬ顔で授業を始めた。
 しばらくして女子が次々と教室に戻ってきた。
 しかし、隣の席だけは、時間が止まったかのようだった。
 (麻希はどうしたのだろうか?)
 雅成は心配になった。
 ボールが顔面を直撃したので、保健室で休んでいるのかもしれない。
 (何事もなければよいのだが)
 日本史の授業は、板書の量が半端ではない。教師は喋りながら、次々と黒板に書き付けていく。
 雅成は、麻希の分も取ってやることにした。
 自分のノートの一番最後を丁寧に破り取り、同じことを二回ずつ写していった。
 雅成は教師の言葉を聞きもらさず、必死にノートを作った。こんなに真剣に授業に臨んだことは、中学以来今まで一度もなかった。
 黒板が何度も消されて、二枚の紙にびっしりと文字が並んだところに、麻希が戻ってきた。
 鼻の辺りに湿布が貼ってあった。顔の半分が紫色に染まっている。
 教師に軽くお辞儀をして、自分の席に静かに腰を下ろした。
 彼女は周囲の視線を遮るように片手で顔を覆い、もう片方の手でぎこちなく教材を準備した。
 雅成は、破ったノートを彼女に差し出した。
「これ、ここまでの板書」
 雅成は優しい言葉の一言でも掛けてやろうかと思ったが、どうもそれは彼女が望んでいることではない気がして、敢えて言わなかった。
 麻希は一瞬目を丸くして、
「ありがとう」
と小さく微笑んだ。
 それは初めての笑顔だった。
 湿布を貼った彼女の顔には、気取ったところがまるでなく、自然な優しさに溢れていた。彼女にもこんな顔があるのか、と少々意外に思った。
 雅成は心の中にぬくもりを感じていた。麻希に対して、まちがったことをしていないという自信が湧いた。
 彼女はその後は一度も雅成の方を向かなかった。次から次へと流れていく黒板を自分のノートに受け止めていた。それはいつもの彼女だった。
 今は、麻希の気持ちが多少なりとも分かる気がする。
 中学時代、雅成は引っ込み思案で、目立たない存在だった。周囲からは、やれ消極的だ、無気力だなどと言われ続けた。そんな自分は人より劣ると決めつけていた。挙げ句の果てに自分が嫌いになっていた。
 しかしそれは違うのだ。自分だって毎日を精一杯に生きていた。たとえ人より優れた結果が出なくても、確かに日々を生き抜いていた。
 地味な人間も、派手な人間と何ら変わりはない。内に秘めたささやかな感情、主張もちゃんとある。それが周りの騒音にかき消されて、聞かせることができないだけなのだ。
 雅成は、いつしか麻希の姿を自分自身と重ねているのかもしれなかった。

5

 翌朝、教室に入ってきた麻希は綺麗な顔をしていた。どうやら顔の腫れも引いたようである。雅成は安心した。
 ひょっとすると、彼女は学校に来なくなってしまうのではないか、と気掛かりだったのだ。
 しかし彼女は雅成の優しさに触れて、孤独でないことを悟った筈である。もしそうであるならば、彼女は必ず自分の前に姿を見せてくれる、そんな自信も実はあった。
 雅成は、麻希の姿を見て素直に嬉しかったのだが、すぐに彼女の異変に気がついた。様子がいつもと違うのだ。
 はっきりとは断言できないのだが、いつもの彼女らしさが消えていた。慣れないことをする前の緊張感が、身体からひしひしと伝わってくる。
 こんな麻希を見るのは初めてだった。
「おはようございます」
 麻希は雅成の顔を認めると、軽く頭を下げた。
 先に挨拶をされるのは、妙な気分だった。彼女が積極的に話掛けてきたことに少々驚いた。
 雅成は、挨拶を返して、麻希の顔を近くで観察した。
 上唇が少し腫れていた。それでも大きな腫れは見事に消えて、つるりとした顔がそこにあった。
「昨日は大丈夫だった?」
 雅成は優しく声を掛けた。
「はい、何とか」
 昨日のことをきっかけに、彼女は湧き出る泉のように喋り始めるのではないかと期待したが、さすがにそういう具合にはいかなかった。
 彼女は席につくと、それで会話を終わらせてしまった。
 お互いに言葉は交わさなくても、雅成は麻希の味方でいるつもりだった。この学校で、自分は彼女の唯一の理解者である気がした。
「あ、そうだ」
 麻希は急に思い出したかのように声を上げた。
 しかしそれは、実はシナリオ通りで、彼女は切り出すタイミングを見計らっていたように思えた。
 鞄から何やら取り出した。
 派手な紙袋だった。赤と白のストライプがクリスマスを連想させる。上端部には、ご丁寧にもピンクのリボンまで掛けてある。
「はい、これ」
 麻希はその紙袋を、無造作に雅成の机に置いた。
 一瞬、何のことだか理解できなかった。この状況を察するに、どうやらこれは自分への贈り物であるらしい。
 もう少し補足説明が欲しいところだが、すでに彼女の顔はこちらを向いていなかった。どう見てもプレゼントを人に贈るやり方ではない。
「これ、俺に?」
 雅成は半信半疑で確認した。
「そう。昨日のお礼」
 どうやら日本史のノートのことを言っているらしかった。それにしても大げさな外装である。中には何が入っているのだろうか。
「別にお礼なんていいのに。でも貰っておくよ」
 口ではそう言いながらも、雅成は嬉しかった。彼女との距離が一気に縮まった気がした。
「中にノートが入ってるの」
 彼女はそう付け足した。
 それにしては、紙袋が異様に膨らんでいる。中身はノート一冊だけではなさそうだ。手に持つと、中からビニール袋がかさかさと音を立てた。
 雅成はそれ以上、何も言わずにおいた。
 代わりに、その紙袋を耳元まで持っていき、二度三度振って音を確認した。
 麻希は思わず笑っていた。

 いつもと同じ昼食時間を迎えていた。
 麻希は実にのんびりと菓子パンを食べている。それはまるで何かの作業のようで、決して楽しそうではない。
 雅成は、そんな彼女に話掛けたかった。少しでも彼女が楽しい気持ちになってくれればよい、そんな願いからだった。
 さっさと食事を済ませると、麻希から貰ったプレゼントを机の上に置いた。これをきっかけに、彼女と自然に話ができるような気がしたのである。
「篠宮さん、これ開けてもいい?」
「あなたの物だから、ご自由に」
 中からは、クッキーの詰まった透明な袋と、新品のノートが出てきた。
「こっちはおいしそうだね」
 雅成はクッキーの小袋を手にして言った。
 しかし昨日のお礼としては、やはり大げさに思われた。たかだかノートを書き写したぐらいで、お菓子まで付けるものだろうか。
「これって、もしかして、君の手作りとか?」
 麻希はそう言われて、雅成の方に向き直った。
「違うわ。市販品を買ってきて、その袋に詰め替えただけ」
「そうなんだ」
 余計なことを言ってしまった。そんな野暮なことを言わせるつもりはなかった。
 しかし彼女は特に困った表情も見せずに、
「私、料理は苦手だから」
と言って、またパンを口に入れる作業に戻ってしまった。
 雅成は途端に居心地が悪くなった。彼女を嫌な気分にさせるつもりはなかったのである。ちょっと勢い込んで訊いてしまっただけなのだ。
 しかしその日を境に、二人は多少なりとも話をする間柄になった。
 とは言え、彼女は積極的に話掛けてくるわけでもなく、雅成の言葉に相づちを打つぐらいのものであった。
 その後、学校内で麻希に対する露骨な嫌がらせは、雅成の知る限り起きなかった。
 しかし悪い噂だけは学校中に広まり、人を寄せ付けない性格と相まって、彼女は次第にみんなから無視されるようになっていった。

 七月に入り、夏休みが目の前に迫っていた。
 しかしその前に期末考査と三者面談が、雅成の前に立ちはだかる。
 これらを乗り越えて、初めて夏休みが許される。いや、テストの結果によっては、強制的に補習になることも考えられる。そうなると夏休みどころではない。
 そう言えば、麻希の成績はどうなのだろうか。
 彼女は授業を真剣に受けてはいるものの、小テストの結果は芳しくなかった。遊び呆けている自分と、それほど得点は変わらないのである。どうやら彼女は、昔に習った筈の知識が所々で欠落しているようだった。

 雅成のすぐ前の女子二人が、話をしていた。
「進路調査の用紙は、もう提出した?」
「まだよ。これって、今度の懇談会の資料になるらしいから、いい加減に書くわけにはいかないんだって」
 雅成もまだ提出をしていなかった。
 自分は、勉強が得意ではないし、打ち込んでいるスポーツもない。人付き合いも上手な方ではないし、これといった特技も見当たらない。
 こんな自分に、どんな積極的な将来があるというのだろう。雅成はこんな時、決まって自己嫌悪に陥るのだ。
 (麻希は将来のことをどう考えているのだろう?)
 雅成は少し興味が湧いた。

 音楽室に男女混声の合唱が響き渡っていた。
 雅成のクラスでは、今日から練習が始まった。八月末に開催される文化祭で、各クラスが歌声を披露することになっていた。
 まだ今の段階では、クラスの歌声は一つにまとまっていない。ただ各自が独りよがりに声を出すだけでは、ハーモニーは生まれないのだ。
 練習をしていて、雅成はおやっと思った。
 隣で歌う麻希の声が、驚くほど透き通っていたからだ。明らかに彼女の歌声は澄んでいる。まだ多少抑え気味ではあるが、声に確かな存在感がある。自分にはない才能を感じる。
 男女に分かれて、数人ずつで発声練習をすることになった。
 その時、麻希の声は他の連中を圧倒するほど伸びていた。歌に主張が感じられる。クラスの誰もが、それに気づいたようだった。
 音楽の教師もすぐに彼女の才能を感じ取ったのか、
「篠宮さん、ちょっとお手本に一人で歌ってみて」
と要求した。
 教師がグランドピアノを奏でた。
 その軽快な旋律に見事に融合するかのように、麻希の歌声が重なる。彼女の歌は既に完成の域に達していた。練習する必要もない程だった。どうしてこれほどの能力を今まで隠していたのだろうか。
 彼女の歌声を前に、クラスの誰もが言葉を出せなかった。その美しい歌声に驚くばかりだった。
 どこからともなく拍手が沸いた。みんなは顔を見合わせて、口々に彼女を称えた。
 篠宮麻希には、素晴らしい才能があったのだ。

 授業後、音楽室から教室に戻ってくるなり、
「歌が上手いんだね。びっくりしたよ」
と雅成は声を掛けた。
 この言葉を聞いた時、麻希の反応は明らかにいつもと違っていた。その言葉をきっかけに、彼女の中で何かが動き出したようだった。
 雅成に笑顔を向けて、
「そうかしら」
 彼女は照れを隠すように、無感動を装って言った。
 しかし雅成の褒め言葉が、彼女の心を揺さぶっているのは明らかだった。
「中学時代、合唱部に入ってた?」
「ううん、入ってないよ」
 彼女は嬉しそうな顔をして、首を振った。
「篠宮さんはいいよな。歌という特技があるから」
 それは雅成の本音だった。お世辞でも何でもなかった。
「でもね、私、他に何の取り柄もないから」
「いや、何もないのは俺の方だよ」
 そうなのだ。彼女には綺麗な歌声がある。それに比べて自分は、人に自慢するものが何もない。正直、麻希が羨ましかった。
 (彼女は、人前でもっと自信を持っていい筈だ)
 雅成は彼女の顔を見つめてそう思った。

6

「よかったら今日、一緒に帰らないか?」
 期末考査が終わったところだった。雅成は思いきって麻希に声を掛けてみた。
 教室の中は、重圧から解放された生徒たちの笑顔で満たされていた。みんな、この瞬間を待ち望んでいたのだ。
 生徒たちは競うように教室を出て行った。ずっと朝から缶詰だったこの部屋に、一秒でもこれ以上居たくないという心の現れであろう。
 どうしてこれほど彼女に対して積極的になれるのか、自分でも分からなかった。ただ、麻希とはもっと話す必要があるという気がずっとしていた。
 彼女はすぐには答えなかった。鞄の中をあらためていた手をしばらく止めて、
「ごめんなさい。また、今度」
と言った。
 麻希は自分が思うほど、まだ心を開いてくれていないようだ。雅成は寂しく思った。
「さようなら」
 麻希は立ち上がると、教室を出て行った。
 彼女はクラブ活動をしていない。今日は家の用事でもあるのだろうか。もしかすると、自分のことを意識的に避けているのかもしれない。そう思うと、気分が重かった。
 雅成は諦めて、一人教室を出た。
 廊下のずっと先を麻希が歩いている。
 すると今、雅成の目の前に他のクラスの女子が二人、突然割り込んできた。
 二人は目配せをして、身をかがめるように麻希の背中を追っていく。
 雅成は、一瞬にして全てを理解した。
 あの二人は、麻希の後をつけて、彼女が何か悪事を働かないか、監視しようというわけである。
 まだこんな嫌がらせが続いていたことに閉口する。
 二人は麻希に付かず離れずで歩いていく。当人はまるで気づかぬようだった。三人とも校舎を出ると、そのまま校門を抜けた。まるで刑事ドラマの尾行である。前を行く二人は、あれで探偵を気取っているつもりなのだろう。
 雅成もそんな二人に続いた。もしも彼女らが麻希に危害を加えるようなことがあれば、阻止しなければならない。
 いつだったか、東出が言っていた話を思い出した。
 麻希がよからぬ場所に出入りしている、そんな噂だった。それをあの二人は見届けようというのだろうか。
 今、三人は坂を下り始めた。
 先頭を行く麻希は、帰りも歩くのが遅かった。まっすぐ自宅を目指しているようには見えない。やはりどこかに立ち寄るつもりなのだろうか。
 彼女は足が絡んでしまうような、どこかふらふらした動きで進む。この後、誰かと待ち合わせをしているような様子でもない。
 麻希はそんな歩き方で、駅前通りを抜けていく。色鮮やかな商店街の飾り付けに目を奪われているようだ。
 ようやく麻希は駅に辿り着いた。切符売り場の自販機の前で立ち止まった。通学定期を使わないのだろうか。それとも自宅に向かわず、どこかに寄り道するというのだろうか。
 彼女は壁に掲げられた大きな路線図を見上げた。
 確かな目的地があるようには見えなかった。右に左に何度か視線を動かした。
 そんなふうにしてから、彼女は券売機で切符を買った。
 尾行する二人も、わざと別の列に並んで、同じ切符を買う。
 雅成も二人に続こうとしたちょうどその時、中学生らしき一団が流入してきた。一気に列が渋滞する。
 しまった、これでは三人に置いていかれる。
 雅成ははやる気持ちを抑えながら、先を行く彼女らの姿を目で追った。
 三人は、順番に改札口に吸い込まれていった。
 券売機が空くのを我慢して待つ。心だけが焦る。果たしてあの三人に追いつけるだろうか。
 雅成は切符を手にすると、改札に駆け込んだ。
 どのホームだろうか。辺りを見回す。
 手前のホームは乗客の数が多かった。この中に紛れているとかなり厄介である。
 それでも雅成は諦めずに、麻希の姿を探した。
 突然、ベルが鳴り響き、列車が入ってきた。
 だめだ、列車の車体が壁となって、もう誰の姿も見えなくなった。一段と焦りが募る。
 跨線橋を走った。
 しかしホームに届く直前に、発車のベルが鳴り出した。
 慌てて階段を降りた。確認はできないが、もう乗り込むしか方法はない。
 雅成の目の前で、無情にも扉が閉じた。列車が動き出す。
 間に合わなかった。
 列車が去ってしまうと、ホームには静寂だけが残された。
 雅成は肩で大きく息をする。
 疲れはまるで感じなかった。ただ麻希を想う気持ちで一杯だった。
 (彼女の身に何も起きなければいいが)
 新しい視界が開けていた。奥のホームが見渡せた。向こうはローカル線で、乗客もまばらだった。
 そこに、麻希の姿があった。背を向けて立っている。ほっと胸を撫で下ろした。
 何とか彼女に追いつけた。
 しかし全ては偶然がもたらした結果なのである。ちっとも彼女を守っていることにはならない。雅成は自分の無力さを感じずにはいられなかった。
 列車が来るまでには少し時間があった。同じホームに降り立つのは目立ち過ぎる。
 跨線橋の上でしばらく待った。麻希から少し離れた所に、二人の女子もいる。
 列車がやって来る頃には、いつの間にかホームは混雑していた。
 そんな大勢の人々に紛れるように、雅成は乗り込んだ。
 麻希は出入口付近に立って、ずっと窓の外を見ている。少し離れた座席に二人の追跡者が腰を下ろしていた。
 しかし彼女はどこへ行くつもりなのか。この路線は、確か海沿いを走って隣町までつながっている。
 この短距離切符では、数駅しか乗れない。
 麻希は二つ目の小さな駅で下車した。
 ホームからは夏の海が見えた。夕方とは言え、昼とは変わらぬ熱気が身体を押し包んだ。
 麻希は改札まで歩いていく。
 そろそろ、この二人に警告した方がいいだろうか。
 雅成は二人に小走りで近づいた。麻希の背中が見えなくなったのを確認してから、小さく声を上げた。
「おい、待てよ」
 前を行く二人が同時に振り返った。
「彼女に近づくのは止めろ」
 なぜか雅成には、勇気が湧いていた。日頃、人に声を掛けるのも躊躇する自分が、見知らぬ女子を相手に、これほどきっぱり注意できるのが不思議でならなかった。まるで怖いとは思わなかった。正義を貫く気持ちが、自分を支えてくれていた。
「あんたには関係ないでしょ」
 片方が感情的な声を張り上げた。
 その声があまりにも大きかったので、先を歩く乗客が一斉に振り返った。すかさず駅員が飛んできた。
「どうしましたか?」
「いえ、何でもないんです」
 もう片方が努めて穏やかに言った。
 乗客の多くが足を止め、何事かとこちらを見守っている。
 その中に、麻希の顔があった。
 しまった、彼女に見つかった。雅成は顔面蒼白になった。
 駅員への説明が続けられていた。雅成にとって、それはもうどうでもよかった。
「私たちは同じ高校の知り合いですので」
 そう言った一人が有無を言わさず、雅成の身体を引っ張った。
 三人揃って、何事もなかったように改札を出た。
 そこには麻希が待ち構えていた。
 彼女はどんな気持ちでいるだろうか。まっすぐに彼女の顔を見られなかった。
「あなたたち、私の後をつけてきたの?」
 麻希が訊いた。その声はひどく挑戦的なものであった。
 その響きに、二人の女子もさすがに恐れをなしたのか、
「じゃあ、さよなら」
と言い残して、その場をさっさと立ち去った。
 雅成はその場で動けなかった。
 いつしか駅に人の流れはなくなっていた。麻希と雅成だけが取り残されていた。
 彼女にどう説明すれば分かってもらえるのだろうか。ただそれだけが頭を巡っていた。
「あなたも私をつけてたの?」
 麻希は意外にも穏やかな声で言った。
「うん、いや、君のことが心配でつい」
 言葉が喉に引っかかるようだった。
「私にはそんな心配、要らないのに」
 麻希は背中を向けると、さっさと歩き出した。
 雅成も無言で後に続く。
 駅のすぐ裏は、海が開けていた。
 麻希はコンクリートの階段を下りていく。途端に潮の香りが強くなった。
 海開きはまだなのか、海岸に人影はなかった。はるか遠くで犬を散歩させる人の姿が見えた。
 目の前に海の家がひっそり並んで建っている。開口部は木の板で覆われて、まるで大きな積み木のようだった。
 麻希はその片隅に鞄を置いた。そして靴を脱いで、さらに靴下まで脱ぎ捨てた。
 白いブラウスの少女は、まっすぐ波打ち際まで駆けていった。両足が砂を巻き上げて、足跡が彼女を追う。
 それは草原を走る動物のようだった。速く、そして力強く砂を蹴る。
 学校生活を無感動に過ごす彼女とはまるで別人だった。あれは仮の姿で、こちらが本当の姿ではないのか、と考えたほどである。
 砂を跳ねていた長い足は、ついに水際にまで達した。
 白い少女は初めて海を見た子どものように、無心になって波と戯れた。
 打ち寄せる波に合わせて身体を動かす。その動きはしなやかで、躍動感に溢れていた。
 雅成はそんな彼女のダンスを見守った。
 激しい動きに疲れたのか、しばらくして麻希はゆっくりと戻ってきた。もう海を十分堪能したと言わんばかりの満足気な顔だった。
 近くに寄ると、呼吸が乱れていた。白い足は砂で汚れていた。
「こういうのが、青春なんでしょ?」
「えっ?」
 呆気にとられる雅成を見て、麻希は笑った。白い歯が印象的だった。やはり学校の彼女は別人だと思われた。
「ううん、何でもないの。ただこんな風に一度やってみたかったんだ」
 それは、不思議そうに見つめる雅成への説明らしかった。
 しばらく彼女の言葉の意味を考えた。しかし意味が分からなかった。
「これですっきりしたわ」
 麻希は身体を折り曲げて、足に残った砂を両手で払い落とした。
 それから雅成の横に腰を下ろした。
「実は昔、家族と一緒にこの海に来たのよ」
「へえ」
「でも、それって、青春とは言わないでしょ?」
 雅成は思わず笑ってしまった。
 しかし麻希は真面目な顔のまま、
「今日はあなたと来たから、青春よね」
と言った。
 彼女の言いたいことは何となく分かる。学校以外の場所で友達と会うのが楽しいという意味なのだろう。そうか、こんな自分を友達扱いしてくれるのか。雅成は途端に心が軽くなった。
「君に兄弟はいないのかい?」
「姉ならいるけど。双子の姉」
「双子なの?」
 雅成は驚いた。
 学校の麻希と目の前の麻希は、ひょっとすると別人ではないのだろうか。どこかで姉妹が入れ替わっている、いや、それはあり得ない。
 しかしどうにもこの点が引っかかった。
「双子ってことは、やはり顔も似てるの?」
「そうね、瓜二つ。あなたには見分けがつかないかも」
 やはりそうである。この麻希が妹と言うのなら、学校で隣に座っているのは、実は姉なのだ。
「君は妹なんだろ?」
「そうよ」
「じゃあ、お姉さんはどこの学校に通っているの?」
「今は行ってないんだ」
 彼女は答えにくそうに言った。それは高校に進学しなかったということか、それとも中退したという意味なのか。
 いずれにせよ、それ以上突っ込んで訊ける雰囲気ではなかった。
 二人はしばらく沈黙した。
 波の打ち寄せる音がこの世界を支配していた。それはメトロノームのように寸分の狂いのないリズムである。
 雅成は、麻希の歌声のことを考えた。
 彼女の澄んだ歌声を、クラスメートだけで聞くのは勿体ない。ぜひとも学校中に響かせたい。
 とりわけ彼女を無視する連中に届けるべきものなのだ。彼女の隠れた一面を知れば、きっと誤解を解くだろう。そして敬意を払うようになる筈だ。
 何かよい方法はないだろうか。
 その時である。天啓がひらめいた。
 毎年、秋に開かれる学園祭。そこでは生徒によるバンドコンサートが開かれる。
 雅成は思わず立ち上がっていた。
「篠宮さん!」
 彼女に強い視線を投げかけた。
「一緒に学園祭のコンサートに出場しないか?」
「コンサート?」
「そう」
「あなたと歌うの?」
「いや、俺は無理。音痴だから」
「でも、一緒に、って?」
「俺は楽器をやるよ。そうだな、ギターはどう?」
「弾けるの?」
 なかなか痛いところを突く。
「去年、親父からギターを譲ってもらったんだけど、全然。でも、これを機に弾けるようになればいいんだろ?」
 麻希はずっと雅成の顔を見つめていた。少しも目を逸らさなかった。彼女は思いがけない提案に心を動かされたようだった。
 しかしすぐに表情を曇らせた。
「だけど、みんなの前で演奏するんでしょ。大丈夫?」
「任せとけって。君が歌ってくれるなら、俺も頑張って弾けるようにする」
「分かったわ、それじゃあ一緒に出ましょう」
 麻希は力強く言ってくれた。

7

 雅成は家に帰ると、服も着替えず押し入れを開けた。去年父親から譲り受けたギターの保管場所は分かっていた。
 ギターを手にしたばかりの頃は、何だか自分が大人になったような気がして嬉しかった。毎日本体をケースから出しては磨き、基本動作の練習に余念がなかった。
 しかし、いつの間にかその情熱も冷めてしまった。ギターを手に入れるのと同時に、自分は格好良くなった気でいた。それですっかり満足してしまった。ギターの練習を続ける動機が極めて弱かったのだ。
 だが、今回は違う。強い動機がある。これは麻希を救うための、自分に課せられた仕事のように思われた。
 何としてもやり遂げなければならない。
 埃の積もったケースを開けて、ギターを取り出した。
 とりあえず構えてみる。そして思いのままに弦を弾いてみた。アコースティックギターの六本の弦が創り出す乾いた音が、部屋中に響き渡った。
 手の動かし方は一応覚えているようだ。しかしこの状態から、舞台に立てるようになるまで、どれだけ時間が掛かるのだろうか。
 曲目の選定は麻希に任せてある。自分の仕事はその曲を演奏するだけである。彼女が気持ちよく歌えるよう助けられたら、どんなに素晴らしいことだろう。
 一通り全音階を出してみてから、ギターを傍らに置いた。カーテンを大きく開いて夜空を見上げた。
 麻希のことだけを考える。
 砂を駆け、波と戯れる少女は、学校で見る彼女とはまるで別人だった。日頃の抑圧から解放されて、自由に身体を動かし、笑顔が溢れていた。
 そして、麻希は双子の妹だった。顔の似た姉がいるという。
 それを聞いた時、麻希の持つ不思議さが全て説明できるような気がした。しかし今になって考えると、やはり彼女は不思議なままなのである。何一つ麻希のことを理解できていないのだ。
 どうしてこれほど彼女のことが気になるのか。その理由は自分でも分からなかった。

 翌朝、麻希は先に教室に来ていた。
 雅成の姿を認めると、すかさず立ち上がった。
「おはよう」
 麻希は少し照れたような表情で言った。
 そんな短い挨拶にも、彼女の朗らかな気持ちを感じ取ることができた。
「おはよう。曲目は決まった?」
 雅成は早速訊いた。
「うん。でもその前に、昨日はいろいろとありがとう」
 麻希は頭を下げた。
「いや、こちらこそ、無理言ってごめんな」
 彼女は小さく笑みを漏らした。
「それで、曲の件なんだけど」
 これほど明るい麻希の顔を今まで見たことがなかった。
「どんな曲?」
「ここではみんながいるから、お昼休みにちょっと付きあってほしいの」
「いいよ」
「じゃあ、食事が終わったら体育館の裏に来て」
「分かった」
 麻希が自分に積極的に話掛けてくれることが何より嬉しかった。
 これをきっかけに、二人は親しくなれる、そんな予感を抱いた。
 授業中、雅成は何度も麻希の横顔を盗み見た。
 垂れてくる長い髪を持ち上げるようにして、ノートを取っている。彼女もこちらの視線には気づいていて、それを意識しているようだった。
 しかし彼女は馴れ馴れしく話掛けてはくれなかった。やはり学校では、どこか感情を抑えているように思われた。

 昼食を食べ終えると、麻希は席を立ち、黙って教室を出ていった。しばらくしてから雅成も後を追った。
 確かに体育館の裏は人気のない場所である。内輪話をするには、これ以上最適な場所はないのかもしれない。
 指定の場所に到着してみたものの、麻希の姿はなかった。
「こっちよ」
 突然そんな声が空から降ってきた。
 見上げると、彼女は体育館に併設された階段の上にいた。
「ああ、そこか」
 雅成もスチールの階段を上り始めた。二人が歩く度に金属の和音が周りに響き渡る。階段は途中で折れ曲がっていて、ついに地上からは見えなくなった。
「こんなところに階段があったなんて、知らなかったよ」
「実は、ここから体育館のステージ裏に出られるの」
「へえ」
 それは知らなかった。
 階段の突き当たりには、ドアが付いている。鍵が掛かっているのか、こちらからはびくともしなかった。
 麻希はそのドアを背に腰を下ろした。
 その隣に雅成も座った。朝からの日差しを受けて、階段はほのかに温められていた。
 幅が狭いので、二人が座ると圧迫感がある。麻希とは身体が接触するほど近かった。
 雅成は少し緊張した。彼女の方は案外平気な顔をしている。
 麻希は楽譜を取り出した。
「これなんだけど」
 手渡された譜面をざっと眺めた。果たしてどんな曲調なのか、すぐには分からなかった。本当に数週間後、この曲をステージで弾けるようになっているのだろうか。密かに不安がよぎる。
「この曲は、君のお気に入り?」
「そう、ね」
「ちょっと歌ってみてよ」
「いいわよ」
 彼女は柔らかなハミングでメロディーを表現していく。雅成は目で譜面を追った。
 爽やかな曲調だった。少しアップテンポな曲だが、メロディは比較的シンプルで、コードを押さえるにはそれほど苦労がないかもしれない。何より麻希の声質に合いそうな曲だった。
「どうかしら?」
 一通り歌い終わると、彼女は雅成の顔を覗き込むようにして訊いた。
「いいと思うよ」
 麻希が好きな曲なら、何の問題もない。
「これは、誰の歌なの?」
「さあ、私も知らないの。でもいい歌でしょ?」
「そうだね」
 とは言ったものの、すぐに違和感を覚えた。
 好きだと言う割には、誰の歌かは知らないと言う。それは少々妙な話ではないか。麻希はどうやってその歌を知ったのだろう。楽譜まで用意しているのだ。歌手が誰だか分からない筈がない。
 しかしそんなことよりも、今は別のことを考えなければならなかった。
 まずはこの楽曲を特訓しなければならない。伴奏がしっかりできるようになってから、初めて彼女と音合わせが可能となる。それは当分先の話になりそうだ。
 雅成は彼女に一週間の猶予をもらって、一人で練習を開始することにした。

 夏休みが始まる直前に、文化祭の案内が生徒に配布された。
 クラスやクラブ主催の催し物が企画され、模擬店もいくつか予定されていた。そしてコンサートの参加者も発表された。
 麻希が雅成とコンサートに出場することを知ったクラスメートは、誰もが驚きを隠せなかった。教室の中は、しばらく二人の話題で持ちきりになった。
 それもその筈である。日頃孤独に過ごす麻希と、地味で目立たない雅成が一緒にステージに上がるのである。驚かない方が不思議だった。
 麻希はいつもの通りマイペースだった。周りの声には一切無反応だった。
 一方雅成は人々の注目を浴びるようになり、教室では居心地が悪かった。こんな時、人前でどんな顔をすればよいのか、まるで分からないのである。
 体育の時間、友人の東出が立ちはだかった。雅成の性格をよく知るだけに、一番驚いたのは彼かもしれない。
「おい、お前本気かよ?」
 いきなりそんな言葉を投げかけた。
「ああ、そのつもりだ」
「学校中の笑い者だぞ」
「どうして?」
「分かるだろ。よりによって篠宮と一緒だなんて。一体どういうつもりなんだ?」
「彼女は歌が上手いから大丈夫だ。むしろ俺のギターの方が心配なんだ」
「そういうことを言っているんじゃない。どうしてあんなヘンなヤツと組むんだ?」
「別にヘンじゃないさ。みんな彼女を誤解しているだけだ」
「どうなっても俺は知らないからな」
 東出は怒ったように立ち去った。
 雅成は不安な気持ちを焚きつけられた。
 二人して学校中の笑い者、か。
 確かに自分には人に誇れる才能はない。
 しかし自分一人でステージに立つのではない。麻希がいる。彼女の歌声は、きっと学校中の生徒を魅了するに違いない。ギター演奏は、そんな彼女の邪魔にならない程度でいいのだ。
 きっとうまくいく、雅成はそう自分に言い聞かせた。

 夏休みに入ると、雅成はギターの練習に明け暮れる毎日だった。
 自分でも着実に上達しているのが分かる。最初はおぼつかなかったコード進行も、今では完璧に頭に入っていた。後はいかに自然に演奏できるようになるかである。
 麻希とは明日、学校で会う約束になっていた。
 だが一刻も早くギターを聴かせてやりたかった。これだけ仕上がっていれば、音合わせだって十分可能である。それに自分の上達ぶりを彼女に褒めてもらいたかった。
 麻希の携帯に何度か掛けてみた。しかし呼び出してはいるものの、一向に出る気配はなかった。
 雅成は諦めて、ギターを抱えて一人学校へ出向いた。明日になれば彼女と会えるのだ。焦る必要はない。
 学校は夏休みも開放されている。
 校門付近は木陰が揺れ、蝉の声が辺りに充満していた。門をくぐって、校舎へと向かった。
 グランドで練習に打ち込む運動部員の掛声が聞こえてくる。それに覆い被さるように、音楽室からはトランペットの不安定な音が流れていた。
 雅成の足は体育館へ向いていた。
 コンサートに出場する連中が、体育館で練習していることを知っていた。そんな彼らの様子を見ておきたいという気持ちからだった。
 体育館に近づいていくと、様々な楽器が入り混じって聞こえてきた。
 それとなく館内に目を遣ると、グループ同士が集まって練習に励んでいた。入念に音合わせをする者、本番さながらに演奏するバンド、激しいダンスをする女子がひしめき合っている。
 雅成は一人でその中へ入って行く勇気はなかった。
 そこで麻希に教えてもらった裏の階段を思い出した。あそこなら静かで、練習には最適かもしれない。
 ギターケースを担ぎ直して歩き出した。
 やはり思った通りである。体育館から楽器の音が漏れてはいたが、人の気配はまるでなく、ひっそりとしていた。まさに穴場と呼ぶに相応しかった。
 雅成はケースからギターを取り出して、階段を上がった。
 階段を折れたところで、人の気配を感じた。先客が居たのか。思わず視線を上げると、そこには麻希の姿があった。
 雅成は驚いた。まさか彼女と出くわすとは思ってもみなかった。
 麻希は突然の来訪者にびっくりして、慌てて何かを隠すような仕草を見せた。
 雅成はその手が覆い隠した物を見逃さなかった。
 どうやらタバコの箱だった。彼女は人目につかないこの場所で吸っていたに違いなかった。
「ああ、もうびっくりしたじゃない」
 雅成の姿を認めると、そんな風に言った。
 しかしその声は不自然に大きく、しかも裏返っていた。明らかに動揺を隠せないといった様子である。
 雅成は冷静に、
「やあ」
とだけ言った。
 やはり麻希はタバコを吸っていたのだ。しかも校内で吸っていた。その行為はひどく挑戦的なものに思えた。噂は本当だった。
 知らず怒りがこみ上げてきた。これまで彼女を擁護してきた自分が、ひどく惨めに思われた。コンサートに参加する気が一気に失せてしまった。
「それ、前から吸っていたのか?」
 雅成は彼女を睨んで、威圧的に言った。有無を言わせぬ強い口調となった。自分にはそれを言う権利があると思った。
 麻希はあっさり観念したようだった。
「ごめんなさい」
「俺に謝ってどうするんだよ」
 雅成は吐き捨てるように言った。
 ひどく裏切られた気分だった。これまで必死になっていた自分が裏でせせら笑われていたような気がした。
 麻希は何も答えなかった。ただうつむいていた。まるで粗相をした召使いが、主人から許してもらうのをじっと待っているようだった。
 コンサートの参加を取りやめようかと本気で考えた。今辞退すれば、恐らく後ろ指をさされることは目に見えている。しかし今の自分は、麻希と一緒に出場する気にはなれなかった。
「俺、帰るよ」
 そう言ってギターのネックを持ち直すと、彼女に背を向けた。
「待ってよ」
 そんな強い声と同時に、彼女の手が腕を掴んだ。意外にも強い力だった。思わず振り返った。
「ごめんなさい。もう吸わないから」
 嘆願するような目をして、小さく口が動いた。
 これほど弱々しい麻希を見るのは初めてだった。
 雅成はしばらく何も言わなかった。
 どうしようか、と考えていた。折角お互いがここまで来たのである。自分が我慢して、これまでの関係が続けられるなら、それでもよいと思った。
「分かったよ」
 雅成は彼女の手を振りほどいた。
「じゃ、私これを捨ててくる」
「いや、それは後でいいよ」
 学校内でタバコの箱など捨てたら、余計に問題が大きくなりそうだった。とりあえず学校側には知られたくなかった。
「校外で人に言えない場所に出入りしている、ってのも本当なのか?」
 雅成は強い調子で訊いた。
「えっ?」
 麻希はポカンとした表情になって、
「そんなことしてない、と思う」
 と言った。
 それは嘘のない自然な反応に思えた。本当に思い当たる節はないようだった。どうやらそれは噂に過ぎなかったようだ。
 雅成の心に少しだけ安堵感が生まれた。
 ようやく麻希の隣に腰を下ろす気になった。
 相変わらず体育館からは、様々な楽器が奏でる不協和音が流れていた。
「今日って、約束の日じゃなかったわよね」
「ああ」
 ある程度演奏できるようになったので、ぜひ君に聴いてもらいたかった。そんな口まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 代わりにギターを構えて静かに演奏を始めた。麻希に上手く聞かせようという気持ちが緊張感を生む。
 ギターからは、濁りのない澄んだ音が溢れ出した。
 彼女はその音色に驚いたようだった。
 途中から彼女の歌声が重なる。
 途中コードを間違えて、調子を狂わせてしまったが、麻希はそのまま歌い続けた。
 こんな自分の伴奏でも、彼女の歌を支えているのが分かる。
 雅成は彼女がこの歌を唄うのを初めて聴いた。
 彼女の歌声は淀みなく、力強く伸び切っていた。それは、人知れずこの歌を何度も練習した証に思えた。
 演奏を終えると、麻希は肩を揺らすように拍手をした。
「上手ね、素敵だった」
 その言葉に少し照れくさくなった。
 しかし手応えを感じたのも事実である。これならコンサート当日までに、もっと技術を磨けるような気がする。
 雅成には充実感が湧いていた。高校生活でこれほど心が満たされる出来事は今までなかった。
「明日はどうする? また一緒に練習する?」
 麻希が訊いた。
「いや、感じが掴めたからいいよ。もう少し一人で練習してみる」
 今弾いてみて分かったのは、思ったより歌のテンポが速いということである。コード進行に気を取られて、どうも彼女の歌声に置いていかれている。ここは改善すべきところだろう。それが克服できたら、また音合わせをすればいい。彼女の方に問題はないのだから、わざわざ一緒に練習する必要はないと思った。
「それなら、明日は時間空くよね?」
 麻希が切り出した。それは最初から考えていた台詞のようだった。
「そうだね」
「あのね、明日の夜、お祭りに行くんだけど、一緒に行かない?」
 そう言えば、地元の夏祭りの日だった。すっかり忘れていた。小学生の頃は、両親に連れられてよく行ったものだが、最近は行ってなかった。ギターの練習の合間に出かけるのも、気分転換ができていいかもしれない。
「いいよ、一緒に行こうか」
「うん。よかった」
 麻希は格別の笑顔を見せてくれた。

8

 今日は時間の経つのがやたら遅く感じられた。朝から何をやっても手につかないのだ。
 どうしてだろう。
 一度構えたギターを傍に置いて考えた。
 麻希が積極的に自分を誘ってくれた。人と接することを頑なに拒否してきた彼女だけに、雅成は内心驚き、また嬉しさもひとしおだった。
 これまで地元の祭りなど、大して興味も湧かなかった。人混みよりも、静かな場所の方が性に合っている。
 しかし今日だけは違った。夕方がとても待ち遠しく感じられた。誰かが自分を待っているという期待感。心がわくわくする。麻希も今、同じ気持ちでいるのだろうか。
「気をつけろよ」
 いつか友人の東出が言っていた。
 確かに麻希は学校でタバコを吸っていた。周囲の悪い噂は本当だった。
 あの時は正直、彼女に騙されていたのだと感じた。
 しかし彼女は開き直ることもせず、いきなり謝った。
 その瞬間、何故か彼女を他人とは思えない、見えない鎖で繋がっているような気がしたのだ。
 あの感覚は一体何だったのだろうか。
 本来なら、彼女を突き飛ばして、さっさと立ち去ることだってできた筈である。しかし、その場に踏みとどまった。
 コンサートの出場も取りやめよう、そう頭では結論を出しておきながら、実際にはそんな気はさらさらなかった。
 むしろ、彼女とこれからも一緒に居よう、そんなことを考えたのだ。
 何故だろう。
 彼女の孤独をこれ以上放ってはおけないと思ったのだろうか。でも、それは自分が引き受けるべき仕事ではない。
 いや、そうではないのだ。そんな仕事だからこそ、自分にしかできないのだ。雅成はそう考える。
 だが、心のどこかでは、麻希のことを完全に信じられない自分もいるのだ。
 タバコが見つかって、彼女はひどく慌てていた。瞬時にこの先の不利益を予測した筈である。
 もしかすると、祭りに誘ったのは、実はまるで別の考えがあってのことではないかという気もするのだ。
 すなわち、このままではコンサートに出られなくなってしまう。彼女としてもその機会だけは失いたくなかった。そこで自分との関係を修復しておこうと算段した。
 例えそうであるなら、彼女は雅成のことを最大限に利用しようと考えていることになる。
 しかし別にそれでも構わない。どこか寂しい気はするが、それで彼女の学校生活に弾みがつくのであれば、それでよいのかもしれない。
 
 麻希とは学校の校門で待ち合わせをしていた。
 夕方、約束の時間には少し早かったが、雅成は家を出た。
 夏の夕日はまだ空高く残っている。外に出た途端、昼間と変わらぬ熱気に包まれた。手足が動く度に、身体にまとわりつくようだ。
 途中、浴衣姿の若い女性たちと遭遇した。この暑さの中、みんな屈託のない笑顔を見せていた。今夜は花火大会があるので、それを楽しみにしているのかもしれない。
 雅成は約束の時間より、三十分以上も早く着いてしまった。
 もちろん、麻希の姿はなかった。
 鉄の門扉は閉じられていた。この時間、生徒はみんな帰ってしまって、校内はひっそりと静まりかえっている。
 ただ職員室には、明かりがついていた。どうやら先生だけが残っているようだ。
 門扉は施錠されてはおらず、少し力を入れるだけでゆっくりと開いてくれた。
 雅成は校内に入った。
 身を隠すようにして、体育館に向った。
 例の階段に自然と足が向いていた。時間を潰すには丁度いいかもしれない。
 空はどこまでも茜色で、細長い雲が幾筋も浮かんでいた。
 体育館の裏側には夕日は差し込んでいなかった。そのため、あらゆる物が黒い影と化していた。
 昼間の印象とはまるで違う、どこか寂しげな雰囲気が漂っていた。
 雅成はゆっくりと階段を登り始めた。
「雅成くん!」
 突然、頭上から声がした。弾かれたように、顔を上げた。
 そこには麻希がいた。
 彼女も周りに同化して、ただのシルエットだった。白いブラウスだけが妙に浮かび上がっていた。
 昨日、ここで見たのと同じ服装である。彼女はずっとここに居たような錯覚を覚えた。まるで時間が止まっているかのように感じられた。
「篠宮さん、どうしてここに?」
 思わずそんな声が出た。
「まだ時間には早いでしょ。だから待ってたの」
 夕暮れが彼女から顔の表情を奪っていた。感情を読み取ることはできなかった。
 まさか、またタバコを吸っていたのではないか。
 雅成は瞬時に彼女の周りを確認した。
 しかしそんな形跡はなかった。もとより、彼女が慌てていないところを見ると、それは的外れのようだった。
「大丈夫よ、心配しなくても。私吸ってないよ」
 麻希は雅成の心の内を知ってか、笑ってそう言った。
 安心したのも束の間、彼女を信じてあげられなかった自分が恥ずかしくなってきた。
 しかしすぐに気を取り直して、
「いつからここに?」
と尋ねた。
 まさかとは思うが、昨日から家に帰らず、ここに一人で居た訳でもあるまい。
「今、来たばかりよ」
「それならいいんだけど」
「ヘンなの」
 麻希は大袈裟に笑った。明らかに彼女の気分は高揚していた。祭りを楽しむ準備がすっかりできあがっているのだった。
「それじゃあ、行きましょ」
 二人は階段を下りると、誰もいない校庭を抜けて、一気に校門まで駆けていった。
 雅成は誰かに見つかりはしないかとスリルを味わっていた。麻希も笑いながら走っていた。

 しばらく歩いていくと、徐々に祭りの喧騒が二人を包み込んだ。
 大きなウサギの風船を持った子どもが、お父さんの手に引かれて歩いてくる。食べ物を頬張りながら闊歩する中学生らとすれ違った。
 麻希は左右に屋台が並ぶ道をゆっくりと歩く。そんな彼女に歩幅を合わせた。
 桜の季節を思い出した。そう言えば、初めて会った日も彼女はこうして物珍しそうに歩いていた。
「お祭りは初めて?」
 雅成は横から訊いた。
「初めてじゃないわ。昔、家族と一緒に来たことがあるもの」
「俺と同じだ」
「そうなの? 今は?」
「大して友人もいないから、もうずっと来てなかったなあ」
「私もそう」
「お互い、友達がいない者同士か」
 雅成がおどけて言うと、麻希は髪を揺らして笑った。
 そして、
「でも、今日は違うわよね」
と真面目な顔で言った。
 そんな麻希の瞳は雅成をしっかりと捉えていた。

 祭りの屋台は昔と何ら変わらない。焼き物を売っているすぐ横で、金魚すくいをやっていたりする。テレビゲームが普及した今でも、昔ながらの素朴な遊びをしたくなるのは何故だろう。ゲームの原点が、実はここにあるからかもしれない。
 二人で射的をやってみた。
 麻希は高身長を生かすべく、身体を曲げるようにして銃を構えた。そして的のぎりぎり近くの所で発射するのだが、当たってもびくともしなかった。熱くなって何度かやってみたのだが、戦利品は小さなクマのぬいぐるみ一つだけであった。
 麻希の隣で、雅成は才能ということを考えていた。
 彼女には、歌という立派な才能がある。
 では、自分には何があるのだろうか。さっきは似た者同士だという話をしたが、才能では彼女の方がはるかに上回っている。そんな自分は、彼女の目にはちっぽけな人間に映っている筈で、それが情けなく思えてくる。
 辺りがすっかり暗くなって、人々が大移動を始めた。どうやら花火大会が始まるようである。
 二人も堤防を上がって、並んで土手に座った。かすかに草の匂いがする。
 花火が一発打ち上がる毎に、観客の歓声が沸いた。
 漆黒のキャンバスに真っ白な模様が描かれる。その模様は重なりあって、予測のつかない複雑な造形を生む。同時に身体を芯から揺さぶる大音響が見る者を圧倒する。
 雅成は、こっそりと麻希に視線を向けた。
 彼女の目は、大空に描き出される、瞬間の芸術にすっかり奪われているようだった。その一つひとつを、目に焼き付けるように見入っていた。
 やはり篠宮麻希のことが好きなのだと思う。恋心と呼べるほど、まだ形ははっきりとはしていない。しかし彼女の不思議な魅力に確かに惹きつけられている。
(麻希はどう思っているのだろうか?)
 雅成は彼女の横顔を見ながら考えた。
 彼女は自分の気持ちに、少しでも気づいているのだろうか。
 今はただ彼女と一緒に居たい、静かにそう願った。
 あっという間のショーだった。最後の一発が夜空を彩ると、辺りは急に静けさを取り戻した。火薬の匂いが河川敷に残された。あちこちで拍手が沸き起こっている。
「とても綺麗だったわ」
 そう言って、麻希は立ち上がるとスカートのお尻を叩いた。
 雅成も黙って腰を上げた。
 花火大会が終わると、一斉に観客が同じ方向に動き始めた。家路を急ぐという目的は皆同じである。人の波が延々と遠くまで続いていた。
 二人はそんな波に押し流されるように堤防を進んだ。
「はぐれちゃいそうね」
 麻希は雅成の手を握った。
 雅成も無言で握り返した。
 黙ったまま麻希のことだけを考えた。この手の温もりを大切にしたい、そう思った。
「ねえ、ちょっとそこで休まない?」
 麻希の指は、小さな公園に向けられていた。
「そうしよう」
 二人は人波から離脱して、堤防を下っていった。小道を行くと誰もいない空間に出た。真ん中に外灯が立っていて、その下にベンチがひっそりと置かれた公園だった。
 握っていた手を思い出したかのように離すと、麻希はベンチに腰掛けた。
 雅成の手にはまだ彼女の温もりが残っていた。手が離れた後も、自分の手が少し汗ばんでいたのが分かる。風を受けてすうっとする感じがあった。
 雅成は公園の外に自販機を見つけると、ジュースを買って戻って来た。一本を麻希に手渡してから、横に腰掛けた。
 まだ耳には花火の余韻が残っている。空を見上げれば、まだ続きが打ち上がるような気がする。
「今日は、来てよかったね」
 ジュースを一口飲んでから、麻希が言った。
「ああ」
「今夜は、楽しかった」
 彼女は、心底嬉しそうな声で言った。
「これが青春、ってやつかい?」
 いつかの台詞を思い出して言った。
「そうね、これが青春」
 彼女は笑った。
 頭上の明かりが二人の姿を闇に浮かび上がらせていた。それはまるで舞台に立つ役者を思わせた。雅成は自然とコンサートのことが頭をよぎった。
「昨日、あなたのギターを聞いてびっくりしちゃった」
 麻希が突然言い出した。
「どうして?」
「だって、最初、全然弾けないって言ってたもの。本当はギターやってたんでしょう?」
「いや、本当に弾けなかったんだ」
「嘘。すぐに上達する筈がないわ」
 君のために毎日練習したんだ。君の顔を思い出して弾いていたんだ、そう言ってもいいのだろうか。しかし、それはためらわれた。
 麻希は黙って雅成の顔を覗き込んだ。
 何も言わずに、ただ凝視している。こちらの言葉を待っているようだった。
 しかしどんな話を切り出せばよいのか、雅成には分からないのである。
 お互いが言葉を譲り合って、気まずい空気が流れていく。
 麻希は雅成から視線を戻すと、真っ白な足を交互にばたつかせるようにした。
「どうして今日は俺を誘ってくれたんだ?」
 雅成は思い切って訊いていた。やはりどうしても訊いておかなければならないことだった。
「実はあなたに話しておきたいことがあって」
 麻希は神妙な顔をして言った。
 今日の彼女は、様々な表情を持っていた。これほど感性豊かな少女だったのか。教室の彼女はやはり別人に思われた。
「私が芸能界デビューするって言ったら、どうする?」
「えっ」
 唐突な言葉に、雅成の思考は追いつけなかった。自然とオウム返しになる。
「芸能界?」
 確かに、そう聞こえたが。
「そう」
 麻希は大きく頷いた。顔には、いたずらっ子のような表情が浮かんでいた。何かの冗談だろうか。
「それ、本当の話?」
「一応、本当。でもまだ、正式に決まった訳ではないんだ」
 雅成の頭の中は混乱していた。ただ漠然と、麻希と離ればなれになる運命を想像した。
「いつ、デビューするの?」
「まだ決まってない」
「どういうきっかけで?」
「スカウトされたの、中学の時」
 なるほど、そうか。それならあの上手な歌声は、確かに納得がいく。そういうことだったのか。
 芸能界という遠い世界がこれほど現実味を帯びてくるとは、これまで考えたこともなかった。平凡な自分の身近でこんな話が沸き起こることもあるのだと、少々感慨が湧いた。
 しかしまだ分からない点もある。確かに麻希は整った顔立ちをしているし、背もすらりと高い。歌声だって普通の高校生とは思えないレベルにある。それらは確かに芸能界で通用するのかもしれない。
 だが性格はどうだろうか。彼女は人と交わるのが決して上手な方ではない。果たしてそれで芸能界を渡り歩いていけるのだろうか。
 いや、そうではないのか、雅成は思い直した。
 これから芸能界へ進むことで、どのみち学校を辞めることになる。だから学校ではあんな振る舞いをしていたのではないか。友達をろくに作らなかった理由もそこにある。
 これまでの彼女の不思議さが、それで少しは説明できるような気もする。
 しかし、どうして麻希はこんな話を自分にしたのだろうか。どんな反応を期待しているというのだろうか。
 雅成には、もうこれ以上積極的に掛ける言葉はなかった。
「ああ、何だかすっきりした。あなたに隠し事するのは、どうも後ろめたい気がして」
 麻希は夜空を見上げて言った。
 長い髪の横顔は、今までとはまるで違って見えた。芸能人という、自分とは無縁の資質を持っているからに違いない。
「家族の人は知っているんだろ?」
 横顔にそう投げかけた。
「うん、家族には言ったわ」
「それで、反応は?」
「両親は一応賛成みたい。お前の好きにしなさい、って」
「じゃ、双子の姉さんは?」
「反対してる。あなたには向かない、だって」
「ふうん」
 顔のよく似た双子の姉。彼女は今、どんな気持ちでいるのだろうか。
「でも、お姉ちゃんの言うことは正しいかもしれないよね」
 それは意外な言葉だった。姉の意見を素直に受け入れるというのは、随分と慎重な態度である。普通なら他人の忠告に耳を貸さず、一人で突っ走ってしまうところだ。
「家族以外には、言ってないの?」
「ええ。あなたが初めてよ」
 雅成は嬉しいような、寂しいような複雑な気分になった。
 確かに自分に打ち明けてくれたことは素直に嬉しいのだが、やはり手放しで喜ぶことができない。彼女が雲の上の世界に行ってしまったら、もう会うことさえままならない。
「でも、中学でスカウトされて、どうしてすぐに行かなかったの?」
「そのまま東京に行ってしまうのが、何だか怖くて。地元で高校生活をちゃんとしたかったんだ」
 彼女はそんな風に言った。
 しかし芸能プロダクションというのは、そんなに待ってくれるものなのだろうか。他にも才能ある若い子はたくさんいるだろう。なぜ、この麻希でなくてはならないのか。
「それで、君としてはどうなの? やっぱり芸能界に入りたいんだろ?」
 雅成はややぶっきらぼうに訊いた。今の気持ちがそのまま表れてしまった。
「あなたはどう思う?」
 麻希は逆に訊き返してきた。
 確かに麻希の人生は自分で決めればいいと思う。他人にあれこれ言う権利はない。だが、もし麻希がいなくなってしまったら、それはそれで寂しいものになるだろう。
 今、学校生活の中で芽生えた心の充足感が、あっという間に消えてしまうだろう。それだけは間違いない。
「俺には、芸能界なんて未知の世界だから、何のアドバイスもできないけれど、君がやりたいと思うことを正直にやればいいと思う」
 麻希は頷いて聞いていた。
「分かったわ、今日はどうもありがとう」
 彼女はそう言って、先にベンチから立ち上がった。

9

 麻希と別れてから、雅成は一人歩きながら考えた。
 花火に酔いしれた人々のうねりは、今ではすっかり消え、夜空だけが静かに彼を見守っていた。
 鈴虫の鳴き声が耳を捉えて離さなかった。それはまるで激しい雨のように迫ってくる。
 麻希は芸能界にスカウトされていた。
 その言葉を聞いた時、頭が真っ白になった。それほどの大物を相手にしていたのかと、全身が震えた。
 彼女は確かに才能がある。それにはおぼろげに気づいていた。しかし芸能界デビューを約束されるほどのものとは思ってもみなかった。
 そう言えば、コンサートで歌おうとしているあの曲は、ひょっとすると彼女のデビュー曲なのかもしれない。以前彼女は誰の歌なのかは知らない、と言った。だが今にして思えば、まだ世間に発表していない曲なのだから、それもあながち嘘ではないのだ。
 果たして、麻希は今後どうするつもりでいるのだろうか。
 自分の思い通りにすればよい、雅成は彼女にそう言った。しかし内心では、芸能界などという不確実な世界ではなく、このまま高校生活を共に過ごし、現実の世界に留まってほしいという願いもあった。
 やはり彼女とは別れたくない。
 雅成は、二人は一つのチームだと勝手に決めつけていた。彼女を支えてやるのは自分しかいない、そんな思い上がりがあった。笑止千万である。
 麻希は他人を必要としてはいない。今、自らの力で飛び立とうとしているではないか。
 雅成は立ち止まると、思わず道端の石ころを蹴飛ばした。それはどこか草むらへと吸い込まれていった。一斉に鈴虫の声が止む。辺りは静寂に包まれた。
 一呼吸おいてから、月夜の道を歩き始めた。
 これまで麻希のことを誤解していた。
 彼女は学校生活で少しも孤独を感じてはいなかったのではないか。
 彼女にはしっかりとした考えがあった。近い将来、芸能界へ進むには高校を中退せねばならない。当然友人とも別れることになる。だったら最初から友人を作らないのが得策と考えたのではないか。彼女は自ら孤独の道を選んでいたと言える。
 無意識に夜空を見上げた。
 無数の星が雅成に降りかかる。
 それでもやはり、自分の想いを彼女に伝えるべきだったか。そして、芸能界へは行かないでほしいと正直な気持ちを言ってもよかったのだろうか。

 麻希との音合わせは数日後に決めて、雅成はまた一人でギターの練習を始めた。
 しかし今までのように力が入らなかった。
 麻希はコンサートでデビュー曲を披露して、その後みんなの前から姿を消すような気がする。それが彼女に相応しい幕引きなのかもしれない。
 雅成は彼女に振り回されてばかりいるように思えた。彼女が学校生活に溶け込めるように、コンサートへの参加を提案したというのに、最初から学校を辞める気でいたなら、それも必要なかったということになる。
 雅成はギターを放り出した。
 (自分は一体何をしているのだろう)

 次の日、ポストに一枚のハガキが入っていた。それは麻希からの暑中見舞いだった。表に住所が書いてある。いつか彼女と行った海近くの町だった。
 裏を返すと、風鈴とスイカの絵の横に、見覚えのある文字で、
「ギターの方はどう? コンサートうまく行くといいね。夏祭りはとても楽しかったよ。いい思い出になりました、サンキュー」
と書かれてあった。
 (いい思い出か)
 雅成はハガキを握りしめたまま、切ない気持ちになった。
 やはり彼女は芸能界に進むことを決意したのだろう。いい思い出というのは、芸能界に入る前の最後のいい思い出ということなのだろう。
 麻希の心は確実に動き出している。
 彼女は一人で立派に自分の道を歩き出した。雅成の力に頼る必要などない。
 今度のコンサートに出場することに、果たして何の意味があるのだろうか。彼女を誘った自分がひどく惨めに感じられた。
 麻希は普通の高校生として人生を送るような人間ではない。もっと大きな夢が待っている。
 麻希をしっかり芸能界へ送り出してやろう。そうだ、彼女を愛している自分だからこそ、その仕事を全うする義務がある。
 コンサートは彼女にとって学校生活最後の思い出となるものだ。その思い出をよりよいものにしなければならない。それが自分の責任と言うものである。
 雅成は、ハガキを机の端に立て掛けて、ケースからギターを取り出した。
 もっと練習しよう。
 そして学校中の生徒の拍手で彼女を送ってやろう、強くそう思った。

 いよいよ文化祭は明後日に迫っていた。
 今日は、麻希と最後の練習をする日になっている。
 雅成は東出に電話を掛けて、リハーサルに立ち合ってもらえないかと頼んだ。第三者から客観的な意見を聞いてみたかったのである。
 東出は、最初は麻希と関わり合いたくないと言っていたが、お前の頼みなら仕方がない、と最後はしぶしぶ了解してくれた。
 体育館には、朝から出場者が続々と訪れていた。今日は出演順に特設ステージでの演奏が認められている。
 そんな中、雅成もギターケースを抱えて、校門にやって来た。
 麻希は木陰で待っていた。
 雅成の顔を認めると、弾かれたように駆け寄った。
「おはよう」
 夏の日差しを一杯に受けて、彼女の顔は輝いていた。
 こうして見ると、確かに彼女は綺麗だった。高校生としては、やや大人びた顔立ちが、長い髪によく似合っていた。
 やはりこの先、彼女はテレビの中の存在になってしまうのか。雅成はそんなことを考えながら、挨拶を返した。
 二人は肩を並べて、文化祭の立て看板の横をすり抜けた。
 体育館ではすでに演奏が始まっている。流れてくる曲は、どれも完成度の高さを窺わせていた。こちらも自然と身が引き締まる。
 出番を待つ間、各組が自由に練習してもよいことになっている。
 雅成は校庭の片隅で、麻希と音合わせをすることにした。
 話したいことが山ほどある筈なのに、麻希の前ではまるで言葉が出てこない。
 隣を歩く彼女に迷いは見られなかった。芸能界に進むことを決心したに違いなかった。後は真っ直ぐ進むだけである。何の躊躇もないはずだ。
 それに比べて自分はどうだ。
 麻希との別れが着実に近づいている。そんな不安な気持ちばかりが身体を襲う。何とかして彼女とは別れたくない。抑えきれない心の叫びは、彼女まで届いているのだろうか。
 こんな気持ちで、果たして二人は呼吸を合わせることができるのだろうか。

 二人は木陰に入った。ここからは広い校庭が見渡せる。時折吹く風が木々の葉を揺らし、乾いた音を奏でた。
 約束通りに東出が現れた。彼は憮然とした顔で立っていた。まだ麻希を敬遠しているような感じだった。
 雅成は構わず紹介を始める。
「東出、こちらが篠宮麻希さん。彼女の歌は最高だ」
 次に麻希の方を振り返った。
「こちらが、俺の友達の東出祥也。去年同じクラスだった」
 麻希の目が輝いた。どうやら最初の観客となる人物に興味を持ったようである。
「雅成君のお友達? よろしくお願いします」
 お辞儀をすると、長い髪が肩からこぼれた。
 
「ちょっと弾いてみるから、聴いてくれ」
「分かった」
 東出は軽く手を挙げて、ブロックに腰掛けた。
「それじゃ、行くよ」
 雅成は麻希に目で合図を送った。
 前奏が始まる。このパートだけでも何度練習したことか。今ではすっかり身体に染みこんでいる。
 ここまでは自分のペースだ。自分の右腕だけが、曲をリードする。
 そこへ麻希の歌声が合流する。
 彼女の澄み切った声が、辺りに響き渡った。それは校庭の隅々までも届いているようだ。そして、ついには大空へと吸い込まれていく。
 東出の顔が見る見るうちに変わっていくのが分かった。予想通りだ。
 彼は予期せぬものを目の当たりにして、度肝を抜かれたようだった。口をぽかんと開いたままでいた。
 雅成の中に自信が湧いた。
 ペースはどんどん上がっていく。
 彼女の歌声に、今日はしっかりついていける。
 雅成は腕が痺れるほど、強く速くストロークした。
 身体が浮かび上がってくる感覚。このまま彼女の歌声に乗って、どこか遠くへ飛んでいけるように思える。
 彼女は最後までしっかりと歌い上げた。しかしまだ自分の伴奏は続く。
 まだ最後の一仕事がある。彼女を無事に送り出すのだ。悔いのないように、彼女の旅立ちを見守ってやろう、ただそれだけを考えた。
 最後まで力強く弦を弾く。
 雅成は演奏を終えた。校庭には静けさが訪れていた。
 しかしギターの音色がいつまでも鳴り止まぬ余韻があった。演奏は終わったというのに、周りの空気は共鳴し続けていた。
 東出は、立ち上がって拍手をした。
 驚いた目をして、いつまでも拍手をし続けた。
 それに重なるように、別の拍手も聞こえてきた。
 目を遣ると、鉄棒付近に十人ほどの人垣ができていた。いつから聴いていたのだろうか。演奏中はまったく気づかなかった。
 彼らは互いに顔を見合わせて、頷き合っていた。
 麻希が隣で自分に視線を向けているのが分かる。
 その視線を痛いほどに感じながら、雅成はゆっくりとギターを置いた。
 東出が近づいてきた。
「凄いよ」
「上手だったわ」
 二人の声がほとんど同時にぶつかった。
 雅成の中には、満足感だけがあった。ついに完成したんだ、と感慨が湧いた。
「二人とも凄いよ。カッコ良すぎるぞ。どうやってこんなにできるようになったんだ?」
 東出は興奮しているようだ。
「いや、凄いのは、彼女の方だよ。俺は引き立て役に過ぎない」
「確かに篠宮さんの歌は上手だった。何と言うか、プロっぽいって言うか、高校生の次元じゃない」
 麻希は照れながら、
「ありがとうございます」
と言った。
「お前のギターも良かったよ。情熱というか、圧倒的な迫力が感じられた」
「私もびっくりした」
 麻希が横からそう言った。
「前よりも、うんと上達してた」
 二人のそんな言葉を聞いて、雅成はやはり嬉しかった。
 麻希と組んでよかったと思う。彼女がいたから、ここまで来られた。
「これは、ひょっとすると優勝を狙えるかもしれないぞ」
 東出が真面目な顔をして言った。

 雅成と麻希は体育館にいた。
 前の出場者が楽器を片付けるのを、二人は舞台の袖で見届けた。
 ベルが鳴って、番号が呼ばれた。
 ゆっくりと舞台の中央へ進む。
 今舞台を見守っているのは、運営委員と、一部の出場者だけである。
 明日はどれだけの視線が、自分たちに注がれることになるのだろうか。
「では、お願いします」
 委員のマイクの声が、がらんとした館内に響く。
 目の前にあるマイクに向かった。
「二年一組、芹澤雅成です」
「篠宮麻希です」
 彼女の声が拡声する。
 まるでオーディションを受けているような錯覚に陥った。何としても、このコンサートは成功させてやる。
 開いた扉から、生徒の一団がなだれ込んできた。さっき校庭で演奏を聴いた者たちが、どうやら友達を連れてきたようだった。
 演奏を開始する前から何人かの拍手が鳴った。
 雅成の心は意外にも落ち着いていた。麻希に目配せをしてから、演奏を始める。
 彼女の声がマイクに吸い込まれていく。それは大型スピーカーを通して増幅される。圧倒的な迫力を感じる。美しい歌声は体育館の空気を震わせた。彼女の伴奏ができることが誇らしく思えた。
 演奏が無事終わると、あちこちから拍手が沸き起こった。初めて麻希の歌声を聴いた者は、高校生とは思えぬその歌唱力に驚いているようだった。
 舞台から下りても、まだ拍手は止まなかった。
 見知らぬ連中が、次々と声を掛けてきた。
「素晴らしかった」
「二人の息がぴったりと合ってる」
 麻希は少し離れたところで、人々に包囲されてしまった。みんなが投げかける賛辞を身体に受け止めていた。
 雅成はある先輩から声を掛けられた。
「なかなかやるね。俺たちはエレキだけど、アコースティックもいいもんだ」
 また別の先輩が言う。
「君、二年生だったよね。うちの軽音楽部に入らないか?」
「サビの部分は、少し抑え気味にした方がいいかも。彼女の歌声をメインに持っていけば、より完璧だと思うな」
 見ず知らずの人たちから、こんな風に話し掛けられたことは今までなかった。どんな反応を返してよいのか、内心焦ってしまった。
 麻希の周りには、ちょっとした人だかりができて、彼女はなかなか解放してもらえそうになかった。
 東出がジュースを買ってきてくれた。
「完璧だったな」
「ありがとう」
 雅成は受け取った。
「でも、篠宮さんって本当に凄いな。いきなり人気者だよ」
 東出の彼女を見る目がすっかり変わっていた。
 雅成はそれが嬉しかった。
 麻希はまだみんなに囲まれている。笑顔を絶やすことなく、一人ひとりに応じていた。
 雅成は複雑な気持ちが湧いてくるのを禁じ得なかった。

10

 朝から雨が降っていた。
 夏休みは今日で終わりである。明日はいよいよ文化祭が行われる。
 雅成にとって、今年は忙しい夏休みとなった。これほど積極的な日々を過ごしたのは、初めての経験だった。
 それはギターの練習に明け暮れていたからか、それとも麻希と一緒に居られたからか。
 夏祭りの日から、彼女は将来のことを一切口にしなかった。もうおそらく決心はついていて、これ以上赤の他人に語る必要はないと考えているのかもしれない。
 雅成としても、今更その話を蒸し返すわけにはいかなかった。
 心のどこかに小さな穴が空いてしまったようだ。四六時中、その穴から何かが漏れている感じがする。
 どれだけ麻希と一緒に居ても、まるで心が満ち足りないのだ。むしろ、その穴がどんどん広がっているような気がした。
 そんな気持ちを吹き飛ばそうと、ギターを構えてみる。
 しかし麻希がいない演奏は薄っぺらなものに思える。やはり彼女の歌が必要だ。主役のいないドラマには虚しさを覚える。
 昼を過ぎてから、麻希の携帯に掛けてみた。
 これは一体何のための電話なのか、自分でもよく分からなかった。
 確かに呼び出してはいるのだが、彼女は一向に出なかった。
 そう言えば、麻希は電話に一度も出たことがない。必要以上に人と親しくなることを避けているのだろうか。明らかに自分と距離を置いているように思われた。
 もしそうなら、彼女の携帯を鳴らすのは迷惑でしかない。
 雅成はすぐに電話を切った。
 しばらくぼんやりとギターを眺めていた。もちろんギターは何も語ってはくれない。仕方なく服を着替えた。
 何だか無性に学校へ行きたい気分だった。例の場所で麻希と会えたらいいな、そんな軽い気持ちからだった。
 雅成はギターケースを肩に掛け、雨の中を学校へ向けて歩き始めた。

 夏休みの最後の日、学校には意外にも多くの学生の姿があった。文化祭の実行委員たちである。彼らは慌ただしく雨の中を駆けずり回り、最後の準備に余念がなかった。
 雅成の足は、自然と体育館へ向いた。
 館内をそれとなく覗いてみた。特設ステージの飾り付けもすっかり終わって、いつもは質素な体育館が華やかに生まれ変わっていた。明日はあの舞台に立って、大勢の観客にギターを披露するのかと思うと、わずかに足が震えるようだった。
 立ち止まることなく体育館の裏へと向かった。
 例の場所に麻希が居るかどうかは分からないが、たとえ居なくてもよい。とりあえずあの階段に座ってしばらく考え事でもしよう、そんな気分だった。
 雨が激しくなってきた。
 雨粒が屋根を強く打ちつけている。それはまるで観客の拍手のように聞こえてくる。明日のコンサートは絶対に成功させたいと思う。
 雅成は身体やケースが濡れないように、体育館の軒先に沿って歩いた。しかしそんな努力も、この強い降りにはあまり意味がないようだった。
 こんな強い雨の中、麻希が居るはずもない。
 雅成はわざわざここまで来たことを後悔し始めた。
 しばらくすると、目指す方角から女性の声が幾重にも重なって聞こえてきた。その声は、雨の音に負けじと大きなものだった。
 (一体、何だろうか?)
 いつもは静かな体育館の裏で、何か異変が起きていた。
 雅成は悪い予感を抱いて、自然と駆け出した。
 階段付近に、女子生徒たちが傘を差して群がっていた。彼女らは何かを取り囲んでいるようだった。
 雅成は慌ててその人垣に近寄った。
 ただならぬ気配を感じる。
 彼女らを押し除けるようにして、視界を確保した。
 そこには、麻希が立っていた。ずぶ濡れだった。白いブラウスが身体に張りついている。
 麻希ともう一人の女子生徒が対峙しているのだった。
 その女子も激しい雨に身を任せたままである。お互いが睨み合っている。
「おい、何しているんだ」
 雅成は思わず叫んだ。
 その場に居合わせた生徒たちが一斉に雅成の方を振り返った。全員が女子であった。
 麻希と睨み合っている女子の顔に見覚えがあった。いつか彼女を尾行していた連中の一人に間違いなかった。
 麻希がトラブルに巻き込まれているのは明らかだった。
「麻希、どうした、大丈夫か?」
 雅成は、そう呼びかけた。
 周りの女子を掻き分けて真ん中に出た。
 麻希の目は、自分をも睨みつけているようだった。ただこの激しい雨足では、それすらよく分からない。
 見ると足下にはタバコの吸い殻がいくつも落ちていた。
 もしや、吸っているところを見つかったというのか。もしそうだとしたら、それは非常に分が悪い。学校側に知られたら処分されるのは間違いない。いや、それよりもこれから芸能界デビューを控えた歌手にとって、スキャンダルになりかねない。
 雅成は考えた。ともかくこの事態をうまく収拾せなければならない。
「やっと来てくれたのね、待ってたんだよ」
 その声は、麻希ではなかった。名前も知らない、ずぶ濡れの女子だった。
 雅成の頭は混乱した。
 彼女は何を血迷っているのか。自分は麻希の味方である。
「一体、何のことだ?」
 不快な気持ちが、言葉になった。
「とぼけなくてもいいって。もうバレてしまったんだから」
 その女子は続けた。
 外野からも「そうだよ」という声がした。
 雅成は慌てた。どういうことだ。
「だからさっきも言ったでしょ。彼も私たちの仲間。今まであんたを騙して、人前に引っ張り出そうとしてただけ」
 女は、今度は麻希に向かって言った。
 まるで言葉の意味が分からなかった。
「たばこを吸っているのは、紛れもない事実でしょ」
 傘の中から声がした。
 麻希はその声の方へ強い視線を向けた。
「私、吸ってない」
「嘘言わないで。じゃあ、そこに落ちている吸い殻は何よ?」
 別の鋭い声。
「私じゃない」
「あんたじゃなきゃ、誰のものって言うの?」
「知らない。でも、もう吸ってない」
 雅成はしまった、と思った。麻希は口を滑らせた。
「今、もう吸ってない、って言ったわよね。ということは、やっぱり以前に吸っていたんじゃない」
 鬼の首を取ったような勢いで、ずぶ濡れの女が言う。やはり失言を見逃してはくれなかった。
 とにかくこの場を逃げ切る方法はないのか。このままでは、麻希の将来に大きな傷がつく。
「何言っているんだよ。それは俺が吸ったんだ、麻希のじゃない」
 雅成は咄嗟にそう言った。
 周りの女子連中は言葉を失ったようであった。誰もが沈黙した。
「麻希は吸ってない、関係ないんだ」
 語気を荒げて、重ねるように言った。
「何言っているのよ。この子がタバコを吸っているって、あなたが教えてくれたんじゃない」
「嘘だ」
 雅成は叫んだ。
 次の瞬間、麻希は体当たりをして円陣を突き破った。
 とっさの出来事で、雅成はどうすることもできなかった。
 麻希の後ろ姿だけが小さくなっていく。
 自分も彼女を追わなければならない。
 いや、その前に、この連中に確認することがあった。
「おい、お前たち」
 雅成はすごんだ声を上げた。こんなやり方で人を脅したのは生まれて初めてだった。
「麻希に一体何をしたんだ?」
「化けの皮をはいだだけ」
 一人がそう言った。
 雅成はその声の主を睨みつけた。
「どういうことだ?」
「そう、かっかしないで。あんたもどうして、あんな不良の肩を持つの?」
「彼女は不良じゃない」
 雅成は声を張り上げた。
「タバコ吸っていたのは事実でしょ。それなのに、清純気取りでコンサートに出るなんて許されないわ」
 別の女が言った。
「真実を暴いて何が悪いの?」
 要するに寄ってたかって麻希をいじめていた、そういう訳だ。
 これ以上、この連中と話すことはない。
 麻希を追おう。
 雅成は彼女らを突き飛ばして全力で駆け出した。

11

 雨は依然として強く降り続いていた。
 それは、大地を蹴って走る雅成を容赦なく打ちつけた。
 これは天の涙である。麻希の悲しみが天まで届き、大粒の涙となって大地を濡らしているのだ。
 どこかに傘を置いてきてしまった。しかし今はそれどころではない。
 雅成は姿の見えない麻希を追った。
 この激しい雨の中、人の姿は見られなかった。視界には、ずぶ濡れになって立つ緑の木々や、川と化したアスファルトの歩道だけが広がっていた。
 人はみな、この天の攻撃を避けるように、どこかにひっそりと身を隠している。
 出る杭は打たれる、か。
 麻希は確かに普通の女の子とは違っていた。
 それは出会った日から分かっていたのだ。
 彼女はその優れた才能を生かすべく、芸能界を目指していた。その特異性によって、彼女の不思議な性格が生み出されていた。
 麻希は今、夢に向かって大きな一歩を踏み出そうとしている。
 それは、いち早く大人の世界に生きるということを意味していた。彼女は普通の高校生と違っていて当然なのである。
 学校生活には打算的な人間関係が蔓延している。それを「協調」や「友情」と称するのは笑止千万である。
 そんな連中はやたら「個性」を口にするくせに、周りから弾かれないことに日々神経をすり減らしている。他人の目ばかりを気にして、自己保身のために生きているのだ。
 どうしてそんな連中に、主張を持つ人間を差別することができようか。個性あるが故に身体から発するオーラを、彼らにはどうも理解できないらしい。
 麻希の生き方を妨害する権利は、誰にもありはしない。
 少なくとも自分は彼女の味方であり続ける。何が起きても絶対に守ってやる。
 雅成は心の中で叫ぶ。
 (麻希が好きだ!)

 雅成はぬかるんだ地面を強く蹴った。
 体育館から校庭の方へ出てみたものの、麻希どころか人っ子一人出くわさない。
 彼女はこの雨の中、どこへ消えてしまったのだろうか。
 麻希は強い女でなければならない。無個性な連中に何と言われようと、それに心が左右されるような弱い人間であってはならない。
 芸能界で生きていくのであれば、今以上に辛いことが降りかかってくることだろう。この程度の挑発や中傷に負けるようでは先が思いやられる。
 麻希には強くなってほしい、雅成はそう思う。
 とにかく今は麻希を見つけることが先決だ。
 彼女の傍にいてやりたい。言葉など要らない。ただ寄り添うだけでいいんだ。
 彼女は家に帰ってしまったのだろうか。
 そうか、携帯があった。
 雅成は校舎の軒下に入って、麻希の携帯に掛けてみた。いつものように呼び出し音が聞こえるだけで彼女は出ない。
 ふと見ると、校舎の出入口が開いていた。
 雅成はずぶ濡れの身体で飛び込んだ。自分の教室を目指して、階段を駆け上った。
 わずかな望みに託して、教室のドアを勢いよく開けた。しかし教室には誰もいなかった。
 近くの廊下でクラスの女子連中と出くわした。壁や天井に飾りつけをしているところだった。
 雅成は勢い込んで、麻希のことを訊いてみた。
 しかし彼女の姿は見ていない、という言葉が返ってきただけであった。

 時間だけがむなしく経っていった。
 結局、麻希を見つけることができなかった。
 今、彼女は一人どんな気持ちでいることだろう。傍にいてやることすらできなかった。雅成は、自分の無力さをまざまざと見せられた思いだった。
 きっと彼女は大丈夫だ、雅成は自分に言い聞かせた。
 明日のコンサートで、いつものように彼女の歌を披露すればよい。あんな連中の脅迫に屈することなく、堂々としていればよいのだ。
 雅成はそう思ってみたものの、不安な気持ちは拭いきれなかった。
 そうだ、これから麻希の自宅へ行ってみようか。
 正確な住所は覚えていないが、家に帰れば暑中見舞いのハガキがある。確か住所が書いてあった筈である。
 それに自宅に戻って、水を吸って重くなったこの服も着替えることができる。
 雅成は校門まで歩き出した。
 そこでやっと思い出した。大事なギターケースを体育館の裏に置きっぱなしだった。
 この大雨の中、果たして中身は大丈夫だろうか。
 自然と小走りになった。
 あの女連中の前にギターを放置したのは迂闊と言わざるを得ない。逆恨みから、いたずらされているかもしれない。
 雅成の足はさらに速くなった。
 体育館の裏まで戻って来た。
 さっき麻希が女子に取り囲まれていた場所には、今は誰の姿もない。
 悪い予感は的中した。ギターケースはどこにもない。あの連中に持ち去られたのだろうか。
 これは大失敗である。ギターがなくては、明日の演奏ができない。
 とにかく大急ぎで探さなくてはならない。
 慌ててその場を離れようとした、その時である。
 目の前にある鉄製の階段が、わずかにきしんだようだった。
 誰かがいる。
 しかしここから見上げようにも、つづら折りの階段は、その裏側を見せているだけである。
 雅成は恐る恐る階段を登っていった。


 そこには背中を丸めた少女の姿があった。大きなギターケースを抱くようにして座っている。長い髪はすっかり濡れて頬に張り付いていた。毛先からは、水の雫が途切れることなく落ちていた。
「麻希!」
 雅成の声が聞こえないのか、彼女は無反応だった。
 しかし確かに声は聞こえている筈だった。その証拠に、ケースを抱える腕に力が入ったようだった。
「麻希、大丈夫か?」
 彼女は雅成と目を合わせようとしなかった。
 ただケースを大事そうに抱えたまま動かずにいた。親に叱られた子供がやり場のない怒りを胸の内に溜めている、そんな様子である。階段のどこか一点をぼんやりと見つめていた。
「麻希、風邪引くぞ」
 雅成は彼女の肩を掴んで軽く揺さぶった。
「放っておいて頂戴」
 麻希は強い調子で言ったつもりだったが、それはかすれた声にしかならなかった。
 それが悔しかったのか、紫色に変色した唇を噛んだ。
「まさか、連中の話を信じているんじゃないだろうな?」
 そうゆっくり問いかけた。
 雅成には見えない自信があった。
 麻希と自分は見えない絆で結ばれている。この程度の策略で、壊れてしまうほどの関係ではない。
「昔からいつもそうなの」
 突然、麻希が口を開いた。視線は動かさなかった。
「せっかく人と仲良くなっても、いつもこうなっちゃう。周りの目が気になって、本当の自分の気持ちに嘘ついたりして。そんな自分がたまらなく嫌になるのよ」
 雅成は黙って聞いていた。よく意味が分からなかった。
 要するに、あんな悪意に満ちた同級生の言動も無視できず、心が穏やかでなくなるということか。
 誰だって、自分の評価は気になるものだ。それは何も麻希に限ったことではない。
「周りが何と言おうと、自分の信念を曲げる必要はないんじゃないか」
 麻希は濡れた顔を上げて、雅成に強い視線を投げかけた。
 初めて出会った頃の、あの挑戦的な目つきだった。今でもそんな表情を見せるのか。雅成は寂しい気持ちになった。
 (まだ麻希は俺を信じてくれないのか?)
「いつだって私は、人によく思われたい、いい子を演じようって心の中で思ってる。本当は全然そうじゃないくせに、ハッタリだけで生きている」
「誰だってそういう面はある。特に芸能人を目指してる君は、誰からも好かれたい、っていう気持ちが強いのかもしれないが、それは自然なことじゃないか」
 麻希は複雑そうな表情を浮かべていた。
 自分は見当違いなことを口にしているのではないか、と雅成は一瞬考えた。
 しかしそのまま続けた。
「俺は芸能界のことはよく分からないが、そこには味方もいれば敵もいる。陰口や嫌がらせなんて、ごく日常的なことだと思う。それを一々気にしていたら、本当に自分がやりたいことなんてできないよ」
「そうね」
 麻希は諦めたように唇だけで笑った。
「さっきのあれは君の吸ったタバコじゃない。そうだろ?」
 雅成には強い自信が生まれていた。
 麻希は自分と約束したのである。芸能界デビューを控えた彼女が、そんな愚かなことをするとは到底思えなかった。
「信じてくれているのね、私のこと」
 麻希は震えた声で言った。
 その声は寒さによるものか、感情の高ぶりによるものか、雅成には分からなかった。
「麻希、とにかく帰ろう」
 雅成は彼女の手を取った。その手は氷のように冷たかった。
 このままでは風邪を引いてしまう。明日のコンサートのこともある。
「ギター大丈夫かしら?」
 彼女はさっきからそればかりを心配しているようだった。ギターケースを抱えたまま、離そうとしなかった。
「いいよ、それは。そんなことより君の身体の方が心配だ」
 こんな状況でも、ギターを気にしている麻希がとても愛おしくなった。
「家まで送ろうか?」
 雅成は優しく訊いた。
「ううん、大丈夫。一人で帰れるから」
 麻希はきっぱりと言った。
「傘は持っているの?」
「大丈夫、これだけ濡れたら、もう傘なんて要らないわ」
 麻希は笑って言った。
 そう言えば、自分もどこかに傘を置いてきてしまったことに思い至った。
 二人は階段を下りていった。
 雨粒がまるで針のように地面を鋭く刺している。
 生徒たちは帰ってしまったのか、校内はひっそりとしていた。
 雅成はしばらく考えてから、
「じゃあ気をつけてな」
と言った。
「うん。明日のコンサート、頑張ろうね」
 麻希はそう弾んで言うと、駆け出した。
 一度も振り返ることなく、雅成の元を去っていった。
 強い雨しぶきが、景色から全ての色を奪い去っていた。それはまるで水墨画を思わせた。
 そんな中、麻希の背中が小さくなっていく。
 寂しい背中だった。今彼女の背負っている悲しみを、自分は一体どれだけ分かっているというのか。
 彼女を追いかけていきたかった。
 しかしそんな資格が果たして自分にあるのか、雅成は考え込んだ。
 自分からどんどん離れていってしまう麻希の姿を目で追うのが精一杯だった。

 いつしか雨足の勢いは衰えていた。それでも霧雨が作り出す薄いカーテンが、周りの景色を全て包み込んでいる。
 雅成は一人、ギターケースを抱えて家路を急いだ。
 ケースの中身は大丈夫だろうか。今すぐにでも蓋を開けて確かめたくなる。
 傘は差していなかった。身体中がすっかり濡れてしまった以上、もはや傘の必要は感じられなかった。
 麻希は大丈夫だろうか。
 さっきからそんな不安が、雅成を圧迫している。
 どうして彼女の後を追わなかったのか。彼女の身体を気遣って、家まで送ってやるべきではなかったのか。頭の中で自問自答を繰り返す。
 そうしなかった理由は分かっている。
 麻希はもはや自分を必要としていない。それは時とともに、いつしか確信に変わっていた。
 彼女に対して積極的になれない理由もそこにある。自分に自信が持てないのだ。
 麻希との出会いは、無気力だった雅成に一筋の光を与えてくれた。身体に充実した精神が芽生えた。彼女との学校生活は、自分に驚くほどの勇気を与えた。
 ところが麻希は優れた歌の才能を持っていた。何ら個性を持たない自分とは、まるで釣り合いが取れなかった。そして彼女は芸能界という、さらに手の届かぬ所へ羽ばたこうとしている。
 麻希との別れが確実に近づいている、と思う。
 明日のコンサートが無事終了すれば、彼女は雅成の元から姿を消すだろう。全校生徒の大きな拍手に送られて、彼女はこの学校を去っていく。それは麻希らしい幕引きに思われた。
 そんな麻希の前で、自分は無力である。彼女を引き留めることなどできはしない。
 家の玄関を開けると、自分の身体よりも先に、タオルでギターケースを丹念に拭いた。ゆっくりと蓋を開けると、雨水が内側に染みを作っていた。
 しかし幸いなことに、ギター本体までは達していなかった。
 これは麻希に感謝しなければならない。
 彼女は本来雨ざらしになっていた筈のこのケースをしっかり抱きかかえていた。そのおかげで、ギターは無事だったのだ。
 階段を上がって麻希と再会した時、まず一番に彼女に「ありがとう」と言うべきだった。
 そんな当たり前のことをすっかり忘れていた。どうやら自分は麻希を目の前にして、自然体ではいられなかったのだ。彼女が自分を捨てていく恐怖と戦っていた。
 肌にへばり付いたシャツを一枚一枚剥がすように取り去ると、シャワーを浴びた。
 皮膚が寒さによって萎縮しているのが分かる。熱湯がそれを溶きほぐす。
 麻希も今頃、無事に家に着いただろうか。

12

 雅成は風呂から出ると、早速ギターを構えた。
 麻希の曲を奏でてみる。
 乾いた音が部屋中に響き渡った。どうやらギターには何の問題もなさそうである。
 すぐにベッドに横たわった。
 天井を見て、篠宮麻希のことだけを考えた。
 果たして、彼女は芸能界に向いているのだろうか。
 今回の一件で、彼女は不安定な精神を露呈してしまった。他人の言動で、たやすく心が揺れ動いてしまう。そんなことで厳しい世界を乗り切っていけるのだろうか。
 芸能界は華やかでありながら、その裏、厳しい世界に違いない。毎年数え切れないほどの歌手がデビューし、瞬く間に消えていく。
 確かに麻希の歌唱力は認める。しかしそれが直ちに成功につながるといった甘い世界ではないだろう。
 麻希のことはよく分かっている。
 もし彼女に再考を促すことのできる者がいるとすれば、それは自分ではないか。
 しかし彼女に人生のアドバイスができるほど、優れた人間でもない。ひどく平凡な高校生に過ぎないのだ。
 麻希の将来は、やはり彼女自身が決めるべき、か。
 雅成は二度大きなクシャミをした。風邪を引いたら大変である。慌てて顔まで布団を被った。
 麻希は今頃どうしているだろうか。風邪を引いていなければよいのだが。

 いよいよ文化祭当日を迎えた。
 雅成は、あまりにも時が早く過ぎ去ったことを感じずにはいられなかった。あの日誰もいない海で、麻希とコンサートに出場することを約束した。それからギターの練習に追われる日々を送った。夏祭りは彼女から将来の夢を打ち明けられた。
 全てはつい数日前のことのように思い出される。
 これほど充実した生活を過ごせたのも、麻希のおかげである。本当に彼女には感謝せねばならない。
 彼女と出会う前は、まるで川を流れる木の葉のように、時に身を任せるだけの人生だった。流れに逆らって泳ごうなどと考えたことはなかった。
 しかし今は違う。知らぬうちに時の流れに逆行しようとする自分の姿があった。初めて時間の経過と真剣に向き合っている。
 ギターの練習時間がもっと欲しかった。自分の技量はまだまだ磨けるような気がする。
 麻希のことだってそうだ。彼女は初めて好きになった女性である。彼女に心を開いてもらおうと、いくら積極的になったところで、もはや時間切れである。
 強い希望を持つ人間に対して、時は何と無慈悲なものか。
 しかしそれを言ってみても始まらない。
 今、この瞬間を大切に生きよう。麻希と一緒に居られることに感謝しよう。
 そのためには、まずはコンサートを成功させることだ。
 ここで持てる力を最大限に出し切ろう。楽器の腕前はさほど問題ではない。麻希の歌声の邪魔にならなければそれでよい。
 そもそもこのコンサートは麻希のためのものだ。彼女の歌声を学校中に響かせ、そして彼女の存在を正しく認識させること、それが雅成の最大の目的である。
 コンサートが終わったら、自分の気持ちを麻希に伝えようと思う。
 彼女はどう応えてくれるか分からないが、このまま彼女と別れてしまうのは我慢できない。
 麻希の前では、彼女に負けないよう、積極的でいたいと思う。
 雅成は、まだ完全に乾き切ってないケースを担いで自宅を出た。
 日差しが眩しかった。見上げると、昨日とはうって変わって、抜けるような青空がどこまでも大地と競い合っていた。
 麻希の歌声が今日、この大空に吸い込まれていくのだ。空は遥か遠く、未来まで続いている。やはりコンサートは彼女の第一歩に相応しい。
 麻希が芸能界へ進み、ある程度名前が知れ渡ったらどうなるだろう。今日コンサートに居合わせた学生たちは、誰もがデビュー前の貴重な歌声を聴いたのだと、後に自慢することになるだろう。
 雅成はそんなことを考えて、一人笑みを漏らした。

 いつもと同じように教室の扉を開けた。ギターケースを少し持ち上げ気味に、時間を掛けて自分の席まで辿り着いた。
 今日は文化祭一色で、授業はない。教室内の生徒は皆、笑顔だった。
 しかし雅成の隣の席はぽっかりと空いたままだった。まだ麻希は来ていなかった。
 生徒が続々と座席を埋めていく。そんな中、隣の席だけ時間が止まっているかのようだった。
 春、最初に麻希と出会った日のことを思い出した。
 あの日も、この席だけが空いていた。彼女は平然と遅刻してきた。
 しかし今日はあの日とは違う。
 雅成は今朝は彼女も早目に登校するだろうと考えていた。コンサートの最終打ち合わせもある。何よりパートナーと意気投合することで、高まった緊張も解きほぐすことができる。
 しかしいつまで経っても、麻希は現れなかった。
 雅成は途端に心配になった。まさか彼女が来ないということがあるだろうか。
 思い当たるのは、昨日の一件である。学校に嫌気がさしたということは考えられないか。
 麻希は芸能界の扉を叩こうとするほどの大物である。そんな価値ある歌声を、この学校の生徒に聴かせる義理はない、そう思ったのではないか。
 いや、そんな筈はないと思う。
 麻希一人が舞台に上がるわけではない。パートナーがいるのだ。そのことを忘れてしまう筈がない。
 昨日、彼女は別れ際に、「頑張ろう」と言った。作り笑顔ではあったが、確かにそう言った。
 もし彼女が来ない気でいるのなら、それは雅成に対する裏切り行為になるのではないだろうか。
 しかし、これまで考えてもみなかったが、その可能性がないとは言い切れない。
 麻希が雅成を特別な存在ではなく、単なる学校の生徒の一員として考えているのであれば、おかしいことではない。
 もとより友達のいない彼女が、文化祭を休んでも何ら不思議はないのだ。
 雅成は、隣の座席を見ながらそんなことを考えた。
 心が締めつけられるように苦しく、もはや居ても立ってもいられなくなってきた。

13

 チャイムが鳴って、担任が教室に入ってきた。
 教師は今日の予定を話すのだが、それを真面目に聞く者は誰もいなかった。今日は特別な日である。気の合う仲間同士、すぐにでも教室を飛び出したい衝動を抑えるのに一生懸命といった様子である。
 そんなホームルームもあっさりと終わってしまった。
 生徒たちはそれぞれ弾かれたように教室を出ていく。
 ついに麻希は姿を現さなかった。
 彼女はどうしてしまったのだろう。雅成の心配はピークに達していた。
 もしかすると、昨日の激しい雨に打たれて、体調を崩してしまったのではないだろうか。
 彼女が自宅で寝込んでいるとしたら、コンサートどころではない。出場を辞退して、今すぐにでも彼女の所へ飛んでいかなければならない。
「あいつ、人前で歌うのが怖くなったんじゃないか?」
「それで逃げ出したのか」
 教室を立ち去る男子生徒の中から、そんな声が聞こえた。
 雅成は反射的に声のした方を睨みつけた。が、生徒たちは笑い声を残して、さっさと出ていってしまった。
 誰もいなくなった教室で、雅成は椅子に座っていた。
 窓からは、派手な立て看板や、その中を忙しく動き回る制服が見えた。
 すでに校門付近は、外部からの来訪者でごったがえしている。
 それは文化祭の始まりを告げていた。
 誰もがこの非日常的な瞬間に、心弾ませているにちがいない。今、校内で不安を抱えているのは、きっと雅成ただ一人であろう。
 さて、これからどうしたらよいだろうか。とにかく麻希に電話をしてみようか。
 その時である。
 教室の扉が控え目に動き出した。
 扉が半分ほど開くと、そこには麻希の姿があった。
 身体をくの字に折り曲げるようにして、やっと立っていた。どうやら自立するのも辛いのか、扉にもたれ掛かるようにして身体を支えている。
 まるで砂漠の中を命からがら歩き続けてきた旅人を思わせた。
 いつもの麻希ではないことは明らかだった。
「麻希!」
 雅成は慌てて駆け寄った。周りの机がガタガタと音を立てた。
「遅くなって、ごめんなさい」
 麻希は喉の奥からひねり出すような声で言った。
 そんなことはどうでもよかった。彼女の身体は正常ではない。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
 蚊の泣くような声。よく聞き取れない。
 目の前の顔は紅潮していた。目がうつろだった。
「熱があるんじゃないか?」
 雅成は思わず麻希の額に手を当てた。
 異常なほどの熱を感じた。
「とりあえず、保健室へ行こう」
 この提案に麻希は何も言わなかった。
 雅成は彼女の肩を抱えるようにして、廊下を歩き出した。
 廊下の賑わいも、今の雅成の目にはまるで映っていなかった。ゴムまりのように弾む生徒らの横をすり抜けていく。
 相当な時間を掛けて、保健室まで辿り着いた。
 幸いにも校医が居てくれて、麻希に必要な処置をしてくれた。
「ベッドにしばらく横になっているといいわ」
 麻希にそう言い残すと、校医はカーテンを閉めた。
 そして雅成と向き合った。
「先生、彼女は大丈夫ですか?」
「心配は要らないわ、ただの風邪だから。無理をしたから、熱が出ただけ」
 若い校医は安心させるように、口元に笑みを浮かべて言った。
 それを聞いて、心の重荷がゆっくりと解けていく感じがあった。
「もう行っていいわよ。後は私に任せて頂戴」
「いや、彼女の傍に居てやりたいので」
 雅成は慌ててそう言った。
「あら、でも今日は文化祭よ。あなたも色々と見て廻りたいでしょう?」
「特に予定はないですから」
「そう?」
 校医は少し驚いたようだった。
 雅成は今日のコンサートの出場を辞退するつもりでいた。麻希がステージに上がれない以上、参加する意味はない。
 二人は笑い者になるかもしれないが、そんなことはまるで気にならなかった。
 それより心配なのは、麻希の容態である。
 雅成は麻希と同じ部屋で、カーテン一つ隔てて静かに座った。

14

 麻希は軽い寝息を立てて、カーテンの向こうで眠っていた。
 雅成はその場から離れることなく、彼女のことだけを考えていた。
 篠宮麻希、つくづく不思議な少女だと思う。
 彼女自身、真面目に生きている。自分の才能を生かすべく、この歳にして将来のことを真剣に考えている。
 彼女には夢がある。それに向かって突き進んでいる。
 しかし不幸なことに、彼女を取り巻く環境は、そんな彼女を暖かく見守ってはくれない。ただ一生懸命に生きようとする彼女に構わなければよいものを、その才能に嫉妬するのか、はたまた性格が気に入らないのか、足を引っ張ろうとする。
 雅成はそんな悲運な少女に共感できる部分がある。
 どうして学校は、人を型に嵌めようとするのか。彼女のような生き方があってもいいではないか。
 麻希には強く生きてほしい。彼女には歌という武器がある。芸能界でその力を最大に発揮するには、今以上に強靱な体力、そして精神力が必要となるだろう。
 他人からの中傷や嫌がらせに精神が揺さぶられるようでは、アーチストとして成功するには程遠い。
 どのくらい時が経過したのだろうか。突然カーテンの奥から人の動く気配がした。
 どうやら彼女は目を覚ましたらしい。
 カーテンが細目に開いた。
 そのわずかな隙間から、麻希はこちらを窺っているようだった。
 麻希の視線が、雅成の視線を掴んだ。
 すぐさまカーテンが力強く開かれた。
「雅成くん!」
 かすれた声がそう呼んだ。
「麻希、まだ寝てればいいよ」
「コンサートはどうなったの?」
 言葉がもつれるようだった。ベッドから降りようとする。
 雅成はそれを制止しながら、
「またの機会にしよう」
 口ではそんなことを言っておきながら、それは真実味のない話だった。まもなく学校を去っていく麻希に、果たしてそんな時間があるだろうか。
 でも彼女を安心させるには、そういう言い方しか思いつかなかった。
「まだ間に合うんでしょ?」
 麻希はなおも続ける。
「ああ、まだ始まってないからね」
「だったら出ましょうよ」
「その身体じゃ、無理だ」
 雅成は叱りつけるように言った。そうでもしないと、彼女が諦めそうもなかったからである。
「お願い、私はあなたと舞台に立ちたいの」
 麻希の声は上ずっていた。しかも涙混じりだった。
「いや、今回は辞退しよう。君のその身体じゃ無理だ」
「少し横になったら、随分と楽になったわ。だから大丈夫」
 麻希は背中を丸めるようにして懇願した。その姿はまるで無力な愛玩動物を思わせた。雅成の心は揺らいだ。
「私は歌いたいのよ!」
 麻希は一段と大きな声を上げた。
 雅成の心の迷いは大きくなった。
 今の調子では、とてもじゃないがいつもの歌が唄える雰囲気ではない。おそらく舞台に立っているのがやっとではないだろうか。
 麻希の真意が計りかねた。
 どうしてそこまで学校のコンサートに拘るのか。これはオーディションでもなければ、仕事でもない。単なる余興に過ぎない。身体を犠牲にしてまで、やらなければならない種類のものではない。
 保健室は、静寂に包まれていた。
 さっきから二人のやり取りを見ていた校医も、麻希の激しい様子に圧倒されたようだった。少し離れた場所から傍観している。
「君には悪いけど、今の状態じゃ、まともに歌は唄えないよ」
 雅成はわざと落ち着いた声で言った。
 麻希は途端に顔を両手で覆って泣き出した。時に嗚咽を漏らした。
 雅成はどうすればよいか分からなくなった。泣きたいのは自分の方である。
「分かった、分かったよ」
 麻希の肩に手を掛けて、軽く揺すった。
 彼女がこれほど取り乱しているのを初めて見た。
 人前で、いやこの学校の学生を前にして歌うことは、それほど大事なことだったのか。それが歌手の卵である、麻希の意地というわけか。
 彼女は肩を上下に動かして泣きじゃくっている。
 もはや雅成の声も聞こえてはいないようだった。
「麻希、もう泣くなよ」
 そう言いながらも、辛い気分になった。
 麻希の身体を思って決めたことが、彼女は気に食わないらしい。互いの気持ちがすれ違うことにもどかしさを感じる。
 雅成は助けを求めるように、校医を見た。
「演奏時間は?」
 彼女は冷静に訊いた。
「四分ほどです」
「それじゃあ、一応舞台に椅子を持って上がりなさい」
「彼女は大丈夫でしょうか?」
「声がまともに出るかどうかは分からないけど、どうしても、って言うなら仕方がないわ」
「はい」
「それから、歌う前に観客に一言、断りを入れておいた方がいいわね。彼女が風邪にかかって、今日は本調子ではありません、って」
 校医は呆れた顔をしながらも、心配をしてくれているのだった。

15

 麻希の意志は固かった。
 意識は朦朧としながらも、コンサートの舞台に立つことだけは譲らなかった。
 正直なところ、麻希がこんな体調でいつもの歌を唄えるとは思えなかった。
 しかしそれが彼女の望みならば、止める訳にはいかない。
 確かに校医が言う通り、演奏前に彼女の体調不良を表明しておけば、聴衆の理解は得られるのではないか。何しろ彼女はプロの歌手を目指す人物なのである。大目に見てもらうことは、それほど無理な注文とは思われなかった。
 そうなると、むしろ問題があるとすれば、それは自分のギター演奏である。彼女の分まで頑張らなければならない。
 雅成は、自分の責任の大きさを実感するにつれ、足が震え始めた。
 しかし、やり遂げなければならないのだ。
「麻希、本当に大丈夫かい?」
 雅成は彼女の顔をのぞき込むようにして、もう一度訊いてみた。
 麻希は何も言わずに、ただ二度、三度頷いた。
「じゃあ、ちょっとここで待ってろ。教室に戻ってギターを取ってくるから」
 雅成はそう言い残すと、保健室を飛び出した。
 廊下に出ると、文化祭の賑やかな雰囲気が一気に押し寄せてくる。
 保健室がこの校内で唯一、隔離された空間であることに気づかされた。
 笑顔ではしゃぐ学生たちを縫うようにして、雅成は先を急いだ。
 誰もいない教室の扉を開いて、ギターケースを担ぎ上げた。
 南に面する窓から体育館が望める。エレキギターやドラムが織りなす立体的な音響が空気を伝わって耳に届けられた。どうやらコンサートは始まったらしい。
 教室を出てすぐに、友人の東出と鉢合わせになった。
 彼は息せき切って、ここまで辿り着いたという感じだった。
「おい、今までどこにいたんだ?」
 彼はいきなりそんな言葉を浴びせ掛けた。
「もうコンサートは始まっているんだぜ」
「これから行くところさ」
「ところで篠宮さんはどうなんだ、ちゃんと来てるのか?」
 どうやらクラスの誰かから彼女のことを聞いたらしい。
「ああ、ちゃんといるよ」
 雅成は安心させるように大きな声を出した。
「そうか、それならいいんだ。とにかく急ごう」
 二人は並んで階段を下りた。
「実は、篠宮さんが退学になる、って噂を聞いたんだが」
 そんな東出の言葉に、雅成は思わず足を止めた。
「そりゃ、どういうことだ?」
「何でも、校内でタバコを吸っているところを目撃されたらしいんだ」
「そいつはデタラメだ。誰かが彼女を陥れようとしてるんだ」
 雅成は強い調子で言った。その声は、実は自分に言い聞かせているのかもしれなかった。
「さらに悪いことには、お前も一緒に吸っていた、って言いふらしている奴もいるんだ」
 馬鹿馬鹿しい話である。まったくもって事実無根である。反論する気にもなれない。
「友人として訊くが、本当に彼女は信用できるんだな?」
「いい加減にしろ!」
 自然と怒鳴りつけていた。
 周りにいた学生や父兄たちが凍りついて、遠巻きに二人を見た。
 東出は小さな声になって、
「それだけ、彼女の評判はよくないってことだ」
と言って、階段を先に下り始めた。
 雅成は愕然とせずにはいられなかった。
 一体誰がそんなデマを流しているのか。
 まさに見えない敵である。相手が人間ならば戦う術もあるだろうが、得体の知れない噂ではまるで戦いようもない。
「お前は、麻希と会っただろ? そんな悪い子に見えたか?」
 雅成は東出の背中に問いかけた。
「いや」
 彼は振り返ることなく答えた。
「彼女は本当に来ているんだな?」
 東出は心配を隠せない様子である。
「ああ」
 雅成は口を開くのも面倒だった。今は麻希のことをあれこれ話す気分にはなれなかった。
 そして思い出したように、
「これを持って、先に体育館へ行ってくれないか?」
と、ギターケースを手渡した。
「分かった、その代わりすぐ来てくれよ、いいな?」
 東出はそう念を押すと、小走りに階段を下りていった。
 雅成は向きを変えて、保健室へ向かった。
 扉を開けると、麻希はベッドに腰掛けて、校医と何かを話していた。
 朝の様子と比べると、随分と元気を取り戻したように見える。何とか舞台に立てそうだ。
 雅成は麻希の顔をまじまじと見た。まだ少し熱があるのか、顔がほんのり赤かった。
 雅成には、麻希の姿が霞んで見えた。
 なぜか、自然と涙が湧いていた。それを彼女に悟られないように顔を逸らした。
 麻希にとって、このコンサートに出ることは本当に意味のあることなのだろうか。
 このまま二人で逃げ出せたら、どれだけ気が楽だろう。
「ちょっと強い薬を飲んだから、眠気が襲ってくるかもしれないけど、頑張って」
 校医はそんな風に麻希を送り出した。
「体育館まで歩けるかい?」
「大丈夫よ」
 雅成は彼女に寄り添うように、賑やかな廊下へと踏み出した。

 二人は赤や黄色で彩られた廊下をゆっくりと歩いていった。
 麻希の手や顔から、異常な熱気を感じる。ブラウスがしっとりと濡れていた。まるで滝のように全身から発汗しているようだった。
 麻希の足取りは重く、時に長い足が絡み合ってはバランスを失う。その度に雅成が身体を支えてやらなければならなかった。
 文化祭に沸く校内の生徒たちから見れば、今の二人はひどく不可解な動きをしているに違いなかった。
 その証拠に、好奇に満ちた視線が何度も二人に向けられた。
 しかし雅成は少しも動じることはなかった。
 今はただ麻希の傍で、彼女の力になってやりたいという気持ちだけだった。
 校舎を出て、渡り廊下を行くと、頭上には大空が広がっていた。青い空が白々しく感じられた。どうして空はこんなに澄みきっているのだろうか。
 雅成はそれが憎らしくてたまらなかった。
 もう会場の近くまで来ている筈なのに、なかなか辿り着くことができなかった。
 ちょうど楽曲が終わって、観客の声援や拍手が響き渡っていた。
 ここへ来るまでに雅成は何度歩くのを止めようとしたことか。コンサートを辞退できるなら、どれほど幸せだろうと考えた。
 しかし麻希は必死だった。自分から身体を引きずって、少しでも前に進もうとした。決して立ち止まらなかった。そんな彼女の強い意志が雅成をここまで引っ張ってきたのだ。
 体育館の外では、東出が待っていた。
 麻希の異変に気がついたのか、すぐに駆け寄ってきた。
「篠宮さん、大丈夫かい?」
 東出は訳が分からないといった顔で、雅成の方を見た。
「ひどい風邪なんだ。俺は止めたんだけど、彼女がどうしても出場したい、って」
「でも、これじゃ無理だろう」 
「私、歌います」
 麻希の声は震えていた。
 保健室からここへ来るだけで、相当体力を消耗したのかもしれない。
 東出は麻希の気迫に圧倒されたようだった。それ以上、何も言わなかった。
「まだ、間に合うのか?」
 雅成は東出に訊いた。
 もし自分たちが出演時間に遅れたのであれば、それでもいいと思っていた。麻希には申し訳ないが、これで彼女を舞台に立たせなくて済む。彼女の醜態を全校生徒の前で晒したくはなかった。
「ぎりぎりセーフだよ、君たちはこの次だ」
 東出は無情にもそう答えた。
 どうやらこれが、篠宮麻希に与えられた試練らしい。
 最悪のコンディションになってしまった。こんなことになるなら、コンサートの話を持ち掛けるのではなかった。雅成は彼女に謝罪する気持ちで一杯だった。
 二人は舞台裏へ回った。
 何人かの生徒が楽器を傍らに置いて、出番を待っている。
 スタッフが二人の姿を見つけると、
「どこに行ってたんだ、遅刻だぞ!」
と叫んだ。
 彼の片手のストップウォッチが、薄暗い蛍光灯の明かりでチラチラと反射した。
 雅成はその無遠慮な言葉が我慢ならなかった。こちらにも事情があるのだ。一言返そうと口を開こうとした途端、麻希の身体が割り込んできた。
「何も言わないで、お願いだから」
 そして、
「どうもすみませんでした」
と、スタッフに頭を下げた。
「次の出演者の準備があるんだ、しっかりやってくれよ」
 怒号が飛ぶ。
 この舞台裏では、少々声を張り上げても何の問題もなかった。舞台の演奏が大きな音の壁を作っているからである。
「二分前!」
 舞台の袖から別のスタッフの声が響く。
「二年生の芹沢君と篠宮さん、スタンバイしてください」
 雅成は麻希の小さな手をぎゅっと握りしめた。

16

 雅成と麻希は舞台裏でひっそり並んで座っていた。
 舞台からは、エレキギターが生み出す激しい音とボーカル、そして観客の歓声が入り交じって聞こえてくる。
 雅成は意味もなく、天井を見上げた。
 こんな薄暗い空間にも、天窓から光が差し込んでいる。その白い光の中で、細かいほこりが舞い上がっていくのを、雅成は見た。
 自分たちは天に召されるのだ、と思う。いや、その前に裁きを受けなければならない。
 これまで学園で目立たぬように暮らしてきた二人が、今大舞台に立ち、生徒達の心に語りかけようとしている。果たして、そんなことが許されるのだろうか。
 自分を落ち着かせようとすればするほど、むしろ心は高ぶってくる。今まで経験したことのない緊張が、雅成を押しつぶそうとする。
 手のつながった麻希にそれを悟られないようにするのに、雅成は一生懸命だった。わざと胸を張り、堂々たる姿を崩さずにいた。しかし見えない震えが常に足元から這い上がっていた。
 舞台に立つこと、人前に出て歌を唄うこと、それは何と度胸のいることなのか。さらに観客を沸かせるなど、自分には思いも寄らない。
 しかし隣のこの少女は、これからそんな世界を生きていくというのだ。
 この際、自分のことはどうでもよい。麻希がしっかり評価されれば、それでいい。
 雅成は麻希の顔を窺った。薬が効いてきたのか、眠い目をわざと見開くようにしている。顔の火照りはどうやら引いているようだった。
「麻希、大丈夫か?」
 そんな言葉を何度掛けたことか。
「はい」
 麻希が小さく頷いた。何とか、行けそうだ。
 今舞台では、前の組の演奏が終わったところだった。まだエレキギターの余韻も冷めやらぬ体育館は、観客の拍手、歓声で満たされていた。
 いよいよ、自分たちの出番である。
 楽器を抱えたメンバー達が、舞台裏に引き揚げてきた。どの顔もみな興奮している。誰もが自分に陶酔しているようだった。
「芹沢さん、篠宮さん、ステージへ出てください」
 スタッフの声が轟く。
「はい」
 雅成は返事をすると、麻希の手を引いてステージへと歩み出した。
 麻希は足がもつれそうになりながらも、雅成の後に続く。
 目の前には何百という観客の姿が広がっていた。
 体育館の端から端までぎっしりと埋められた彼らの視線は、今や自分たちだけに向けられている。
 もう後戻りはできない。やれるだけのことをやるだけだ。
 不思議と場内は水を打ったように静まりかえっていた。先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。
 雅成は麻希の手を離すと、アコースティックギターを構えた。マイクの高さを調整する。
 麻希の方をちらっと見た。彼女はマイクにもたれかかるような姿勢で、何とか一人で立っている。
 彼女は最後まで立っていられるだろうか、雅成の脳裏に不安がよぎる。
 雅成はマイクに手を掛けて、番号と名前を告げた。極度の緊張が声を震えさせる。会場の一部から笑い声が漏れた。
 続いて麻希も名前を口にした。
 どこかで心ない者の罵声が上がった。
「すみませんが、今日は篠宮さんは風邪を引いていて、本調子ではありません。どうかよろしくお願いします」
 雅成の声に会場がざわつき始めた。
 そんな淀んだ空気を一掃するかのように、雅成はさっさとギターを弾き始めた。

 マイクを通して、ギターの乾いた音色が体育館に拡声する。目の前の小さな楽器が、自分の手の動きに合わせて、身体を震わせるほどの大きな音で鳴っていた。
 それは会場を埋め尽くす観客の耳へと届いている。彼らの感覚を揺り動かしているのは、他でもない自分の演奏なのだ。
 それは恐れ多くも、神の領域へ足を踏み入れたように思われた。これは自分の仕事ではない。途端に恐怖感が生まれる。そして身体の自由を奪い去るのだ。
 雅成は演奏をしながら、違和感を覚えた。何かがいつもと違うのだ。これまで幾度となく同じ曲を弾いてきたが、これほど満足できないことはなかった。
 果たして、麻希の方はどうだろうか。こんな酷い伴奏に、うまく歌声を重ね合わせることができるのだろうか。
 身体が硬直して、麻希の様子を窺い知ることができない。心のゆとりがまるで消えていた。今このギターを弾いているのは、誰かも分からなくなってくる。
 いよいよ、麻希の歌声が合流した。
 いつもとはまるで違う音色だった。雅成には別人の声に聞こえる。あの透き通る爽やかさが少しも感じられない。
 口先から不明瞭な言葉が流れて来る。声量は一定ではなく、時に途切れ途切れになった。
 もうこれは麻希の声ではなかった。川で溺れた子供が、必死に助けを求めているようだった。
 雅成は絶望的な気分に襲われた。やはり麻希をこの舞台に立たせたのは間違いだった。後悔の念が一気に押し寄せた。
 すぐにでもギターを弾く手を止めたい衝動にかられた。しかしそれでも麻希は一生懸命に歌っている。伴奏を止める訳にはいかない。
 今、麻希の声が一瞬裏返った。もはや彼女に表現力などなかった。操縦不能に陥った飛行機が、ただ力任せに空を行くようだった。自分の意志で声を調整することすら困難に思われた。
 サビの部分で、麻希は咳き込んだ。雅成の伴奏に雑音が交じった。これはもう歌とは言えなかった。それでも彼女は歌うのを止めなかった。
 会場は騒然となっていた。どうやら嘲笑や野次が飛び交い、講堂は揺れているのだった。いつからそんなことになっていたのか、麻希の様子に気を取られ、まったく気づかなかった。
 ギターの伴奏からは徐々にリズム感が失われていく。まるで今にも消えてしまいそうなロウソクの炎が、最後のあがきで揺らめくように、メロディが浮ついていた。
 雅成は麻希のことだけが心配だった。やはり彼女をこの舞台に立たせるのではなかった。完敗だと思った。
 もう会場は怒号だけに支配されていた。もはや静かに歌を聴く者は誰もいなかった。まるで生徒らは暴徒と化したようだった。
 一人ひとりの叫び声が、何を言っているのかはっきりと聞き取れない。しかし体育館を支配するほどに膨れ上がったうなり声は、容赦なく雅成に牙をむいた。身の危険すら感じる。
 そんな中、突然麻希の身体がぐにゃりと折れ曲がり、ステージの上を転げ落ちた。会場の喧騒のせいで、彼女が倒れる音がまるで聞こえなかった。
 いつの間にか彼女の声が聞こえなくなっていて、気がつくと、麻希の身体がだらしなく倒れていた。
 会場は予期せぬ出来事に静まりかえった。一体何が起きたのか、誰にも分からないようだった。観客は唖然として、ステージを見守るしかなかった。
 雅成はギターを放り出して、彼女の傍に膝をついた。
「麻希、しっかりしろ!」
 彼女から返事はなかった。意識がないように見える。
 舞台裏からスタッフが飛び出してきた。

 麻希の身体は異常なほどの熱を帯びていた。彼女の傍に寄るだけで、その熱気は雅成の身体にまとわりつくほどだった。
 麻希は薄目を開いて雅成の顔を確認すると、口元をゆっくりと動かした。しかし声はまるで出ていなかった。
 それでも口の動きからは、「ごめんなさい」と読み取れた。
 (どうして君が謝るんだ?)
 彼女は今、どんな気持ちでいるのだろう。むしろ謝るべきは自分である。こんなことになるなら、彼女をコンサートに誘わなければよかった。
 二人を取り囲んだスタッフらは、互いに顔を見合わせていた。予想もしなかった事態に戸惑っているのだ。
「とにかく保健室に運ぶんだ」
 舞台の上で主催者の声が飛んだ。
「そうしよう」
 その声に促されるように、スタッフの作る円陣は小さくなった。
 輪の中心にいた雅成は、麻希を抱きかかえるようして立たせた。しかし彼女の足はおぼつかなかった。
 一度彼女を肩に担ぐようにしてから、背中に負ぶった。麻希の手が雅成の首にしっかりと巻きついた。
「一人で大丈夫かい?」
 すぐ横でスタッフが訊いた。
「手伝おうか?」
 続いて周りからも声が上がる。
「結構です、この方が楽ですから」
 雅成は身体をまっすぐ伸ばしてそう言った。それから二、三歩しっかりした足取りを見せた。
 人垣が一カ所だけ開いた。そこから舞台裏へと向かう。不思議と雅成の心は落ち着いていた。
 観客席を背にして歩き出すと、体育館がざわめいていることに思い至った。
 彼らは去りゆく二人の姿を見て、笑っているのだろうか、それとも驚いているのだろうか。
 しかし雅成にとって、そんなことはどちらでもよかった。今は麻希の身体を落とさないように歩くことで精一杯だった。
 耳元で麻希が喘ぐように呼吸をしているのが分かる。彼女と接触している背中が汗ばんでくる。
「麻希、もう少しの辛抱だ。頑張れよ」
 雅成は前を見据えたまま、声を掛けた。その声が果たして彼女に届いているのか自信がなかった。
 しかし雅成は構わず、何度も言葉を掛け続けた。むしろそれは自分自身に言い聞かせているのかもしれなかった。
 体育館から保健室までは、かなり距離がある筈だった。しかし雅成は無我夢中で、一体どうやって歩いてきたのか、まるで記憶がなかった。途中廊下で、人々の好奇の視線が向けられていた筈だが、それもまったく気がつかなかった。
 気がつけば、雅成は保健室の前に立っていた。

17

 保健室には運良く校医が居てくれた。麻希を一目見ると、顔色一つ変えることなく、早速自分のやるべき仕事に取りかかった。
 麻希の長身を雅成から受け取ると、手際よくベッドの上に横たえた。ひょっとしてこの校医は麻希のことが心配で、ずっとここに詰めていたのかもしれない。雅成はふとそんなことを考えた。
 白いシーツの中で、麻希の真っ赤な顔だけが生々しく感じられた。まるで魚のように口を動かして、身体全体を震わせえている。やはり彼女は朝からずっとここに居るべきだったのだ。雅成に後悔の念が湧いた。
 校医はカーテンを閉め切ると、すっかりびしょ濡れになった服を着替えさせた。その後何度か出入りをして、適切な処置を施した。
 しばらくして、校医はカーテンの隙間から身を滑らせるように出てきた。
「彼女は大丈夫ですか?」
 雅成は彼女の顔を見るなり訊いた。
「大丈夫よ、安心して頂戴。しばらく寝ていればよくなるわ」
「病院に行かなくてもいいんですか?」
「そこまで大げさなものじゃないわ。ただ風邪の引き始めで、大量に熱が出たのよ。無理をして意識が朦朧としたのね」
 それを聞いて雅成は胸を撫で下ろした。やっと近くの丸椅子に腰掛ける気になった。
「でも、一応ご家族に連絡しておいた方がいいわね」
 校医は雅成を安心させておいてから、そう言った。
「あなた、彼女の自宅の電話番号、知ってる?」
「いいえ」
 雅成は、麻希の双子の姉のことを思い出した。姉は今自宅にいるのだろうか。
「それじゃあ、職員室で電話を掛けてくるわ」
「お願いします」
 校医は部屋のドアを開けてから振り返って、
「後の面倒は私が見るから、あなたは文化祭の方へ戻ってもいいのよ」
と言った。
「いいえ、ここに居ます」
「そう」
 校医はそれ以上は何も言わず、保健室を出て行った。

 中庭に面した窓からは、ベースやドラムの入り交じった低音がわずかに漏れ聞こえてくる。
 どうやらコンサートは再開したようだ。
 観客たちは、歌の途中で麻希が倒れたことや、そんな彼女を背負って舞台裏に消えた自分のことなど、今やすっかり忘れているに違いない。
 二人はついさっき、本当にあの大舞台に立っていたのだろうか。静かな部屋の中で、雅成には信じられない気がした。
 それは雅成の思い込みであって、実は二人は朝からずっとこうして保健室にいたのではないか、そんな気がしてくる。
 いや、それはあり得ない。確かにあの瞬間、二人は大勢の観客を前にして立っていた。
 全てが夢物語であってほしい、そんな気持ちが無意識に自分の精神に幻覚をもたらしているのだ。
 あれほど練習したのに、二人の息はまるで合わなかった。全校生徒を前に、大失態を演じることになった。
 こんな筈ではなかった。昨日、麻希を取り囲んでいた女連中の顔がちらついた。
 雅成自身のことはどうでもよい。みんなから何と言われようと気にはならない。孤独でいることには慣れている。
 しかし麻希は別である。彼女の歌はプロの域に達している。この先芸能界を約束された彼女の歌を、全校生徒に聴かせる筈だった。
 彼らがデビュー前の彼女の歌を聴けることは、まさに身に余る光栄と言ってもよいだろう。
 しかし麻希の歌はまるで響かなかった。本来の声は出せなかった。
 それは「無言の歌」だ、雅成は思う。
 日頃から麻希はみんなと距離をおいていた。人と交わることを避けていた。
 それは彼女の性格がそうさせるのか、あるいは学校を中退するつもりで、意識的に友達を作らないようにしていたのか、いずれにせよ、彼女はいつも無言だった。
 そして、いよいよ学校を去ろうという時、彼女は美しい歌声で全校生徒に語りかける。みんなはその卓越した才能に触れ、彼女の存在を認める筈だったのだ。
 しかし麻希は無言の歌しか唄えなかった。
 雅成はひどく自己嫌悪を感じた。全ての責任は自分にある。
 麻希を無理矢理ステージに引っ張り出したのは、雅成なのである。彼女はますます校内で孤立する結果となってしまった。
 雅成の耳には、女連中のあざ笑う声が渦巻いていた。
 麻希に何と声を掛けたらよいだろうか、まるで見当もつかない。
 彼女としても、実力を発揮できずに終わったことを不本意に感じているのではないだろうか。もし彼女が望むのなら、自分にはいつでもギターを弾く用意がある。
 もう一度チャンスが訪れないだろうか。せめて一度でいいから、彼女の歌声を学校に響かせたいと思うのだ。
 雅成はじっと一人で考え続けていた。
 芸能界に進む彼女に、よき学校生活の思い出を残してあげたい、そんな気持ちで一杯だった。

 どれだけ時間が流れたのだろう。
 閉ざされたカーテンの中から、シーツがめくれて身体の動く気配があった。
「麻希?」
 雅成は椅子から立ち上がって、そっと声を掛けてみた。
「雅成くん、そこに居たの?」
 奥からしわがれた声が聞こえた。
「気がついたかい?」
 雅成はカーテンに張りつくようにして訊いた。
「うん、もう大丈夫よ」
 白い手がカーテンの重なりを器用に押し分けて、小さな隙間を作った。
 雅成が思わず手を伸ばすと、彼女はその手をぎゅっと握りしめた。
 雅成に言葉はなかった。なぜか涙がこぼれ落ちた。
 麻希の手に自然と力が入る。
 雅成はもう一方の手で、ゆっくりとカーテンを左右に割った。
 麻希は半身を起こして、雅成の方を向いていた。泣いていたのか、目の周りがすっかり赤くなっている。
 ベッドの上の彼女は、体操着に着替えていた。カーテンで仕切られた空間には、女性特有の強い香りが立ち込めていた。
 麻希は握った手を離そうとはしなかった。むしろ引っ張るようにして、
「ごめんなさい」
とだけ言った。

「いや、謝るのは僕の方だ」
「どうして?」
 麻希はゆっくりと雅成を見上げた。
「そりゃ、君をコンサートに担ぎ出したのは、この僕だからね」
 麻希はくすっと笑うと、
「あなたは優しいのね」
と言った。
 麻希は握りしめていた手をほどいた。
「でも、違うの。全ては私のせい」
 雅成は何かを言おうとしたが、彼女は遮るように続けた。
「昔からそうなの。私って不器用で、ここ一番大事な時にいつも失敗ばかりで」
「いや、とんでもない。君は素晴らしい才能に恵まれている。僕からすれば、羨ましい限りだ。今回は身体の調子が悪かっただけだよ」
「ありがとう。でも、もう励ましてくれなくてもいいの。自分のことは自分が一番よく分かってるから」
 麻希はそんな風に言った。
 彼女は何もかも投げ出してしまったように感じられた。彼女の折れた心を元に戻すには、どうすればよいだろうか。雅成は頭を巡らせた。
「ねえ、身体が治ったら、もう一度みんなの前で歌を披露してくれるかい?」
「いえ、もうこれで十分よ。これまでとっても楽しかった。あなたのおかげよ」
 やはり麻希は今回の失敗を機に、学校では自分の歌を封印するつもりでいるらしい。このままここを去る気なのだろうか。
「悔いはないのか?」
 雅成はそんな言葉を口にした。流れ始めた彼女の心を何とか引き止めたい一心だった。
「うん、最初からこうなる運命だったのよ」
 麻希は口元だけで笑った。
「これまで色々あったけど、麻希は全然悪くないんだ。これからもみんなの前で堂々としてればいい」
 雅成は強い調子で言った。それは間違いないと思った。少なくとも自分は彼女の味方である。
 しかし雅成には、そんな風に言葉でしか彼女を励ますことができないのだ。それを思うと自分の限界を感じて悲しくなる。
 優れた才能を持ち、将来の夢に向かって歩き出した麻希に、何の取り柄もない人間が何を言おうとまるで説得力がないではないか。
 だがそうでもしないと、彼女は自信を取り戻せないように思えた。このままでは彼女は暗い過去を背負って生きていくことになる。
「ごめんね、雅成くんには余計な心配ばかりかけて」
 麻希は静かに言った。
「もう芸能界に進むことは決めているんだろ?」
「ええ、そうよ」
「いつまでこの学校に居られるの?」
「本当はもっと早くに出て行くつもりだったんだけど、何だか居心地がよくて、決心が鈍ったみたい」
 麻希は思い出すようにそう言った。
「僕にはこんなことを言う権利はないけれど、できればあと一年半、いや半年でもいいから、麻希にはこの学校に残ってほしい」
「一年半?」
「そう、できたら一緒に卒業したいと思う。少しでも長く君の傍に居たいんだ」
「ああ、もうそれ以上は言わないで」
 麻希が両手を前に突っ張るようにして言った。
「だって、悲しくなるでしょう?」
「いや、でも言わせてくれ」
 雅成はその両手を左右から包み込むようにした。
「いつからか分からないけど、麻希のことが好きになっていたんだ。いつも君のことを意識していたけど、それがどんな気持ちかよく分からなかった。でも今日、舞台に立ってはっきりしたよ。自分のことより、君のことばかりが心配だった。だからはっきりと言えるんだ、麻希のことが好き、ってね」
 麻希はうつむいて雅成の言葉を黙って聞いていた。そして最後に顔を上げた。
「あーあ、言っちゃった」
「えっ?」
「ううん、何でもない。でもとっても嬉しい。私もあなたのことが好きだったの、きっと」
 雅成は突き上げてくる衝動を抑えることができなかった。自然と麻希の唇に自分の唇を重ねていた。
 彼女の顔は火照っていた。それは猛烈な羞恥心からなのか、それとも風邪の症状なのか雅成には分らなかった。
 唇をほどくと、雅成は、
「麻希のこと、大好きだよ」
と言った。
 麻希は顔を真っ赤にしたまま、
「できることなら、あなたとはもっと早く出会っていればよかったわ」
と笑顔で言った。
 それは雅成が初めて見る美しい顔だった。彼女にもこんな表情があるのかと驚いた。
 確かに入学してすぐ彼女と知り合っていれば、お互い学校生活も違ったものになったかもしれない。
「でもその言葉だけは、もう少し取っておいてほしかったわ」
 麻希はちょっと不満そうな調子で言った。
「どうして?」
「だってその方が、長く一緒に居られたもの」
 麻希はおかしな事を言った。
「それ、どういう意味?」
「ううん、それはこっちの話」
 麻希は笑った。
「さて、そろそろ私は戻らなきゃ」
「戻るって、家に?」
 雅成はどうもさっきから麻希の様子がおかしいことに気づいていた。彼女は今にも自分の元から離れていってしまいそうだった。せっかくお互いが告白し合ったというのに。
 麻希はベッドから両足を降ろした。
 そして雅成の目の前をすり抜けて、ドアのところまで歩いていった。
 彼女は自宅に帰るのだろうか。もしそうなら自分が送ってやらなければならない。
 そんなことを考えて、麻希に何か言おうとしたその瞬間だった。
 麻希は雅成の方を突然振り返り、
「今までありがとう。でも、さようなら」
 そう明るい言葉を残して、ドアを開いて廊下に出ていった。
「麻希!」
 反射的に声を上げると、彼女の後を追った。今すぐドアを開けば、そこには彼女の背中がある筈だった。
 ドアを開けた。
 しかし麻希は居なかった。
 慌ただしく廊下の左右を見回しても、彼女の姿はどこにも見当たらない。
 あるのは、文化祭の飾り付けと、歓声を上げて行き交う生徒たちの姿だけであった。

18

 それは不思議な光景だった。
 今、保健室を出ていったばかりの麻希の姿がどこにもないのだ。あれから三秒と経っていない。雅成は扉の向こうに彼女の姿を捉えることができると信じて疑わなかった。
 しかし彼女の姿はどこにもない。何とも受け入れがたい現実だった。まさか、人間が煙のように一瞬で消える筈もない。
 雅成には、背筋が凍るような恐怖感だけが湧いてきた。
 麻希は一体どこへ行ってしまったのか。
 確信のないまま、廊下を駆け出した。こうでもしないと、心を落ち着けることができない。このままでは不可解な現象を認めることになる。
 体育館へ向かって猛然と走る。さっき麻希を背負って歩いた道である。彼女の温もりが思い出された。
 校内は文化祭一色である。
 しかし雅成にとって、それは何の意味も持っていなかった。
 一刻も早く麻希を見つけたい。もしこのまま見つからなければ、何かとんでもないことになるような気がする。
 のんびり廊下を歩く学生らを縫うように走った。
 もしかすると、麻希はどこか教室に逃げ込んだのかもしれない。そう思って、廊下の左右に目を遣ることは忘れなかった。しかし彼女が隠れるような場所はなかった。
 いよいよ校舎の端まで到達してしまった。
 中庭を通り抜ければ、その先は体育館である。しかし麻希の姿はどこにもない。
 しまった、反対方向を探すべきだったか。
 雅成は慌てて保健室の方へ引き返した。途中、階段を下りてきた女生徒二人とぶつかった。
「ごめん」
 雅成は、悪態をつきながら体勢を立て直す二人を尻目に走り続けた。足がもつれて転びそうになる。
 保健室の前を通過して、その先を急いだ。
 廊下は直角に折れて、その先は体育教官室や武道館で終りである。この辺りは文化祭の飾り付けもなく、麻希どころか人の気配さえ感じられなかった。
 静まりかえった廊下に雅成の靴音だけが響き渡る。
 突き当たりの武道館まで来てしまった。扉に手を掛けてみたが、びくともしなかった。ここは元々鍵が掛かっている。この中に麻希がいるとは考えられなかった。
 雅成は肩を落として今来た道を戻った。
 麻希は一体どこへ消えてしまったというのか。
 ほんの数秒の出来事なのである。彼女がその間に進める距離など、たかが知れている。絶対に遠くへは行っていない。
 保健室が見えてきた。
 案外、今頃はあの部屋に戻っているのではないだろうか。それが正解のような気がする。いや、そうとしか考えられない。雅成にはかすかな自信が湧いてきた。
 保健室まで戻ってきた。
 扉を開こうとしたが、何かに引っかかった。鍵が掛かっているのだ。
 やはり麻希は中にいる。鍵を掛けて閉じこもっているのだ。
「麻希!」
 雅成は扉を叩いた。
「おい、開けてくれよ」
 しかし扉は固く閉ざされたままであった。
 麻希はどうしたと言うのか。何か気に障ることでもあったのだろうか。雅成の行動が彼女を怒らせたと言うのだろうか。
 雅成のしたことと言えば、彼女に告白をして、口づけをしたことである。やはりそれが彼女を傷つけ、心を閉ざす原因になったのか。
「麻希、そこにいるんだろ?」
 雅成は扉を叩き続けた。
「一体、どうしたの?」
 あらぬ方向から女性の厳しい声がした。振り返ると校医の先生だった。
 雅成は一気に救われた気持ちになった。彼女なら鍵を持っている筈である。
「先生!」
「あら、あなただったの?」
 校医は呆れたように言った。
「先生、鍵が掛かっているんです。開けてもらえませんか?」
 雅成は勢い込んで言った。
「ああ、それは私が閉めたのよ」
「えっ?」
「戻ってみたら誰もいなかったから」
「麻希は、篠宮さんはいませんでしたか?」
「シノミヤさん? 誰のこと?」
 校医は怪訝そうな顔で訊いた。
 この非常時に何を言っているのだ。雅成はもどかしくなった。
「さっき僕がここへ連れてきた子、篠宮さんっていうんです」
 雅成は説明する。
「コンサート中に倒れたんでしょ?」
「そうですよ」
 雅成は憮然として言った。
 すると校医は驚くべきことを口にした。
「倒れて運ばれてきたのは、あなたじゃないの」

 雅成は言葉を失った。しばらく校医と睨み合う格好になった。
 彼女の言葉が頭の中を渦巻いていた。
 必死にその意味を考える。が、壊れたカメラのように、いつもまで経ってもピントが合わない。今、互いの認識に大きな隔たりが生まれている。これでは、この先会話が成立しない。
「僕が倒れた、って言いました?」
 訳が分からない雅成にはそんな反芻がやっとだった。
「ええ、でももうすっかり元気になって、保健室を出ていったのだと思ってたわ」
「とにかく、開けてくれませんか」
 雅成は理解するより先にそう言った。
「分ったわ」
 この中には麻希がいる筈である。彼女に会うことが何よりも先決である。
 校医は口を尖らせるような表情で鍵を差し込んだ。
 ドアが開くと、飛び込むように入った。
 しかし静まりかえった部屋の中には誰もいなかった。雅成の大げさな息遣いだけが響いていた。
 何度も部屋の中を見回した。狭い部屋である。人が隠れるような場所もない。さっき麻希が寝ていたベッドのカーテンは全開になっていて、そのベッドももちろん空だった。
 雅成は助けを求めるように、後ろを振り返った。
「さっき、ここに篠宮さんが寝てましたよね?」
 腰に両手を当てて立っている校医に確認した。これ以上簡単な問題はない筈だった。麻希の看病をしたのは、彼女に他ならない。
「いいえ、寝てたのはあなたよ」
 彼女のしっかりした口調は、雅成の期待をいとも簡単に裏切った。
 そんな筈があるものか。何を勘違いしているのか。
「先生、しっかりしてください。ここには背の高い女子が寝ていたんです。彼女を手当したのは、先生ですよ」
「いいえ、私はあなたの手当をしたんです。女の子なんてここには来てないわ」
 校医はきっぱりと言い放った。その顔は冗談を言っているようには見えない。彼女は本当に麻希を忘れてしまったというのか。
 そうだ、麻希の着替えた制服はどうしたのだろう。ベッド脇に置いてないだろうか。彼女はここを出る時、体操服姿だった。それなら最初に着ていた服がそのまま残っていることにならないか。
 雅成はベッドに駆け寄って、その辺りを見回した。しかし彼女の服は見当たらなかった。ベッドの下を覗き込んだり、カーテンを何度か開け閉めして確認したが、麻希が寝ていた証拠はなかった。
 雅成の目の前には、自信に満ち溢れた校医の顔があった。
「何かの勘違いでしょう。この部屋にはあなたと私しかいなかった。それに、そもそもシノミヤって子、私は知らないのよ」
 何か悪い夢でも見ているようだ。どうして校医は麻希のことを隠すのか。
 いや事実、麻希はこの部屋にいたのである。なぜかは分らないが、校医は明らかに嘘をついている。
 彼女に全てを白状させる確固たる証拠はないものか。
 雅成はなおも食い下がった。
「先生は今までどこへ行っていたのですか? 職員室で篠宮さんの家に電話を掛けていたのではないですか?」
 すっかり思い出した。雅成と麻希を部屋に残したまま、彼女は電話を掛けてくると言って出ていったのである。この点をどう説明するのか。
「だから、あなたの家に連絡しましたよ」
「えっ?」
「でもお留守だったから、担任の先生と相談したのよ。そうしたら、お昼までこのまま様子を見ようということになって。ここへ戻ってきてみたら、あなたの姿がなかったと言う訳」
 雅成には、もう反論する言葉は残っていなかった。
 校医は構わず続けている。
「でも、もう身体の方は大丈夫よね。それだけピンピンしているんだから」
 そう言うと彼女は笑顔を作った。
 雅成は怖くなって、この場を逃げ出したくなった。そのうち自分まで記憶から消されそうだ。
 何より麻希のことが心配である。
 雅成は無言で保健室を飛び出した。

19

 麻希はどこへ行ってしまったのだろうか。
 とにかく今は彼女に会いたい。もしかするともう二度と会えないのではないか、雅成はそんな不安に押し潰されそうになる。負けじと廊下を疾走した。
 しかしどこへ行けば麻希に会えるというのか。当てのないまま足だけが忙しく動いた。
 保健室で無駄に時間を過ごしたことが悔やまれた。
 校医と話している間にも、麻希は雅成から遠ざかっていたのだ。今頃は校外にいるのかもしれない。
 しかしあの校医は一体どうしたのだろう。
 彼女は麻希のことを知らないと言った。それどころか、ステージで倒れたのは雅成だと言い張った。
 そんな筈はない。
 ステージで倒れたのは麻希である。雅成はそんな彼女を保健室まで運んだのである。目撃者だって大勢いるではないか。
 あんな戯言に関わっていた時間が勿体なく感じられた。校医に構わず、さっさと麻希を追いかければよかった。
 これからどうしようか。
 麻希が学校の外へ出ていったのなら、これ以上校舎を探しても無駄である。しかし果たしてそう決めつけていいものだろうか。
「おい、芹沢!」
 背後から誰かが名前を呼んだ。雅成は転びそうな勢いで急停止をした。
 振り向くと、友人の東出だった。驚きを隠せない表情がそこにあった。
「お前、もう大丈夫なのか?」
「何のことだ?」
 雅成は悪い予感を抱かずにはいられなかった。
「さっきステージでぶっ倒れた時には、さすがに驚いたよ。これから保健室へ行こうと思ってたところなんだ」
 不可解なことに、彼も校医と同じことを言う。反論するのが面倒に思われて、その言葉には答えず、
「麻希を見なかったか?」
と訊いた。
「マキ? 誰のことだい、そりゃ?」
 やはり悪い予感は的中した。東出も校医と寸分違わぬことを言う。明らかにこれはもう偶然とは言えなかった。
「俺と一緒にコンサートに出場した、篠宮麻希だよ」
「はあ?」
 東出は狐につままれたような顔をした。
 またしても「麻希」という名は響かないようだった。
 しかしそんな筈はないのだ。彼には麻希を紹介して、歌声まで聞かせている。あの時彼女を絶賛していたではないか。
 その点を質すと、東出は訳が分からないという複雑な表情を浮かべて、
「最初からお前は、一人でギターを弾くって言い出したんだぞ」
と言った。
「篠宮麻希という名前に心当たりがない、そう言うんだな?」
 雅成は強い調子で確認した。
 東出は怪訝そうに頷いた。
 やはり校医と同じである。これ以上議論を続けても時間の無駄だ。
 麻希の身に何か大変なことが起きている、雅成はそう直感した。何故か分からないが、自分に残された時間はさほどないような気がした。
 行動を起こすなら今しかない、雅成は自分自身に言い聞かせた。
 どうやら麻希の存在は人々の記憶から消えてしまっている。彼女がこの学校にいたという事実がすっかり失われている!
 そうだ、教室だ。雅成は思いついた。
 麻希は隣の席に座っていた。あの場所に何か証拠が残っていてもおかしくはない。
 とにかく教室へ急ごう。
 雅成は東出を突き飛ばすようにして、教室への階段を駆け上がった。
 肩で大きく息をしながら、教室の扉を開いた。中には誰もいなかった。
 自分の座席に駆けつける。
 この隣に春からずっと麻希が座っていた。机の中を覗いてみたが何も残されていなかった。
 雅成は突然ひらめいて、教室の後ろへ向かった。誰かの机の角で足を打ちつけた。しかし痛みを感じている暇はない。
 生徒名簿である。
 それはいつも教室の後ろに貼ってあった。提出物を管理するための一覧表である。
 震える指を滑らせて麻希の名前を探した。
 驚くべきことに、何度見直しても篠宮麻希という名は存在しなかった。
 雅成は戦慄した。
 自分がここに立っていることすら信じられない。麻希の存在がないのであれば、自分の存在はどう説明するのだ。
 雅成だって彼女同様、葬り去られてもおかしくはない。しかしどうやらそうなってはいないらしい。
 これは一体どういうことだろう。
 麻希の存在だけが、跡形もなく消え去っている。この調子では、おそらく担任や同級生、あるいは麻希をいじめていた連中でさえ、彼女を知らないと言い張るに違いない。
 疑問はもう一つある。
 どうして自分だけが、彼女のことを記憶しているのだろうか。
 しかしそれも時間の問題かもしれない。
 とにかく今すぐ行動を起こさなければならない。もたもたしている余裕などないのだ。
 そうだ、麻希の自宅に行ってみよう。
 彼女から暑中見舞いを貰っていた。それは机の上に立て掛けてある。そこに彼女の住所が記されていた筈だ。
 黒い霧が背後から迫ってくる恐怖。
 それは次々とあらゆるものを飲み込んでいく。この先、自分だって例外ではない。
 もう一刻の猶予もない。
 雅成は自宅に向かって学校を飛び出した。

20

     20

 麻希、君はどこへ行ってしまったんだ? 俺を置いていかないでくれ!
 雅成の魂が叫ぶ。
 このまま離ればなれになるのは嫌だ。
 どうしてもっと早く自分の気持ちに気づかなかったのだろうか。
 麻希のことが大好きだったのに、その感情を抑えていた。本当の気持ちを素直に伝えられなかった。歌の才能を生かし、芸能界へ進む彼女が、自分とはあまりにもかけ離れた存在に思えたからなのだ。
 でも、今は違う。
 二人がどれだけ不釣り合いであろうと構わない。
 この世で誰よりも麻希が好きだ。ただずっと傍に居たい、そんな気持ちが雅成の魂を揺さぶる。
 雅成は自宅の玄関を乱暴に開くと、靴を脱ぐのももどかしく、階段を駆け上がった。途中足がもつれて転びそうになった。
 勉強部屋になだれ込んだ。息を切らしながら、机の上を見た。
 あった。麻希からの暑中見舞いは、確かに存在していた。
 雅成は救われた気持ちになった。もしかすると、この葉書も消滅したのではないかと一抹の不安があったのだ。
 彼女の住所が確かに書いてある。とにかくここへ急ごう。そして麻希に会おう。
 住所は電車で数駅先のようだった。いつか麻希と一緒に海へ行ったことがあった。その先に彼女の自宅があるらしい。
 雅成はタクシーを呼び、駅まで走らせた。
 どうしても心が焦る。見えない敵と戦っているようだ。
 今日中に麻希に会っておかなければ、このまま二度と会えないような気がする。
 夕方の駅前は学生や会社帰りの人たちでごった返していた。その人波をかき分けるようにして、ホームへ上がった。
 そう言えば、初夏に麻希の後を追って、このホームに来たことを思い出した。あの時、確かに麻希はここに立っていた。雅成にはひどく昔の出来事のように感じられた。
 混雑した列車に乗り込む。
 つり革に掴まり、揺れる車両に身を任せて、車窓を眺めた。
 街を出て、しばらくすると視界一面に海が広がった。夕日が水面を赤く染めている。砂浜に打ち寄せる波が、白いカーテンのようにひらひら舞った。
 麻希と一緒に砂浜を歩いたことを思い出す。
 彼女は波とたわむれて、楽しそうにくるくる踊っていた。
 あの姿は、もう見ることができないのだろうか。

 雅成は列車を降りた。
 思ったよりも、はるかに小さな駅だった。それでもこの時間、降りる人は意外に多かった。
 駅舎を出ると、すぐ目の前にタクシーが停まっていた。雅成は吸い込まれるように乗り込んだ。葉書の住所を読み上げると、運転手はすぐさま車をスタートさせた。
 心臓の鼓動が高鳴る。
 麻希には、顔のそっくりな双子の姉がいるという。自宅にその姉と一緒に住んでいるのだろうか。
 そうだった、今思い出した。
 麻希から双子の姉の存在を聞いた時、彼女から発散される不思議な雰囲気は、それで全て説明できるような気がしたのだ。
 顔の見分けがつかないほどよく似た姉が、実は一緒に学校に通っていて、二人が要所要所で交代して自分の前に現れるのではないかと考えた。
 今回の麻希が消えてしまったのも、それでうまく説明ができるのではないだろうか。
 案外自宅に行けば、姉妹二人が自分を迎えてくれそうな気もする。
 ふと気づくと、エンジンが悲鳴を上げていた。タクシーは今、人気のない坂道を登っているのだった。
 車が停まったのは、山の斜面を切り開いて立つマンションの前だった。
 雅成はエントランスに入った。
 部屋番号を押すと、ブザーが鳴って、インターホン越しに喋れるようになる。
「どなたですか?」
 麻希ではない声がした。母親かもしれない。
「芹沢雅成と申します。麻希さんの同級生です」
「えっ?」
 一瞬不穏な空気が流れた。麻希につきまとう不審者と疑われたか。
 しかしおそらく自分の姿は室内からモニターされている筈である。学生服を着た雅成は決して怪しい人物には映らないだろう。
「麻希さんは帰っていますか?」
 わざと落ち着いた声で訊いた。
「麻希ですか?」
 応対する声の主は、一層怪訝さを増したようだった。感嘆とも絶望ともつかぬ複雑な抑揚がそこには感じられた。
 それでもしばらく沈黙した後、
「分かりました。とりあえずどうぞお上がりください」
 エントランスのロックを解錠する音がロビーに響き渡った。
 雅成はエレベーターで目的の階まで上がった。
 ドアの前に立つ。緊張が一気にピークに達した。麻希は帰っているのだろうか。
 呼び鈴を押すと、ドアがゆっくりと開かれた。
 そこには中年と思われる女性が優しい物腰で立っていた。これが麻希の母親だろうか。
「初めまして、芹沢雅成です。麻希さんにお会いしたいのですが」
 それを聞いた女性の顔は、一瞬歪んだように見えた。
 いや、それよりも次に彼女の発した言葉が、雅成を放心させた。
 この世のあらゆる道理が、一瞬に音を立てて崩れ始める予感。
 これまで自分は一体何を根拠に生きてきたのか、激しく頭が混乱した。
 その中年女性は、
「初めまして、私が麻希の双子の姉の麗奈です」
と言った。

21

 雅成の目の前には、中年女性の姿があった。
 狭い廊下で行く手を阻むように立ちはだかっている。照明がやや逆光になっていて、顔の表情がはっきりと読み取れない。
 明らかに自分よりも一回りは上の年齢である。それでも品性の感じられる顔立ちに思える。生きる世代の違う者同士が今、玄関で睨み合っているのだった。
 たった今彼女は双子の姉だと名乗った。
 少なくとも雅成にはそう聞こえた。これは聞き違いだろうか。
「どうぞ、お上がりください」
 思考が停止してしまった雅成を揺り動かす声だった。
 校医や東出と同じように、まさかこの麗奈という女性も麻希のことを葬り去るつもりだろうか。
 この世の中で、自分一人だけが騙されている、そんな気分になった。自然と身体が硬くなった。
 身内であるはずのこの女性までも、麻希の存在を隠そうとしたら、どう反論すればよいだろうか、雅成は靴を脱ぎながら考えた。
 しかし今、雅成には打つ手がないのだった。
 まずは一刻も早く麻希と再会したい。そのためにはこの女性の言葉に素直に従うしかない。
「こちらへ」
 雅成は姉に導かれるまま、中へと進んだ。
 そこは暖色の照明に包まれた応接間だった。雅成はソファーに腰掛けた。
 周りを見回す。
 ここに麻希が住んでいる筈だ。きっと彼女が暮らしている証しがある。
「ちょうど今コーヒーを淹れるところだったの。あなたもいかが?」
 麗奈は雅成のただならぬ緊張に気づいたのか、わざとのんびりした調子で訊いた。
 雅成はそれには何も答えず、麗奈の顔をまじまじと見た。
 彼女の顔に麻希の面影が感じ取れる。
 麻希が歳を重ねていくと、ちょうどこの女性のような顔になりそうだった。麗奈が麻希と血の繋がった家族であることは、どうやら間違いなさそうだった。
 しかし二人が双子というのは、まるで納得できない。
 歳の差という問題がある。
 もしも麗奈が自分を騙そうとしているつもりならば、まんまとその策略に乗ってはならない。雅成は拳を握りしめた。
「麻希さんはどちらに?」
 どんな答えが返ってきても驚かないという心の準備はできていた。
 麗奈は笑みを浮かべて、
「残念ながら、妹はもう何年も帰ってきていないのですよ」
と言った。
 やはり嘘である。
 それでは麻希は一体どこに暮らしているというのか。毎日どこから学校へ通っているというのか。
 なぜ家族である筈の麗奈までも、麻希のことを隠そうとする?
 みんなで口裏を合わせて、自分を欺こうとしている。それは一体何のために?
 自分は悪い夢を見ているのだ。
 頭の中が濃い霧に包まれているようだ。自分はこれからどこへ向かおうとしているのか、それすら分からない。とにかく今は、麻希本人と直接会うしかない。
「それにしても麻希という名は、久しぶりに聞いたわ」
 麗奈は感慨深げに言った。雅成にはその言葉の意味が分からなかった。
 彼女の目には、雅成の顔は映っていないようだった。どこか遠くを見るような目で、懐かしさに身を委ねている風だった。
「茶化さないで正直に答えて下さい」
 雅成はもどかしくなって、ぴしゃりと言った。
 麗奈はふと我に返ったように視線を戻すと、静かに答えた。
「もう随分前に、妹は死にました」

 麗奈は無感動にそう告げた。それは無責任とも取れる口調だった。
 雅成は再び言葉を失った。
 どうして誰も彼も自分と麻希を引き離そうとするのだろうか。二人の再会はそれほど具合が悪いことなのか。
 つい数時間前までは、麻希と同じ空間を共有していたではないか。彼女は優しく声を掛けてくれた。手を伸ばせば彼女の頬に触れることだってできた。
 雅成は今や絶望の縁に追いやられていた。
 どうもがいても自分には逃げ場がないように感じられた。もはや返す言葉が見つからない。世界中に麻希の存在を否定されては、どうすることもできない。
 目の前のこの女性に、自分が望む真実を語らせる方法はないものだろうか、雅成は弱り切った身体でただそれだけを考える。
 奥のキッチンからポットの沸騰を知らせるメロディーが聞こえてきた。
 その音に急かされるように雅成は反撃に出た。このままでは心の居場所がない。早く落ち着く先を見つけたかった。
「そんなの嘘だ」
 雅成は麗奈にではなく、ほとんど自分に言い聞かせるように叫んだ。麻希の存在を必死に隠すあまり、彼女を死んだことにするなんて、いくらなんでも酷すぎる。例え姉でも許せなかった。
「僕は今日の昼まで、麻希さんと一緒にいたんです。彼女は死んじゃいない。毎日同じ教室で、隣同士、机を並べていたのです」
 そうは言ってみたものの、まるで心に晴れ間が見えてこない。
 何故だろう。もはや自分に自信が持てなくなっていた。しかし麻希は確かに自分の目の前にいたのだ。これ以上明確な事実はない。
 麗奈は顔の表情を少しも変えることなく、黙って雅成の言葉に耳を傾けていた。
「もう少し詳しく聞かせて」
 麗奈は静かにそう促した。
 雅成は思い出すように語り始めた。
「今年の春、桜並木の下で麻希さんと出会いました。最初、彼女は僕を避けていたようです。いや、僕だけではなく、クラスの誰とも交わろうとしなかった。
 彼女は教室でいつも孤独でした。そんな彼女を見ていると、どこか自分と同じ境遇のように思えてきて、いつしか彼女のことが気になり始めたんです」
 麗奈は一切口を挟まず、頷いて聞いている。
「夏休み前、彼女の歌の才能を知って、文化祭のコンサートに一緒に出場しないかと誘いました。学校中に彼女の本当の実力を見せてやりたいと思ったからです。
 彼女は承諾してくれました。それで自分も不慣れなギターを一生懸命練習しました。
 夏休みに入って、彼女の口から、実は歌手デビューするかもしれない、と告げられました。どうやら麻希さん自身は、芸能界に進むかどうか迷っているみたいでした。家族にも相談した、と言ってました」
 雅成はそこまで言うと、麗奈の顔をまじまじと見た。
「私が何て言ってるか、あなたに話しましたか?」
 彼女は強い視線を投げ返してきた。
「両親は賛成しているのに、姉は反対しているって」
 それを聞いて、彼女は肩を揺らすようにして笑った。
「それで?」
「それで今日がコンサートの日だったのです」
「なるほど、結果はどうだったの?」
 麗奈は食い入るように訊いた。
「実は昨日色々とあって、麻希さんは風邪を引いてしまったのです。だから、思わしくない結果になりました」
 雅成は言葉を慎重に選んだ。
 麻希が一部の女子から虐められていたこと、タバコを吸っていたこと、今日のステージで倒れたことなどは言わなかった。
「なるほど」
 麗奈は短く言ってから、ソファーを立った。
「ちょっと待っててね」
 そう言い残して、彼女は隣の部屋へと消えていった。
 そしてしばらくして戻って来た。
「これをどうぞ」
 雅成は分厚いアルバムを手渡された。両手で受け取ったが、それはずっしりと重かった。
「コーヒーを淹れてきますので、どうぞごゆっくり」
 麗奈がその場を離れると、雅成は手にしたアルバムをそっと開いてみた。

22

 そのアルバムには、ある女性の成長記録が収められていた。
 生まれたばかりの双子。二人の赤ん坊は、まるで鏡に映したようにそっくりである。
 ページを繰る度に、園児、小学生、中学生と二人の娘は成長していく。たまに独りで写った写真もあったが、そのほとんどは二人が並んでフレームに収まっていた。
 しかし途中から、カメラは片方の少女だけを追うようになる。
 背がすらりと高く、髪の長い少女。間違いなかった。
 篠宮麻希である。
 さらにページをめくると、舞い散る桜の中、校門を背に一人の少女が立っていた。口を真一文字に結び、じっと正面を見据えている。高校生活に対する期待と不安が入り交じった表情である。
 高校に入学したばかりの麻希の姿がそこにあった。 
 この風景には見覚えがある。
 毎朝通り抜ける校門である。後ろに見えているのは雅成の通う学校だった。
 しかしどこか妙である。
 麻希の着ている制服に違和感を感じる。そう、違うのだ。この制服は雅成の学校のものではない。
「制服が今と違うでしょ」
 知らぬ間に麗奈が盆を持って、すぐ横に立っていた。
 それからコーヒーカップを二つテーブルに置いた。
 まさか、そんなことがあるものか。
 雅成の前では、彼女はみんなと同じ制服を着ていたではないか。
 もう一度写真に目を落とす。これは近年撮られたものではないのか。とすれば、麻希が高校へ入学したのはもう何年も前ということになる。
 麻希は一体何歳なのか?
 雅成はアルバムをしっかり持ち直して、先頭のページまで戻った。
 最初のページに、この世に生を受けた双子の姿があった。そこに小さく生年月日が添えられている。
 雅成は目を疑った。
 まるで年号が一致しない。自分の生年月日とは十年以上の隔たりがあった。
 これは一体どうしたことか。
 麗奈の言う通り、麻希は過去の人なのか。
 これは自分の理解を超えている。もはや世の中の理屈は、麻希に関しては通用しないようだった。
 言葉が出なかった。
 では、今日の昼まで一緒にいた、あの少女は誰なのか。
 答えを見つけることができないまま、雅成の手はページを元のところへ進めていた。まだ分厚いアルバムは半分も進んでいない。この先に答えがあるのではないか、すがるような気持ちだった。

 高校時代の写真は圧倒的に数が少なかった。
 突然、私服姿の麻希が台紙を埋めるようになる。マイクを片手に歌を唄っている写真が一気に押し寄せてきた。
「妹は、高校二年の夏に中退したの。ある音楽プロダクションにスカウトされていてね」
 いつの間にか雅成のすぐ横に腰掛けていた麗奈が、そう説明した。
 その言葉を裏付けるかのように、それ以降の写真は全て、華やかに彩られた世界が続く。
 刺激的で派手な色合いが彼女を取り囲んでいる。そこには自然な風合いはまるで感じられない。人工的に彩られた商業写真である。これまで彼女が写っていた写真とは一変していた。
 そこには日常生活とは無縁の異質の空間が広がっている。
 それまで自然体だった麻希も、徐々に商品として変貌を遂げていくのが分かる。
 確かに芸能人は商品である。これはもはや個人の記録ではない。スターの生写真が散りばめられた写真集に過ぎない。
 雅成はどこか寂しい気持ちになった。もう写真の中でしか、彼女とは会えないのだろうか。
 しかしそんな中にも、プライベートな写真が見つかった。
 プロダクションの事務所で撮ったものだろうか、恰幅のよい中年男性と写ったものや、高級料理店で芸能人らしき若い連中と談笑しているものもあった。
 アルバムの最後には、麻希のサイン色紙やCDが挟んであった。それらは決まって麻希の笑顔が印刷されている。それらは立派な商品であった。
 雅成は複雑な気分になった。
 果たしてこれは自分のよく知っている麻希なのだろうか。それともまるで違った人格の麻希なのだろうか。
 CDジャケットには、「紀美山紫乃」という文字が躍っていた。
 しかしそれは雅成にとって何も響かない名前だった。やはり自分にとって、麻希は麻希でしかない。
「それね、『きみやましの』って読むの。『しのみやまき』という文字をバラバラに並び替えたものなの」
 雅成は複雑な気分でアルバムを閉じた。
 麻希はどうやら、この麗奈と双子の姉妹であることに間違いない。そして彼女は高校を中退して芸能界へ進んだ。
 ここまではよい。問題は、自分の目の前に現れた麻希である。彼女は一体何者なのか?
「紀美山紫乃さんは、今はどうしているのですか?」
 雅成はようやくそんな質問を発した。今はとにかく手がかりが必要だった。麻希についてどんなことでも知りたいのだ。
「妹が芸能人として成功したか、ってこと?」
 確かにそれも知りたい。
 だが一番の興味は、彼女が今どこにいるのかということである。しかしそれを説明するのが少々面倒に思われて、雅成はそのまま頷いて見せた。
「デビューしたての頃はちょっとはチヤホヤされたんだと思う。誰だって最初は物珍しいものだから。
 でも、あの程度の歌唱力では、所詮芸能界では生き残れない。売れるには、才能よりもむしろ個性的なキャラクターが必要なの。あの子のように引っ込み思案で、人目を気にするような性格では駄目。
 人を押し分けてでも、自分をアピールするような、そんな図々しさが必要なのだと思う。とにかく他人より目立たなければ、売れやしないわ。
 所詮、妹には無理だったのよ。姉の私にはよく分かっていた。だから私は最後まで芸能界入りには反対したのに」
 麗奈の軽いため息が漏れた。
「麻希さんが死んだって、本当なんですか?」
「さっきは勢いでそんなこと言ったけど、姉としてはもちろん信じたくはないのよ」
 その言葉に雅成の心が動いた。
 やはり彼女は死んではいない。絶望が希望に変わる瞬間だった。
 彼女は生きている。
 そうだ、当たり前のことを忘れていた。今日まで一緒に学校生活を過ごしてきたではないか。
「妹は芸能界で行き詰まって、相当悩んでいたみたい。どんどん仕事も減って、終いには自分の存在価値すら見い出せなくなっていたのだと思う。それで、ある時突然失踪したの」
「失踪?」
「そう、行方不明。事務所の方からも何度も連絡があったけど、ここには戻ってきてないの。
 事務所の意向で、紀美山紫乃は芸能界を引退したことになってる。
 その方がどちらにも傷がつかなくていいらしいのね。でも、結局事務所は売れない歌手を一人芸能界から葬り去っただけのこと。
 後から聞いた話では、同じ事務所の無名タレントと駆け落ちしたという噂もあったみたいだけど、真偽の程は分からないわ。
 売れない者同士、どこか知らない町で密かに暮らしているのかもしれないし、一緒に自殺したのかもしれない」
 雅成には言葉もなかった。
「でもバカよ、あの子は。一人で悩んだりせず、私に相談してくれればよかったのに」
 いつしか麗奈は涙声になっていた。

 雅成はうつむいて一人考えた。
 そういうことなら、麻希は自ら命を絶っているのかも知れない。自分の知っている麻希は、実は亡霊に過ぎなかったのだ。
 麻希の姿は幻覚だったということか。それにしても雅成には信じることなど、到底できなかった。
 麻希は確かに生きていた。
 髪を揺らして笑う顔や、歌う時の真剣な眼差しは、雅成の目の前にはっきりと存在していた。手を伸ばせば、彼女の温もりに触れ、重ね合わせた唇もしっとり潤っていた。
 やはり麻希は自分にとって、現実だったのだ。
 いや、それだけではない。教師や生徒らにも彼女の姿は見えていた。
 死んでからも、麻希には人並みの高校生活を過ごしたいという強い願望があった。芸能界を急ぐあまり、経験できなかった高校時代が諦め切れなかった。
 芸能界で挫折を味わい、自暴自棄になった時、置き忘れてきた普通の生活への憧れは、より一層強くなったことは想像に難くない。
 その強い願いが、彼女の魂に命を吹き込んだのかもしれない。
 春、新学期に合わせるように、麻希は二年生のクラスに降り立った。偶然にも自分の隣の席に座ることになり、彼女の高校生活が始まった。
 そして今日、突然学校を去っていった。同時に人々の記憶からも消えていった。
 麻希は二度目の高校生活をどんな気持ちで過ごしていたのだろうか。
 今日のコンサートの失敗が、芸能界での挫折と重なり合ったのかもしれない。それが第二の高校生活に幕を引くきっかけになったのだろうか。
 姉の言う通りだと思う。
 麻希はバカだ。どうしていつも一人で悩んでるんだ?
 その昔、双子の姉がそうであったように、今度は雅成が助けてやれた筈である。どうして心の内を明かしてくれなかったのだろう。
 ああ、そうか。今やっと分かった。
 雅成は麻希にとって頼りない存在だった。二度目の高校生活はそんな弱い人間ではなく、もっと強い人間が登場して、彼女を成功に導いてやるべきだった。
 虐められ、無視され、自分の得意とする歌さえも聞かせることができなかった麻希。
 結局、そんな彼女を助けてやれなかったのだ。
 雅成の目には、自然と涙が湧いた。
 (ごめんな、麻希。力になれなくて)
 静かな応接間には、麗奈と雅成の涙をすする音だけが響いていた。

23

 どれだけ時間が経ったのだろう。
 雅成は涙を拭って、ソファーを立った。
 麗奈ももう泣いてはいなかった。
「それじゃ、そろそろ帰ります」
「そうですか、せっかく来て頂いたのに、何のお構いもできなくて」
 麗奈の目は赤く腫れ上がっていた。それを見られたくないのか、顔を少し逸らすようにして言った。
 今日、久しぶりに麻希のことを思い出して、昔のように泣いたのかもしれない。麗奈は妹がいなくても、しっかりと生きている。深い悲しみはすでに乗り越えているのだろう。
「お姉さん、どうか気を落とさないでください。僕も麻希さんはどこかで無事に生きているような気がします」
 雅成はそう言っておいて、それはあながち嘘ではないのかもしれないな、と思った。現実世界にあれほど鮮明な姿を見せることができるなら、いつかひょっこり姉に会いに来ても不思議ではない。
「今日はありがとう。麻希のことを聞けて嬉しかったです」
「こちらこそ、ありがとうございました。麻希さんには大変お世話になりました。彼女がお帰りになったら、同級生の芹沢雅成が感謝していたとお伝え下さい」
 そう口にしながら、雅成は不思議な気分にとらわれた。麻希と年齢のかけ離れた自分が、一緒に高校生活を送っていたという話に、麗奈は何の疑問も感じないのだろうか。
 いや、長い間妹を待ち続けた麗奈にとっては、麻希の身に何が起きようとも、全てを受け止める心の準備があるのかもしれない。
 雅成は玄関のドアを開けた。
 外はすっかり夜のとばりが下りていた。
 ひどく足取りが重い。ここまで何をしに来たのだろうか。姿なき麻希を追ってきた。彼女はこの世に存在しないのだった。
 月明かりを頼りに山坂道を下っていった。見上げると、大きな満月が輝いていた。
 駅まで時間を掛けて歩いた。駅にはすっかり人気はない。薄暗い待合所で一人列車を待った。雅成の他には誰もいなかった。
 ついに麻希とは会うことができなかった。
 おそらく彼女は二度と姿を現すことはないだろう。雅成はそう自分に言い聞かせながらも、諦め切れない気持ちだった。

 待合所には扉がないので、容赦なく虫の音が入ってくる。人がいないと知ってか、我が物顔で大合唱をしている。いつの間にか、雅成はその鳴き声にすっかり包囲されてしまっていた。
 麻希のことを考えてみる。
 彼女は今、どこで何をしているのだろうか。
 意味もなく、雅成は狭い待合所をぐるりと見回した。ここで強く念じれば、ひょっとすると麻希が現れるのではないか、そんな気になった。雅成の口元は自然と緩んだ。
 彼女と再会したら、何と言ってやろうか。
 まずは、文句の一つでも言ってやらねばなるまい。姉を心配させるだけでは飽き足らず、自分までも心配させやがった。
 でもそれ以上に、麻希には謝るべきだろう。
 もっと楽しい高校生活を演出してやりたかった。それには雅成の力は遠く及ばなかった。隣の席に座る自分には荷が重すぎたのだ。
 どこか遠くで汽笛が鳴った。
 いや、待てよ。
 突然、雅成の頭に閃光が走った。
 自分は何か考え違いをしていないか。ずっと違和感を感じていたことがある。今までそれが何であるか分からなかった。
 そもそも新学期に、どうして隣の席が一つ空いていたのだろうか。この点がどうもしっくりこなかった。
 偶然空いていたその席に、篠宮麻希が滑り込んできた。それがきっかけで彼女と出会うことができた。そう信じて疑わなかった。
 しかし思えば、それは変ではないか。
 なぜなら、麻希がその姿を自由に出現させられる存在なのだとしたら、何もわざわざ空いている席を探す必要はない。我々人間とは違って、彼女は偶然を超越できる世界にいるからだ。とすれば、教室の誰の横に座ろうと、それは彼女の自由ではないのか。
 麻希の立場からすれば、出会う相手は意図的に選べたことになる。
 座席は偶然に空いていたのではない。麻希が自ら用意したのだ。彼女は数ある生徒の中から、雅成を選んだ。
 それには、一体どんな意味が込められていたのだろうか。
 雅成は春を思い出していた。
 時が流れるまま、無気力に生きていた。心に自由のない、まるで奴隷のような高校生活を送っていた。それは人を愛することも、また愛されることもない日々だった。
 そんな雅成の前に、篠宮麻希は現れた。
 彼女との出会いが、希望と勇気を与えてくれた。彼女の存在が、毎日の生活に活力を与えていた。ギターの特訓をして、彼女の才能に少しでも追いついたと実感した時、自信がみなぎった。
 そこで初めて、麻希を心から愛することができた。同時にそれは生まれて初めて人を愛した瞬間だった。たちまち彼女はかけがえのない存在となった。
 そうか、麻希は自分の生き方を変えるためにこの世に来てくれた。学校で最も駄目な後輩に目をつけてくれたのか。
 雅成の頬を涙が伝った。
 (麻希、ありがとう。君のおかげで僕は変わった。もう大丈夫だ。心から礼を言うよ)
 ホームに列車が入って来た。この駅の最終列車である。
 雅成は足取りも軽く、飛び乗った。
 時刻はもうすぐ午前零時を迎えようとしていた。長かった一日もどうやら終わりを告げていた。

 雅成は列車に揺られていた。
 この時間、車内に乗客の姿はほとんどない。つり革だけが一斉に同じ方向へ揺れて、その存在を主張していた。
 それにしても今日は大変な一日だった。昨夜はよく眠れなかったせいもある。今になって疲労感が身体中を包み込んでいた。
 ちょっと気を許せば、すぐさま深い眠りに落ちそうだ。雅成は小刻みに頭を振った。
 それにしても、今日のコンサートは失敗だった。もしこれが成功を収めていたら、麻希はこんなふうに学校生活に終止符を打たなくて済んだのだろうか。
 彼女は前日に風邪を引いたことが原因で、実力が発揮できなかった。体調さえ崩さなければ、全てはうまくいったのだろうか。
 雅成は考えを先へ進めようとした。しかし霧の中を歩いているような感覚しか得られない。先へ進んでいるのか、それとも同じ場所を巡っているのか、それさえ分からなくなる。
 どこか妙な具合である。自分も風邪を引いたのだろうか。列車に乗った辺りから、ひどく体調が悪くなったように思える。
 もう一度真剣に考えてみようと、身体に力をこめる。
 麻希はこの世の存在ではなかった。人間を超越した彼女が、失敗をやらかすことなんてあるのだろうか。
 いや、そうではなく、彼女は最初からコンサートで失敗する運命だったとは考えられないか。どう転んでも、別の人生を歩むことなどできなかった。
 例え風邪を引かなくても、何らかの違う要因が彼女の成功を阻んだことは十分に考えられる。いずれにせよ、彼女には再び学校を去る運命だけが用意されていたのだ。
 麻希はそうなることを知らなかったのだろうか。それとも最初からそれを承知していたのだろうか。
 駄目だ、頭の中で霧がますます深くなってきた。もう立ち止まるしかない。自分がどちらの方向を向いているのかも分からない。下手に動けば、思考の縁から転落してしまいそうだ。
 早く眠りにつきたいと思う。そうすれば、この不安感から一気に解放されるだろうか。
 そうしている間にも、雅成の頭の中には、次々と疑問が湧いてきた。答えを見つけるより先に、新たな疑問が幾重にも重なる。
 どうして自分は列車に乗っているのだろうか。この騒音が安眠を妨害する元凶なのだ。早く列車を降りてしまいたい。
 さっきまで誰かと話をしていた気がする。もう遠い昔のように思える。相手は誰だったのか、さっぱり思い出せない。とても大事な内容だった気がする。
 そうだ、麻希だ。
 雅成はやっとのことで思い出した。
 彼女の姿が遙か遠くになっている。どれだけ目を凝らしても、顔の輪郭さえ滲んでいる。
 いや、そんなことよりも今は眠りたい。とにかく身体を休めたい。
 雅成は薄目を開けて腕時計を見た。もう数分で午前零時だ。
 ああ、そうか。
 時間だ、時間のせいだと気がついた。
 麻希の存在が消えかかっているのだ。先生や同級生の記憶から出ていったように、彼女は今、雅成の中からも立ち去ろうとしている。
 このままでは忘却の勢いに流されてしまいそうだ。何とかしないと。
 雅成は学生服の胸ポケットから、生徒手帳を取り出すのももどかしく、真っ白なページを一枚はぎ取った。
 もう時間がない。
 揺れる車内で、鉛筆を走らせた。

「篠宮麻希が好き。麻希を忘れない、忘れたくない」

 目を見開くと、窓から漆黒の海が見える。
 そうだ、いつか彼女と一緒に来た海だ。
 まもなく列車はあの海に停まる。
 もう一度しっかりと海を見た。彼女があの波の中でくるくる踊っている。
 駄目だ、強く意識を持たないと、自分が消滅してしまう予感がする。大切な宝物を、誰かに取られるのではないかという恐怖感に襲われた。

 列車は海の見えるホームに滑り込んだ。
 雅成はふらふらと座席を立った。ここで降りなければならない。
 列車を降りて、駅舎を出ると海まで向かった。一度来た道である。足が覚えていた。
 誰もいない砂浜が開けた。波が寄せては返す音だけが耳に突き刺さる。
 なぜ、ここに来た?
 確か、誰かに会うためだった。それは誰だったのか?
 その人はここで待っているような気がした。しかしそれは思い違いだったか。
 頭が朦朧とする。許されるのなら、このまま砂浜に倒れてしまいたい。
 海辺には誰もいない。
 会うべき人もここにはいない。そもそも誰に会おうとしていたのか、それさえ思い出せない。どうやら場所を間違えたらしい。待ち合わせ場所はここではなかった。
 ああ、今思い出した。
 約束の場所は学校の体育館ではなかったか?
 確か体育館の裏手に階段があった。下からは見えない所に、その人はいつも座っていた。
 きっとそうだ。どうしてそんな所に座っているのか、いつも不思議に思っていた。もっと早く思い出すべきだった。
 これから学校の体育館まではどうやって行けばいいのか。それはこの砂漠から、何千里も離れた場所のように感じる。
 しかも今降りたのが最終列車なのである。こんな場所でタクシーが捕まるとも思えない。
 時間切れだ。今度ばかりはしくじった。
 その人はきっと今も、そこで待っている筈なんだ。でも、もう間に合わない。
 雅成は忌々しげに時計を覗き込んだ。
 時計の針は午前零時ちょうどを指していた。
 霧が晴れてくる。身体が楽になる予感。もうこれで何も悩まなくても済むのか。
 全てを忘れて…。

24

 すっかり日が落ちていた。
 芹沢雅成は愛車を母校へ向けて走らせていた。
 車のヘッドライトが街路樹を浮かび上がらせる。
 木々は寒さにじっと耐えて立っている。街を行き交う人も、コートの襟を合わせて足早に家路を急ぐ。その光景は本格的な冬の到来を告げていた。
 見覚えのある風景が徐々に現れ始めた。
 三年間通った道である。断片的ではあるが、高校時代の記憶がパズルのように復元していく。時間をどんどん逆行して、高校生に戻っていくようだ。
 ついにあの坂道へと差し掛かった。
 春は桜が咲き誇り、新入生を歓迎するアーチの役目を果たしていた。しかしこの時期はまるでその面影はない。
 当時はこの坂を歩くのが日課だった。少々感慨が湧いた。運動不足の今は、とてもできそうにはない。
 校門が見えてきた。
 住宅街に面したこの場所は、いつもならひっそりとしている筈だが、今夜だけは違う。投光器が大きな看板を浮かび上がらせているのだ。
「同窓会会場」の文字がはっきりと読める。
 雅成は車を減速させた。すぐさま誘導係の一人が駆け寄ってきた。
 雅成は窓を下ろすと、
「車は中に入れていいんですよね?」
と訊いた。
「はい。グランドに駐車してください」
 係員は笑顔で応じた。ちょっと車の窓を開けるだけで、身体は冷気に包まれた。外仕事は大変である。彼もおそらく同窓生なのだろうが、雅成にとっては知らない人物であった。
 会場には知った顔がいるのだろうか。少々不安な気持ちになる。
 グランドには、すでに二十台ほどの車が整列していた。ここでも別の係員が迎えてくれた。
「受付は体育館になりますので、どうぞ」
 寒空の中、白くぼんやりと浮かび上がった校舎は昔と変わりない。窓に明かりがないので、今はただ巨大な塊でしかない。
 反対側には体育館が見える。
 こちらには黄色い光が漏れていた。まもなく取り壊される建物にとって、今夜が最後の大仕事になるのかもしれなかった。
 雅成の少し先を二人の女性が並んで歩いていた。
 こちらの気配を感じたのか、二人が同時に振り返った。しかしどちらも雅成には馴染みない顔であった。彼女らも一瞥をくれただけで、すぐに前を向いてしまった。
 受付にはクラス幹事の谷山が、寒さに耐えるように身体を揺らして立っていた。
 昔の精悍な顔つきは随分と柔和になってはいたが、それでも目元は変わっていなかった。雅成にはすぐに彼だと分かった。
「芹沢君、お久しぶり」
 谷山の方から声を掛けてくれた。
「ほんと、お久しぶりです」
 雅成は軽く会釈をした。自然と笑みがこぼれた。
 谷山は胸につけてくれと、リボンの付いた名札を渡してくれた。
「芹沢君、今夜はギターを演奏してくれるんだろ?」
「いや、それはもう無理ですよ」
 雅成は笑いながら手を振った。
「まあまあ、その話は後でゆっくりと」
 どうやら谷山は余興として、雅成を担ぎ出すつもりでいるらしい。
 その時は仕方ない。彼もこの同窓会のために相当骨を折ったにちがいないのだ。そんな彼の頼みとあっては、無下に断る訳にもいかないだろう。
 ギターは実際に弾かなくても、構える格好だけで、場の雰囲気を盛り上げることはできるかもしれない。
 用意されたスリッパに履き替えて、体育館に上がった。
 学生時代ここへは何度も出入りしたが、今夜ほど豪勢に飾られているのを見たことはなかった。
 壁面には清潔なレースのカーテンが垂れ下がり、天井からは真紅のテープが体育館の四隅に向かって張られている。
 そしてクラスごとに設置された大型テーブルには、今シェフによって続々と料理が運ばれてくるところであった。
 すでに会場は大勢の人で賑わっている。
 精一杯着飾った女性たちや、名刺を交換し合う男性たち、中には産まれたばかりの赤ん坊を同級生に披露する者の姿もあった。
 雅成は指定のテーブルに就くまでに、名前こそ思い出せないが、いくつもの懐かしい顔に遭遇した。錆び付いていた記憶が今動き始める。十年という歳月を一気に飛び越えた。
 テーブルのあちこちから歓声が上がっている。その声は喧噪となり、体育館を揺らすほどであった。こみ上げてくる懐かしさが、みんなの声を自然と大きくしているのであろう。誰もが競って声を上げている。
 雅成がクラスのテーブルに落ち着くと、すぐ横から近づいてきた者があった。
「久しぶりだな」
 見ると、東出祥也だった。
 雅成は思わず感嘆の声を上げた。
「お久しぶり。昔とあんまり変わってないな」
「お前こそ、すぐに分かったよ」
 東出は大げさに笑った。
 不思議な感覚が身体を突き上げる。
 一瞬にして高校時代に帰ってきた。顔つき、体つきは当時とまるで違うのに、何故か意識だけは高校生のままなのである。
 東出とは、しばらく近況や仕事のことを話し込んだ。
 雅成は、当時あまり話した覚えがない女性たちからも積極的に声を掛けられた。
 こうして見ると、男性よりも女性の変貌は著しい。化粧が上手なせいか、学生時代の面影が見出せないのだ。
 それでも彼女たちとは上手く話を合わせることができた。昨日卒業アルバムで顔と名前を一致させておいたことが大いに役立った。
 今、遠くのテーブルではどっと歓声が沸き起こった。どうやらクラスの人気者が遅れて登場したらしい。
 雅成は、メモにあった「篠宮麻希」のことを突然思い出した。この人物は一体誰なのだろう。
 数人の女性にそれとなく当たってみた。
 しかし誰もが口を揃えて、そんな名前に心当たりがないと言う。やはり予想した通りの結果が返ってきた。
 篠宮麻希という人物には実体がなかった。
 メモに残された文字だけの存在である。案外、このメモは文化祭の演劇の台本か何かなのかもしれない。
 雅成はもうこの名前を忘れることにした。
 少なくとも、この会場に現れることはない人物である。
 そんな架空の人物よりも、今は当時の仲間とともに思い出話に身を委ねていたかった。

 各クラスがそれぞれ一つのテーブルに集い、昔話に酔いしれている。丸いテーブルには、様々な料理が所狭しと並び、その隙間をビール瓶が煙突のように何本も突き出していた。
 持ち寄った思い出を披露する者、笑い合う者、歓喜のあまり涙を見せる者、他のテーブルにわざわざ出張して、大いに盛り上がる者。楽しい時間が体育館の中をゆったりと流れていく。
 しかし雅成は心をすっかり解き放つほど、楽しむことができなかった。
 どうしても「篠宮麻希」が頭から離れないのである。級友との話が一段落する度に、自然と頭をもたげてくるのだ。
 麻希というのは高校時代の知り合いであることに間違いない。
 自ら好きだと言ってはばからない、この女性は誰なのか。その疑問が雅成の心に安すらぎを与えてくれない。彼女とはどこかで深く関わっている筈なのである。
「そう言えば、この体育館は今年で取り壊されるんですってね」
 ある女性がそんな話題を口にした。
「そうらしいね」
 周りのみんなも頷いた。雅成もそれは谷山から聞いて知っていた。
 だからこそ、今日の同窓会はこの体育館で行われているのだ。全国に広がる学校の耐震化は、この老朽化した体育館も見逃してはくれないらしい。
「みんな、この体育館の思い出って何かあるかい?」
 ある男性の問い掛けに、一同が顔を見合わせた。
「そうだなあ、思えばここは体育の授業や全校集会ぐらいにしか使ってないよな」
「あとは、入学式とか卒業式などの式典ぐらいじゃないかしら?」
 みんなも頷き合う。
「いや、でもこの中に一人だけ、個人的な思い出がある人がいるんじゃないか?」
 谷山が全員の顔を見回すように言った。まるでクイズを出す司会者のようである。
 全員が疑心暗鬼になって、黙ってお互いの顔を覗き合った。
 しかし雅成だけは、身体に電流が走った。次に来る言葉に身構えた。
「一体誰のこと?」
 女性の一人が降参とばかりに答えを求めた。
「芹沢君だよ。確か彼は文化祭のコンサートで、ギターの弾き語りをしたんだ」
「ああ、そうだった。覚えてる、覚えてる」
 その女性が身体を弾ませるようにして言った。
 同級生はみんな大人であった。
 これまで自己主張をせず、みんなと話を合わせるだけの雅成を今、話題の中心に引っ張り出した。花を持たせようという気遣いなのだろう。
 テーブル全員の視線が雅成に向けられた。
「芹沢君、今でもギターを弾くの?」
 隣の女性が訊いた。
 全員が無言で雅成の返答を待つ。
「いや、あれ以来、全然弾いてないんだ」
 雅成は顔を赤くして言った。
 東出はビールを注いでくれてから、
「それにしても、どういう経緯でコンサートに出ることになったんだっけ?」
と訊いた。
 雅成の引っ込み思案な性格をよく知る東出だからこそ、一層不思議なのだろう。しかし雅成自身もその答えを持ち合わせていない。
「もう忘れてしまったよ」
 雅成は正直に答えた。
 そう言えば、これも大きな疑問なのである。
 元来、人と接するのが苦手だった自分が、体育館のステージに立ってギター演奏をするとは到底考えられない。だがその出来事を境に、人付き合いもうまくなり、友達が増えたのも事実なのである。では、そのコンサートに出場するきっかけとは一体何だったのか?
「ねえ、芹沢君、よかったらここで弾いてもらえないかしら?」
 誰かが提案した。
 間髪いれずに周りから拍手が起こった。
 雅成は苦笑した。
「でも、ギターなんて用意してないよ」
「大丈夫よ、他のクラスから借りてきてあげるから」
 何ともお節介な話である。
 しかしそうなることは、雅成にも予想できていた。実は少し前、別のテーブルで、ギターの伴奏に合わせて歌を唄っているクラスがあった。うちのクラスもそれに負けじと盛り上がりたいのだろう。
「どうせなら、あのステージで唄ったらどう?」
 そんな声が上がった。
「さすがにそれは遠慮しておくよ。恥ずかしいからね」
 雅成は慌てて手を振った。
 そのやり取りを見ていた谷山が、
「いや、この体育館もこれで最後なんだから、やってくれないか?」
と言い出した。
 みんなも拍手で賛成した。
「参ったな」
「君一人じゃなくてもいい。希望者はステージに上がればいいんだ。それなら恥ずかしくないだろう」
 谷山は酔っているのか、少し赤い顔をして言った。

25

 思い出話が尽きることはない。
 誰もが競うように口を開いている。十年の空白を埋めるには、どれだけ時間があっても足りはしない。どのテーブルにも、笑顔が咲き乱れていた。
 しかし、雅成だけは違った。彼には緊張の糸が張り詰めていた。
 ある程度心の準備はしていたものの、いざ大勢の同窓生を前にギター演奏するのは気が引けた。もう十年も触っていないのだ。果たしてうまく演奏できるだろうか。
 しかし心のどこかでは、かすかな自信もあった。
 ギターを構えた途端、知らぬ間に手がするすると動き出し、観衆を唸らせる演奏をやってのけるような気もする。
 当時、血の滲む練習をしたからだろうか。今でも手の動きは覚えている。今日ここでみんなの高校時代の思い出に花を添えることができるなら、一肌脱ぐのもやぶさかではない。
 結局のところ、人生のターニングポイントは文化祭のコンサートだったような気がする。それを機に、強い人間に生まれ変わることができたのだ。では、弱い自分をステージに立たせた原動力、すなわち最初の一歩とは一体何だったのだろうか。
「芹沢君、そろそろいけるかい?」
 谷山がすぐ傍で訊いた。
 彼の手には、他のクラスから借りてきたアコースティックギターが握られていた。
 いよいよ逃げ場はない。心臓の鼓動が高鳴る。
 同窓会も佳境に入ってきた。ここで一つ、宴を盛り上げる役目を果たすのも悪くはない。
「いつでもいいよ」
 雅成は一度深呼吸をしてから言った。
「それじゃあ、舞台裏に待機してくれるかい。僕がマイクで君を紹介するから、適当な所で表に出てくればいい」
 谷山は手際がよかった。会社勤めをするようになってからも、彼はこうやって人を上手に仕切っているのかもしれない。
 雅成はギターを受け取ると、谷山と肩を並べて歩き出した。
 十年の時を経て、また体育館のステージでギターを弾くことになってしまった。これも運命というやつか。
 舞台裏は暗かった。そして埃臭い。おそらく当時と何も変ってないのだろう。しかしあの時は極度に緊張していたせいか、何も覚えてはいない。
 木製の階段に腰を下ろして、弦を調整する。
 軽く手を添えてみた。ポジションは大丈夫か。二度三度ストロークしてみる。思った通り、身体が覚えていた。当時のように上手くは弾けないだろうが、それでも十分余興にはなるだろう。
 ステージでは、谷山が聴衆を前に盛んに話し掛けている。
 雅成の位置からは、彼の肉声とマイクの声が二重になって聞こえていた。
「まず最初の演奏は、芹沢雅成君です。どうぞ盛大な拍手を」
 谷山が舞台裏に視線を送った。いよいよ出番である。
 雅成はギターを持って、ステージに上がった。
 さっきまでの緊張感が嘘のように消えていた。
 いつから人前に立つのが怖くなくなったのだろうか。こんな度胸が備わっていることに、今更ながら驚かされる。やはりあの時のコンサートがその後の人生を変えたと言っても過言ではない。
 雅成は会場を見回した。
 だだっ広い体育館には白いテーブルが整列し、それを囲むようにしてあの日の学生たちが、ステージに視線を向けていた。
 当時この会場はもっと多くの人で賑わっていた。今の何倍もの聴衆がいた。
 雅成は当時が懐かしく思えた。すっかり心は落ち着いていた。
 仮に演奏が上手くいかなくても、どうということはない。過去を共有した同窓生たちは、失敗も大目に見てくれるだろう。
「当時コンサートで弾いた、僕の大好きだった曲です。どうか聴いてください」
 そう言って、雅成はギターを肩に掛けた。そして力強く弦を震わせた。
 アコースティックギターの乾いた音色が体育館にこだました。
 自分の奏でるサウンドが、みんなの耳に届いている。雅成の腕に力がこもった。
 あの夏が蘇ってくる。
 寝ても覚めても、この曲ばかりを弾いていた。ここに高校時代の思い出が凝縮されている。今、自分の記憶が饒舌に語り始める。
 何て爽やかなメロディーだろう。
 誰の歌かは知らないが、この曲は心を軽くしてくれる。弾いていて、自分が励まされるような気がする。勇気が湧いてくる。
 旋律は川の流れのように淀みなく流れていく。久しぶりの演奏にもかかわらず、全ては身体が覚えているのだった。
 会場からは歓声が聞こえる。身体が宙に浮く感覚。
 孤独で無気力に過ごしていた学生時代。
 自分にはこれほど夢中になれるものがあったのか。今まですっかり忘れていた。
 しかし、一体誰のためにこの旋律を奏でているのだろうか。自分を突き上げる、この見えない衝動は何なのだろう?
 雅成はその答えを探すために会場に目を遣った。広い体育館を見渡した。
 気をとられたのか、それとも油断したからか、正しいコードが押さえられなかった。一瞬、曲の流れに逆らってしまった。慌てて視線を手元に落とす。
 その時である。
 移動した視線の先で、若い女性の姿をかすめ取ったような気がした。反射的に会場に視線を戻した。
 気のせいだったか。特に変った様子はない。
 一瞬目に映ったのは現役の女子高生のようだった。
 ここに集まった女性とは明らかに異質な存在だった。すらりと背が高く、白いブラウスに紺のスカートを穿いていた。
 目の錯覚だったか。
 気づけば、ステージには数人の男性が上がっていた。酔っているのか、お互い肩を組んで、身体を左右に大きく揺らして何かを歌っている。
 雅成は演奏を続けた。
 爽やかなメロディーが、次第に力強くなっていく。もうすぐサビの部分が訪れる。
 ここはどうしても女性の声が必要だ。
 それもレベルの高い歌唱力が条件だ。誰かこの力強い旋律を、見事に昇華させてくれる歌手はいないだろうか。
 いや、いる訳がない。
 彼女にしか無理なんだ。だってこれは、彼女の曲なのだから。
 でも、それは誰なんだ?
 曲はまもなく終わろうとしていた。このままずっと弾いていたい気分になる。
 何故だろう。演奏を続けていれば、そのうち彼女の声が合流してくるような予感がする。
 自分は待っているんだ、その声の主を。
 いよいよ、演奏は最高潮を迎えた。雅成は激しくギターに魂を送り込んだ。
 その時である。淡い声がどこからか聞こえてきた。
 もっとはっきり歌ってくれないか、見えない相手に向かって雅成は叫んだ。
 君は、誰なんだ?
 突然、雅成の頭の中で、ガラスが一斉に割れる音がした。
 ぼやけていた世界が、一瞬にして輪郭を取り戻した。そこには鮮やかな視界が開けていた。
 全てのことが手に取るように分かる。やはりこの世に理解できないことなど一つもないのだ。
 篠宮麻希だった。
 彼女がひっそりと立っていた。体育館の入口から半身を出すようにこちらを見ていた。長い髪が斜めに垂れている。小さく口を開いて、リズムよく肩を揺らして歌っていた。
 そうなんだ、雅成は今やっと理解できた。この演奏は彼女を招くためにあるんだ。
 麻希、そんなところにいないで、ステージに上がって歌ってくれ。
 ここからでも君の澄んだ声は僕の耳に届いている。さあ、もっと大きな声で歌ってくれ。
 やはりメモの女性は実在した。自分は間違っていなかった。笑いがこみ上げてくる。
 雅成はギターの演奏を続けていた。途中で止めたら、それこそ麻希が消えてしまいそうだ。
 ステージの上からもう一度麻希を見た。今度ははっきりと見える。白いブラウス姿は当時とまるで変らなかった。自分の目は正しかった。
 麻希の歌のパートは終了した。後は伴奏だけが残されている。
 雅成は全てを思い出していた。
 あの月夜の晩、麻希と会うことができなかった。彼女のいる場所は知っていたのだ。ただ、約束の時間にちょっと遅れただけなんだ。
 今夜は大丈夫だ。
 きっと間に合う。決して君を逃さない。絶対抱きしめてやる。
 雅成はステージの上から飛び降りた。手に持ったギターのどこかが床に衝突した。一瞬手が痺れる。しかしそんなことはすぐに忘れた。
 麻希が待っている。
 もたもたしている暇はない。あの日の二の舞は演じたくない。
 雅成は猛然と入口に向かって駆け出した。
 あの日の麻希を迎えるために…。

26

 雅成は体育館の端から端までを一気に駆け抜けた。丸テーブルを巧みに避けて、呆気にとられた同窓生たちをかき分けるように先を急いだ。
 彼らには一体何が起きたのか理解できなかった。まるで取り憑かれたように、雅成が突然走り出したのだ。みんなは唖然として彼の行方を追うのに精一杯だった。
 ついさっきまで、出入口に篠宮麻希が立っていた。
 舞台に立つ雅成を応援するように、じっと見守っていた。演奏の邪魔にならないよう、控えめな声で歌っていた。
 そうだったのだ、この曲は麻希のデビュー曲だった。
 雅成の心は晴れ渡っていた。今は全てが手に取るように分かる。
 十年前、教室の隣の席で過ごした少女。彼女の名前は篠宮麻希。雅成は彼女を心から愛していた。
 悪い夢から覚めたようだ。
 これまで錆びついて動かなかった記憶の歯車が怒濤の勢いで回り始めた。麻希の歌声が潤滑油となってその回転を速める。自分が正しい方向へ歩み始めた手応えを感じる。止まっていた人生がやっと先へ進み始めた。
 視界から麻希の姿はとっくに消えていた。それでも走るのを止めなかった。
 出入口を突破すると、勢い余って体育館の外へと転げ落ちた。痛みなど感じなかった。今は麻希を追いかけることに必死だった。
 闇夜に人影はない。月明かりがぼんやりと校舎の壁面を照らしていた。
 肩で息をしながら、周りを見回す。が、麻希はどこにもいない。
 しかし、雅成は慌てなかった。
 彼女の居る場所は分かっている。そこに行けば、今夜こそ必ず会える。
 雅成は急に向きを変えると、体育館の裏へと突き進んだ。そう言えば靴を履いていなかった。しかしそんなことはまるで気にならなかった。
 月明かりを頼りに腕時計を見た。午後十時を回ったところだ。まだ大丈夫だ。日付が変わるまでには時間がある。
 十年前の悪夢が蘇る。あの時は大切な人を手放してしまった。しかし今回は勝算がある。きっと彼女に会える。
 体育館の裏側に出た。
 そこは建物の陰になっていて、月の光が届かない場所である。暗くて先はよく分からないが、おそらく当時のままだろう。あの頃、麻希と会うためにいつもこの場所へやって来た。
 鉄の階段がシルエットを作って待っていた。
 当時のままである。雅成の心に安堵感が広がる。ひょっとしてこの階段が取り払われていたらどうしようかと、一抹の不安があったのだ。どうやらセーフだ。
 階段を上がる直前で立ち止まった。
 息を整える。今にも心臓が飛び出しそうだった。暗闇の中で胸の鼓動だけが響き渡っている。
 雅成はふと思い出して、持っていたギターをそっと壁に立てかけた。
 階段に足を載せる。
 段を上がる度、乾いた金属音が冬の夜空に吸い込まれていく。
 さっきから動悸が収まらない。年甲斐もなく思い切り走ったからだろうか、それとも麻希に会う前の緊張からなのか、よく分からなかった。
 階段は中央部分で折れ曲がっている。よって先まで視界は届かない。これも当時と変わっていない。
 階段を上がる足が震え始めた。
 果たして麻希は居るのだろうか。さっきまで自信があった筈なのに、いざとなると不安が募る。
 雅成は一歩、一歩踏みしめるように上っていった。
 麻希に会ったら、まずはどうしようか。
 訊きたいことが山ほどある。いや、その前に文句の一つも言わねばなるまい。今の今まで、よくも自分の記憶から消えていたものだ。十年前、彼女と別れた時どれだけ心配したことか。とても言葉では言い尽くせそうもない。
 階段の折り返し部分に達した。この先は頂上まで見通しが利く。もし麻希が居るのなら、ここではっきりと分かる筈だ。
 麻希は本当に居てくれるだろうか。

 雅成は願うような気持ちで顔を上げた。もしそこに彼女の姿がなければ、完全な敗北である。しかしそんなことはあり得ないのだ。絶対に彼女は居る。
 階段の一番奥、闇の中で薄く浮かび上がる人物があった。それは白いブラウスを着た少女だった。
 不思議なことに、彼女はあの日とまったく同じなのだった。
 ここへ辿り着くまでの十年の間、時が止まっていたかのようだ。果たしてこれは現実なのか、それとも過去の回想なのか、雅成の頭は激しく混乱する。
 白い半袖の少女はうつむいていた。
 誰かがこうして階段を上がって来たことに気がついていないらしい。
 そんな格好で寒くはないのだろうか、雅成は心配になった。
 風邪でも引いて、あの日と同じように自分から消え去ってしまうのではないかと不安になる。
 雅成は彼女が腰掛けている最上段までやって来た。
 すぐ目の前には、長い髪を無造作に垂らし、下を向いている少女の姿があった。彼女は眠っているように見えた。
 やはり彼女はここで雅成を待っていたのだ。
 自然と涙が湧いた。やはり自分は正しかった。今回は神に感謝する気持ちで一杯だった。
「麻希!」
 次の瞬間、思わず手を伸ばし、彼女の肩を揺り動かした。指先には確かに身体の温もりが感じられた。麻希はこの世に存在している。不思議な気分だった。
 彼女はゆっくりと顔を上げた。今やっと眠りから覚めたようだった。
 雅成は暗闇の中、目を凝らすようにして顔を覗き込んだ。
 思った通りの顔がそこにあった。
 やはり、篠宮麻希だった。あの日とまるで変っていない。
 本当に眠っていたのか、麻希はうつろな眼差しで雅成の方を見た。
「ああ、やっと来てくれたのね。待ちくたびれちゃった」
 あの日の声だった。
 凍っていた心が、溶け始める感覚。人生の中で最も大切な人をどこかに置き忘れてきた。今やっと取り戻せたのだと感慨が湧いた。
 今まで一体何をしていたのだろうか。十年という時を無駄に過ごしてしまった。自分の愚かさを悔やんだ。
 麻希は長い髪をかき上げた。教室でいつも目にした仕草だった。
 雅成の心臓はまだ激しく波打っていた。それで大きく一つ深呼吸をした。
「本当に、君は篠宮麻希だよね?」
「そうよ」
 彼女は髪を揺らして笑った。何故今さらそんなことを訊くのかと言わんばかりだった。そして身体を脇に寄せて、雅成が座れるほどの隙間を作ってくれた。
 彼女の隣に腰掛けた。鉄の階段がきしむ音を立てた。
 雅成は知らず麻希を抱きしめていた。
 彼女の身体はしなやかで、折れそうなほど細かった。両手で身体の温もりを確かめた。それは生身の人間そのものだった。
 不思議なことに、彼女は歳を取っていない。まだ高校生のままである。雅成だけが十年先に進んでしまった。
 しばらく無言で彼女を抱いた。何も言葉が思いつかなかった。
 言いたいことはたくさんあるのに、今は頭の中からすっかり消えてしまっていた。
 どれくらい抱いていたのだろう。
 麻希は何も言わなかった。ただ雅成に身体を預けていた。

 雅成は抱いていた手をほどいた。
「君に会いたかったよ」
「私も」
「今までどこに行っていたんだ? 心配したぞ」
「ごめんなさい」
 麻希はうな垂れるように言った。
 狭い階段で二人の身体が密着する。彼女の息遣いまで聞こえるようだ。
「本当に会いたかった」
 雅成はもう一度言った。そして今度は彼女の手を握った。
 麻希の小さな手は、氷のように冷たかった。
 それはこんな寒い場所に、じっと一人で腰掛けていたせいだろうか。そうだとしたら、それは自分の責任である。麻希を放っておいた年月の重みを感じた。
 雅成はそっと彼女の横顔を見た。夜風に髪がなびいている。
 つやのある肌や流れるような美しい髪は、まさに高校生のものであった。
 どこかに幼さを残しつつも、正面を見据える瞳、真一文字に結んだ口元は、すっかり大人の女性を感じさせる。と同時にどこか危なっかしい雰囲気が漂っている。
 早く大人の仲間入りがしたくて、背伸びをする時期でもある。そのため心と身体の均衡がとれず、地に足がつかない感じなのだ。
 雅成だって、今こそ落ち着いてしまったが、当時は似たようなものだった。
 自分がすっかり失ってしまったものを、麻希の身体から感じる。彼女はまるで歳を取っていないことが、正直羨ましくなった。
 麻希に会ったら、訊きたいことが山ほどあった筈なのに、うまく言葉が出てこない。
 横に座って眺めていると、やはり彼女は手の届かない存在であることを思い知らされる。彼女とは住む世界が違うのだ。
 再会できたことは確かに嬉しいのだが、それと同時に、二人を隔てる深い溝を感じるのだ。
 無言のまま二人は寄り添っていた。夜風が階段を吹き抜けていく。気温は低いが、麻希とならこのまま夜を明かせそうな気がする。
「君はずっとここに居たの?」
 やっとのことで、雅成は訊いた。
「そうね、私にもよく分からない」
 そう言うと麻希は小さく笑った。しかし雅成の方は、彼女以上に理解できないことだらけなのである。
「でも、今日でおしまいね」
「体育館が取り壊されるから?」
「そう、ここはあなたとの思い出が一杯詰まった場所なのにね」
「お姉さんの所へ帰ったらどうなんだい?」
 雅成は麻希の姉を思い出した。
「姉と会ったのね?」
「うん、君とよく似た姉さんだった。あそこへ帰ればいいじゃないか?」
 それならこの体育館がなくなった後でも、麻希と会えるのではないか。そんなことを漠然と考えた。
「それは駄目よ。だって姉に会わせる顔がないもの」
「いや、そんなことはないと思う。麗奈さんは君がいなくて寂しがっていたよ」
「今もそうかしら?」
「きっとそうだよ。もし麻希が一人で帰りにくいのなら、俺が一緒についていってやる。俺の車で送っていくよ」
 麻希は無邪気に笑った。
「雅成君、免許を取ったのね」
「ああ、もう随分前にね。麻希は?」
 そう言ってから愚問であることに気がついた。彼女はまだ高校二年生なのである。
「私は持ってない」
 彼女はため息をついて、
「みんなが羨ましいわ」
と言った。
「免許なんて、別に大したものじゃない。それより君の歌の才能の方が、よっぽど羨ましいけどな」
「いいえ、私にとっては、そういう普通のことが大事なの。みんなが当たり前に経験することをすっ飛ばして、大人になってしまったから。今になって後悔してる」
「そう言えば、無事に芸能界に入ったんだってね」
「ええ。おかげでまともに高校へ通えなかった。だからもう一度、学校生活がどんなものか、体験したいと思ってた」
「それで、俺たちと一緒にやり直したってわけか?」
「もし当時、芸能界へ進まず、普通の高校生をしていたら、一体どんな人生を歩むことになったのか、っていつも考えてた。そうしたらある日、桜の木の下に立っていたの」
 それは新学期初日、麻希と初めて出会った日のことか。
「君は何度でも人生をやり直せるのか? それともあの一回だけなのか?」
「あの時だけ、だと思う」
「それじゃ訊くが、俺の隣の席に来たのは、あれは偶然なのか、それとも君が仕組んだのか?」
「私には偶然だけど、もしかしたら必然だったのかも。神様が気を利かせて、あなたと巡り合うようにしたのかもしれない」
「どうして俺が選ばれたのだろう?」
 麻希は雅成を正面に見据えて、
「そりゃそうよ、私が好きになる人だったから」
と笑った。
 神の采配で、彼女の人生に雅成を加えてくれたのだとしたら、それは感謝の言葉もない。おかげで彼女を愛することができた。そして自分を大きく変えられた。
 雅成はそれを口にしようとして止めた。
 今は麻希の話をできるだけたくさん聞きたかった。おそらく今夜も別れの時間が来る筈だ。
「それじゃあ、コンサートの前に君が風邪を引いたのは、どうなんだ? あれは君の意図したことなのか、それとも神がもたらした結果なのか?」
「もちろん私にはどうすることもできない。現実の世界にいる以上、時の流れや神の意志に逆らうことはできないと思う。
 私は生身の人間ではないけれど、全知全能という訳ではないもの。むしろ、現実世界の隅っこでひっそりと生きていくのが精一杯。人より目立っては生きられない。だからあれは、偶然」
「ということは、あの日、もしかしたら風邪を引かずに、舞台で大成功を収める可能性もあったわけだ?」
「うーん、それはどうかしら?」
 麻希はあごに手を当てて、言葉を探すようにしながら、
「おそらく何があろうとなかろうと、成功しなかったような気がするな」
「つまり、最初から結果は決まっていたってこと?」
「そうね、たぶん。どう転んでも、私は運のない人生を歩むことになっているのよ」
 麻希は自嘲気味に言った。
 雅成は次第に分かってきた。
 もし二度目の人生がうまくいかないように定められていたのだとしたら、雅成が麻希のパートナーに選ばれたのには十分理由があるではないか。
 当時雅成は無気力で人に関心を示さなかった。
 麻希の生活を平凡なものにするには、まさにうってつけの人物だったのである。彼女に力を与えるほど強くもなければ、そんな意志もない。これ以上の人間は他にはいなかったのだ。
 しかし予想に反して、雅成は麻希を愛し、情熱的な生き方へと進路を変えた。
 もはや彼女の足を引っ張る存在ではなかった。そこで急遽、麻希本人に失敗の種を押しつけたのではないだろうか。
 麻希の話は続いている。
「昔からそうなの。いつだって自分が思い描いている結果にはならない。せっかく友達ができても、誤解やすれ違いですぐに別れてしまうし、自信のある歌だって、大事な時には失敗してしまう。だから何度人生をやり直したって、結果は一緒。私は成功できない人間なのよ」
 いや、それは違うと思う。
 確かに人生は、ある程度までは神の予定調和で動いているのかもしれない。
 しかし様々な人と出会い、愛情をもらったり、与えたり、また努力によって多少の融通は利かせられる。麻希と出会った雅成がそうであったように。
 しかし雅成はそれ以上反論はしなかった。まだ訊きたいことが残っていた。
 暗闇の中、突然腕時計の電子音が鳴った。
 雅成は飛び上がるほど驚いた。鋭い刃物で心臓がえぐられるようだった。麻希の手を一段と力強く握りしめた。
 大丈夫だ、麻希はまだここにいる。
 こうしている間にも、着実に時間は経過しているのだ。
 この世の終わりが近づいてくる恐怖。慌てて腕時計を確認する。時計の針は午後十一時を指していた。
「麻希、今夜も日付が変ったら、帰ってしまうのか?」
 雅成は最大の不安を口にした。もしそうなら一緒に居られる時間はあとわずかである。
「たぶん、そうなると思う」
「どこへ帰るんだ?」
「よく分からない。はっきりしているのは、いつまでも現実世界には居られない、ってこと」
「どうして?」
 雅成はすかさず訊いた。
「だって、あなたにはあなたの人生があるもの。私にはそれを邪魔する権利はない」
「邪魔なんて、そんなことあるものか。俺は君と一緒に居たいんだ」
「それは無理。実体のない私が、あなたの心の中に住み続けてはいけないもの」
「十年前、突然消えたのも、そのためか?」
 雅成は思い出していた。
 コンサートが失敗に終わって、泣くことしかできない麻希が哀れに思えた。しかしどうやって彼女を慰めてやればいいのか分からなかった。心に秘めた想いを打ち明けて、彼女を抱きしめることが精一杯だった。
 確かに彼女の言う通り、このままでは現実と幻想の狭間で自分の居場所が分からなくなる。やはり麻希と自分は結ばれないのか、そう薄々感じ始めた。
「最初から分かっていたの。私の存在が誰かの心に深く入り込んでしまったら、それで終わりなんだろうなって」
 雅成は麻希を愛してしまった。その結果、彼女は学校生活を続けられなくなってしまった。
 何というジレンマだろう。麻希と深く関われば、それだけ彼女の滞在時間は短くなっていく。
 やはり人生をやり直すことは制約が多すぎる。しかもほとんど得るものなどないではないか。
「だから私はなるべく人と交わらないようにしていたの。教室の隅っこで小さくなっていた。なるべく人と接点を持たないようにね。だって、もし友達ができれば、いつかお互い不幸になるでしょ」
 麻希と初めて出会った時、どこか取っつきにくいと思ったのはそのせいか。確かに彼女はクラスの誰とも打ち解けようとはしなかった。今になって納得した。
「今夜も時間が来たら、俺は君のことをすっかり忘れてしまうのか?」
 雅成は怖くなった。このまま別れるのは嫌だ。
「完全に記憶からなくなるの。でもそうでもしないと、その人の人生に傷を残してしまうから」
 十年前のあの日、麻希に関わった人間は彼女を忘却の彼方へと消し去った。
「でも、俺は麻希のことを最後の最後まで忘れなかった」
「それは、あなたの気持ちがそれだけ強かったからだと思う。あの時は私も辛かったのよ。でも仕方ないでしょ」
 麻希はいつしか涙混じりになっていた。
「でも、いつかまた会えるんだろ?」
「今夜は本当にお別れ」
「どうして?」
「だって、この体育館が取り壊されたら、もう他に会える場所はないもの」
「場所なんてどこだっていい。例えば、夏一緒に行った海岸だっていいじゃないか?」
 雅成は声を荒げて、彼女の手を揺すった。
「これ以上私が現れたら、あなたに迷惑が掛かるじゃない」
「俺は全然迷惑じゃない。むしろ君に居てほしいんだ」
 雅成は懇願するように叫んだ。
「そうだ、こうやって手を繋いでいよう。俺も一緒に君の世界へ連れて行ってくれ」
「わがまま言わないで。私だって辛いんだから」
 麻希は怒ったように言った。手をふりほどくと、細い指で涙を拭うようにした。

27

 体育館の屋根が突風に煽られてばたばたと揺れた。どこからか犬の遠吠えが聞こえてきた。
 麻希はこの世に存在しない。
 彼女とは住む世界が違う。今夜こうして密会できるのが不思議なくらいだ。そんな二人がいつまでも一緒に居られる筈がない。
 しかし、それならば、どうして神様は二人を引き合わせたのだろう。何か考えがあってのことではないのか。それは一体何なのだろうか。雅成は考える。
 強風が階段を駆け上がってくる。
 冷気が身体を包み込んだ。思わずくしゃみが出た。麻希との再会を果たして、さっきまでの緊張感がどこかに消えていた。途端に寒さを感じた。
「あら、雅成くん、靴を履いてない」
 麻希は驚いたように言った。
 その言葉につられて、足元に目を遣った。黒い鉄板の上に靴下の白さだけが際立っていた。道理で寒い筈である。
「君に会うために、慌てて走ってきたからね」
 麻希はくすっと笑った。
「君は寒くないのか?」
「私は平気よ」
 そうか、この世界では彼女は感覚を持っていないのだろうか。ふと、そんなことを考えた。
「でも、今にして思うと不思議なの」
「何が?」
「あなたと一緒に過ごした毎日は、ボールが当たると痛いし、雨に濡れると冷たいの。どうしてかしら、妙に現実感があった」
「そうだったの?」
 雅成は一瞬どう応えてよいか分からず、そんな返事をした。
「でもそのおかげで、私も人の心に触れることができた。虐められれば悲しくなるし、優しくされると心が温かくなるの。そうやって人の心はいつも揺れてるものなのね」
「人を好きになったりもできるの?」
 雅成は問い掛けた。
「もちろんよ」
 麻希は自信ありげに言った。
「そうだ、芸能界へ行くかどうか迷ってるって、いつか話してくれたよね?」
「ええ」
「あれは、どうして?」
「私に友達がいたら、どんな反応をするのか知りたかった。ごめんね、別にあなたを試したつもりはないのだけど」
「君としては、止めてほしかった?」
「そうね、そんな気もした。と言うより、私が芸能界に向いているのかどうかを、あなたに判断してもらいたかった」
「俺は止めなかった」
「そう、ちょっと意外だったな。結局、私は芸能界に進む運命なのか、って思った。あなたはきっと全力で止めるんじゃないかと勝手に思い込んでた」
「いや、俺には止められなかったんだよ」
「どうして?」
 麻希は不思議そうな眼差しで、雅成を見つめた。
「君に対して、ひどくコンプレックスを持っていたんだ。君には歌の才能があるけれど、自分には人に誇れる物が何一つない。そんな俺が君と対等に話せる訳がないだろう」
 麻希は黙って聞いていた。
「だからあの時は、ただ君を見守るしかなかった。本当は行くなって言いたかった。ずっと一緒に居てくれって心の中では叫んでた」
 雅成がそう言い終えても、麻希はすぐには口を開かなかった。何かをぐっと堪えているように見えた。
「あなたは素敵な人だった。もっと自信を持っていいと思う」
 雅成は黙って聞いていた。
「こんな風変わりな私に、温かい手を差し伸べてくれたじゃない。正直、最初は戸惑ったわ。私はいつも身勝手で、そのくせ人の評価や噂ばかりを気にしてる。あなたと一緒に居ると、そんな自分が恥ずかしく思えたわ。
 日々心が洗われるようだった。あなたの優しさが私を変えてくれたの」
 麻希は雅成の手を、柔らかな両手で包み込んだ。
「あなたが傍に居たから、楽しい高校生活を送ることができた。だからとっても感謝してる」
「でも俺は身体も強くないし、勉強も大してできなかった。だから麻希のことを羨ましく思っていたんだよ。もし自分に自信があったら、きっと君のことを引き留めたと思う。君が好きだからずっと一緒に居たかったんだ」
「ああ、人生ってうまく行かないものね。二人はもっと早くに出会うべきだったわ」
 麻希は夜空を見上げるようにして言った。

「最後に一つだけ聞かせてくれ」
 雅成は意を決して口を開いた。
「紀美山紫乃について教えてほしい」
 その名前は麻希の眠っていた心を呼び覚ましたようだった。途端に顔色が変わった。雅成を鋭い眼光で睨みつけた。
「紀美山紫乃」とは麻希の芸名である。
 姉の話によれば、反対を押し切って芸能界に入ったものの、彼女は売れなかったという。
 芸能界には楽しい思い出がないのかもしれない。それは彼女にとって、忘れたい過去なのかもしれない。
 実際、彼女は命を絶つという形で自ら幕を下ろした。
「紀美山紫乃の何が知りたいの? 彼女は自殺したのよ」
 麻希はぶっきらぼうに言った。
「君の姉さんから写真を見せてもらったよ。鮮やかに輝く世界がそこにあった。写真の中に君の笑顔を見つけた時、何というか複雑な気分になったんだ。
 俺は所詮、篠宮麻希しか知らないからね。その後、君がどんな人生を歩んだのかが気に掛かるんだ」
「だから、紀美山紫乃は自殺したって言っているじゃない。それで十分よ」
 麻希は怒ったように言った。
「いや、君は自分の人生から目を背けようとしている。さっき君は、自分のことを成功できない人間だって言ったけど、本気でそう思っているのか? 自己否定をするのは止めろよ」
「今更そんなこと言ってどうなるの? 失敗だったのは事実じゃない!」
「何をもって成功、失敗なんて言うんだ。どんな人生だって、君が生きた証じゃないか。どうしてそんなに自分を悪く言うんだ?」
 麻希は黙りこんだ。雅成の言葉の意味を深く考えているようだった。
「あなたには私の苦しみは分からないのよ。確かに歌手になったばかりの頃は、何をするのも楽しかった。毎日が初めて体験することの連続で、精神が充実してた。脇目も振らず仕事をこなすだけで精一杯だった。周りの目や声は一切気にならなかったわよ」
 雅成は口を挟まずに聞いていた。
「でもあの世界では、自分を変えないと駄目なの。私ぐらいの歌唱力を持った人なんて掃いて捨てるほどいる。ちやほやされるのは、最初のうちだけ。物珍しいからだわ。そのうち年とともに忘れ去られてしまう。才能、才能って言うけど、その程度の扱いなのよ。
 芸能界で成功するには、もっと自分に嘘をつかなきゃいけない。有力者にすり寄ったり、あるいは過度な自己主張をすることが必要。私にはそれができなかった。プロダクションからは、社交性に欠けるって怒られたけど、私はそんなことをするために、芸能界へ入った訳じゃない。
 でも、実際彼らの言う通りだった。同期の子たちはうまく立ち回って、どんどん上へ昇っていく。ただ歌のレッスンをして、実力を磨いているだけではダメだった。周りからはどんどん置いて行かれたの。結局、私は精神が幼すぎたのね。世間知らずだった」
「麻希には、友達がいなかったのか?」
「えっ?」
「そういう愚痴の一つでも聞いてくれる仲間はいなかったのか?」
 麻希は苦笑して、
「芸能人になったばかりの頃は、中学の同級生が一杯手紙や電話をくれた。でもそれは本当の友達じゃない。その証拠に、私が売れなくなった途端、誰も声を掛けなくなったから」
「業界に友達は?」
「ほとんどいなかった。同い年の子はみんなライバルだから、みんな本音を隠して、上辺だけで付き合ってるもの」
「でも、麻希には好きな人がいたんだろう?」
 確か彼女は若手の芸能人と駆け落ちしたと聞いている。そいつは麻希の心の支えになれなかったのだろうか。
「ああ、彼のことを姉から聞いたのね」
 麻希は納得するように頷いて、
「彼は何でもないの。ただ一緒に芸能界を逃げ出しただけ。おそらく彼はまだ生きていると思う」
「それじゃあ、麻希は自分の意志で命を絶ったんだな?」
「そうよ」
 雅成は複雑な気持ちになった。
 麻希はその男にそそのかされて自殺したのではなかった。麻希の心が弱かっただけなのだ。彼女はやはり若すぎた。
「君は、芸能界は恐ろしい世界だったなんて、考えているんじゃないか?」
「どういう意味か分からない」
「麻希の居た世界が特別ではないってことだよ。俺は芸能界のことはまったく知らない。平凡な企業に勤めているサラリーマンに過ぎない。
 学校を出て、入社したばかりの頃は会社を背負って立つ人間になれる気がした。でも実際はそんなことはないんだ。すぐに自分の限界が見えてくる。俺より能力のある者はごまんといて、気づけば、すっかり埋没してるんだ。
 でもね、例え下の方でくすぶっていても、同僚から信頼されたり、顧客から感謝されたりすると、とても嬉しくなるんだ。ああ、この人たちは俺を見てくれている。俺のファンなんだ、って」
「ファン?」
「そう、俺が勝手にそう呼んでいるんだけど。君だってファンがいたはずだ。どうしてそういう人のことを大切にしてやらなかったんだ?」
 麻希は放心しているようだった。
「俺は、紀美山紫乃っていう歌手は知らない。けど篠宮麻希の大ファンなんだ。そう、いつもドジばかりして泣いたり怒ったりで、一緒に居てやらないと心配になるんだ」
 麻希の頬に涙が伝った。
「だから自分のことを悪く言わないでほしい。君が生きていたのは事実なんだ。君が存在していたことには、きっと意味がある。
 例え君がそれに気づかなくとも、誰かが意味を感じてる。だから人生をやり直したいなんて考えなくてもいいんだ」
 果たして麻希は雅成の話をどれだけ理解してくれただろうか。何しろ精神年齢が止まったままなのである。彼女よりも年下だった自分も、気がつけば彼女を追い越している。
 麻希は肩を震わせて泣いていた。
 雅成はそんな彼女を抱き寄せた。
 麻希の心の叫びを聞いてやることができて満足だった。これで彼女もこの世に未練を残すことはないだろう。天国で悠々と人間の営みを眺めていればよい。
 しばらく肩を寄せ合って座った。何も言葉は交わさなかった。
 雅成の心の中では、麻希と別れる決心がついていた。

 麻希に身体を預けながら、いつしか夢を見ていた。
 教室の中だった。
 先生の話も聞かずに、麻希の横顔だけを見ていた。朝からこうして穴の開くほど彼女を見つめているのに、彼女はぴくりとも動かない。どうやってもこちらに振り向いてくれないのだ。
 何か彼女の興味を惹く方法はないものか。
 雅成はいきなり立ち上がると、音楽室からギターを持ってきた。まだ授業中だというのに、雅成は麻希の隣でギターを弾き始めた。曲はもちろん彼女のお気に入りである。
 授業が淡々と進む中、ギターの音色がこだまする。
 さすがの彼女も雅成のことを無視できなくなったようだ。さっきから笑いをこらえているのが分かる。視線は黒板に向けながらも、明らかに雅成に心奪われている様子である。
 クラスの視線を一身に浴びながら、雅成はギターを奏でる。
 そのうち麻希は根負けした表情で、笑顔を向けた。長い髪がふわりと舞った。
 ギターの伴奏に合わせて、彼女は歌い始めた。
 雅成の心は大きく揺さぶられた。

28

「ねえ、雅成くん、起きて頂戴」
 誰かが隣で身体を揺すっていた。
 いつの間にか眠っていた。目を開けても、今自分がどこに居るのかすぐには分からなかった。慌てて隣に目を遣ると、少女が座っていた。篠宮麻希だった。
 慌てて腕時計を見る。
 もう十分足らずで、日付が変わる。どうやら別れの時がきたようだ。
 麻希のことを忘れ始めていた。確か十年前の海でもそうだった。きっかり午前零時に、麻希は雅成の中から出ていってしまう。
 幸いまだ時間はある。
 何かすることがなかったか。そうだ、雅成は思い出した。
「麻希、最後にお願いがあるんだ」
 先に立ち上がって、彼女の顔を見下ろした。
 大きな瞳が先を促している。
「一緒にあの歌を唄ってくれないか?」
「いいわよ」
 麻希は満面の笑みを浮かべた。
 差し伸べた手をしっかり握ると、彼女は起き上がった。
 並んで階段を下りた。
 鉄の階段が和音を奏でている。もうこうやって二人して歩くこともないのだ、雅成はそう思った。
 最後の段を降りると、足下にタバコの吸い殻が落ちていた。さっき来た時は慌てていて気づかなかった。
 麻希も気がついたようだった。
「それ、私のじゃないわよ」
 そうか、あの時麻希は一度成人していたのだ。タバコを吸っても何の問題もなかったのだ。
 雅成は一人で笑い出した。
 訳が分からないという顔の麻希に、
「さあ、行こう」
と言って、立て掛けてあるギターを手に取った。

 麻希の手を引いて、小走りにグランドまで出た。
 今夜は車が何台も駐車してある。まだ体育館の中は明るく、人のざわめきが聞こえる。
 二人はグランドの中央に立った。
 雅成は麻希の隣でギターを構えた。
「麻希、おそらく歌の途中で、午前零時を迎えそうだ。俺は最後まで演奏を続けるから、時間になったら俺に構わず行ってくれ」
「うん、分かった」
 月明かりを一杯に浴びて、白いブラウスの少女は頷いた。
「それから、いろいろとありがとう。今の俺があるのは君のおかげだ。本当に感謝してるよ」
 彼女はもう一度大きく頷いた。
「それじゃ、いいかい?」
「ちょっと待って。最後に私にも言わせて」
 今にも振りかぶろうとした雅成の手を制して、麻希が言った。
「短い人生だったけど、今は後悔してないよ。ありがとう、雅成くん」
 雅成は何も言わずに、ギターを構え直した。
「ごめんなさい。あと、もう一つだけ」
 麻希は続けざまに言った。
「やっぱり、いいわ」
「何だよ、気になるじゃないか? 最後まで言ってくれよ」
 雅成は笑って言った。
「あなたには今、好きな人はいるの?」
 彼女はやや口ごもって言った。
「いや、いないよ。麻希のような子といつか出会えるのを楽しみにしてる」
 麻希は恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「それじゃ、いくよ」
 雅成は構えたギターに腕を振り下ろした。
 伴奏が始まる。
 ギターの音色が寒空を揺らしていた。二人寄り添って暖を取っているようだ。
 さっき予行演習をしたおかげで手応えを感じる。ストロークは全て腕が思い出していた。今度は上手く弾けそうだ。
 整列した車のボンネットが、月光を受けてきらきら反射していた。まるで波のようだ。いつか二人で行った海もそんな風に光っていた。
 麻希の声が重なる。
 透き通る声はやはり健在だ。漆黒の空にどんどん吸い込まれていく。
 テンポは上がっていく。彼女の歌声はまるで伴奏に吸いつくように融合する。
 雅成は麻希に目をやった。
 高校生の彼女がそこにいた。長い髪を左右に揺らして、身体でリズムを取っている。
 視線に気がついたのか、彼女も頬を緩めた。
 いつの間にか、体育館の外に黒い影が一つ、また一つと現れた。みんな一斉にこちらに向かって駆けてくる。
 二重、三重に人垣が作られた。
 雅成はキャンプファイヤーを連想した。麻希の歌は燃える炎のようだ。めらめらと天を駆け昇っていく。みんなは輪になって、その炎を見守っているのだ。
 さあ、彼女を送り出してやろう。
 みんな、聞こえているか。
 これが篠宮麻希の実力だ。あの日聞かせられなかった歌を存分に聴いてくれ。
 遠くに近くに手拍子が聞こえる。
 確実に時間は経っていく。
 雅成は手を忙しく動かしながら、何か大切なことを忘れている気分になった。
 曲に夢中で、意識が遠くなる。集まった同級生の顔が幾重にもぼやけて見えた。
 なぜ今自分はギターを演奏しているのだろうか。
 頭はすっきりしないが、これは自分にしかできない大切な仕事のような気がしてならない。
 さっき近くに誰かがいたような感覚。確かめようと、慌てて視線を左右に振った。
 しかし誰もいない。
 確かに白い人影が視界で揺れていたような記憶。遠い昔、こんな経験をしたような気がする。
 なぜこれほど力強く演奏ができるのだろうか。そこには何の躊躇もない。
 雅成のギターの音色は、夜空を赤く染め抜いているようだった。
 演奏が終わると、周りから大きな拍手が沸き起こった。
 雅成は放心していた。
 至る所で雅成を褒めているらしい声が聞こえる。
 しかし今は充足感よりも喪失感の方が大きかった。もう一度、辺りを見回してみた。しかし仲間の顔しか見えなかった。
 拍手は鳴り止まなかった。もう一度聞かせてくれ、と叫ぶ声。
 雅成はふと何かに取り憑かれたように、両手を上着のポケットに差し込んだ。すると指に触れた物があった。
 それは、あの不思議な紙切れだった。

「篠宮麻希が好き。麻希を忘れない、忘れたくない」

     完

無言の歌よ、響けあの日の大空に

無言の歌よ、響けあの日の大空に

高校の卒業アルバムに挟まれた一枚のメモ。そこにはまるで覚えのない少女の名前が残されていた。果たしてこの少女は一体誰なのか?【完結済です】

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-02

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