雅
少年が男になる日。
真っ直ぐに立って。
背筋を伸ばして、力を抜いて。つむじのあたりに付けた糸に、天から吊られているイメージ。
自分の身体を、自分で支えて。
歩く時は膝を緩めて、腰から下は全て脚と思って使う。歩幅、足先の向き。
立ち方、歩き方、座り方。脚の使い方、手の使い方。習慣にしてしまえば、後は身体の方が勝手に出来上がっていくから。
お手本はたくさんいる。
一番美しいと思う仕草を、公平に判断して真似から始め、自分の物にして。
ナイフとフォーク、スプーン。箸も勿論。ナフキンと懐紙。英式と米式なんかはまあ、予備知識程度に。京流と江戸流も同じ。
けれど美の最たる形は。喜ぶ、楽しむ。
確固たる型の上に建つ、悦。
躾に煩いとか、厳しいというほどのことではなかったと思う。
世に優雅というものがあって、愛すべきもので楽しいことだと話されていただけで。
別段愛しはしなくても、楽しむことはできたように覚えている。
だけど。
そこよりももっと、行きたいところがあって。
それが何処なのか何なのかわからなくて。
走ってばかりいた。誰よりも速く、と。
走るのをやめた。
単純に、自分のやっていることを誤解していたから、訂正しただけで。
短距離をやっていた自分を覚えている同級生の女との恋愛ごっこが続かなくなって、夜の街へ。
拙いながらもその頃、躾られた「美」はまだこの身から離れておらず。子供じみたカモに間違いなかった自分に、品の無い声は山のように掛かった。
誰とでも寝た。女とも男とも女か男か判らない奴とも。
酩酊の末に、殴られたり殴ったりすることもあった。
その街はこの身に新鮮で。清潔に育てられた感性が嫌悪する、すえた匂いの混じる埃っぽい空気が、この有様を許してくれるような気がした。
ここは別段、辿り着きたい場所ではなくて。
いずれ巣になる、そんな気だけ朧気にしていた。
だから十七の時。
顔形よりも覚えているのは、体つきと化粧の印象。自分でもおぞましいことに粘膜の味。
三十路頃だろうかと当時は思っていたが、今思い返すと更に十歳足すべきかもしれない。
そうなった時には名前を知っていたから、前にも会ったか寝たかしていたのだろう。
はっきり言って泥酔状態で、目が覚めて探したトイレでしこたま吐いてから、やっとそこが見知らぬ部屋だと気付いた。
「おはよう」
女は「リーファ」と名乗っていて、それ以外の名で呼ぶ人間はいなかった。
やけに真っ赤な口紅や、詳しくなど無いが眉の描き方なんかも、当時でも充分古くさいメイク。その時は朝だか昼だかで、普通の顔だった。
「仕事に行ってくるわね」
暫くして別の部屋から出てきて言う声よりも差し出されたコップの水に手を出し、玄関を出ていくのにも錠の下りる音にも注意を払わなかった。
とにかく頭痛や胃痛や筋肉の軋みや、嘔吐感が酷くて、息を殺すようにしてその辺りに転がっていた。
帰ってくるなり服を毟り取られて、まだ覚めきっていない呆けた頭で取り敢えず反射のように抱きながら、リーファの息の酒臭いのにまた吐きそうでげんなりしていた。
張りを失った肌からも髪からもアルコールの匂いがして、どこを舐めてと言われてもお断りだった。
今考えればおかしい。
アルコールには弱くない体質で、酔って寝てしまうことはあっても二日酔いなど後にも先にもその時だけだった。
しかも前後の記憶も微妙に混乱している。
それは、多分。
間抜けなことに、そうやって、自分の置かれた状況に気付くのに一昼夜以上掛かっている。
2Kバストイレ付きの箱の中、やっと少しはっきりしてきた頭で見回す。
女の部屋。装飾品の類は少ない。衣装は少なくないが、傾向からいうと間違いなく水商売。ステージに立つ類の女かもしれない。
服も下着も化粧品も、色遣いがケバイ。下品だ。
リーファという水商売の女。それだけのデータを頭の隅に仕舞い、さて帰ろうと玄関に向かう。
漸く、そこで気付く。
チェーンを外して、錠をどちらに回しても扉が開かない。ノブが回らない。
これでも構造の類には強い。扉の端から端を調べて覗き、隙間から僅かに影を差す四角柱の金属を見れば予想がつく。
…外から錠を掛けられた。
部屋に戻り、バス、トイレと入念にチェックしていく。どの窓も、打ちつけられているのかセメント仕様か、それとも玄関と同じく外から錠を下ろしたか。
まあ。いくつかの窓はガラスを破るとかサッシごと破損させれば出ていけそう。ここが何階なのかにもよるか。
頭の中に計算を巡らせる。
相手は女、性転換手術後という訳でもない。いざとなれば破れる窓がある。取り敢えず、携帯は充電が長く保つように電源を切っておく。
第一、意味が解らない。
冷蔵庫を漁って、異様に多い本数のペットボトルに眉を顰めながら、サラミを出す。包丁とまな板は見つけていたので、スライスして左手を皿代わりに摘みながら、ペットボトルの中身は水だと気付く。
違和感をそのままに、家捜しを開始する。行儀の悪い行為にも大分慣れていた。
流石というのかどうか分からないが、金目の物はどこかに仕舞い込んであるらしい。
ある引き出しを開いて、爆笑した。本当に、こんな物を私有している人間がいるとは。
鞭だの手枷だの足枷だの、なにかよく分からない金属だの。真っ赤やオレンジ、少しフレアな形の蝋燭。レザーの衣装。
そういうのが好きな女に、強請られて手首をタオルで縛ったことくらいはあったが。
参った、と笑いながらテレビをつける。
そうしている内に腹が減ってきて、冷蔵庫の中にはろくな物がないし、あっても何も作れないのでいつの間にかベッドで眠ってしまっていた。
アルコールの匂いで目が覚める。
目を開くと間近に潤んだ目があって、唇が重なってくる。手が、首筋から耳の後ろを通って髪を逆撫でている。顎や頬を舐めたり噛んだりしながら、もうひとつ手が、股間を探ってペニスを握ってくる。
またセックスか。好きだな。
やれやれと女の身体を押し退けるように身を起こし、ベッドの上に引き倒す。
求められるまま、捩じ伏せるようにして抱く。怠い。やけに怠い。もう女の相手は陰茎に任せて半分寝そう。
「腹が減った。外に出たい。運動不足になる」
済んだ済んだ。いい加減、出し過ぎて疲れた。俯せに寝ころびながらトントンと腰を叩いていると、背中から腰にかけてマッサージしてくる指はやけに巧みで、心地よくて寝そうになる。
「欲しい物があるなら明日買ってこようか」
ハスキーボイスが笑う。
…ああそう。
「煙草と…運動」
「サンドバックなんかどう」
「…なんでも…」
眠い。腹が減った。ラーメン食いたい。
「煙草、マルボロだったっけ」
「…あかの…」
話せているのかどうか分からない。
そういう日が何日か続いたように思う。
他にやることが無くて打つサンドバッグに、背から腕周りの筋肉が喜んでいるのを感じる。
自分でも信じられないが、陸上部にいた時よりも熱心に筋トレに励んでいるような気がする。
というか、本当に何もすることがない。
テレビは元々、それほど見ない方だった。そのテレビも長い時間見るようになり、面白がっていただけのセックスが毎晩一回ごとに肌に染みついてくるような気がしていた。
リーファは相変わらず、帰ってくる度に酒臭くて性欲だけは尽きることが無く、その顔も見たくなく体臭を嗅ぎたくなくうんざりするばかりだった。
ただ、後にも先にも、性器よりも肌を撫でるのがこれほど巧みな指も、これほど膣の筋肉が締まる女も他に知らない。
篭の中の齧歯類のように多分、滑車を回すようにしてサンドバッグを打っていても、ストレスはピークに達していた。
そうされることは何度かあって、その時も冗談半分だったのだろうが、ベッドに押し倒された肩を踏まれて、こめかみの奥深くで何かがぷつんと切れた音を聞いた。
頬骨の少し外側と腹と、一発ずつ。
女の華奢な身体はベッドの向こう側まで吹っ飛び、そんなに力を入れただろうかと短い間呆気にとられた。
起き上がってこないので、身を伸ばしてベッドの下を覗き込み。ぞくりと首の裏が逆毛立つ。
腹を押さえて頬を赤く腫らし。
女は、陶然と笑っていた。
目覚めたのか解放してしまったのか知らないが、とにかく暇と体力があれば絡んでくる。
手を出すし時には足蹴りが出るし、力の弱い女でも結構痛い。拳も平手も蹴りも、男とは痛みの種類が違い、重みが無くて突き刺さるよう食い込むように骨が当たる。
腹が立つでもなく苛立つよりももっと、面倒臭いので殴り飛ばしておく。
強請ってくるのは性交中の平手打ちで、力一杯引っ叩くのも嬲るように軽く続けて打つのも感じるようだった。
そうする度に女の性器は窄まってこちらの陰茎を締め上げ、そうすること自体は心地よく、制御じみて張りを失った頬を打った。
どれぐらい、日にちが経ったのだかよく判らない。
ある日、俺よりもっと年の、リーファに年の近いだろう男を連れ込みベッドの上で性交を始めた。
奥の部屋で煙草でも喫っておこうかと上げかけた腰を、凄む声が見ていろと命じる。
はいはいとソファに座り直し、見ていた。
チラリチラリと、本当に一瞬だが、リーファがこちらの様子を窺う。
馬鹿々々しくて、唇が片方の端しか笑えない。
だが乗っかっている男が気付いて頬を打てばそちらが悦いらしく、嬌声が上がる。
終わって、男はシャワーを浴びてから帰っていった。
なんというか、なんとも言えないが。
シーツにくるまって虫の幼虫のようになっている傍ら、ベッドに腰を下ろした。
「…香港に、行きたい…」
いつもより掠れた低い声が、呆然とした態で呟く。
リーファは、香港から来て何年も帰っていないと何度か話していたことがあって、顔は日本人にしか見えないし、日本語以外が喋れるとはとても思えない。
だから、お話を貫くなら「香港に帰りたい」と言うべきだな馬鹿女。
呆れながら灰皿に煙草を消した。
「ねェ…」
声に、目だけを向ける。充血した白目が、醜い。
「抱いて」
「他の奴のザーメンまみれの穴に突っ込みたくない」
というか何で出来てるんだ、お前の身体。
「…洗ってくる…」
「煩い」
「…ねェ」
「…煩い」
「…ぶって」
中身も何でできているのかわからない。
腰掛けていたベッドに片脚を乗せ上げるように身を捩って屈め、口紅が落ちてしまっている唇にくちづけた。
次の朝、いつも通り仕事に行ってくると告げた声を聞いて暫くしてから起き出した。
鍵どころか扉が開いていて、服を着替えて部屋を出た。
空気の匂いを嗅ぐ。多分、季節が変わってはいない。
だが、ここが一体どこら辺なのだかさっぱりわからない。
何故かというのかどうか、ずっと無事だった財布を尻のポケットに差したまま、ぶらぶらと一日歩いて過ごした。
其処此処で見掛ける地名や地区案内図で大体の場所が判別できた。
家からも、最後に覚えている店からももの凄く遠いというわけではない。
タクシー代に足りるかどうか確信が持てず、また、夜の街へ。
会った女が一人暮らししているという部屋に一泊で、久々に若い肌を堪能した。
肌が指を押し返すのを一晩中楽しみ、眠って、二人で朝寝して、いつもそうなのだが名前を聞き忘れたままで昼頃別れた。
「…悦史…」
「…お前。俺の名前、知ってたのか」
扉を開いてたたきを上がろうとしたところで、リーファにぶつかりそうになった。
「なんで、戻ってきたの」
…は?
女が何をそんなに驚いているのかわからず、暫く見つめ合ってしまう。
経緯を、ゆっくりと考えて思い当たる。
外から掛け続けられた錠。
俺を閉じ込めている気でいたのか。
呆れて、何も言う気を失くす。どけ、とその身体を押し退けてベッドへ。久し振りに地面を歩き回って疲れていて、シャワーは起きてからにしようと枕に顔を埋める。
「…ねェ」
「煩い」
眠い。
「ねェ。なんで戻ってきたの」
あァ、面倒臭い。
首を捻って埋めていた顔を半分起こし、目だけを向ける。
寝かせろ。
「…ただいま。リーファ」
セックスしなくなった。
煙草を喫いながら、ねっとりと身体に腕を絡めてくるのに掛ける言葉が見つからなくてその肌に煙草の火を押し付けた。
凄く耳障りな悲鳴を上げ、だが女は火傷を冷やさず自分の指で弄っている。
頭がおかしいんじゃないだろうかと思いながら、
それまでは殴り飛ばして隅に退けておくだけだった身体を追って、踏みつける。「来て」と誘うのに腰の括れに跨る。掌、手の甲と張る惰性そのままで頬を打ちつける。
こちらの表皮と女のたるんだ皮膚の内側、肉同士がぶつかるのもやがて痺れて感じなくなる。
蹴り飛ばす足の先、足の裏で女の内臓が揺らぐのを感じる。
踏みつけて体重を掛ける足の下、骨がみしみしと軋んで撓み、折るのはなかなか力がいるものだと感心しながらそのまま、肋骨を折った。
二人で風呂に入っていてそのまま、思いついて湯船に女の頭を突っ込んだ。
掌の下、濡れた黒い髪、起き上がろうとする力は普段知らない予想外の強さで、押さえ付けておくのに身を起こして体重を掛けなければいけないほどだった。
鞭で打つこともあった、木製のハンガーを使ったこともあった。
女をよく殴ったし、その半分くらいは多分殴り返されたりもしていたし、あちらから仕掛けてくることも多かった。
香港の話を、しなくなった。
密室に二人で名前は必要なく、互いを呼ぶのに「おい」と「ねェ」ばかりだった。
何ごっこなのか知らないが、嬉しげに作る飯を食って暮らしていた。
いつから、女を打ちながら勃つようになったのか、最初からそうだったのかよく覚えていない。
躾られたのか目覚めさせられたのか、こうなるのは見透かされていて攫ってこられたのか。
顔が腫れても骨が折れても、勃ったら喜んでしゃぶっていた。
矢張り、股間に顔を埋めているこの女が何で出来ているのかが一番わからない。
コシを失った髪を撫でながら、いつかは学校や家に帰らなくてはいけないから、セックスしようと初めて自分から思った。
彼女の傷が全て癒えるのを待つのは何日も掛かり、欲求不満の女は暴れて手の着けようもなかった。
芯もなくずぶずぶと減り込んでしまいそうにだれて柔らかな乳房を掌で揉み、指の腹で乳首を捏ねて指先で摘む。
指を食い込ませると皺を寄せる肌を掴み、全身、余すところ無く舌で舐め、股間に顔を埋めて舌を宛う。
襞の隙間にまで全て舌と指を這わせて、独特の生臭さすら感じなくなる頃、勃起した陰茎を押し込んだ。
腰に絡む足と締め上げてくる性器に、眉が寄る。
腰を打ちつけるたびに汗が噴き出し、性交の度、恍惚でこちらの顔を見ない瞳を見下ろす。
何か、思いついたという記憶もない。
伸ばした両手が細い首を掴むのとほぼ同時、細い指が喉に食い込むのを感じた。
学校や家に、いずれは帰らなくてはいけないし、香港に連れて行ってやれるようになるまで待つ時間が彼女に残されているとは、到底思えなかった。
指に力を込める。それはただ、これまでの続きだと思えた。
視界に、虫の飛ぶような明滅が起こり始める。
細い首は両手の指を回しても充分余り、輪を狭めていけば食い込む柔さに、そのまま突き抜けてしまうかと思う指の腹が、硬いものに阻まれた。
息苦しいとはさほど思えなかったが、こめかみが脈を打つのは聞こえた。
針金でも巻き付けるように首に食い込む指は矢張り、痛いというより鬱陶しい。
光る黒い瞳が、食い入るように自分の顔を見ていたのは、幻覚だっただろうか。
目が覚めてからは、どうもぼんやりしていたらしく、映画予告のダイジェスト版のように点滅じみた記憶。
男達の怒鳴る声。
リーファはどこかと訊いたのに、お前が殺したと答えたのはその怒鳴り声だったのか、自分の記憶だったか。
病院のベッドの上で、母が泣いているのを聞いた気がする。担任教師が来て、事件と怪我がどうこうで起きたら学校に来ればどうこうで卒業がなんだとか言っていたのは、卒業は確かにしたから夢の中ではなかった筈。
うつらうつらと眠ったり起きたりする間に、見た覚えのある顔が現れたり消えたりしていた。
家に帰ってまず驚いたのは、鏡に映った自分がどうやらかなり広範囲に色々な怪我を負っていたらしいこと。
痛みを、殆ど感じなかった。
鏡を見て、負傷箇所に手を触れ、痛みを探す。
ああ、成る程。と。
そこに確かにある痛みを、意識が知覚できずにいる。
自分は眠っているのだろうかと、少し瞬きをしても目は覚めなかった。
卒業式を終え、受験も就職活動も関係なくなってしまったので、ノンビリと荷造りを済ませた。
勤め先は決めていて、住み込みもさせて貰えることになっていた。
実家には他の部屋に灰皿が無く、最後の日だしと思って長男の部屋に煙草を喫いに行く。
ノックに応えた声に扉を潜り、どこの事務所からかっぱらってきたのかスタンド灰皿の側に座り込む。
悦史。と名前を呼ばれ、はいと返事して机に向かっている長兄の背中を振り返る。
「…大学に、行かなくていいのか」
「…はァ」
今更そんなことを言われても困るのだが。
返した温い返事に被るように扉の開く音で、振り返る。父親だったら、喫煙を見つかると面倒臭い。
あれ? と、眉をヒョイと上げたのは次兄で、何年振りかのお互いの顔に思わず目が合ったまま止まってしまう。
「悦史、大学行かないんだって?」
……。えー…という感じで。
一体どういう嫌味なのだろうと少し悩んでしまう。
「兄弟の中でなら、お前が一番頭がいいのに、勿体ないな」
さほど勿体ないと思ってはいなさそうな次兄の声に、何かが真っ白になった。長兄が、静かに同意を示す声も遠く聞こえる。
いつでも、誰にも勝てないのだと思っていた。
勉強の類でも、陸上でも負けた。
自分の女一人、守れないようなガキで。
何も言えなくて、何をどう考えたらいいのかもわからなくて、煙草を喫い始めた兄の邪魔にならないように煙草を消して立ち上がる。
「悦史」
二人の声に、「はい」と出た声はもう、三つ子の魂という奴だったかも知れない。
振り返ると、多分テストの採点をしている長兄は背を向けたまま、何のだか知らないがデザイン関係の仕事をしているという次兄は笑っていて。
「お前の家はここだ。どこに行ってもいいが、最後には帰ってきなさい」
長兄の声は、いつもと同じで。多少鬱陶しく、深く。
「いや。っていうかさァ。そんなに遠くないって聞いたし、たまに顔見せに戻って来いよ」
「…はい」
…と言う他無く。
身に付いた躾で音を立てぬように扉を閉めて、どうして急に、全身が痛み始めたのかわからない。
もう指の跡も消えたのに、息が苦しくなるのかわからない。
喉に食い込んだ指は本当は、夢だったのかも知れないとすら思っているのに。
どうしたら速く走れるか、と誰かに訊かれたことがある。
どうしたらと言われてもな。と、思って、どこだかで聞いたままの受け売りで答えた。
倍を、走る。
100mなら200mのつもりで、200mなら400mのつもりで。ゴールが丁度、半分の距離になるように。
世に優雅というものがあって。
もっと速くと、誰よりも遠くと走っていたのは数ヶ月前に過ぎず。
本当はずっと、自分がいるだけでこの家を汚しているようで苦しかった。
香港にはいつか行こう。
テーブルマナーぐらいなら、教えてもやれるから。
終
雅