手のひらの範囲

 寂しいのかどうか、という問いに、俺は答えられるのだろうか。
 多分、俺は答えられない。それはまあ当たり前のことだと思う。そこに居ることが当たり前の物が居なくなったときのことなど、想像できるはずもない。寂しいかどうか、なんて具体的なこと、分かるはずがないのだ。
 そのようなことを考えているうちに、考え出した当初から沈みかけていた太陽は、その役割を月に渡していた。じっくり月を見ることなどあまりないが、今日のは大分大きくて黄色いような感じだ。
 冷たい風が吹き抜ける。夏ももう、終わっていることを感じずはいられない。
「弦くーん、どないしたの、こんなとこで」
 気楽な風で近付いて来たその人物は、姉の鈴菜だった。
「別にどうも、というか、このベランダは俺の部屋抜けてこないと来れないはずなんだけど」
「そりゃあもちろん、そこを抜けてきたわけだからね」
 悪びれもせずそう言う。こちとら男子で、部屋に見られたくないものの一つや二つはあるわけで。
 やめた、いつものことなのだ。俺と鈴菜との距離感は、どちらかというと趣味について話したり馬鹿やったりと、きょうだいというより友人と言うのが近いように思う。
 でもって、相手の部屋の中に入っていくと言うことに抵抗があるような友人じゃなく、相当昔から知り合っている類のものだった。
 何せ血は繋がっちゃいないし、姉といっても差は半年にも満たない。きょうだいとして接しろというほうが難しい。
「どっちにせよ、とっとと戻ったほうがいいんじゃないのか?正治さん、あんまりいい顔しないだろうに」
 その言葉に、少し眉根を動かしたのが見て取れた。
 失言だった。
「正治さん、じゃなくて、お父さんでしょ」
「……そうだな、すまん」
「分かればよろしい」
 いつもは話が尽きないというのに、それ以降、一言も話はしなかった。 

 親たちの関係が冷え切っていたのは何時だったのだろう。
 俺が知ったのはついこの間だった。そう知ってから考えれば、不審な点はいくつもあった。もっと注意を払っていれば、いくらでも気付いただろう。
 俺が注意を払ってまで見たくないものを見ようとしたとも思えなかったが。
 両親は双方ともに相方を亡くした後の再婚で、俺たち兄弟はそれぞれの連れ子だった。偶然、同じ年で、仲良くなった。 
 思えば、俺の手の届く範囲には、最初、近くに母さんが居て、母さんと同じくらいのところに鈴菜が入ってきて、母さんの傍には、父さんが入っていって、少し遠くに友人たちが、少しずつ、距離を変えながら入れ替わる。鈴菜と父さんが入ってくるのは少し無理やりだったが、抵抗は無かった。、父親というものに憧れすら抱いていたし、その憧れを裏切るほど、父さんは悪い父さんじゃなかった。
 そしてそれぞれの親たちの連れ子である俺たちは、当然、親たちが離婚すれば、それぞれの親と共に暮らすことになる。 
 色んなことをしたし、色々なものを見た。家族仲が冷える前は、旅行なんかにも行っていた。
 普通では無くとも、俺は、これが終わるはずが無い。そう思っていた。
 そう、信じたたかった。

 時は少しずつ、着実に進むわけで。高校受験が迫っていた。いや、高校受験も、言ったほうがいいのだろう。
 丁度面談で、こんな成績じゃ志望校受かるわけ無いから、一つ落とせ、と言うことをやんわりと言われて、気分はあんまりよろしくなかった。
「弦くん、ちょっと話があるんだけど、いい?」
 扉の前でそんな声がしたので、俺はシャープペンシルから手を離し、戸を開けた。
 鈴菜が入って来た。俺が適当に腰を降ろすと、それに従った。
「どうしたんだ?」
 俺は声に不機嫌さが出てしまっていた。 
 始まったのは取り留めの無い、もっと言えば普段通りの話だった。
「でさ、そん時の担任がさ、的外れなとこ怒るの、怒られてるのに、みんな笑っちゃってさ」
 あんまりにも楽しそうな話をするもんだから、余計俺は不機嫌になった。
「鈴菜はいいよな、俺と違って勉強できるんだからさ、俺みたいに、こんなことする必要ないんだよな」
 そこからのことは、余り覚えていない。
 口論になって、彼女は部屋から出て行ってしまったと言うことだけだった。
 後から聞いたところによれば、随分と壮絶な口論だったそうである。
 それにしても、だ。冷静に考えてみれば、鈴菜がこのようにして声を掛けてから部屋に入った事など無かったし、最初の呼びかけは妙に神妙だったように思う。
 話題を無理に変えることになった理由は、直後の俺の態度だったのだろう。
 彼女とその父親の引越し先が決まった。もう別れまで間もない、その上、簡単に会いに行ける距離でもない、と知ったのは、母の口からだった。
 最初、それを伝えるつもりだったのかも知れない。
 それにしても、どうして俺は、今目指している高校を志望したのだろうか。
 高校に入った自分を想像した。
「はは、あほらし」
 そして、誰も居ない部屋で、呟いた。
 そこに居るはずの人物を想像してはいけないと考えると、それは嫌に気持ちが悪く、これ以上なく寂しかった。

 その日、家は騒然としていた。といっても、言葉は無かった。あったのはどたばたとした人が動く音だけだ。
 それがうるさかったのもあるが、自身が焦燥に駆られていたのもあって、勉強など手につかなかった。
 朝は雨が降っていて、ならわざわざ、と雨戸を閉めっぱなしで気付かなかった。部屋の外に出ると、もう既に雨は止んでいて、それどころか、綺麗な茜色の日が廊下の窓から差し込んでいることに気がついた。
 いくらなんでも待たせすぎた気がする。
 扉をノックする。
「鈴菜、ちょっと話があるんだけど。いいか?」
 何時に無く、神妙な口調だったかもしれない。
 許可を得たので、戸を開ける。
 鈴菜は部屋で荷造りの確認をしていた。あの日以来、会話を殆どしていなかった。
 もちろんのこと、この前のことを謝った。流石にこのまま別れるのは気持ちが悪かった。
 彼女の方はすんなりと許してくれた。
 それから、いつものように、彼女は呼びかけた。
「ねえ、弦くん」
「なんだよ」
「私がこの家に残りたいって言ったら、お父さんたち、どんな顔するかな」
「何言ってるんだよ」
「真面目に答えてくれたっていいじゃない」
 話す内容はともかく、ここまで調子が変わらないとなると、流石におかしい。
 おかしくて、笑いながら言った。
 そうだ、目頭が熱くなっているのは、笑っているからなのだ、そう思うことにした。
「そうだな、とりあえず俺が殴られるんじゃないか」
「なんでさ」
「そりゃあ他に殴る相手居ないからな」
 一応、両親の離婚は、穏やかに勧められた、父さんはし俺から見ても理知的な人ではあって、当事者の母さん曰く、暴力沙汰なんかは一切無かったそうだ。
 鈴菜は笑った。
 本当に、殴られるだけで止められるなら、良かったのに。俺が出来る事で、全てが変えられれば、こんなに辛くは無いはずなのに。
「でさ、そん時藤山がさ」
「そんなことあったの?」
 そこからは、取り留めの無い、学校の話をした。俺の手の届く範囲なんて、せいぜいこんなものだった。
 当然、そんな時間にだって、終わりの時が来る。父さんの呼ぶ声がした。
「もう、行かなきゃ」
「おう」
 見送りにぐらい、行く。熱を帯びている目を、袖で拭った。
 もう、外は暗かった。
 大した会話をする時間も無くて、直に彼女は車に乗り込んでしまった。
「じゃあね、弦くん」
「じゃあな、鈴菜」
 車の上と下から交わしたそれが、最後の会話だった。
 エンジン音が響き、車が動き出す。
 少しづつ遠くなっていく車に手を伸ばした。
 もちろん、それが届くはずも無くて、俺の手のひらの向こうで、車は闇に溶けて、小さくなっていく。
 小さくなった車を握っても、手には何も残っていなかった。

 その日から、俺の部屋に勝手に入ってくるものは居なくなった。もとより、鈴菜しか入って来なかったのだから、当然と言える。
 空回りしているというか、なんと言うか、うまく言葉には出来ない違和感が、腹の底に溜まっていった。
 あるとき、鈴菜の方から手紙が来た。内容に特筆することは無かった。
 ただ、やりとりの方法が変わっただけなのに、それは、二度と、この扉を勝手に開ける人物が居ないという証明で、腹の底に溜まったものが、無くなるような気がした。
 何時だったか、俺の手の届く範囲に入ってきた彼女は、入って来たときと同じようにして、突然に消えてしまった。
 志望校は、半ば意地で変えていなかった。 

手のひらの範囲

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中学生男子のちょっとした短編

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-30

CC BY-NC-ND
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