白い日々

【執筆情報】

・執筆日 2011/9/26

 大自然パワフル乳業株式会社の名刺を今生の別れのように見つめた。

《北国の名牧場直産の白い魔法を飲んでみませんか。厳密な衛生基準・審査をクリアした第一級の牛乳です。スピード宅配で朝の元気をお届けいたします。 配達員 七瀬直人》

 キャッチコピーの素人製作者が、無理に文章をひねりだしたような宣伝文句を見逃してやれば、名刺の好デザインに会社は救われているなと気づいたのは入社初日の七年前だ。素朴な中に味わい深いものがある名刺だった。淡い氷柱色の背景、下部に朝露をのせた緑艶々しい牧草、中央部に牛の飼育係男女数人の屈託のない笑顔のアップ、上部に雨上がりの青空と虹が配されたものだった。日本風でありながらどこか西欧風を吹かす国際人な名刺クンだ。およそ隙は見当たらない、牧歌的名刺の成功例だった。この風景の中に飛び込めたらどれだけ幸せなことだろう、この風景が涸れた砂漠の中に咲きほこればどれだけいいだろう、と考えたことも一度や二度ではない。
 俺の何よりも自慢の、昔馴染みの相棒のような名刺だった。少なくとも一万回は眺めたことのある自己挨拶の分身である。付喪神が宿るほどの長い時間は満たしていない。代わりに愛着の時間は充分すぎるほど張り付いている。
 眼をつぶらずとも、時の扉がひとりでに開く。鮮やかに蘇る牛乳瓶と過ごした路上の日々、極北の雪原よりも白い日々、春の扉、夏の扉、秋の扉、冬の扉、どの時の扉にも白い牛乳が注がれていた。俺の四季は、アントニオ・ヴィバルディの四季よりも優れた牛乳の四楽章そのものだった。
 残業がほぼない定時上がりの仕事だったから、日常の業務風景は、主に朝と昼の二通りに分けられる。朝は、高性能冷凍クーラーの中に常温保存している牛乳瓶を数本取り出し、運搬作業で鍛えられた発達の余地のある筋肉を誇示しながら両腕で抱え、住宅街を踵の磨り減った営業用の白いスニーカーで軽快に歩く。ついで昼、休憩を取る公園の木漏れ日の射すベンチに座って雀の羽ばたきを見、愛妻弁当をくるんだ蝶結びのバンダナをほどき、機械仕掛けの噴水のシャワーで顔を洗って営業に戻り、見知らぬ人間とすれ違えば千種類の挨拶の中からひとつを選んで手渡した。
 挨拶への反応は、それほど悪くなく、悪かった場合には手帳に挨拶修正のコメントを書き込み、新しい挨拶へと新旧交代した。小さな革命は毎日起こすものだと思っていたし、起きなければ堕落だけが待っているとも思っていた。
 入社当初は腰にくびれがあるほど痩せぎすの身体だった。俺の渾名決めが社内の特別行事になったこともある。例えば、安部公房の砂の女の読みすぎで昆虫採集に凝っている同僚のひとりは、おまえは手足が長く狡猾そうな下心を持っていそうだからカマキリ人間だと命名したり、農学部で害虫学を専攻していた同僚は蜘蛛人間などと命名し、学術名で名付けられなかったことはよかったものの、盆暮れや正月の宴会の席ではアメリカンコミック好きの同僚や上司にスパイダーマンの物真似をやれ、と命じられ、断れば厳罰の空気がもたらされること濃厚だったので、事前練習をハネムーンの際に購ったペルシャ製の鏡で確認しながら仕込みを終え、本番では酔いどれ集団の万雷の拍手を受けた。
 しかしそれも過去の話に過ぎない。冒険小説の主人公のように新しい場所を求めて、俺の場合は新しい買い手を求めて歩き回る。瀟洒な住宅街、低所得層の団地、海辺の街、山岳地帯、地下の会員制秘密クラブ。工夫の仕方ひとつで営業成績は停滞したり上昇したりする。資産十億を超える金満家のご夫人を口先で丸め込んで契約を勝ち取った日は、専務にいたく労ってもらった。というのも経済ピラミッドの上層から下層へ向かって人から人への紹介が一人歩きしてくれる効率的な《金のなる木》をよく捕獲したなということだった。演台に立って社内表彰のスピーチをぎこちなくもく、無事にやり遂げ、小さな喜びを噛み締めた。誇りのひとつだった。
 熱波のごとき旱魃が襲った日、職にあぶれた脱水症状を引き起こしそうな路上芸術家に牛乳瓶一ダースをこっそり分け与えた。後に路上芸術家は業界中堅の芸術家に化けた。鶴の恩返しとばかりに抽象絵画を譲り渡してくれた。その筋に詳しい人間によると時価五百万円ということだった(俺は画廊を経営する人間と交友関係を結んでいないし、美術に精通しているわけではない)。これも誇りのひとつだった。
 誇りは無数にあるが、これ以上、濡れ雑巾を絞るように追憶しても、俺の潜在意識を蝕みはじめている小さな虚無が、より大きな虚無を引き連れてくるだけだ。この虚無は何人もの血を吸ってきた、古今東西どこにでも出没する死神のカマを持った幻想的存在かつ実在的存在であるに違いない。
 だが、未練がましさを発揮しても仕方がない。少年期の十八の頃から七年間連れ添った思い入れ深い名刺を破る日が来たのだ
「そんなに気を落とさないでください。微熱があるんでしょう。長引くといけないからドラッグストアで解熱剤を買ってきます。それと小松菜のおひたしとお素麺を作り置きしているから、気分が上向いた時に食べて」
 名刺に集中しすぎていたせいで妻の存在すら眼に入っていなかった。国内線のスチュワーデスを十年務めていただけあって声の通りがよく、疲労が溜まっている時は何度でも繰り返し聞いていたい声だった。体調の悪い時や仕事の些細な失敗が会った時、声の質を変えて睡蓮のように儚げな声で励ましてくれたり、沈んだ気分を正常状態に転換できる話術を持っていた。干支が一周回る十二歳差で結婚した誰もが振り向く女だった。
 出会いの端緒は、牛乳配達の訪問販売。スチュワーデスの指導教官に異例の若さで抜擢されて多端な仕事に従事してきたため、ノイローゼになって自宅療養中だったのだ。そこで役に立ったのが俺の栄養学と半可通だがそれなりの医学の知識だった。牛乳配達という仕事柄、栄養について勉強したいと強く思っていた。夜学で栄養学を修め、医学についても専門書や文献などを読み散らしていたのでホームドクターもどきの知識くらいは持ち合わせており、病を軽減させる方法を全て試した。まさかスチュワーデスの女を射止めることができるとは想像もしていなかったが、サラリーマンも中々悪くない美味しい職業だなと思ったものだった。
 だが、棺に入るまで仲睦まじく夫婦の愛を育てていこうと願っていた妻は、先月俺が結婚五周年の記念日にプレゼントしたバッグの中に解熱剤を入れて戻ってくることはなかった。再び顔を見せてくれることを全身で望んだものの、冷雨に打たれる野宿者の寂しさにも似た、とほうもない寂寞とした断絶の凍結地平が開かれていくのを予感した。なにかを望むという期待が、見返りのない奉仕作業のような根気を要求しているのではないか。しかしそれを忠実に実行してしまうと期待が削がれていくはずだろう、なぜなら、世間一般の哀しい男女不和の統計が、円グラフ表示で売文雑誌に出ているではないか……と嘆息を洩らすのを飲み込み、わだかまりのある疑問に行き着くが、これは、まだ、唯一解への近似的な解よりも下位の解である。顎を縦に振るには、まだ充分ではない、と悩める俺は拒否を選択する。しかし、電光石火の反応速度で、唯一解への道を脇に押しのけて、これは直感の働きだと直感的に俺は判断した。期待が削がれていく、という直感は、不幸の回路を形成するだけだから、およしなさい、という俺の意識化に眠る警鐘機能付きの豆電球の声が、不穏な暗い太陽の輝きを放ち、俺を燃え上がる蝋人形のように、紅く、溶けさせていく……。


 誇りの日々を破ろう。せめて二度と振り返らずにすむよう、磨り潰された擂鉢の胡麻のような抵抗のなさで破ろう。原形は不要なものとして俺の領域外へと跳ね返さなければならない。その行為が他者の犠牲を伴うとしても。
  横座りしていた外科縫いの痕の残る足を組みなおし、名刺を並べる体勢に入る。名刺の並べ方は、乱雑ではいけない。前職で扱っていた牛乳瓶の形そのものを形取るようにしなければならない。並べ終えた七十八枚の名刺は、最上級の顧客との繋がりのはずだった。獏とした祈りを捧げる姿を心中に想像すると、俳人赤尾兜子の前衛俳句「心中に開く雪景また鬼景」が浮かんだり、偶像崇拝の種を探し出す始末になった。俺にとってそれは、近所の神社に飾ってある高麗仏画の崇高な姿だったので、荒行を終えた仏僧のような心構えで正座へと移行した。
 瞑想状態は、荒ぶる不安感を沈静させる効果を発動してくれた。目隠しカルタの要領で名刺を一枚取り出した。俺は、今、名刺とだけ対峙していた。名刺と対峙する前までは、息巻く闇とだけ格闘していたが、名刺との対峙のほうが遥かに魅力を秘めていた。目を開き、百人一首の読み上げのように名刺に書かれた全文字を音読し、音読終了後にこの一種独特の行為の感慨に耽ることもなく名刺を破り捨てる。世界のゲーム辞典に俺の発案する『退職者の名刺破り』というお手軽なゲームを加えてみてはどうだろうか。申請者名は、お恥ずかしいので匿名希望にさせていただきたい……空想の余興を終えたところで、みじめさを掃き清めて、名刺を一刀のもとに切り捨てる。手の刃で切り裂いた名刺の破れる音は、トウモロコシ色のこんがりとした食パンを二つに割いたような音だった。指先に眩暈を起こしそうな退廃の感触が伝わってくる。破り捨てられたモノは最適の修理者でなければ再生できない……身体の中に飼育していた牛乳が心の襞から少しだけ抜け出ていくような気がした……香水代わりの白い匂いも少しだけ消去されていくような気がした。体重計に乗らずとも、針が西を向いて減量を知らせているのが理解できた。
 青いバケツの中に入った搾りたての牛乳を北国の酪農家が出荷する姿を思い浮かべることは、この先、きっとないだろう。紅色の荷受伝票にボールペンで数字を記入すること、再生紙仕様の配送記録を顧客の郵便受けに届けること、出荷管理センターの交換手から増配や商品回収の慌しいご連絡を頂戴することも、なくなるだろう。突如、牛乳の神様が現れて、牛乳の空け口に生命を宿らせて、臨終の言葉を手向けるようにして、キミにはもう用がない、と言い渡されたような気さえした。
 名刺をもう一枚取り出す。裁縫箱から古い鋏を見つけ出し、馬鹿丁寧に切るほど家庭的主夫的な発想は念頭になかった。節くれだった手が、肉体労働の手が、会社の住所と電話番号と宣伝文句の印字を目指して十文字に引き裂くのだ。十文字に引き裂いた後、破り方に納得がいかず、更に十文字に引き裂くと、※のように破れた。※を※の方法論で破き、背中越しから吹いてくる扇風機の設定強の冷風が、バラバラ死体になった俺の苗字と名前の切れ端を六畳一間の黒檀のテーブルの上に浮かび上がらせる。扇風機の首振りによって風向きが変わり、切れ端は、嵌め殺し窓の破砕されたラグビーボール型の穴に送り込まれ、夏の闇の中に随時回収されていった。夜は、奇術師の美技のように静かだった。畳の上に嵌め殺し窓の穴を塞いでいた補強用ガムテープが剥がれ落ちていた。工具箱に仕舞っておいた補強用ガムテープは使い切っていたから予備を探したが、補充し忘れていたので、あるべきものがそこにはなかった。財布の中身も蝉の抜け殻のようだし、貯金通帳の残高は、日用品を購うのをためらわせるほど桁が短い。ディスカウントストアへ買出しに出かけることも最早手遅れだった。失意の溜息は、どうやら嵌め殺し窓の外には運ばれないらしい。

 一昨日、この災厄の日が、いけなかった。自棄酒の無敵的高揚感がいけなかった。朝曇りも晴れ渡った午前十時、大自然パワフル乳業株式会社本社別館B会議室に入室すると、謹厳実直な人事部長が野武士のように笑っていた。美人歯科医に施術してもらったらしい見事な光を放つ金歯をみせながら、右手の松尾芭蕉モデルの団扇で風を巻き起こし、左手の上等な万年筆を緩慢に回転させ、俺を侮蔑的に挑発していた。かれの挑発心電図は穏やかな右肩上がりの波線を描いているのが明白だった。やがて鬼瓦の顔が、瓦を抜いて、鬼そのものになる。いや鬼神に化けることもあり得るかもしれない。
「五分遅刻しているじゃないか。そんなだからキミを解雇しなきゃならんのだよ。まあ、それはこの際、関係のないことだ。その椅子にかけたまえ」声の調子は、強いが恐れるほどではない。むしろ、首元に漂う加齢臭のほうに気をとられそうなほどだ。近寄りがたい匂いを発散させていた。
 人事部長は、時間を疑うことなく言ったが、その発言は正確ではなかった。かれの腕時計は必ず五分早く進んでいるのだ。それは時間厳守の社会人として恐ろしい悪趣味だった。時間厳守の牛乳配達を職務としていた俺から見れば時計の狂いは命取りそのものだった。もし、時計の針の進行が五分早い腕時計を巻きつけている人事部長=牛乳配達員ならば命を誰かに取られるのだ。時計に盲目な人間、時の概念に盲目な人間は、牛乳の成立過程すわなち牛乳の成立時間まで考えが及ばないものだ。そして勤労的な従業員と時の概念に対して未成立な意識しか持てない人間に、俺が愛想の尽きた顔を見せるのも、名残惜しさは隠せないものの最後である。翻って、無能の烙印を押したがる人事部長にとっては願ったり叶ったりの最後である。しかし俺の頭に浮かぶ最後という言葉は適切ではないようだ。どうやら生活の生命線である職場を去るというのは、最期という言葉のほうが相応しいかもしれない。さあ、この会社は俺にとっても、この際、関係のない、切り離されたものになるのだ。だれかが言っていたか言っていなかったか、飼い犬はいずれ野良犬に戻る……だが、野良犬に戻ったところで昔日の入社当初の名刺が、スコットランドのコーンワル地方の田園風景のような、ゆるやかさ、を思い出させることだけは、ない、と確信できるのだ。
 強制的な退職届を機嫌の悪さが最高潮に達した鬼の人事部長に受理してもらい、目的成就せず憐れなるかな贋作『敗北桃太郎』の面相と逃げ足で、鬼が島的な空間から辞去した。地下水脈のようにひっそりと静まり返った遊歩道から夜の草の匂いが微風によって運ばれてき、甘い感傷に浸れない俺は不協和音を生じさせようと画策した。風のささやきは不要だから、玉砂利を蹴飛ばす音でシャットアウト。やがて無風になり玉砂利の道がアスファルトになると、遊歩道出口の斜交い、郵便局へ到着した。備え付けの自動預払機の画面を正拳突きしながら二百万円を引き出し、怪しいエメラルドの海のような欲望の流れ去ってはまたしても自己増殖と接触交配を繰り返していく特飲街へと格安タクシーを走らせ、到着地の真向かいの信号前で料金支払いを促し、物欲しそうな顔をした女運転手に船上カジノのコインが混じった日本硬貨を恵み、界隈の中で最も名の知れた高級クラブへと向かった。
 クリスタルガラス製の透明な扉から店内の中央部のみ目視できた。透かし彫りのように薄く幾何学模様が編まれているレッドロビンのカーペットが敷かれたクラブの中央道は、来客の幸福な足取りをエスコートする女の誘惑のようにすら感じられる。シャンパンタワーの準備に余念のない片耳にインカム装備の黒服たちの慌しい動きが、高速で入れ替わっている。止まり木の鳥がいる世界は、もてなされる来客側のだけのようである。
 シャンパンタワーの調整指示を出している黒のキャットスーツを着た八頭身の女が、梨色のセミロングの髪をなびかせながら、扉の前に歩いてきた。間接照明の藤色の光が、蠱惑的な切れ長の眉毛や唇や瞳の生態を明るく暴き出しては、生態解剖を閉じていく。俺は、夜の誘いの街に来ていることを強く自覚し、キャットスーツ嬢の生態解剖の続きを担いたいと感じた。ハイヒールの優雅な甲高い足音が迫ってくるのを予想していたが、それに反して女探偵のように足音を消していた。音の気配が消失したことにより、キャットスーツ嬢の表情に俺は集中した。媚態を超越した優しい瞳が、襲い掛かってくる。自分の内部へと取り込むように見つめられていた。俺の性的なボルテージが上昇するのを確認するかのように、まばたきを一切していない。ホテルの料飲部門の女スタッフ風情とは役者がまるで違っていた。眼神経が疲弊したせいだろう、キャットスーツ嬢は、ようやく、まばたきをひとつして、深く一礼し、これまでで、とびきり上品な顔立ちを魅せた。
「当店マリー・アントワネットへは初めてのお越しでしょうか。あら、お客様。スーツが着崩れておりますわ。お直しさせていただいてもよろしいですか」嫌味さは少しも漂っていない。涼やかな吐息が、首筋に伝染した。俺の不快な感情が、風鈴の音の広がりを聞くように安らいだ。
「……」
「黙り込むなんて可愛らしい方ね」キャットスーツの近代的な機能美とは裏腹に、やや古風な時代に生きていた目立つことのない花を思わせる声の色が俺を包み始めていた。愛の投網が、足から胴のあたりまで巻きついている。色香の羽衣を自動的に着せられ、二人羽織でもしているかのような合一さすら感じた。だが、暗誦の妙ともいうべき彼女の洗練さをシンボライズする唇が一瞬、控えめに引き結ばれるのを見た。なるほど、隣に立っている、泣きぼくろが自然に似合う朱色の振袖姿の女将には気に食わなかったようだ。だから、幻惑の場所から連れ戻されて、平常心が働き出し、擬似的な合一さは、すぐに弾け飛んだ。彼女らの視線世界には、ナマズの放電現象のような、逆巻く波を貫く扇状の雷電のような、花魁街特有の女性的個人空間の切断が、実行されている。切断された空間は、ひびの美学ともいうべき沈黙のよさがあって、俺はその小さな変化が起こす、次なる変化が嫌いではないが、大した変化は起きなかった。浅い夢を見るのは嫌いな性質だ、どうせなら深い夢を見てやろう。言葉を取り繕えば、夢の深度は掘り進まれていく。
「心地の良い時間ですね。こんなにも上品な所作で女性の手が介入してくると、もうそれだけで惚れてしまうものですよ、ごく一般的な成人男性ならね。いやしかし、お手を煩わせて申し訳ない。時代錯誤のダブルのスーツで来店してしまい、わたしもひどく焦ってしまっているようです。父親の一張羅みたいで大変にお恥ずかしい。ところで、あなたは流行性に捉われる顔をしていらっしゃらないようだ。うんうん、せこい人相学者の端くれなんかじゃないですよ、予備知識なしでもある程度わかるものです。牛乳を売り歩いてきただけの人生なのですが、だからこそ、わたしにとって人間の顔というものは、牛乳の本数分だけ見てまいりましたから。はは、いつになく饒舌になってしまった。まだ赤ワインのコルク栓すらも空けていないというのに、身の上話も加えてしまった。口説くのを焦りすぎちまったかな。いや、なんのために焦っているかを言明する必要はないのだけれどね」演劇の三流役者も真っ青の喋りっぷりだが、好むと好まざるとに関わらず、口をついて出た言葉だった。これは、もしや初期衝動かもしれない。まだ見知らぬ、ある良質なものを愛でる前、わざとらしい言葉の乱脈ぶりによって、相手を翻弄してしまおうと無意識に企てる、愛の洗脳の野暮ったい発明品……。
「ふふ、小難しい、まわりくどい喋り方を《する方》ね。言明なんて言われたら、昔、よく遊びにいらしていた真剣師・小池重明さんを思い出すわ。重明と言明、韻を踏んでるみたいで楽しくない? 心が躍ってくることってあるでしょう。いまのわたし、そんな感じかな。小池重明さんご存知?」
「ええ、人並みには知っているつもりですよ。新宿の殺し屋と呼ばれた男でしょう。アマチュア将棋の輩だけれども、プロにも伍すると言われた凄腕らしいね。なんでも将棋においては天才的な頭脳を持っており、序盤はてんでだめだが終盤の鬼才的な逆襲劇には誰もが舌を巻くという……対戦者は買っても負けても敗北感を味わう……恐ろしく稀有な将棋指しだったんでしょ。そのうえ、言っていいかわからないが、クラブの女遊びから抜け出せない破滅型の男だったとか。まさか、そんな昭和の男を思い出したからといって、俺とマリーアントワネットの店内で将棋の早指し三連戦でもしようってわけじゃあないでしょう」
「そんなこと無理よ。わたしにはオセロみたいな可愛い白黒のゲームくらいしかできないわ。オセロの持ち駒を裏返す時、白が黒に変わる瞬間が大好きなの。あなたのような方には、こう言えばいいかしら。わたしがオセロが好きな理由ってね、ゲーム性なんかじゃないの。色の反転の美しさに酔ってしまいそうなの……世の中、白を黒と呼べっていう意地汚い暴力団のような風潮もあるけれど、オセロはそんなこと言わずに、ちゃあんと経済性関係なしで、白が黒になったり黒が白になったりするのね、これって心が躍ってくるものじゃない? とでも言えばいいかしら。だから将棋みたいに飛車だ、角だ、桂馬の予想外の活躍で待ってマシタヨ王手の時! 今日は餃子の王将奢ってもらうからな! そんな、親分そりゃあないっすよお! なあんて男向きの沈思黙考型の勝負は苦手」
「最後の悪酔いみたいな会話は、庶民臭くていいね。最初に言ったように、牛乳臭い庶民だったから、なんか匂うものって好きなんだ」
「匂うものねえ……残念ながら、わたしは香水をつけない派だから、わたしに匂いを求めても無駄ね。ところで立ち話の時間って立ち食い蕎麦専門店だけで充分よ。そろそろひざを交えて、じっくり、お互いの声を舐めあえる、ふたりだけの会話が聞こえる席に移動したくないかしら。とっても幻想的な席にご案内するわ。もちろん案内人兼おもてなし役は、わたしよ」
「案内人とおもてなし役を取り除けて、ひとりの女として扱えるチャンスはあるのかい」
「そういった、大切な場面でしか使えない言葉は、ミゾオチの中に隠し持っておくべきよ。案外、夜遊びは不慣れなほうなのかしら」
「あなたの切り返しの特性を、自分なりに再確認して、店に入るべきかどうかを占っただけさ。占い師になることは、変身願望を持つ人間のように無意味だったようだがね」

 黒揚羽のように暗い色彩の店内をキャットスーツ嬢が先導していく。来客者の顔ぶれは、市議会議員の御曹司や大手悪徳不動産の社長といった曲者揃いだった。やや萎縮姿勢を取って歩いていると、キャットスーツ嬢は胸部の金ジッパーを少し開きながら、こちらの席におかけください、と甘ったるい声で言い、俺はフェロモンの罠に呪縛されたのを自覚しながら腰をおろす。紙巻タバコを取り出し、口にくわえた。横を向くと、キャットスーツ嬢の美しい流し目が待っていた。彼女の手元のライターが綺麗な青白い炎を吐いている。
「タバコとあなたの心、どちらを燃やして欲しい?」
「タバコの心を燃やしてやってくれ」
「不燃焼に終わらせてしまうかも」
 店内の照明が一段階、暗くなった。黒服が時間帯に応じて明度を操作しているらしく、周囲の様子は、影絵のような、実態の希薄な空間に転移した。だが、影絵の空間だからといって白と黒だけの単調な芝居ではないようだ。白と黒を通して明るみに出てくるのは、狂熱的な男女の紅い会話だった。
「ウイスキーをトリプルフィンガーで頼む。濃い味が好みなんだ。それと、牛乳をグラス一杯分」
「コーヒーのようにミルクを足して御飲みになるの?」
「多少、甘くなるが、よりマッドな気持ちになれるんだ。ウイスキー単体だけでは、マッドさが足りない。相反するミルクが、よりマッドさを引き立てるんだよ。しかし、いま、ほんとうに気分がいい。感謝するよ」
「ありがとう。よかったらわたしの名刺を渡しておくわ。あなたの名刺もいただけるかしら。わたしの名前は……」
 名刺のことは思い出したくなかった。俺の存在そのものと等価交換のような……名刺……牛乳……マッドな……ウイスキー……名刺……キャットスーツの……女……鬼瓦の……人事部長……牛乳……失踪した……妻の……名刺……愛妻弁当……牛乳……プレゼントした……バック……名刺……冷温……℃以下……要保存……牛乳……畜殺業者への……抗議文書……名刺……表彰状……勇猛な牛飼い……ヨーグルト色の同僚……雪に勝る……白い日々……俺は……名刺と牛乳で作られた人間なのか……それとも……名刺が牛乳を生み出して余波的に作り出されてしまった人間なのか……それとも……牛乳が名刺を作り出して……雪に勝る……白い日々が恋しい……

 その後、俺は身分を医者だと偽り、キャットスーツ嬢と共に狂乱的な酒宴を貪った。帰り道、酩酊と恍惚の狭間を彷徨いながら電柱にゲロを吐き、運転代行に頼らず愛車に駆け込む。愛車のドアを引きあけると、水死体のような重さを感じた。酔いが回って腕力の低下が著しく、女を抱く力すらも残ってはいまい。だが、俺の狂騒曲に終章は完備されていないようだった。木下闇の山道を法定速度の二倍のスピードで走りぬけた。ガードレールすれすれの無謀運転をしても死の恐怖は近づいてこなかった。むしろ、死が遠ざかっているような、どこまでも続く終わりのない道を疾走している気分だった。

     ※

 災厄の日は、臭いものに蓋をする式の、ごく単純な処理で解決できるものではなかった。俺は会社を殺す代わりに名刺を殺すことで平静の安定を確保していた。だが不安定の天秤がひとりでに動き出すのを俺は知っていたし、殺しの自慰の味を初めて知りもした。健康的な牛乳の味と程遠い魔の味がした。胃の消化を嫌う魔の味が常に居座っているのだ。名刺ケースから牛乳の匂いの染み付いた名刺を取り出すたびに、牛乳色に染まっていた俺の腹を黒い液体が横取りし始めた気すらした。この魔の味と黒い液体の名前は何だろうか。牛乳の名付け親すら知らない俺には、それが判らない。
 もう一枚、名刺を取り出す。上得意の女の名前だった。中々のクールビューティーを誇る実業家だったが、面会する予定は永久に未定だ。遠慮なく破り捨てたいが、そろそろ惰性的に破るのにも飽きてきた。破り方を捻ったほうがいいかもしれない。朝食の時に食べた無味乾燥な縮緬雑魚、悪くないイメージだ。伸び放題の爪を立てて、切り裂きジャックのように裂いて、縮緬雑魚サイズに破った。牛乳瓶の中に捨てた。瓶の中には網戸の隙間から侵入してきた羽虫が溜まっていた。仮の住いのためだろう、住居を求めることはいいことだ。俺には住居はあるが職が無い。住居はあっても社会的交接点となる主戦場を持たない。羽虫が縮緬雑魚になった名刺を喰らっていた。餌はいくらでもある。名刺ケースは棚の中に幾冊も締まってある。ご馳走は、〆て一万八千枚だ。この数は、俺の汗の同数なのだ。訪問販売お断りの張り紙を蹴散らした数と同数なのだ……。

    ※

 俺は、雪を眺めている。蝦夷鹿や牛や熊や狐の足跡の見当たらない、ただ自然の雪が積もるだけの雪を眺めている。白銀の雪ではなかった。白さだけを抽出するようにして眺めているから、そのように感じるのだろう。白。その響きだけが全ての世界だった。牛乳よりも白い日々は無いはずなのに、俺はどうしてここにいるのだろう。夏の汚れを冬で洗い流そうとしても洗い流せはしないのに、俺はどうしてここにいるのだろう。
 思わず、首が項垂れた。眼に入るのは、雪の轍。重なり合う雪の楕円の道筋を追っていくと、遠近法の果てまで連なっているようだ。遠近法の最奥から小さな黒い点が見えた。やがて小さな黒い点の輪郭が顕になり、その正体は、なにかの運搬人だということがわかった。
「お兄さん、新顔ですなあ。けったくそ悪い顔してないで、牛乳でも飲んでみちゃどうです?」群青色の作業服には、俺の前職の会社名と似たような文字列が手縫いされていた。雪原の大地の牛乳配達員の声は、俺の心になにひとつ響きはしない。いや、世界各国の牛乳配達員が束になって声掛けをしてきたとしも、だ。そう思いたかったが、駄目だった。雪の存在が消えてしまった。心を占めていた雪景が、空洞化した仄暗い穴のようなものになってしまった。しかし空洞の穴だけが残った直後、俺の内部を駆け巡るものは、心中にひらく雪景また鬼景、そのものなのだろう、牛乳だけだった。
「……一本だけ……一本だけ…牛乳を……俺の牛乳を……いただけ……ますか」霧が声になったような声を出してしまった。
「俺の牛乳? そんな注文の仕方する人は初めてだねえ。お兄さん、変わってるなあ! シャボン玉みてえな声してやがるしよお!」
 牛乳配達員は、牛乳瓶をいそいそと取り出し、
「初回はサービスしてやるよ。ほら、飲めよ。北国の牛乳は、九州なんぞの草原で育った軟弱な牛とは、品質が違うぜ。血統は折り紙つきよ! ぐいっといきな!」と胴間声で言い、軽いスナップを効かせて、牛乳瓶を投げ渡した。不細工な、奇妙な、乱回転をしながら、ぼんやりとした俺の額に牛乳瓶がぶつかった。額が割れた。紅い血が少しだけ流れた。紙の蓋を外すと、額の紅い血が牛乳瓶の中に数滴、閉め忘れの蛇口の水滴のように落ち、いつしか紅いマーブル模様を描いた。俺は、牛乳と血の交配を眺めた。雪を眺めているときよりも、長い時間眺めた。牛乳配達員は、俺の心境を察知したのだろうか、沈黙を守り続けていた。雪と同じ性質を持っているほどの静かさを牛乳配達員は発揮し続けていた。強力な磁場が、この場所に形成されていることを、牛乳配達員の配慮から窺い知ることができた。俺は、知らぬ間に、霞の顔になっていた。表情が、一定の型を成しえていなかった。
 紅い血の混じった牛乳を飲み終わると、牛乳配達員は雪の遠近法の果てに去っていった。かれの親切な言葉の残り香が、白い息となり、雪空へと導かれていった。俺は、名刺のことを想った。あの時、破らなければよかった。全ての名刺を風船に括りつけて空へ飛ばしてしまえばよかった。この場所で、空を使った名刺の埋葬をしていれば、どれだけ虚しさが、天の高みへと運ばれていったことだろうか。

    ※

 いずれ、より暖かい陽が射せば、雪は溶けて、水に変わる。そのときまで、静かな雪の大地で眠っていようと思う。雪の遠近法が、春に姿を変えるその日まで、白い身体でいたいのだ。

白い日々

白い日々

ある夏の日、ひとりの牛乳配達員は、思い入れ深い名刺を見つめることになる。 かれは、名刺を通して、自身の境遇と対峙する。 白い日々の旅を眺めることは、かれを心の雪原へと誘っていく。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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