受験生よ、涙を流せ
1
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
生徒たちが一斉に教室から出ていく。一気に廊下が騒がしくなる。
篠原大介は、予備校の講師をしている。大学のバイト時代を含めると、ここに勤めてちょうど十年になる。
大介は、チョークまみれになった手を二、三度叩き、テキストと指し棒を持って、廊下に出た。
「篠原先生、質問なんですけど」
目の前に、女子二人が立ちはだかった。
今の授業の生徒である。一人は積極的な質問者、もう一人は恥ずかしがり屋の付き添い者である。どうして女子というのは、いつも二人一組で行動するのか。これは未だ答えの見つからぬ長年の疑問である。
「いいよ、何だったかな?」
「三角関数の公式を、もっと簡単に覚える方法はないですか?」
その時である。
隣の教室から授業を終えた生徒が出てきた。その中の一人に、大介の目が吸い寄せられた。
小柄で背の低い女子生徒だった。眼鏡をやや持ち上げるようにして、指で目頭を押さえている。どうやら泣いているようだった。
(誰かにいじめられたのか?)
予備校でいじめという話は、これまで聞いたことがない。ここは大学合格という目標の下、各個人がそれぞれの努力をする場所である。したがって、いじめが起きるほど、他人との関わり合いが生まれない。そもそも人間関係が希薄な世界なのだ。
しかし大介は、彼女を放っておくことができなかった。もともと曲がったことが嫌いな性格である。万が一、いじめがあるとするならば、徹底的にそれを排除する必要がある。
目の前の二人を手で制すと、大介は問題の女子生徒に駆け寄った。
「どうしたの、大丈夫?」
彼女は、顔を上げて大介の方を見た。
眼鏡の奥の目は、やはり真っ赤に腫れていた。長いまつげまでも、しっとりと濡れているようだった。
「いえ、何でもないんです」
少女はそれだけ言い残して、大介から走り去った。他の生徒の激しい往来が、いとも簡単に彼女の姿を消し去った。
それが、鳥澤美帆との最初の出会いだった。
2
春、合格発表も終わった頃、予備校は一年で最ものんびりとした時期を迎える。職員室の窓からは、一本の桜の木が見える。こんな都会でも、しっかり花を咲かせるのだ。普段は目立たない木であるが、この新しい季節にだけは、自己主張を忘れない。
先週までは、合格を伝える電話がひっきりなしに鳴っていた。合格を勝ち取った生徒の笑顔が、絶えず押し寄せていた。
しかし今週は、それが嘘のように止んで、職員室には静かな時が流れていた。受験生はみな、新しい環境へと飛び立っていったのだ。
「篠原君、ちょっといいかい?」
教務主任に呼ばれた。
「はい」
「実は、昨年度の君の授業は、生徒からあまり評判がよくなくてね」
「そうなんですか?」
大介はそうは言ったものの、いつかはこういう判決が言い渡されることを薄々予感していた。思い当たる節はいくらでもある。
最近の受験生は、さほど苦労をせずに、高い効果だけを求めたがる。それが、効率だの省エネだのと言った言葉に置き換えられる。テキストの中で、テストに出るところだけを教えてくれと頼まれたりする。
確かにテストには傾向があるのだが、思考せず、ただ安易に記憶だけで済ませるのは、数学を本当に理解したことにはならない。その結果、少し問題傾向が変わってしまうだけで、あっさり手も足も出なくなる。
だから数学は多少時間がかかることを覚悟して、原理、原則から確実にマスターした方がよいのだ。これは昔から譲ることのできない、大介の持論だった。
しかし生徒の方からすれば、大介のこのやり方は不評で、もっと手っ取り早く、簡単に点になるやり方で教えてくれ、と主張する。
この安直な生徒に迎合して、そういった授業をする講師は人気を獲得し、逆に大介のように地道な努力を要求する講師は不要の烙印を押されてしまう。
主任の話は続いていた。
「だから、今年から少しコマ数が減るかもしれないよ」
講師は、担当するコマ数で給料が上下するので、誰もが、生徒の人気取りに走るのも無理はなかった。
「分かりました。以後、気をつけます」
大介は憮然とした調子で言った。
しかし、自分のスタイルを変えるつもりは微塵もなかった。
その晩、友人の多岐川真人(まひと)と駅前で待ち合わせた。彼は同じ予備校で英語を教えている。大介とは歳も近いので、昔からの飲み仲間であった。
「おまたせ」
真人が現れた。
「会議かい?」
「そうなんだよ。毎回、毎回延長してさ、嫌になるよ」
そうは言っても、彼は笑顔である。お互い今の仕事は好きなのだ。
二人は行きつけの居酒屋に足を運んだ。威勢のよい店員に導かれて、二階の座敷に腰を落ち着ける。
不景気なのか、最近居酒屋に客は少なくなった。真人と知り合ったばかりの頃、ここはいつ来ても座るところがないほど混雑していた記憶がある。今では、店内を見回してみても、客はまばらで閑散としている。
大介と真人は、ビールを片手に話し始めた。
真人とは、どうしても仕事の話題が中心になってしまう。
大介は、昼の主任との一件を持ち出した。
「俺はお前に一票」
真人はジョッキを高く持ち上げるようにして言った。
「世の中、全てがお気軽モードだからね。何も、受験生に限った事じゃない。みんな面倒くさいことは避けて、安易な方向へ走っている」
大介は口を挟まず、しばらく真人に喋らせた。
「政治も、ビジネスも、教育さえも、みんなそうなんだ。外見だけはやたら気にするくせに、本質はまるで論じられない。そういう時代なんだよ」
「それで、お前はどうしてるんだ?」
大介は真人に訊いた。
彼は一瞬、目を丸くして、
「そりゃ、俺だって自分に嘘はつきたくないけど、時代に合わせていくしかないだろ」
何と主体性のないことか。同僚がこれでは、二の句が継げない。しかしそれが大多数の意見でもある。自分の主義、主張をねじ曲げて、周りに合わせていく。それが社会で生き残る術なのだ。それができない不器用な人間は、社会から必要とされなくなる。
大介たちから遠く離れたカウンターでは、大の男が肩で泣いていた。スーツ姿のサラリーマンが、そんな彼を取り囲んでいた。よほど会社で辛いことがあったと見えて、同僚に涙ながらに訴えていた。
そうだ。大介は思い出した。
「そうそう、真人。お前、生徒が泣きながら教室から出てくるのを見たことあるか?」
大介はそんなふうに切り出した。
「一体、何の話だい?」
真人は不思議そうな顔をした。
そこで、大介は以前見た女子生徒のことを話してみた。
「ふうん」
そう真人は鼻を鳴らして聞いていたが、
「それって、もしかすると国文(国立文系)クラスの鳥澤のことか?」
突然、そう言った。
「なんだ、お前知っているのか?」
「ああ、鳥澤美帆なら知っているよ。よく泣く子らしいな」
大介は身を乗り出した。
「小柄で、眼鏡をかけている子だぞ」
「ああ、そうだ。たぶん間違いない。俺の英語を取っている」
真人は自信ありげに言った。
「で、どうして泣くんだ?」
「そりゃ、悲しいからだよ」
真人は事も無げに答える。
「だから、何が悲しいんだ?」
「決まっているだろ、テキストがだよ」
「は?」
大介は意味が分からなかった。テキストの内容が理解できない自分が悲しいというのか。いや、彼女はそんな感じではなかったが。
それとも真人は酔って、自分をからかっているのか。
「真面目に訊いているんだけど」
大介は怒ったように言った。
「俺も真面目に答えているよ」
「あのな、どこの世界に受験テキスト見て、泣くヤツがいるっての」
「俺も初めは驚いたけど、そういう子ってたまにいるんだよ。別に珍しくない」
大介は、にわかに信じられなかった。その意味を一生懸命考えた。
「それって何の授業だったか、覚えているか?」
「確か、大川先生の現国だったかな」
「やっぱりね」
「それじゃ、小説でも読んで、涙が出たというわけか?」
「まあ、そうだな。そういう子ってのは、小説や映画の何でもないワンシーンでも涙が出てしまうんだ」
「え? 感動したのではなくて?」
「ああ、もちろん感動の涙も流すだろうが、我々にとっては何でもない場面でも、その意味を深く掘り下げて考えてしまって、それで気持ちを高ぶらせてしまうんだろうな」
「よく意味が分からんが」
「例えば、登場人物のちょっとした行動や台詞とか、あるいは音楽の旋律が、どうしてそんなことになるのかってことを勝手に考えちゃうんだよ。それでそれらが全て負の記号に思えて、悲しくなってくる」
正直、大介には雲を掴むような話だった。
「おそらく、そういう子は過去にとても悲しいことがあったんだろう。日常生活では、その悲しみも封印されているんだが、ふと見たもの聞いたものが、間接的な引き金となって、眠っていた感情を呼び起こす。それが一気に心に広がって、自然と涙が湧いてくる」
「ふうん」
「その引き金はどんなものでも構わない。極端な話、テレビのCMにも泣けちゃうんだ」
「そういうものなのか」
では、あの日も彼女は現代国語の文章に反応して、泣いていたというわけか。
「彼女は、お前の英語の授業で泣いたことはあるのか?」
大介は訊いた。
「いや、俺の教えているのは、英文法だからな。そういった理詰めのものは、さすがに感情の入る余地はないだろう。やっぱり泣くとしたら、国語だろうな」
真人はさらに続ける。
「でも試験会場で、国語の問題に大泣きしてたら全然点数は取れないな」
真人は笑っていたが、大介は素直に笑えなかった。
3
次の日、大介は鳥澤美帆のことが気になって、コンピュータの画面に個人票を出してもらった。それによると、彼女は今年高校三年生で、国立大学を志望していた。
大介は国立文系の数学を担当することになっていたから、もしかすると、彼女とは授業で会えるかもしれなかった。
新学期が始まった。大介は最初の授業で、鳥澤美帆の姿を探した。
果たして、彼女はいた。
前の方にまだ空席があると言うのに、後ろの座席に座っていた。予備校では、学生は自分にとって興味のある授業は、なるべく前の席で受けようとする。それは、美帆は数学が好きではないということを物語っていた。
彼女は一人で通って来ているのか、隣に友達の姿は見当たらなかった。あの時と同じ眼鏡をかけて、黒板と手元のノートを交互に見比べていた。今日はもちろん泣いたりはしなかった。まさか数学の問題を見て涙が出るわけもない。
大介は慣れたもので、黒板の上で問題を解きながら、時々美帆の顔を伺った。彼女は自分の説明を少しも聞き漏らさぬように必死にノートを取り、その意味を理解しようとしていた。
大介は時々冗談を言うのだが、それも耳に入らないほど、彼女は一生懸命にノートに書かれた文字の意味を考えているようだった。
大介はこの手抜きをしない、不器用とも思える女生徒に好感を抱いた。
最初の授業が無事終わった。大介は今まで通りに自分の授業スタイルを貫いた。このやり方に反発して、何人の生徒が途中で消えていくだろうか。
大介は、どこかの安物講師のように、楽して数学ができるようになりますよ、などというキャッチコピーで、生徒を惹きつける気はさらさらなかった。やはり一年間、みっちり努力してもらうつもりでいた。
時は流れ、夏休みが近づいていた。
文系クラスの受験生たちも、随分と自分に慣れてきたようだった。
美帆は徐々に前の席に座るようになり、授業中の冗談にも笑顔を見せるようになっていた。
大介はそんな彼女と話をしてみたかった。しかし現役生は夜の授業を受けている。終了時刻は十時を過ぎる。よって、あまり込み入った話はできそうもない。
チャイムが鳴ると、大介は教壇を降りて、美帆の傍まで行った。
「鳥澤さん」
美帆は突然名前を呼ばれたので、びっくりしたような表情を作った。
大介は気軽に彼女を呼んでしまったが、よく考えてみると、講師の方から特定の生徒に呼びかけるのは、いかにも不自然であった。他の生徒の目もある。大介は何とか理由を模索したが、すぐに見つけられなかった。
「鳥澤さん、今日の授業は理解できたかい?」
そんなふうに言葉を繋いだ。
「はい、一応。でも私、数学苦手だから、もう一度自分でゆっくり考えてみないと」
美帆は、しっかりした口調で言った。
「そうだね、きちんと意味を理解した上で、自分で解けるようになるまで練習することが大事だよ」
「はい、ありがとうございました」
美帆は頭を下げて、席を立った。
美帆はどこにでもいる普通の少女だった。あの日、廊下で大泣きしていた彼女を見たことがまるで夢のように思われた。
夏がやって来て、夏期講習の季節になった。高校が休みになるため、この講習は昼間に行われる。
館内は冷房が効いて快適だが、窓の外は、ビルがねじ曲がるほどの熱気に包まれていた。
夏期講習では、美帆は自分の授業を取ってくれていた。教室の一番前の座席で彼女の顔を見つけた時、さすがに嬉しくて、思わず顔がほころんだ。前列に座ってくれる生徒は、明らかにその講師のファンであることを、これまでの経験上分かっていたからだ。
美帆は以前よりも明るくなった。冗談にもよく笑ってくれる。美帆は数学に対する苦手意識を段々と克服していると思われた。このまま数学が得意科目になって、彼女が希望する大学に合格できることを、大介は心から願わずにはいられなかった。
4
講習会も半ばに差し掛かった頃、授業を終えた大介は、廊下を小走りする女子を見た。彼女はやはり大泣きしているのだった。その異常な様子に、周りの者は誰も気づいていない。それは不思議な光景だった。
「鳥澤さん」
大介はすかさず声を掛けた。
「あっ、篠原先生」
立ち止まって、美帆は大きく涙を拭うと、大介を見上げた。
「何か、悲しいことでもあったの?」
「いえ、そういうわけでは」
「もし、よかったら、聞かせてくれる?」
大介と美帆は学生食堂に来ていた。ここは昼食時間を過ぎた今、生徒の出入りはなく、ひっそりとしていた。掃除の済んだテーブルと椅子が奥まで整然と並んでいた。
大介は、美帆を近くの椅子に座らせて、それから自販機でジュースを買って、彼女に手渡した。自分も座って、美帆と正面から向き合った。
もう美帆の涙はすっかり乾いているようだった。
「国語の授業だったの?」
「はい」
「悲しい小説?」
美帆は驚いた顔を大介に向けて、
「先生、知ってたの?」
と訊いた。
「まあ、ね」
美帆はあの時と同じように目を真っ赤にしていた。自分の数学の授業では、一度も泣き顔を見せたことがなかった。それですっかり忘れかけていた。彼女は実は以前と何も変ってないのだ、と思った。
傍に設置された自販機のモーター音が、妙に大きく響いていた。
「よかったら、詳しく話してくれないか?」
大介は優しく声を掛けた。
美帆は少し躊躇したが、
「先生、私の話を聞いてくれるの?」
と瞳を大きく開いて言った。
「もちろん」
美帆は両手を胸の辺りで組むようにして、話し始めた。
鳥澤美帆は、父親の仕事の関係で、小学、中学と何度か転校を繰り返した。加えて引っ込み思案な性格もあってか、なかなか友達ができなかった。
それでも中学二年の時に、奈央子という同級生と仲良くなった。奈央子はおとなしい子だったが、近所に住んでいたこともあって、二人は一緒に過ごすことが多かった。美帆にとっては、奈央子は人生で初めてできた親友だった。
知り合って半年ほどして、奈央子は何かの病気で入院することになった。そのうち彼女は学校の同級生から忘れられた存在になってしまったが、美帆だけは毎日お見舞いに出かけていた。
ところが、奈央子の身体はどんどん衰弱して、強い薬の副作用なのか、髪の毛がみるみる抜けていった。顔も腫れ上がり、次第に同世代の女の子とは思えないほど、容姿が変貌していった。それでも美帆は病院に通い続けた。
ある日突然、美帆は奈央子の両親から、
「もう明日からは、来ないでください」
と涙混じりに言われてしまった。
それは果たして、奈央子の希望だったのか、それとも両親の意向だったのかは分からなかった。
美帆は再び、友達のいない寂しい毎日を送ることになってしまった。しかしそれよりも、病院に来ないで、と言われたことの方が大きなショックであった。
それからしばらくして、奈央子は息を引き取ったと、学校の教室で聞かされた。
昼休みの校内放送だった。
「私たちの大切な友達がお亡くなりになりました」
校長先生がそう言って、全校生徒で黙祷をした。
美帆は涙が途切れることなく溢れてきた。しかし、放送が終了した途端、さっきまで神妙な顔をしていた生徒たちは、教室を駆け回り、ふざけ合った。また教室内には、笑い声が戻っていた。
それは、いつもの休み時間と何ら変わることはなかった。その後も、いつもと変わらぬ授業が行われ、先生は冗談ばかりを言って生徒を笑わせていた。
人が一人死んでも、何も変わらない。美帆はこれまでにない孤独を感じた。教科書を両手で広げながら、涙が止まらなかった。
美帆は最も大好きだった友達を亡くしてしまった。後から、奈央子は白血病だったと聞かされた。
高校に入って、転校することはなくなったが、父親はある地方都市へ単身赴任している。母親の方も毎日仕事に出ているので、美帆は学校から帰っても、家ではいつも一人きりである。
そして一人で居ると、どうしても奈央子との死別が脳裏をよぎり、心が締め付けられる。
それを忘れようと、本を読んだり、歌を聴いたり、テレビを観るのだが、ふとしたきっかけで、美帆は悲しみの縁に追いやられる。そして止めどなく涙が出てきてしまうのだ。
「そうだったのか」
大介は最後にそう言った。それまでは一度も口を挟まず、ずっと美帆の話を聞いていた。
いつしか、居酒屋で聞いた真人の説明は少し違っていたと思った。いや、むしろ逆なのかもしれない。
美帆は何かに反応して悲しくなるのではない。自分が孤独を感じた時、昔の友達に思いが至り、悲しみが襲ってくるのだ。何とか、その感情を抑え込もうと、手近にあるテキストや本や歌を利用しようとしていただけなのだ。
美帆は話をするうちに、いつしか再び涙を流していた。
「でも、その奈央子さんは今、とても幸せかもしれないね」
「幸せ?」
美帆は思わず聞き返した。
「だって、時が経っても、それだけ鳥澤さんに想ってもらえるんだから」
美帆は黙りこくった。
大介は続ける。
「確かに幸せだけど、でも、ちょっと心苦しく思っているかもね」
「どうしてですか?」
「だって鳥澤さんには、鳥澤さんの生き方がある筈なのに、それをいつまでも奪っているからさ」
美帆は肩を震わせて泣いていた。
「たぶん、もう充分自分のことを想ってくれたから、あとはあなたの人生をしっかり生きてって、そう思っているんじゃないのかな?」
「そうでしょうか?」
「そう思うよ、僕は」
美帆は放心しているようだった。
突然、チャイムが食堂に鳴り響いた。美帆はその大きな音にも無反応だった。
大介は立ち上がった。
そうしてから、美帆の小さな頭を撫でた。大介は彼女の優しい心に感動していた。
この殺伐とした時代に、こんな子がいるのか、と思った。まだまだ世の中は捨てたものじゃない。こういった美帆のような子を、この国は大事にしなければならない筈だ。
「じゃ、僕はそろそろ行くよ。授業があるから」
美帆は何も言わなかった。
大介は美帆をその場に残して、教室へと歩き出した。
5
それから残りの夏期講習で、美帆は姿を現すことはなかった。大介は、美帆がいない教室で授業を進めながら、彼女のことをいつも考えた。
自宅に電話をして、彼女を無理やり呼び出そうか、何度もそんな気になった。しかしこれは美帆自身が考えることだ。彼女には悲しみを乗り越えてもらいたかった。もしそれに時間がかかるのなら、それでもいい。
暑い夏が終わって、いよいよ秋が訪れた。受験生が焦り始める季節である。この時期からは、日が過ぎ去るのがやたらと早くなる。模擬試験を何度か受けているうちに、あっという間にセンター試験になだれ込む。
九月の最初、大介のクラスには、長い夏を乗り切った受験生たちが戻ってきた。しかしどれだけ教室を見回しても、やはり鳥澤美帆の姿はなかった。
大介は落胆しながらも、授業を開始した。
授業が半分ほど終わったところで、教室の後ろの扉が控えめに開いた。
みんなの顔が一斉にその遅刻者に向けられる。うつ向いて立っているのは、制服姿の女子生徒だった。
鳥澤美帆だった。
顔を真っ赤にして、大介に向かって会釈をする。どうやら学校の都合で遅くなったらしい。
美帆はすぐに扉近くの空席に腰を下ろした。大介と目が合った。彼女は照れたように、少し歯を見せて笑った。
大介は心なしか、授業に力が入った。俺がここにいる全員を、そして鳥澤美帆を合格させてやる、そう魂が叫ぶ。
授業が終わると、美帆が教壇まで駆け寄ってきた。
「篠原先生、遅刻してごめんなさい」
頭を下げる。
「いいよ。その代わり鳥澤さんには、特別に大量の宿題あげるから」
「えー」
美帆は普通の少女に戻っていた。こんなに陽気な美帆を初めて見た。大介は嬉しくなる。
「先生、学校で受けた模試なんですけど、数学以外、全部点数が上がったの」
「そりゃよかった、っておい!」
大介と美帆はお互いに笑った。
「うそ、うそ。本当は先生のおかげで、数学もちょっとだけ上がったよ」
「そうか、頑張ったな」
大介は心から言った。
「もう、国語は大丈夫か?」
「はい、たぶん」
美帆はしっかりした口調で答えた。
「先生、ありがとう」
そう言い残して、美帆は教室を出て行った。
周りの生徒たちが呆気に取られて、二人のやり取りを見ていた。
6
大介の机には受験生からの年賀状が届けられていた。
その中には、鳥澤美帆の年賀状があった。
「教育学部に合格して、地方の小学校の教師になりたいです」
しっかりした文字で、そう書いてあった。
地方、という言葉に、彼女の控え目なところが出ていると思った。彼女ならきっといい教師になれる気がする。決して要領はよくないが、優しい心で、人の気持ちに敏感な生徒を育ててほしい、大介はそう願った。
センター試験が終わると、私立、そして国立二次試験が次々と押し寄せてくる。
予備校は、目が回るほど忙しい時期に突入していた。
とうとう今日が、大介の最後の授業となった。
ここまで来ると、受験生に必要なのは知識なんかではない。一年を乗り切った自信、これこそが合格する必要条件となる。
ついに最後のチャイムが鳴った。もう時間だ。何か言い忘れたことはないだろうか。大介はもう一度頭を巡らせる。
「そうそう、合格したら、一番最後でいいから、電話をくれ。頼むよ」
最後にそんな言葉を口にして、授業を終えた。
「篠原先生」
教室のみんなが廊下に出て行く中、一人、鳥澤美帆がその場に残っていた。
「先生、いろいろありがとう」
そう言って、カバンの中から何やら取り出した。
「これ」
美帆は両手で大介に差し出す。
可愛いリボンのついた小さな包みだった。
「僕に?」
「はい。私、先生と出会えてよかったです」
よく見ると、美帆の目には涙が滲んでいた。
大介が何かを言おうとすると、
「あっ、これは違います。お別れの涙です」
美帆は、きっぱり言い切った。
大介は思わず笑った。
「合格しても、しなくても、先生に一番に電話するね」
「いや、まずはお家の人だろ、普通は」
「ううん、だって家には誰もいないもの」
「そうか」
美帆の孤独は相変わらずか、と思った。そういえば、自分の授業では、彼女は一度も泣かなかった。孤独を感じなかったということか。それともついていくのに精一杯で、それどころではなかったのか。
「絶対合格して、いい先生になれよ」
大介は力強く言った。
「はい」
美帆は元気に返事をしてから、カバンを肩に掛けた。
「じゃあ、先生、さようなら」
美帆はそう言うと、急に大介に背を向けた。
どうやら泣いているようだった。それを見せないように扉の方へ駆け出した。
これまで様々な受験生が、自分の目の前を駆け抜けていったが、鳥澤美帆のような子は初めてだった。
この国の教育システムや、試験制度は、彼女のような不器用で、世渡りが下手な人物を、埋没させてしまわないかと心配になる。本来、社会に最も必要なのは、美帆のような人間味豊かな人材ではないのか。
また三月がやって来た。
窓の外の桜が、花を咲かせ始めた。
職員室には電話が何本も鳴っている。講師にとって、一年の努力が報われる瞬間である。
大介は机に置かれた、象のマスコットを指で弾いた。美帆から貰ったプレゼントである。右半分は泣き顔、左半分は笑顔のおかしな象である。もちろん、左側をこちらに向けて置いてある。
誰かが大介の名前を呼んだ。
「鳥澤って子から電話ですよ」
「はーい」
大介は弾かれたように席を立った。
やっと来たか。心臓が高鳴る。一人の生徒のことで、これほど緊張したことは、今まで一度もなかった。
受話器を奪うようにして取った。
「もしもし」
大介は勢い込んで言った。
完
受験生よ、涙を流せ