ブルースカイ
最愛の人
母さんがいなくなった。
母さんが俺の前から、いなくなってしまった。
何処を探しても見つからない。
もう何処にもいない。
いるはずがない。
目の前にいるのは、大好きなあの人の姿。
今にも寝息を立てて。
眠るように見えるのは、俺だけなのか?
だけど、もう決して動きやしない。
ここにあるのは。
母さんであって、母さんじゃないから。
涙も出ないなんて、最悪だな…俺。
こうなると、わかっていたはずなのに。
わかってたはずなのに。
俺の身体まで動かなくなる。
そんな俺を、怪訝するような目つきで見詰めてくる看護師。
なんだよ。
わかってんだよ。
いや、お前になにがわかるって言うんだよ。
そんな目で俺を見て、なんなんだよ。
だんだん呼吸が荒くなってきて。
息苦しくなる。
わかってる。
俺が全部悪いんだ。
母さんを死なせたのは、俺のせいだから。
雨
人の顔も、まともに見ることができない。
今の俺の心境。
母さんがいなくなってから、数日が経った。
ロサンゼルスに出張していた父さんも、母さんの知らせを受けて帰国した。
久々に会ったっていうのに、何も嬉しくない。
俺は今。
母さんに、最後の挨拶をしに来た知人や友人に。
父さんと並んで、受け付け場で会釈を交わす。
母さんの葬式が始まった当初は、なんとなく参列者の顔を見ていたけど。
みんな顔を歪ませて、ハンカチを口にあてる。
そして俺に向かって。
「つらいわよねぇ。」
どの参列者も、同じ台詞を俺に投げ掛ける。
途中から、顔も見ることができないくらい。
不愉快さが体中を駆け巡っていた。
苛立ち
父さんはそんな俺を気にかけず。
参列者に、何度も頭を下げているだけ。
いつになったら終わるんだろ。
そんなことばかりしか、頭に浮かんでこなかった。
つらいとか、苦しいとか。
何も知らない奴に、軽々しく言われたくない。
不愉快さが、今度は苛立ちに変わっていく。
目の前で死んだ母さんを、目の当たりにしている俺はどうなるんだよ。
涙一つ流さない俺のことを、心配しているのか?
ふざけんな。
言葉すら発しなくなった俺の様子に。
今頃気づいた父さんは、不意に俺の頭を撫でてきた。
だけど俺は。
父さんの手を払いのけると、勢いに任せて受け付け所から飛び出した。
照れ臭いとか、恥ずかしさとかじゃない。
俺は父さんにも腹が立っていた。
外に出ると、曇り空だったさっきまでとは打って変わって。
大粒の雨が、地面を叩きつけるように降り注いでいた。
涙
一瞬、足がすくむように躊躇ったけど。
雨が降っていようが、気にも止めず走り出す。
梅雨の時期のせいで、蒸し暑さを感じながら体中が濡れていく。
何故こんなにも必死で、母さんの葬式から遠ざかって行くんだろう。
気がつけば、雨で濡れた頬に生暖かさがあった。
目頭が熱くて、視界がぼやける。
その内、走る足もスピードを落として立ち止まる。
そっか、俺。
泣いてるんだ。
さっきまで涙なんか、一粒も出なかったのに。
泣いていることを認識した途端に、どんどん涙が溢れ出てくる。
悔しい。
ただ、悔しい。
お前は無力だって、神様が俺に言ってるみたいで。
母さんを守れなくて。
悔しいんだ。
やるせなさと歯痒さが痛いほど感じる。
どうしていつもこうなんだよ。
俺ばっか。
俺ばっかり…。
公園
もう自分でも抑えられなくなって、悲しみを声に滲ませる。
「くそっ…。」
幸いなのか。
目的もなく走って辿り着いた場所は、誰もいない公園だった。
本音を言えば、今の俺を誰も見ないで欲しい。
俺が居ると知っていても、無視して欲しい。
母さんの死を通して、人間というはかなさを知った。
それが今の俺には、虚しさにしか変わらない。
言葉にならない。
泣き声が雨音にかき消される。
母さんにもう一度会いたい。
こんな俺を許しくれって、母さんに言いたい。
それだけじゃない。
俺…、母さんに伝えたいこといっぱいあるんだよ。
飽きるほど、母さんに聞かせたい話が山ほどあるんだよ。
なんで母さんなんだ…。
よりにもよって、なんで俺の母さんなんだよ…。
息が詰まって、呼吸が不安定になる。
このまま死んだら…、なんて考えて。
限界。
…誰か助けて。
惨め
雨が地面を叩きつけるように、俺をも激しく叩き続ける。
次第に体温を奪われていく気がして、蒸し暑いはずなのに寒さを感じた。
俺はこの先、どう生きていけばいいんだろう。
やりたかったことも無くなって、大切にしていた人も居なくなって。
今の俺には、未来を考える余裕なんてこれっぽっちもないのに…。
完全に、自分を見失ったんだと思った。
身体を小さく丸めて、泣きじゃくる俺はとても惨めで情けない。
あの日から、フラッシュバックを見るようになった。
母さんが居なくなった瞬間が、何度も頭の中でリプレイされる。
やめてくれ。
そう願うのに、思い通りにならない。
苦しくて、地面に拳を振り下ろす。
力いっぱい、何度も何度も振り下ろす。
痛くたってどうでもいい。
苦しい。
つらい。
そんな想いを、地面にぶつける。
もう一度、拳を振り下ろそうとしたときだった。
兄
上がった腕が動かない。
おまけに、身体が濡れていく感覚もない。
「はぁ…はぁ…。」
荒い息遣いと共に、黒い影が重なる。
「なに…してんだよ。」
掴まれていた腕が解放されて、力無くダラリと落ちる。
そこにいる人物が誰なのか、わかってはいるけど。
突然、頭の中が真っ白になって、引っ込んでいた涙もまた溢れ出てきて。
その傍にいる人物が、一番俺に近い存在だからこそなのかな。
気付いてもらえて、ホッとしてる自分がいる。
本当は心の何処かで、輝に来てほしいって思っていた。
今の俺を一番理解してくれるのは、輝だけだから。
背中を摩られて、少しは落ち着いてきたような気がしてきた。
「…風邪引くぞ。」
こういうときに限って、輝が年上なんだと感じる。
なんとか立ち上がって、公園にあった便所で雨宿りをした。
便所
俺を探して走っていたのか、輝のTシャツが所々濡れている。
雨で濡れたのかな。
それとも、この湿気くさい暑さのせいなのかな。
頭に思い浮かんでくることは、本当にどうでもいいことばかりで。
上の空っていうか、今だけ時間が止まっているような感じがする。
「はぁ…終わった?」
思わずため息がこぼれる。
本当は母さんの話なんか、したくないのに。
「まだ。」
自分から切り出しておいて、後悔する。
まだかよ。
俺は今、何にこんなに苛立っているのだろう。
「詳しいことはあとで話し合うみたいだけど、お前家に来るって?」
予想してた展開。
輝と霞さんの家に引き取られるのか。
まぁ、ばあちゃん家よりはマシだな。
「…ああ。」
父さんとも一緒に暮らしたいとか思わないし。
ただ、霞さん気まずいだろうな。
「…そっか。じゃあ、俺から伝えとくわ。」
軽く頷くだけの返事。
まだちょっと、ぼーっとする。
ブルースカイ