家路
家へ帰ろう。
そう願う僕の家路は、まだはるか彼方。
夕方と言うには少し早い時間、僕は京都駅の雑踏の中に居た。京都の街は何時も懐かしい。
出張先の創業者は、僕が初めて関西に勤務した時『牧野の坊ン』そう言って可愛がってくれた人だ。会社は代替りしていたが鶴の一声、「牧野の坊ンが、そこまで言うンならええやろ」そう言ってくれた。この歳になってまで坊ン……あの頃は会長もまだ五十になるかならないか、脂の乗っていた頃だった。そう言えば、この方が僕に鮒寿司の洗礼をしてくれた。目が笑っていたのを思い出す。噂では生ゴミの様な匂いがすると聞いていたが、気にならなかった。邪道なのかも知れないが、わさび醤油で食べると鮒に入っているタマゴがカラスミの様にねっとりと酒の肴に旨かった。
そして京都は礼子と初めて朝を迎えた街。あわただしく挙げた結婚式の翌々日、『文明開化』そんな言葉が似合いそうな京都市役所に近いホテルでのことだった。昨今では考えられないかも知れないが、それまでにも短い夜はあったが、でも二人とも親元で暮らしていたから、朝を迎えるチャンスはなかった。あの頃の京都駅は、食パンに低い駅舎が突き刺さっている様に見えた。もう三十年以上前の話だ。
長いエスカレーターを登り、駅ビルの寿司屋で折りを貰って新幹線のホームに向かう。途中の売店で礼子と親父殿の好物、京野菜の漬物をいくつかとビールを買う。今日は直帰でグリーン車も押さえてある、明日は土曜で誰にも遠慮は要らない。座席に着き早速ビールを開ける。明るいうちからのビールは何故か一味増す様な気がする。静かに滑り出した新幹線の窓にこする様に建つ古寺を振り返ると駅ビルの陰から京都タワーが顔を出す。一口、二口とビールを口に運び、寿司折りを開けようかと思った時、携帯が震えた。自社ドメインのメール、嫌な予感がする。開けば『某社トラブル、至急連絡して下さい』一行だけ。寿司をおあずけにしてデッキで会社に電話をする。用件は、某社のプラントがテロリストに襲われ行方不明者が出た、会社に顔を出せ。この仕事をしてればたまにある。僕自身も戦乱に巻き込まれ、生死不明と言われた事もあった。いくつかの指示を出して席に戻り寿司折を開く。行儀悪い事甚だしいが、携帯でニュースを見ながら寿司をつまんだ。下手をすると長丁場になるかも知れない。
駅のコインロッカーに土産物を突っ込み、会社に向かう。土産物をぶら下げて行ったらヒンシュクものだ。別荘も愛人も持っていないが、気遣いのカケラは持っている。
社内は、何時もより少しざわついていた。エレベーターで自分のフロアまで上がると窓越しに街の明かりが広がる。エアコンで快適に調整された室内、清潔なオフィスが蛍光灯に変わって入ったLED照明に照らされている。
「牧野次長、部長が第一会議室へ入って下さいと……」
アタッシェケースを置くと、部下の阿部がUSBメディアとプリントアウトを持ってきた。
「今日現在の現場の現場の状況と人員の名簿です。状況は、パワポ(パワーポイント)、名簿はエクセルのままです」
「ありがとう」
足早に第一会議室に向かう。中ではもう主要な役職者が揃っていた。
「牧野、来たか」
坂口常務の声、専務は見えない、情報収集に官庁詣でに行っているのだろう。常務は、僕が初めて海外の現場に出た時の現地の所長、それ以来の長いつき合いだ。第一会議室には、巨大な世界地図が掛かり、プライム(主契約)かベンダー(協力)かを問わず、全ての事業展開が表示されている。部長と目が合う、部長の横に座り小声でブリーフィング内容を打ち合わせる。今日の時点での問題点だけをピックアップして流す事で決まった。部長は、実績も人望も十分な人だが、南米・アフリカを中心に廻っていたため中近東とは縁が薄い。ブリーフィングが始まる。
「次、中東」
中東は全般的には落ち着いているが、一部浮動状況の場所がある事だけを言って終わろうとした時、坂口常務の声が掛かる。
「イエメンか?」
「はい、APAQ(アラビア半島のアルカイーダ)のお陰で少しピリピリしてます」
「現地には誰が?」
「正木光司郎、以下十七名です」
プロジェクターの画面をパワーポイントからエクセルに切り替え、タブをクリックしてイエメンの名簿を写す。正木なら何とでもするだろうと言う安心感がある。
「誰かを現地に行かせるなら何をすればいい?」
「物は要らないと思いますが、バタついた時のためにキャッシュ、とりあえず米ドルで二万、三千は少額紙幣で」
「そんなに要りますか?」
経理屋は何時もこうだ。自分が見張っていないと僕たちが金を無駄にばらまくと思っている。現場に何年か置いてから経理をさせなければ、本当の金の使い方は理解出来ないだろう。バカと経理に付ける薬はない。
「認める。準備しろ」
社長の声に経理屋が渋々と引っ込む。ざまぁ見ろ、腹の中で叫ぶ。僕はガキのままかと一瞬後悔するが、次の瞬間には消え失せる。
例えば、市場で一個十円で買えるコンクリートブロック百個を千百円で買う。これを経理屋は高いと言う。大量に買えば安くなる、そう信じ切っている。かえって安いのが分かっていない。当然、輸送料も含むが、もっと重要なものも含んでいるのを経理屋は知らない。日本の常識が何処でも通じる訳はない。特に弊社が行くゲリラなどが出没する地域では「みかじめ料」も含んでいる。経費に堂々と計上出来る訳はないし、株主総会で報告できる訳もない。日本人と付き合っていれば金が入る、得をする、だから大事にされるのだ。利益がある、そう思って貰わなければ身代金目当ての人質になるか、何かの名目で殺される事もある。そうなれば、会社も見舞金その他で相当の出費になる。その上、遺体のエンバーミング(防腐処理)や空輸費用は高額だ。これでは経費削減どころではない。建設費の見積りも同じだ。工事間にどんな事故が何件起きて、何人死んで、何人不具になって、だから幾ら金がかかって、そうやって金額を積み上げる。あまり事故が続くと保険屋もいい顔をしなくなり、保険料も上がり利益は減る。無事故ならその分の金が浮き、会社の儲けになる。そして僕達はボーナスと言うオコボレにありつく。僕達のような技術屋の命は金で計れる。
「牧野、誰を行かせる?」
部長と視線が合う、頷きが返ってくる。
「僕で宜しければ」
「行ってくれるか?」
危険が好きな訳じゃない、もちろん死にたい訳でもない、僕がやらなければ……そんな御高潔な理由でもない。多分、日本人はミトコンドリア・イヴの土地から気の遠くなる程の時間を掛けて「あっちへ行ったら何があるだろう」「こっちへ行ったら面白そうだ」そう言いながら、累々と屍を残しつつ、テクテクと歩いてアジアの隅までやって来た好奇心の固まりの様な連中の末裔だと思う。だから、その遺伝子が僕たちを動かす、そして技術屋の看板が僕たちを働かせる。雀百まで踊り忘れず、技術屋死ぬまで現場忘れずだ。
「現地を見て来ます」
就業時間を過ぎたオフィスには、まだ何人も残っている。視線が集まる。テレビのニュースは、依然、状況不明をを伝えていた。
「阿部。当分の間、代理を頼む。上も了解済みだ」
「現地ですか?」
「ああ、プラン作らせてくれるか?」
回る現場をリストアップし、その経路と滞在時間のプランを立てさせる。重点箇所のピックアップ、経費・時間共に効率的な視察順序、移動コース設定、予備プラン、部下には考えさせて鍛える。言われた事をやっていれば良いのは新人だけ。何故こう考えるのか、何故こうするのかを自分で組み立てられない奴は使い物にならない。言葉の不自由な場所で、プレッシャーの中で瞬時の判断の出来ない奴は足手まといになる。アウトラインを示せば自分で煮詰めていける人材を育てなければ先細りになってしまう。
「月曜の朝イチに案を頼む。それと注意点は分かっているな」
イスラム諸国を回るコースにイスラエルを中継させたら失格だ。日本アカ軍だかバカ軍だかと名乗る低脳共の御陰で、中東で唯一日本人に厳しい国だ。
あの時、テルアビブ空港で土産に持っていった羊羹をプラスチック爆薬と勘違いされ、自動小銃を突き付けられて別室に連れて行かれ、鞄の内張まで剥がされ、羊羹もダメにされた。モチロン弁償などはしてもらえない。検査の後「もう行って良い」とけんもほろろに放り出された。しかし僕は紳士で、彼等の苦労も解るから不平不満を口に出さず腹の中で叫ぶ、「ポーランドのオシュベンチャムへ行ってしまえ」と。オシュベンチャムのドイツ語読みはアウシュビッツだ。
更に悪い事にイスラエルを中継するとイスラム諸国とイスラエルの両方から痛くもない腹を探られる事もある。文字通りスパイ扱いだ。
「じゃあ、よろしく頼む」
そう言ってフロアを後にした。正面玄関を出たところで坂口常務に声を掛けられ、昔よく通った店へ足を運ぶ。日の暮れた街は、莫大な電力とメンテナンス費用をかけた街灯に照らされている。高級クラブ程ではないが、あの頃の僕にはちょっと背伸びをした様な店、店中に敷きつめられた臙脂色にペイズリー模様の絨毯は、まるでアラビアの砂のように柔らかく靴底を包む。テーブルに着くと、ママがオールドパー・クラシックのボトルを運んで来る。
「坂口さん。常務にもなると良い酒呑んでますね」
「お前はトリスにするか?」
「ご相伴にあずかります」
今では常務だが、あの頃は現場の所長、僕はそこで一番下っ端だった。中東の現場で見た夕焼け色の液体が入ったグラスが合わせられた。
初めての海外へ行ったのは貨物船だった。貨物監視人と言う役で毎日二回、自社の積み荷を固定しているラッシングベルトの緩みとコンテナを点検する仕事だった。
横浜港のコンテナヤード(集荷場)に届いた資材、機材、部品、そして油脂類や薬品をパッキングリストと照らし合わせてコンテナに詰め船積みをする。FCL(荷主専用コンテナ)なので、遠慮は要らない。カルボイと呼ばれる籐巻されたガラスの硫酸瓶……昨今は全部プラスチックになってしまい、硫酸瓶なんていう言葉も聞かなくなった……その中にイスラム圏では御法度の「リポビタンZ」と社内で呼ばれる液体を税関職員から見える所で硫酸瓶に移し替える。容量はウイスキー瓶で二十五本だ。COCOM(ココム:対共産圏輸出統制委員会)の統制品は煩かったが、イスラム圏に旨い液体を送るのは同情の目で見てくれた。
夕方、横浜港を出港する。乗船の直前に先輩の青木さんが、船旅セットと言って小さなナップサックをくれた。船室で中を開けると酔い止め、ウイスキー、エロ雑誌、新聞、そして何十枚かのビニール袋だった。しかし、よく見ると通常のビニール袋と違い、〇.二㎜の分厚いビニールだ。
出港の時は、船長の計らいでブリッジから日本を眺める。夕暮れの中、街明かりが遠ざかる。それを眺めていると何故かセンチメンタルな気分になってくる。『嗚呼堂々の輸送船、さらば祖国よ栄えあれ、遙かに仰ぐ宮城の……』、伯父の歌声を思い出す。伯父はスマトラ、祖父は仏領印度支那、戦地へ向かった時の気持ちが少し分かったような気がした。
三浦岬を右に見て、伊豆半島沖を通り外洋に乗り出すと船の揺れが心持ち強くなる。御前崎を過ぎる頃には夜の闇に包まれ、遠く水平線に明かりが並ぶ。周囲に明かりのない海は、信じられない程の星空だ。
翌朝、エンジンの振動で目を覚ます。何となく体がふらつく様な気がするが、大量に貰った酔い止めを口に放り込み朝食に向かう。ぐしゃっとしたスクランブルエッグと焦げかけたベーコン、茹でたブロッコリー、パンにコーヒー、良く言えば洋風モーニングセットだ。周囲にはベルリッツで習う英語と違う英語らしき言語が威勢良く飛び交う。良く言えば異国情緒満点だ。船長の栗田さんと一等航海士の小澤さん、それにボースンと呼ばれる甲板長の石井さんは日本人だが、船員の多くはフィリピン人やベトナム人、船医は赤ら顔のポルトガル人で、船乗りの薬はバガッソ(ワインのカストリ焼酎)と言って憚らない。怪我をしたら「アックァ・ツゥィーン(赤チン)」、体調が悪いと「アスピリン」、これ以外の仕事は一度も見なかった。この船で約三十日の良く言えばロマンチック・クルーズだ。
三日もすると飽きてくる、毎日船の中をうろうろと歩き回る以外にやる事はない。それが一変したのは出港から四日目の夜、台湾の沖を過ぎた時だった。
夕方、ラッシングベルトを点検しに行った時は大丈夫だったが、夕食後から船が揺れ始めた。幅のあるロー、ピッチ、ヨーの揺れ、グラグラと左右に揺れたかと思うと次の瞬間突き上げる様に上がってストンと落ちる。三次元振動検査を受けている様な気がする。夕食が吹き出す様に胃から戻ってくる。酔い止めを飲むとそれも戻ってくる。手元にあった何枚かのビニール袋はたちまちなくなって「船旅セット」のビニール袋を取り出し、その中に戻す。横になってもダメ、立っていても座っていてもどうしようもない。船の揺れに合わせて口を縛ったビニール袋が床を転げ回る。やがて滑り止めの付いた床に擦れて薄手のビニール袋は破ける。片付けようとすると、その匂いでまた戻ってくる。もう胃液も出ない。厚手のビニール袋の意味が分かった。船旅セットの新聞紙でビニール袋を覆ったところまでは覚えている。
翌朝、僕は気絶する様にベットに転がっていた。ゴンゴンとドアを叩く音で目が覚める。
「エイ・ユー、チャックンヤ・カァゴ! ユー・チャックンヤ・カァゴ!」
「???」
ややあって、「Hey you. Check your cargo. (おい、貨物を点検しろ)」だと分かった。
船酔いでふらつくのか船が揺れているのかよく分からない。足を無理矢理動かし、手すりに掴まりながらハッチと呼ばれるドアに向かう。甲板に出る前にボースンの石田さんにカラビナ付きのロープが二本付いたベルトを渡され腰に巻く。手すりにロープを掛けソロソロと歩く。海水のしぶきが体を濡らす。BGMにド演歌が聞こえそうだ。やっとの思いで積荷の所に着くと何本かのラッシングベルトが少し緩んでいる。増し締めをすると、カチッカチッと鳴るラッシングベルトのラチェット音になぜか涙がこぼれてきた。このまま手を抜いていたら危なかった。億単位の機材をダメにしたら僕の辞表ぐらいで済む訳はない。気が付くと、いつの間にか船酔いは少し収まっていた。
フィリピンに近づく頃には体が船に慣れ揺れを楽しめる様になり、その日も朝の点検を終えブリッジにお邪魔した。
「船長、行って来ます」
「俺の分も頼む」
一等航海士の小澤さんが一升瓶を持ってブリッジを出てゆく。
「小澤さん、何処行くんですか?」
ここはレイテ沖海戦の海域で、慰霊のための酒を持ってゆくと伺った。
「ご一緒して宜しいですか?」
快諾を受け自室のウイスキーを持って、小澤さんに従ってデッキに向かう。その道すがら海上自衛隊を定年しても海から離れられず、航海士として船に乗っていると伺ったが、どう見ても五十歳位にしか見えない。その時、自衛隊の定年は五十二歳だと知った。
甲板で石井さんが合流し、三人並んでデッキで黙祷を捧げ、日本酒とウイスキーを海に流し合掌する。それからお二人に色々な話を伺った。遠く見える島影はロンブロン諸島と言って、それに囲まれたシブヤン海で戦艦武蔵が沈んだ事、正確な位置は分かっていない事、これから通るマラッカ海峡は海賊の名所である事、奥さんとお嬢さんを日本に残して船に乗った事。それを聞いた時、礼子を思い出した。礼子に逢いたい。でも航海は半分も終わっていない。
それからは御神酒の効用だろうか、穏やかな海が続いた。
ママがカラオケの機械を持って来た。
「今夜はずいぶんお静かね。坂口さんお歌は?」
「若いのが歌うさ」
「僕を若いなんて言ったら、JARO(ジャロ:日本広告審査機構)に叱られますよ」
もう若くない。つい先日まで昭和入社だ平成入社だと言っていたが、平成生まれが現場に出てる。初老という言葉を甘受しなければならない時期が遠くないのは、膝と腰で感じている。
「じゃあ、カスバの女をお願いします」
この歌は、初めてアラビア湾(ペルシャ湾)の現場に出た時に覚えた。三十時間以上飛行機を乗り継いで、やっと辿り着くアラビアンナイトの地、ヨーロッパを基準にすれば中近東、日本からは大遠西だ。砂に触れると、礼子の長い髪の様にさらさらと指の間を滑り落ちるが、きな粉の様な細かい砂が手の平に残る。この砂は本当にタチが悪いのを後で知った。閉め切った室内でも入り込んできて、機械故障の原因になる。その上、砂嵐の中では視界が全く効かず、現地人でも道に迷って死ぬ事もある。更に僕達を困らせたのがサンドフライと呼ばれる二㎜くらいの小さな羽虫だ。それに刺されると蚊に刺された時の3倍くらい赤く腫れ、猛烈にかゆく夜も寝られない、かゆみ止めも効かない。思いあまって医務室から勝手に拝借した局所麻酔薬のリドカインゼリーを塗ってごまかす。しかし、これが後でとんでもない事になるとは思ってもいなかった。
何日か後、同期の渡辺の作業服の背中が黒く汚れている事に気が付いた。今日はオイルを使っていないのにと不審に思って近づくと作業服の背中が濡れている。よく見ると肩からタラタラと血が流れている。
「おい、痛くないのか?」
「リドカイン塗ってるから……これは効くなぁ」
のんきな事を言っているのを横目に医務室に連れて行くと、ドイツ人の医師が目をむいた。すぐに治療の準備が始まったが、医師が僕を横に呼んで聞いてきた。
「あの男はドラッグ(麻薬)の常習者なのか?」
痛がらないのを不審に思ったのだろう。仕方なくサンドフライのかゆみ止めにリドカインを失敬して使っていた事を話すと、医師が言い放った。
「日本人はクレイジーだ」
渡辺は日本人の代表ではない。お前だってシュバイツァーと同じドイツ人だとは思えない、そう言いたかった。渡辺の傷が一週間程で治ったのは、不幸中の幸いだったが、所長からは大目玉を食らった。
「牧野さん。お歌入りますよ」
カラオケが流れ始める。哀愁を帯びたメロディーが、あの頃を思い出させてくれる。その瞬間、一寸した悪戯心が顔を出す……替え歌……あの現場で歌っていた。
遊びじゃないのさ 男の現場
カアチャン残して はるばる来たぜ
ここは地の果て アラビアの
プラント工事の終わるまで
逃げては帰らぬ 日本には
桜の蕾が綻び始めた頃、僕は礼子と結婚した。僕が二十三で礼子が二十二、佐久間礼子は牧野礼子になってくれた。今だったら若いと言われるだろうが、当時はまだ「女はクリスマスケーキ」などと言われた時代……二十四までは売手市場、二十五は叩き売り、二十六を過ぎたら生ゴミ……昨今では、口に出す奴は居ないだろう。初めて二人で暮らしたアパートに掛けた牧野圭一/礼子と記したプラスチックの表札は今も取ってある。
礼子の実家は、江戸時代から続く和菓子屋で、屋号は涼香堂と言う。そこの三人姉妹の次女が礼子だ。店の菓子杜氏と呼ばれる職人さん達や売り子さん達からは『中(なか)のお嬢さん』と呼ばれていた。そして僕の実家は車やバイクを商っていて、兄が跡を継いでいる。だから結婚が決まった時、牧野の次男坊を婿に取ったなどと商店会に噂が流れたのは知っている。でも僕は、しがないサラリーマンだ。
暖かな陽が神社の境内にぽつぽつと開く桜に降り注ぐ。僕は両親・親族と佐久間家のハイヤーの車列を待っていた。
車列が神社に着き、礼子のご両親・親族が白無垢姿の礼子と一緒に降りてくる。文字通り「惚れ直す」そんな感じだ。ザクザクと玉砂利を踏む音以外の音がこの世から消え去った様な気がした。
説明だけで予行も何も無し、雅楽の流れる神殿の中で文字通りのぶっつけ本番で結婚式は始まった。神主さんの祝詞を受け、誓詞を奉読し、見様見真似で玉串を捧げ、杯を交わし、指輪を交換した。神主さんに「末永くお幸せに」と言われて式が終わったの気が付いた。バカみたいに緊張していた。でも衣通姫(そとおりひめ)の笑顔は、まさに礼子の笑顔なのだろう、そう思った。
披露宴の後、僕たちはそれぞれの家へ帰り最後の夜を過ごした。急な転勤で日が迫っていたから新婚旅行へ行く時間の余裕はなかった、つまり僕たちは新婚初夜と言うモノを経験していない。
翌朝、少し重い頭で朝食を摂り、身の回りの物を詰めたバックを持って両親と駐車場に出た。車のトランクにバック放り込んで乗り込む。ちょっとした旅行に行く様な気安さで実家を後にする。車の窓を開けると、まだ少し肌寒い。礼子の実家までは十分程度、いつものドライブのつもりで向かったが玄関先を見て驚いた。礼子だけではなく、ご両親に店の杜氏さんや売り子さんまで出ていた。僕が大きなスーツケースを車のトランクに積み込んでいる時、礼子が玄関先で御両親に深々と頭を下げ「お世話になりました」と言っていた。これが格式の違いなのかと思う。ご近所の方も出て来る、菓子杜氏さんや売り子さん達の声に見送られ車を出した。
メインストリートから国道へ、やがてインターチェンジへ、礼子は窓の外を見たまま一言も口をきかない。高速道路に乗ると僕たちが生まれ育ち、出逢った街が山並みの向こうへ消えていく。左手を礼子の肩へ回す。
「ずっと一緒にいよう」
返事はなかったが、僕の左肩に頭が預けられる。でもこの言葉が二年もしないで反古になるとは、この時には微塵も思わなかった。
午後も半ばを過ぎ、京都東のインターチェンジを降りる。新幹線の高架と併走する道を走り京都市内の宿に向かう。右折し鴨川沿いに走ると、地元では綻び始めたばかりの桜が満開だった。今夜から礼子を家に送らない、礼子と一緒に過ごす。その高揚感は何と言っていいか分からない。
初めて二人で迎えた朝。目が覚めると礼子と目が合った「おはよう」そう言うのがやっとだった。
朝食後にホテルをチェックアウトし、昨日と逆方向に走り、低い峠を越えて大津の街に入る。会社の斡旋してくれたアパート、そこで僕達の暮らしが始まった。二人で暮らす部屋は、六畳・四畳半の二間にユニットバス・キッチンだけ。でも誰にも気兼ねすることもなく二人で過ごす。手を伸ばせばそこには礼子の温もりがある。毎日が夢の様に幸せだった。
大津で暮らし始めて一年、礼子のお腹には一人目の子供が宿っていた。その年の初夏の事だった。憧れていた海外事業部への内示、まさに登竜門に到達した気がした。それに海外事業部は本社勤務、僕達の生まれ育った街から通勤圏内だ。しかし、お腹の大きな礼子に過ごし易そうなアパートはなかなか見つからず、思いあまって礼子の実家に相談したが、返ってきたのは意外な言葉だった。礼子の実家で暮らさないかと。あの時はまだ、義姉の陽子さんも義妹の弥生ちゃんも独身で、その方が礼子も気が楽かと思い、ご厄介になる事にし、僕はアラビア湾(ペルシャ湾)での仕事に向かった。
しかし、大きなお腹で実家に戻った礼子に出戻り云々、心ない言葉があったとも聞いたが、そんな言葉には実家の菓子杜氏さんや売り子さん達が「中のお嬢さんのご主人は、世界を股に掛けるビジネスマン」などと、公正取引委員会から是正勧告を受けそうなフォローをして貰ったと伺った。
「おい、懐かしいなァ」
「二番、お願いします」
坂口さんにマイクを手渡した。
プラント建設 弊社で良けりゃ
製油、浄水、天然ガスも
花は現場の砂に咲く
熱い太陽 浴びながら
帝国工機のドサ回り
社内でドサ回りと呼ばれている海外勤務、その六ヶ月毎に与えられる四週間の休暇、アッラー・アクバール!(アラーは偉大なり)、そう叫びたくなる。日本に帰れる、礼子に逢える、まだ実感はなかったが子供に会える。出発する時は、お腹の中にいた子供が生まれていた。まだEメールの無い時代、会社のテレックスを思いっきり私用に使い、同期に子供の名前の案を礼子の実家まで届けて貰う、米国人を真似て文末にILY(I Love Youの略)と入れて送った。意味が伝わったかどうかは分からない。そして決めた名前は、茜。初めて二人だけで暮らした大津、比叡山に沈む夕日に映える琵琶湖の暖かな茜色、諍い事とは無縁に、たおやかな娘に、そう願って命名した。
休暇初日、車で現場からマタール(空港)のある街まで送ってもらい、一泊して翌朝一番の南回りで日本へ帰る。土産物と夕食を求めてスーク(市場)に向かう。ふらふらと彷徨う異国の地、気分だけは一端の国際人だ。頭からすっぽりと被る黒いアパーヤ姿の現地女性、すれ違う瞬間に一陣の風がアパーヤの裾を乱し、中に纏うエメラルドグリーンのドレスとヒールの高いサンダルがちらりと見える。外観は黒いお化けのQ太郎のようだが、その中は明るい色のドレスが多く感じる。不用意に眺めていると揉め事の原因になるので目をそらすが、ふわりと礼子と同じシャンプー香りが漂う。スークを彷徨ううちに貴金属店のネックレスに目が止まる。宝石は全くの門外漢だが、トパーズは分かる。礼子の誕生石、エンゲージリングもトパーズだった。
「アッサラーム・アライク(こんにちは)」
「ミン・アイナ・アンタ?(どこから来た)」
「アナー・ミバル・ヤバーン(日本から)」
その瞬間、巨漢の店主が相好を崩した。
「日本、ドイツ、同盟、ドイツ、ユダヤ、いっぱい殺す、良い国!」
歴史の教科書を吹っ飛ばす様な発言に驚いたが、此処には此処の常識がある。そして僕には目的がある。
「ウリードゥ(欲しい)、ムアナー・ゼウジャ(私の妻)、ハッディーヤ(プレゼント)、イクドゥ(ネックレス)、ヤァクート・アスファル(トパーズ)」
片言と言うのもおこがましい、単語の羅列だけ。目に付いたネックレスを指差す。
「ミン・ファドゥリカ・ダァニー・アラーフ(それを見せて下さい)」
手渡されたのはアラビア風の細かい細工が施された金のチェーンにトパーズが下げられた美しいネックレスだが、いきなり二百リアル(約十万円)と言ってきた。
「ハーザー・ガーリー・ジッダン(高価過ぎる)、ハル・ユムキン・アン・タフスィムリー・アクサル(もっと負けて下さい)、ミヤ(百)!」
「ラー、ラー(ダメ、ダメ)」
両腕を振り回す大げさな身振りで店主が断り、僕は店を出ようとするが、ここから本当のアラビア式の交渉が始まる。店主が僕を引き留め、足を止めると百九十の値が告げられた。負けじと僕も値切るためのスペシウム光線やライダーキック並みの必殺技をパスポートケースから取り出す。
「ハッディーヤ!(プレゼント)、ムアナー・ザウジャ(私の妻)、レイコ・アンモゥール(礼子、美しい)、ハムサ・ワ・ミヤ(百五)!」
巨漢の店主の前に礼子の写真を並べ、ここぞとまくし立てる。白無垢に綿帽子の礼子、色打ち掛けに角隠しの礼子、二枚の写真、肩や胸の開いたウエディングドレスは、敬虔なムスリム(イスラム教徒)にはバギー(売春婦)扱いされかねない。その上、礼子は写真写りが良い。決して現物が悪いと言っているのではない。当社比三百%向上、そんな感じだ。日本国内で妻の写真を得意げに広げ、こんな台詞を日本語で、人前で、大声で言えるなら、その男は度を超えた馬鹿か大物かのどちらかだ。そもそも妻の写真を肌身離さず持ち歩くなどという事は、日本では常軌を逸してると言われるだろう。
それからしばらく値段交渉が続いたが、その中で娘が生まれた事を話したら、女の子のお守りの聖句を刻んだと言う小さな金貨みたいな飾りの付いたチェーンを渡された。二つ合わせるとそれなりの値段だったが、僕の厚かましさに辟易したのだろうか、思いがけない値段で買い取れた。
店主と握手を交わし、店を出ようとすると街路にモスク(イスラム寺院)からアザーン(礼拝への呼びかけ)の声が高く低く響きわたる。
アッラーフ・アクバール、アッラーフ・アクバール……アッラーは偉大なりと繰り返すタクビールに続き、アザーンの主文が朗々と響く。
アシュハッド・アッラー・イラッラー・イーラッラーァー、アシュハッド・アッラー・イラッラー・イーラッラーァー(我は告白す、アッラーの他に神は無し)
アシュハッド・アンナ・ムーハンマダッラー・スールッラァーァー、アシュハッド・アンナ・ムーハンマダッラー・スールッラァーァー(我は告白す、ムハンマドはアッラーの使者なり)
……何となく懐かしさをも感じるのは、石焼き芋を売る声を連想させるせいかもしれない。
ハイヤー・アラッサァラーァー、ハイヤー・アラッサァラーァー(いざ、礼拝へ来たれ)
ハイヤー・アラルファラーァー、ハイヤー・アラルファラーァー(いざ、救いのため来たれ)
……キリスト教に賛美歌は有れど、イスラム教には必要ないという理由が分かる気がする。
アッラーフ・アクバール、アッラーフ・アクバール、ラー・イラーハ・イッラーッラァー(アラーの他に神はなし)……。
間もなく夕暮れだ。店を離れられない店主達が各々の店先で礼拝をする。両手を耳の高さに上げ、次にその手を膝に付け深くお辞儀をしたら、もう一度両手を耳の高さに上げる。そして手を下ろし、ひざまづき頭を付ける。仏教の五体投地と似ている。どの宗教も大同小異、言わば目糞鼻糞だ。それでも礼節を重んじる日本人として、見下ろして突っ立っているのも悪いと思い、同じ様に正座する。そうだ、アッラーの神様にも半年間世話になったし、一ヶ月後にはまた世話になる。行きずりの神社で賽銭箱へ五円玉を放り込む様なつもりで祈った。祈りの文句は、現地人がやっているのを聞いていたので何となく覚えている。アラビア語と言っても方言の数は凄まじい、日本語風のが有ったって構わないだろう。お得意の良い訳は、インシャッラー(アラーの思し召しのままに)、ヤー・ガッファール(赦すお方よ)。
短い祈りが終わると十数人の男に囲まれた。
「ヤーバニー(日本人)お前はムスリムか?」
「アッラーは、約束を守る事と許す事を教えている。良いと思う」
どうせ全ての宗教は、似た様な事を教えている。宗教のエッセンスみたいなものだ。これさえ言っていれば大きく外さない。学校の小論文で赤点を取らないコツと共通だろう。それにジーザス(Jesus)は、ファッキン(Fuck'n)の係助詞としか思っていないし、結婚式には神前で玉串を捧げた葬式仏教の僕に大きな影響はない。
「アッラーを信じるか?」
「アラビア語、よく分からない。アッラーの言葉、良い、思う」
言葉は分からない事にしていた方が便利な時がある。謙譲の美徳や惻隠の情も通じるとは限らない。
「日本人にもムスリムはいるのか?」
「いる、寺院もある、清浄な食物も買える。知らないのか?」
清浄な食物とはイスラム式の処理をした畜肉だ。
「皆ムスリムか?」
「違う。ブッダを信じる者もイーサー(イエス)を信じる者もいる。でも平和だ。アッラーは、許す事を教えている」
ハッタリ八分の説明にざわめきが広がる。それはそうだ、変な日本人がアッラーの教えを口走っている。それからの雑談では、政治的な話やヤバそうな話は言葉が分からないで押し通す。面倒になったら日本語でしゃべって「ヘフダ・フラォウン(分かりますか?)」と言い抜ける。
「お前は何をしに来た?」
「この国が豊かになる手伝い。プラントを作っている」
さすがに弊社にご用命下さいとは言わなかったが、何人もの男達が握手を求めてくる。握手だけなら良いが、アラビア式の親愛の情は正直ありがた迷惑だ。ヒゲ面の男と頬をすり合せて喜ぶ様な特殊な趣味は持っていない。
「日本の服は綺麗だと聞くが本当か」
ここぞとばかりに礼子の写真を広げる。どよめきが広がる。
「これは誰だ?」
「僕の妻だ、見ろ」
色打ち掛けの礼子の脇に立つ紋付き袴の僕を指差す。
「何時もこんな服を着ているのか」
「アルース(花嫁)の服だ」
その後も口々に質問が飛んでくる。お前達の店は、そんなに暇なのかと突っ込んでみたくなる。誰かが縁の欠けたカップに入った濃いコーヒーを手渡してくれる。
「日本人は魚を生で食べるのは本当か」
「魚、薄く切る、ショウユ、知ってるか? 豆と塩で作るソース。それとワサビ、辛いソース、一緒に食べる。ラズィーズ(旨い)」
「ワサビって何だ。フィルフィル(胡椒)か?」
「胡椒よりもっと辛い木」
いい加減疲れてきたので、夕食の時間だと言って立ち去ろうとしたら、食事をして行けとの御誘いに少々厚かましいかとも思ったが遠慮無く呼ばれた。
街角の青天井に屋根代わりの布が張られたレストラン。次々と運ばれる料理、僕にも直径三〇センチ程もある大きな取り皿が渡される。その皿にバイキングの様に盛って食べる。焼いた羊の肉は香辛料がピリッと効いて旨い。羊とタマネギとシシトウみたいな野菜を煮込んだミネストローネ風のシチューは、かすかな酸味でさっぱりしている。しぎ焼きの汁がたっぷりといった感じの巨大なナスと葉ネギの様なものの料理。生のニンジンとキュウリ、赤カブやニラに似た生野菜のサラダには酢の効いたドレッシング、キュウリやトマトのピクルスの様なもの。ズブダ(バター)の香りがするルッズ(米)は、チャーハンの様にぱらっとしている。米に掛けるソースも赤っぽいカレーみたいで辛いものや、甘酢あんのような味のする物。デザートに出された砂糖漬けのナツメやアンズは、一口で糖尿病になりそうな程甘い。惜しむらくはビールではなく、ソーダやコーラが出る事だ。香辛料の効いた羊とビールは良く合いそうなのに本当に惜しい。たらふくご馳走になってしまった。
にぎやかな食事が終わり、このままではまた帰れなくなると思い、立ち上がって店主達にアラビア式の深いお辞儀をして、食事のお礼を言い、アラビア式の別れの挨拶「アッサラーム・アルァイクム・ワ・ルゥフマトゥラー(皆さんの上に平安とアッラーのお恵みがあります様に)」そう言って立ち去ろうとした時、また平安を祈る声と親愛の情を掛けて貰った。そしてホテルへ歩いて戻り、正露丸を飲んだ。
「牧野、デュエット、デュエット」
常務の声に三番はオッサンのデュエット……違う、ロマンス・グレーのアンサンブルだ。
家へ帰れば 子供が泣くぜ
知らないオジサン 怖いと言って
次はアジアか アフリカか
超える赤道 変更線
帝国工機の作業服
南米へ初めて行ったのは、井戸の掘削と浄水プラントの建設、そして給水設備一式だった。某社が建設後追加金有りのCPFで契約を提示したところ、弊社の営業が定額工費で建設するランプ・サム契約でもぎ取ってきたと聞いた。コンペティター(競合相手)対策なのかも知れない。此処の現場には「When in Rome, do as the Romans do.(郷に入りては郷に従え)」を是としないジョブ・ショッパー(短期契約外人技術者)は居ず作業員も現地人で、工事自体はスムーズに進み、もう少しで完成という時の事だった。
その日の作業を終え、運転手兼ボディーガードのチャベスが運転するダットラでホテルに戻る。チャベスは軍人上がりで、いつも車の中にベルギー製の自動小銃を載せていた。
その途中、ドンッ! 動物をはねた様な音がしたが、衝撃はない。チャベスがものすごい急ブレーキをかけ、車を森に突っ込む。事故かと思ったら車から引き吊り降ろされる。
「アヴリル・フエゴ!(銃撃だ)」
そう言って僕は地面に引き倒された。それまでも射撃場で拳銃やライフルを撃ったり、こっちへ来てからもチャベスの自動小銃を撃たせて貰ったりした事はあるが、撃たれたのは初めてだった。パンッっと爆竹のような音を立てて銃弾が通ってから、ドゥーンと銃声が聞こえる。テレビドラマの銃声とは全く違う。
「弾は高く飛んでる、遠い、大丈夫、少し、このまま」
引き倒された所は、水たまりだった。乾いた所に移ろうとしたらチャベスに引き戻された。
「水ある、低い、安全」
なるほど、そう言うものかと思っていたらシャッシャッと笹の葉が擦れ合う様な音が聞こえる。チャベスの大きな手が、怖い物見たさでキョロキョロしている僕の頭を水たまりに突っ込む。
「低い、近い、危険」
そのうち「カンッ」という空き缶を蹴った様な音が聞こえた。
「弾、車、当たった」
でも「カンッ」の音を聞いた時、「ロン」は勘弁してくれと思ったのを覚えている。なぜそんなダジャレ紛いの事を思ったのか今でも分からないが、突如思ってもみない事態に直面した時、人は妙な事を考えるのかも知れない。
ガシャン! 伏せている僕の耳元でチャベスが銃に弾を込める音がする。『異域之鬼』そんな言葉が頭に浮かぶ。
時間の感覚が消える頃、チャベスに引き起こされた。
「もう大丈夫。ホテル帰る」
後で聞いたところによれば、警察軍と麻薬グループとの銃撃戦だった様だ。
数ヵ月後、そんな思いをして帰った家で礼子と三人の子供達が僕を迎えてくれた。茜と康隆は「お帰りなさい」と言ってくれたけれど、二歳になったばかりの桜は、ずっと礼子の後ろに隠れている。抱き上げると、目が救いを求めるように礼子の方を向く。これは寂しかった。膝に乗ってもらえる様になったのは、二週間もたってからだった。
グラスの氷が照明を反射し、南十字星の様にきらりと光る。また現場へ出られる、高揚感が心をあの頃に戻す。
「牧野、頼むぞ」
「承知しました。不在間の事は、よろしくお願いします」
常務と別れて駅へ行き、ホームに上がる。飲んでも腹をこわさず無料で飲める水道を横目に、金さえ入れれば動く自動販売機で冷えたお茶を買う。岩塩を口に放り込み、太陽に炙られ熱湯の様になった水を飲みながら作業をした事を思えば、これこそが贅沢だと思う。時刻表どおりに動く電車が来る。電車の窓から見える家々の明かりやネオンが、これでもかと言わんばかりに揃ったインフラに埋まった街を照らす。生まれてから死ぬまでに一回もホールド・アップをされない。銃撃戦に巻き込まれない。溶けかけたチョコレートの様にも見える腐乱死体、そのかすかに甘い様で目を刺す刺激臭、黒い水蒸気の様に一斉に飛び立つハエの羽音を知らない。日本では当たり前、その当たり前が当たり前でない場所もこの世には多い。玲瓏と言う言葉が最も似合う国、そこに住んでいては分からない。それが分かるには、一度外から見る必要があるのかも知れない。でも利己主義者と思われても、礼子や子供や孫に見せたいとは思わない。此処にいる限り、銀のスプーンを銜え、薔薇色の雲に包まれて暮らしているようなものかもしれないから。
改札を抜け、歳相応の貫禄を身に付けない様に街路樹の道を歩いて帰る。所々に五分咲きの桜が街灯に照らされ白く輝く。
家に着き玄関を開けると礼子の「お帰りなさい」の声が聞こえる。高揚感が一瞬で罪悪感に変わる。リビングに入り、躊躇したが目を背けたまま口を開く。
「また出張に行ってくる」
そう言えば、礼子の目を真っ直ぐ見て大切な事を言った記憶は、プロポーズの時だけ、そんな気がする。多分、その時に一生分の根性を使い果たしたのだろう。
「中東?」
お見通しらしい。やはり頭が上がらない。
「ニュースでやっていたわ」
あの時は中東への出国を翌々日に控え、満開のツツジが咲く公園を礼子と歩いていた。
四月、今度こそは出産に間に合うかと帰国した時、三人目の桜はもう生まれていた。成田空港から駆けつけた病室、満開の桜が見える窓、逆光の中の礼子は綺麗だった。約一ヶ月の休暇、退院した礼子と子供達を連れて写真館で写真を撮った。こんな小さな子供を抱くのは初めてだ。それまでは、家へ帰るとなんとなく子供が増えているような気がしたが、今回は本当に実感した。ガーイト(くそったれ)と言われても仕方がない。
休暇を終え出国してから間もない八月二日、突然イラクのクエート進攻が始まった。NHKもVOAもBBCも短波放送は、そのニュースで持ちきりだった。帰国命令が出た日、所長に言われていくつかの回路基盤と部品をプラントから外してバックに収め、持って帰れない社外秘の部品をドラム缶に入れ、奥歯を噛みしめ、ガソリンを掛け、火を付けた。コンセプトメイクから自分の携わった部品を燃やすのが切ない。「この子捨てれば、この子飢ゆ。この子捨てざれば、我が身飢ゆ」そんな言葉が思い出される。事務所では他の所員もフロッピーや図面をかき集めていた。ジープで空港に向かう途中、振り返って砂塵の彼方にプラントを見る。異国に傷付いた親友を置き去りにするような気がした。車中、所長から「途中ではぐれたら、どんなルートでもいいから日本に向かえ」「領収書は要らない、金で命を買え」、そう言って各人に二万ドル近い現金が配られた。空港でジープを乗り捨て、所長がローカル航空会社の予約カウンターに詰め寄り、予約してあると言い張り、予約帖を奪い取って百ドル札を挟んで渡し「見ろ! ここに五人予約してあると書いてある」そう言って強引にトルコのアンカラまでの航空券を取る。パスポートチェックでは十ドル札を挟んで渡し、エプロンに駐機している塗装の剥げかけたポンコツのプロペラ旅客機に乗る。エンジンが掛かるとガタガタと揺れる機体が、ヨロヨロと飛び立つ。助かった、この時はそう思ったが、それは幻だった。途中で名前も分からない飛行場へ緊急着陸して足止めを食う。国際電話も通じない。空腹だが屋台一つ見当たらない。夕暮れ近く、同期の渡辺が何処からかペプシコーラを一ケース担いできた。車座になり、食事代わりにぬるいコーラを飲む、バチバチと胃の中で炭酸が弾け、胃が膨れあがり一瞬満腹感を感じるが、ゲップと共に萎んでゆく。その夜はブリーフケースを枕にロビーで転がる。何でこんなところで足止めをとイライラがつのって来る。発狂しそうな焦りと不安で寝付けない。
翌日の朝、ウトウトしていたら冷え込みで目が覚めた。警備員や空港職員が出てくると袖の下をばら撒き、手当たり次第に状況を聞くが、「インシャッラー(アラーの思し召しがあれば)」の言葉しか返ってこない。つまり何も分からない事だけは分かった。不安感と初めて経験する激しい空腹で気が立ってくる。元をただせばイギリスの某社とフランスの某社の工区が、ビラーズ!(くそったれ)……八つ当たりなのは分かっている、大昔の事で僕には関係ない。でも、誰かに当たっていなければ脳みそが破裂しそうだ。暇潰しにカーリウ(クルアーンの朗唱)を唱えてみる。何もする事がないよりは、いくらか気が紛れる。宗教の存在価値が少し分かった様な気がした。しかし腹は膨らまない。宗教がメシの代わりにならないのも分かった。
小額紙幣が心細くなってきた三日目の朝、空港の職員が昼にアンカラ行きの飛行機が出ると教えてくれる。クルアーン(コーラン)の第五章「アル・マーイダ(食卓の章)」……「汝信徒よ、一度取り決めた契約は全て必ず果たせ」で始まる章……に百ドル札を挟んで渡し航空券の予約を頼む。一瞥の後、紙幣が抜かれたクルアーンが返される。航空券は法外な値段だったが背に腹は代えられない。その日の昼に出るはずの飛行機は、夕方やっと飛び立つ。ガタガタと揺れるプロペラ機でアンカラへ向かう。
アンカラに着き、手分けして日本行きの便を探す。渡辺のバックに付けた日の丸のパッチのお陰で何人もの人に声を掛けてもらえた。
「お前は日本人か? どうした?」
「ベン・ジャポヌム(私、日本人)、ドンメック・ジャポン(日本に帰る)、アラマック(探す)、ウチュク(飛行機)」
単語を羅列しただけだったが意味は通じたようで、見知らぬ人のお陰で一時間後の便が見つかる、ローマでトランジットしてパリへ。翌朝、北回りで日本へ。道が見つかった、膝も手も震える、これで帰れる、そう思った途端にケバブの匂いが鼻につく。まるで飢餓難民の様に屋台に走り、紙幣を投げ出す様に渡し、小さいパンに薄切りの肉と野菜を挟んだケバブを手も口も脂でベタベタにしながら貪り、かすかに塩味のある甘くないカルピスの様なヨーグルト飲料のアイランで流し込む。肉に塗られたヒリヒリする程辛いハリッサ(唐辛子ペースト)が食道を通るのが分かる。アイランの入ったプラスチックのコップが手に付いた脂で滑る。
「時間がないぞ! パリに着いたら好きなだけ喰わしてやる!」
所長の声がなかったら乗り遅れたかもしれない。
バタバタとチェックインし、トルコ航空のジェット機に乗る。席についてシートベルトを締めても緊急着陸を思い出す、どうにも落ち着かない。機体は残照に輝くエーゲ海を越え、ギリシャを飛越すと右にアドリア海、やがてイタリア上空へ。ローマのチャンピーノ空港は煌々と輝く電灯に照らされ、上空からも分かる緑の木々が見え、安心感で腰が抜け着陸してもしばらく立ち上がれなかった。だが感激に浸っている暇はなかった。息つく間も無くトランジットでパリへ。オルリー空港に到着した時は殆ど何も覚えていない、いや、タクシーに乗ったのは覚えている。バカンス時期に予約もなく訪れたホテル。さぞ、不審な五人だったろう。汚れてヒゲも伸び放題、スーツに安全靴という珍妙な男もいる。所長がディポジット(保証金)を叩き付けフロントを黙らせる。その時、僕の目に飛び込んできたのは Téléphone の文字、ブースに飛込み、クレジットカードを取り出すのももどかしく交換に電話を掛ける。
「ジャポン! キャルトゥ・ドゥ・クレディ! テレフォーヌ……(日本、カードで、電話…)」
「モン・ムシュウ?(何でしょうか)」
フランス語しかしゃべろうとせず、何度もフランス語で聞きかえしてくる交換嬢に思わず腹が立つ。バスタ、ケル・コナーズ!(いい加減にしろ、色情狂のメス豚)。ジェントルマンとして口には出さないが、ついつい頭の中に花屋の店先みたいにカラフルなフランス語が閃く。ユヌ・ヴィエイュ・ルピィ!(糞ババア) ヴァシュ!(低能) パタート!(田舎っペ)……
やがてガチャガチャと耳障りな雑音の後、呼び出し音が鳴る。時計に目が止まる、もう二十三時を過ぎている、起きているだろうか。
「はい、佐久間でござ……」
礼子の声、理性も、見栄も、恥も、外聞も、何もかもが吹っ飛んだ。
「レェコぉーッ!」
「圭一さん?! 今どこぉっ!」
「パリだァ!」
「ァァ~ッ!」
悲鳴のような声が受話器に響き、受話器が何かにぶつかる音が耳に響く。次の瞬間、義母の声が伝わってきた。
「どうしたの! 貸しなさい!」
「礼子どォしたァ! 礼子ォ!」
「圭一さん?! 無事なの? 今どこ?」
「礼子、礼子はァ!」
「大丈夫よ、それより無事なの?」
「無事です! パリまで来ました」
次の瞬間、僕は受話器を落としそうになった。
「圭一さん無事よぉ~っ!」
驚いた。いつもは凛と和服を着て、物静かな笑顔で店先に立つ義母がこんな大声を上げるなんて。その向こうに歓声と拍手が聞こえる。二十三時になぜ? そう思った時に気が付いた。時差だ、日本は朝の六時、菓子杜氏さん達は仕事を始める時間だ。
「赤飯を炊けぇっ!」
義父の声も聞こえる。
「お母さん貸してぇっ! いつ? いつ帰ってくるの?」
礼子の涙声、腕時計を見る。フライトは明日の九時、北回りアンカレッジ経由だ。
「あと十時間で飛行機が出る。それに乗るから」
「本当? 帰って来る? 待ってるから、子供達も待ってるから、みんな待ってるから……」
当たり前だ、日本に帰るのは礼子がいるからだ。それ以外の理由なんか有る訳がない。礼子に逢いたい、子供に会いたい。それ以上の理由なんか要らない。
「他の人も順番を待ってるから切るよ。パリを出る時、また電話するから」
そう言って電話を切った。順番を待っている人なんかいない。これ以上話をしたら泣いてしまいそうだったから。
クローゼットにスーツケースを押し込んでネクタイを解き、仕舞ってあるパスポートを取り出す。更新はしているが、スタンプの数は昔程多くない。初めて取った数次パスポートは、数年でスタンプで埋まった。数次パスポートなんて言葉自体、もう死語みたいなものだ。パスポートを入れているのは友人のハンドクラフト、焦茶色の皮のパスポートケースだ。昔のパスポートサイズなので今のパスポートには少し大きいが、初めて海外勤務に出る時にプレゼントされた。このケースには中東もアフリカも南米にも付き合ってもらった。深い焦げ茶色だった皮は、角が擦れて色も褪せて来たが、まだまだ丈夫だ。この分なら定年まで付き合ってくれるだろう。パスポートケースの隠しポケットには、僕のお守りが入っている。白無垢に綿帽子の礼子、色打ち掛けに角隠しの礼子、写真の中ではまだ小さな三人の子供と礼子、三枚の写真。国内では照れくさくって持ち歩けないが、海外では威力を発揮してくれた、何回も、きっと今回も。
「今度は何日くらい?」
「多分、二週間くらい」
そう言って礼子を抱きしめた。初めて礼子を抱きしめた時、僕は高校生だった。それから時間だけは何十年も経った。普通のサラリーマンなら、こんな苦労をさせる事はなかったと思う。そうなるチャンスは何回かあった。今回だって誰かを行かせる事も出来た。馬齢を重ねた、子供達も成人した、孫も生まれた。それでも礼子に心配をかけている。本当に申し訳ないと思う。
何回も不安にさせた。
何回も心配をかけた。
何回も辛い思いをさせた。
子供が生まれる時も居たためしがなかった。
七五三の時もいなかった。
入学式も卒業式も行った事がない。
運動会も文化祭もそうだ。
家事も全て礼子に丸投げしてる。
夫としても父親としてもナンバ・テン(最低)だ。
「明日、桜を見に行かないか」
まだ少し早いかと思ったが、急に礼子と行きたくなった。
「たまには行きましょうか」
礼子のあの笑顔が、僕の目の前に在る。決めた、明日は礼子とデートだ。あの頃の様に指を絡ませ、桜の公園を歩く。
年甲斐もないと笑わば笑え。
家路