あの日のコロッケパン -上-

 寂れた商店街を通り、馴染みの総菜屋でコロッケパンを買って帰る。
育ち盛りの自分にとってこのちょっとした贅沢は、部活で酷使した体への少しばかりのご褒美である。
この時ばかりは部活での嫌な先輩の顔や、コーチの小言も忘れられる。精神衛生面においても、自分にとってコロッケパンはとても重要なのだ。
本来禁止されている買い食いをしているという子供じみた些細な背徳感も、コロッケパンを美味しく召し上がるための極上のスパイスである。

 普段から人気(ひとけ)のないこの商店街も、さすがに12月ともなるとささやかなイルミネーションを身にまとう。
近年個人宅でも総額いくらになるのか見当もつかないような飾り付けをするというのに、この商店街ときたら自分が物心ついた頃から同じデザインのものを使用している。
「変わらない良さがうちの売りだから」と、町内会長を務める電気屋のおじさんは言っているが、
毎年確実に後退していく自分の生え際のように時代に合わせた変化をしていった方がいいのではと、町の若い連中に苦言を呈されていることを本人は知らない。
中学生の世間知らずの自分ですら、この町には変化が必要だと思う。時代の移り変わりはとてもスピーディだ。今変わらないと、この商店街に明るい未来はないだろう。
この世の中で変わらなくていいもの、それはこのコロッケパンだけだ。



 揚げたてのコロッケパンを頬張り、呉服屋の角を曲がった。
急に目に飛び込んできた夕日の眩しさに一瞬目を閉じる。
目が慣れてきて通りに目をやると、いつもの風景とは違うことに気付く。長らくシャッターが下りていた花屋が営業を再開したようだ。
ここの店主は自分が小さい頃からお婆ちゃんで、母曰く「あたしが子供の頃からお婆ちゃんだった」らしい。
数年前までは毎日店をあけていたのだが、そんな生まれながらのお婆ちゃんも寄る年波には勝てないのか、体調不良を理由に店を休むことが多くなった。
そして近隣の店と同じようにシャッターが上がらなくなったのが半年前の話である。そんな花屋のシャッターが上がっているのだから違和感を覚えるのは当然のことにも思える。

 自分は花、というよりもこの花屋があまり好きではなかった。
より厳密に言うと「部活帰りの商店街にある」この花屋が好きではなかった。
理由は簡単で、自分が世界で一番のご馳走と思っている、このコロッケパンの食欲をそそる香りが、名前も知らない花々の匂いに邪魔をされるからだ。
普段は花に対してこれっぽっちも興味を持つことはないが、この時ばかりは強い匂いを放つ花が憎くてしょうがない。
店が休むようになって、これで店の前を通る度に匂いがつかないよう、いちいちコロッケパンを窮屈な鞄の中に押し込まなくて済むと喜んでいたのだが、
どうやらそんな開放的な自分とコロッケパンのひとときは、再び終わりを迎えそうだ。

 店の前に差し掛かったところで、ふと、店内に目をやる。そこには人影があった。
以前店を開けていた頃、よく飴玉をくれたお婆ちゃんに挨拶でもしようと、口の中のコロッケを名残惜しく飲み込み、店に入った。
「お婆ちゃん、こんにちは。久しぶりだね。」
声を掛けると、しゃがみ込んで何かをしていた背中が立ち上がる。そこでこの背中がお婆ちゃんではないことに気付いた。
腰までありそうな黒髪を無造作に一つに束ねている。スタイルが良いのが後姿からも分かるタイトなジーンズと黒のハイネック。
中学生にしては高めの、自分にとって数少ない自慢の一つでもある身長も、この見慣れない人物は軽々と超えていた。

 「あ、いらっしゃい。久しぶりって事は常連さんかしら?」
元気のある声でそう言いながら振り返る魅力的な後姿は、さらに魅力的なものに変わった。
日本人離れした、目鼻立ちがしっかりとした顔。揺られた黒髪からはシャンプーの良い匂いが漂う。
「あら、おばぁの常連さんにしては随分と若いわね。近所の子かな?」
少し屈みながら、顔を覗き込んでくる。
「あ、は、はい。あの、すぐそこの角曲がって4軒目の所に住んでます。」
自分でも笑い出してしまいそうなくらいに、早口で答えた。
一瞬で心拍数は跳ね上がり、呼吸も速くなり少し息苦しい。
「ふふっ、ご丁寧な説明ありがと。」
顔をくしゃっと歪ませ、女性は笑う。笑顔もいちいち綺麗だった。

 仄暗い照明の中でも、彼女の存在は輝いて見える。歳は20代後半、と言った所だろうか。
持っていた如雨露を古いレジの隣に置いたところで、彼女は口に手を当て、あっ、と呟いた。
「そういえば自己紹介がまだだったね。アイって言います。あなたが知ってるお婆ちゃんの孫。よろしくね。」
アイと名乗る女性は大きく膨らんだ自らの胸に手を当てて軽く頭を下げた。こちらもつられて頭を下げる。
頭を上げ、次はそちらの番よ、と言わんばかりに小首を傾げているアイに対して、おずおずと自己紹介をした。
「えっと、その、ヒカル、木村ヒカル、です。よ、よろしく。」
はっきりとしない口調だった。
「そっか、よろしくねヒカルちゃん」
普段ならば「ちゃん」付けで呼ばれるなど子ども扱いされているように思えて嫌な気分になるが、アイにそう呼ばれると不思議とこそばゆい。



 それからしばらくの間、アイと世間話をした。
卒業したのは何年も前になるが、自分の先輩に当たる事。アイの当時の担任が今は自分の部活の顧問をやっている事。
高校を卒業して町を離れていたが体の悪いお婆ちゃんの世話をするために戻ってきた事。
普段あまり口数は多くない自分が、この時は驚くほど饒舌だった。アイと話しているのが楽しくて仕方がなかった。
あんまり遅くなるとうちの人が心配するからと、店を出たのはすでに日もとっぷりと落ちた頃だった。

 花屋からの帰り道、先ほどから胸の奥が熱くなるこの感情は何なのか、気付くのにそう時間は掛からなかった。
そう、自分はアイに一目惚れしたのだ。
これまで部活一筋で恋愛に現を抜かすことなどなかった自分が、出会った瞬間、恋に落ちたのだ。それはもう、真っ逆さまに。
普段は神仏などまったく信じていないが、アイと出会えた感謝の気持ちを伝えるために、跪き、胸の前で十字を切り、数珠を握って空を拝んでしまいたいほどだった。
これからは毎日帰り道でアイに会える。そう思うと体が勝手にスキップを始めた。
思春期真っ只中の中学生のスキップなど、反抗期に悩む両親が見たらさぞ驚くだろう。

 衝動を抑えきれずに大きく飛び跳ねていると、口が開いた鞄の中から袋に入った食べかけのコロッケパンが転がり落ちた。
すでに冷え切ったコロッケパンを見つめながら、去り際のアイの言葉を思い出す。


「美味しそうな匂いがプンプンするけど、腹ペコで帰った方がおうちのご飯、もっと美味しく食べられるぞ?」


思い出し笑いを隠そうともせず、にんまりとしながら、
近くにあったゴミ箱に、冷えたコロッケパンを放り投げた。

この世の中で変わらなくていいもの、それは、えぇっと、なんだっけ。

あの日のコロッケパン -上-

あの日のコロッケパン -上-

いつもの商店街で、いつもと違う出会い。 中学生・ヒカルは、大人の女性・アイと出会う。 情熱的な恋心とコロッケパンは、冷めないほうがきっといい。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-23

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