木曜日の夜

経験は若いときにたくさん積むもの

 私はその日は営業の山田と次の工事を担当する工務店での打ち合わせを行い、そこの社長を伴ってちょっとした料理屋で軽く食事と酒を楽しんだ。バブルの頃はクラブだのキャバレーだの接待で行く行ったものだが今はそんな余裕も無く、おとなしく仕事をこなしている。
季節の料理と地酒で心地よくなり、工務店社長を見送った時のことだ
「先生、軽く一杯だけ行きませんか?」山田は笑顔で話しかけてきた。
 スタッフはみな私のことを社長とは呼ばず先生と呼ぶ。設計事務所らしい呼び方ではあるが先生と呼ばれるのは好きではないものの、社長よりましかとそれを許しているのだが、未だになにか違和感はある。山田が私を誘うのはおおかた上司の金でタダ酒にあやかりたいだけの事くらい察しが付く、時には部下に奢り、事務所ではできない他愛も無い話もしてガス抜きをするのも必要だしなによりそうやって部下から誘ってくれるのはありがたい話でもある。
「じゃあ一杯だけ飲みにいくか」
山田を連れ立って近くにある行きつけのバーへと向かった。
私は日頃付き合いで酒を飲むことはない。カラオケで騒ぐことも嫌いだし何より下手な歌ともならない歌を金まで出して聞かされるのはたまらない。それなら自宅でお気に入りの音楽を聞きながら飲んだほうが美味い。だから社員に誘われても金だけ出して自分は別の店へと行く。そんな時に向かうビルの5階にある昔ながらの小さなバーだった。
 ポンと音がしてエレベーターがフロアで止まり、扉が開くと今まで歩いてきた街の喧騒はなく、しーんと静まり返っている。右の奥まった所に古いトランペットがオブジェのようにはめ込まれ、店の名前「BAR Manhattan」と彫りこまれた木の看板が電球の明かりに浮き出ている。木製のドアを開けると薄暗いその店内からアート・ファーマーの奏でるフリューゲルホーンの暖かい音色と客の静かに話す声がうまくマッチし聞こえてきた。私の顔を見て掛けたバーテンダーの「いらっしゃませ」の落ち着いた低い声が二人をカウンター席へ誘った。
「へえ、先生らしいですね、こんなバーで飲んでるって」
カウンター席のスツールに並んで座り、向かいに居るバーテンダーとそう広くもない店に居る数人の男性客を見渡した山田は私にそう話しかけた。
「ああ、たまに一人で飲みたい時にぶらっと入るところだ」
山田に答えたところでバーテンが注文を聞く、私は「いつもの」と頼むと彼は「じゃあ僕は水割りを」と注文し「同じ銘柄のを」と私が付け加えると物静かに「かしこまりました」と返事を返した。
バーテンダーはボトルがずらっと並んだ棚から銘柄のボトルを取り出し、丸く削った氷をグラスに入れスコッチを注ぐほんの少しの時間、先ほどの打ち合わせの内容について話をした。そして、グラスがコースターの上に置かれるとそれを軽く持ち上げ一口口に運ぶと年代モノのスコッチ特有の深い香りが鼻腔に広がり、数回舌の上で転がすと冷たい液体が喉を降りて行く。ほど無くしそれはアルコールの熱へと変わるその僅かな時を楽しんだ。
 仕事の話や日頃の悩みを聞いて一杯目が終わり、バーテンダーに二杯目を頼んだ時のことだった。
「先生はいつからこんな店に来るようになったんですか?」
同じくグラスを傾けた山田は唐突に私に聞いた。
「なんだよいきなり」
「いや、事務所ではそんな話しないじゃないですか、車も昔の車を大事に乗っているし若い頃どんな青春だったのだろうとふと思うことがあって」
スーツ姿でネクタイをピシッと締めた山田は20代後半の青年らしく明るい表情で私に聞く。
「俺か?俺は結構硬派で群れを嫌っていて、流行にも興味なくてな。当時興味があったのは自然と人の作った造作物、車と建築、それに職人の作るものに強い興味があった」
山田を見て答えるとその目を正面にあるボトルの並んだ棚に目をやった。
「へえ、硬派だったんだ。今では考えられないですね」
「何で?今でもそうだと思うけど」
「いやそんな事無いですよ、部下にも気さくに話するし私たちも話しやすいし、それにバレンタインには女性にきちんとチョコ買ってくるマメなことろもありますし」
「ああ、あれはうちの嫁さんが気を利かせてなんだよ。俺はバレンタインなんか興味ないが嫁さんが女子社員も大事にしろってな」
私は氷で程よく冷えた琥珀色のスコッチをまた一口飲むと、小皿に盛られた胡桃をひとつ口へ放り込む。
「へえ、奥さんのアドバイスですか。幾ら硬派でもその奥さんだけと付き合ったわけじゃないですよね。やっぱり浮いた話もあったんでしょう?」
山田のグラスは半分ほどに減ってはいる、もう酔いが回ったわけではないだろうが、変に明るく私の若い時のことを聞こうとする。
「先生の青春時代って、どんな交際だったんですか?」
「どんなって?」
「付き合った相手、多いんじゃないかと思って。経験豊富そうだし色々あったでしょう?」
「いや、私はどちらかというと、そんなに女性と付き合ったわけではなんだよ。でも思い出になった女性は何人かいるな」
「思い出?」
「ああ、女性としての思い出」
「何ですかその女性としての思い出って?」交際の女の子とは違う女性としての思い出という言葉に山田は興味を持ったようだ。
「付き合いとか交際とか肉体関係とか関係ないプラトニックな交際の話さ。もっともそこまでいく、そんな勇気も気持ちもまだ無かった頃ともいえるがな」
「そんな交際で思い出になるんですか?今の若い人では考えられないような話ですね。ちょっと聞かせて貰っていいですか?今後の参考に?」
「何の参考だよ?」
「いや・・・ほら何でも興味を持っていつでも勉強だって先生いつも言うじゃないですか。だから」
山田は私の話を聞こうと理由を述べることくらい私のも分かったが、丁度今頃のことがふと頭に浮自分でも懐かしくなり思い出話を一つすることにした。
「俺の話し聞いても参考になんかならないが、まあ話してやるよ。あれは私が21の時だったな。そう丁度今頃のことだ」
そういってコースターに置かれた結露したグラスを手にすると琥珀色のウィスキーがゆらっと混ざるグラスを見ると、カランと氷がグラスに当たる音がした。喉を潤すように一口口へ運ぶと私は思い出に残った女性の話を始めた。

 それは行きつけの喫茶店に良く来る常連の女の子のことだ。
喫茶店の常連客で丸顔にショートヘアーが似合うその女性は二歳年上で保育園の保母をしていた。よく勤務の帰りにカジュアルな服装で現れカウンター席に座るとお決まりのコーヒーを飲み何てことない話を交わす。いつどちらから話をし始めたか忘れたが、お互い店の常連客で
「こんばんは、今帰り?」と話をしていた程度なのだが良く一緒になっていた。
 ある夜のこと喫茶店の木製のドアについているカウベルがカランカランと鳴り、ふとドアに目線をやると黄色いホヤの薄暗い明かりの中現れたのはいつもの彼女だった。
「当時の喫茶店にはドアにカウベルが付いてるのがあってね」
「木製のドアにカウベルって、今ではレトロな感じですね」
「ああ、当時俺が暮らしていた田舎には今のように洒落たカフェなんてなくて、あっても喫茶店だった、流れている音楽は決まって有線放送だった」
その夜現れた彼女はいつもと違い、紬の着物を着てこの店にやってきた。
「今日はどうしたの?」
見慣れた格好と着物姿のあまりのギャップに私が聞くと
「今日は着付けの教室の帰りなの」
そう答え、いつもと同じカウンター席に帯を気にすることもなく凛と背筋を伸ばして座りいつものようにコーヒーを頼んだ。カウンターではマスターが彼女のためにサイフォンで一杯だけコーヒーを立て、少しして彼女の前にソーサーに乗った臙脂の丸いカップに入ったコーヒーが出されるといい香りが隣の私の席にまで漂ってきた。
彼女は、湯気の立つ丸いカップを赤い口紅が白い肌にくっきりと引かれたその口に運び一口飲むと、口紅がカップについたのか気になったのか軽くふちを指で拭う仕草がダウンライトに照らされ、その夜の着物姿と実にマッチし年齢以上に大人の女性を感じさせるものだった。
「今思うと彼女まだ23歳だったんだな」
ふと懐かしく思うとグラスのウィスキーを一口口にする。
「今なら言葉は悪いが、23歳というとまだ幼い、ガキ・・・だな」
当時と今では年のとり方がずいぶん違うなとふと感じ誰にいうわけでもなく言葉が漏れる。
「着付け教室って、いつも行ってるの?」
「ええ、毎週木曜の夜あるんです」
それからも木曜の午後八時半過ぎは彼女の着物姿で現れるようになり、私はその時をいつも楽しみに待つようになった。そして彼女は店に来ると決まったように回りの客の目線を集めていた。
「今日も教室の帰りだね、良く似合ってるよ」
「ええ、そう今帰り。これお稽古用の着物だから」  
何回目かにはそんな会話も交わした。
「いつからか彼女のことが気になりウェイトレスの女性に話したことがあるんだ。いつも来る彼女良いですね、一度デートでもしたいものです、と。するとその中年の物静かなウェイトレスがいったのは、「彼女も誘ってくれるのを待ってますよ。分からない」返ってきたのはそんな意外な、気にもしていなかった言葉だった。」
「ええ!?そうですか?」
「そうよ、でなきゃいつも来ないでしょ」と笑顔で言われた。
「そこまで言われ初めてその意味が分かったのだから、何とも鈍いだろ」
「本当ですね」
「獲物を狙っていれば僅かな隙も見逃さないが、狙う気がないと寄ってきても気にならない。
ほら良くライオンがシマウマの近くに居ても襲わない事あるだろう」
「所長はライオンなんだ」
「ばか。たとえ話だよ」
山田は私の言葉に合わせて笑うとしまったと思ったのか
「すみません」
私のほうを見てぺこっと頭を下げた。
「それから思い切って、デートに誘ったことがある、といっても彼女の車でちょっと遠出して映画を見る、その程度のものだったな。だから生憎そういったことには疎いまだ少年だった私が女性をリードすることなど知らず淡い恋心が成就するはずも無くその女性は去っていった。最後は別の喫茶店で「で、私にどうしろというの」と言われたな。」
彼女から言われたその言葉と彼女の表情が今でもはっきりと浮かんでくる。
当時の自分の姿が思い出され可笑しくなりフンと苦笑いしてしまった。
「なんといってもまだ何も知らない子供だった私が女性の気持ちなど分かるはずもない。今でも分からないくらいだから、無理もない。そうだな少年期から青年期へ変わる時期だった。訳も無くなにかに突っ張っていた俺は女性とHするなんてこともまだ頭になかったわけだ」
「今でも分からないのですか?」
山田は最後の一口残った幾分薄くなったグラスを傾けながら意外そうな表情で私を見ながらそう聞いた。
「ああ、女性の気持ちは分からない。いや、人の気持ちがわからないというべきかな。それでも今なら経験を積んだ分それなりに大人として付き合うことは出来るだろうがな」
私は残ったウィスキーを口にすると氷とグラスが奏でる澄んだ音が響いた。次の言葉まで少し間があったが、山田は何も話さなかった。その後ろではMaidren Voyageが流れていた。
 私はこの彼女のその後の話を続けた。
「この彼女その後私の同僚で先輩と付き合っていたらしい」
「どうして付き合っていたって分かるんですか?」
「それがね、今と違い携帯電話などないだろ、連絡取るには自宅へ電話するか職場に電話を掛けるしかない。」
メールや携帯が溢れる現代と違い、連絡を取り合うのは自宅か職場への電話か手紙だった。当然そうなれば異性からの声が第三者に聞こえることになり、交際がばれるというのは当たり前の時代だった。
「職場に女性から・・・電話ですか」
「そう、たまたま私が電話に出ると「私○○と申します、だれだれさんいらっしゃいますか」と聞きなれた声がした、何度も聞いたことある声なのですぐに分かったな。その相手の男は誰彼見境無く女に声を掛けては遊ぶやつでね、彼女の時も同時に何人も掛け持ち状態だった。だから彼女に忠告しようかとも思った」
「思った!?」
「ああ、けど止めた、余計なお節介だと思ってね。その後どうなったかは知らない。ただそれだけのこと。」
しかしこの紬姿で現れた彼女が実に印象深く、遠い昔のことなのに、銀杏が黄色く色づくこの季節になると、ふと濃茶色の着物を着た彼女がにこっと笑みを浮かべながら喫茶店のドアを開けて入ってくる、そのシーンがなぜか先日のことのように思い出される。
私はグラスに残っていた解けた氷で薄まったウィスキーをクイッと煽るとタンとコースターにおいた。山田や周りのことは気にならず、どこか遠い思い出だけが私の頭を巡り遠ざかる。
「その彼女も今ではもう60前の立派なおばさんさ」
再びぼそっとひとりごとのように言葉が漏れた。
「会ってみたいと思います?」山田は興味深げに私に聞いた。
「いや、ぜんぜん思わない。ただの青春の思い出で結構だよ」
ふと吾に返ると短く答える。
「でも面白いだろ、肌を合わせたわけでもない女性だけど、それだけ何十年も記憶として残っている。たった数回木曜の夜に着物姿で現れる、そんな女性が強烈な印象としてメモリーにはっきりと焼き付けられた。そんな女性が何人かいるから、ある意味いい青春だったといってもいいのかもしれないな。君もいい相手見つけることだな、そしていつまでも記憶に残る出会いをすることだね」
腕時計に目をやると時刻の針はもう22時少し前を差していた。
「もうこんな時刻か、さて帰ろうとするか」
そういって勘定を済ますと別の男女の客が入れ替わるように入ってきた。
「今夜はありがとうございました、先生の一面を見れて楽しかったです」
山田はそういってぺこっと頭を下げる、コートを羽織ると店を後にする。
「じゃあまた明日な」
去っていく山田の後姿を追うと、ビルの明かりに照らされた歩道には黄色くなった銀杏の葉がカサカサと乾いた音を立てて折からの風に吹かれ一枚私の足元へ舞って来た。

今夜は一人で20代の思い出に浸ってみよう。

 先ほどの会話で何か昔のことを思い出してみたくなった私は、その枯葉を踏みつけると誰にも教えていない店へと歩みだした。
「私にどうしろっていうの」
最後に聞いたその言葉、今なら「簡単さ、俺と付き合おう」と笑っていえるだろう。
「クシャッ」と乾いた音だけが残り、数枚に割れた葉は再び風に舞いどこかへ流れていった。

木曜日の夜

 まだ携帯もメールもましてやコンピュータゲームも無い時代に青春を過ごした若者はある意味良かったのかもしれない。揺れる心を感じ、信じること待つことに慣れ時間の経過を意識することなく楽しんでいたのだろう。それに引き換え今の若者は直ぐに会い、いつも繋がりを求め、そして相手を深く信じられず自分を抑えられずいつも寂しがる。
 ハイテク機器、それらを一度手放してみれば身体も心も楽になるのにそれも怖くて出来ない。

 実にかわいそうな青年期を過ごしていると私は感じる。
 

木曜日の夜

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-22

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