practice(22)



二十二




 
 こういう時の『雑味』には流れて来る話が少なくない。濾した後の飲み物より,濾して固まった二杯の粉に注がれた形を見るような気分なのだ,取り出したパスケースと一緒に,上下どちらかのポケットや手に持った鞄のその内側からポロリと落として,気付かない。それでも見つけようと思えばすぐに見つけられるのは屈んだ手で,気持ち掬うように立っていることの肝心さによる。勿論それは勤勉に果たさなければいけないことだ。変な喩えであるけれど,自分の分とお爺さんの分を水の流れで綺麗に洗い流そうと手を動かしたお婆さんに似る。
 犬もいるけど,僕の話だ。
 時刻は夕方の六時前。五時台で言うと濁点と語呂が良くなりそうな五時五十四分となっていることは身に付けている腕時計で確認した。依頼を受けた清掃帰り,特に制服から着替えもせずに駅の改札口で待っている。移動をする人が多い上に近隣に移動可能な路線が通っている便利な駅だから,改札口は出て来る人も通る人もひっきりなしの状態にある。これから会う人とは待ち合わせの時間を決めていない。到着する駅と到着するとしたらそれ以降,という時間しか伝えられていない。そうするしか,これから会う人とは出来ないのだろうことは十分に理解している。随分と無理はあるのかもしれないし,いろいろと,手続きのようなものもあるのかもしれない。
 これから会う人と会えるまでの間に決められた手順を思い返して,済ませた事実と比べてみても,何の問題もない仕上がりになっていると自負できた。自分の足跡をしたり,戸締りのために触れざるを得なかったドアノブに指紋だって付けていない。怪しい言い分になっていると自覚はしているけれども,こう表現するのが適切だから仕方が無いのだ。
 依頼を受けた清掃帰り,決められた手順を思い返して済ませた事実と比べてみても,何の問題もない仕上がりになっている。清掃員として,僕はそう自負できる。
 何かしらと騒がしいのも気にならない,こういう時の無方向性が十分に高さが取られているアーチ型の構内に射し込む光に上手く溶けて,とろみをつける時間に駅が傾く。隣で『待て』する犬とは,駅前と繁華街との間に置かれたワンクッションのような広場で祖母から預けられてから今日を一緒に過ごし始めた。それはほんの三十分前からのことで,まだ三十分しか経っていない。祖母はそのまま予定していた買い物に出掛けていった。夕飯は友人とともに済ませて来るのだとも言っていた。これから会う人を避けているわけでないのは堂々とした背中と確かな足取りで,楽しそうに消えていったシルエットからよく分かっている。
 犬は我が家の飼い犬だ。短毛な大型犬,今は夕陽に彩られて『待て』をしている。大体が舌を長く出して,定期的に必要不可欠だとばかりにサッと短く仕舞ってからすぐに出している。僕たちとの関わりは僕が生まれる一年前に,親犬が子犬として貰われてきたことから始まっている。親犬と僕は成長過程を共にして,僕が実家を離れている間に別れた。僕が文字通りに『帰って来て』,産まれていた七匹のうち祖母が引き取った一匹として育てられていた犬は,舌を出していないときの顔が親犬に一番似ていた。すぐに懐きはしなかったけれど,目の前を通り過ぎればよく見上げられて,寝そべっていれば足下から近付かれた。今のように仲が良くなったきっかけは何だったのかは覚えていない,というか僕自身も分かっていない。とても日常的なことだったのだろう,目があったとか,頭を撫でたとかそういうところの。
 高い空を見上げているようで,実はすれ違う人を識別している。祖母とぼくだけでなく,僕と他の人においても犬はそうであると,僕と祖母は言い切る。記憶力がいいだけでなく,そこに洞察力も加わっているものだから変な話,顔を変えてもその人が犬には分かっている。それは匂いというだけでないのはぼんやりと視認するしかない距離の姿形であっても,犬も含めた知り合いが前方から向かってきていることをワンと合図する出来事の,あまりに多くの積み重ねから抜き難く想像出来る。だから犬はそれよりもその人を見ている。あるいはその人が生きることで生じる世界の変化の方を見ている。誰かに拠って立ちながら,『待て』する犬は高い空を見上げているようで,実はすれ違う人を識別している。
 匂いに頼ってばかりでない犬にこれから会う人を任せて,僕が改札口を右斜めに見据える立ち位置から見かけられる壁から壁の汚れ具合を大まかにチェックしてるのは,だからきちんと理由がある。『もしかしたら』は思われるより侮れないことは経験上知っていて,これから会う人にはそれが一番起こっているかもしれないとこれまで会ってきた僕が思うのだから,打てる手は打っておくに越したことはない。落としたところから一番遠い棚の下に,見つけられなかった外国通貨を見つけたときのような新鮮な驚きなんて,あり得ない。軽く濡らした布巾で拭った形で綺麗になる,本来のガラス窓からでもいいから覗ける視界を覗く努力を怠らない役割分担が必要になる。隣り合う一人,隣する一匹。あっちを見つめて,こっちを見る。
「すいません。」
 構内の広さにかまけて,清掃が行き届いていないのでないかということをもう既に思い始めていたその呼び掛けに応じたのは隣で『待て』する犬が無反応という反応を,気になるぐらいに十分な間で僕だけによく伝えるように返してきたからだった。関わろうとしている人に,ひと鳴きもしないことはまず無い。
 呼びかけた主の全身は黒,髪も黒で肌色が薄いその女性は肩口から向こう側の景色が伺えるショートの長さで世界とのバランスを絶妙に保っていると思われるぐらいの物足りなさで第一印象を押し付けた。「すいません。」と二度聞けばまた気付く,声の明朗さもかえって良くない。浮世離れが余計に彫られて目立つだけだった。
 合う目は,筋とおった鼻に支えられてひどく大きい。動かない丸さは動く口元と合わさって小さい顔を終えていた。
「はい。」
 僕がただ返事をしたのは,犬の様子を伺うことに意識を集中させたからだった。役割分担を守る犬は高い空を見上げているようで,改札口を出て入る人たちを一人一人に分けて見ている。これから会う人を今もまだきちんと探している。だから問題があるとすれば,識別すべき人の中に立ち位置として最も近い,この女性を一瞥もしてもいないであろうということだった。夕暮れに映える短毛を乗せて,尻尾も横に一回,二回と振られてもいる。
「何か?」
 そう聞く短い返答にはそれ自体に意味が込められて,察する女性も笑みを浮かべて僕の右後方を指差した。振り向かせることに目的があることに変わりはなかったであろうけど,それから先の,想定をするのに時間はかかった。女性が一言,「あそこの,」と言って大股で二歩,僕より先に後方に歩み出して,そこで振り返っても視界に捉えられるようになったのでなければ,言われる通りに振り返ったかは分からない。女性は差した指を動かすことなく,今度は僕の方に振り返ってまた聞いた。
「親子のような二人,見えますか?」
 そう言う女性から目を転じて,指先で示される先を見れば構内に設置されているカフェテリアがあって,吹き抜けの天井には夕暮れの空が眺められる外テーブルが椅子とともに三組置かれていた。そのどれもが埋まっていて,うち一つには確かに親子の姿があった。頼んだのであろうケーキを食べている女の子が正面から僕に見えて,親であろう男性のゆったりとした背中が認められる。煙草は咥えたままで,火を着けていないであろうことが何と無く様子として知ることが出来た。
「はい,見えますが,それが何か?」
 とても満足しています。言葉にしていなくても,目の前で見せた微笑みでそれを確かに表した女性は小幅な一歩をこちらに進めて,「取るに足らないことで,すいません。」と言ってまた小幅で一歩,また近づいて来た。黒のショートブーツの踵の音がまた地面に到着したことをしっかりと伝えて来る。ショートカットの先端が先の親子に被さって,僕から見えない位置に置かれていた。
 女性は言った。
「一つお願いがあります。」
 僕は振り返っただけだったから今も隣で『待て』する犬の様子はよく見えた。きらきら光っている短毛を生やしてその背中は,やっぱり何も気付いていない。また一歩,進んで来た女性の足も上手いこと避けて,尻尾も向こうに行ってしまった。タイミングはどうにかして測られている。次いで時間の潰し方も,大事に問われている。
「聞いて頂けますか?」
 近付いて女性は確認する。僕は言った。
「聞くだけなら。叶えられるかどうかはもちろん別にして。」
 それで結構,と笑みで語る女性はそこで立ち止まり,改めて身を正してから耳にかかる髪の毛を一度手櫛で通した。はらりと落ちて,それから動かなくなった毛先はそれから女性の様子をまた一つ変えた。射し込んでいた光の中に埋没しない黒が立体感を衣服の形にどうにか留めている。動的なものは,女性の中で落ち着いていない。
「あの親子に足りないものを,指摘して頂けませんか?」
「足りないもの?」
「はい,貴方が思うもので。あったらいいと思うものを。」
 笑みが崩れない女性に真剣さは迫って来ない。ただ失くなってはない,磨耗して舞う粉のように存在感だけ感じさせている。ここで断ったところで,それをきっかけとする事が起こるわけもなく,ただ別の人に聞くだけだろう。また最初から,続けてここまで。
 まるで生んだ生まれたの関係だ。事実はそうしてここに来る。
 頭を撫でたのは初めてじゃない。互いに慣れ親しんでからは数える気もないぐらいに結構な回数を重ねている。褒めてあげるときもあったなら,気紛れのときも,触りたくてそこに手を置き続けただけのようなときもあったはず,だからそ触れたくなった今も何かある。短毛に刺激されるようなものが。
「あったらいい,とは思わないものでも良いですか?」
 僕が言ったことに首を傾げる女性が「あったらいいと思わない,ものですか?」と問い直す。その理由を僕は説明する必要があった。
「一目見て足りないものと思うものは,あるものです。けれどそれは僕が望んでいるものではありません。それは僕にとってもたらされ過ぎてきて,あったらいいと思わないのです。」
「それはあの,親子のように見える二人に必要なことなのですか?」
「そうですね,恐らくは。」
 女性の笑みが言う,それなら構わないに,促される先には女性が待つものもあるのだろう。動的なものは,笑みとある。
「変化じゃないですか。あの二人の間には,ちょっとしたことからでも良いからそれが必要だと思います。」
「何故です?何故そう思います?」
 女性は佇まいを崩さずに尋ねてくる。
「閉じやすい数ですから。」
 僕は淡々と言う。
「二人っきりは。」
 そこで黙った女性の黒が雑踏に囲まれて,外側から与えられる静けさに行き場のない波紋が内側に広がっていた。敏感に感じられる理由は鏡の原理より易しいはずである。僕はもう少し話した。
「測りやすいのは悪くない。でも測れる距離が限られるとそれで全てを測らざるを得ません。測ろうとして用いている定規自体が足りないことに気付けないのは,ときに良くないことにもなる。」
 女性の笑みの時間も遅々として,女性はもう内側に居た。ショートカットの髪も揺れず,ショートブーツも一歩を踏まない。僕も全く移動していない。
「僕の母のような人はそれを嫌って,変化を続けた人でしたから,それもまた良くないことと知っています。測ろうにもその距離が開きすぎでしたから。」
 女性を安心させるために言ったことは,そこまでにした。足取りとともに見えなくなる背中に祖母は怒号と気持ちをきちんとぶつけてくれた。僕の代わりという意識があってもなくても,僕は祖母に感謝している。
「変化は,例えばどんなものが?」
 動的気配のエネルギーが振り向かせたカフェテリアの方角に,視線と言葉を残しながら女性の質問は僕に向けて発せられた。答える僕に,答えがあるわけではない。だから例えばは,『もしかしたら』とあるほんの一つの例だ。
「例えば,見失うとか。」
 それでこちらを向いた女性は黒いショートカットを揺らして,驚きと笑みを一度消してから改めて笑んだ。動かない丸い目に動かした口元を合わして小さい顔でもう一つの質問で終えようとしていた。
「見失う,というのは例えば?」
 僕が答えた。
「例えば,てんとう虫とか。お天道様に翔んでいくのでも。」
 聞いて歩く女性はやはり黒のショートブーツで歩いた。小幅で一歩一歩,足が地面に着いたことを知らせる音には儚く消えそうな黒が付いて来て,「そうですか。いえ,そうですね。」と言葉を落とした。揺れるショートカットの先には,隠されていたカフェテリアに居る親子のような二人と,微笑みも交わされているような気配が伺えて僕に背中を見せる男性は相変わらず,煙草の火を着けているように見えなかった。女の子はケーキを食べ終わりそうになっていて,肩口のの世界が動いていた。
  視線を改め直す女性が笑みを動かして言う,ご迷惑をお掛けしました,にはお礼の気持ちの代わりになり得るものがひっそりと閉じられてあった。僕も軽く一礼する,それから横を通り過ぎる女性の後を振り返りつつ見上げれば全身の黒の印象が失われずに離れつつあった。雑踏の中に消える前にこちらを見て言った女性は物足りなさを,黒に綺麗に浮かべていた。
 女性は言う。
「会えるといいですね。」
 隣で『待て』する犬がワンと鳴いて,僕は頭を撫でた。
「どうやら会えそうです。また。」




 大切な時間の潰し方が,大切に問われている。
 もとから通じ合っているコミュニケーションのように,追い掛ける言葉や触れ合いがちな動作が表れたり消えたり,消えたり表れたりして間に積み重ねられていく。濾した後の飲み物より,濾して固まった二杯の粉に注がれた形を見るような気分にぎこちなさも混じれば,懐かしさも感じられて指で触れたくなる。きっと指先に残る汚れは柔らかい土のように洗って拭うまで落ちず,指腹でこすれば広がるばかりで匂いはその時々できっと変わる。その時は,無味乾燥より一歩近い。
 女性は去って,カフェテリアの二人に背を向けた僕はこれから会う人に会って歩く。『もしかしたら』とした心配は顔を出さず,けれど気紛れに立ち寄った先で待ちぼうけは食わされる。次は温かいものを飲ませてくれるというけれど,それなら先程待ち合わせた場所から近かった,カフェテリアで良かったと思うのだ。
 けれど,特に待つのは慣れている。勿論隣に犬もいるけど,これは僕の話だ。

practice(22)

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-22

Copyrighted
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