ブラックコーヒー
コーヒーの味なんてわからない。ただ苦いだけじゃん。なんで文也さんはこんな真っ黒で、飲み物とは思えないようなものを飲むのだろうか。
「ちーちゃんも大人になったらわかるよ」
そう言って笑う顔はまだまだ子供みたいで、二十歳の私より年上とは思えない。
「大人になったらって、私もう成人してるんですけど!」
ついでに社会人でもあります、と言うと、大きくて厚い手の平で頭をぐしゃぐしゃにされる。それがとても心地よくて、眉間に皺を寄せながらも頬は緩んでしまう。嫌がらせのつもりでやっているつもりなんだろうけど、これはご褒美だ。
ある程度ぐしゃぐしゃにされると、文也さんは満足したように頷き、私が持っていたスーツの背広に腕を通す。先日クリーニングに出したばかりと言っただけあって、まるで新品のようだ。文也さんは腕時計などのアクセサリーを付けると、私の前で少し屈む。私は青と白のスプライト柄のネクタイに腕を伸ばし、ネクタイの歪みをチェックする。
「それじゃあまた明後日の夜に会おう」
「うん、いってらっしゃい」
最後に軽いキスをして、文也さんはそう言って出社してしまった。
残された私は、文也さんが食べていった朝食の後片付けをする。ベーコンエッグにポテトサラダ、クロワッサンにブラックコーヒー。マグカップに少し残されたコーヒーの匂いをかいでみる。やはり臭い。試しに舌先で舐めてみると、思わず顔を歪めてしまった。やっぱりコーヒーなんて美味しくない。
*
私が文也さんと出会ったのはもう一年前。私が働いているメンズブランド店に文也さんがやって来たのが始まりだ。お互い、一目見た時から惹かれるものがあった。猫っ毛で茶色がかった髪の毛と、笑うと目じりに皺ができる優しい笑顔がとても印象的で、私はすぐに彼の虜になった。彼もまた、私を気に入ってくれ、出会って間もなく恋仲となった。
文也さんは見た目こそ二十代後半だが、実際は三十代であり、その割には腕や腹筋周りはしっかりと筋肉がついている。なんでも、定期的にジムに通い体を動かしているのだという。そんな彼の腕の中で眠るのが私の一番の至福の時間なのだ。
私と文也さんが会えるのは火曜日と木曜日の夜。文也さんの会社は残業が多く、火曜日と木曜日はノー残業デーなので、その日しか会うことはできない。本当はもっと会いたいが、そこは我慢。重い女にはなりたくない。だから私は彼の前では弱音は吐かないし、彼の予定に純情に従う。文也さんもそんな私を好いてくれている。「こんなに面倒くさくない付き合いは初めてだ」と。
そう言われて、私は顔がにやけてしまう。そして、少しだけ悲しくなってしまう。
*
木曜日の夜。二十一時過ぎにインターフォンが鳴った。私はすぐさま駆け寄る。ドアを開くとコンビニ袋を持った文也さんがいた。
「ただいま、コンビニでちーちゃんが好きそうなお菓子あったから買ってきちゃった」
そう言ってネクタイに指を絡めて緩める。この仕草がとっても大好きだ。妙なエロさ感じてしまう。仕事で疲れ切った哀愁漂う雰囲気と、骨ばった指、大きくてきれいな鎖骨が非常にマッチしている。
文也さんはどっかりとソファーに座ると私に手招きをする。私はいそいそと文也さんに近づき、文也さんに向き合うように膝の上にまたがった。
「疲れたよー、癒してー」
あの厚い手の平が私の両頬を包み込んだ。少しだけ柔軟剤の匂いが鼻をかすめる。少しだけ心臓が締め付けられた。文也さんはそっと唇を重ねる。甘いリップ音が数回響いた。そのたびに柔軟剤の香りが鼻をかすめる。それがとても辛くて、文也さんの頭を掴んで、思い切り唇を貪った。文也さんもそれに答える様に噛みつく様にキスをしてくる。自然と涙が溢れてくる。唇に涙が当たると、文也さんはそれを舐めとった。
「大丈夫?」
私の前髪をかき分けて顔を覗き込んでくる。そして指先で私の目元を拭う。
「今日はやめる?」
子供をあやすように髪の毛を撫でてくる。
私は首を横に振って、思い切り抱きついた。今、こんな状態でやめられたらそれこそ壊れてしまうかもしれない。時々あるのだ、こうやって罪悪感と切なさともどかしさで涙が出てきて、何も考えられないくらいにめちゃくちゃになりたい時が。
文也さんは私の背中に腕を回し、手慣れたように下着のホックをはずした。
*
気怠さと少しの幸福感に包まれながら目が覚めた。壁掛け時計に目をやると、まだ午前三時過ぎ。どうやら、私たちはソファーの上で情事を行った後、そのまま眠ってしまったらしい。文也さんを敷布団代わりに眠っていたらしい私は、静かに文也さんの心臓の音を聞いた。微かに、定期的に鼓動が聞こえる。筋肉質な胸板に軽く指を這わせ、肌の質感を確かめる。しばらくして、文也さんを起こさない様に慎重に起き上がった。
床に散らばっている私と文也さんの衣服。私は服を着て、その後皺になってはいけないと思いスーツをハンガーにかける。高級メンズブランドのスーツはとても肌触りがよく、気持ちよかった。
「よく稼いでるんだなぁ」
ソファーの上で大きくいびきをかいているこの人が、昼間はスーツに身を纏いきびきびと仕事をしているとは想像つかない。たしか以前、課長とか言っていたっけ。彼が務めている会社は社会的には大企業と言われており、そんな中で課長と言う肩書を持つのはすごいことらしい。
大きく伸びをし、自分の服を片付けようと持ち上げた。すると、そこにはあまり見慣れないものが落ちていた。しばらくそれと見つめ合った後、私はそれをそっとポケットへ仕舞い込んだ。
*
六時過ぎには文也さんも目覚めて一緒に朝食をとった。今日のメニューは味噌汁にごはん、焼鮭とほうれん草のお浸しにした。文也さんは味噌汁の代わりに今日もブラックコーヒーを飲む。
「ブラックコーヒーとご飯って合うの? せっかくお味噌汁作ったのに」
「ごめんごめん、やっぱり朝はブラック飲まないと気が引き締まんないんだよ」
くしゃっと目元に皺が広がる。そういうところは三十代なんだよね。可愛いからいいのだけれども。
「ちーちゃんも大人になったらわかるよ」
ほら、また。そう言ってまた私の頭をぐしゃぐしゃに撫で回す。そしていつも通りスーツに腕を通して、私にネクタイを直してもらい、腕時計をつける。
「……あれ?」
スーツのポケットを焦ったように探す。ぱんぱんと叩いたり、内ポケットのものを出したりしまったり。私はその様子をただ何も言わず、ずっと見つめていた。
しばらくすると、文也さんは少し伏し目がちに私に聞いた。
「ちーちゃんさ、知らない?」
「何が?」
「いや、あの、指輪」
私は表情を変えない様に務めた。「知らないよ」と。文也さんは困ったように頭をかいた。
「ごめん、申し訳ないんだけど、今日の夜また来るから、それまでに探しておいてほしい。なければそれでいいから」
時間ないから行くね、と言ってそそくさと出て行ってしまう。私とのキスを忘れて。でも私は何も言えなかった。きっと、今の文也さんは私とキスなんてしている暇がない位にあせっている。だから私は何も言わず、ただポケットの中の指輪をぎゅっと握りしめるしかないのだ。
ゆっくり息を吐いて、私は指輪をテーブルの上に置く。ふと、目に入った飲みかけのブラックコーヒー。一口飲んでみるが、やはり苦い。
「これが飲めるくらい大人になれば、私はあなたから離れられるのかなぁ」
今日の夜、彼にこの指輪を返さなければ。
ブラックコーヒー