桜の手紙
side 空太
桜の淡い色と甘い匂いは人の心を乱すか。
それは高校2年の時、桜の道を歩き続けた春。桜の大切さなんて知らないでいた、桜の花びらを当たり前かのように存在しないかのように踏みつけていた俺に教えてくれた桜の淡い想い。桜が俺と君とをつなげてくれた、かけがえのない出会い。
「なんだこれ」
ある日の朝、学校の下駄箱を開けると、真っ白な封筒が入っていた。ラブレターなのかと少し浮かれたのとは裏腹に、宛先も差出人も書かれていない。それに手紙のわりには、やけに薄い。いつ入れられたのかはわからない。しかし冷たい俺の手は、封筒から微かなぬくもりを感じていた。
俺は徐に封筒を開けてみる。一緒に登校してきた友人である充(みつる)も、手紙の正体が気になるのか俺の手元を覗き込んでいた。
「何も入ってないぞ」
ただのいたずらだったのだろうか。俺は封筒の中を探りながら首を傾げた。そんな俺から「ちゃんと見ろよ」と充は封筒を奪い、一番奥の隅の方からあるモノを取り出した。
「桜の花びら?」
封筒から顔を出したのは、桃色に染まった一枚の桜の花びらだった。しかも、シミなどの汚れは一切付いていない。桜から感じられる純粋さ。舞っている花びらを、優しい手でそっと包み込んだのだろうか。一瞬心が弾んだ俺に対し、「春は変なヤツが増えるからな」そう言って充は封筒を俺につき返した。興ざめしたのであろう先に教室へ向かう充を横目に、俺は丁寧にその封筒を春風と共に鞄へ仕舞った。気温が昨日より1度上がったことを感じた。
それからというものの、毎日俺の下駄箱には真っ白な封筒の姿。充は気味悪がっていたが、俺は心躍らせずにはいられなかった。一つ一つ、一通一通、桜の花びらが入っているだけ。それは最初から変わらない。だが、ほんの少しの変化がある。一日過ぎるごとに、花びらの枚数が数を重ねるのだ。俺は最近、朝を迎えるが楽しみになっていた。花びらが増えると、封筒を開けた瞬間の甘い香りも増す。それがとても心地好い。そして、俺の心の奥のどこかをくすぐっていた。春が春を重ね、日に日に温度を増す。その度に減る、桜の気配。
「明日で五枚目か」
いつもは足取り軽く帰路に着くのに、今日は違う。空気の匂いが変わった。午後から雨が降ってしまったのだ。きっと、桜は全て散ってしまうだろう。桃色だった桜は、赤く染まり痛々しい傷が出来てしまうだろう。俺は傷つけないように、鞄から封筒を取り出す。そして封筒越しに、桜の花から零れる雨の雫を眺めていた。一瞬風が吹くと、濡れた桜の花びらが学ランの袖につく。これがきっと最後の花びら。
「君は一体誰なんだ」
雨が降り、桜の綺麗な花びらが無くなってしまった今、これから君はどうするのだろうか。明日の朝になってしまえば、この不思議な俺らの繋がりは、無くなってしまうのだろうか。
「この気持ち、まさか」
俺は何故だか、明日の朝を迎えるのが怖くなっていた。こんなにも俺の心は奪われてしまったのだろうか。充にもよく言われる。「お前は物好きで、鈍感なヤツだ」と。その言葉の意味をたった今、理解したような気がする。どうやら俺は、君のことを。
「君は、どんな人なのだろう」
俺の心の中に一つの大きな欲求が生まれてしまった。こんな感情になってしまったのは、生まれて初めてだ。ズキズキと痛む胸を、俺は強く握った拳でコツンと叩いた。
「俺は、君に逢いたい」
溢れ出す想いを胸に抱いて、俺は明日を待った。雨の中、色の変わった桜の道を一歩一歩進む。
side 玲奈
桜の淡い色と甘い匂いで人の心を乱せるか。
「どうしよう……」
私は朝起きて、窓から聞こえる雨の音に涙が出そうになった。昨日から降り続く雨。もしかしたらという望みは、あっけなく閉ざされてしまった。既に、桜は散ってしまっただろう。汚れた桜の花びらを、彼に渡せるはずがない。私は、春にはそぐわない冷たくなった手で目を擦った。誰にも見せることの出来ない傷だらけの心を、私はどうすればいいのだろうか。
「今更、辞めるわけにはいかない」
いつか桜は散ってしまう。いつか消えてしまう、そんなことはわかっていた。ただ、その日が早く訪れてしまっただけ。そう自分に言い聞かせながら私は急いで支度をして、真っ白な封筒を傷一つ付けないように鞄へ仕舞い、学校へと向かった。誰もいない、閑散とした道を通って。雨の音だけが私を包んでいた。傘からゆっくり落ちる雨を見つつ、目頭がじんわりと熱くなった。
カラカラと、静かに昇降口のドアを開ける。もちろん、そこに人影はない。運動部の朝練よりも早く来ているのだから当然だ。私は躊躇することなく、彼の下駄箱へと足を進める。ぽたぽたと傘から雨が降る。そのときの胸の高鳴り、熱さは、春の柔らかい暖かさを軽く上回ってしまうだろう。彼と目が合うときには敵わないけれど。
私が鞄から封筒を取り出し、彼の下駄箱へと手をかけた時だった。「玲奈?」と背後からは、聞き慣れた声。間違うはずはなかった。
「空太……くん?」
私は瞬時に、伸ばした手を引っ込める。焦って俯く私に、空太くんは不思議そうに「そこ、俺の下駄箱なんだけど」と言った。何か言い訳をしなくちゃと思うのだが、コツコツと私に近づいて来る彼の足音が気になって声が出ない。極度の緊張とは、こういうことを言うのだろうか。挙動不審な私に対して、「それ」と小さく空太くんは呟いた。
「えっ?」
やっと出た声は、裏返ってしまい、余計に羞恥心が増す。空太くんは私が持っているあるモノを指差していた。ここまで来てしまえば、言い訳の仕様がない。きっと気づいてしまったのだろう。不思議な手紙の、差出人の正体を。きっと気味が悪い犯人を暴きに来たのであろう。羞恥心と同時に罪悪感も増していく。でももう、引き下がることはできない。
「これは、私の気持ちだから」
私は震える声でそう言い、空太くんの顔を見ることなく、真っ白な封筒を手渡した。そして恥ずかしさに堪えられず、私は逃げてしまった。空太くんに嫌な思いをさせてしまっただろう。それに、あれほどあからさまな手紙を見たら、私の気持ちだってバレてしまっただろう。
外にでると、雨はいつの間にか上がっていた。
私はしばらくの間、大きな桜の木の下でうずくまっていた。湿った土の匂いが私にまとわりつく。昨日までは甘い香りに囲まれていたのに。見上げても、桜の花びらが舞うことはない。時間だけが、風のように流れていった。仕方なく私はとぼとぼと、下駄箱へと戻る。
「どうして? どうしてなの?」
そこには、未だに空太くんの姿があった。「玲奈」と私を呼び、「これ俺の気持ち」そう言って空太くんはノートの切り端を手渡す。動揺を隠しながら、パサッと開くとそこに書かれていたのは、不恰好な赤いハートが六つ。
「これって、まさか」
涙を浮かべる私に、「玲奈の真似だけど」と空太くんは照れくさそうに笑った。
「ありがとう、空太くん」
そのとき私たちの間には、甘い香りと共に、温かな春風が通り抜けたような気がした。
桜の手紙