閉じた世界(short ver)


世界が壊れた

否、壊してしまった

  
 西に首をもたげた太陽が街中を黄色一色に染める。歴史の教科書の挿絵のように、世界は色褪せていき、そして緩やかに足音を忍ばせ、夜が迫ってくる。
 九月も半ばだというのに、未だ衰える気配のない斜陽が、立ち尽くす少女の額を焼いた。頭上では一夏を生き抜いたあぶら蝉が最後の咆哮をあげている。汗でへばりついた髪もそのままに、少女はただうつむいて、足下にちらばった小さな小さな宝石たちを見つめていた。
 その宝石たちは、少女の世界の一部だった。朱色の筒の中で、実際はプラスチックのビーズだったり、ガラスの欠片だったりする彼らは、少女が戯れに筒を回せば、本物の宝石のように、目にも鮮やかな、色褪せる事のない世界を作り出していた。光と鏡面が織りなす際限なく広がる絢爛な世界に、少女は心奪われた。嗚呼世界がこんなに美しかったなら、どんなによかっただろう、と。
 しかし夢の様に美しい世界は、夢から目覚めたようにあっさりと、なくなってしまった。
 ほんのちょっとした不注意で、いとも簡単に壊れてしまった世界の残骸を眺めながら、少女は漠然とした喪失感に苛まれた。

「なんだい、壊れちまったのか」
 この世の絶望すべてを背負い込んだ様に立ち尽くす少女に、男は下駄をからんとひとつ鳴らす。その声にひきつった少女の体が、ゆっくりと男の方へ向く。その顔は蒼白で、どこか怯えているようにも見える。無理もない。この男は少女が今一番会いたくない人物であったからだ。
 地べたで光を放つ世界の残骸と男の顔を交互に見返しながら、少女は小さな声でごめんなさい、と告げた。絞り出すようなその言葉は少女の喉を焼き、堪えきれなくなった涙が頬を伝った。
「泣くこたねぇだろ泣くこたぁよ。元々そりゃあ俺が婆ちゃんからもらったおんぼろなんだから」
 くしゃくしゃの頭を更にかき乱しながら、男は少女の涙を止めようと不器用に言葉を綴る。しゃがみ込んで無骨な掌で少女の頭をなでるが、両手で顔を覆った少女からは嗚咽が切なく漏れるばかりであった。

「…よし、今からそれよりもっといいもん見せてやるから、着いて来な」
 どっこいせという掛け声とともに、男は立ち上がる。少女は、下駄の音が遠のいたのを感じて、少し顔を上げると、逆光の中で男が手招きをしていた。少女は男の後を追った。

 男はからん、ころんと下駄を鳴らしながら、夕暮れの坂道を登っていく。少女は黙ってその後に着いていった。長く長く伸びた男の影を踏まぬよう、距離を保って。
 急勾配の終着地点には少し傾いた鳥居が不安定に立っていた。その先には、途方に暮れそうなほどの、長い階段。男は躊躇することなく登っていく。ようやく上り詰めると、そこには古びた小さな社があった。参拝でもするのかと思いきや、男は社を素通りして、その裏へとまわった。
「ああ、丁度いい頃合いだったな」
 男に着いて少女も社の裏へまわる。そこは辺り一面、背の低い草が生い茂った野原になっていた。
「あんまりそっちへ行くなよ、危ないから」
 男曰く、その先は崖になっており崩れやすいのだそうだ。その男の忠告よりも、少女は目の前に広がる光景に息を呑んだ。
 
 雲でさえ綿飴のように溶かしてしまうのではという程、真っ赤に燃え上がった夕陽が山の向こうに沈みかけ、町はその光と影のコントラストが織り成す、影絵芝居のようだった。その影絵にぽつり、ぽつりと、明かりが灯っていく。
「見てみな」
 男が静かに空を仰ぐ。見上げれば、紫とも藍色ともとれる、しかし、何色でもない世界があった。そのひどく曖昧な世界はどこから来たのかと、少女は後ろに倒れそうな程のけぞって、果てを探した。
 東の空は既に夜が迫り、濃紺の世界が赤の世界を侵している。夕暮れと夜との間に、こんなにも美しい世界が広がっていたのを、少女は知らなかった。
「きれい…」
 思わず口をついて出た感嘆に、男は満足そうに懐の煙草を取り出し火をつけた。
「お前の見てた世界なんてな、所詮閉じた世界だったんだよ」
 少女はゆっくりと振り向く。夕闇の中で男の煙草の朱色がちらちらと目を焼いた。
 頭上には気の早い星たちが疎らに瞬いて、濃紺の世界を彩る。遠くの方で、少し寂しげなひぐらしの声と、聞き慣れた夕方の音楽が聞こえる。あれは、新世界交響曲だったか。
「片目でしか覗けねぇ狭っこい世界よりも、こっちの方がよっぽどいいだろ?わざわざ手で回さなくたって、世界はこうして勝手に回ってくれるんだからな」
 少女は小さく頷いた。その顔は少し、笑っているようにも見える。


 さわさわと草を鳴らしていた風が、少女の長い髪に触れ、柔らかく揺らしていく。草の匂いと、男の燻らす紫煙が鼻をくすぐる。

「もう秋だな」
 
 
 褪せることなく穏やかに移り変わる世界に、男と少女はただ静かに佇んでいた。

閉じた世界(short ver)

閉じた世界(short ver)

この世はさながら万華鏡

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted