月の裏側
「月の裏側ってね、見れないの」
「え?」
「月はいつも同じところを地球に見せてるの。だから、その裏側は見れないの」
僕らは12月の夜のベンチに座っていた。自販機で買った温かい缶コーヒーを握りしめながら、二人の白い息は冬の凛とした空気に消えていく。白い手ぶくろにコーヒーを握りながら、空を眺めて彼女が突然そう言ったんだ。僕も月を見上げてみた。月は澄んだ空にそっと浮かんでいて、その近くにはオリオン座が見える。静かな冬が二人を包んでいた。
「ふーん、そうなんだ」僕はコーヒーを口に運びながら答えた。
「ねぇ、どうやったら裏側を見ることができると思う?」
「さぁ…、僕たちは地球にいるんだからさ、見れないんじゃない?吉川ってなに、天体とか好きだったっけ」
「地球にいるから見れない、か」彼女は僕の問い掛けに答えずに続ける。
「もしさ、裏側を見たくなったら、あなたはどうする?」
「どうするも何も、見れないものは仕方ないじゃん。どうしようもないよ」
「ほんとにそう思う?」
「思うも何もどうしようもないもん。それに表面だけでも十分綺麗じゃん。これでいいんじゃない?」
「そうかなぁ…」
「何?いったいどうしたのさ。さっきから」
「今見えてる月の表面と、見えないその裏側と、ひょっとしたら全然違うかもよ?」
「だからーもう何なのさー。別にいいじゃん。裏側とか違うとか、面倒臭いよ」僕は飲み終えた缶コーヒーをベンチの隅に置きながら答えた。
それからしばらく僕らは座ったまま、何も話さなず時間だけが静かに過ぎて行った。
先に口を開いたのは彼女の方だった。
「私達、別れましょ」
「え?」突然の言葉に僕は驚いて言った。
「別れましょって、なんで?急にどうしたんだよもう、今日の吉川おかしいって。それとも俺なんか悪い事でも言った?」
「私は月の裏側を見る方法、知ってるよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。また月かよ。つか、なんで別れるわけ?訳分かんないって」
「宇宙飛行士になるの」
「う、うちゅ…ひこうし?」
「そう、宇宙飛行士。ロケットに乗って月に降り立つの。そうすれば見れるでしょ?月の裏側」
「そりゃそうだけど、そんなことできる訳ないじゃんか。宇宙飛行士だぜ宇宙飛行士。無理だって」
「そうよね。あなたは宇宙飛行士にはなってくれなかった」
「どういう意味?」
「月はいつも同じところを地球に見せてるの。だから、その裏側は見れないの」
「え、だから…」
彼女はベンチから立ち上がり、空を見上げながら続けた。
「月の裏側ってね、見れないの。でも見る方法はある。それでもあなたは見てくれなかった」
「あなたが見てるのは、私の表面だけよ」
12月の凛とした空気の中、彼女の白い息と夜空の月が、僕の側から静かに消えていった。
月の裏側