イノセント マーメイド

人魚に心惹かれた私は、ついに捜索の旅に出る。

 彼女は何を思って微笑むのだろう? ”私”を得た満足感か? 仲間に遅れを取らずに済んだ安堵感か? それともその両方だろうか? 
 私の顔に時々ちらりと目をやりながら水を切る彼女の視線が、ふいに前方に向けられた。
 潮の流れはきつかったが、彼女はまさに水を得た魚、巧みに水の動きを読みながら目的地に向かって進んでいるようだった。
 この出会いは奇跡。
 学者でもなければ研究者でもない私は、ただ憧れを追い続ける大きな子供のような物だった。だから彼女と触れ合えた事実は、夢見た以上の夢。その思いは真に純粋だった。
 初めて触れたと思しき男として、彼女も同じような感情を抱いたんじゃないか? そう思い込んだ私はやはり愚かだったのだろう。
 しかし身体を重ねれば、もう一歩踏み込んで、理解を深められると信じたのは仕方がない。
 ましてそこは私の想像を超えた世界だったのだから。
 
 思い返せば、不可解な点は多々あった。
 買い出しに訪れた私に、店のおばさんはこう言った。
「嵐の晩には現れるっていう噂があるよ」と。
 写真を見せた漁師は言った。
「私の祖父はじかに触れた事があるらしいんだ」と。
 たった一人でこの地を踏んだ私は、みすぼらしいバラックにしか見えない店の裏に止められた、高価な4WD車に気付いていた。
 漁師の首に掛けられた純金だというネックレス、指輪のツメに囚われた大粒の石には、ずいぶんと見栄を張った物だと目を細めた。
 真っ黒に日焼けした彼が身に着けている衣服はお世辞にも綺麗とは言えず、およそ贅沢な暮らしとは懸け離れているようにみえた。

 たまたま情報を得、資金を得た私は、間違いなく自らの意志でここを訪れた。 
 すべては偶然だったはずだ。
 しかし青い青い水の彼方に現れた無数の”人影”を見た時、私の意志は、誰かの思惑の上にあったのだと気付かされた。

 ***

 人魚なんて伝説上の生き物。あらゆるデータが一瞬にして地球の裏側まで届く現代に、人魚の存在を信じる人など皆無に違いない。
 子供の頃その姿に魅せられた私ですら、”絶対にいるはず”から”会えたらいいなぁ”へと、年相応の考え方に変わっていた。
 しかし情熱は完全に消えた訳ではない。いつか時間を作って探しに行こうと、情報収集だけは怠らず、じっと機が熟すのを待っていたのだ。
 そしてその”機”は予想外に早く訪れた。
 人魚に魅せられた人々が集うホームページ。そこに頻繁に顔を出していた私は、トップページの広告にあったロトをしばしば購入していた。
 するとどうだ。これまで元を取れた試しはないのに、ひと山当てたという程ではないにせよ、少々の長旅に出られるだけの小銭が転がり込んできた。
 同時に、「それらしい生き物を見た」という私信が二件寄せられる。
 これは天の配剤だ。私は、今こそ夢を叶えるチャンスだと色めき立った。
 同僚のきつい視線から目を逸らし、有給休暇をまとめ取りした私が、念願の人魚探しに出掛けたのはそれからひと月後の事だった。
 船舶免許、スキューバライセンス。どちらもこの日の為に取得した。
 手元にある分厚いファイル四冊が、今回向かう二か所のデータ。
 残念ながら、どちらもオーシャンリゾートとは程遠い、ほぼ手付かずの未開の地。
 だが、行く手を阻むジャングルも分厚い氷も過去の物。時間は掛かるが、途中までは高速道路も整備されている。車さえあれば、目的地は辿り着けないような異世界ではなかった。
 探索はまず、先の目撃者に話しを聞いてから行う。
 ボートを出してソナーで海中を探索し、それからポイントを決めて、何か所か潜ってみるつもりだった。
 その後は成り行き次第。場所を移すか、別の角度から攻めてみるか。とにかく見込みがあるのかを見極めるのが肝要だ。
 ただ期限は一か所当たり十日を限度と決めていた。
 海は広い。余程根拠がなければ、無暗やたらに調べてみても結果が出る可能性は低かった。

 左を見ると、航空機の窓から延々と続く濃い緑を超えて海岸線が見えてきた。
 思わず笑みが漏れる。
 ……ついに念願の地へ踏み出すのだと心が躍った。

 ***

 私が彼女を見付けたのは、一日半続いた嵐をやり過ごし、テントを畳もうと浜辺に出た時だった。

 出発して十二日目。ここはファイルにあった二か所目だ。
 一か所目はガセだと判明し、即撤収して移動した。
 幸先の悪いスタートだったが、この地で確かに見たという中年の漁師は、なんと写真を持っていた。撮影時間は深夜。船上から撮したというそれはシルエットでしかなかったが、棒状の影が突き出した姿は、明らかに魚とは異なっている。
 漁師個人の秘密の漁場だというそこは、大海原のど真ん中ではなく、陸からさほど離れていない、海流のぶつかり合う流れの速い場所だという。しかも海底は窪んだ複雑な地形になっていて、それが魚の住処に適しているのだと、彼は”今日の成果”を見せて笑った。
 高台から海を見やると、水面から岩が顔を覗かせるような浅い海が沖へ向かって続き、漁場はその先にあるという。
 しかし海には出た物の、漁師に教えて貰った海流は予想以上のスピードだった。
 一歩間違えば即座礁というデコボコの地形が船の操縦を難しくさせる。しかも突如現れるスコールは突風を伴い、使える時間を一層短くした。
 当然、潜るのにも難しいコンディションで、捜索はまさに命懸けの危険な作業になった。 
 だが、労多くして成果なし。
 時間を有効に使う為に、私は昼夜を問わず船上で過ごしていたが、何一つ存在の兆候を得られないままリミットだけが迫っていた。
 そんなある日、私は近くの小さな集落に足を向けた。
 一軒しかない、日用品とガソリンを扱う店で買い出しをする為だった。
 来店するのは三度目だが、店のおばさんは、なぜか初めから私の事を知っていた。田舎では、すべてが筒抜けだという典型だった。
 しかしそれも悪い事ばかりではない。片言のスペイン語でやり取りすれば、酔狂な変わり者だと呆れながらも、興味深い”噂話し”を聞かせてくれる。
 そして帰り掛けの私に、「じきに嵐が来るよ」と忠告までしてくれた。天気予報にはなかったが、漁師町の情報はあなどれない。
 私はその言葉を信じ、船を出て、移動用のキャンピングカーに籠る事に決めた。
 それでも風避けがある海岸べりに車を止めると、切り立った崖の合間を縫った先にある小さな砂浜を前線基地に定め、やはり風を避けられそうな奥まった場所にテントを張った。
 それにはもちろん理由があった。
 弧を描くように背中すべてが見上げる程の断崖。そんなプライベートビーチのように隔離された砂浜からは、目的の海域が一望出来た。
 やがてテントが完成するのを待っていたかのように雲行きが怪しくなる。
 少しばかりの食料と双眼鏡、そしてカメラ。危険を感じるまでねばるつもりで、私はテントの小さな窓から強まり出した雨風の向こうを監視し始めた。
 
 低気圧は去ったようだが、風が鳴り、白波が激しく岩肌を駆け上がっている。
 結局、あまりに猛烈な風に恐れをなした私は、僅か数時間でテントを離れ、車に引き返していた。
 だが、その判断は間違っていなかったようだ。テントは元の場所から跡形もなく消えていた。
 どこへ飛ばされたのかと辺りを捜し歩いた私が、狭い砂浜の端に倒れた若い女を見付けたのは偶然だった。
 海で揉まれたせいか、肌を覆う衣服はなく、胸、腰、脚、そのすべてが半ば砂に埋もれた彼女の顔は、髪に隠れて見えなかった。
 かわいそうに。きっと船から放り出されてしまったんだろう。あんなひどい嵐では、どんなに泳ぎが達者でも助かろうはずもない。
 私は遺体がひどい有様でない事を祈りつつ、それでも恐る恐る足を進めた。
 干満の差が大きいこの場所では、満潮に向かう海水が端から狭い砂浜を浸食し始めている。そんな波打ち際で、私はまず声を掛け、肩の部分を揺すって生死を確かめようとした。
 白い肌には痛々しい無数の傷が走っていたが、どれも浅い擦り傷で、意外にも目を覆うような惨状にはなかった。
 やはり冷え切った身体は微動だにしない。何の反応も示さなかった。
 とても生きてはいまい。
 緑掛かった黒髪が覆う顔面を覗き込む勇気は出なかった。溺れ死んだ人のそれは見るに堪えないと聞いた覚えがあった。
 しかし、あとは警察に任せようと歩き出した私はすぐに足を止めた。
 波の先が彼女の右足に触れた時、生気を失った肌が、そこだけ淡い緑になったのだ。
「目の錯覚か?」だが何度目を擦ってもその変化は続いている。
 遺体に駆け戻ってしゃがみ込んだ私は、ある予感を抱いて、食い入るように肌に見入った。
 海水に濡れた部分は色が変わり、しかもよく見れば、鱗のような無数の三角がうっすらと浮かんでいる。そして乾いた部分から肌色になり、”人の肌”へと戻っていく。
 すでに死んだ物と決め付けていた私は、悪い事とは思いつつも、手で掬った水を脚に、身体に掛けて回った。
 上半身に変化はない。ただ腰から下、左右の脚全体が緑に染まり、しかも股間から爪先に掛けての隙間が盛り上がるように埋まり、やがて魚の尾ひれに化けていた。
 陽に照らされて乾き始めたそれが、再び二つに割れていく様に驚愕しながらも、私はこれが求めて続けた”人魚”なのだと確信していた。
 やはり実在したんだ。本当なら飛び上がって歓喜の雄叫びでも上げる所だが、死者の前でそれは憚られた。
 死者? そこで私の思考に大きな疑問符が渦巻いた。
 ……これが人魚なら溺れるはずがない。
 まさか陸に上がった途端に人の姿に化けるとは思わなかったが、海で暮らす人魚が溺れるはずがなかった。
 という事は……、生きているのか? 視線は”遺体”に向けられた。
 私は彼女の左腕を取ると、手首の脈を確かめた。
 姿形は人その物。取り敢えず同じように対処すると、指先に鼓動を示す圧を感じた。
 早まった真似をしなくてよかった。私は埋まった身体を掘り出すように膝と脇に腕を入れて抱え上げると、そのまま車に向かって足を速めた。
 貼り付いた長い髪が垂れると、東洋系と白人系の混血のような美しい素顔が現れた。その美貌に息を呑み、目の前に揺れる小ぶりな胸に唾を飲み込んだ。
 全身の砂をタオルで落としてから、彼女をベッドに横たえると、急いで車の暖房を入れる。
 救急箱を取り出した私は、手持ちの消毒薬で傷口を洗い、大きな傷には包帯を巻いた。
 やはりどこからどう見ても女の裸、手当ての為とはいえ、まじまじと見詰めるのは気恥ずかしい。
 人魚発見の興奮を引き摺っているせいなのか、目の前の曲線が眩しいせいなのか、心臓のドキドキが治まらない自分を認めながら、最後に毛布を巻き付けて温風が当たるように吹き出し口の向きを変えた。
 あとは目を覚ますのを祈るしかない。
 病院に連れて行けば、大騒ぎになるのは目に見えていた。それは本人も望まないだろう。
 閉じられた瞼、固く結ばれた青い唇。蒼白な顔色を眺めながら、果たして彼女は言葉を話すのだろうかと考えた。
 極めて人に近い容貌は声も出せそうにみえる。
 人魚と会話する? そんな大それた空想を思い浮かべながら、取り敢えず私もひと息つこうとキッチンに向かった。

 ***

「う……ん……」小さな呻きと共に瞼が開かれると、その美しさに思わず見惚れていた。
 鼻筋の通ったうりざね顔は色白で、そこに少し残る幼さが、固い感じをかわいらしい印象に変えている。
 毛布を撥ね飛ばした彼女は瞬きを繰り返し、明らかに見慣れぬ光景に戸惑っていた。
 ベッドに横たわる自分を認め、私の姿を視界の端に感じ取り、そして視線は下半身に向かった所でフリーズした。
 爪先を、膝を曲げ伸ばす。股を開いてみる。それは自身が突然別の生き物になったかのような、不自然な振る舞いだった。
 一歩下がった場所から彼女を眺めていた私にも、その驚愕が手に取るように伝わった。口をポカンと開けたままの彼女は、身体の変化を知らなかったのだ。
 しかし私が本当に驚いたのは、彼女の仕種、感情表現を普通に理解出来る事だった。
 だってそうだろう? 見た目は確かに人その物だが、彼女は人間ではないのだ。なのにまったく意識せずに、その戸惑いを感じ取れる。
 これはある意味すごい事だ。
 人は大昔、海に棲んでいたという説がある。お腹の中で、赤ん坊の身体は進化の過程を再現しながらつくられる。指に”水掻き”が出来、その後消えるのも、水中に暮らした頃の名残だと。
 ならば人と分かれても尚、古い脳には共通のデータが埋まっているのかもしれない。
 加えて、彼女には”人”の知識があるに違いなかった。
 さほど私を警戒しないのも、周囲の人工物より自身の変化に集中出来るのも、きっとそのせいだろう。
 いつまでも同じ動作を繰り返す彼女に、私はタネ明かしをしてやろうと、コップに汲んだ水を脚に垂らしてやった。
 一瞬浮かんだ緑に、彼女が目を丸くする。
 ”なぜ、あなたが知っているの?” 見上げた瞳には、そんな疑問が透けて見えた。
 
 しばらくすると彼女はベッドの上を、四つん這いになってうろうろし始めた。
 それは体調が回復した証だったが、動き回れるようになれば、それは別れが近い事も意味している。
 それまでにコミュニケーションをはかりたい。
 私は焦りを感じながら、頭の中で優先順位を付けた。
 ならば、まずは会話だ。
 彼女を座らせ、英語、次いで当地のスペイン語で語り掛けてみる。
「XXXxX」首を傾げた彼女はしかし、次の瞬間、全く聞き覚えのない言葉を寄越した。
 私の頭には、”hello、bye、thank you”に相当する挨拶だけは、多数の言語で収まっている。それも出会いに備えた準備の一つだったが、覚えた限りのどの語彙にも当て嵌まらなかった。
 しかし声を出すと分かれば、意外に身振り手振りだけでも通じるかもしれないと意気込んだ。
 私はジェスチャーを交え、まずは、”名前”から言葉の翻訳を試みる。
 しかし肝心の彼女の関心は、私自身にあるようだった。
 腰を屈めて、目線を合わせた私の頬を挟んだ掌。それは髪を掻き乱し、そのまま身体付きを確かめるように上半身に移っていく。
 彼女はとても楽しそうだ。それこそ鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌。
 人が、男が珍しいんだろうな。私は取り敢えずされるがまま、彼女の好きにさせてやる事にした。
 私に興味を持ってくれたなら、それは未来への第一歩に違いない。
 服の上から一通り”確認”を終えると、今度はズボンからシャツを引き出して、中を覗き込む念の入れようだ。
 股間にまで手を伸ばすので困惑したが、それもイノセントの証だと諦めた。
 最後に、「合格です」と言わんばかりに抱き付かれた私の鼻の下は、伸び切っていたに違いない。
 微かに磯の香りを纏った彼女の裸体はひんやりとしていたが、肌の感触は人と変わらなかった。
 髪をまとめ、服を身に着ければ、すぐにでも都会を闊歩するテーンエイジャーになれそうな肢体は若々しく、思わず背中に手を回した私は、彼女の細い裸体に溺れそうな予感さえ抱いた。
 彼女は本当に別の生き物のなのか?
 目覚めても逃げ出そうとしなかったのは、衰弱していたせいかもしれないが、ここまで私を信頼する理由は何だろう?
 誰だって、出会ったばかりなら遠慮がちになる。警戒するだろうし、まずは人となりを窺うだろう。
 遠目に見たか、仲間に教えられたか、例え幾ばくかの知識を持つとしても、あまりに馴れ馴れしくはないだろうか?
 これまで彼女は一度として逆らわず、威嚇すらしない。それは、”動物”としてはいかにも従順に過ぎた。
 確かに彼女には理性があり、温和な性格なのかもしれない。
 介抱してくれた事への感謝の気持ちがあるのかもしれない。
 だが……。

 私から離れた彼女は再びベッドに腰掛けた。
 すぐに出て行く気はなさそうだ。
 私はほっと胸を撫で下ろす。
 信頼関係が築けているのなら尚更、彼女と密な関係になりたかった。次回訪れるチャンスがあれば、再会を喜び合えるような、そんな間柄に。
 少し俯き加減の憂い顔。
 そんな美しい横顔には、見た目通り、邪な心は微塵も感じられない。
 二つの視線が絡み合う。
 すると輝くようなその微笑みが、疑問の数々を心の奥へ押しやっていた。 

 ***

 キャンピングカーは生活の場とするには万能ではない。
 彼女を残して外へ出るのは躊躇われたが、私には色々としなければならない雑用があった。
 やがて薄暗くなってから車に戻ると、その不安は的中した。
 ベッドに横になっていたはずの彼女がいない。鍵を掛けて出掛けたが、やはり開錠するくらいの知識はあったのだ。
 身体の変化にすら驚いた彼女に、歩くのは難しいだろうという油断もあった。
 どこへ向かったのかは考えるまでもない。
 海に帰ったのだ。
 私はほとんど泣きそうになりながら、再び車の外へと飛び出した。

 浜に出ると、昨日の嵐が嘘のように雲一つない空は高く、丸い月に反射した光が地上を青白く照らしていた。
 私は波打ち際へと続く足跡を追い、そして彼女を見付けた。
 どこかこの世の者とは思えない、神秘的な裸婦のシルエット。
 しかし水に濡れた指先の変化を楽しむように微笑みながら、ゆっくりと足を運ぶ彼女は、やはり彫刻のような作り物ではなかった。
 狭いビーチの行き止まりで折り返した彼女の髪が風に広がる。
 時折、遠い目で沖合を眺めながらの散策は、二人が出会って終わりを告げた。
 今も全裸の彼女は惜しげもなくその素晴らしいプロポーションを晒している。私はあまりに美しい立ち姿に見惚れていた。
 向かい合った彼女が私の手を取り、小さく囁く。
 何を伝えたいのか? 表情だけではニュアスが伝わらないのがもどかしい。
 すると視線は私から海へ。どうやら海に入らないかと誘っているようだ。
 言葉の壁は厚かったが、二人の間には種を超えた絆のような感情が芽生えていた。それは互いを恐れず、受け入れる事。
 いや、波打ち際に戯れる彼女を想像すれば、頷かない訳にはいかなかった。
 口元を綻ばせた彼女は、私の手を引いて走り出す。
 だが、途中で砂の上に倒れ込んだ二人は、そのまま抱き合いながら唇を重ねていた。
 少し低い体温。ひやりとするその肌を優しく撫で回すと、小さな口から吐息が漏れた。私はそんな彼女を愛おしむように愛撫する。
 重なり合った私の背中に二本の腕が絡み付き、やがて生まれたままの姿になった二人が一体となるのに、時間は掛からなかった。
 不安がないと言えば嘘になる。だが快感に歪む彼女の美しい顔が、すべてを忘れさせた。
 月だけが二人を見詰める。
 そんな私達を波が洗った。
 一気に変化を遂げた彼女の下半身を鱗が覆い、魚の尾鰭が現れた時、締め付けたままの私を抱いて、彼女は大きくジャンプした。
 全身が浸かる程の水深。飛沫を上げて海中に沈んだのは必然だった。
 驚愕の表情を浮かべながらも、私は彼女から離れる事が出来ない。彼女の腕力は強く、しかも二人は結ばれたままだった。
 水に靡いた髪が暗い青に染まり、片方だけの腕がひと掻きするごとに尾鰭をうねらせ、水を切る彼女は、もはや人ではなかった。
 それでも水中をジェットコースターのように走る爽快感に心奪われたのは、彼女を信じていたからに他ならない。
 が、それにも限度がある。
 息が続かない。もがくと、すぐに腹に衝撃を感じた。下を覗き込むと、彼女から伸びた臍の緒が私のそれと繋がっている。
 やがて彼女が手を放しても、二つの身体は貼り付いたままになった。
 胸から下が、彼女の体内にめり込むように沈んでいる。
 これは何だ?
 これは現実なのか?
 首の動く範囲は限られて、彼女の表情は窺えない。
 私を腹に抱いたまま、彼女は一段とスピードを上げた。

 前方に人影らしいシルエットを見たのは、どれくらい移動してからだろう?
 彼女の仲間が現れたのだと知った時、私は呼吸すら忘れる程の感動に包まれた。
 しかしそれは一瞬で萎む。
 集まったすべてが女。しかもそのほとんどがコバンザメのように腹に男を抱えていた。
 生気のない彼らは皆、一様に哀れな程小さく縮んでいる。
 その内の一人に見覚えがあるような気がして、私は目を細めた。
 人魚マニアと言っていい私には、同じ憧れを追い求める同志がいた。
 あまりに小さくなり、皺だらけの面容に面影は薄いが、パソコンでチャットを繰り返した仲間の顔によく似ている。
 私が出立する少し前、突如連絡を絶った彼が、なぜここで干からびたように女の腹にへばりついるのか?
 その理由は、胸元に揺れるネックレスを認めて閃いた。
 先端に金のコインが付いたそれは、漁師が身に着けていた物と同じだった。
 幾つもの情報が絡み合うと、恐るべき全貌が見えてくる。
 私は人魚を求めて、この地を訪れた。資金と情報を得て、自らの意志で訪れたはずだった。
 しかし私は彼らに導かれたのかもしれない。
 誰があのホームページを運営をしているのか、私は知らなかった。もちろんロトも、政府か、企業が運営しているのだと思い込んでいた。
 そして資金を得た途端に届いた目撃情報。そう、送ってきたのは、あの漁師だ。
「嵐の晩は人魚が現れるって噂があるよ」
 店を出ようとする私に、店のおばさんはそう言って笑った。あの砂浜を教えてくれたのも彼女だった。
 愕然とする私の頭に、見知らぬ光景が流れ込んできたのは、その時だった。
 それは彼女の目が捉えた過去の記憶。
 海底の窪みで眠り、仲間と一緒に狩りに出る。水面で陽に当たりながら髪を梳き、船に気付いて逃げ帰る。
 南米、赤道に近い暖かい海で、人魚は感情豊かに、この現代をのびのびと生きていた。
 しかしそんな彼女達は、別の顔を持っていた。
 沈没船や難破船を漁っては硬貨や貴金属類を集め、小物やアクセサリーを吟味しては笑い合う。
 場面が変わると、そこには一人の人魚が海から上がる様子が映し出されていた。
 浜にいたのは、またもあの( 。。)漁師。仁王立ちで待ち構える彼の傍には、他にも見知らぬ数名の男女が連れ添っていた。
 遠くからの視線が交渉の行方を見守っている。
 漁師が豪快に笑うと、何かしらの物々交換が成立したようだった。
 持ちつ持たれつ。人魚はこの集落の経済に組み込まれるような存在だったのだ。
 果たしてバーターで人魚が得る物は何か?
 食糧? 情報? しかし目の前の”男”を見れば、何が本命かは自ずと想像がつく。
 ……すべては、足りない”花婿”を迎える為か。
 子孫を残すのは生物の根幹だ。しかし危険を避けつつ、相手を見付けるには、あまりに人目が多過ぎた。
 住民は人魚を守る事で、豊かな生活が手に入る。人魚は住民によって隔離され、安心して暮らす事が出来る。
 メリットを享受する住民にとって、人魚は欠かせない存在だった。だから花婿探しにも手を貸したのだ。
 そう考えれば、彼女が私の身体を気にした理由も頷ける。健康で、体力のある男か見極めるつもりだったに違いない。
 そして子種を目的として採取された”男”は、妊娠中の栄養源としても活用されているのではないか? 私はそんな生態を持つ深海魚を知っていた。
 人魚は人とは違う進化を遂げたはずなのに、なぜか人と、いや男と共存関係にあったのだ。
 気が付けば、私は呼吸もせずに生きている。臍の緒を通して、彼女から酸素を得ているに違いなかった。そして多分、流れ込むこの映像も。
 生かさず殺さず、だが徐々に徐々に私は消えていくのだと悟った。

 彼女が私を見て微笑んだ。
 何を思っての微笑みなのか? 
 変わらず美しい表情が、私には恐ろしくて堪らなかった。
 私は彼女を追い求め、応えるように彼女も私を求めてくれた。
 その結末がこの有様だ。
 残念ながら、憧れていた夢とは懸け離れた現実。
 生物としての本能に、培われた知恵が加わり、今の新しい人魚社会を形作っている。
 果たして、これも進化と呼ぶべきなのか?
 ……ただ、これだけは言えた。人魚は、こうしてしたたかに生き延びてきたのだと。

 十数人が群れなす海底で、まるで井戸端会議のような囁きが始まった。
 何を話しているのかは分からない。だが、ここにも確かに一つの社会が存在した。
 優劣、妬み、羨望、嫉妬。幸せな者には笑みがあり、引けを感じる者には表情がない。
 そして彼女には満面の笑みが溢れていた。
 私は赤子のように腹に抱かれながら、彼女の微笑みの意味を思った。
 子を得る事こそが、ここで優位に立つ為には必須なのだ。
 私の希望はまったく別の意味で叶ったのかもしれない。
 晴れて夫婦になったらしい私はしかし、今この瞬間を喜べなかった。
 この先の長くない、不毛な人生を思うと、遥か彼方に輝く水面は天国の入り口には見えなかった。 

イノセント マーメイド

イノセント マーメイド

人魚に心惹かれた私は、ついに捜索の旅に出る。

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-11-20

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