波濤恋情 第三章

波濤恋情 第三章

第一話 大正

 黄金色の稲穂がさわさわと風に靡き、さざ波のように揺れている。
 その実りの頃が最も美しい風情を醸し出す田園風景である。
 今年は豊作だ……と皆が喜んでいるように、稲穂からも喜びの声が上がっている、そんな風に思えて尋常小学校の窓から見えるその景色をただぼんやりと見ていた。
「木内くん」
 皆がくすくすと忍び笑いをしている。
 隣の席のしずが、宗ちゃん…と小声で呼ぶが、気づかなかった。
「木内宗一くん!」
 しずは、怒られるよ…というふうに顔をしかめながら俯く。
 宗一が、ああ? という顔をして前を見ると、若くて美しい袴姿の担任の先生は目の前にいた。
「そんなにお外が見たいのなら、廊下から見ていなさい!」
 そう言いながら廊下を指差す。
 宗一がげんなりとした顔をしながら、はい、と言ってのろのろと席を立った。
「吉田しずさん、続きを読んでください」
 おさげ髪のしずがはっと顔をあげ、大きな瞳を見開く。
「は…はい」
 廊下に立たされた宗一を気にしながら、おずおずと立ち上がり、修身の教科書のその続きを読み始める。
「…ええ…と、靖國神社は東京の九段坂の上にあります。この社には君のため國のために死んだ人々をまつってあります。春と秋の祭日には勅使をつかはされ、臨時大祭には天皇皇后両陛下の行幸啓になることもございます……」

 大正天皇が即位して数年、国が明治の四十五年をかけて近代化を図り、その集大成として都市文化が華開いていき、第一次世界大戦の戦勝国側についたこともあり、景気は上々、経済の自由化が進み、事業家が増え、新たな富裕層を創出した、そんな時代だった。
 書籍や雑誌の普及により、文化や情報の伝播が促進され、文芸、絵画、音楽、演劇の芸術も流布していき、また、思想面でも発達し、民衆の中間層では大正デモクラシーと呼ばれる民主主義が台頭し、民衆と女性の立場向上が叫ばれるようになっていった。
 とはいえ、それも都市部の話であり、田舎の農村部ではそれまでの生活習慣はなんら変わらず、子供たちは学校から帰れば家での仕事を手伝うのが当然とされ、楽しいばかりの日々とは言えなかった。
 木内の家は造り酒屋で杜氏を多く抱えて、宗一はお坊ちゃんだったが、いずれ酒屋を継がせるためにも子供の頃から働き者に育てるとして、広大な敷地の庭の手入れをさせていた。
 学校から帰るとすぐ枯れ葉を集めて燃やさなくてはならなく、もたもたしているとすぐ日が暮れてしまって遊ぶ時間がなくなる。
 廊下から陽が傾きかけた空を見ながら宗一は拳を握る。
 昨日取られたメンコを必ず取り返しに行くと決めていた。

 毬栗頭の宗一は、学校の授業が終わると校舎を飛び出す。
 さっさと掃除を終わらせてメンコ奪回に向けて出かけることしか頭になかった。
 すると、しずが追いかけてきた。
「まってよ! まって! 宗ちゃん!」
「なんだ。しず。わし、急いでおるが」
「ねえ、あのね、東京のおじちゃんがね、来てね、これを持ってきてくれたの」
 掌の中にあったものはベーゴマだった。
「あのね、あたし、これは宗ちゃんにあげたいと思ったの」
 品質のよい鋳鉄製のもので、自分たちが普段使っているものより優れているような気がした。宗一がぱあっと明るい顔をする。
「これ、すごいよ! いいの? これもらっても?」
「うん。いいよ。宗ちゃんにはいっぱいもらってばかりだから」
 継ぎ接ぎだらけの着物を着ているしずがにっこりと笑う。
 教科書から弁当から何から何まで宗一は自分のものをしずにあげていた。
 しずは小作の家の娘で、身体が弱くてあまり働けない父を抱え、他の家よりも貧しく、それが理由で虐められているのを宗一が庇ってからずっと一緒に過ごしていた。
 宗一は、自分の分の教科書を全部しずにあげ、なくした、破れた、と言い張り、新しいものを買わせ、弁当は足りない足りないと母親にせがんで二人分を作らせ、わんぱくで喧嘩っ早く、しずを守る宗一のことをからかうものなら、すぐ取っ組み合いの喧嘩となり、傷を追うのは宗一ではないということが多く、宗一の両親は怪我をさせた家に謝りにいくということが絶えなかった。
 そうこうしているうちに、しずは宗一が守るべき者となっていき、誰も何も言わなくなっていった。
「ありがとう! じゃあ、急ぐから!」
 宗一はそう言って走っていく。
 するとしずも負けずに走る。
「あたしも!」
「おお!」
 しずは喜んだ宗一の顔に満足しながら、走っていった。

 稲刈りが終わって新米が届けば、甑立て(こしきだて)をする。
 甑とは、米を蒸す道具のことで、日本酒造りには炊いた米ではなく、蒸した米を使い、酛(酒母)用の米を最初に蒸すことを「甑立て」という。
 その後に熟成した醪(もろみ)を圧搾、ろ過して清酒と酒粕に分けることを上槽(じょうそう)といい、その年の最初の上槽で初揚げ(はつあげ)が行われる。
 酒づくりにとっては新酒仕込みの戦場と化す大事な時期ということである。
 しかし宗一にとっては毎年のことで、自分がそれに加われるわけではないのでそれほど興味がなく、とにかく自分はさっさと庭の枯れ葉を掃除すればいいことだった。
 そして、頭には、取られたメンコのことしかなかった。
 それまで無敗を誇っていた西郷隆盛のメンコを奪われ、それが伊達政宗に負けたのだ。
「政宗も西郷さんもわしのもんだ!」
 急遽作ったメンコは何の絵柄もないが、技で勝負してやる……、そう心に誓い、箒で枯れ葉を猛烈な勢いで掃いていく。
 枯れ葉を集めて火を焚き、後の火の始末を大人に頼み、一目散に駆けていった。

 そこは神社の境内で、いわゆる賭場である。
 竹馬などを卒業した子供たちの真剣勝負の男の戦いの場であり、小さな子供たちは憧れの上級生が繰り広げる勝負見たさに集まる。そして、強い者を尊敬するのだった。
 昨日、西郷メンコを取った警察官の父を持つ権太が数枚のメンコをひらひらと見せながら、へへんと威張った顔をしていた。宗一と権太は何かにおいてしのぎを削る相手であり、常に競っていた。
 皆、似たような絣の着物に袴を履き、同じような毬栗頭であるが、面構えがそれぞれ個性的であり、その中でもこの二人は特別で、皆は興奮していくのであった。
 宗一は、たった一枚のメンコが入っている懐に手を当て、権太を睨む。
「あれー、まだ宗一ちゃんはメンコを持ってたんか?」
 昨日の権太の喜びようは半端なものじゃなかった。
 宗一は憮然としながらもその雪辱を胸に、権太の前に位置する。
 幼い子供たちがその様子に瞳を輝かせながら見ていた。
「政宗と勝負したい」
 おお……、と歓声があがり、竹馬をやっていた子供たちも竹馬を放り投げて集まってくる。
 権太が西郷メンコを摘むように持ち、けらけらと笑い出す。
「これの二の舞になりたいんか? はははは」
 宗一はそんな挑発を無視し、まったく無地のメンコを出した。
 すると周りを取り囲んでいた五人の少年がいっせいに笑い出す。
 権太は笑いを止め、怒りだす。
「なんじゃこりゃ! ただの紙切れだろ! ふざけんな! こんなんのと政宗はやらせられね。これで充分だ!」
 他の子からの戦利品を出す。
「ふん」
 宗一は鼻を鳴らしながら、メンコを枠の中に置き、拳を握る。じゃんけんで先攻後攻を決めるのだ。宗一が後攻となり、権太は勢いよくメンコを打ち付けていく。しかし、宗一の手作りの四角のメンコはひっくり返らず、枠外にも出なかった。
「ち!」
 鴉が鳴き、社から霊気が立ち込めてくるように風が立つ。
 宗一は下駄を脱ぎ、裸足になって足を広げて踏ん張る。そしてそのメンコに命を吹き込むかのように息を吹きかけ、権太のメンコ目がけて打ち付ける。
「いやあああああ!」
 すると風が起きたかのようになり、権太のメンコはひっくり返った。
 柔道でいえば一本勝ちのようなものである。
 宗一がにやりと笑った。
 権太が青くなる。
 そして、政宗を出してきた。


 **********

 
 宗一は鼻歌を歌いながら帰宅する。
 結局、全部メンコを巻き上げたのである。完全勝利であった。
 田んぼの中の一本道を歩いていくと、すでに夕焼け雲が一面に広がっていた。
 今日、学校で教わった言葉を言ってみる。
「豊旗雲!」
 その言葉を使った和歌を暗唱させられたが、覚えられなかった。
 その時にその和歌を詠まされていたのがしずだったからだ。
 しずの声を聴いていると何だか気持ちよくてそれに浸り切ってしまう。
 歌の内容などどうでもよかった。
「あいつの声は鈴虫みたいだ。きれいだよな」
 上機嫌で走っていくと、畦道でそのしずが立っていて、はっとする。
 よくこうして夕方になると田んぼに立っているのだった。
「しず!」
 そして、泣いていた。
「どうした、しず。また夕飯がないんか? 腹減ってるんか?」
 宗一はメンコに夢中になるあまり、いつもは持参している握り飯を持っていなかった。
「悪いな。今日は何も持ってないんだ」
 しずは首をぶんぶんと振って、目を擦る。
「どうした?」
「あのね、あたし、奉公に行くことが決まったの」
「え?」
「東京のおじさんが来たのは、そのことをお父ちゃんとお母ちゃんに言うためだった」
「奉公って…まだ子供なのに?」
「ご飯つくったり、洗濯したり、掃除したり、子供でもできるって」
「わしにはできんぞ!」
「あたしは一応できるよ。田んぼの手伝いだってできるんだから」
「まだ学校だってあるじゃないか! もうすぐで小学校も終わるのに!」
「奉公には勉強は必要ないって。それより早く慣れることだって」
「しずは一等勉強ができるじゃないか! 女学校にも行きたいんだろ?」
 しずの夢は看護婦になることで、ナイチンゲールの話にとても感動していた。
「うん。あたし勉強したい」
 強い意志を見せるように言った。
 勉強ができるからといって進学ができるわけではない。
 女子の進学率は5%ほどで、ほとんどの者が小学校しか出ていないのが現状だった。
「わしが父さんに頼んでみるから! しずが勉強できるように」
 優秀なしずのことだから、何とかなる、そんな考えが占めていた。
 しずが堪え切れないように泣き出す。
 自分をいつも守ってくれる宗一が大好きで、学校に行くことが楽しくて仕方なかったのだった。
 その宗一と会えなくなる。
 どんな仕事を与えられてもいいが、学校に通えなくなることだけは避けたかった。
 そのことに大きな衝撃を受けていたのだった。
「あたし、宗ちゃんと一緒に勉強したいよお」
「そうだろう? な?」
 宗一も、しずと一緒に学校に通えないことに衝撃を受けていた。
「わしにまかせておけ!」
 
 だが、新酒の仕込み計画に忙しい父親の宗助が、そんな話に耳を貸すわけがなかった。
「しずを雇えだと? 子供に何ができる。ばかも休み休み言え」
「飯炊きも洗濯もできるって!」
「そんなのはうちにも奉公女中がいる! しずなど役に立たん! 女などいらね!」
「父さん! しずが奉公に出されてしまうんだ!」
 宗助がはあ…と大きな息を吐く。
「奉公先があるならばいいじゃないか」
「学校もやめさせられてしまう! しずはすごく頭がいいんだ! あいつは看護婦になりたいんだ!」
 女学校もしくは高等小学校を卒業しなければ看護婦養成所には進学できない。
 裕福な家の娘の職業であった。
「宗一!」
 宗助がぴしゃりと興奮する宗一を押さえる。
「吉田さんが決めたことなんだろ?」
「……………………」
「それにお前が口出しできると思ってるんか? 随分偉くなったな」
「……それ……は……」
「それが百姓のところに生まれた女子の運命だとわしは思っておる」
「運命?」
「ああ。みんなそうやって子供の頃から奉公に出されるんだ。女子を育てているのはそういう目的もある」
 宗一はその意味がわからずとも、とにかくしずが遠くに行かされてしまうことにこの上もない悲しみを感じた。
「いやだ…」
「宗一」
「いやだ! いやだ、いやだ!」
 子供の浅知恵しか浮かばない。
「なあ、父さん、じゃあ、しずをわしの嫁にしてくれ! 嫁ならばいいだろ?」
 すると宗助がバシリと宗一の顔を叩く。
「馬鹿者めが! 何を血迷ったことを!」
 口と鼻から血が出ていた。
「子供の分際で! 身の程を弁えろ! 馬鹿も休み休み言えと言っている!」
 叩かれた頬が痛いのと、まったく取り合ってくれない父親への苛立ちと、しずを救えないという現実に打ちのめされて、涙がぼたぼたと零れる。
「頭を冷やせ!」
 耳を引っ張られて、表に放り投げられる。
「夕飯は抜きだ! 今日は厩で過ごせ!」
 宗一は、わあ…あ…と泣き出す。
 その泣き声がしばらく家の中まで聴こえていた。


 **********


 宗一は目を腫らしながら学校に行くと、権太にそれをからかわれる。
「なんだ。寝小便でもして母ちゃんに怒られたんか?」
 憮然として権太を睨んだ後、ぷいっと横を向いた。
 いつもならすぐ手を出す宗一だったが、肩透かしを食らって権太が拍子抜けする。
 しずが心配そうな顔をして見ていた。
 宗一はなかなかしずのことを見ることができなかった。
 修身の授業の時、宗一が指されて、何事もなかったかのように読んでいく。
「上杉鷹山は平洲を先生にして学問をしました。ある年、平洲を自分の國に招きましたが平洲が来た時、鷹山は身分の高い人でありましたが、わざわざとほくまでむかへに出て、丁寧に挨拶をしました。それから近所の寺に行って、休みましたが、途中じぶんが先生より先を立つやうなことはしませんで、深く敬ひました」
 宗一が朗々と読み上げると、他の生徒からほお…と溜息が出て、上手だね…と言っている声が漏れていた。
 しずがにっこりと笑う。
 その笑顔を見て、宗一は泣きたくなるのだった。

 授業が終わって、下校の時間になり、宗一がしずにどう声をかけようか躊躇していると、しずの方から声をかけてきた。
「帰ろう? 宗ちゃん」
「……うん………」
 宗一が頭を項垂れながら歩いているとしずがくすくすと笑い出す。
「なんだよ……」
「まるでお葬式みたい」
「………………」
 気分は葬式だった。
「ねえ、あそこに行こうか」
 あそことは近くの湧泉のことだった。渡り鳥が飛来してきて羽根を休める場所で近くの林を映す鏡のようで、鏡の泉と呼ばれていた。
「寄り道したら怒られるんじゃないか?」     
「ちょっとなら大丈夫だよ。宗ちゃんこそ」
 今日は掃除なんかする気がしなかった。
「いいよ」
「じゃあ、行こう!」
「ああ」

 まだ紅葉には早く樹々は青々としていて、夏鳥が枝に作った巣で育てたひな鳥が育ち、飛来の準備をしているようだった。夏鳥たちがいなくなれば、白鳥たちが北から飛んできて、冬の風物詩となる。
 宗一は鞄をぶん投げて石を持ち、水面に飛ばしていく。
「宗ちゃんだめだよ! 鳥が驚いちゃうでしょ。まだ赤ちゃんの鳥もいるんだから」
 石が水面を弾いていくように飛ぶ。
「かまうもんか!」
「だめ!」
「親がいるんだろ! ならば大丈夫だ!」
「やめてよ!」
 片手にいっぱいの小石を持ち、ぴしっぴしっと飛ばしていく。
「宗ちゃん…やめてよ」
 鳥だって子供を守っているのに、どうして人間のしずは親に守ってもらえないんだ、宗一は憤慨する気持ちを抑えられなかった。
「うるさい!」 
 まだ自分たちは子供で、親の庇護がなければ一日たりとて過ごせない。
「だめだってば」
 もし自分が明日から学校をやめて見ず知らずの家で働けと言われたらどれほどつらいか、想像しただけでわかる。恐怖と不安が心の中にひろがっていって押しつぶされそうになる。そして、親に捨てられるのだと思え、言いようのない悲しみが広がっていく。
 悔しくて悔しくて唇を噛み締めながら宗一は石を投げた。
「宗ちゃん…………やめてってば……」
 しずが泣き出す。
 ぽろぽろと涙を流して泣くしずの顔を見て、宗一はどうしたらいいのかわからなくなる。
「泣くなよ……」
 一緒に泣きたくなる。
「おい…泣くなよ………」
 涙が出てきてしまう。
「泣くな!」
「うん」
 しずが頷きながら目を擦る。
「宗ちゃん。お父さんにお願いしてくれたんでしょ?」
「…………………」
 小石を掌から零す。
「……だめだった」
「……うん。わかっていたよ」
「わしは………」
 何もできない無力さに腹が立って仕方なかった。
「いいんだよ、宗ちゃん」
「よくない!」
「いいんだってば」
「お前はもっともっと…勉強をして……」
 それを言ったところでしずを苦しめるだけだった。
 拳を握る。
「わしはもっとお前と一緒にいたい!」
 真剣な表情で迫った。
 しずがくしゃりと表情を崩す。
「うん」
 しずももっと宗一と一緒にいたい、その思いが溢れ出てくる。
「あたしも」
 互いにそれをどう伝えていいかわからなかった。
 とにかく、
「ただそれだけなんだ!」
 離れたくないのだった。
「うん。うん…」
 虫の声に混じりながら水鳥のキュウ…という鳴き声が聴こえる。
 秋の日だった。


 **********



「吉田さんちのあのコ。きっと稼げるよ。可愛い顔をしているからね」
 宗一は父親に煙草を買いにいけと言われて行ったタバコ屋でそんな噂話を聞いてしまった。
 四人の暇な元軍人の隠居した爺様連中である。
 タバコ屋は寄り合い所であり、一日の大半を過ごせる娯楽場所だった。
 碁盤の上に黒石を置きながらにやにやしていると、次の順番を待っている爺様はタバコ屋の婆様に下卑た笑い声で話しかけていた。
 宗一は煙草を噴かしながらしずの話をしているそんな爺様の後ろに立つ。
「敷島一箱」
 一番高い銘柄を買うその一言に爺様たちは少々怪訝な顔をしたが、話に夢中だった。
 宗一も、もっと情報が欲しくてその話題に知らん顔を通す。
「神楽坂あたりは高いんかな」
 碁盤から目を離さずに言うと、白石を持った爺様がへへへと笑う。
「まあ、器量にもよるじゃろうが、わしらがそこの一番人気と一晩過ごしたらすってんてんにされちまうさ」
「よほどお大尽じゃなければ無理じゃっつうことか!」
「そりゃ、しずちゃんも出世ってもんだな。吉田さんも喜んでいるんじゃろう」
 宗一は唇を噛む。
 ……なにが出世だ、子供が売られていくんだぞ。
 神楽坂……。
 それがしずの行き先であると頭に叩き込む。
「はいよ。敷島、十銭だよ」
 タバコ屋の婆がそう言うと、握り締めていた銭をそのまま出した。
「お父さんによろしくね」
「はい」
 宗一が店を離れるとすぐ宗一の噂話になった。
「あれが木内さんちの宗一ちゃんか。こんな使いまでさせるなんてまるで奉公人のようじゃな」
「ああ。わしは聞いたことがあるぞ。何でも子供の時から働かせていないと大人になってから働かせようとしても使いものにならんと。だから仕込んでいるんじゃろ」
「はあ。酒屋だけあってさすがに仕込みはお手のもんじゃな」
 大声で笑い出す。
 聞こえてんぞ…!
 宗一は震える手で持つ煙草を懐に入れる。
 大人っていうもんはまったくいやらしい…そう思いながら走って行った。
   
 帰宅した宗一は買った煙草を母親のゆきに渡す。
 聞いたばかりの話について少し聞いてみたいという衝動に駆られた。
「なあ、母さん、しずが奉公に行くところについて知ってるんか」
 小さな村ではそういう話はすぐ広がる。
 地主制では小作の家の出来事はすぐ知られることとなり、吉田の家が抱えている地主への借金もこれで帳消しになると喜ばれ、そんな話は火がついたように噂になる。
 つまり木内家への借財の返済に宗一の両親は喜んでいたのだった。
 誰もが自分の利になることしか考えておらず、しずの心情など思いやる余裕はなかった。
 そして、宗助がしずを嫁にすると言った宗一に怒ったのは、小作の家のものを嫁にするなど身分違いも甚だしく、そんな考えを持ったことへの怒りでもあった。
 社会の中で自分の位置する身分というものは大事で、それを守ることで先祖や家族に対して胸を張れることにもなり、家の格をあげてこそ当主であり、逆に貶めるようなことをしたら先祖に顔向けができない恥さらしとなる。つまり保身こそが大義であった。
 しずは救いの手が差し伸べられない社会の底辺にいたということである。
「え? そんなことを聞いてどうするんだい?」
「何の仕事をするのか知りたいだけだ」
 ゆきはにっこりと微笑む。
「行儀見習いさ」
「行儀見習い?」
「ああ。女が働いていけるだけの腕を仕込んでもらうんだ。それで一人前になったらその習ったことを活かして働くんだよ。だからまずは修行するんだ」
「修行か」
 寺の坊主を思い浮かべる。
「そうか。そういうことか」
 悪くない話だと思ってしまった。
 ゆきは寂しそうな表情をする。
「まだ十二なのに親元から離れて修行するのはつらいだろうけど、そこではたくさんご飯を食べさせてもらえるよ」
「そっか!」
 それは今のしずの生活よりずっといいと思った。
「じゃあ、わしはしずに頑張れって言えばいいのか?」
 ゆきは複雑な顔をするが、微笑んだ。
「そうだね。何事も一生懸命やれば必ず道は拓ける、母さんはそう思っている」
「うん!」

 そうして少しは晴れ晴れした気持ちになり、宗一は自分の部屋で地図を広げる。
 神楽坂……。
 近くの飯田町駅は汽車で半時もかからない場所のようだった。
 汽車賃は往復一円か……。
 小遣いはメンコとベーゴマに使ってしまっていてスッカラカンだった。
 ごろりと横になり大の字になる。袴を脱ぐと涼しくなった。
 ………しずが遠くに行ってしまう。
 ………可愛いしずが遠くに行ってしまう。
 学校に通い始めてからは毎日一緒に過ごしていたしずがいなくなってしまう。
 涙ぐむ。
「女々しいな!」
 

 ************


 しずが翌日出発することになり、学校ではその挨拶をした。
「しずさんは東京に行くことになりました。皆さん、拍手で送りだしましょう」
 担任の先生がそういうと五十人いる同級生は一斉に拍手をする。
 しずは笑顔を浮かべて、それに答える。
「今まで仲良くしていただいてありがとうございました」
 しずが深々と頭を下げると、みんなは宗一を見た。
 宗一は窓の外を見ていて、しずのことも、冷やかそうとする同級生の顔も見ていなかった。
 稲刈りが終わった田んぼの風景が広がっている。 
 酒造りが始まるなあ…とぼんやりとしていた。
 来年は中学校に上がるからここから見るのはこれが最後だなあと漠然と思っていた。
 しずが挨拶を終えて席に戻ってきてからもずっと田んぼを見ていた。
 下校になると、いつもの通り、しずが宗一の後を追いかけるように学校から出て行く。
「宗ちゃん」
 宗一がびくりとする。
 別れの言葉など聞きたくなかったのである。
「あそこに行くか?」
 何か言われる前に宗一は顔を見ずにそう言うと、しずはふっと翳りのある表情を見せた。
「……うん、そうだね」

 二人は鏡の泉に行く。日ごとに秋が近づいていく様子を見せていた。
 まず風が変わる。
 風が変われば草木が呼応するように変わっていき、色を変えていくのだ。
「宗ちゃん。あの……、これ返すね」
 宗一からもらった教科書が風呂敷に包んである。
「な、なんだ?」
「あたし、もう…勉強できないから……これ返すね」
「なんで! これはしずのもんだ! 奉公先でも勉強したらいい!」
「でも…」
「勉強が好きだろ?」
 しずがぽろりと涙を零す。
「うん。勉強好き…あたし、勉強が好き、色々なことを覚えて、知らない言葉や綺麗な言葉を覚えるのがすごく好き」
「なら、しずが持っていればいい」
「でもね」
 しずの頬に涙が伝っていく。
「持っていたらやっぱりここに帰りたくなっちゃうし」
 風呂敷を胸に抱えて俯く。
「宗ちゃんに会いたくなっちゃうし…」
 え…え…え…と泣き始める。
「だから…」
 宗一が苦しそうな顔をした。
「……もう一度……」
 拳を握る。
「もう一度父さんに頼んでみる! うちで働けるよう父さんに頼んでみる!」
 しずが首をぶんぶんと振る。
「いいの!」
 風呂敷を宗一に押し付けながら、毅然とした顔を向ける。
「宗ちゃん」
 まるで大人のような表情だった。
「もうお父ちゃんはお金をもらったんだよ。だから明日迎えにくる。いいんだよ。それにね、そのお金はあたしの借金になるんだって。働いて返さなくちゃ…」
 宗一はその言葉に心が抉られる。
 借金を背負わせられるとは想像もしていなかったのだ。
 押し付けられた風呂敷を一度手に取り、下に置く。その手が震えていた。
 衝撃で力が入らなくなっていた。
「でも、それでお父ちゃんもお医者さんに行けるし、薬も買えるから、お父ちゃんが働けば、みんな助かるし…」
 必死に自分を納得させようとしているしずが何より不憫だと思った。 
「わしは……」
 ぐっと奥歯を噛み締める。
 ―――何もできない。
 宗一としずの心を表すように冷たい風が立つ。
 泉に風が渡っていくと水面を泳いでいた水鳥たちが飛び立った。
「………わしが………」
 宗一が絞るような声を出す。
「宗ちゃん…?」
 一度深呼吸をする。
「わしが! その借金を払う!」
 大きな声でそう言い、しずは驚いた表情をする。
「え?」
「働いて! 金を貯めて! かならずお前の借金を払いに行く!」
「宗ちゃん…あのね、五百円……だよ……」
 一円さえ貯められたことがない宗一だった。
「任せておけ!」
 宗一がしずの頭に手を置く。
「だから、お前はわしが行くまで待っていろ」
 しずがにっこりと笑う。
「ありがとうね、宗ちゃん」
「かならず待ってろよ」
「うん。待ってる。あたし、待ってるよ」
「約束する」
「うん。うん」
「待ってろ、約束だ!」

 
 **********


 ―――明日…何時の汽車だ?
 ―――十一時。だから見送りはしないでね。学校のみんなには来てほしくないから。

「ある学校の生徒総数は325人にして、その中3/5は男生徒なりという。男生徒の数は幾人なるか。女生徒の数は全生徒の数の幾分の幾つに当るか。しこうして幾人なるか」
 担任の先生の声に皆がノートに答えを割り出していく。
 算術の授業だった。宗一は算術が得意で最も好きなものだったが、今は上の空だった。
 答えを導きだした者から手を挙げると担任がそこまで行って、答えを見ていく。
 いつも一番早い宗一のノートには何も記されていなかった。
 ぐっと鉛筆を握り締め、立ち上がる。
「どうしたの? 木内君」
 たった半日しずが隣にいないことに耐えられなかった。
 ――一目でいい。顔が見たい。
 机の上のものを鞄に詰め込み、教室を飛び出して行く。
「木内君! 何処行くの!」
「腹がいたいから、帰る!」
 とても腹痛を起こしているとは思えぬ早さで駆けて行く。
「木内君……」
 着物に海老茶の袴姿の胸元に手を当てる。
 向かうのが駅であることはわかっていた。
 担任としては二人の間にあるものが何か毎日見ていてよくわかっていたのだ。
「はい。では時間切れです。今の問いと同じ類いのものをもう一度。答えがわからない人は今日の放課後、もう一度説明しますので残るように」
 次の問いを黒板に書いていくが、白墨を握る手が震えていた。
 しずの行き先が花街であることから、それが叶わぬものであることに胸が締め付けられるのだった。
「分数の計算はこれからあなたたちが生きていく中でとても重要なものになります。しっかりと理解するように。はい、ではお始めなさい」
 恋と呼ぶにはあまりにも幼く悲しいものだと思ったのだった。

 宗一が必死に走る。
 学校から駅までは一里近くあった。走っても下駄足では三十分はかかる。
 時計は十時三十分でぎりぎりのところだった。
 そして朝は薄曇りだった空の雲行きが怪しくなり、ぽつりぽつりと雨が降ってくる。
 ぬかるんだ道は走りにくい。だが、宗一は下駄を脱ぎ、ひたすら走って行った。
 足の裏が石で傷ついていくが痛みなど感じなかった。

 ――しずに会いたい。

 何も考えられない。それ以外のことは何も頭になかった。

 ――しずの顔が見たい。

 雨脚は宗一を追いかけるようになり、道ばたに咲く彼岸花に打ち付けて行く。
 秋の訪れを告げる雨は冷たかった。
 履いている袴は泥だらけになっていくが、身なりなど構っていられない。
 駅近くになれば、遠目からでも黒煙があがっている様子がわかる。
 ――間に合った…!
 しかし汽笛が鳴る。
 車の往来が増え、なかなか思うように走れなかった。
 何とか駅舎に駆けつけ、見送りだと車掌に訴えて中に入れてもらう。
 汽車は動き始めていた。機関車の重々しい車輪が回り始める。
 煙が噎せ返る程に立ち込めていてよく見えない。
「しず……」
 プラットフォームを走る。
 もう息が絶え絶えで汗まみれ、そして雨でずぶ濡れだった。
「しず――――!」
 あらんかぎりの声を張り上げる。
 すると、窓がひとつ開き、しずが顔を出す。
 車輪がゆっくりとゆっくりと回転していく。
「しず」
 雨が入ってしまうと他の乗客が嫌そうな顔をしているのに謝りながら、しずが手を伸ばす。隣に座っている伯父が舌打ちをしていた。
「宗ちゃん!」
「しず…」
「宗ちゃん……」
 二人とも何の言葉も出てこない。
「しず………」
「……宗ちゃん……」
 車輪が回転数をあげ、加速していく。
 あっという間にしずの顔は視界から消えた。
 蒸気が棚引いていく。
 宗一は力尽きたようにその場に踞る。
 汽笛の音が鳴り響き、宗一の泣き声など聴こえなかった。


 *********


 中学校に入った宗一は、ガキ大将だった様子をすっかりなくし、勉強に励んでいた。
 元来負けず嫌いであり、勉強でも誰にも負けたくなかった。
 学校の近くにはしずが通いたがっていた女学校があり、そこに通っている女学生たちはいかにも裕福な家庭の女子たちで、しかしながら、しずほど可愛らしいものはいないと思っていた。
 ……きっと、頭だってしずのほうがずっといいに違いない。
 どうしてしずが学校に通えずに奉公に行き、この女学校の女子たちは楽しそうに笑いながら通学しているのか、その世の中の不平等さに怒りを感じていた。
 その差はいったい何なのか。
 何かが間違っているのではないか。
 家庭の貧富が全てを決めていってしまうそんな社会に否を叩き付けたかった。

 自転車をこぎながら、しずが横で自転車を走らせていることを夢見る。
 一緒に村まで帰って途中は鏡の泉に寄り道して、学校であったことを互いに報告して、そんな日々を夢見た。
 泉のある方向にハンドルを向け、泉につくと自転車を止め、鞄の中から一冊の本を取り出し、横になった。
 樋口一葉著の「たけくらべ」である。
 吉原に住む遊女の娘、美登利(みどり)と近所の僧侶の息子、信如(のぶゆき)の淡い恋物語で、美登利はいずれ遊女になる定めを背負い、信如は僧として生きていくことが決められていて、大人であったらまったく会うことなどない二人だった。
 美登利が十四歳、信如が十三歳で、同じ学校に通っており、吉原の遊女がどのようなものかを教えられず、蝶よ花よと育てられ、いずれ自分も憧れている美しい花魁になるのだと誇りさえ持っていた美登利には、信如と夫婦になりたいという夢があった。
 だが、美登利はやがて現実を知り、絶望していく。
「ふう……」
 本を閉じる。
 この美登利がしずと重なってしまって、何度も読み返していた。
 しずが奉公に行ったのは、吉原ではなく神楽坂で、そこには遊郭はない…と思いつつも、芸者というものがどういうものか中学校の図書室で調べればすぐわかることだった。
 歌を歌い、踊り、三味線を弾き、そういうものが芸者で、男と一夜を過ごす者とはまったく別であるとわかり、それにほっとしながら、その芸を磨けば芸者として立派に生きていける、逆に憧れている女子も多いと知り、しずがそれに励めばきっと幸せになれる、そう思い、自分も勉学に励み、早く金を貯めてしずの借金を返そうとそれが自分の生きる道だと思った。
 ただ、たけくらべの中の美登利は母親と一緒にいるが、しずは親元を離れて働いているのだと思うとよほどしずの方が可哀想のような気がした。
 手紙を書きたくとも住所がわからず、吉田の家に届けてもそれを転送してくれるとは思えなかった。
「早く大人になりたいなあ……」
 早く大人になって、金を持って、しずを迎えに行く。

 本を鞄に仕舞い、立ち上がる。
 家での仕事が待っている。酒の販売の帳簿つけである。稲が豊作でいい米が入ったことで良い酒ができ、売れ行きも上々だった。
 宗助は販売活動に余念がなく、帳場は日々忙しく、帰宅すればそれを手伝わされる。
 ゆきが帳場の長で、杜氏がいなくなった蔵元はできあがった酒を売り捌くために多忙を極めるのだった。 
 杜氏は春から秋の間は自分のところの田畑の世話をし、秋から春にかけて酒造りをする。
 杜氏集団があり、そこから各蔵元へ派遣されるという制度で、木内の家にも秋に杜氏が集い再び酒造りを始めていく。
 いずれ自分も蔵元の旦那としてやっていかなければならない。
 中学校を卒業した後は高校大学へと進学し、村や町の有力者と親しくし、販路を広げていく努力をするというのが父の背中であった。つまり自分が活躍するのは父が隠居した後のことである。
 宗一としては中学校を出た後はどこかに働きに出ようと思っていた。いずれ家業を継ぐ為の修行の一環としてそれを願い出ようと。
 ただ、中学校は五年間もあり、一日一日がやたらと長く感じるのだった。


 *********


 それぞれの道を行く中で、月日は流れていき、数年が経った。
 しずは、芸妓を目指して雛妓(おしゃく)として修行しつつ、置屋の下働きとして働き、起きてから寝るまで働かされ、必死に日々を過ごしていた。
 姐さんたちに借金の金額が一番多いことを馬鹿にされていて、わざとその時間を取らせなかったのである。五百円のはずの借金には利息がつき、倍倍となっていき、元金が減るような仕組みではなかった。
「よほどいい旦那に水揚げしてもらわない限り、借金は返せそうにないねぇ、しず」
 あかぎれだらけの指では三味線もろくに弾けず、稽古することもできず、踊りも師匠に叱られるという状況で、しずはまったく芸事が身に付いていかなかった。

 神楽坂の置屋の芸妓たちは美人揃いである。
 芸も達者で何より客を喜ばせる話術が巧みで売れっ子達にとって、器量よしのしずが後々ライバルになることはあまり喜ばしくないことであり、なるべくならそれを邪魔したかった。芸妓は妹分になる者を可愛がっていずれ芸妓として稼げるようになったら花代を取る仕組みであったが、その実、虐め抜いているのだった。
 しずは、そこで負けん気を発揮する性分ではなく、その状況を受け入れていった。
 そこを姐芸妓に舐められ、三味線なども使わせてもらえずにいた。
 ある時、置屋組合での雛妓の舞の披露について知らされ、全員が一斉に同じ曲を踊る舞台の日程を告げられる。
 神楽坂中の雛妓が振袖姿で髪には花のかんざしを挿し、華やかなお披露目となり、観客もいるが、実質は芸妓としての素質を見る場でもあり、姐さん芸妓や置屋の女将の期待を背負ってその舞台で舞うものである。
 雛妓が五名ほどおり、それぞれの姐芸妓が自分の妹分が一番だと競っていく。
 普段はろくに稽古もさせないが、そういう時だけは期待をかけるのだ。しずは寝る時間を削って懸命に練習した。
「いいかい。あたしに恥をかかせたらどうなるかわかっておいでだね」
「はい。頑張ります」
 ただ、しずは稽古を重ねても、これが形というものを掴めていなかった。
 
 そして、その踊りはどの雛妓よりも劣っており、女将は才無しと判断をつけてしまう。
 芸が身に付かないのならば芸者として仕込んでも無駄と、吉原で親戚が営んでいる娼妓屋に行かせようと考えていた。芸妓落ちが娼妓になることは多々あることで、そして、一度娼妓に落ちたら二度と芸妓にはなれない。
 それを告げられ、しずは畳に額をこすりつけて懇願する。
「おかあさん! どうか、ここで修行させてください! 舞も長唄も三味線も誰よりもうまくなります!」
「あんたね、自分にいくら借金があるか忘れたわけじゃないだろう? まだ一銭も返してもらってないんだよ。それよりも師匠への月謝で増えていく一方さ」
「かならず返済いたします! お願いします!」
 だが、そう甘いものではなかったのだった。
 神楽坂と言えば、富裕層でも政財界の重鎮が遊びにくるところで、それをもてなす芸者は芸達者であるのは当然のこと、器量が良い上に気配りができなければお座敷には上がらせられない。その見込みがないものは容赦なく切り捨てていかねば商売にならないのだった。置屋の女将としても生き残りに必死で、売れる芸妓を輩出していかねばならなかった。
「悪いが、お前さんには舞の才能がないんだよ。いくら練習不足とは言え、器用なものは人が踊っているのを見てすぐそれを真似ることができるの。あんたはそれができない、ならばこの先いくら稽古をつけても所詮は芸と呼べるものにはならないってことさ」
「……………………」
 女将の目利きは確かに当たっていた。何人と言えぬ芸妓を見てきたのだ。
「神楽坂芸者はそれほど甘いものじゃないんだ」

 そうして借金付きでしずは吉原に「転売」されたのだった。
 元々、人身売買は法律の取り締まりが厳しく、それを犯せば重い処罰を受けることになる。
 よって、表向きは神楽坂の置屋も同じだが、年季奉公となり、借金を払い終えるまで拘束される。実質は人身売買と何ら変わらないものだった。
 そして、十八歳になるまでは娼妓にはなれぬ法律があり、また下働きの生活となる。
 つまり、年季を減らすことはできないということである。
 年季は最高で二十年、年齢は二十八歳が限度とされているが、その年齢まで生き残れるかと問われれば、それは難しいと言わざるを得なく、つまり殆どの者が一生吉原暮らしというのが現状であった。
 神楽坂では置屋の姐さんたちの部屋の掃除や炊事洗濯をしていたが、今度は娼館の部屋を掃除することにもなり、汚れた布団を片付けることに嫌悪感を持った。
 芸妓がどれほど娼妓を見下していたか、芸妓の姐さんたちが口々に言っていたことで、それに自分がいずれなるのかと思うと身震いした。
 身を売るということがどういうことなのか、想像しただけで目眩がしてくると思った。
 褥を整えていると、その部屋の姐さんたちが値踏みするように見ていた。
「へえ。あんた。神楽坂から来たんだって?」
 洗濯物をまとめているとそう声をかけられた。
「はい。お世話になります」
「ふうん。なかなか顔はいいのにねえ」
「あそこは顔だけじゃやっていけないもんね、あんた不器用なんだろ」
 図星を指されてつい憮然とする。
「それじゃここでやっていくほかないねえ。初物は高く売れるから案外借金なんてすぐ返済できるさ。せいぜい花魁になれるようおかあさんのご機嫌をとることだね」
「姐さん、ご機嫌の取り方を教えてやらなくちゃ」
「それはあんたが教えておやりよ」
「いけずやわあ。わっちでよござんすか。ほほほ」
「よござんす。よござんす。ほほほほ」
 しずはまだ十五歳になったばかりだった。
 そして女将は十八歳になるまで客を待たせるつもりはないのだった。
 法律違反をするという危険さもあり、闇取引で値段は膨れ上がる。
 女将からそれを告げられ、固く口止めされ、借金を随分減らすことができると言われた。
「初見世をするからよく心得ておきな」
 初見世とは競りにかけることで、闇取引に呼ばれた好事家たちが値段を決めていくものである。
 しずは絶望の中で過ごしていた。
 神楽坂での忙しい日々の中でも、何とか時間を作り、宗一に手紙を書いていたが、一度も返事が届くことはなかった。
 宗ちゃんは造り酒屋のお坊ちゃんでこんな風に売られてくる女と釣り合うわけもない、そういう思いが日々強くなり、いつしか宗一には手紙を書かなくなった。

 でも宗ちゃんは約束を破る人じゃない……。いつかきっと迎えにきてくれる……。

 そう思う気持ちだけは持っていようと思っていた。
 しかし、もう吉原ではその気持ちも捨てなければいけないと思った。
 一度でも身体を売ってしまったら、男に惚れることはできないよ、神楽坂の姐さんが娼妓を見下すように言っていたのだった。
 自分たちは旦那を持っていて、その旦那に惚れて可愛がってもらっているけど、あいつらは客なら誰でも足開かなくちゃいけないからね……、そう言われたのだった。

 そうしてしずの初見世は行われ、大勢の男の前で裸体を曝け出し、人としての自尊心など引き剥がされ、商品として値段をつけられていったのだった。
 拾円、五拾円、百円と値はつり上がっていき、門前仲町で運送業を営んでいるという初老の男が競り落とした。
 初夜はその数日後だった。
 目の前の父親よりも年上であろうその人は、不安にならないように手荒なことはしようとせず、優しく微笑むのだった。
 ………宗ちゃん………。
 決して床入りしたら涙を流してはいけないと女将に言われていた。
 …………あたし、宗ちゃんのお嫁さんになりたかった…………。
 単衣を脱がされて、絹の布団にゆっくりと横たわらせられ、競り中に、年齢からすると豊満であると言われた胸が掌に包まれると温かさを感じた。
「震えなくていいよ。優しくするから」
 確かに優しい人なのだろうと思った。
 ゆっくりと舌を這わせて足の付け根の部分を舐め尽くしていく。
 ………これが宗ちゃんだったら……どんなに幸せだったんだろう……。
「ああ……いいね……きれいだ……」
 膝を立てられ足を大きく広げられ、その真ん中をじっくりと眺められる。
「時間をかけるよ。今晩は眠れないと覚悟しておいて」
 嬉しそうな表情を浮かべる。大枚を払った処女で、楽しもうと思っていた。働き尽くめの人生への最高のご褒美のつもりだったのだ。
「力を抜いて。ここに集中してごらん。気持ちよくなるはずだよ。ほら。目を瞑って」
 しずは言われた通りに目を瞑るとその弄られている部分から力が抜けていくようだった。 
「姐さんたちは、感じているふりばかりだけど、アンタにはそんなことはできないだろう。それがいいんだ、達しているところが見たいからね。初物にそれを教えられるなんて男冥利に尽きるというものさ」
 刺激を加えられ下腹部で何かが弾けたような感覚と同時に全身が震えだし、身体を硬直させる。
「これは…なかなか感度がいい」
 閃光が走った。
 叫ぶような声をあげてしまう。
「いい声で鳴くなあ。ふふふ。これは具合も良さそうだ。なかなかいい器を持っているかもしれんな。一晩で潮吹きまでいけるかな。楽しみだ……」
 しずは自分の身体ではない気がした。暴走していく身体を止めることができなかった。
「男と女がすることをよく教えてやるよ。そして女の身体がどんなものなのか」



 ***********


 宗一はしずから手紙が届いているとは知らなかった。
 局留めにし、自宅に届くことはなく、あとで母親のゆきが受け取り焼却していたからだ。
 吉田の家に住所を尋ねていっても教えたことを知られたら生きていけないと泣かれるばかりだった。どこにいるのかわからず手紙のひとつも書くことができなく、それでもこつこつと小遣いを貯め、働いたら給金のほとんどを貯金に回そうと考えていた。
 長かった中学が終わり、もうすぐ卒業というところまで来た。
 卒業後は、東京に営業所を出店すると父親がいい、酒問屋から人材を引っ張って所長に据え、そこで働くことが決まっており、給金も五拾円と大学卒並みの給料を提示され、そのかわりこき使いますからと所長に言われた。
 そうして春から勤め始めた。
 宗一は飲み込みが早く、仕事のこつをよく覚え、得意先にも好かれるという商売の才能を開花していった。
 ただ、給金の五拾円の半分は、納税分と家の賄い分と何がしと母親のゆきが巻き上げ、二拾五円でやり繰りしていかなければならず、仕事をするには袴姿ではいけなく、背広を買い揃えなくてはならなかった。一着三拾円もして、それだけで一ヶ月の使える分はなくなり、一着というわけにはいかなく、また、シャツ、ネクタイ、靴、帽子、鞄と揃えるものは際限なくあり、その他、同僚たちとの付き合いもあり、毎月預金どころではなかった。
 それでも一日一日しずに近づいていると思っていた。
 そして、神楽坂の料亭は得意先が多くあり、この何処かにしずがいるのだと思うと、日々の仕事にも精が出るというものだった。
 三味線の音が聴こえてくると、それはしずが弾いているようなそんな気がしていた。
 そうして、暑い夏のご用聞きが終わったところ、宗一が汗だくになりながら営業所に戻ると、所長が団扇を扇ぎ、ぐったりと長椅子に座っていた。
「お帰りー」
「ただいま戻りました。今日も暑いですね」
「ああ、あっついのお。今日はもう仕事は仕舞いにしよ」
「はい。じゃ、これにて」
「ああ。いや、待て」
「やっぱりもうひと回りしよう。坊はわしの鞄持ちだ」
「坊じゃありません」
「そうだな。もう十八になるんだもんなあ」
 まだまだ子供の年齢だと思った。いつまで経っても大人になれない。
「はい」
「じゃあ、問題ない。ついてこい!」

 京橋の事務所から新橋まで歩き、山手線に乗り、上野に行く。
 上野からは路面電車に乗って浅草で下りた。その場所は浅草寺のすぐ後ろにあった。
 吉原だった。
「所長。ここは…わしは……」
「そう! お前の管轄外の大事なお得意先だ。ここで妓に惚れ込まれては困るからな」
 宗一が赤い顔をする。
 吉原への入り口は北口の大門一カ所である。
「そんなことにはなりません」
「今日は暑い中頑張ったし、お前さんを男として一人前にしてやる」
「いや、わしはいい! そんな金なんてないし!」
「ふふふ。これは親父さんに内緒だぞ。わしが出してやる。親父さんにバレたら長年のつきあいをご破算にされるかもしれん。ははははは」
「所長!」
「行くぞ!」
 大興奮である。
 大門をくぐると、中央大通りとなる。まっすぐ南に伸びるその通りの名は仲の町である。
 仲の町を進むと、西側が江戸町一丁目、京町一丁目、揚屋町、東側に江戸町二丁目、角町、京町二丁目とある。
 豪華絢爛というに相応しい街並である。銀座などとは違って、心弾むような色彩、朱色を多用したもので、煌々とした灯りには興奮してくる。引き寄せられてしまうような造りであった。
 腕を引っ張られて宗一は引き摺られていく。
 仲の町の両側には引手茶屋が軒を並べており、その中の一軒に入っていくと、所長は帽子を脱いだ。甘い香りが漂ってきて、宗一はそれだけで緊張する。
「姐さん!」
「はい。いらっしゃい。おにいさん。いつもご贔屓に」
 吉原に来ると名前は不要になる。
「こちらこそご贔屓に。今日は勝手口じゃない方から失礼するよ。お客だ」
「はいはい。承知していますよ」
「あのなあ、こいつのおろしにいい姐さんはいるか」
 女将が宗一を見て、くすりと笑う。
「あれまあ、随分体格がいいねえ。ならば元気もんがいいかねえ」
 上客になれば、そのように茶屋で相談した後に登楼となる。だが、そこまでに金銭的に余裕のない普通客は茶屋の横町に、妓楼の張り見世があり、そこで選ぶ仕組みとなっていた。数年前まではその張り見世に遊女が並び、声が掛かるのを待っていたが、大正デモクラシーの風が吉原にも吹き、現在は写真の展示となっていた。
 花魁道中も完全に廃止され、昔のような派手さはなかったが、男心をくすぐるという点では何も損なわれていなかった。
「わしは!」
 宗一がくらくらしながら、真っ赤な顔をして、何とかその誘惑に負けないようにする。
「樋口一葉の本が読める人がいい!」
「はあ?」
 所長がぽかんと口を開ける。
「何しにきたかわかっておるじゃろ? 本を読みに来たんじゃないぞ」
「し…しかし!」
「おにいさんはインテリだね。じゃあ、読み書きのできる子がいいねえ」
 女将はしばらく考える。
「あんまり慣れていない子だけど、その子は難しい本も読めるよ」
「じゃあ、その子で」
 読書談義をして夜が更ければいいと思った。
「普通は、顔、おっぱいと尻で選ぶんだぞ」
「いいんです!」
「ふーん、じゃあ、女将、こいつの分もわしにつけてくれ」
「はい。ではご案内します」


 *********


 宗一が通された部屋には若い女が座っていた。
 部屋のあちらこちらから笑い声があがっていて、所長の嬉しそうな大きな声も聞こえている。馴染みの娼妓なのだろうと察した。
 確かに楽しむ場所なのだろうと思い、宗一は苦笑する。
「よう、おいでなんした」
 聞き覚えのあるいい声だった。
 一瞬、動きを止める。
「……………」
 鈴虫のように高く響くきれいな声…。
 作り笑いを浮かべながら綺麗に化粧をした顔をあげる。
「どうぞ、そこに立っていなさんな。中へ」
「……………ああ」
 まじまじとその顔を見てしまう。
 すると、笑い顔だったが笑いを消し、そのまま驚いたような顔をした。
 宗一の顔を見て、表情を固めたのだった。
「じゃあ、入るぞ」
 その言葉に、はっとしたようになり、また笑顔となる。
「はい。どうぞ。今日も暑い一日でしたなあ」
 心地よく響くその声は同じ声だと思った。 
 …………まさか……。
「あの」
 ……いや。……似ているだけだ………。
 ここにいるはずがない。
 厚めの化粧では素顔がどのようなものなのか想像がつかない。
 素顔を見たところで、幼い頃とはまるで違ってしまっているのだろうと思った。
 瞳は同じように思えるが、あまりに美しくて直視できない。
 宗一は心臓が飛び出しそうだと思った。
 思わずネクタイを緩める。
 ……これほど美しいおなごが他におるのか……?
「あの………」
 そして、お前はしずじゃないのか…と聞きたい衝動に駆られる。
 逆にしずであってほしいと望むような気持ちが湧いてくる。
 一目惚れしてしまったのだった。
 お前はしず…か?
「おにいさんは本がお好きだとか。秋駒でおざんす。どうぞよろしく」
「秋駒……」
 ……お前はしずか?
 ずっと思い焦がれて日々を過ごしていたのだった。
「わっちは女学校をでているんでおざんす。事情があって今はここにおりんすが」
「……そ……う……」
 女学校という言葉が別人であると告げられたような気がした。
 しずであってほしい……、そう思うと言葉が出てこない。
「…そう緊張しなさんな。女は初めてでおざんすか」
 小さく頷く。
「今日…今日は……上司に無理矢理連れてこられて……」
「ならば、甘えたらよろしいでおざんしょう。酒はいかが。お座りんす」
 無理して郭言葉を言っているように聞こえてきた。
 宗一はゆっくりと座る。
「……秋駒……」
「はい」
「その名はよく合っている。鈴虫のように綺麗な声だからな」
「!」
 声変わりもして、少年時代と同じように喋っても低く響く声は十二歳の時とは違って聴こえる。だが、秋の虫の声が響く頃になると繰り返し宗一がしずに言っていたことだった。
 少年の宗一とは違う背広を着たその姿は袴をはいて駆け回っていた頃とは違うものである。しかし、宗一の放つ雰囲気というものは同じだった。
 ただ、成長期における五年の歳月は長過ぎるものだった。
「そ……それは…ありがとうさん」
 確信が持てない。
 宗一がじっと白い顔を覗き込むように見ると、その視線から外すように顔を背けられる。
「わしには……惚れたおなごがおる」
 細い肩がびくりとする。
「そ…それは…無粋というものでありんしょう。これからわっちを抱いてくれるなら、嘘でもわっちを好きと言ってほしいもの」
 裏切りたくない。
 もし違うのならば、傾倒していく心を押し止めたいと宗一は思った。
「そのおなごの為に、必死に働いて金を貯めてるんだ」
「へえ。幸せなお人ですなあ。女冥利に尽きんすなあ」
 そう言い、震えながら背中を向ける時の仕草がしずそのものに見えた。
 しずであってほしいという願望から何もかもこじつけていくのではないかと自分を戒める。
 ―――どうか、しずであってくれ……。
 しかし、しずは神楽坂で芸妓をしている。
 ここにいるはずがない。
 だが、事情があってここにいるのではないか。
 自分の都合のいい方へと考えていく。
「そのお人は…今どうしておいでで?」
「………もう五年も会っていないのでどうしているか………」
「離ればなれになって?」
「借金を背負わされて…遠くにいかされてしまったんじゃ…」
「左様ですか。でも、ここにはそういうおなごが集まってきていますえ。そのお人も貧しい家に生まれたことでおざんしょう」
 その声が震えていた。
「……ならば、わっちがその人の代わりになってさしあげんしょう。名前もそのお人の名前をお呼びくださってもよござんす」
 吉原では名前は不要のはずである。
「…………………」
 固唾を呑む。
 躊躇する。
 背を向けた背中が俄に震えているのは欲しい答えということではないのか。
 そう思うと、迷いが消えてくる。
 二人の間に緊張が走った。
「………………名前を呼ぶ……?」
「……あい。どうぞ」
「名前は」
 愛しいと思う者はただひとりである。 
「しず」
 宗一の瞳からぽろりと涙が落ちる。
「しず……」
 震えていた肩に手をかける。
「………しず」
「………………」
「……返事をしてくれ」
 しばらく間があいた。
 他の部屋からの嬌声が聴こえてきて静かにその時を待つにはあまり良い雰囲気ではなかったが、そんなことはどうでもいいことだった。
「………………………はい」   
 宗一が後ろから抱きすくめる。
「しず……」
 涙が溢れてくる。
「お前に会いたかった……」
 宗一が嗚咽で苦しそうな息を殺しながら言うと、同じく絶え絶えの息を吐きながら、
「……あたしもだよ……宗ちゃん……」
 そう答えた。
 


 ********


 二人は遇ってはいけない場所で再会を果たしてしまったのだった。
 数多い店の中で、その店の中でも多くの娼妓がいる中で、選りに選ってなぜそこで遇ってしまったのか。
 それほどに縁が深く、引き合う、引かれ合う者同士という証ではあったが、そこは不幸以外の何者でもなかった。
 宗一は宗一で、しずが客を取らされることに心と身体が焼け尽くされていくような嫉妬の中で苦しみ、しずはしずで、もう他の客とは寝たくなく、嫌悪感が襲い、宗一以外には指一本も触れられたくないと思うようになってしまったのだった。
 二人が抱き合えば、まるで天国を歩いているかの如くこの上のない幸福感に包まれ、そこが本来の自分の居場所であると思え、一時も離れたくないと思うものであった。
 子供の頃の懐かしい話をし、互いがどれほど思っていたか、伝え合い、愛を深めていく。   
 長く続けられないとわかっていながらも、どうにもならなかった。
 なぜ共に生きていける道がないのだろう……。
 同じ国に生まれて、同じ村に生まれて、互いが思い合っているのに、なぜ二人で一緒にいられないのだろう。
 何が悪いのだろう。
 何が災いしているのだろう。
 だが、どれほど状況を悲観しても好転することはなく、そんな話は避けていた。

 宗一が今まで小遣いをこつこつと貯めてきた金に手を出して、この数週間、頻繁に家に帰らずに郭通いをするようになったことに家族はすぐ気がついた。
 宗助は東京営業所にやってきてそんな宗一を殴り飛ばす。
 所長が慌てて止める。
「まあ、まあ、宗助さん。そう怒りなさんな」
 そのきっかけを作ってしまったことへ申し訳ないと思っていた。
「この……ろくでなしが……こんな馬鹿息子だとは思わなかった!」
 宗一が土下座をして額を床にこすりつける。
「お願いです……どうしても一緒になりたいんです」
「なんだと?」
「お願いします。一緒にさせてください」
「…なにが一緒にだ…」
 宗助が再び拳を握りしめ、がつがつと宗一の顔を殴っていく。
「女郎なんかに入れあげやがって! 身上潰すつもりか! この大馬鹿野郎!」
「宗助さん! やり過ぎだぞ!」
「お願いします…お願いします…」
 宗一がぼたぼたと涙を床に零す。
「お前なんかもう東京では働かせらんね! 兵隊に行かせる!」
 徴兵は二十歳からだったが、志願兵ならば十七歳より可能である。
 宗一は、今またしずと引き離されるのは死ねと言われているような気がした。  
「いやです」
 宗一が血だらけになった顔を宗助に向ける。
「お願いです! 夫婦になりたいんです!」
 宗助が憤怒の形相となり、ガツリと蹴飛ばす。
「少しは頭を冷やせ!」
 まだ無力なのだった。

 そして、同じようなことをしずも言われていた。
「少し、頭を冷やすがいいよ!」
 そう言って横っ面を叩かれた。
 客を取りたくないと言ったのだった。
「あんたの顔を見ていればわかるよ。惚れた男がいるんだろ。だがね、郭に通ってくる男に惚れさせても女郎が惚れちゃおしまいなんだよ!」
 何としてでも聞き届けてほしかった。
「おかあさん…お願いします。わっちにはもう無理なんでおざんす」
「あんた、随分偉くなったもんだね。自分がもう花魁にでもなったつもりかい?」
 通常、花魁になるには花魁付きになり、幼い頃より花魁が面倒を見ていた者をいずれ水揚げさせ、妹分の花魁として育てるものだが、しずは特別に女将が直々仕込んでいたのだった。いくら金がかかっているか考えたくもなかった。
 その我が儘を通せると思っているしずに怒り心頭に発したのだった。
「今日からあんたは張り見世に出な」
「え」
 張り見世で客を待つのは、いくら今は写真掲示となっても下流女郎であることに変わりはない。
「もう花魁にはさせないよ! 客だけ取っていればいい! 習い事も全部仕舞いだ!」
 毎晩、不特定多数の男を相手にすることになる。
「社長さんには、他の子を紹介するから。あんただけが特別に可愛がられていると思ったら大間違いだよ!」
 しずは恐怖におののいた顔をしていた。
 張り見世に出されれば、しずの器量ならばすぐ声がかかり、そのまま褥入りとなる。
 男のほうも安い女郎相手ならばやりたい放題になり、しずにとっては苦痛以外の何ものでもなく、耐え難い痛みの中で必死にそれが終わるのを待つのみだった。

 毎晩毎晩違う男が身体に乗り、感じてもいないのに、感じたふりをし、早く終わってほしいと願い、そうして宗一が来るのを待っていたが、宗一はぱたりと姿を現さなくなった。
 日に日に会えぬことに苦しくなっていき、宗一を思えば火照る身体を持て余し、かといって他の客には吐き気がし、気色悪さしか感じないのだった。
 そんな日々の中、しずは食事の時に嘔吐してしまう。
「あんた……もしかして……」
 女将は目敏くその変化に気づいた。
「ああ、ちょっと風邪引いたのかもしれんすなあ」
 誤摩化せるはずもなかった。
「病院に行くよ」
「いえ。大したことはありんせん」
「あんた! ふざけてんじゃないよ! 孕んでんだろ!」
「いえ……そんなはずは…」
「今月はまだ月のものがないだろう」
 女将は自分の抱える娼妓たちの生理を全て把握していた。
 しずは誤摩化しきろうとした。
 他の姐さんたちがひそひそと話をする。
「……………………」
 宗一の子である。
 いくら複数の相手をしていたとは言え、誰の子を妊娠したかくらいはわかる。
 …………産みたい…………。
 宗ちゃんの子……産みたい………。
 ――――宗ちゃんの子を産みたい。
「ああ。それならば今日あたりでおざんしょう。腹が張りますえ」
 しずは作り笑いを浮かべてそう言うと、女将は舌打ちする。
「そうかい。そうかい。それならば客はまだ取れるね」
「………………」
 遊郭で妊娠することは恥だと思われており、はやく妊娠しない身体になることが誉れとされていた。どうすれば妊娠しなくなるか、それは梅毒を罹患することである。
 今までは何とか病気にならずに来ていたが、今のような客の取り方ではすぐにかかるとわかっていた。
「じゃあ、早く治るようあんたには風邪薬をあげようね」
 姐さんたちが嘲笑する。
 手渡されたものは複数の錠剤と生薬だった。錠剤は水銀と米粉を合わせたもので、生薬は酸漿(ほおずき)、紫草の根である。
 それを飲めばどうなるか、他の娼妓の様子をいやというほど見てきたからわかる。要は堕胎薬なのだ。
「ほら。飲みな」
「…………………」
 しずが首を振る。
「ほら。飲みなよ!」
「……薬を飲むほどのことではないので」
 しずはそれだけは飲みたくないと思った。
 ………宗ちゃんの子を産みたい…。
「飲めって言っているんだよ!」
 すると女将が目で指図して、男衆がしずの口を開けさせ、その薬と水を口にいれ、口を塞ぎ、鼻をつまむ。息が付けなくなったころに鼻から手を離すと口の中の水を飲み込んでしまう。何度もそれを繰り返し、男衆は完全に飲み込むまで口を押さえたままだった。

 …………お願い、宗ちゃんの子が欲しいの………!

 しずが苦しみのあまり涙を零しながら首を懸命に振るがその強い力にはまったく敵わなかった。
「は! ここまで強情もんとは知らなかったよ」
 可愛さ余って憎さ百倍とばかり、女将は吐き捨てるように言った。
「この吉原で、惚れた男の子供を産もうなんて大それた夢を持つんじゃないよ! あんたは女郎なんだ!」
 女将は何もかもお見通しだったのだった。
 そうして、しずは堕胎させられた。
 水銀中毒に苦しみ、その上、梅毒にもかかり、悪いことは重なるもので、結核まで移されていたのだった。
 

 *********


 宗一は無理矢理志願兵となり、陸軍に入隊し、飛行兵として訓練を受けており、その旨をしずに伝えようと手紙を書いていたが、しずからは返事が出せなかった。
 結核は不治の病とされ、他の遊女に移さないよう吉原内の病院の隔離部屋で「治療」されていたしずは、日に日に弱っていった。
 かろうじて治療を受けることができたのは、宗一が兵隊での給料をほとんど送金していたからで、女将は知らん顔を通すつもりのところ、楼主は送っている男の心情に同情し、それをしずの治療代に当てていたのだった。しずが楼主に治療費について尋ねると、真実を語ってくれて、それがしずを支えるものとなっていった。
「あんたは他の子に較べて幸せ者かもしれないよ。この人、本当にあんたのこと好いとるんじゃね。あんた……いい男に出会ったね。早く兵隊から戻ってくるといいね」
 楼主はそう言った。
「ええ、おとうさん。あたし、幸せだと思う」
 しずが儚げに笑うと、楼主はぽろりと涙を流した。

 そうしてようやく二年の入営期間を終えて宗一が東京に戻ろうとしたとき、帝都を大地震が襲う。
 大正十二年九月一日、マグニチュード7.9相模湾沖で発生した地震である。
 東京だけでも建物の被害二十万戸を超え、死者行方不明者は七万人を超えた。
 建物の被害というのは家屋倒壊ということではなく、焼失が十七万戸を超え、つまり85%は火事が原因だったということである。
 吉原もその被害を受け、吉原の病院の本館は燃えたがそれ以外は残り、しずは無事だった。
 吉原内の娼館等の建物は全焼した。
 その建物の中にいた遊女たちは火に追われ、目の前に池に飛び込んで火から逃れようとしたが、五百人近い遊女が次々と飛び込んで来て、池の中に先に飛び込んだ者は溺死してしまい、池に入らなかったものは焼死した。
 あちこちで建物が倒壊しており、外に出るのが危険だとして、郭の建物の中で避難せずにじっとしていた遊女らが火災から逃げ遅れ、追い詰められて池に飛び込んだのだった。
 その様子をしずは病室から見ていた。
 対岸の火事そのもので、恐ろしい光景にただただ恐怖で身が竦んでしまっていたのだった。
 
 宗一が東京に着いたのは、地震から二日後だった。
 交通機関、通信機関が遮断され、不明確な情報ばかりが伝えられてきて、とにかく東京に行かなければならないとひたすら歩いていったのだった。
 一軒残らず焼失した吉原を見た時は、茫然と立ち尽くすほかなかった。
 その華やかさを知っているだけに余計にひどいものに思えた。  
 とにかくしずの安否を知ろうと近くの病院に行き、大勢の怪我人で溢れかえる中、吉田しずさんなら隔離病棟に入院していますと看護婦に言われる。
「隔離病棟…?」
 マスクをつけさせられ、白い服を着せられ、宗一はその部屋に行くと、痩せ細ったしずがベッドに横になっていた。
「しず…」
 眠っていた。顔色がとても悪くて本当に眠っているのか心配になるほどである。
 思わず頬を触れる。
 あたたかな体温を感じてほっとしているとしずがゆっくりと瞼をあける。
「しず」
 しずがにっこりと笑う。
「おかえりなさい」
 梅毒の症状も進行していて、手は包帯だらけだった。額にも包帯が捲かれている。
 宗一が思わず左手で自らの口を覆う。
「…こんな………」
「ねえ、宗ちゃん、吉原ひどいでしょう。あたし、病気じゃなかったら、あそこで焼け死んでいたね。あたし…恵まれているでしょう」
「恵まれている…?」
 とてもそうは思えなかった。
「みんなお姐さんたちは死んでしまったんですって。おとうさんとおかあさんがここで泣くの。あたししか残っていないって」
 遠くを見るように窓の方を見る。
「人の生き死にっていったい何なのかと毎日思うのよ」
 ごほごほと咳き込み、身体を折り畳むようにするしずに、宗一は思わず背中を摩る。
 その背中は、骨を直接触っているようなものだった。
 なかなか咳は止まらず、喀血する。
「あたし…何の為に生きているのか……って………でも……わかった……」
「しず、あんまり喋るな」
「……神様が、宗ちゃんが来るからここで待っていなさいって……」
 こんこんこんと短い咳をする。
「ご褒美を……くれるから…って……だから…生かされていたんだね……」
「しず」
 しずを抱き締める。
「だめだよ。移っちゃうから……」
「かまうもんか」
「痩せて……骨しか残ってないね……」
「変わってない。しずは何も変わってない。小学生の頃から何も変わってない」
「ふふふ。少しは……大人になった……でしょ……う?」
「いいや。変わっとらん。お前は何も変わっとらん」
 
 
 **********


 吉原の楼主たちは、われ先にと逃げていたため、火災で死亡するようなことはなかった。
 しかも他の土地で仮娼妓小屋を作り、逞しくも厚かましく生き延びており、宗一がしずを引き取って自分が世話をすると病院側に伝えたところ、それに否を唱えてきた。
「身請け」するなら、金を寄越せと言ってきたのだった。
 被災で少しでも受け取れる金があるのなら奪い取ってやろうということだった。

 宗一は宗助に再び頭を下げた。
「お願いします。最後の最後はわしが看てやりたいんです」
 畳に額をこすりつける。
「………………」
 宗助はしばらく黙り込んだ。
 郭遊びで狂っただけのことと思っていた。
 まさかそれほど一途に思っているとは思わず、正直驚いていた。
 兵隊に入れればその熱も冷めると思っており、死の淵にある元女郎を看取りたいというその心を理解し難いながらも、それほどひとりの女を愛せることに羨ましさを感じた。
 ふうと大きな息を吐く。
「幾らだ」
 宗一がはっと顔をあげる。
「先方は幾らだと言ってきているのだ!」
 宗一が顔をくしゃくしゃにしていく。
「………千円……」
 宗助が舌打ちする。足元見やがって…と呟きながら。
「わかった。で、病院を出てどうする」
 その了承の言葉に嬉しさのあまり震えてきた。
「び…病院近くで焼け残った家が貸家になっている。薬をもらいにいければあとはわしがやる」
 宗助がじっと見る。
「所帯道具はゆきに見繕わせる」
 宗一が嗚咽をあげる。
「男が泣くな!」
「あ……あり…ありがとうございます……」
 そうして、宗一としずの新婚生活が始まることになったのだった。

 軍隊生活である程度仕込まれたとはいえ、手際よく家事をするのは困難を極め、台所で四苦八苦する宗一の様子にしずがはらはらとしながら見ていた。
 包丁で手を切り、竃で火傷をし、味噌は入れ過ぎ、米は生煮え、食事になるまではかなりの努力が必要だった。
 しかし、しずに食べさせる粥だけは上手にできており、心をこめて作っているのがわかるとしずは思った。
「ほら、できたぞ。いっぱい食え」
 布団を積み上げたところにしずの背中を当てて、息を吹きかけて粥を冷ましてからしずの口元に持っていく。
「おいしい…」
 病院にいる時より顔色が良くなり、小康状態を保っていた。
 このまま良くなるんじゃないかと思えるほどだった。
「すごいぞ。外はな、建物がどんどん建てられていて、すぐ元通りになりそうな勢いだ。さすが帝都だな」
「そう」
「何だかな、銀座は、こう、もっと道路を広くするようだ。元気になったら一緒に銀座を歩こうな。カフェーで珈琲を飲むんだ」
 宗一が身振り手振りで話す様子にしずがにっこりと笑う。
「珈琲なんて飲んだことがないわ」
「なかなか旨いんだぞ」
「苦いって聞いたけど?」
「その苦いのがいいんだ」
「お茶の方が美味しいんじゃないの?」
「茶と珈琲は違う!」
 しずがくすくす笑う。
「銀座、行きたいね」
「ああ、そうしたら洋服を買ってやる。似合うぞ、きっと」
「洋服?」
「銀座を歩くおなごは皆洋服を着ておってな。なかなか粋よ」
「そう。着てみたいわ……」
「おお。話に夢中になるところだった。ほれ。食え。冷めてしまうぞ」
「うん」
 宗一は結核を発症しなかった。逆に結核菌に感染したことにより、体内に耐性ができ、病気にはならないのだった。
「でも、宗ちゃん、私、銀座より行きたいところがあるの」
「なんだ。どこだ」
「うふふふふ」
「なんだよ、勿体ぶるな」
「当ててみて」
「ああ?」
「お願い、当ててみて」
「う…う〜ん」
「わからないの?」
「う………うん、わからん」
「もう、これだから男の人はだめなのよ」
「なんだ! 早く言え!」
 しずが幸せそうな顔をする。
「鏡の泉」
 宗一が匙を落とす。
「……おお。すまん。ああ。それはいいな」
 あの風景が二人を包んでいく。
 今は紅葉が盛りであろうその情景が浮かんでくる。風まで感じてくるような気がした。
「行きたいね。今は何の鳥が来ているかな…白鳥…来たかな」
「そうだな。行きたいな。汽車に乗ればすぐ着くぞ。白鳥はもう来ているかもしれんな」
「連れて行ってくれる?」
「ああ。お易い御用だ。お前の調子のいい時に行こう。弁当持ってな」
 握り飯を持って。
 小学校の頃が懐かしく甦ってくる。
「楽しみだわ……」
 
 もしかしたらこのまま永遠に続くのでは…とさえ思えた幸せな結婚生活は二ヶ月ほどで終わりがきた。
 宗一はしずに寄り添うように眠っていて、また同じような朝が来ると思っていたが、しずは眠ったまま、目を開けることがなかったのだった。
 よく晴れた初冬の朝であった。
「しず……?」
 すでに固くなっていた。
「しず…………?」
 宗一はなかなか受け入れられずに、大きく息を吸ったり吐いたりする。
 覚悟はしていた。
 覚悟はしていたが、今日だとは思っていなかった。
「ああ……」
 目を開けてほしくて頬を両手で包む。
 冷たかった。
「しず…!」
 その身体にしがみつく。
 …………………しず……!
 世の中から色も音も何もかも消えていくような気がした。
 身体が暗闇の中に沈んでいくようで、全てが終わった……そう思えた。  
 このまま自分も死に向かうのだと、しずの亡骸の横でその生を終わらせればいいのだと思った。
「ひとりにしないでくれ」
 ―――宗ちゃん。
「しず」
 ―――宗ちゃん。
 台所に行き、包丁を手にする。
 これで首を切ればその場でしずとともに眠ることができる。
 これ以上の幸せはないだろうと思った。
 包丁を研ぎ始める。
 ゆっくりと砥石に刃を当て、丁寧に研いでいく。
 自分の死出の旅の始まったことに心を静めていくように。
 そこでしずが待っているはずである。
「待っていろよ。しず」
 もう慌てることはない。これからはもう離れることはないのだ。
「ふ。いつもお前を待たせてばかりですまんな」
「宗ちゃん。あたし、お粥……食べたいな……」
 しずの声だった。
「え?」
 思わず振り返る。
 するとそこには寝ているしずと起きているしずがいた。
 驚きのあまり包丁から指を離す。
「お粥……作ってくれる?」
 幻のようには見えなかった。
「だって……お前……」
「作ってほしいの」
 とても幻には見えなかったのだ。
「…お……おお……粥…だな。腹が減ったか……?」
 震える手で米を掬う。水を汲んで鍋にいれ、竃に火をつける。
 もう一度、高鳴る心臓を押さえながらしずを見る。
 傷も何もなく優しい笑顔を浮かべていた。 
 美しいしずがそこにいたのだった。

第二話 昭和




 無差別爆撃、絨毯爆撃と呼んだアメリカ軍のその空爆は、軍事施設とは関係ない商業および居住区域が空爆目標となり、非武装の市民を殺戮した、鏖殺爆撃に違いなかった。
 それが一体どれほどの規模であったのか。
 爆撃を行った戦略爆撃機「B29」、325機。
 一機における爆弾搭載量、1113発。
 よって、投下総量は36万発を超える。
 三月十日午前零時十五分から午前二時半まで、つまり深夜の時間帯の二時間十五分に渡り、投下されていったのである。
 一分間に降ってくる焼夷弾の数は、約2700発。
 それはまさに沛然たる焼夷弾の雨となった。
 第一爆撃目標は、隅田川の西側、浅草区の最も人口密度が高く燃えやすい地域。
 第二爆撃目標は、隅田川の東側、本所区全域、中心は本所中央消防署。   
 第三爆撃目標は、隅田川の東側、深川区全域、中心は隅田川にかかる鉄橋。
 第四爆撃目標は、東京駅と隅田川の間の日本橋区。
 隅田川を挟んだほぼ四角形にかこまれた本所区、深川区、浅草区、日本橋区の41平方キロメートルを一気に焼失していき、その区域に居住する130万人の運が生死をわけることとなった。

 マリアナ諸島での戦いに勝利したアメリカは、グアム島に六ヶ所の飛行場を作り、大量のB29機を生産していった。
 1600マイルの行動範囲を持つB29の威力圏は、硫黄島、台湾、沖縄、九州から関東まで広がり、制空権はアメリカ側が完全に掌握していた。
 砂漠で行われた焼夷弾性能実験では、日本を焦土と化すことを目的に日本式家屋の燃焼実験が行われ、火災の発生状況からの経過を研究していた。
 そして新兵器の開発は見事にその成果をあげることとなり、攻撃目標を住宅密集地に定めたのだった。
 爆撃軍司令官のカーティス・E・ルメイ少将は、こう考えていた。

 ――この空爆によって戦争は終結する。天皇がこの空爆に応報してくるはずがない。その為にも東京が地図上から消滅するのを止めることはできないのだ。

 軍事施設を叩くという今までの戦略ではない、町そのもの、しかも帝都東京を殲滅させる大量虐殺という手段を正当化したアメリカを止めるものはもはや何もなかった。
 もっと早い段階で降伏していればここまで戦禍は夥しいものにはならなかっただろうと政治家は誰でも考えていたが、負け続ける戦争の中、神風を待つ軍幹部は、その決定を下すことができなかった。
 その空襲による死者は約10万人とされた。
 正確な人数を把握できない、それほどに凄まじい地獄絵図となったのだった。

 第一目標地域の浅草区には、大正の大地震での火災の教訓を活かせずに木造家屋が犇めき合っており、そこに106機のB29が爆弾を投下すると、マッチ箱にマッチを擦ってそのまま箱に引火させたかのようになった。
 紙と木でできている、とアメリカ人が馬鹿にしていた日本家屋は瞬く間に次々と延焼していく。
 まさに巨大なマッチだったのだ。
 
 隅田川西側からあがった火の手による熱気と煙により西からの烈風が吹き飛ばしていき火災を拡大させていく。その風によりアメリカ軍は次の爆撃目標を鮮明にしていった。
 その風に煽られて焔を広げていく様子はまるで細胞が増殖していくかの如くで、熱気がそのまま移動していくと延焼よりも先にその熱気で建物を灼いていく。建物内にいる人々は閉じ込められてそのまま命を落としていった。地下壕にいたものは灼熱の温度に灼かれたのである。
 そして火炎による竜巻が発生し、たとえ外に出られたとしても酸素を燃え尽くしていく炎のため、窒息していくのだった。


 ***********

 
 宗一が空襲警報のサイレンを聴いたのは、日本橋の料亭にいた時だった。
 次の日が陸軍の記念日で、その前祝いと称して宴席を設けられ、それにつきあい、飲み直す為にその料亭に来たからだった。
 そこは、父、宗助の外の女の店である。
 しずが死んでからというもの仕事にのめり込み、休みなく働き、酒の販売数は増え、もっと規模を拡大させ、他の蔵元を買収し、他で頭角を現してきた酒造会社と張り合えるものにしていこうと主張したが、宗助は今の規模で充分だと言い張り、双方譲らず、年中、親子喧嘩をしていた。
 宗助は宗助で、宗一がどれほど商売上手で仕事ができようとも、いつまで経っても手のかかる子供であり、成長したとは思えず、意見を言おうものなら生意気でしかなかった。
 宗一も宗一で、いつまで経っても自分を認めてくれない父に苛立ち、勝手に販路を広げたところ、独断で行ったことに宗助は怒り、納品しないと言い放った。
「馬鹿者め! 隣村の羽鳥家の縄張りだ! 誰が勝手にやっていいといった!」
「そんなことをしていたら、大会社に全部押さえられてしまうんだ!」
「わしは他の蔵元を食うようなことはせん!」
「わしらが食われてしまう! これが資本主義というもんなんだ!」
「宗一! その為にお前が東京におるんだろが! 何のためのご用聞きだ! 自分の役割も満足に果たせんのに能書きだけは一人前だな!」
「父さんはなんでわからん! ご用聞きの時代はとうに終わっとる! これからは事業戦略が必要なんだ!」
「わからんのはお前のほうだ! この役立たずが!」
 世の中を席巻していた大正デモクラシーの影響から、どの産業もそれまでのやり方を変えていかなければ生き残りは図れなく、地主から造り酒屋を営んでいた家は多かったが、それを継承し続けていくにも時代の流れを機敏に察知し、それに向けた努力をしていかなければいけなかったのだった。
 
 ふっと笑う。
「どうしたんです? 宗一さん」
 その父の愛人、女将の春賀(はるか)が笑う。
「いや。昔親父と喧嘩した時のことを思い出して」
「まあ。宗助さんと喧嘩を? 意外ですね」
「年中喧嘩だらけで。何度殴られたことか。とにかく頑固親父でどうにもならなくて随分と反抗した。親父が頑固を通したせいで酒屋を潰すようなことになってしまって、おかげで、わしはやくざな博打の世界に身を投じ、それが良かったのか悪かったのか、今でもわからんが」
 苦笑しながらそう言った。
「ご立派でいらっしゃいます」
 宗助が他界して、春賀の世話を頼まれたのだった。
「…ははは。金の亡者に成り下がってしまっただけだ。まあ、とにかく成金の多い時代で。だいたいが大恐慌で借金地獄に落ち、わしは株を殆ど売り抜いて助かり、それを元手に金貸しをして、それからというもの、金が金を生むことから抜けられなくて今に至っておるわけで、誠にえげつないことよ…」
 金銭的な面倒から客の紹介など細々と気を配り、だが、義務というよりも楽しみで足繁く通うようになっていた。自分より遥かに若い元新橋芸者の春賀は父にとって最後の女で、妹を生んでいた。その妹はまだ二歳ですやすやと眠っている。その志乃を見たさに通っているのだった。無垢な赤子に心が洗われていくような気がしていた。
 あの時、蔵元を続けていられれば、少しはまともな人間だったろうか……と自問してみる。
 首を横にふる。
 ………それができなかったんじゃないか。それ以外に道はなかった。
 自分を駆り立てる野心に理由付けをしながらやってきていた。

 ――――ならば茨の道は自業自得。

 金貸しという商売しか生きる道がなかったのだった。その時も、今も。
 そして、今は国家予算に影響を与えるほどの金を動かしている。
 財閥であれば大銀行の頭取として偉そうにできただろうが…銀行を創立したとしても大銀行に吸収と合併され、残っているのはわずかなもので、酒屋での同じことを繰り返したくなく他とは違う道を歩いてきた。
 だがそれは、とりもなおさず闇の世界に身を落とすことだった。
「志乃は日に日に大きくなるなあ」
 借金に追われるものを追い詰め、自殺に追い込むなど日常茶飯事だった。
「ええ。毎日色々と達者になっていきます。顔もしっかりとしてきて」
 財産のある家に投資話を持ち込んで有り金を引き出し、手数料を取った。手数料が払えないのなら物納しろと脅した。
「ああ。来る度に変わっている」
 複数の女を騙して、金を貢がせた。
「よく宗助さんが宗一の子供の頃によく似ているとおっしゃっていました」
 ゆすり、たかり…。
 そうして集めた金と先物で増やし、更に金を貸していった。高い利息をつけて。
「わしに似ているなど、女としては不憫なことだ。はははは」
 政治団体を作ったが、組織の実体は金の回収の為のものだった。
 組織が大きくなれば大きくなる程、金が必要になった。
 入ってきた分、出て行ってしまうのだ。
 組織に集まってきた者は皆貧しい家の出身の者で、自分の無理な命令にも答える者達を守らなければならないと思った。
 だから、さらに大口の仕事を見つけなければならなかった。
 追われるように。
「まったく可愛いのう」
 政界に入り、裏金を操る。それがいつしか目標となった。
 志乃が寝返りを打つ。
 そして、目標は達成した。
 しかし、飢餓感と危機感は消えることなく常にあり、心が休まることはない。
 本来持たなければならない罪の意識は持てなくなっていた。
 今は、政商と共に、人殺しまでしている。
 支那人の家を襲って、略奪行為をしているのだ。
 満州で大量のアヘンを栽培し、それを世界中に売り、その金で兵器を買い、軍に横流しをしている。
 酒を売っていた自分はどこに消えたのか…。
 そんな自分などいたのかと思い出せないほどに、汚れてしまったと思った。
 金の持つ醜さに塗れ、その悪臭が自分の持つ臭いとなって定着していた。
 皆は、自分を、「財布」だと思っている。
 どの政治家もどの軍人もどの者も…。
「でも志乃は別嬪になるぞ」
 春賀がくすくす笑う。
「なんじゃ」
「宗助さんと同じことをおっしゃるので」
「ああっ! あの頑固もんに似てきてしまったか! いやなことだ!」
 父と喧嘩をしていた頃に戻りたいと思った。
 だが、その頃の自分がどんな者だったのか、うまく思い出せなかった。
 
 春賀がころころと笑う。
「よく似ていますよ」
 宗一の優しさに感謝していた。
 宗助亡き後の穴を埋められなくて、こうして宗一に宗助の話をしてもらうことで救われていた。わざと親父が親父がというように話をしてくれていることに気づいていて、そんな優しさが宗助と似ていると思い、ついつい志乃にかこつけて甘えてしまっていた。
 世間では国会議員の木内宗一の愛人として噂されるようになり、恐縮しながらも、その噂を宗一はそのままにしておいた。
「わしが女に興味がないのは、近くにいるものなら皆知っておる。気にすることなどない」
 そう言って笑い飛ばしていたのである。
「何から何まで本当にお世話になります」
「あんたはわしにとっては身内じゃ。父も母もおらん今、あんたと志乃しかおらん」
 たくさん男児を作るつもりで『宗一』という名前をつけたが、皆早世し、育たなかった。
「ありがとうございます」
 丁寧に頭を下げた後、春賀が宗一に酒をすすめる。
「今晩は随分飲んだはずじゃったが、まずい酒ではまったく酔えなかった。軍の連中ときたら揃いも揃って実につまらん奴ばかりじゃ。冗談のひとつも言えぬ上に冗談も通じない」
「このご時勢ではご冗談も言えないのでしょう。冷えてきましたね。燗にしましょうか」
「まったく。どうしようもない。ああ。頼もうか」
 しかし、空襲警報が鳴った。
「ち。やはり記念日を狙ってきたか。明日かと思ったが今晩か。どうやら酒どころではないようだ。さて、わしの家にでも行くか」
 春賀が首を振る。
「……いえ。…私は近所の方々と共に消火活動をしなくては…」
 常に空襲に備えて近所の人たちと防火訓練をしていた。なのに、いざ空襲で火災になった時に自宅にいなかったらどれほど非難されるかと思うと逃げるわけにいかなかったのだ。
 普段から羨望の視線を浴びていることは感じていて、近所が火事なのに消火活動に参加しなかったらその後に生活をしていくことが難しくなる。
 世間の目は日増しに厳しくなっていたのだった。
「だめだ。あんな小さな地下壕で防げるわけがない。わしの家ならば安全だ」
「いえ。それに、私は、この宗助さんが建ててくれた店を守りたいので。ここから離れたくないんです」
「この間は銀座に爆弾が落とされたんだ! 奴らはどこに投げてくるかわからんぞ!」
 国民学校を直撃した爆弾は教員4名の命を奪っていた。
「…あの…。宗一さんはどうか、ご自宅にお戻りください」
「何を言う! 置いていけるわけがなかろう! 早く地下壕に行くぞ!」


 夥しい数の敵機が低空で飛んでいるのが見なくともわかるほどの異様な音だった。
 それだけで今までの空襲とは違うのだと誰もがわかった。
 宗一は防空壕から思わず飛び出す。
 すると勝鬨橋あたりからのサーチライトに照らされた不気味に銀色に光るB29の機体を確認することができた。
「……なんだ、これは………」
 大軍である。
 まずそれに驚く。
 これほどの戦闘機を迎撃することができず、帝都上空を埋め尽くしているということに驚いた。本土決戦だなどと軍人は息巻いていたが、対空防御戦力が圧倒的に欠けていることを露呈しているようなものだと思った。
 立ち尽くしていると、浅草方面が明るくなった。
 あの辺りは、吉原だ……と漠然に思った。
 すると、空から火の玉が降ってくるような光景になり、唖然とする。
 まるで花火のようなのである。
 誠に花火であれば良かったであろうが、それは恐ろしい兵器だった。
 機体から離れた500ポンド集束型焼夷弾は、数秒後に38発のM69焼夷弾となり、地上を目指していく。その際、凧の尻尾のような約100センチの細布が飛び出し、焼夷弾の揺れや落下速度を調整することになり、さながらリボンのように見える。
 その優雅ささえある物体は落下時に悪魔の牙を剥く。
 建造物の屋根を突き破ると時限式導火線が作動し、中のナパーム剤(ゼリー状ガソリン)に点火し、火のついたガソリンとなって噴射するのだった。
 つまり着地してその周囲に焔をまき散らし、一瞬で火に包まれる。
 日本家屋なら20分で燃え尽きるという実験結果が出ているもので、最初から住宅を焼くことが目的として作られた爆弾だった。
 その焼夷弾が次から次へと降ってくるのである。
 宗一は嫌な予感がした。 
 火の海に包まれた時、地下壕は釜のようになるのではないかと思ったのだ。
「おい…」
 大通りに作ってあった近所の人と共に入っていた地下壕の中に向かって声を出す。
「おい! ここは危険だ! 新橋の安全なところまで連れて行ってやる! ついてこい!」
 新橋の家は、庭を潰して、地下室を作っていた。まだこの地下壕よりは安全のはずだった。
「早くしろ! 走るぞ!」
 出て行きたくない者がほとんどだった。
「春賀! 早くしろ!」
 その時、近所の人々はひそひそと話していた。
 ………親子どんぶりだからね……。
 春賀がそんな陰口に居たたまれずに這いずり外に出る。
「はい」
「他に付いてくるものはおらんか!」
 誰もいなかった。
「春賀! 走るぞ!」
「はい!」
 春賀が背中におぶっている志乃は異様な雰囲気に大声で泣き出した。
 絶え間なくヒューヒューという音が空で鳴っており、それが落ちたという衝撃が伝わってくる。そして辺りが夜中だというのに明け方にでもなったように明るくなってくる。
 それが近寄ってくるように思えた。
 新橋に向けて一本道の大通りを走っていく。
 すると、今いた場所に焼夷弾が落とされるのを見た。
 春賀の店あたりから火の手が上がっている。
「ああ…! お店が!」
 春賀が立ち止まる。
 消火活動をしたいと思ったのだった。
「春賀! 何をしている!」
「お店が燃えてしまいます! 火を消さないと!」
 慌てて出動した消防団はなす術もない状態だった。
 消そうとしても次から次への出火していき、ガソリンで燃え上がっているので水では容易に消火できない。
 そうこうしているうちに各地で発生した火災で温度があがっていく。
「店なんぞまた建てればいいじゃないか! 今は逃げることが先決だ!」
 春賀にとって宗助との思い出がいっぱい詰まっている店である。
 あの店でなければ何の意味もなかった。
 宗助の愛そのものだったのだ。
 何としても守りたいと思った。
 春賀が背中の志乃を宗一に預ける。
「宗一さん。あそこを守ることは私の使命なのです。この子をどうぞ宜しくお願いします」
「なに言っている!」
 春賀が毅然とした顔をして強い意志を持って、志乃を押し付ける。
 そして、火の中に走っていった。
「春賀!」
 赤々とした空がより明度を上げていく。
 どう見ても自殺行為だった。
 京橋あたりで止まっていると、先生! 先生! と声が聞こえてくる。
 恩田龍平や弟子達が自分を探しに来てくれていたのだ。
「先生! ああ! 無事で良かった。今、全員で迎えに行こうと思っていたところです。日本橋にも爆弾が落ちているんですね」
「龍平。悪いが、この子を頼む。新橋が危険だと思ったら宮城に行くんだ。桜田門に行け。おそらく宮城は狙ってこない」
「先生?」
「わしは日本橋に戻る」
「先生!」
「心配するな。かならず戻るから。その子を頼むぞ。わしの大事な妹だ!」
 そう言って日本橋に向かって走っていった。
「先生――――!」
 
 日本橋方面への爆撃は銀座の建物を焼失させていっていた。
 東京駅にも火の手があがり、煉瓦作りの建物はそれこそ煉瓦釜のようになり、関東大震災でも耐えた堅固な造りだったが、何千度と温度をあげていった焔の威力には勝てず、天井を突き抜け火柱をあげる。
 春賀は、燃え尽きようとしている自分の店に水をかけるが、近所も全て燃え上がっており、その消火活動は何の意味も為さなかった。
 しかし、春賀は祈るような思いで、柱の一本でもいいから残したいと懸命に火を消そうとしていた。
「春賀!」
 宗一がその春賀の身体を引き寄せるように腕を取る。
「もういい! もういいじゃないか!」
「……宗一さん……。店が…燃えてしまった……」
「元通りにわしが建ててやるから!」
「……宗助さんの衣装も……」
「親父の形見なら他にもある! それよりもここから逃げるぞ!」
 まだ焼夷弾は降ってきているのだ。
 神田方面から逃げてくる人で溢れかえっていた。
 すると、ものすごい風を感じた。竜巻が発生していたのである。
 真っ赤に燃える空の中、熱風が全てを巻き上げていくように、竜が火を吹いているとはまさにこれのことだと思えるような恐ろしい光景が目の前にあった。
 本所区、深川区、城東区はまったく逃げ道がない状態でその灼熱地獄の中で人々が右往左往することとなった。
 各所で発生した竜巻は赤い塊となって、鉄筋コンクリートの窓を突き破り、中のものを焼き尽くしていく。しっかりとしたコンクリート造りの建物に避難していた人々はそこで焼死することになった。
 地下壕に入った人たちは、その中はまさに焦熱の中にいる状態となり、焼死してしまう。
 火から身を守ろうとして学校のプールの中に入ると、次から次へと入ってくるため、先に入った者はそれに押しつぶされ溺死してしまう。
 隅田川の水の中に入った者は、顔を出せば熱で顔を火傷し、身体は摂氏二度という川の水に体温を奪われ、低体温のため凍死していく。
 どこに逃げてもどこに行っても逃げ場がなく、言問橋、清洲橋では人々が押し合い、狂乱状態で必死にその炎から逃げようとしていた。
 日本橋区は最後の仕上げの爆撃で、全ての退路を奪っていった。
 宗一は泣き崩れる春賀を引き摺るようにしてその場を離れようとするが、容赦なく降ってくる焼夷弾に火災は依然として止まず、火に囲まれてしまう。
 宗一はこの春賀を何としても守りたかった。
 父が愛した人である。
 父がこの女性をどれほど慈しんでいたか、愛しく思っていたか、痛い程にわかるのだ。
 生前、見たことないような顔をして二人で歩いているのを見て、母には違う顔を向けるその表情を見て、それがどんな思いか、父がどれほど大事にしているのかよくわかったのだった。
 父の言葉が甦ってくる。


 **********


「なあ、宗一。この年になってようやくお前の心を理解したぞ」
 還暦も過ぎて、すっかり爺になった父が言った言葉だった。
「女はな。今まで面倒見るべきもので、それがわしの役割だと思ってきた。つまりな、それはゆきでも誰でも同じようにすればいいと思っていたんだ」
 長年連れ添った母ゆきは糟糠の妻としてよくやっていたが、女としては卒業していたようだった。
「お前が、前にあんな状態になったのが理解できなくてな。女なら他にいくらでもおるじゃないかと、正直思ったもんだ」
 宗一は、しずが死んだ後、生きる気力の全てを失われて、しずと住んでいた貸家に引きこもっていた。
「そんな昔の話をせんでくれ」
「あの時、お前に悪いことしたな……」
 宗一がふっと笑う。
「いや。あれで救われた」
 その当時のことを思い出す。
 
 勤めを無断で休んでいると聞いて宗助がその理由を察し、貸家に乗り込んで来た。
 自殺するつもりだろうと思ったのだった。
 葬儀終了後すぐ引き取るべきだと思ったが、宗一は頑として受け入れなかったのだ。
「宗一!」
 精気を失った宗一が焦点の定まらぬ目で宗助を見る。
「なんだ、父さん。そんな大声をあげて。しずが驚いてしまう」
 平手が飛ぶ。
 宗助が宗一の頬を大きな音を立てて引っ叩いていた。
「しっかりしろ! 宗一!」
 その叩かれた頬に痛みもろくに感じぬように宗一は叩かれて首をぐったりとその方向に向けていた。脱水症状を起こしているのがわかるほど唇が乾燥している。まったく食事をしていないのが一目瞭然だった。
「お前は何をしている!」
「何を…って……しずに粥を食わせておる」
 飄々と言う宗一の胸ぐらを掴んで揺さぶる。
「しずさんは死んだんだ! もうここにはおらん! 葬式は済んだろう!」
 宗一が首をふる。
「……あれはな、しずがしてほしいというからしてやったんだ。けど、しずは本当はまだここにおってな……」
「目を覚ませ! 宗一!」
「父さん。うるさくするなら帰ってくれんか。……迷惑だ」
 首元を掴み、頬を更に叩く。
「目を覚ますんだ! 宗一! もうしずさんはここにはおらん! ここにはおらんのだ!」
「…しずがおらん?」
「ああ。しずさんは仏様になったんだ」
 宗一が自らの胸を鷲掴みにする。見えていたはずのしずが見えなくなっていた。
 そのしずの姿を探すように、きょろきょろと辺りを見る。
「お前が!」
 宗助が宗一の肩を掴み、身体を揺らす。
「お前が! お前がそんなんじゃ、しずさんも安心して冥途を進めん! 現実を見ろ!」
「………………冥途……」
「ああ。いずれ転生をするために進む道のことだ。だからいつまでもここには留まれん」
「転生……?」
「しずさんは生まれ変わってくる。きっとお前の為に生まれ変わってくる」
「………そうなのか?」
「だから、お前はしっかりと生きろ」
「本当にしずは生まれ変わってくるんか?」
「ああ。仏様の教えだ。間違いない」
「……しずが生まれ変わってくる…………」
 呟くように言った。
「……………しずが……また生まれてくる………」
「ああ。そうだ。だから、お前も前に進むべきなんだ」 
 だが、すぐには喪失感を埋めることができなかった。
「本当だな……」
 ぼたぼたと涙が零れ落ちていく。
「ああ。本当だ。寺の和尚のところに話を聞きにいくか」
「……っ……いつ…」
 涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになる。
「それはいつだ!」
「………それは分からんが………」
 宗一が宗助に縋り付く。
「…………助けてくれ…………」
 自分を支えるすべが見つからなかった。
 苦しくてどうにもならないのだった。
「………………助けてくれ………父さん…!」
 宗助は宗一をひしと抱き締め、背中をとんとんと叩いた。
 息子の苦しみを少しでも和らげたいと思ったのだった。 
 

「お前の思いがどれほどのものだったか、わしはわかっておらなかった」
 その言葉で回想から抜け出す。
 その頃の自分を思い出そうとするが、あまり鮮明な記憶ではなかった。
「……あの頃のわしにとって…あいつは自分の全てだった……」
 宗助がふっと笑う。
「ふ。そこまで女に惚れたことがなかったわしはそれがわかっていなかった。随分軽々しいことを言ったもんだ」
「今はそれがわかると?」
「ああ。春賀に先立たれたら、わしは間違いなく後を追う」
「…………………」
「春賀と共に死ねるならばこれ以上幸せなことはないと思う」
「…………………………」
「お前もあの頃そう思っておったろ」
 宗一がその言葉に少々動きを止めた後、長く息を吐く。
「……………………………そうかもな……」
「なのに、わしはお前に生きろと言った。その苦しみがどれほどのものなのかわかっていなかった」
 宗一が首を横に振る。
「いいんだ」
 晴れやかな顔をした。
「それはもういいんだ」
 しずは確かに生まれ変わってきた。
「そうか。わしはもう老い先短い。次はない。先立たれるよりも自分が先に死ぬ」
「父さん…」
「その時はお前に春賀を任せてもいいか? 実はな、赤ん坊が生まれるんじゃ」
「え?」
「ふ。お前の兄弟が生まれる。わしに何かあったらお前が守ってくれるか」
 その時の嬉しそうな顔はいつまでも忘れられないものだった。
 初めて見た、父の顔だった。
 だから、父の願いに応えたい。
 
「あんたを死なせるわけにいかない! 親父と約束したからな!」
 春賀がはっとする。
「宗助さんと?」
「ああ、あんたを守るよう親父の言いつけだ! 志乃を母親のいない子にするつもりか! 親父の子だろう!」
 ゴオオオオという不気味な音が近づいてくる。
 竜巻が襲ってくる音だった。
 瓦礫と化した建物を巻き上げていく。
「走れ! 吸い込まれるぞ!」
 酸素を灼き尽くしていき空気が薄い。
 すぐ呼吸困難になってしまった。春賀が苦しそうに喉を押さえる。
「銀座まで行けば楽になる…もう少しだ」
 銀座も火の海になっていた。
 だが、火焔旋風はなかったため、酸素不足からは抜けることができた。

 ………父さん。
 ………………守ったぞ………。
 
 しかし、身体が動かなくなっていった。

 気力を振り絞る。
 春賀を抱えて、一歩一歩進む。
 新橋の家はすぐそこだったが、遠いものだった。


 *********


 気を失っている春賀を背負い、うまく呼吸ができないながらも家に近づいていると、自分を探している声を聴く。同じように空気を求めて逃げてくる群衆の中に埋もれている自分を必死に探しているのだとわかるが、声が出せずに主張できなかった。
 とにかく自宅までつけば何とかなる、そんな気がしていた。B29のあの地獄の釜をかき回しているようなエンジン音を遠く感じたからだ。
 いったいどれほどの被害を齎したのか。
 どれほどの命を奪ったのか。
 日本橋より先の地域は軍事施設も大きな軍需工場もない下町である。
 震災で多くの家屋が焼失し、そこにまたこつこつと小さな建物を建て、家族が肩を寄せ合うように生活し、そして、人の営みを支えるもの、商店街、寄合所、神社仏閣、学校、それらが点在し、社会を造り上げている。
 若い男たちは皆兵隊に取られ、女たちが必死に働き、生活を切り盛りしている。
 配給制となった食べ物を皆で分け、娯楽も取り上げられ、それでもそれが戦地に行っている夫や息子たちの為ならばとつらくともつらいと言わず、苦しくとも苦しいと言わず、その戦地に行っているかけがえのない家族が無言の帰宅をしても、立派にお國の為に戦ってきたと涙をのんで讃えている。
 そんな中を皆、必死に生きている。
 必死に生きているのだ。
 
 そこを襲撃する意味はなんだ……!
 そこに生きる人々を殺す理由はなんだ……!
 
 ………いっそ呪われてしまえ……!

 いつまでも白旗をあげぬ我が国にも反省すべきところはある。
 外地の基地を全て奪われ、両手両足がもげている状態であるにもかかわらず、未だに降参と言えない。
 今回の空襲は、首をへし折るようなものではないのか、それとも目を抉り取るものか、もしくは舌を切るものか……!
 いい加減にしてくれ!
 それを誰に向かって叫べばいいのか。
 総理か。
 それとも…陛下か。
 それが聞き届けられるのならこの命を捧げてもいい、ただし、その声が単に遠吠えの犬のようならば意味はない。
 犬死になどしたくないのだ!
 しかし、視界は暗くなっていった。
 ………ここで死んでしまうのか……?
  
「先生!」

 ああ、龍平の声か。助かったな。春賀。
「先生! 先生しっかりしてください!」
 ああ、大事ない、そう言ったつもりだったが、声は出ていなかったようだ。
「女将さんなら大丈夫です。だから先生も生きてください!」
 その言い方に自分が瀕死の状態なのだと思った。
 心臓を強く押されているのがわかった。
 ああ、こうなってはもう仕舞いだ。
 ……これまでということよ。 
 随分と生きたような気がする。なかなかの一生だったと思う。
 善三の顔が浮かんでくる。
 やはりこれは宿命かと苦笑してしまう。
 わが人生、よくやったとは言えなくとも、よく努力した、そうは言えると思う。
 やり残したことは多々あるが、それはおそらく自分でなくともやれる者がおる。
 自分にしかできないこと、……それは何だったのか……。
 いや、そんなものなどなかったのかもしれん。                                             
 とにかく上等だ。
「先生!」
 龍平、悪いな。
「先生――!」
 風が吹いている。
 この風は、
 ……そうだ。稲刈り前の稲穂が重く頭を下げている畑を渡っていく風だ。
 どこまでも続く田園を渡っていく風。
 その中におさげ髪の可愛らしい少女が立っている。
 そう、いつもそうやって夕方になると立っているんだ。
「しず」
 そう声をかけると嬉しそうな顔をされる。
 その笑い顔が大好きだ。
「宗ちゃん」
 肩からかけていた鞄の中から握り飯を出す。
「これ、食え」
 すると寂しそうに笑う。
「いいの?」
「うん」
 しずに食べさせたくて作ってもらっている握り飯だった。いつも夕飯がないとわかっていた。きっと皆で少ない米を食べていて、自分の分を他の兄弟に渡しているのだろうと思った。
「……いつもありがとう。宗ちゃん」
「…お…おう……」
 しずの為ならば何でもしてやりたいと思った。
 お前の笑い顔を見るためならば何でもやる。
 何でもやるんだ!

 ********

「こんなはした金で秋駒と過ごせると思ってんのかい!」
 通うたびに吊り上がる吉原の料金に貯蓄していた金はすぐ消えていった。
 まだ成人もしていない若者に吉原通いなどできるはずもないと女将は早々に消えてもらいたいとわざと値をあげていたのだった。秋駒の間男にでもなられたら困ると。
 わかっていた。
 頭ではわかっていた。だが、理性など追いつかなかった。
 するとしずは自分の金を出してきて、これを使ってと言った。
 情けなさでどうにもならなくなる。
 しかし、耐え切れなかった。
 ――――他の男がしずを抱くなど。
 身を千切られるような痛みと苦しみが襲い、身体中が炎に包まれているかのような熱さに気が狂いそうだった。
 苦しさのあまり頭が割れそうである。
 誰にも渡したくない!
 誰にも触らせたくない!
 誰にも見せたくない!
 しずはわしのものだ。
 しずはわしだけのものだ。
 他の男などに……!
 ならば、いっそ、このまま……。
 しずの細い首の喉元に親指を立てる。ここに少しの力を加えれば……。
 しずはそれを受け入れていた。
 優しい笑みさえ浮かべて。
 涙が浮かんでくる。
 ――――できるわけがない。
 だが、他に道があるのか……?
「いいよ、宗ちゃん。宗ちゃんならばいい。あたし、いいよ」
 首から指を離す。
「……ばかやろう……」
 できるわけがなかったのだ。

 ********

「しず。これからわしらは夫婦じゃからな」
 骨骨しい身体を抱き上げながら、その新居へと向かう。
「宗ちゃん。恥ずかしいよ」
「何が恥ずかしい?」
「歩けるから、いいから下ろしてよ」
「いいからじっとしてろ」
 しずを荷車から降ろし、六畳が二間しかない家に入る。
 ゆっくりと下ろして、母親が手配して畳替えされた部屋に座敷に座らせ、布団を敷く。横たわらせると咳をした。
「大丈夫か」
「うん。大丈夫。ああ、いいお布団」
「母さんがみんな用意してくれた」
「……いいの?」          
「ああ。いいんじゃ。嫁の寝る布団ならばいい綿を入れないと、と言っておった」
「そんな…勿体ない……」   
「なあ、……わし……もう我慢できんが」
「ええ?」
「お前と二人きりで、褥に横になっておられたら、そりゃ腫れるもんがある」
「……だって……」
「触ってくれんか? それだけでいい」
「…う……うん…」
 おずおずと出された指に突端を触れられるとそれだけで身体が爆発していくようになった。熱い息を吐き、自ら棒と化したものをしずの指の上から握り、擦り上げ、どくどくと音を立てているかのように吐き出していく。   
 恍惚とした顔でぐったりとしているとしずが優しく微笑む。
「気持ちよかったぞ。お前の中にいるようだった」
「私も……感じていたよ」
 もう触ることもできない場所だったが、それでも確かに宗一を感じていたのだった。
「……本当か?」
「うん。本当よ」
「それは良かった。これはこれで立派な夫婦の営みじゃ」 
 しずが涙を零す。
「うん」

 *********
 
 茫然とした自分を尻目に、母のゆきが次々と葬儀の手配をしていった。
「ああ。ほら。できたよ。宗一。あとは紅だけだ」
 死化粧をされたしずは美しかった。
「紅?」
「そうだよ。お前が塗ってやりなさい。これはね、夫としての最後の仕事だ」
「……夫として……」
「この筆で。いいかい、ここから丁寧にね」
 握らせられた筆で、唇に紅を落としていく。
 するとしずの顔全体が赤みを差したように鮮やかなものとなった。
「上手だ。こっちもね」
 筆先に神経を集中させて紅を塗っていく。
「ああ、綺麗だ。いいね、宗一。綺麗な嫁さんだ」
 涙がぼたぼたと落ちていく。
 ――ありがとう、宗ちゃん。
 そう聴こえた。
「しず…」
 聴こえたのだった。
「しず……。綺麗だぞ」
 ――ありがとう、宗ちゃん。

 ――――ありがとう。宗ちゃん――――

 しず。
 しず…………!

 
 
 *********



 宗一が病室で目を覚ましたのは二日経った後のことだった。
 病室にはたくさんの見舞いの花が飾ってある。
 ……死んだと思ったが、死にそびれたか……。
 贅沢を規制しているところに生花など贅沢の最たるものではないのかと苦笑しながらそのひとつひとつを見ていくと、大臣やら議員、財界の者たちやらの名前の札が挿してあった。それで皆は無事だったのだとわかった。今回は下町だったから大丈夫だっただろうと思うが、次は山の手を狙ってくるかもしれず、そうすれば大臣も官僚も皆犠牲になるだろう。その前に降伏した方が身の為だぞ……と心の中で呟いてみる。
「ああ、目覚められましたか、先生。主治医の先生を呼んで来ますね」
 龍平がそう言うのを聞いて、また生きていかねばならんのだな……と思った。
 右足の火傷がひどいらしく暫くは不自由になるということと、肺の状態が良くないので、しばらく安静と告げると医師は部屋を出て行く。
「……り…龍平……」
 嗄れた声は出せたが、多くは喋れない。
「はい。先生」
「し……し……ん……ぶ」
 安静になどしていられなかった。
「新聞ですか? お読みになりたいのですか?」
 さすが長年書生をしていただけあって、言いたいことをわかってくれる。
 身体を起こしてもらい、空襲翌日の新聞を見たが、予想に反せず、いつもの通り、読めばがっかりするようなものだった。
 昭和二十年三月十一日、日曜日。
『B29約百三十機、昨曉 帝都市街を盲爆 約五十機に損害 十五機を追撃す』
『憤怒・滅敵へ起て 首相 放送 罹災者を激励』
 ……たったこれだけか……。
 次の日の新聞をめくる。
『汚れた顔に輝く闘魂 厳粛・一致敢闘の罹災地』
『戦いはこれから 家は焼くとも・挫けぬ罹災者』
『気力が武器』
 相変わらず呆れてくる報道内容である。
 ただ、次の記事だけは面白いと思った。
『不屈の意気、讃へて響く軍楽』
 あれほどの襲撃を受けながら、陸軍記念日の式典が行われたことに呆れるのを通り越して笑いが込み上がってくる。
 陸軍軍楽隊が演奏しながら行進をしている写真がついている。
『四十年の昔われらの父祖の碧血一滴だに傅へるならば断乎として勝て、断乎として戦へ、断じて空襲に屈するな! どこかで呼ぶやうな力強い軍楽の調べ、逞しい調子に励まされて後片付けに働く罹災者達も闘志をふるひおこす、どこか縁故者のもとに行くのであらうリヤカーに布団と一緒に乗った子供、ゆうべの火傷を捲いた繃帯の手を高くあげて万歳を叫ぶ……』
 その行進をする兵隊たち、大太鼓を抱えて行進していく兵士、トロンボーンを吹く兵士、その後ろはトランペットを吹く兵士と整然と並んで行進していく手前に、マスクを被って行進など見ずにリヤカーを押して歩いていく罹災者、この構図は必死に国民を鼓舞しようとする軍部の報道操作を逆手にとったもので、この写真を載せた新聞社の無言の抗議を感じることができた。
 住むところを奪われた人々が闘志など奮い起こすはずがない。
 そこに写っている冷めた目つきで歩いている人々の気持ちは怒りさえ感じぬ無力感であるとわかる。
 下町は震災以上の被害だったとわかる。
 それの何一つも伝えていない新聞記事であったが、この写真は何かを訴えてくるものがあった。
 ふっと力を抜く。
 報道人であったならば、何があったのか知らせたいのであろう。
 焼夷弾がどのように降ってきたか、起きた火災がどんなものであったか、それによる犠牲者がどれほどいるのか、それを皆に知らせたい……! そんな悔しさが字間から伝わってくるような記事だと思った。
 新聞を折りたたみ、窓に目を向ける。カーテンがかかっているため、外は見ることができないが、怪我人には見せたくない光景が広がっているはずである。
 この病院にも多くの怪我人が収容されたのだろうと察するが、その被害がいかほどのものだったのか、おそらく皆は目を背けたいものに違いないと思った。
 龍平の顔を見れば、複数の小さな切り傷があり、それが怪我のうちに入らないとされているのだと思うと、その記事に載っている人々も歩いてはいるが、やけどを負った身体を引き摺っているのではないかと思うと、心が痛んだ。
 あの炎の中での生き残りをかけた熾烈な戦いは悲惨なものだった。
 生き残った者たちは心に大きな傷を抱えているはずである。
 それから立ち直るには何が必要なのだろう。
 自分は何ができるのだろう。
 自分は何をすべきなのだろう。
「先生。無理はなさらずに。横になりますか」
「……ああ……」
 敗戦が近い。
 アメリカはどうしようとするだろう。賠償金で日本を借金地獄に落とすつもりか。
 いや、そんな生温いものではないはずだ。
 大勢のアメリカ人を移住させ、アメリカの領土として地図を塗り替えるか。
 日本人は皆、迫害を受け、奴隷になるか。それがそれまでのアメリカ人のやり方だ。
 そして……満州を取るか…。
 中国大陸に領土を持てば、ソ連を牽制することができ、散々中国を支援してきたアメリカとしても大手を振ってその権利を主張し、大きな顔ができるだろう。
 いや、それならばその前におそらくソ連が満州を狙っているはずである。むざむざとアメリカのものになるのを黙って見ているはずがない。日露戦争からの怨念があるのだ。
 和平の一縷の望みとして進んでいる対ソ連交渉が難航しているのはわかっていて、まもなく日ソ中立条約の期限がやってくる。
 ソ連も同じく満州と日本占領を狙っているとしたらどうだ。
 ――――ソ連とアメリカで争う――――
「くくくくく………」
 笑いが込みあがってくる。
「先生?」
「ははははは……」
 なるほど。この道があったのか。
「便せん」
 嗄れた声で言うと、龍平が慌てて便せんと万年筆を用意した。


 *********


 空襲は東京のみではなく、名古屋、大阪、神戸と行っていった。
 一日置きというハードスケジュールで進めていったのである。
「このマリアナで私の指揮下にある将兵の使命は、戦争を一日でも早く終結することである。そのために我々は持てる知力体力すべてを投入して、勝利の日まで戦い続ける」
 そうルメイ司令官は将兵を鼓舞した。
 その爆弾の下でどのような地獄が繰り広げられているかなど意識させないが為に。
 一方では、硫黄島での戦いで日本軍を全滅させ、日本本土攻略のための航空及び補給基地として、沖縄占領に駒を進めていた。
 つまり四方八方から攻撃を受けることとなり、日本としてはもはや背水の陣、逃げ場もなく抵抗する力もない、降伏しかないというところまで追い詰められていた。
 宗一が足を引きずりながらも議会に行くと、皆は殺気立っていた。
 最近まで、農林金融公庫の審議をしており、今はもうどんな審議も意味がないように思え、各地の空襲、沖縄への侵攻、硫黄島の敗戦、ソ連が中立条約を延長しないという結論が知らされ、今後どうするのか、それらの責任は誰が取るのか、喧々諤々として何も話し合いにならなかった。
 結局、総理は辞職することになり、新しい総理がすぐ選ばれることとなった。
 宗一は、はあ……と溜息をついた。
 ………今更首を挿げ替えたところで何になる……。
 結局はまともに進まぬ議会で、時間の浪費ばかりだった。
 そして、まだ戦える。
 そんな結論が飛び出してくるのだった。
 しかし、それは悪い話でもなかった。
 確かに負けたと言わない限り、喧嘩は続く。
 参った、降参、と言わない限り、弱い方は叩かれ続けるのだ。
 強い方は勝っているだけに、後にはひけず、負けましたと言わせるまでやり続ける。
 しかし、勝っている方も焦ってくる。どんなに打ち負かしたと思っても降参しない相手に業を煮やす。すると、徹底的にぐうの音も出ないほど叩きのめす必要があると焦る。
 焦りというのは隙ができる。
 我が国が生き残れるとしたら、その隙をつくことだ。
 アメリカの焦りを逆手に取れば、連合国の中に不協和音が生じる。
 そこをつつけばいい。
 ただ、犠牲者は増え続ける。
 だから、早くその機を見極めなければならない。
 そこで自分ができること、それをきっちりやるしかないと拳を握った。
 
 長い議会を終え、議事堂を出る頃にはすっかり日が暮れていた。
 重い足を引き摺りながら、その夕焼けの空を見る。
「……豊旗雲か」
 目を細めながらその日没の景色に見入っていると、和歌が出てきた。
「海神(わたつみの)の 豊旗雲に入日さし 今夜の月夜(つくよ)さやけくありこそ」
(海上をたなびく雲に夕陽が差して輝いている 今宵の月は清らかであろう)
 中大兄皇子が新羅遠征の際に詠んだ歌として有名である。
 月は清らかでも、国の行く末はさやけくありというわけにはいかないと思った。
 龍平が待っているところまで行くと、後ろから声をかけられる。
「木内先生」
 真野秀一、善三の長兄である。
 以前は外務省の役人だったが、真野昌和公爵が隠居したため真野家当主になり、外務省は退職し、貴族院議員となった。
 いつ見ても気品溢れる容姿で、こちらの素性に劣等感を感じさせられてしまうほどの育ちの良さを醸し出していて、以前はそれに度々卑屈になったものだった。
「真野先生。そちら(貴族院議会)も終了ですか」
「ええ。随分前に終わっていたのですが、雑談に時間を取られました」
 宗一がふっと笑う。
「雑談して戦争が終わればこんなにいいことはありませんがね」
 自分を含め、無能な政治家ばかりである。
「確かに、我々は何もできませんね」
 国の為に、国民の為に、いったい自分たちが何をしているというのか。
「先生。お身体大丈夫ですか。ご無理をなさっているのでは?」
 秀一のその言葉につい虚勢を張ってしまう。
「いや。心配には及びません」
「木内先生」
 早く帰りたいのになんだ……と言いたくなる。
「あの……もしお身体に障りがなければ拙宅に寄っていただけないかと」
「え?」
「……母に会ってやっていただけませんでしょうか」
「お母上に?」
「………はい。あの……善三の話などをしていただけますと助かります」
「左様ですか……」
 龍平に予定を尋ねる。
「今晩でしたら大丈夫です。明日からは議会終了後に講演会が入っています」
「ならば、早速今晩でも」
「ありがとうございます!」

 秀一が人働車を手配し、赤坂の邸まで行く。
 元は真野家上屋敷だったところに明治になってから建てた瀟洒な洋館があり、良く手入れされた広大な日本庭園の景色の穏やかさには、まるで戦争が起きていることなど忘れてしまうほどである。
「いらっしゃいまし!」
 もんぺを履かぬ着物姿の絹代が玄関に駆け寄ってきた。
 宗一はつい微笑んでしまう。可愛らしい人なのである。善三を女性にしてそのまま年を取らせたようなほど似ており、特に笑顔がよく似ている。
「ご無沙汰しております」
「木内さん、この間の空襲でお怪我をなさったのですって?」
「はい……日本橋にいたもので」
「……それは大変でしたわね……」
「九死に一生を得たようなものです」
 あれは言葉で説明できるようなものではなかった。
「とにかくこちらにどうぞ」
 応接間ではなく家族用の居間に通されて、茶菓子を出される。
「今日は来てくださってありがとうございます」
 絹代が丁寧に頭を下げる。
「いえ、お招きいただきこちらこそありがとうございます」
「木内さんにだけはお報せしておきたいと思ったのです」
「はい」
「わたくし、前田家の奥様と親しくしておりまして」
 前田侯爵家のことである。その家の長男が善三の学友である。
「……こっそり聞いてしまいましたの。前田様のご子息は戦地からお戻りになっていることを」
「え?」
「そして、善三と同じ隊にいたそうなのです」
「それはどこなのか教えてくださったのですか?」
「ええ。ラボールですって」
「ラボール? 南方に行っていたのですか?」
「わたくし、驚いてしまってしばらく動けませんでしたわ」
「……左様でしたか……」
 南方戦線はどこも玉砕玉砕という報告ばかりである。
 秀一が絹代の肩に手を置く。
「立派に戦っていますよ」
「前田様のご子息は陸軍大学にお入りになったのですって」 
「ええ? 南方から帰ってきていたのですか?」
「前田様のお殿様は陸軍のお偉いお方なんですって」
「……そうですか……」
 それくらいの強力な後ろ盾がないかぎり特別扱いは難しいのだろうと察した。
 国会議員くらいではだめなのだと。
「善ちゃんは……帰してもらえないのに……」
 絹代が涙ぐむ。
「母上」
 今、南方の戦地にいたとしても、本土に近づくことなどできないだろうと思った。
「帰りたくとも帰れない状況でしょう」
 絹代が沈んだ顔をする。
 しばらく窓の外を見た後、宗一の顔を見てにっこりと微笑む。
「ねえ、木内さん」
「は…はい……」
「木内さんは善三のどういうところがお好き?」
 不意をつく質問に言葉を失う。
「殿……真野がね。善三は木内さんのところに養子に出したと思いなさいと申しておりましたの」
「……そんな。善三くんを養子にもらうなど、身分違いで……」
 それほど受け入れてもらっていいものなのか逆に不安になる。
「木内さんならば善三を守ってくださるって。だからお任せしようって」
「……………」
 しばし茫然とする。
 絹代が秀一の腕に手を伸ばす。
「この人は、この家を守らなければならないし、真野は隠居してしまいましたし。だから善ちゃんを守ってくださるのは木内さんしかいないのです。善三、お嫌いではありませんでしょう?」
 そんな風に言われて赤面してくる。
「嫌いだなんて……そんなことは」
「ね。だからお好きでしょう?」 
 根っからのお姫様である。    
「はい。もちろん」
 ついそう言ってしまった。すると絹代は嬉しそうな顔をする。
「ですからね、どういうところがお好き?」
 わくわくと期待している表情をする。
「母上。少々ご迷惑なのでは?」
「秀一さんはお黙りになって」
 宗一は、真剣な様子に、ああ……、と納得した。
 絹代は善三の話がしたくて堪らなかったのだった。
 ふっと笑う。
「そうですな……。善三くんは……」
 この家に訪問して会った時のことが鮮明に浮かんでくる。
「瞳が綺麗で……」
 その瞳に一目惚れしたのだった。
 きらきらと輝く大きな瞳、その瞳の中に宿る魂に魅せられたと言っても過言ではない。
 一瞬で虜になったのだった。
 そして、その理由がわかった。
 やっと会えた。
 ずっと待っていた。
 ようやく巡り会えた。
 出会うべくして出会った。
 わしの……。
「とにかく可愛らしい」
 わしはお前に何度でも恋をする。
 幸福そうな表情で宗一が言うと絹代が涙を浮かべる。
「……そう……そうなの。善ちゃんはとても可愛いの」
「木内先生、すみません。南方にいると知ってからもう生きて帰れないと悲観してしまって」
 それはそうであろうと思った。孤立無援で取り残されているラボールがどんな状態なのか、想像がつかない。
「……確かにどこも戦況厳しく……」
「善ちゃんに会いたいの」
 絹代が泣き始める。
「善ちゃんに会いたいのよ」
「戻ってきますよ。もう戦争は終わりますから」
 すると絹代が晴れやかな顔をする。
「木内先生…!」
「いいでしょう、真野先生。おそらくそうなるでしょうから」
 そうなってもらわなければ困るのだった。
「ならばもうすぐのそれまでの我慢ですわね」
「ええ。もうじきです」
「ああ。それなら安心ですわ。では、わたくしはそれまで広島に参ります」
「ご隠居様のところに?」
 江戸時代まで代々そこの藩主で、今でもいけば殿様である。家臣の子孫が大勢住んでいる。
「ええ。広島で戦地にいる息子二人を待とうと思っています」
「左様ですか。一家揃って団欒を迎えられる日をお祈りしております」
「その時は是非木内さんも」
 そう言われて顔が真っ赤になっているのがわかった。
「恐れ入ります」
 善三を嫁にもらったような気がしてきた。
 あとは善三がいれば、完璧だった。
 しかし、随分と遠い。
 遠いのだった。

第三話 明治

「おお。しず。迎えに来てくれたのか?」
 宗一にそう言われて善三は答えに窮する。

 しず?

「わしはな、なんもできなかった。まったく情けない限りだ」
 苦渋の表情だった。
「しず。だがな、わしはこれでもな、相当頑張ったぞ。だから、これからはもう頑張らなくてもいいか?」
 しずというのは……。
「………………」
「頼む。もう疲れてしまったんだ。もういいだろ」
 嗄れた声を出した。
「なんとか言ってくれ」
 話の内容がつかめないながらも話を合わせなければと思った。
「なあ。しず。もういいだろう。もうわしはいいだろう?」
 いい……、とは言ってはいけない気がした。
「頼む。もう休ませてくれ」
 しばらく考える。
 休みたいと懇願されればどうぞお休みくださいと言いたくなる。
 しかし、今はそれを言ってはだめだと思った。
 何か力を与える方法はないのか。
 疲れ果てたその心に。
 何か。
「だめです」
「なぜだ! もうこれ以上は無理というものだ! なぜ楽にしてくれない!」
「私が……私、善三が待っているからです」
 しずという人は彼岸のお方なのだろうと察した。今まで一度もその名を聞いたことがなく、根っからの男色であると思っていただけに女の名前であることに違和感を覚えた。
 そして、わざと自分の名前を言った。
 引き戻せることを祈りながら。
「善三?」
 今度は宗一がしばらく考える。
「善三……」
「はい。私、善三でございます」
 すると宗一が高笑いする。
「はははは。ああ、そうだ、そうだ、今のお前の名前は善三だった」
「え?」
「すまんな。あまりに昔のことに入り込んでしまって、しずだった頃のお前と混同してしまった」
 ―――しずだった頃……。
「それは私の前世のお人ということですか?」
「ああ。そうだ。お前は生まれ変わってきたんだ」
「そ……」
 何を根拠に。
「しかしなあ。今度は華族のお坊ちゃまときた」
 そう言いながらぽりぽりと頭をかく。
「お前がな、家庭教師に来てくれた時、それがわかったんだ。それからというもの、わしはお前と会う為にいろいろ策を練ったぞ」
 顔を真っ赤にする。
「お前が秘書で来てくれると聞かされた時は嬉しさのあまり踊り出したんだ!」
 そう言う表情は子供のようである。
「先生」
「お前がそばにいてくれる。こんな幸せがあっていいものかともう神仏、天でも、とにかく何にでも感謝したいと思った」
 宗一の瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「どれほど会いたかったか」
 そう言いながら善三の頬に手を伸ばす。
「どれほど待っていたか」

 ―――これが愛される理由だった。

「名前姿などどうでもいい。お前が男であろうが女であろうが関係ない」
 善三の瞳からも涙が流れる。
「お前の魂に惚れているのだから」
 涙を拭う。
「わしはお前を見つける。何度生まれ変わってもお前を見つける」
 宗一が瞳に強い光を宿す。
「そして、わしは何度でもお前に惚れるんだ」
 善三は感動のあまり言葉が出なかった。
「ふ。そうだな。お前に会う為に生きねばな」
「ええ。先生。私は待っています」

「ああ。待っていろ」

「はい」

「かならず待っていろ。約束だ」



 **********
   

 ――国体護持――

 それはすなわち天皇制を守ることである。 

『敗戦は遺憾ながらももはや必至なりと存候。国体護持の立場より最も憂うべきは、敗戦よりも敗戦に伴うておこることのあるべき共産革命に候』
 元首相はそう帝に奏上した。
 だが、今上帝はそれを一蹴してしまった。
 共産革命の文言に現実味を感じなかったことと、国体護持を訴えるにはアメリカに今一度の打撃を与えないと突破口を開けないということであるが、それは軍幹部からそう口添えがあったからのお言葉ということであった。
 東京空襲での視察で、これでいよいよ焦土となった……と帝が口にしていたことからすると、あくまでも抗戦あるのみという意思があるとは考えにくいのだった。
 宗一は、陛下がその奏上文を一蹴したと皆は項垂れていたが、やはり日本が取るべき道は、国体護持以外にはないと思っていた。それさえあれば敗戦を乗り越えられるはずで、それを空襲から生還したところ議長に手紙を送って訴えていた。
 そしてそれを押し進める為のアメリカへの裏工作の提案をしたのだった。
 敗戦後に共産主義支配が広がるという元首相の意見には自分も正直同意しかねたが、アメリカ側に恐怖を抱かせ、国体護持を受け入れるよう、それに向かって進むべきだと強く訴えていた。
 すると、それに向かって議会は団結していき、大本営は国体護持の為には本土決戦も已む無しと更に無理を強いていくとなった。
 戦艦大和を単体で敵陣に向かわせるなどの無謀なこととなったのもその為である。
 各戦地ではこの戦争がどこに向かっているのかまったく読めず、劣勢の中でひたすら命を燃やしていくのみであった。 
 そんな中、ニューブリテン島、ラボール基地では、その無線をひたすら固唾を呑んで聞いており、アメリカ軍の生無線の情報をひとつも聞き漏らすまいとしていた。
 ――空爆大成功、焼失範囲、さらに十五・八平方マイル(二十五平方キロメートル)を加えた。浅草、本所、日本橋……。
 帝都への直接攻撃の具体的な地名が伝わってきて、誰でもがその衝撃に言葉など出せなかったのだ。
 その大成功ということは、その地域を全部焼き払ったということであり、隅田川から荒川までの地域全域を焼いたということに他ならない。
 皆は思わず帝都の地図を見る。
 下町のほとんどを焼いてしまったことにその火事に巻き込まれた人たちがどうなったのか、想像に難くなかった。
 その地域に自宅や親類縁者がある者は手で顔を覆う。
「……もはやこれまでか……?」
 第八方面軍司令官武井中将は天井を向いた。
 一方的な空爆が行われ、それを迎撃する戦力が本土には残っていないのだということを確認するようなものだった。
 そして、日本橋という地名が怖かった。宮城がすぐ近くである。まさか陛下に直接危害を加えるはずがないとは思うが、緊張を強いられるのだった。
 その脅しの効果もある場所を狙ったということであり、確かに皆は震え上がった。
「真野大尉。引き続き無線傍受を任せる」
 善三は、その武井の言葉に敬礼をする。
 アメリカ軍はもはや暗号を使わず、堂々と英語で無線連絡するようになった。
 南方にある基地は全て連合国側に落ちたとして、平然と自分たちの陣地のようなつもりでいたのだ。
 だが、ラボールだけはしっかり基地として残っており、しかしながら、制海権も制空権もなく、ただ取り残され、偵察機を出すくらいのことしかできなかった。
 こうして無線傍受をして、大本営にその情報を送るが、それが何かの役に立っているのかまったく手応えを感じることはできなかった。
 グアムからB29の大軍が発進したことも報告したが、有効な情報になったのかと心配していたところ、最悪の情報となって返ってきたということであった。
 善三は身体の震えが止まらなかった。
 日本橋が襲撃されたのならば新橋も被害を受けたと考えずにはいられないのだ。
「真野君」
 武井に声をかけられるが、ぼんやりをしてしまっていた。
「真野君、大丈夫か」
「あ……はい。申し訳ございません。まさかそれほどの空襲だとは思わなかったので」
「君の家族は皆帝都に住んでいるのか」
「いえ……父は広島なので母もそこにいるかもしれません。兄は東京です」
「広島も大きな町だ。狙われるかもしれんな」
「ええ……」
「どうにか本土の詳細を知りたいところだが、それは難しいか」
「何とか大本営から返事をいただけるように打ち続けます」
 無線機からは名古屋などの地名が聴こえてくる。
 次の襲撃場所ということだろうと察した。
 善三は目の前が真っ暗になった。
 軍人である自分は戦地にいるのに安全な基地におり、非戦闘員である大事な人たちが襲撃されている。そして守ることができない。何もできない。
 大事な人たちが危険に晒されているのに、守ることができないのだ。
 帝国戦士であるはずの自分たちが本土を守ることができない。
 この状況をどう受け止めれば良いのか。
 拳を握る。
「……悔しいです」
 武井はふうと息を吐く。
「ああ。実に悔しい。ここにはこれほどの将兵が温存されている。武器も弾薬も豊富にある。そしてよく訓練された屈強な兵たちだ。それが何もできんとは何の為の訓練か」
 
 ―――今すぐ本土に戻りたい! 
 
 善三が唇を噛み締める。
 危機に瀕している。守るべき国が、守るべき国民が、守るべき家族が、守るべき愛する人が……。
 あの夢はこのことだったか。
 先生は死の淵にいたのか。
 ならば、きっと先生は生きている。
 そして、自分の帰りを待ってくれている。
 強く確信するのだった。



 **********


 善三の母、絹代もまた自分を待つ人のところに向かっていた。
 殿のおそばにいたいという思いとともに、広島への旅路を進んでいたのだった。
 関西地域でも空襲があり、道中の危険を心配する長男秀一の反対を押し切って汽車に飛び乗った。
 そして行く先の広島は、呉、宇品の基地があり、常に標的としてあげられていて、そんな場所に行くなどと皆は涙を流して止めた。
 だからこそ――。
 わたくしはだからこそ行きたいのです、殿が広島で命を落とすようなことになったら、わたくしは生きていけないのです、そう訴えると誰も言葉を出せなかった。
 そして、万が一の時、殿のそばにいるのは自分でありたい、そう思ったのだった。
 広島には次男誠二の生母がいる。
 負けたくない……という思いに駆られていた。
 わたくしこそが殿の妻なのです。
 殿はわたくしのものなのです。

 車窓に富士の壮大な景色が飛び込んでくると、長い戦争の中で疲れ切っている国を癒してくれているように感じ、絹代は思わず合掌してしまう。
 徳川の家の者として……、物心ついた時から叩き込まれてきたことは、誰よりも国の安寧を願うことで、天子様を敬い、人と争わず、先祖に誇れる自分であること、それは繰り返し言われてきたことだった。
 徳川の家の者……。
 自分ではそれがどれほどのことなのかわからなかったが、嫁いでからその重みを実感した。
 徳川宗家の五の姫として生まれ、大家族の中、何不自由なく暮らしていたが、母とは血がつながっておらず、甘えるということができず、つまり妾腹の姫ということだった。
 生母はその昔の大奥と同様、徳川家の血を引く者を世に送り出す役目を果たすのみで、日の目を見ない侘しい生活を送らされていた。
「姫様はどうぞ殿様とお幸せにお暮らし下さいませ」
 それが嫁ぐ前の日に言われた言葉だった。
「お千代さまもどうぞご息災にお過ごし下さいませ」
 とても生母に対するものとは思えぬ言葉を言いつつ、あまり交流を持たせてもらえなかった薄幸の母を思いやった。
 そうして真野家に嫁いだのだった。


 ***********


 絹糸の複雑な刺繍が全体的に豪奢な柄となっている白無垢に袖を通した時、それだけで幸福な気分になり、髪を島田に結ってもらった時はいよいよ人妻になるのだと胸が高鳴った。
 高砂に導かれ、すでに座っていた紋付袴姿の新郎昌和をちらりと見る。
 今まで殿方といえば父を始め、年長の者ばかりで若い男性を見たことがなく、写真もろくに見せてもらえなかっただけに、想像を遥かに超えた容姿端麗さに驚いた。
 更に声が魅力的で、挨拶をする低く響くいい声が耳に入ってくる。
 そして、その声で呼ばれた。
「姫」
 その瞬間に恋に落ちた。
 
 三三九度が終わり、宴が始まると、高砂の歌の次に華やかな舞が披露され、和太鼓が調子を盛り上げ、客人が歓声をあげる。
「姫」
 見事な舞に目を奪われているとそう呼ばれて昌和を見る。
「はい」
「お美しいですね」
「ええ。とても。衣装が何ともよろしいですね。天女のようです」
「違いますよ」
「え?」
「姫が美しいと申したのです」
「え……」
 涼やかな瞳にじっと見られ、胸が破裂してしまうのではないかと思うほどにドクンと鼓動が大きくなる。
 息が苦しくなり、胸を押さえる。顔が熱くてどうにもならない。
 三人の舞い手の婚礼の席に相応しい舞が終わり、皆が拍手する音にはっとして、自分も前を向いて拍手をする。三人は嬉しそうにお辞儀をして下がっていった。
 すぐ次の余興が始まり、拍手が沸き起こる。
「……殿こそ…」
 宮城道雄が頭を下げていた。
「まあ……宮城先生……」
 箏と尺八による曲が演奏されていく。
 宮城自身が有名な弾き手であり、作曲家でもあった。
「何とおっしゃいました?」
「あの、私の箏の師匠でございますの。ご披露いただけるとは…」
 曲が始まっており、その曲に聴き入りたく昌和の方を見ずに答えた。
 春の海を連想させるような美しい調べに皆がうっとりと聴き入っている。
「違います。その前ですよ」
 聴こえなかったように耳に手を当てる。その表情を見る限り聞こえていて聞こえないふりをしているようだった。絹代は意地悪をされているようで腹立たしくなる。
 そして今はせっかくの師匠の演奏を邪魔されたくなかった。
「いいえ。何も申しておりませんわ」
 つんとして正面を向く。
 箏が曲を盛り上げていくように音量をあげる。
 絹代はそのまま昌和の方を向かずに少々背を向けるようにした。
「こちらを向いていただけませんか」
「なぜですか」
 演奏に集中できなくなっていく。
「もちろん、綺麗な我が妻の顔を見たいからです」
「………………………」
 その凛々しい顔に引き寄せられるように昌和を見る。
「本当にお美しい。ああ、早く二人きりになりたいですよ」
「え…」
「姫。早くあなたをこの手で抱きたいと思っているのです」 
 尺八が調べを紡いでいく。
 それは芽生えた恋心を音にしていくようだった。
  

 **********


 真野家は位をあげ、舅も姑もそのまま姫君として絹代を大事にし、実家以上の待遇を受けることとなった。
 同じ武家の気安さの上、目白の実家ほどの広さはなかったが赤坂の真野の屋敷も広く、多くの者にかしずかれてゆとりのある生活を送ることができ、結婚生活は順調に始まった。
 しかし、世情は順風満帆というわけにはいかず、強国ロシアが南下政策を始め、日清戦争での戦利品であった遼東半島を三国干渉により日本が清国に返すと、ロシアは遼東半島に要塞と軍港を築き、朝鮮と日本に軍事的圧力をかけたのだった。
 それに対して、国会は、ロシアと協定を結ぶべきか、イギリスと同盟を組むかということで連日論争を繰り広げていた。
 そして、大蔵省に勤務していた昌和は、いざロシアと戦争をすることになった時の為の、その戦費の調達の下準備に多忙を極めていたのだった。

 昌和が疲れた顔をして帰宅すると、玄関で絹代が三つ指をついて出迎える。
「おかえりなさいませ。お勤めお疲れさまでございました」
 すると険しい表情をしていた昌和が相好を崩す。
「ただいま、私の可愛い姫。元気に過ごしていましたか」
 帽子を外し、外套を脱ぎ、下男に渡す。そして右手を絹代に差し出す。
 その行為を毎日のようにされるが、すでに一ヶ月経っても慣れないのだった。
 顔を真っ赤にしながら右手を差し出していく。
 すると昌和は膝をついて、手の甲に唇を寄せた。
 留学中に学んだ西洋式の挨拶と言われても、大勢の家人がいる中、恥ずかしくてたまらないと絹代は何度か断わっていた。しかし、
「ならば、唇に接吻しますよ。夫婦の挨拶は本来そうなのです」
 そう言われて、それだけは勘弁してくれと手にしてもらっていた。
 とにかくなんでも西洋式にすることが大好きで、食事も西洋の献立を用意させていた。
「姫。ドレスを着てください。とてもお似合いだったでしょう」
「まあ、あれは次の晩餐会用につくらせたものですのよ。普段家で着るものではありませんわ」
「ならば、その着物を脱がせましょう。そうしたら着てくれますね」
 家人たちは聞こえなかったふりをする。
「殿!」
 絹代は耳朶がこれ以上赤くならないというほど赤くして顔からまさに火が吹き出んばかりである。
「姫は本当に可愛い。ああ、そして美味しそうだ……。ふふふ。だから食べてしまおう」
 勘弁してください……絹代はそう叫びたかった。
 早く寝室に閉じ込めてしまわないと……、と焦りながら自室に向かう。
「どうしてそんなに不機嫌な顔をしているのですか」
「……別に不機嫌ではありませんわ」
「目を吊り上げて、怖い顔をしていますよ」
 若夫婦用に新築された洋館の中の寝室に向かい、昌和が扉を開けて入り、続いて絹代が入ろうとしたところ、パタリと扉を閉められてしまう。
「え……?」
 扉を叩き、殿、どうなさったのですかと訊くと、何も答えない。
「殿?」
 不安になり、扉を拳で叩く。
 しんとしていて、扉は施錠されてしまっていた。
「殿? どうして入れてくださらないのですか?」
 さきほど指摘されたことだろうかと悲しくなってくる。
「怖い顔などしていませんでしたわ。わたくし、少々恥ずかしかっただけです。殿。開けてくださいまし」
 ドンドンと扉を叩く。
 女中頭に顔を向けるが、女中頭は自分たちが関与すべきことでないと首を左右に振る。
「殿。意地悪ならさないでくださいまし。開けてください、お願いです」
 半分泣き声になる。
 するとカチャリと鍵を外す音がして、少しだけ扉を開き、手が伸びてきて絹代の手首を掴み、パタリと扉が閉まった。

 絹代は扉に身体を押し付けられ、手は上にあげさせられ唇を唇で塞がれ、いったい何が起きたのかと顔を横に振る。
 すると顎を押さえられ、蠢く舌に集中させられていく。昌和の獰猛な息遣いが空気を熱くしていった。
 昌和の舌が絹代の舌を捉えて離さない。 
 その淫らな動きに絹代は何かが身体の中から覚醒していくのを感じた。
 初夜から一ヶ月経っていたが、絹代の身体はなかなか柔らかくならず、苦痛に耐えながら昌和を受け入れていた。それを気の毒に思ってか昌和もなるべく早く終わらそうと焦る。
 しかし、そろそろ快楽を分かち合いたいと思っていたのだった。
 少々意地悪をするだけのつもりが、あまりの可愛らしさにもっと苛めたい……という気持ちに駆られ、制御が利かなくなり、そんな自分がどんな顔をしているのか見られたくなかった。
 絹代も自ら舌を絡ませてくると、互いの呼吸を合わせて先端を求め合うようになり、身体がわなわなと震えてくる。
 絹代がその激しい接吻に陶酔していく。
 …………なんて………甘い……………の……。
 乳房に熱がこもってくる感覚を得る。
 ………………ここが……疼いて…………。
 ぴたりと隙間なく身体をつけていて、絹代は帯を通してでも昌和の身体がどれほど熱く滾っているのかを感じていた。
 昌和がもう耐え切れないとばかり唇を離し、肩で息をしながら、絹代の着物の中に手を入れていく。
 長襦袢ごと捲り上げ、絹代の陰部に舌を伸ばし、指を這わせると泉から溢れてくるように透明な液体が昌和の指を濡らしていった。
「………姫……」
 昌和が熱い息を吐き出しながら身体を離し、ズボンを脱ぎ、いきり立つものを絹代に握らせる。確かに絹代には大きすぎるものだった。一度放出しないかぎりそれを受け入れることは不可能で、いつか思い切り姫の身体を貫きたいと昌和は思っていた。
「ああ……ああああ」
 昌和が白濁した液体を噴出させる。
 絹代は自分の指を通して木製の床材にそれがぽたぽたと落ちるさまを見ながら、その熱きものを愛しく思っていた。
 それで済むはずのない昌和は絹代の帯締めをほどき、次々と紐を外して、帯を握る。
 その時に込み上げる征服感が堪らないと再び身体が疼きだす。
 帯を引っ張ると絹代はくるりと身体を回され、いかにも弱いもののようである。
 ―――戦争が近い。
 そのことが自分を猟奇的にしているところがあると自覚していた。
 帯が外されれば、着物は淫らにはだけて、艶かしい襦袢姿をなる。
 絹代が背を向けると、白いうなじがその艶かしさを一層増す。
「……あなたという人は。……姫……私はおかしくなりそうです」
 それにかぶりつくように唇を寄せ、乳房を揉む。
 絹代は疼いていただけに、その刺激に耐え切れず甘い声を出した。
「ああ、初めてあなたのこういう声を聴きました。もっと聴かせてください」
「……いやです……」
「どうしてですか」
 耳に唇をよせて、耳の中に舌を入れる。その感触に絹代が身悶える。
「ああ……あ……」
「いいお声ですよ。とても色っぽい」
「ばあやには……だめだと…言われて…徳川のしきたりでは……」
「そんなしきたり、私は知りませんし、不要です」
 襦袢の上から陰部に触れていく。充分潤っている。
「やめて…ください……」
 襦袢を汚したら洗濯する者にそれが知れてしまう。
「見せてあげますよ、姫がどれほど私を欲しがったか。これが証拠になります」
 絹代が涙ぐむ。
 いつにも増して意地悪なのだった。
 なのに、身体は刺激を受けたように反応していく。襦袢の布のこすれる感触が蜜を呼ぶ。
「もっと……ほら、もっとです。もっと濡らしてほしいから」
 耳元で囁く。
 耳の中で舌を動かすと、脳を溶かしていくような唾液の音を絹代は聴いていた。
 口が半開きになる。
「足を開いてごらん」
 絹代は立っていられない状態だったが、震える膝をわずかに動かす。
「いい子だね」
 耳に低い声が響き、ぶるりと身体が震えた。
 摘んだ布を巧みに使い、更に刺激を加えると、絹代は足の力をなくし、がくりと両手をつく。四つん這いになった状態になり、襦袢を捲り上げられ臀部を曝け出すようになると、昌和は我慢の限界となり、自らの熱の塊をねじ込んでいく。
 絹代は苦痛のあまり悲鳴を上げた。
 しかし昌和はやめなかった。
 絹代は痛みに涙を零し、いつもはそこで終わりにしてくれる昌和がそのまま腰を振り出して全くやめる気配がないことに動揺しながらも、痛みだけではない感覚がひろがっていくのを感じていた。
 艶かしい声を出す。
 その変化に昌和が気づく。
 官能につきあげられていく声だったからだ。
 揺り起こしていくように細かな振動を送り込む。その規則正しい律動に絹代の声が次第に大きくなる。陰核を摘むと繋がっている部分は柔らかくなり昌和を締め上げてくる。
 その感触に昌和は身体が破裂するかのような快感を得ていた。
 そして、さらにもっと奥に奥にと突き上げていくと絹代が絶叫する。
 初めての絶頂だった。
 
  
 **********


 二人の仲睦まじさは異常かと思えるほどのことで、とにかく家にいる時は二人で自室にこもりっきりで昌和の父も母もしばらく顔を見ていないという状態になった。
 そして、この様子ならばすぐ後継ぎも生まれるだろうと皆はそれが今か今かと待っていた。しかし、半年以上経っても一向に懐妊の気配がなく、月経の時まで絹代を離さない昌和に周囲は苦言を呈するようになり、あまりに度を過ぎているため、妊娠しないのではないかと心配するのだった。
 絹代は日に日に妖艶さえ身に付け美しくなっていくが、昌和の性欲を満足させるために無理を強いられており、その為、朝は起きることができなく、昼過ぎに起床し、のろのろと朝餉と昼餉を同時食べ、舅姑に挨拶をしたのち、花を生け、琴やピアノを弾き、読書をし、手芸をするという生活だった。
 つまり若奥様としての役割など何もなく、とにかく一日も早く継嗣を産むこと以外求められていなかったのである。
 会合のない日は、昌和は役所が終わったらさっさと帰宅する。  
 一緒に夕食を食べることができると喜んで帰っていったのだが、昌和は父に出迎えられることになり、怪訝な表情を隠せなかった。
「どうなさったのです。父上。こんなところにいらして」
 離れの洋館に来るなど今までなかったことだった。
 大島の紬の和服を渋く着こなす父の姿からはあまり友好的なものを感じ取れなかった。
「お前は、帰宅したらまずは当主に挨拶をするべきではないのか。確かに遠いところにあるがな」
 庭を挟んだ向こうの母屋は渡り廊下でつながっているわけではない。
「新婚当初は大目に見ておったが、あまりに我らをないがしろにする行為、苦言を呈しに来た」
 そう言いながら当主の秀善(ひでよし)は扇子を開く。
 昌和が面倒くさいことをといわんばっかりの顔をした。
「ないがしろだなど大袈裟なことを。勤めから帰るのがその日によって違いますし、深夜になることもあるので、遠慮しておりました。父上も今が大事な時であるのはよくご存知でしょう。議会でも相当揉めているようですし」
「今日は定時であがったようだが?」
「そういう日もありますが、かなり久し振りのことです」
「ならば、平素の無礼の言い訳と詫びをかねて挨拶に来るべきではないのか?」
「それは配慮が足りず、申し訳ございませんでした」
「晩餐にする。絹代さんと一緒に来なさい」
「……今日でなければなりませんか……」
 秀善は開いていた扇子を閉じて、昌和に差し出すように前に出す。
「当主命令と心得よ」
「……わかりました」
 
 昌和と絹代の二人は、支度を整えて母屋に行く。
 昌和は勤め用の背広ではなく、袴姿となり、絹代も正絹の訪問着に着替えた。
 小言を言われることはわかっていた。そしてその内容もよくわかっていた。
 二人が神妙な面持ちで、当主の部屋に行き、静かに襖が開くのを待った。
 秀善が一段高くなっているところに座り、他の者はその序列ごとに決められた席に座る。
 昌和の弟と妹合計八人も勢揃いしていた。まもなく嫁ぐ、もしくは婿入りする予定の者ばかりである。
 そして、すぐ膳が運ばれてきた。
 一の膳は、お吸い物と御口取物である。吸い物には切り身とつくしが入っており、三方に入った御口取物は、アワビのかまぼこ、金糸ゆば、玉子焼、よせとうふ、きんかんさとう漬だった。
 昌和はその前菜膳を見ただけで、あまりいい話を訊かされそうにないと思った。
 おもてなし御膳の献立なのだった。しかも使われている食器が伊万里で、どれも家宝のひとつとされているものである。
「父上」
 昌和が箸をつけずに呼びかける。
「なんだ」
「随分特別な膳かと存じます。おっしゃりたいことがあるなら先に伺います」
「晩餐だと言った。別にお前が来ようと来まいと今日の献立は決まっておった」
「見れば身内だけではございませんか!」
「お前がこれほど早く帰ってくるとは思わず、そちらの客は断わった」
 咄嗟の嘘にしか聞こえず、それをしらっと答えるあたり、昌和はそんな父の策略的なところに嫌悪感を持った。
「………左様ですか……」
 二の膳が運ばれてくる。
 御鍋焼として、雁、ぎんなん、いか、せり、生のり、よし町揚、きざみ柚が入っており、向は、いり酒、このわた、わさび、御汁として、花かつお、苔子、そして香物である。
 絹代は黙々と膳の物を口に運んでいた。
「この雁は美味である」
 酒を注いでいた家令が当主の言葉を受け取るように頭を下げる。
「料理長に伝えておきます」
 昌和が不機嫌な表情をしながら、それらの料理を口の中に放り込む。
 三の膳が運ばれてきた。
 御焼物は、甘鯛、鮎塩焼、煮山桝。椀盛は、干塩鯛薄身、塩もぎ大根、えのきたけ。御菓子としては雪餅だった。
 主菜が鯛であるあたり、昌和は嫌味に感じていた。
 一通りの料理が終わり、昌和が溜息を吐く。
「ご馳走さまでした。大変美味でございました」
 座布団から降り、絹代と共に頭を下げる。
「ああ、なかなか美味だった」
「日頃は、不規則な帰宅により父上、母上にはご挨拶ができず、大変失礼をいたしました」
 昌和はさっさと謝ってさっさと引き揚げたかった。
「大変な時勢の折、致し方ないことと思う」
「本日はこのように過分な膳を頂戴し、誠に有難く存じます」
「なかなか良い鯛だったな」
 昌和と父の間に不穏な空気が流れる。
「では……我々はそろそろ……」
 昌和が腰を浮かそうとすると、秀善にじろりと睨まれる。
「時に……」 
 昌和がどきりとした。
「そろそろ知らせがあってもいい頃だと思う」
 いつ言われるかと気構えていた絹代が項垂れる。
「………それは、子供のことですか?」
「まあ、そうだ」
「それはなるようにしかならないと思っております」
「是非とも徳川のお血筋の御子をお願いしたい」
 秀善は絹代の方を見てそう言った。
 絹代は下を向いたままで膝に置いた手に力を込める。
「………わたくしも…一日も早くそのお役目を果たしたく存じます」
「是非お願いしたい」
 重ねて言われて昌和が耐え切れず早くその場を離れようとする。
「しかし、徳川の姫様ばかりに負担をかけるのは心苦しいと思っている」
 その言葉に思わず立ち上がる。
「父上! それ以上、言葉を続ける気ならば、いますぐ失礼いたします!」
「昌和!」
「私は! 絹姫以外にその役目を与えたくない!」
 絹代が涙ぐむ。
「これは次期当主としての役割である!」
「ならば、それは弟に譲る!」
 そんなことを言う昌和に向かって、秀善は扇子を投げつける。そして背後の当主だけが手にすることができる刀を手にする。
「二度とそんなことは言わせん! 次はこれでお前を成敗する!」
「なんと時代錯誤な……。いつまで大名気分ですか! まるで活劇の役者ですね!」
「冗談で申していると思うな」
 殺気を感じるほどの睨みだと思った。
「お前もいずれこの刀がどれほど重いものか思い知るのだ」
「しかし、私は娶妾など考えたくありません」
「ならば早く子供を作れ。それ以外の命令はない」
「……ご期待に沿えるよう努力いたします…」
 昌和がそう言いながら立ち上がり、絹代に手を差し出す。
 儚く笑顔を浮かべて、絹代が優雅な所作で立ち上がる。
 そして、二人はとぼとぼと歩きながら洋館に向かっていった。


 **********


 二人が沈みながら自室に向かうのを女中たちは心配そうに見ていた。
 大殿が呼び出すということは、目的はひとつしかないと誰もがわかっていた。
 洋館に勤務する皆がそれを願っていたからだ。

 昌和がゴブラン織りの布が張ってある椅子に腰掛ける絹代の手を取る。
 やさしく唇を寄せたのち、ぽろぽろと零れる絹代の瞳の涙を掬う。    
「できないと決まったわけではない。ただ、子供も時期を選んでくるだけだ。私たちがあまりに幸せそうだから、もう少し二人のままにしてやろうと待ってくれているだけだ」
「……私は子供を授かることができないのでしょうか……」
「違う。きっと子供はできる。私たちのところに生まれてくる」
「殿……」
「姫に似て、美しい子が生まれる」
「殿に似た凛々しい男の子を生みたいです」
「私は姫に似た可愛い女の子がいいが?」
 絹代が泣き笑いをする。
「どちらも欲しいわ」
「ああ。たくさん子供が欲しいなあ。賑やかな家庭にしたい」
「最初は男の子がいいわ。とても頼りになるお兄ちゃんなの。そして妹が生まれるのよ。とても可愛がってくれるの」
「ああ。いいね」
「お兄ちゃんはね、お腹にいる時から、早く生まれてこいって楽しみにしていて」
「うん。うん」
「生まれたら、私より可愛がって面倒を見るのよ」
「ああ、それでこそ真野家の跡取り息子だ」
「……とてもいいお兄ちゃんなの」
 絹代がぽろぽろと水晶のような涙を零す。
「そういう日が来るかしら」
「ああ。来るとも」
「殿」
 絹代が昌和にしがみつく。
 昌和がぎゅっと抱き締め、絹代の心の傷が癒えることを願うように力を込めた。
 毎月祈るようにしている絹代のことを見てきた。
 そして月のものが始まった時の落胆を隠せない様子にどれほど心を痛めているかよくわかっていた。
 父の言葉は絹代を奈落の底に突き落とすようなものだとわかっていた。
 ………なぜ、私は愛する妻を守ってやれなかったのか……。
「少し、のんびりしているだけだよ。姫」
 口づけをする。
「だから、私たちは待っているよと、伝えてやればいい」
 乳房を掌で包む。
 もうそれだけで充分に反応する身体になった。
 舌を絡ませ合えば、すぐ繋がりたくなる。愛撫よりも繋がって快感を得る方に変わっていったのだ。
 しかし、それを焦らすようにゆっくりと愛撫する。
 すると絹代の身体は大輪の薔薇のように芳香を放ち、誘ってくる。
 それが堪らなく淫靡で、そして、その耽美に浸る。
 極上の時である。
 ベッドに入り、全裸になった絹代の身体を隅々まで舐める。
 絹代はもどかしくて早く欲しがるが、すぐには与えない。
 内股にゆっくりと足の付け根に向かって舌を這わせ、泉が湧き出るところ寸前で舌を止める。
 すると絹代は触れてほしいところに自分で指を持っていこうとする。
 それを禁止させると、切ない表情をする。
 泉に息を吹きかけてやる。
 絹代はその刺激だけで達してしまいそうになり、懇願するような声を出す。
 泉の周りをゆっくりと舌でなぞるようにしていくと、小さな悲鳴をあげる。
「……殿……お願いします……」
「………何を……」
 絹代が首を左右にふる。
 泉からは、ぐじゅと音を立てて、透明な液体が流れ出てくる。
 欲しくてたまらない……、卑猥な音である。
 絹代の膝の後ろ側を持ち、腰を浮かせて、泉の奥を捉えるように指を入れる。
 絹代が高い声を上げた。
「すごいね、この泉は……」
 シャッと音さえあげながら、水を飛ばしていく。
 絹代の身体が絶頂で波打つ。
「まだだよ。これからだからね」
 その絶頂で締め上げる瞬間に昌和は身体を繋げる。
 叫び声などではすまない快感が身体を叩きのめすように蹂躙していく。
 これ以上の快楽はおそらくあるまいとそう思えるほどの。
 これ以上、魂が抜かれるような悦楽はあるまいと思えるほどの。
「姫!」
 すべてが白く変わっていく、そう思える絶頂の時だった。
    

 ***********


 だが、一年経っても懐妊の兆しがないことに、秀善は待ち切れないとして強硬手段にでた。広島での用事への同行を申し付け、その広島で女性に会わせることにしたのだった。
 先祖代々の行事を終えたその晩、昌和の寝所にその女性がいた。
 昌和がまさか了解を取らずにそんなことをするとは思わず、驚きを隠せなかった。
 いきなり閨を共にしろと言われてできるはずがない。
「……あの、君は?」
「頼子(よりこ)でございます」
 白い着物姿は、いかにも城で渡りを待っている側室そのものに見えた。
 はあ……と大きく息を吐く。
「父に頼まれましたか」
「私は、家老、沖野仁左衛門の子孫です。この度はご当主様の命により……」
「それは! もう関係ないでしょう! ここは安芸藩ではない!」
「けれども、私たちは先祖を誇りにして生きております」
「今は、もうそういう時代ではないはずです。皆等しく日本の民として身分が保証されており、藩命に従うということはないのです。もう明治という時代になって何十年も経っている!」
 頼子は昌和が憤る様子を見せても動じなかった。
「そして、真野家存続は、私たちの悲願でもあります」
 その言葉が家老の子孫というだけに重く響く。
 親戚で取潰された赤穂の浪士の言葉を彷彿させた。
「ご正室に御子がなければ、側室が生むのは当然のことです。そのお役目を与えられたことを誉れと存じます」
「私は! まだ諦めていない!」
 姫を裏切りたくない。
「殿のお心次第でございます。私はここでお待ちしております」
「勝手に眠ってください。私は違う部屋で寝ます」
「ならば、私はお役に立てなかったということで自害するまでです」
「……何だと……?」
 頼子が懐剣をごとりと音を立てて、膝のすぐそばに置いた。
「もう……真野家は藩主ではない。ここは広島県で、知事も違う者がいるでしょう」
「時代が変わっても、人の心はそうは変われないものでございます。ましてや命を賭してお守りする主君への忠誠心はさほど容易く消えるものではないのでございます」
「そうであってはいけないと政府は廃藩置県をしたのだ!」
「真野家の為に生きていきたいという思いをどうか捨てよと言わないでください。普段は口にすることはないのですから」
「…………………」
「真野家ご継嗣のためにどうぞ私をお使い下さいませ」
「あなたは……普通に結婚したいと思わないのですか。どこかに嫁ぐことだってできる。それこそ、他の子孫のところに良き縁組があるでしょう」
「私は、これが良き縁組と存じ上げます。蓄妾届も出していただきますし、正式に殿の妻となります」
「私は……!」
 姫以外に妻はいらない………!
「どうか」
 頼子が額に畳にこすりつけるかのように身をかがめる。
「私にそのお役目お与え下さいませ」
 昌和は、天を仰ぐ。
 ………なにゆえ、これほど重荷を背負わせられるのか。
 役所の勤めも怠らず、武芸も勤しみ、多忙な年中行事をこなし、先祖を敬っている。
 徳川家から迎えることができた姫には魂を奪われているほどに惚れ込んでいる。
 それだけではだめなのか。
 子供を作るということがそれほど大事なことなのか。
 何のために弟が大勢いるのだ。
 皆、養子に行くことが決まっているが、戻してもいいではないか……。
 ―――お前が真野家を継ぐのだ。
 逃げられない父の言葉だった。
 正妻の子供は自分ひとりである。
 そう生まれてきた。
 そう生まれてしまった。
「……今宵だけです。明日には東京に戻りますので」
 頼子が顔を上げて嬉しそうに微笑む。可愛らしい顔立ちだと思った。
 そして、姫の嗚咽が聴こえてくるような気がした。
 よく見ればまだ若い娘だった。
「年はいくつですか」
「十七です」
 年頃だった。自分の妾になる以外に幸せな道はいくらでもあるだろうと不憫に思う。
「そうですか」
 掛け布団を剥ぎ取り、横になる。
「ここにいらっしゃい」
「はい」
 姫との初夜を思い出す。
 かたすぎる絹代の身体に悪戦苦闘した一夜だったが、この上のない幸せに包まれた、そんな夜だった。
 頼子の乳房に手を置き、ゆっくりと胸元に指を滑らしていく。
 温かな乳房に触れると、俄に興奮し始めた。
 なぜこの女を抱かなければいけないのか……そういう思いが湧いてでてくるとその興奮はすぐ冷めたものになってしまうため、頭を空っぽにする。
 …………動物になれ………。
 …………子孫を残すために雌に飛びつく雄になれ………。
 乳房に唇を這わせ、性急に事を進ませようとした。
 乳首を吸い上げ、帯を解き、裸体にし、それに興奮させようとした。
 …………立て………。
 命令する。
 ――――殿。
 絹代の声が耳に甦る。
 すると、自然と身体が熱くなる。
 その勢いを失いたくないとばかり、頼子の両足をあげる。
 そして熱くなったものを沈み込ませていった。
 頼子は処女であるにも関わらず柔らかく迎え入れており、褥修行は一通りしていたという証だった。そんなことに苦笑しながらも、一気に吐き出していった。
 心がずたずたに引き裂かれたような気がした。


 ***********


 広島から東京に向かう汽車の中で、昌和は沈み込みそうなほどに疲れた身体を窓枠に頬杖をつきながら支える。
 秀善は特別な席に座り、自分は少し離れた席についた。
 下男の嘉助は一言も口をきかずにいてくれて、それが助かった。
 何も喋りたくないのだった。
 不安が次第に大きくなっていく。
 絹代は今回のことを知っているのではないか。すでに聞かされているのではないか。
 絹代に嫌われてしまうのではないかという不安が大きく、自分を支えられそうになかった。何か言葉を発してしまうと、それを口に出してしまう気がしたのだ。

 新橋駅に着くと、迎えの車が駅舎に横付けされており、それに乗り込む。
 父が車に乗り込み、その後に続く。
 車のところに赤い布が敷かれていて、それは侯爵から公爵に位をあげたということを物語っていた。
 そして自分はその公爵家の嫡男である。そのことから逃れられず、生きたいように生きることはできないのだと。
 しかし、絹代に嫌われたら生きていく気がなくなるのではないかと思った。

 赤坂に自邸に到着すると、家人全員が門から玄関まで並び、当主を迎える。
 母屋の車寄せのところに車が止まると、家令がさっと扉を開けて、頭がドアにぶつからないように手で押さえながら降りるのを促した。
 皆が一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ!」
 皆が同じ角度の姿勢となり、見事に教育されていると昌和はふっと笑う。
 父の後に続いて母屋の玄関に入っていくと、母と絹代が三つ指をついて待っていた。
 その後ろに弟、妹たちがいる。
「お勤めお疲れさまでございました」
 絹代がその声を追うように、お疲れさまでございましたと言う。
「うむ」
 秀善は、鷹揚に家の中に入っていき、昌和は当主の部屋に行く。
 いつも通りの座席位置で並び、着替えを終えてでてくる秀善を待った。
 襖が開き、秀善が自らの場所に座ると、一同が頭を下げる。
「留守の間、何か変わったことはなかったか」
 母の波留子がにっこりと微笑む。
「特段、報告するようなことはございません」
「左様か。厳島はまだまだ改修に時間がかかる。あと十年は必要だろうということだ」
「左様にござりましたか。完成したら私も見たく存じます」
「その時は、皆、全員で行こう。さぞかし立派な管絃祭となることだろう」
「その頃にはそれぞれ養子や嫁いでいてかなりの大人数になりますなあ」  
「孫が大勢おるか」
「ほんに。さぞかし賑やかでござりましょう」
 波留子がほほほ……と笑っている中、秀善が昌和をじっと見る。
 昌和がその視線に耐えられなくなる。
「そうであってもらわねばな」
 その視線は刃だと思った。
 拳を握る。
「では、私は明日の勤めの準備がありますので、この辺で失礼いたします」
「左様か。今回はご苦労だった」
「ありがとうございます」
 では、と言い、立ち上がって絹代の手を取ろうとしたら、絹代は昌和を見ずに自ら立ち上がり、昌和の後ろに立った。
 昌和がぐさりと心臓に何かが突き刺さったように感じた。
 洋館に入ると、家人たちはいつも通りに迎え入れたが、明らかに家全体の空気が違うとわかった。広島行きで見送る時とはまるで別の家になってしまったかのようだった。
 とりあえず、寝室に行きたかった。
 絹代と二人きりになり、思い切り抱き締めたいと思った。

 部屋に入ると、絹代はにっこりと微笑んだ。
「長旅、大変お疲れさまでございました。汽車に長時間座っているのも大変でございましょう。昔の輿よりは楽でしょうが」
 参勤交代はそれほど昔話ではない。
「一刻も早く姫に会いたくて、とても長い旅でした」
「わたくしも殿のお帰りを一刻千秋の思いでお待ちしておりました」
 絹代はそう言いつつも顔が引き攣っていた。
「姫」
 見ると目の下が窪んでおり、眠っても食事もしていないのがわかった。
 手首を取ると、絹代はそれに嫌悪感を感じたかのように、パシッとそれを撥ねる。
 そして一歩後退りした。
「あの……お疲れでございましょう。わたくしは自分の部屋で休みますので。殿も…」
「どうして!」
 一歩近づくと絹代がまた一歩下がるということになり、壁に追い込んでいく。
「どうか逃げないでください」
「……わたくし、独りでゆっくり休みたいので……」
「何を聞かされたのですか」
 絹代がはっとする。
「誰に! 何を聞かされたのですか!」
「いえ。別に、何も」
「ならば、どうして私を避けるのですか!」
「避けてなどおりません」
「避けているではありませんか!」
 昌和の瞳に涙が浮かぶ。
「教えてください。何を言われたのですか」
 絹代も涙を浮かべて、俯く。
「……正妻の心得をお義母様に教えていただきました」
 ぽつっと涙が床に落ちる。
「………とてもご立派で……実家の母も同じかと………」
 ぽつぽつと涙が床に落ちていく。
「でも……わたくし……とても…耐えられそうにありませんの」
「姫!」
 ぎゅっと抱き締める。
「殿……わたくしはだめな嫁なんです」
「そんなことはない!」
 どうして、どうしてこれほど思い合っているのに……。
「姫は私には過ぎたる妻です」
 れっきとした夫婦で、二人が愛し合うことに誰の咎めも不要であるはずの自分たちが、なにゆえ二人で生きていってはいけないのだろう。
「私が至らないせいです」
 何が悪いのだろう。
 何が災いしているのだろう。
 何が……!
「姫……」
 なぜ愛する人を不幸に陥れるようなことになってしまうのだろう。
「私が心より愛しく思うのは、姫、ただひとりです。他の女など目に入らない」
 両頬を包み、顔をあげさせる。
 涙で濡れる顔を舐める。
「抱きたいと思うのは、姫ひとりだけです」
 口づけをする。
「たったひとつの私の誠をどうかわかってください!」
 どうか……この気持ちが伝わってほしい……!
 祈るような思いで抱き締める。
「どうか……」
 泣き声になる。
 すると涙があふれてきて号泣してしまう。
 自分がどれほど辛かったのか、どれほど苦しかったのか思い知るのだった。
「殿……」
 あまりの物悲しい泣き声に絹代が驚いたような顔をする。
 昌和が泣いた姿など見たことがなかっただけに動揺してしまった。
「殿。どうかお泣きにならないで」
 昌和は子供のように泣くのだった。
「殿」
 男の弱さを見せつけられ、女は、こうして夫の弱さを受け止めて、妻になっていくのだなと絹代は悟った。
「男子たる者、泣いてはなりませぬ」
 昌和の顔を覗き込む。
「……人前で泣いたのは初めてです。父に叱られてもその場で泣いたことなどなかった」
 昌和がしゃくりあげながらそう言う。
「左様でございますか。ならば、わたくしの前ならいくらでも泣いていいです」
 絹代が小さく溜息を吐く。
 こうして妻になるのだと。
「姫」
「でも、わたくしの前だけでございますよ」
 夫を支えていくのだと。
「お約束なさいますか」
「姫……!」
 それが自分の役割なのだと思った。


 **********


 夫婦にとっては厳しい、実に厳しすぎる試練だった。
 子供がすんなりできてくれれば問題なかったが、そうでないがゆえ、突きつけられる継嗣問題、先祖が当然のように幾人もの側室を持ったことをごく自然のことのように要求され、誰ひとり疑問を持たず、それをしない方がおかしいと価値観を押し付けてくる。
 昌和は、とにかく自分が種馬になるしかないのだと、頼子を東京に呼び、役所の帰りにその家に寄ってから帰宅するという日々となった。
 すると、一ヶ月経った時には、懐妊の兆しがあった。
 昌和はとにかく情を持たぬよう心がけてきただけに、これで役目から解放されるとほっとした。そして、頼子を実家に戻し、子の誕生を待つばかりということになった。

「春には生まれるそうです」
 昌和が項垂れながらそう言うと、絹代は表情を固めたまま言葉を出せなかった。
 ―――妾腹の子。
 自分もそうやって生まれてきた。
 その自分の存在意義まで問わされている憤りと、嫉妬と、羨望と、夫への愛情と、自分自身の不甲斐無さ、勝負に勝てなかった悔しさ、言いようもない敗北感に打ちのめされ、言葉など容易に出せなかったのだった。
「これで、男子が生まれれば、私は役目を果たしたことになり、もう金輪際、他の女を触らずにすむ」
「…………………」
 絹代の心の中は、その言葉を受け入れられるほどきれいなものではなかった。
「一ヶ月ほどのご寵愛で御子を授かるとは、さぞかし深い縁がおありだったということですね」
 絹代自身嫌悪したくなるような毒々しい言葉が出てきた。
 昌和がその女を抱いている姿を妄想してしまうのだった。
「姫」
 自分に触れるように。
「殿の為に生まれてきたおなごということです」
「姫!」
 甘い快楽にいざなうように。
「殿に愛される為に生まれてきたのでしょう!」
「姫、わかってください!」
 何を犠牲にしても欲しいと思えるその悦びを他の女にも与えているその姿を。
「何をわかれとおっしゃるの! わたくしは、わたくしはなんの為の殿の妻なのでしょう」
 私だけの夫であってほしかった……!
 言葉が止まらなかった。
「いっそ、離縁していただいたほうがわたくしは幸せでございます!」
 諭された正妻の心得など遥かかなたに飛んでいっていた。
 正妻として、妾の存在を認め、家の為に子供が生まれることに決して悋気を起こしていけないと言われたことなど全て吹き飛んでいたのだった。
「殿にはわたくしなどいなくてもよろしいでしょう! そのお方を後妻としてここによこせばよろしいわ! わたくしを追い出せばよろしいわ!」
 本当に悔しい時は涙の一粒もでないものだと絹代は思った。
 毒を吐く時というのは、なんと醜いものだろうと、わかっていながらも心が勝手に走り出していて、自分自分を止められなかった。
「こんな役に立たない女がこれ以上ここにいる意味なんてないのです!」
「姫。お願いです。私の話を聞いてください」
「これ以上、何のお話しがあるとおっしゃるの!!」
 テーブルの上にあった一輪挿しの硝子の花瓶を昌和に投げつける。
 それがまともに顔に当たって、頬骨で音を立てた後、下に落ちると割れて水が広がる。
 昌和は痛みなど感じなかったかのように微動だにせず立っている。
 そんな昌和の様子に余計腹が立った。怒ればいいのに何もしないことに悔しさが増幅していった。昌和を傷つけたくてたまらなくなる。
 自分の中の傷を倍にしてぶつけたくなったのだった。
 傷つけても構わないと心が叫んでいる。
 割れた硝子を摘み、自らの手首や腕に傷をつけていく。
「姫! 何をしているのです!」
 その硝子片で顔を切ろうとしたとき、昌和が右手でその硝子片を握り締める。
 肉に食い込み、ぐちゃりと音がした。
「やめてください!」
「私など、人前に出られない者になって、実家に返されればいいのですわ!」
 血が噴き出していく。広い範囲の切傷となった。
「姫、落ち着いて」
 昌和が握った拳からも血が流れていく。
「殿なんて!」
 絹代が悔しさに顔を歪める。
「殿なんて……」
 睨みつける。
「殿なんて、大嫌いです!」
 昌和が震えだす。
「顔も見たくありません! 汚らわしい!」
 それだけは言われたくない言葉だったのだ。
 頼子を抱く時は、ほとんど愛撫などせずに、黙々と射精することにだけ集中し、目を瞑ってこの身体は姫なのだと思い込み、頼子も嬌声などあげずにひたすらその行為を受け入れていて、射精の瞬間には、いつも姫…と口走ってしまうのだった。
 それがどんなに女にとって屈辱的なことはわかっていながらも頼子に情を渡すことはできなかった。頼子もそれを弁えていた。
 自分は二人の女性を同時に愛することはできないのだった。
 どうして父を含め、先祖の当主たちはそれができたのか不思議でならなかった。
 男が女を愛するということは、心も身体も全て解放し、互いを溶け合わせることをいうのではないか。
 それにこそ真の悦びがあるのではないか、そして、そうできる相手というのは、ひとりきりではないのか、自分の誠がひとつであるのなら、愛もひとつきりではないのか。
 誰か……教えてくれ……。
「……そうですか……」
 そして、最も嫌われるようなことをして嫌われてしまったらどうすればいいのか、それも教えてほしいと思った。
「…………わかりました………」
 昌和が部屋を出て行き、女中に姫が怪我をしたと伝えると、大勢の者が部屋に入ってくる。お医者様の往診を! という叫び声と、殿様も! と震え上がる声とともに屋敷中が大騒ぎになっていった。

 急遽飛んで来た医師が二人の処置を同時に行い、昌和の掌の硝子の破片を取り除きながら縫合し、まだ傷の浅かった絹代の腕を丁寧に消毒して繃帯を巻き、飲み薬を処方し、部屋を下がっていった。
 繃帯だらけになった二人に、屋敷の皆は居たたまれなく、それでも何とか乗り越えていってほしいと願うばかりだった。

 **********

 母屋からも使いが来て、説明を求められたが、昌和は単に花瓶を落として怪我をしただけだと言って帰すと、次第に痛みがやってきた。
 かなり深く切っていたらしく、今晩は熱が出るでしょうと医師は言っていた。
 しかし、そんな手の傷ではなく、痛いのは胸だった。
 どうするべきなのかわからず、それでも姫のそばを離れたくないと思った。
 絹代の部屋の扉を叩く。
「姫……お加減はいかがですか……。入ってもよろしいですか」
 返事がなく、躊躇したが昌和は扉を押した。
「少々心配なので入りますよ。痛みますか。痛み止めの薬は効いていますか」
 絹代が背を向けてしくしくと泣いていた。
「ベッドに横になっていた方がいいでしょう」
 世話係を下がらせて、二人きりになる。
「……どうか、お構いなく……」
「心配ですよ。あんなに血が出て…………そちらに行ってもいいですか?」
「だめですわ。近寄ってほしくありません。わたくし、目も腫れぼったくなっていますし、鼻水も止まりませんの」
「理由はそれだけですか」
「とても変な顔をしておりますの」
「私が嫌いだからではないのですね」
「……それは……」
「姫は私を大嫌いとおっしゃいました」
「……………それは…………」
「誤りですか?」
「………………………」
「やはりお嫌いですか」
「………………………」
「顔も見たくないほど嫌いですか」
「……それは……」
「私は、治療をしてもらいながら、思ったのです」
 ふっと笑う。
「どんなに嫌われても、私は姫を愛しく思っていると」
 扉に寄りかかる。身体がだるかった。
 ……ああ。熱が出てきたな……。
「それに姫がそれほど嫉妬することなど無用なのだと教えておきたかったのです。その人は押し付けられたのです。昔で言えば側室というのでしょうが」
「………おやめください。聞きたくありません」
「いいえ。私がどんなにひどいことをしているか、聞いてほしいのです」
「ひどいこと?」
「ええ。私は……目を瞑ってその人の顔は見ずに、ろくに身体にも触れもせずに、姫を呼び続けているんです」
「え……?」
「……触りたくないんです。ひどいでしょう。まるで排泄と変わりません。残酷なことをしていると思います」
 絹代自身はその愛撫から繰り広げられる悦楽の虜になっている。
 それを他の人にも同じことをしているのかと思うと耐え切れなかった。
「………触れずに……その……できるもの…なのですか…?」
 信じられなかった。
 しかし、夫が自分に嘘をついたことはなかった。
「そういう修行を積んでいるということなのです」
「……修行……」
「ええ。房中術の修行を積んだ者というわけです」
 性生活における技法である。
「…………それは……殿が初めてではないということですか?」
「いえ。それだけはないところ寸前で、男を知っているということです」
 絹代には考えられないことだった。
「………左様でしたの……」
「父や、徳川の義父上たちがどのような心を持っているか、私にはわかりません。しかし、私が抱きたいと思うのは姫ひとりであり、心から愛するのは姫だけなのです。私はこの先、何度でも言います。言い続けます。姫だけなのだと。姫の不安や懐疑心が少しでも癒されるのなら、私は何度も言い続けるのです」 
「………本当にわたくしだけ……?」
「誓いますよ」
 絹代が振り向く。
 すると、昌和がくすりと笑う。
「ああ。確かにひどい顔だ」
「まあ…!」
 頬を膨らまして横をむく。
「近くにいってもいいですか」
 絹代が頷く。
「触れてもいいですか」
 肩から吊っている右手ではなく、左手を出して、ゆっくりと頬に触れる。
「……ああ……よかった。この美しい顔に傷がつかなくて……」
 白い瓜実顔の大きな瞳、形の良い鼻、小さな口。
「いま、ひどい顔とおっしゃったのよ」
「ふふふふ。間違えました。では、可愛いお顔に訂正しておきます」
「可愛いとは便利な言葉でございます」
「ふふふ。一晩眠れば元の美しいに戻ります」
 唇を近づける。
「最高の美女ですから」
 口づけをして舌を伸ばしていくと蕩けるような甘さが口に広がると昌和は思った。
 この甘美なものを永遠のものにしたい、そう思えるほどのものである。
「殿……熱が……」
「……やはりわかりますか? どうやら上がってきたようです」
「ああ、なんと……」
「たいしたことないですよ。それより姫の方が心配です」
「私の傷は浅いので」
「ふふふ、では、二人で休みましょう」
 主寝室に行き、氷の支度をさせ、互いの熱を冷やし合うのだった。
 
  

 **********
 
 
 桜が散り、一斉に花々が咲き乱れたころ、残念ながら死産だったという知らせが入った。  
 秀善はてっきり出産の知らせでどっちが生まれるかとわくわくと上機嫌だったところ一気に奈落に突き落とされたようになった。
 初孫を抱く日を一日千秋の思いで待っていたのだった。     
 それは誰にとっても悲しい出来事で、昌和は殊の外悲しんだのだった。
 その子供は自分を呪縛から解き放ってくれるはずのもので、また振り出しに戻ってしまったことにこの上ない虚脱感が襲った。
 そして、すぐにでも広島に行け、もしくは頼子を東京に呼べと秀善は昌和に命令したのだった。
 
 寝室のロッキングチェアに座りながら、ぐったりを力を抜いて昌和は窓の外を見ていた。
 絹代はそのあまりにも力を無くした様子にさぞかし衝撃が大きいのだと思った。
「………お会いしとうございましたね……」
 昌和がそう声をかけられて、一瞬何のことかと思った。
「え? ああ? 亡くなった子のこと?」
「ええ。亡くなられたことをとても悲しんでいらっしゃるのだと、そうお見受けいたしましたが」
「あ……はは……。ああ。そうだね。それが親として当たり前の感情だろうね」
「殿……」
「ひどい人間だ、私は。だからこんな風にうまくいかないのかもしれない」
「殿」
「また、最初からやり直しだと思ったら、もう疲れてしまってね。私は……人として失格なんじゃないかって思っていたところで」
 疲れ果てた顔をしていた。
「姫。あなたにまた嫌な思いをさせてしまう」
 絹代が昌和の手に手を重ねる。
「わたくしの苦しみなど、殿の苦しみに比べたら大した事ないものなのかもしれません」
「私にとっての最も苦しみは、姫に悲しい思いをさせることです。私は姫の喜んだ顔を見ることが至上の喜びなのです」
 絹代はふわりと昌和を抱く。
「わたくしも同じですわ。殿のお喜びになったお顔を見ることに幸せを感じるのです」
「姫……」
 絹代の後頭部を押さえて、唇を重ねる。
 互いの唾液を交換するかのように熱い口づけを交わすと、欲情を隠そうもせずに絹代が絶え絶えの息を吐きながら、顔を外す。
「殿。今はだめですわ」
「え? どうして? 月のものが始まったかい? 今月は遅れていたようだけれど」
「それが……」 
 絹代がほほほ、と小さく笑う。
「え? もしかして……姫……」
「まだわかりませんけれど、これほど遅れたのは初めてでしたから、もしかしたら」
 昌和が口を開けたままとなる。
 しばらく動きを止めていた。
「あの…?」
 唖然としてしまっていて焦点が定まっていない。
「殿?」
「……あ………は………。子供が間違えてしまったと………」
 ぼろぼろと涙を零す。
「自分で生まれてくるところを……選んで…」
「殿」
 昌和がそのまま天井を見ている。
「……それとも……何かの采配か……」
 つくづく人の生き死になど誰にも操作することはできないのだと痛感するのだった。
「確かに、お導きのように思います」
 昌和が起き上がる。
 そして、絹代を抱き締めて、しばらく動かないのだった。
「ありがとう……」
「まだ、きちんとお医者様にみていただかないとわかりませんけれど」
「うん、うん」
 しかし、二人は確信に近いものを感じていた。
  
 そして、医師の見立てで妊娠が確定し、真野家ではその慶事にお祭り騒ぎになり、いっきに暗かった雰囲気が塗り変わったようになった。
 姑への挨拶の為に同じ時間に行くと、姑の波留子はにこにこと優しい笑顔で迎えた。
 いつも静かな姑に絹代は好意を寄せていた。
「絹姫さんにはこの度、ご懐妊の由、誠によろしいことで、おめでとうさん」
 公家伯爵家の姫の姑は常にゆったりとしている。
「……ようやく役目を果たせると安堵しております」
 絹代が緊張しながら頭を下げると波留子は小さく頷く。
「まずは、お身体お大事に、生まれてくる日を心待ちにしております」
「ありがとうございます。お義母様の教えにこれからもお縋りしたく、お導きのほど宜しくお願い申し上げます」
 波留子が遠くを見るように視線を動かす。
「絹姫さん」
 昌和が使うその名前が気に入ってそのまま呼んでいる。
「……はい」
「時代がいくら変わっても、女は女ですなあ。殿方次第で心が日を差したようにも嵐のようにもなる」
 絹代は嫁いできてから、昌和に振り回され、嵐の連続のような日々だったと思った。
「誠にそのような次第で」
「わたくしも、大殿さんには心を乱されてばかりでした。けれどなあ、若殿さんが生まれてからは、あれほど波に揺らされている船のようだった心が、静かな海の上に浮かぶようになったんです」
「左様でございますか」
「母親になるというのは、いいものですよ、絹姫さん」
 慈愛に満ちた表情だった。
 絹代の瞳からひとすじの涙が零れる。
「お言葉、有難うございます」
 心にしみる言葉だった。同じ苦しみを経験しているからこその言葉で、また一番望んでいる言葉を知っていて、それを言ってくれる、そんな優しさに溢れた姑に絹代は感動していた。


 ***********


 絹積雲が碧空に白く波紋を広げ、翌日の雨を知らせているような秋の日、絹代は陣痛を感じ、産婆を呼ぶよう女中に頼んだ。
 その連絡を受け、昌和は勤めを放り投げて役所から戻り、絹代にそんなに急いで帰ってくることはないのにと言われても、まったく耳を貸そうとせずに、ひとりで慌てていた。
 医師と産婆と看護婦が大勢やってきて、十二帖の畳の客間を産所とし、出産の支度を次々と整えていく。
 女中たちは、皆、走り回っていた。
 そんな中、昌和は陣痛に苦しむ絹代のそばを離れ難く、何とかそばにいようとしたが、産婆に睨みつけられる。
「ここは女の戦場です。いかに殿様とはいえ、男子禁制でお願いします」
 産所に入っていること自体が問題であるのに陣痛の間隔が短くなってきているところ、邪魔でしかたないのだった。
 昌和はすごすごと部屋を去り、うろうろと邸中をうろつくのだった。
 絹代の悲鳴が聴こえてくるたび、頭を掻きむしる。
「………ああ……なんと苦しそうなのか……」
 初産ということで時間がかかり、なかなかお産は進まなかった。
 昌和は階段を上ったり下りたり落ち着かない。
 絹代が叫び声をあげて、産婆に叱られている。
「奥様! 息んで!」
 苦しそうに踏ん張る絹代の声に、昌和も壁に頭をつけて一緒に息む。
 それを女中たちが笑うに笑えず、足早に通り過ぎる。
「……姫……」
 絹代が長く息むのと同じ時間、昌和も息むと、酸素不足になり、ぜいぜいと息を吐く。
 一緒にお産をしているつもりのようだと執事なども見て見ぬ振りをする。
 しかし、咳き込んでいるのを見ると、慌てて水を用意し、背中を叩く。
「殿。どうぞお部屋でお休み下さい」
 そんな声など耳に入らぬかのように、唸っている。
 家令がやってくると、執事が軽く頭を下げる。
 廊下で踏ん張っている昌和の様子に小さく溜息を吐きながら、まだ出産には至らないのだと思い、また去っていく。そして去り際に執事に注意をした。
「君がついていながら、若殿に何ということをさせているのですか。静かにお部屋で待つように申し上げなさい。これでは笑い草にされますよ」
「……もちろん何度もそう申したのですが……」
「大殿がご覧になったら、何とおっしゃるか……」
 呆れたように初老の家令がふっと息を吐く。
「そうおっしゃらずに。殿も奥様が心配で堪らず必死なのですから」
 執事が少々抵抗するような言い方をした。
 ――奥様! もうそこまで頭が見えてきていますよ! もっと息んで!
 そんな産婆の叱責の声が響く。
 昌和が頭を壁につけたまま拳を握りしめて力を入れる。
「……まもなくのようですね。では、私もここでお待ちしましょう」
 そう言って家令は執事の横に立った。
 しかし、絹代は最後の踏ん張りでなかなか踏ん張れないようだった。
 ――あともう少しですよ!
 絹代の朦朧としている様子が伝わってくるようにもう息む声が聞こえてこなかった。
 ――奥様! 奥様! しっかりなさってください!
 産所から緊張感が漂ってくる。
「大丈夫でしょうか……」
 執事は気弱な声を出す。
 昌和が真っ青な顔をして客間に行こうとする、しかしそれを家令が止める。
「若殿。医師もついているのです。お任せしましょう」
「……しかし…姫が……」
「奥様は戦っていらっしゃるのです。男は待つしかできないものです」
 昌和の顔色は土色になっている。
「若殿の方こそお顔の色が優れません。少々横になられた方が」
 その言葉もまったく耳に入っていなかった。顔を両手で覆いながら苦しそうに息をする。
「……子供を生み落とすというのはなんとつらいものなのか……」
 独り言を呟き、身体を震わせた。
 ――奥様! 上に乗らせていただきますよ。もう赤子も限界なんです。
 陣痛が始まってからすで一日経過していた。絹代は一睡もせずに陣痛と戦っていたのである。
 夜から朝、朝から昼、昼から夜、そして明け方となった。
 鳥が朝を告げており、邸の中に薄日を差してくる。
 体力の限界など遥かに超えていた。それでも誰の力も借りることなどできず、ひたすら子供を外に出すには母親がその力を振り絞らなければならない。
 絹代は意識を取り戻し、最後の波に引き摺られていく。
 その壮絶な陣痛に悲鳴を上げる。
「……殿……!」
 昌和がその叫び声を聴いて、止めるのも聞かずに産所に走りより、扉に手を伸ばす。
 すると、
「ほぎゃ……ほぎゃ……」
 産声が上がった。
「……あ………」
「奥様、はい、力を抜いて、そうそう。ああ、元気のいい男の子です。おめでとうざいます」
 産婆が手際よく臍の緒を切り、茫然とする絹代に見せる。
「………男…の……子………」
 まだしわくしゃの赤子は母親を見たいとばかりに目を開ける。
「ああ……」
 絹代が手を伸ばすが、威勢良く泣き出して、産湯につかわせるため産婆がそこに連れて行く。産湯につかっている間も元気に泣き通していた。
 立ち会ったものたちがあまりに感動して泣いていると、産婆がそれを叱咤する。
「ほら、皆さん、殿様にお伝えしなくては。しっかりなさい」
 女中頭がその言葉にはっとして、扉に向かう。
 扉のすぐ向こうにいた昌和に驚きながらも、涙を拭った女中頭が、おめでとうございます、殿。若君お誕生でございますと言った。
 その言葉に茫然としたような表情の昌和が、ああ、と小さく答える。
「姫は……」
 子供が元気なのは声が響いているからわかる、しかし昌和はそれより絹代のことが気になった。
「姫は大丈夫なのですか」
 後産の処理を産婆が終え、ふうと息を吐いてから、額の汗を拭う。
 精も根も尽き果てた様子の絹代が薄目を開けていると、産婆が小さく笑う。
「殿様をお呼びしてもよろしいですか。どうしても奥様のお顔を見たいそうです」
 返事をする声も出ない様子の絹代が小さく頷く。
 てきぱきと産褥のものを女中達が片付け、布団だけがある状態にした後、昌和を招き入れた。
「どうぞ、殿様、もう大丈夫ですよ」
 産婆にそう言うと扉を開けられ、昌和は廊下を進み、障子が開けられた客間に行く。
 産婆と医師のみが座し、一日ですっかり痩せ細ってしまったかのような絹代が横たわっており、儚気な笑みを浮かべる。
「絹姫は無事なのですね……」
 産婆と医師がくすくすと笑う。
「眠っていませんし、ずっと走りっぱなしの状態でしたから相当お疲れとは思いますが、一日眠れば元気になりますよ」
 産婆がそういいながら自らの胸を軽く叩く。
 すると、立ち会っていた医師が、母子ともに健康です、おめでとうございますと言った。
 その瞬間に昌和がぺたりとそこに座り込む。
「……は……、よかった………」
 腰が抜けてしまったかのようだった。
 ずるずると這っていくように絹代のところに行き、疲れ切った絹代の頬に掌を載せる。
「……よく頑張りましたね……お疲れさま」
 絹代の瞳からぽろりと涙がひとすじ流れる。
「と…の……」
 そこに乳母が授乳を終え、眠りについた赤子を連れてくる。
「お…とこ…のこ……」
「ああ、もう喋らなくていい。ゆっくりしていなさい。おお、どれ」
 赤子を見せてもらい、皺くしゃで赤く小さなその顔を見るなり、昌和は胸に迫るものを感じ、息が苦しくなってくると思った。
「……なんと小さい……」
「でも、お乳もよく飲み、とても元気な若君でいらっしゃいます」
 昌和は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
 今の気持ちを言葉にするとしたら、何なのだろうと思いながらも、感動に打ち震えていて言葉など何も浮かばない。とにかくすやすやと眠るその小さな生を心から愛しく思うのだった。そうして、流れでてくる涙は、人前でも流していい涙だと思った。
「姫、ありがとう。よく頑張りました。ありがとう」
 その言葉を聞いて返事をしようとしたが、絹代は深い眠りに入っていった。


 ************ 


 鴛鴦の契りとはいかにもこの二人のことであると、周囲の誰もが思い、それほどまでにその二人の間には何も介入することができないほどの仲の良い夫婦だと認めていた。
 昌和は産後の肥立ちがあまり良くなかった絹代をいたわり、子供をこよなく愛し、子を囲んで話をしている二人には誰も近寄ることができぬほどで、またそんな様子を見るにつけ、幸せな気分になるのだった。
 是非引き続き、第二子をと望み、幼名を改めて秀一という名前となった二人の長男は、一歳の誕生を迎え、真野家の希望の星となった。
「秀一さん、ほら、こちらよ」
 絹代が歩けるようになった秀一を手招きする。
 秀一はそれに応えようと、よっこらしょと身体を立たせ、よちよちと歩いていく。
 その姿があまりに可愛らしくて、涙を浮かべながら両手を前に出す。
「あば……ばばば」
 待っていて、とでも言ったように声を出して一歩ずつ進む様子は、母の期待に応えたいという子供の素直な心情を表しているかのようだった。
「ええ。ああ、上手ですよ、秀一さん、はい、こちらです」
 育児室とした部屋には、英国製の玩具がところ狭しと置かれている。昌和がわざわざ英国から取り寄せているのだった。
 乳離れした秀一の為に食べさせるものも世界中から取り寄せている。
 呆れるほどの親バカぶりに絹代はもう何も言わなくなった。
「はい。お上手でした。いい子ですね」
 ぎゅっと秀一を抱き締める。
 我が子が愛しい……そんな世間で言われる当たり前のことが実はどれほどのものなのか、それを聞いただけでは実感としてわからなかったが、この愛しいという気持ちは何もかもを超越していく思いだと思った。
 もし、世間の全員がこの子の敵に回ったとしても、自分だけはこの子の味方である、その思いがどのようなものなのか、ようやくわかったのだった。
 自分の腹から出てきた自分の分身のような、そしてそれが愛する夫との間にできたその愛の結晶かと思うと、これ以上の宝があるのだろうかと問いたいほどである。
 そしてその姿の何と愛しきことよ……。
 この子を守る為ならば、自分は鬼にでもなんでもなる、この子の為ならば、自分は何を敵に回そうと臆することはない、この子の幸せのためならば、自分はなんだってできる。
「大好きですよ、秀一さん」
 抱き締めた小さな顔の頬に唇を寄せる。
「あばば……うふふふ…きゃきゃ……」
 くすぐったいとばかり手をばたばたとさせている。
 小さな身体から伝わる温もりを守るためならば、この身体などどうなってもいいのだ。
 そう思いながら、絹代は抱き締める手に力を込めた。
 ―――女は子供生んで、はじめて女に生まれてきた理由を知るのかもしれない。
 だから、そんな子供を産む喜びを知ってもらいたいとする経験者の女たちが、娘たちによき母をなるよう仕込んでいくのだと思った。
 もし、この先自分が娘を生むことができたなら、この感動を是非知ってもらいたいと良き縁談を探すことであろうと、色々と想像していく。
「妹が欲しいですね、秀一さん」
「あばばば」
 同意するように秀一に返事をされ、絹代はますます秀一の頬を舐めるのだった。
 子の顔を見ているだけで一日はあっという間に過ぎていく。
 日に日に変わる顔、日に日に大きくなっていくその姿、日に日に様々なものを体得していく様子、それを見ているだけで感激し、昨日までできなかったことが今日はできる、それにいちいち喜び、涙を零し、また、少しでも具合が悪い様子を見れば心配でたまらなく、どうか無事に成長を遂げますようにと、神でも仏でも何にでも祈りたくなる。
 そして自分はこの子を世に送り出す為に生まれた、そう思えるのだった。
 だから―――――。
 自分の心の中でひっかかっていることを意識せずにしようとすればするほど、やがてそれは次第に心の中で大きくなっていく。
 もしそれを口に出してしまったらどうなるであろうか………。
 今の幸せな日々を壊すことになるのではないか。
 安寧の日々は崩れていくのではないか。
 はたして自分は耐えられるのだろうか。
 しかし、このまま見過してしまったら、先々後悔するのではないか。
 だが、人として自分が取るべき道は、逃げることでは済まないのではないか。
 これは、自分に課せられたことなのではないか。
 自分だけ幸せならばそれでいいのだ、そういうことを胸張って堂々と秀一に言えるだろうか。
 しかし、私は……本当に耐えられるのだろうか………。
 秀一をぎゅっと抱き締める。
 その力加減に異変を察したように秀一が泣き出すと、絹代ははっと力を緩める。
 母親の心の動きに子供は大変敏感なものである。
「ごめんなさいね、秀一さん」

 昌和の帰宅を告げる声が響き、絹代は秀一を抱いて玄関まで出迎えに行く。
「ただいま。姫。それにわがプリンス」
 でれでれと崩れそうな顔をしながら秀一を抱き上げ、どうだ、今日も楽しく過ごしていたかと、顔中を舐めながら話しかけると、秀一はきゃっきゃっと喜ぶ。
「お帰りなさいませ。殿」
 絹代がにっこりと微笑むと、嬉しそうな顔をしてぐいと腕を引き寄せ、唇を頬に寄せた。
「あばばばば」
 秀一が嬉しそうに声を出す。
「おお。母上にこうすると嬉しいのか?」
 秀一は秀一を片手で抱き、絹代の肩に手を回して自室に向かう。
 世情は厳しかったが、家の中は幸福に輝いている、昌和はそのことにこの世の春を感じていた。
 だから、絹代がひとり悩んでいることなど考えてもいなかったのだった。

 その日の夜、乳母が秀一を寝かしつけるため絹代から引き取り、夫婦ふたりの時間になった時、絹代が神妙な面持ちをして、昌和に向き合った。
 昌和の為の洋酒を用意し、椅子に腰掛け、いつも通り寝る前の語らいのひと時であったが、その晩は違う様子を見せた。
「殿、お話しがございます」
「ん? なんですか? そんな風に改まって」
 英国製のウヰスキーの瓶を取りながら昌和が言う。
 しかし、いざそれを言おうとしても絹代はなかなか言い出せなかった。
「…………………」
 瓶の蓋を開けると部屋に色をつけていくような芳香を放つ。
「何かあったのですか?」
「……いえ、何かあったわけではなく」
 江戸切子のグラスに注ぎ、少々薫りを楽しんだ後、昌和はこくりと喉に滑らしていく。その後の絹代の言葉を待ったが、ないようなので、グラスを置く。
「では、何のことですか」
「その……」
「はい?」
「……わたくしは……」
「……うん?」
 昌和は俯く絹代の顔を覗くように見る。
 元々美しい顔をしているが、子供生んでからの絹代はその美しさが際立つようになった。
 目鼻立ちの整い方うんぬんではなく、内面から輝く美しさに溢れ、潤んだ瞳に宿る光、艶というものなのか、とにかく神々しいものに満ちている。
 そんな妻が眩しく、その夫であることにこの上のない悦びを感じていた。
「どうしました、姫。言いたいことがあるならはっきり言ってください」
「……わたくしは、母となってから、……とても気になるようになりました」
「うん、何が?」
「……広島のあのお方のことが」
「!」
 昌和がいかにも不快な顔をした。グラスに残っていたウヰスキーを一気に飲む。
 そして気持ちを落ち着けるかのように大きく息を吐いた。
「ああ。それならもう済んだことではないですか。なにを姫が気にされることがあります?」
「……今はどうされているのかと」
「………………………」
 蓄妾したからには、他の男性と結婚させるわけにいかなかった。
 法律上の蓄妾届制度はすでに廃止されており、戸籍上は夫婦ではないのだが、法律はあくまでも法律、今でも妾であることには変わりなかった。
 頼子が言っていた届というのは、世間に対するもので、法的拘束はないにしろ、自分にはれっきとした夫がいるという証であった。
 そして、それは昌和の父、秀善が認めたものであり、その生活を保障するものなのであった。
「……実家の近くの住まいで暮らしているかと。しかし、実は私はよく知りません」
「………………………」
「私をお疑いなのですか? 姫に悲しい思いをさせたくないと、私は二度と会わないと決めているのです」
「………疑ってなどおりません……」
「ならば! なぜそのようなことを言い出すのですか!」
 昌和が救いを求めるような顔をする。
 これ以上自分を追い詰めるようなことを言われたくないのだった。
「………次の護国神社お参りの折……」
「姫? 何を言うおつもりですか」
「……どうか、あのお方のところでお休みになってください」
 絹代は一気に言って、椅子から下りて、膝を折り、額を床につける。
「何を……何を言っているのかおわかりなのですか?」
「はい……」
「では! 私がそこにいく理由はなんですか! もう秀一がいる! だから、私はもうあんな思いをしなくて済む! それにどんなに心に平和を得ているか、姫、あなたが一番ご存知でしょう?」
「……責任をお取りになる必要があると」
 昌和がグラスをテーブルに叩き付けるように置く。大きな音が部屋に響いた。
「責任なら取っている! 何不自由ない生活をさせている!」
「お金の問題ではないのです」
「姫! あなたが! それを言うのですか! 夫としての役割を果たせと!」
 昌和が首を横に振る。
「姫は私が嫌いになったのですか?」
「そんな! わたくしが殿を嫌いになるはずがありませんわ!」
「私が疎ましくなったのですか?」
「疎ましく感じることなどありません!」
「ならば! なぜ、他の女性を押し付けるようなことをするのです!」
 昌和は大きな声を出し、椅子から下りて絹代の前に座り、肩を揺さぶる。
「わたくし……あのお方の気持ちがわかりますの。どれほどお辛い毎日を送っていらっしゃるか」
「姫」
「それを思うと、わたくしが辛いのです」
「姫。私の妻はあなたなのですよ。私のたったひとりの妻です。他には要らないのです。わかってくださらないのですか」
「わかっています。わかっていますが」
「ならば、姫がそのような気遣いをする必要はないのです」
 絹代が顔を毅然としてあげる。
「妻としては譲れませんが、母親になる権利は別のお話だと思うのです」
「それはどういう意味ですか」
「わたくし……あの方にもう一度子供を授けて差し上げた方がいいと思うのです」
「………………………」
 昌和が嫌悪感を露にした顔をする。
 そして拳を握り、唇を噛んだ。
「不愉快極まる! まさかあなたの口からそのようなことを聞くとは思わなかった!」
 すっと立ち上がり、その話を打ち切るようにベッドに向かう。
「殿、聞いてください」
「二度と! 二度とそんな話を私にしないでください! 私はあなたが妻でよかったと思っているし、他の女性など触りたくもないのです!」
「わかっています。殿、それはよくわかっています」
「わかってない!」
 昌和が拳を壁に叩き付ける。
「あなたはわかっていない! 何もわかっちゃいないんだ!」
 今まで聞いたことのない怒鳴り声だった。
 あまりの怒りに震える昌和の様子に絹代は夫婦の絆に亀裂が入っていくような音を聴いた気がした。
 やはり、失敗だったのだと気づいたが、言ってしまった以上どうすることもできないのだと思った。
「出過ぎたことを申しまして、申し訳ございません」
 顔色を失い、その場に固まったように座り込んでいる。
 ひとりの女性を犠牲にした上で成り立っている今の幸せは、やがてそれが二人の大きな重荷となっていくのは時間の問題だった。だから、それを見なかったことにしようと封じていたこともあった。
 しかし、ひとひとりの人生であり、容易く看過できるものでもないのだった。
 そして、昌和としては、絹代には最も言われたくないことだったのだ。
 怒りが静められず、道着に着替える。
「先に寝ていてください。しばらく稽古をします」
 バン! と扉を開けると、扉の外には執事が控えており、昌和が苦笑しながら、道場に行くと告げた。


 **********


 それからの昌和と絹代は、比翼連理の仲のようだったのが嘘のように打って変わって寒々しいものとなった。
 とても強い絆で結ばれていると思っていた二人だったが、それは互いの気持ちを思いやることによってはじめて成り立つことであることを思い知ることになった。
 しかし、そういうことは経験でしか得ることができず、自分の心がどうなるのか、相手の気持ちはどうなるのか、その最中では自分のことで精一杯で先に考えることはできないものである。
「いってらっしゃいませ。どうぞ気をつけて……」
 年が明けて、新年の行事の為に広島に向かう昌和を送り出しながら、絹代は複雑な表情を浮かべる。
「うん。行ってくる。皆、何かあったらすぐ知らせるように」
 以前だったら、名残惜しそうに昌和は玄関を出て行ったものだが、絹代から離れられ、家から出ることができると、ほっとしたような顔をするようになった。
 そんな心境を絹代は察するように居たたまれない様子で見送る。
 すべて自分のせいだとわかっていながらも、後から後から後悔が襲ってきて、身を切られるような思いに翻弄され、すっかり塞ぎ込むようになった。
 昌和はそのような表情の絹代を見るのも息苦しく感じ、そして、裏切られたような気持ちはどうしても消すことができなかった。
 二人は互いを強く思い合うだけに、歩み寄ることができなくなっていたのだった。
 そんな冷えきった様子は邸全体を包んでいき、邸に勤める十人ほどの家人たちは早く二人が仲直りをしてくれることを願った。
 秀一も夜泣きがひどくなり、両親の不仲に不安を覚えているようだった。
 しかし、昌和は言われたことの衝撃が大きく、絹代に対して優しくできなく刺々しい態度を取るようになり、そんな自分が嫌で、ますます気持ちが負の方向に向いていくのだった。どうにかしなければと焦れば焦るほど、抜け出せなくなっていった。
 だが、汽車に揺られながら、東京から離れていくと気持ちも解放されていき、碧天に真綿を被った富士を見た時には、何を馬鹿げたことで喧嘩しているのだと思うようになってくる。
 だが―――。
 言われたことはどうしても許せないことだった。母の波留子に言われるならわかるが、絹代に言われるとは思ってもみなかったのだ。
 唇を噛む。
 ………私は姫だけのものなのに………。
 雄大な景色を見ていると、心がそのまま表されてくるようになる。
 涙が込み上がり、帽子を深く被った。
 ………他の女を抱けと……。
 言われた時の衝撃が甦ってきてしまう。
 絹代の気持ちを推し量ることができなかった。
 ………どうしてそれを言えるのか……。
 逆に、もし自分が、絹代を他の男が抱くことなどを想像しようものなら、身の毛も弥立つことであり気が狂いそうになる。決して肯んじないことである。そうだ……、
 ―――他の男になど決して渡さない。
 あの絹代の身体を他の男が触ることは指一本でさえ断じて許さないのだ……!
 それは絹代も同じはずで、そうでないなら、自分が思うほど絹代は自分を愛してくれていないのではないかと思い、また悲しみに暮れる。
 ………どういうことなのだ………。
 私は…姫にとってどういう者なのだ……。
 広島での神事が終わった後には、とうとう始まったロシアとの戦争資金のために英国に行かなくてはならず、絹代との仲を修復する時間はないと焦りから胸に痛みを抱える。
 そして、今まで無視してきたその人と向き合わなければならないのだと気持ちが重くなっていた。

 広島駅に着くと、毎度大勢の人が出迎える。もとの家臣団である。警察の目を誤摩化しながら、歓迎していた。
 廃藩置県、版籍奉還は、いわば騙し討ちのように土地と藩民を奪われたものであり、誰もそれに楯突くことのできぬ大きな流れに皆は流されていった。
 それにより、封建領主としての地位・家臣との主従関係を完全に否定されたが、心の結びつきまでは消し去ることはできなかった。
 元藩主一家は、そのまま皆の心の支えであり続けるのであった。
 日清戦争の折、広島城は大本営となり、帝を迎え、軍事拠点として重要な場所となっており、ゆえに旧藩主の子孫を慕うことなど表面化させぬよう気をつけていた。
 
 広島滞在中は、秀善と昌和はそれぞれ違う寺にて過ごすことになり、秀善には大勢の妾が入れ替わり立ち替わり出入りする。
 昌和は、頼子が懐妊して以来実家から呼ぶようなことはしなかったが、その日は呼ぶよう段取りをつけていた。絹代に言われてやけくそになっていたのだった。

 
 頼子は寝所で支度を整えて待っていた。
「お帰りなさいませ」
 それだけ言って頭を下げる。
「……久し振りです……。すみません、ご無沙汰してしまって……」
 昌和が背広を脱ぎ始めると、以前と同様に頼子は衣服を受取り、着流しを用意する。
「お忙しいことと存じ上げます。今宵はお呼びいただけましたこと嬉しく存じます」
「恨み言を言っていただいていいのですよ」
「そんなお恨みに思うようなことなど何もございません」
「ずっと放っておかれて気分よく過ごせるはずがないでしょう」
「殿……」
「もっと責めてもらっていいんですよ! これでは旦那とは言えないでしょう!」
 昌和は苛立ちが押さえられなかった。
「殿。ご本宅にお子様が生まれること、これに勝るものはないと存じます。私は役目を終えたのだと思っておりました」
「君は、まだ若いというのに…世捨て人のような人生を送らなければならないんです。それについてもっと責めてもらった方が私は気が楽になる」
「世捨て人など……そんなことを言ったら、もっと苦労している人に笑われてしまいます」
 頼子がふっと笑う。
「殿は……私にも心があると、ようやく気がついてくださったのですね」
「え?」
「失礼ながら、以前は、仕方なく私と過ごしていることを隠そうともせず、心は常に赤坂の奥方様に向かわれていて、私の心のことなど全く考えることがありませんでした」
「………………………」
「あ、申し訳ございません。責めているのではありません。私はそれで充分務めを果たしていると思っていたので、それについて悲しいなどという思いはしていません。ですから気になさらないでください」
「………君を不幸にしていると……その意識から離れることはありませんでした」
「ひとりの女として見ればそう言えるかもしれません。けれど、殿。私は代々真野家にお仕えしてきた沖野の娘なのです。世間並みの女としての幸せよりも、そのことに誇りを持って生きること、それこそが私にとっての幸せと言えるのです」
「………しかし………」
 頼子がそれで納得したとしても絹代はそういうわけにはいかない。
「……悪いが…それでも私は絹姫の心を大事にしたいと思ってしまう」
 言う相手として間違っているとは思っていても、昌和は本音を言う狡さを隠さなかった。
「だから、ひどい旦那だと罵ってもらった方がずっと気が楽なんだ…!」
 顔を背ける昌和を見て頼子は小さく息を吐く。 
「……確かに、奥方様にとってはさぞかし憂鬱なことに違いありませんでしょうが……。もしや、そのことで仲違いをなさってしまったのですか。だから今回、私をお召しになったのですか」
 昌和はふっと笑う。
「は…………聡い人だ」
「けれど、絹姫様も武家に生まれたお方ですので、そのお覚悟はおありとばかり思っておりました」
 きつい口調だった。
「!」
 絹代を非難するようなその言葉に咄嗟に庇いたくなる。
 そして、自分には覚悟というものがなかったのだと知った。
「……いや…」
 だから、心情の揺れ動きに翻弄され、傷つけるようなことをしてしまう。その覚悟の上に確固たる愛情を育むべきだったのだと思うが、それも後の祭りで、生まれてきた立場を呪うようなことになってしまったのだった。
「姫は……君に再び母親になってほしいと願っているのだ」
「それは大変失礼いたしました。奥方様はやはりお覚悟をお持ちでいらっしゃるのですね。さすがは徳川の姫君でいらっしゃいます。無礼を申しました」
「君には教わることが多い」
 頼子がはっとしたような表情をする。
「え。そんな……」
「いかに自分が子供だったのか、思い知らされるよ」
 昌和が苦笑しながら言うと、頼子が笑みを浮かべる。
「ならば、私は自分が何者かを知っているということだけにございます」
「自分が何者か……」
 昌和は心を抉られたような気がした。

 ――――自分は何者か――――――

 何の為に生まれてきた。何をする為に生まれてきた。何をするべきか。
 何を為すべきなのか……!
「私より随分年下なのに、君はまるで老成したようなことを言う」
 それはとりもなおさずそう育てられてきたことの証だった。
 真野家家臣、主君を支える為の各家の矜持、連綿と受け継がれてきたもの―――。
「そうか……そうやって代々支えられてきたのだな……」
 何もわかっていなかった……。
「殿」
 頼子がじっと昌和の瞳を見る。
「ですから、私を絹姫様と同列に考える必要はございません。女ではなく、家臣のひとりとして見ていただければ本望にございます」
 丁寧に頭を下げる。
「そ……そうか……」
 昌和は不思議と心が落ち着いていった。
 あくまでも臣であろうとするならば、その主がなすべきことは―――。
「横になりなさい」
 主君としてあり続けることである。   
「はい」
 そして、臣を慈しむ心、それだけでその身体を抱けるのだと知った。
    
 
 *********


『日清戦争時を標準として算定した結果、軍事総額をおおよそ四億五千万円、そのうち海外支払に必要となるものを三分の一とした場合、目下、日本銀行所有約五千二百万円ほどであるから、なお一億円の不足を生ずる』
 それが政府の樹立した軍費予算だった。
 昌和は、日本銀行副総裁の高橋是清に随行する命令を受け、横浜港に向かった。
 外債募集し、戦費を調達するという使命の為の出張であり、これを成功させなければ、国は存亡の危機に瀕するということであり、大役であった。
 そして、それは容易いことではなかった。
 まずは、アメリカに行き、ニューヨークの銀行家と面談したが、アメリカとしては外国資本を取り入れることに懸命で、外国債を国内で発行させるのは難しいとの結論により、すぐ英国に向かった。
 大西洋の船上で昌和は英国上陸後の段取りとその多忙さに没頭していき、家庭のことは頭の中での占める割合を減らしていった。
 そして少しでも先送りできることと、絹代と距離を置ける環境に心が楽になった。
「世の中もこの海のように穏やかだといいのになあ、真野君」
 特命全権大使の高橋にそう声をかけられる。
「大使」
「まあ、明日は嵐になるかもしれんがな。だがずっと嵐というわけではない。こうしてまた凪いだものとなる。それには嵐の時はじっと耐えねばならん。耐えてまた晴れる日を待たねばならん」
「……はい」
「そして今、我々は耐えるべき時ということだ」
 重圧と戦っている高橋の言葉は重かった。
 
 英国に着くと、過密なスケジュールにて各銀行の支配人たちと懇親し、会見して一千万ポンド英貨公債の発行を頼み込む。   
 しかし、ロシアと戦う羽目になった日本には同情するが、日本公債については難色を示し、話はなかなか先に進まなかった。
 だが、投資家は好条件の日本公債に興味を示しており、ロスチャイルドやカッセルの大資本家に話を持っていくべきか思案を重ねていた。
「ふう……どうすべきかね……このままでは到底一億円など集められない」
 その日のホテルで高橋は疲れたような顔をした。五十歳を過ぎているとは思えぬほど機敏に動き回る高橋についていくのが秘書官はじめ昌和たちは精一杯だった。
「大使。あの、日本を経つ前に駐日英国公使からご紹介いただいたサー・マッケンジー様をお訪ねしてはいかがでしょうか。汽船会社の社長をなさっておいでの氏ならば実業家として先見の明がおありかと存じます」
 その昌和の言葉に高橋がはっとする。
「そうだ! それはいい! 是非そうしよう!」

 そうして訪問したマッケンジーの私邸で、氏は快く迎え入れ、今の日本の状況で大資本家に頼ってしまうと、後々に日本政府に不利な条件を押し付けてくることになるかもしれないから、なるべく銀行と取引するのがよいという助言を受け、高橋はそれに向かって決意を固めていった。
 毎日銀行家たちと会見し、雑談をしながら、日本は国家生存のため、自衛上やむを得ずして戦うことになり、二千五百年という万世一系の皇室を中心とし、国民全員が一丸となっており、最後の一人まで戦わざればやまぬ覚悟であるということを主張し、また武士道を説き、日本の事情を根気よく訴えていった。
 すると、一日、そして一日と、銀行家たちはその高橋の話にひき込まれていき、日本への関心が高まり、日本公債は現実のものへとなっていったのだった。
 見事な手腕であり、昌和はその高橋の話術、魅力的な話、見識の雄大さ、大徳あるその人柄に触れ、大使に随行できたことの喜びを感じた。
 そうした銀行家との懇親を深める中、高橋は、アメリカの銀行家のシフ氏と運命的な出会いをし、そのシフ氏の協力のおかげで最終的には二億円という公債発行を果たし、戦費の調達に成功したのだった。

 その公債発行が済み、一行は日本に帰国の途についた。
 すでに一年という月日が経っていた。
 その間、昌和は家に手紙を出して多忙を告げていて、絹代からも秀一の様子をまめに知らせてくる手紙をもらい、その微笑ましい様子に喜び、また絹代が自分の身を案じていることと、毎日恋しく思っていてくれることをつらつらと綴られており、その手紙は自分を支えるものとなっていた。
 二人にとってはこの距離と時間はよい薬になったのだと思っていた。
 しかし、母、波留子からの便りでは、頼子が男児を生んだことを知らせてきて、帰国できる嬉しさ半面、次男誕生の知らせで心を重くしていたのだった。
 絹代にそれについてどう言われるのか、文通で絆を深めていたつもりでいただけに憂鬱になっていた。
 洋上を見ていると高橋が肩に手を置く。
「なんだ。随分と沈んだ顔をしているじゃないか。仕事は上手く行ったし、家には帰ることができるし、もっと喜んだらどうだ」
 ははは……と大笑いをしながら言った。
 一年間、毎日過ごしてきた高橋は、すぐそうやって顔色を見て、人の心を洞察する力があり、心の迷いなどはすぐ見抜く。
 だから、昌和は何の隠し事もできぬと観念して思ったことは全て隠さぬよう努めてきた。
「……子供が生まれたそうです。次男です」
 その言い方に高橋が訝し気な表情をする。
「なんだ。目出たいことではないか。なぜそのような顔をしているんだ」
「………広島の…女が生んだので………」
 するとバンと背中を叩かれる。
「どこの女が生もうが貴君の子供であるんだろう? 生まれた子供が気の毒だ!」 
 昌和が苦笑する。
「はい。おっしゃる通りです。まったく情けない限りで」
 高橋が顎髭を撫でながら昌和の苦悩を察するかのようにその顔を覗き込む。
「まあ、貴君にしかわからんものがあるんだろうが、子供は授かりものだ。生まれたからには意味がある。君を苦しめるものではない。愛しいものだろう」
「はい。わかっているのですが、どうにも心は自分の思う通りにならなくて」
「さては奥方が怖いのか?」
 昌和はつい赤面してしまう。
「………………………」
「君は、真野公爵家嫡男だろう? いずれ爵位を継いでまたそれを継承する義務がある。大手を振ってたくさんの妾に子供を生ませたらいいじゃないか。まったく羨ましい限りだ」
 昌和はふうと息を吐く。
 それが世間一般の意見だった。女は十人十色だからそれぞれと楽しめると皆は口々に言うのだった。
「私もそれほど初心ではありません。結婚した時は齢三十でした。茶屋遊びはそれなりにいたしましたし、そこそこ色遊びはしたつもりで女に無防備だったわけではないのですが、妻は特別で……」
 絹代は十六で嫁いできた。
「ほほう」
 高橋がにやにやと笑う。
「ずいぶんと惚れてしまったようだな」
「……命さえ惜しくないと思ってしまうのです」
「ふふふ。なんだ結局は惚気話だったのか」
「申し訳ありません」
「いや。なかなか新鮮なことだ。世の男どもはだいたいがどれほどの人数の女を相手にしたことがあるかなどの武勇伝を語りたがるものだが、それからすると随分清々しい話ではないか」
「清々しい?」
「私には貴君のように惚れた女はいない。残念ながらな、女房には悪いが。どうやら仕事に惚れてしまったようだ」
「ご立派なことでございます」
「は。何が立派なことか。日ノ本に一銭でも多くの金を残し、皆に少しでも多くの銭を持たせ、餓えることなく、他の発展国に肩を並べて堂々と生きていける為に死力を尽くす、ふ、どうやら、私は日本という国に惚れてしまっているようだ。ああ、それなら分かるぞ」
 昌和は自分が情けなくなる。
「そりゃそうだ。日本に惚れとるのに、英国のために力を使えと言われても、それは無理というものだ。日本の為なら命さえ賭けるが、英国のためには銭は使えても命は捧げられん。いくら世話になったからと言ってもな。ははははは」
 高橋が豪快に笑う。
「どうだ。そういうことだろう」
 昌和がその寛大な心に感動していく。
「……大使のお心に触れ、私は気持ちが楽になりました」
 高橋が微笑む。
「なあ、真野君。そうして自分の人生をかけることができるものがあるというのは幸せなことじゃないか?」
「……はい。左様でございますね」
「ならば、とことんそれに向かっていけばいいということだ。逃げも隠れもせずにな」
 昌和は、高橋是清という人の偉大さは言葉には言い表せないと思った。
「ありがとうございます」


     
 *********


 新橋駅に着くと、真野家の家令や執事が待っており、昌和はすぐその車に乗り込む。   
 一年間、高橋の部下として仕事に没頭していたが、帰国すればまた重い家名を突きつけられる。人の上に位置することの息苦しさと孤独の現実、そして人に仕える気楽さと責務を果たすことへのやりがいを学んだ一年であった。  
 母屋の玄関につくと、波留子と絹代が待っており、二歳になった秀一がちょこんと座っていた。
「おかえりなさい。若殿さん」
 波留子がにっこりしてそう言うと、皆が口を揃えておかえりなさいませと言う。
「ただいま戻りました。母上。お出迎えありがとうございます」
「大殿さんも先ほど議会からお戻り遊ばしてお部屋でお待ちです」
「はい」
 絹代が肩を震わせながら、顔を伏せていた。
「姫。ただいま」
 絹代は口を押さえ、言葉を出そうにも出てこない様子だった。
「秀一、ただいま」
 秀一が照れたような顔をして身体をもじもじさせる。
 波留子がふっと笑う。
「絹姫さんは昨日から何もお口に入れていないようですよ。皆が心配しているんです」
「お義母様……」
「早う、大殿さんへご挨拶してらっしゃい。このままでは絹姫さんが倒れてしまいます」
 雅な口調でころころと笑いながら波留子は言った。
「……は……はい…」
     
 秀善は刀の手入れをしており、古い油を拭き取り終えて、打粉で刀身をぽんぽんと打ち、その作業を繰り返していた。刀は毎月定期的に手入れをしなければ研ぎ上がった状態を維持することはできない。
 代々の当主の刀を当主自らが維持することは、大事な役割のひとつだった。
「大殿。若殿がお戻りになりました」
「ああ。入るがよい」
 襖を開けられると刀に打った白い粉を拭い、刀剣油を塗っており、その作業に集中していた。
「父上。ただいま戻りました。留守中様々なことに対処していただき、忝なく存じます。大変お世話になりました」
「うむ。ご苦労だった」
 刀身を鞘に納めていつも置いてある場所に戻し、秀善は昌和を凝視する。
「高橋君は、貴族院議員に勅撰、従四位に叙せられることが決まった。これほど見事な働きをするとはな。誰もが感嘆していた」
「は。確かにそのお働きぶり、近くでとくと拝見いたしました。実に見事な手腕で驚くばかりでした。皆、高橋大使の人柄に惚れ込んでその熱意を形にしたいと賛同者が増えていくのです」
「そうか。だが、まだ些か足りぬようだ。再び行ってもらうことになるだろうと山県侯爵ら元老の方々が申していた」
「左様でしたか。では私も再び参らなければなりませんね」
「ああ。その役目しっかり果たせ」
「はい。心得ております」
 秀善がじろりと睨むように見る。
「なかなかよい面構えになったではないか。高橋君ほどの逸材のそばにおればさすがに甘ったれているわけにはいかんか」
「金が工面できなければ国は滅びるという恐ろしい重圧を背負っておいでで、それでも常に凛としておられて、誠に尊敬してやまぬものがあります。それに比べて自分は何と矮小なことと卑下する気持ちが湧いて出てきました。謦咳に接するとはまさにこのことかと」
「仙台藩の足軽の家の倅だ」
「はい…?」
「維新前ならば、お前が他藩の足軽の倅の下で働くなど有り得ぬことだったな。伊達殿も使いこなせたかどうかわからん」
「……それはそうかもしれませんが」
「つまり、今の体制になった功罪のひとつということだ」
「はい……」
 秀善がふっと笑う。
「長州に肩入れした我が家が徳川の姫の輿入れを果たし、身分に関係なく優秀な者の才を存分に生かすことができるという、誠に融通の利く、そして明るい世の中になった。ならば、この戦は勝てるのではないかとわしは思っている」
「はい。是非とも勝利してほしいです。英国では、海戦では日本が勝つだろうと予想していました。ただ、陸戦では難しいだろうと」
「そうか。海軍の評価が高いか。ならば海戦で勝利すれば諸国は我が国を更に支援するということだな」
「はい。投資家たちは待っているような状況です」
 日本公債の人気は上昇するばかりだった。
「ロシアに勝ち、我が国は世界の檜舞台に立つ。そういうことだな」
「はい」
「ならば、我々がここにこうしている意味もあるというものだ」
「………………………」
 幕藩体制の終焉の功績がなければ、全国の藩主たちが断腸の思いで手放したものが浮かばれない。そうした犠牲の先の果てにあるもの、是非ともそれが見たいのだった。
 ―――成功だったとして。
「これで国が滅びて国土をロシアに取られたら、我々は自害して果てても足りん」
 その秀善の言葉に昌和は表情を変える。
「国は滅びません! 英国でも、高橋大使は日本国民ひとりひとりが戦士であり、天皇陛下の元、一丸となって国民全員で国を守るのだと訴えてきたのです。それが大和魂だと、国民が等しく持つ心根であり、それすなわち武士道精神なのだと!」
 秀善が唇を噛む。
「……侍の時代を終わらせたというのに、武士道精神は国民に根付いていくというのか?」
「侍が国を守ってきたからこそ、その魂は引き継がれていくのだと思います」
 昌和はきりっとした顔でそう言った。
 秀善はしばらく昌和をじっと見て、その後、ふっと力を抜いた。
「……左様か。ならばやはり勝つな」
「はい。高橋様のような方が海軍にも陸軍にも大勢いるのです。軍資金を用意できた以上、負けるはずがありません」
「……ふ。……なるほど。そうか、わかった」
 昌和が頭を下げる。
「とにかくご苦労だった。ゆっくり休むがいい」
「は。ありがとうございます。ではこれにて」
 そう言って腰を上げると、秀善が何か思いついたような顔をした。
「ああ。波留子から頼まれていたことがあった」
 昌和はどきりとして浮かせた腰を再び落ち着かせる。
「……はい」
「沖野の娘が生んだ子供は健やかに育っているとのことだ。しばらく沖野に預からせてはどうかと波留子が申してな。わしは三つになるまでなら許すと言った。それでいいか」
「……はい…。お任せいたします」
「これで男子が二人となった。真野家も安泰だ」
「はい。これで一安心です」
 昌和は努めて冷静にそう言った。
「次は姫だな。沖野の娘は大事にせい。可愛がってやれ。いいな」
 秀善は、妾のひとりやふたり満足に世話できぬなど…と暗に非難しているのだった。
 ―――この甲斐性なしが――――
「………はい。そのようにいたします……」
 ぐさりと心に刀を入れられたような痛みを持ちながら昌和は立ち上がった。

 襖が開き、廊下に出ると絹代が座って待っていた。
 青いドレスを着て、髪型も西洋婦人のように結い上げている。
 英国から戻った自分を出迎えるために考えたものなのだろうとその心が有難いと昌和は思った。右手を差し出す。
「とてもよくお似合いですよ、姫」
 絹代が顔を真っ赤にして、その差し出された右手にそっと手を置き、立ち上がる。
「さあ、行きましょう。プリンスはすでに家に行きましたか?」 
「……はい。昼寝の時間ですので」
 二人は互いの顔が照れくさくてみることができなかった。
「食事をしていないのですか?」
「いまは食べたくないだけです。どうぞ気になさらずに」
「そうですか、とにかく早く行きましょう」
 昌和が急ぎ足で廊下を歩いていくと絹代が小走りでその後を追う。
 靴を履き、庭に出ると昌和はしっかりと絹代の手を握り締めた。
 その強く握られた手から昌和の思いが伝わってくると絹代は心を熱くする。
 ――――会いたかった―――――
 そして、洋館までの距離が随分長い気がした。

 寝室に入ると昌和は絹代に息をさせぬつもりなのかというほど胸に抱き締めて、離さなかった。
「…姫……姫………」
 絹代は全く身動きできずただその厚い胸に顔を埋めるばかりだった。
「……どれほど会いたかったことか……!」
 わたくしも…と言いたいのに絹代はそれすらできず息を止めていた。
 会えないという状況は想いを育てていく。
 それまでどれほど仲違いしていようが、互いを思う心が研ぎすまされていくからだ。
 心が呼び合うのである。
 昌和は熱く激しく絹代を抱いていく。
 言葉よりも最もその熱き思いを伝えていくのは身体に訴えていくほうがいいと思った。
 そして、このように身体が昂揚するのは姫だけなのだと真摯に伝えていく。
 熱い吐息と燃え滾るような血潮の塊となった身体をぶつけながら。
 絹代はそれに艶かしく応えていくのだった。
「どうか信じてください。私に二心はないのだと。私の言葉を信じてください」
 縋るような表情で昌和は必死に訴える。
 絹代は名のように絹のような白く輝く肌の汗ばんだ裸体をゆっくりと動かしながら少々厳しい表情をした。
「殿。わたくしは殿の心を疑うようなことはいたしません」
 昌和の心臓の部分にそっと指を置く。
「わたくしの心は殿のためにあります。殿の心もわたくしの為にあるのでしょう?」
 甘えるような声を出した。
 昌和が思わず嬉しそうに微笑む。
「ええ。ええ。まさしくその通りです。私の心は絹姫のものです」
「ならば、他に何も考える必要はございませんわ」
 絹代が強い光を瞳に宿す。
「この絆に誰も入り込むことはできませんの」
 昌和の右手を両手で包み、自らの頬につける。
「心配なさることはございません。わたくしはよくわかっておりますのよ」
 瞳を揺らしながら麗しい微笑みを浮かべる。
「わたくしは、殿の妻ですから」
 昌和の瞳からひとすじの涙が流れる。
 迷いながら人は生きていく。
 矛盾と葛藤の中で悩みながら生きていく。
 苦悩して生き、その中にいつしか救いを求めていく。
 そして、己の心と真摯に向き合い生きていけば、かならず救われる。
 自らが求めていったものは必ず得られるのである。
 なぜならそれに向かって努力しているからだ。
 昌和の涙は、その救いを得て感動し、零れ落ちたものであった。


 *********


『日露講和談判の成立』
 このニュースは全世界を明るくするものだった。
 高橋は、最初の外債募集で二億円を成功させ、その後、さらに二億五千万円の発行を成功させた。この資金調達実現によりロシアは講和を決断したのだった。
 講和受諾を拒絶していたのは、ロシアは軍事資金があるが日本にその余力はないとし、まだ戦えると敗北を認めなかったためである。
 しかし、英国のみならずドイツもアメリカもその公債に乗り気であるということに世界の潮流を見て、ロシアはポーツマス条約の締結に至る決断をした。
 この戦争を機に、日本は一気に世界の燦然と光輝く場所に躍り出ていくのだった。
 高橋の偉業に対して、男爵位に叙せ、旭日大綬章を授けられ、華族の仲間入りを果たした。
 支那革命が起き、欧州大戦が勃発するが、その都度、経済界を引っ張っていく英傑として後世に名を残していくことになる。

 明治大帝が崩御し、大正と年号を改め、日本の経済は更に活況を増していったが、大地震が東京を襲い、壊滅的な被害を齎したが、その後復興を遂げており、しかしながら常に右肩上がりだった経済状況がしぼんだものになっていくという忍び寄る不安に人々が怯え始めていた頃、真野家では新しい命が芽生えていた。
 頼子が生んだ男子は、次男として真野家に迎え入れられ、誠二と命名された。
 その後、女子を産んだが三つの祝いの前に高熱を出し、そのまま命の灯火を消すこととなり、その後、子供の誕生というのはなかった。
 絹代ももう子供を産むという年齢ではなく、秀一と誠二の養育に力を注いでいけばいいと思っていたところ、思いがけずの懐妊に本人が一番驚いていた。
 その子の誕生を待たずに、秀善と波留子が相次ぐように亡くなり、真野家は世代交代を迫られ、昌和は家督相続をし、真野家十二代当主となり、公爵位を継いだ。

「殿。わたくし、この子は女の子だと思いますの」
 産み月まであと三ヶ月ほどの腹を触りながら絹代が嬉しそうに言う。
「そうか? 確かに姫がほしいところではあるが」
「きっと姫ですわ。そしてね、わたくし、名前も考えましたの」
「ほお?」
「しず姫です」
「ふうん、しず…か」
「ええ。漢字は殿がお決め下さいまし。この子はしず姫ですのよ」
「しず……ふうむ、ならば静御前の静では?」
「うふふふ。静御前のように源義経に一心に愛される女性になりますね。どうですか、気に入りましたか」
 腹部に語りかける。
「ふ。そうやってお腹の子と会話をしていくものなのですね」
「ええ。わたくし、ずっとお話ししていますのよ。よく話してくれますの。とても可愛いの」
「しず姫、早く出てきてくださいね」
 昌和もその腹部に手を載せ、元気に出てこいよと声をかける。
「しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな」
 静御前の歌を絹代が言うと、昌和がふわりと絹代を抱く。
「いにしへの しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな」
 昌和は、静御前が詠ったものの元の伊勢物語の歌を言う。
 すると絹代はほろりと涙を零す。
「なんです、姫。静御前の悲恋を考えましたか」
「いいえ。わたくし、静御前の気持ちがよくわかると思っただけです。さぞ義経公が恋しかったのだろうと」
 その昔、兄である源頼朝と敵対することとなった源義経は東北に逃げていたが、義経の妾の白拍子の静御前は義経の子供を孕んでおり、頼朝としては義経の子供をそのまま生かせばいつか自分の首を取りにくると恐れ、静御前の身柄を拘束し、出産を待った。
 そして、頼朝に舞を披露するということになり、その時に詠ったものだった。 
「おだまき」とは、糸を繰る道具であり、真ん中が空洞になっているものである。
 つまり、「繰り返す」という枕詞となっていて、幸せだった時を取り戻したいという思いを詠ったもので、本来、時の権力者となった頼朝を称える歌を詠うところ、そんな替え歌と詠ったことに激怒した。
 なぜならば、「しずのおだまき」という言葉は次の歌を連想させるものだからだ。
「いにしへの しずのおだまき いやしきも よきも さかえは ありしものなり」
 これは古今集の歌であるが、栄枯盛衰について詠んでいるものであり、称えるどころか「今は頼朝さんの時代ですが、いずれはそれも衰えるのですよ」という皮肉の歌であり、義経を追い詰める頼朝への恨みをぶつけているということになる。

 しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな

 私は、賤(しづ)の苧環(おだまき)のように卑しき身分の者ですが、それでも幸せなことはありました。そんな昔を取り戻したいのです。  
   
「殿、わたくしは、この静御前の歌は頼朝公への非難という意味もあるでしょうが、それよりも義経公への恋心を強く訴えたものだと思いますの」
「え? ああ、そうかもしれないね」
「しず、私の可愛いしず、そう私を呼んでくださったあなた、愛しいあなたにまたそんな風に呼んでいただける日がやってくるといいのに……いかがですか」
 昌和がくすりと笑う。
「ああ。そうだね。それで充分でしょう。いかにも姫らしい」
「まあ。子供っぽいとおっしゃるの?」
 絹代が膨れっ面をすると昌和がくすくすと笑う。
「ふふふ、いや、いいと思うよ」
「とにかく、この子はそんな風に一途に愛される女人であってほしいと思うのです」
「きっとそうなりますよ」
「殿もそう思いますでしょう?」
「ええ、そう思いますよ。何と言っても一途に私に愛される姫の娘だから」
「殿……」
 二人は熱く口づけを交わすのだった。


 **********


 秀一は成人し、親戚中に一人でその挨拶のため正月参りに行っていた。
 それを終えて自宅に帰ってきて、昌和に報告したのち、絹代のところに行く。絹代は高齢出産ということから、産後の肥立ちが悪く、一ヶ月経っても床払いできずにいた。
 絹代の部屋は和洋室となっており、日当りのよい洋室の中に和室を入れ込んであるという造りで、寝室としては普段は昌和との主寝室を使っているが、月経時などは独り寝となるため、自室で寝ていた。
 いまは養生ということで自分の部屋で寝ている。
 そのベッドの横の椅子に秀一は腰掛けた。
「ただいま戻りました。母上。問題なく終えることができました。各親戚の家では酒をすすめられましたので少々酒の匂いがしてしまうでしょうが」
 両手で口を覆い、息を吐いて匂いを嗅ぐ。
「秀一さん、お帰りなさい。大丈夫です」
「徳川様のお宅でも少々いただいてしまいました。伯父様がご在宅で」
「そうでしたか。兄上が。うふふふ」
 秀一が近くの揺りかごの中を見て、赤子がいないことに、にやりとする。
「おや。何処にいったのですか。僕の可愛い妹、しず姫は」
 絹代がぷうと頬を膨らませる。
「秀一さんの意地悪」
 生まれた子は、姫ではなく、男の子だった。
 それまで絹代が女の子だと言い張っており、邸中の者も姫が生まれると思い込んでいた。
 確かに懐妊中のお腹が丸く、絹代の顔も優しくなったので、女の子が生まれると思われていた。男児を妊娠すると母親の顔はきつくなり、お腹も尖ったようになるものである。
 誰もが姫誕生を疑っておらず、いざ出産となった時、産婆が元気な男の子だと言った瞬間、みんなで「え?」と言ってしまったくらいだった。
 そして、絹代は信じられないという顔をした。
「え? ええっ? ええええ?」
 駆けつけた昌和も驚いていた。
「え? 姫じゃない?」
「はい。若様でございます」
「えええええ?」
 なかなか信じることができなかった。
 絹代はすっかり姫のつもりでいたので、どうしてもそれが受け入れられず、首をかしげるばかりだった。
「……きっと、お腹の中で、何か間違ってしまったのだわ……気の毒に……」
 秀一はその言葉の意味がまったくわからなかった。
「しずちゃん……」
 そして、もはや女の名前をつけることはできなかった。
 幼名は史郎と名付け、絹代はしーちゃんと呼ぶのだった。
 
 一歳の誕生日を迎えれば新たに名前を付けられるのが真野家のしきたりである。
 秀一と同様、祖父から一字取る形で、善三と名付けられた。
 昌和が丁寧に墨をすった硯に筆先を沈ませ、たっぷりと墨を含ませてから半紙にそう書いた。
 その書かれた名前を見て、絹代は落胆するような溜息を吐く。
 稚児の善三は瞳が大きく、色白で、そのまま赤い着物を着せていれば充分女の子のように見え、将来どのように美しい姫に成長するのだろうと想像を掻き立てられるような可愛らしさであった。
「善三……」
 とても姫とは呼べぬ名前である。
 あまりに肩を落としている絹代に昌和が呆れたような顔をした。
「姫。それほどがっかりしては善三が気の毒でしょう。良い名前でしょう? 父のように立派な男子になってほしいものです」
 絹代としては、立派な男子ではなく、殿方に愛される姫を生んだつもりだった。
「それならば秀一さんと誠二さんがお役目を果たしますわ」
 娘が生まれてくるものと信じて疑わなかった絹代は態度を頑なにしていく。
 そんな頑固さを見せる絹代に昌和も言葉のかけようもない。
「善三はいつかどこかに養子に出さなければなりませんから、それまでのお預かりものです。大事に育てましょう。それともそれほど絹姫が嫌がるのでしたらすぐ里子に出します」
 昌和は半分冗談のつもりで言ったのだが、絹代には脅迫だった。
「なにを! なにをおっしゃるの!」
 絹代はすやすやと寝ていた善三を抱きあげる。
 そしてぼろぼろと泣き出すのだった。
 びっくりした善三が大声で泣き出す。
 絹代と善三がおいおいと泣いていて、一歳の祝に集まってきた人々を待たせて昌和は絹代を抱き締める。
「冗談ですよ。姫、そんなことはしません。だから大事に育てましょう」
「この子を取り上げないでください」
「はい、すみません。しませんよ。安心してください」
 絹代はわんわんと泣き続ける。
 その後、善三を溺愛していくのだった。

第四話 廣島



 車窓から見える景色の中で目を引くものは、年老いた農夫たちが少なくなった人手を埋めるように満足に食事も得ていないことを想像できるほどに痩せた姿で腰を曲げながら農作業をしている様子で、それはそのまま物悲しい寒村の情景であった。
 途中の下車駅では出征の見送りがあり、その駅周辺は焼け野原という中、送る方も送られる方も戦いを強いられていることを物語っていた。
 各地方の空襲被害がどれほど酷いものなのか報道されないという情勢では、国民の殆どがその状況を知らず、汽車の乗客は目を覆いたいほどの隠しようもない事実の風景を目の当たりにし、唖然とするほかなかった。
 どの町も動けぬほどの傷を受け倒れ込んでいる兵士そのものであった。
 その破壊された町並みや俯く人々を包み込むように季節は春を迎えており、開花した花に溢れていた。
 大きな藤の木がある駅舎では、その藤を鑑賞しようと人々が藤を囲み、花弁に鼻を寄せてその匂いに酔いしれるような表情を見せていて、棚引く蒸気に中に浮かび上がる光景のひとつであった。
 自然の美しさが損なわれずに変わらぬ姿を見せてくれることに人々は救いを求めているようだった。

 ―――国破れて山河あり―――

 絹代は群がる人々を見ながらそんなことを心に思って慌てて首を横に振る。

 ……負けると決まったわけではないわ。
 そうよ…、わたくしの大事な息子が二人も戦地に行っているのですもの。負けるはずがないわ。

 絹代は、汽車に乗り、旅を進めていくうちに自分が変わっていくのを感じていた。
 広島行きはひとえに昌和会いたさに突き動かされたものであったが、延々と見せられ続ける痛ましい光景の数々に心に宿るものがあったのだった。

 ―――わたくしにできることは何かしら…。

 広島に行ったところで自分にできることはなく、生活の場所を変えるだけのことで、東京と何ら変わることのない日々が待っているとわかっていながらも、真野家を支え続けてきた人々の中で役割があるとしたら進んでそれを行いたいと思うようになっていた。
「殿が国許に行くとおっしゃったお気持ちがわかるわ……」
「奥様?」
 真野藩の筆頭家老子孫の平井は家令として真野家を取り仕切っていたが、息子にそれを譲り、昌和夫妻の元に行くこととなり、絹代に同行していた。
「大陸との戦争の時と違って、皆はとても追い詰められているわ。それを支えたいと思うの」
「ご立派でございます」
「いいえ。わたくしに立派というのは言い当たりません」
「ご立派ですよ。何より三人の侍を見事に育て上げましたからそれが証拠です」
「あの子たちは武将ですか。ふふふ。それこそ皆が育てたのでしょう。わたくしは武芸などできませんもの」
「そんなことではありません。大殿のご兄弟仲があまりよくないのはご存じでしょう。けれども、秀一様、誠二様、善三様、皆仲がよろしくて。それは奥様の教育の賜物です」
「ならばそれは子供たちが偉いのです。わたくしが子供たちに育てられたのです」
「どのお方も誠に素晴らしい」
「ええ。それぞれにいい子です。皆、性格がまったく違って、行動もそれぞれ違って」
「生まれたお立場の違いもおありだったでしょう」
 絹代が翳りのある表情を見せる。
「…誠二さんにはいろいろと背負わせてしまいました」
「誠二様おひとりではなく皆様それぞれが背負われていたのではないでしょうか」
「そうですね。でも特にあの子には…幸せになってほしいのです」
「すでにお幸せでしょう。奥様のご血縁の姫とのご縁談を嬉しそうに受け入れたのは少しでも奥様に近づきたいとのお心からでしょうし」
「本当に…幸せなのでしょうか。あの姫と」
 その妻は生まれながらに盲目である。
「お幸せですよ。誠二様のお顔を見ていればわかります」
「…ならばよろしいのですけど。…わたくしは…誠二さんをちゃんと育てることができたのでしょうか」
「ちゃんとどころではありません。あれほど愛情かけて育てられて、誠二さんは幸せ者ですよ」
 絹代がほろりと涙をこぼす。
「でも善ちゃんが生まれてからはあの子のことしか考えられなくなって……」
「ふふふ。それは誠二様だけではなく皆様が寂しかったでしょう。大殿も」
「とても可愛くて…」
「でもどなたもやきもちをやいていませんでした。善三様を慈しまれる奥様を嬉しそうにみておられて」
「みんな呆れていたようでした」
「それがよかったのです。善三様が生まれたことで皆様は救われたのです」
「救われた?」
「ええ。自分の置かれている立場をしっかりと認識できたようでした。負い目と義務と愛情が入り交じって秀一様も誠二様も苦しまれたところがおありでしたから」
「左様ですか。あなたは実に皆のことをよく見ていますね。昔からとても頼りにしていました。皆もそうだったのですね」
 絹代はそう言いながら窓の外に視線を移す。
「恐れ入ります」
「平井。皆、生まれながらに役目を背負ってくるものなのですね」
 すると平井は静かに御意と言った。

 誠二が真野家に来たのは三歳の誕生日間近だった。
 頼子がどれほど厳しく育てたか言われなくともわかるほどしっかりとした子だった。
 ――若様は三歳になる前に東京の父上様と母上様のところに行くのです。しっかりと名前を言えるようにならなくてはなりません。はい。もう一度言ってごらんなさい。
 乳母が頼子は常にそう言って聞かせていたと伝えていた。あくまでも母は東京にいると。
 不安に震えながら下男に促されて挨拶をする様子は痛々しく、その夜からのおねしょがなかなか治らなかった。
 実の母親であるのに母と名乗れず、生んだ子供を若様と呼ぶその心境を思うと、手を合わせるくらいでは足りないと絹代は思っていた。
 だからこそ、何としても誇れる母親になろうとした。
 毎日抱きしめ、ここはあなたの家で居場所なのだと繰り返し言ってきた。
 秀一に兄であることを自覚させ、兄弟仲良く過ごせるよう同室にし、食事は常に一緒にし、武芸や勉学は互いに切磋琢磨し、どこに出かけるにも何を買うにも二人分を徹底して兄に対する劣等感を持たぬよう配慮してきた。
 遅かれ早かれいずれ自分の生まれた経緯を知るであろうその時に少しでも傷つくことのないよう祈りながら育ててきた。

 そして誠二がそれを知ったのは、学校での学友たちとの話がきっかけだった。
 華族の子弟が通う学校では自分の母親が誰かということが話題にあがり、正妻の子の方が少ないという特殊な環境から、自分の生母について自慢しあったということだった。
 秀一の出産の時の昌和の様子を笑い話として伝えられており、秀一を産んだのは絹代であることは間違いないこととして知っていた。
 だが、学友たちの話を聞いて、では自分は…と俄に考えるようになり、たまらず聞いてしまったのだった。
 幼い頃の記憶はなく、それまで実の母であると疑うことすらしておらず、しかし、出産の時の話を一度も聞いたことがなかったことに不安を覚えた。
「…母上。私を産んだ人は誰ですか?」
 誠二としては、何を言っているの? わたくしに決まっているでしょう、という答えを期待していた。だが、絹代としては来るべき時が来てしまったと覚悟したのだった。
「……どうしてそれを聞くのです?」
 絹代は悲しそうな表情をしてしまい、誠二としてはそれは最も見たくない顔だったのだった。 
 笑い飛ばしてもらわなければならないところだったのである。

 その数日後、誠二は海軍兵学校への進学を希望していると言ってきた。
 広島に近いその兵学校に行きたいと言った。
 絹代は大反対した。
「どうして陸軍ではなく海軍なのですか!」
「海がいいのです。私は海が好きなのです」
「陸軍士官学校でなければわたくしは許しません! 東京から離れることは許しません!」
「母上。陸軍でも寮生活になるのですよ」
「でも、江田島はだめです!」
「母上、それこそ、どうして東京が良くて江田島がだめなのです」
「遠いからです!」
 誠二がふうと息を吐く。
「父上。父上のご意見はいかがですか」
 誠二はじっと昌和を見つめた。
「海軍に行きたい理由をもっと聞かせてくれ」
「島国の我が国を守るにはまずは海を守らなければならないと思うからです」
「………」
 昌和は沈黙するほかなかった。これ以上誠二に語らせても本音を言わずに言葉を飾っていくだろうと思ったからだ。
「江田島には行かせません!」
 絹代が涙を浮かべながら声を荒げた。
 生母が広島に住んでいると誰かに聞いたのだろうと思った。
「母上。申し訳ございません」
 その謝罪の言葉は裏切りの言葉に聞こえた。
 絹代がいきり立つ。
「わたくしを捨てるおつもりですか!」
「母上。何と言うことを。それは軍人を目指す者に言うべき言葉とは違うと存じます」
 絹代は、誠二を我が子と思って育ててきた。
 誠二は昌和の容姿に似て、性格は思慮深く根気よく物事に取り組み、そんな生まれ持ったものが好きであり、何より自分を一心に慕ってくれるところが可愛くて心から愛するのだった。
 なのに、生母のそばに行きたいと望むのかと思うと消してきた嫉妬心が沸き起こる。

 ――あの方には敵わない。

 自分にはない強さと潔さを持つあのお方に。
「ならば軍人にならずに、役人になりなさい!」
 誠二としては、愛してやまぬ母であった。
 誰の母親よりも美しく気品があり、しかし気取るところがなく、愛らしく、父の昌和がずっと夢中になり続けるだけの魅力があり、自分が父にとって代わりたいと思うほどだった。
 誰よりも母の産んだ子供でありたかったのだ。
 そして、大好きな兄秀一に羨望の心を持ち続けて生活することに耐えきれず、だからこそ、家を出たいと切望するのだった。
「母上。私の決意を覆すことはできません」
「許しません! 断じて許しません!」
 絹代が激昂し憤怒の表情を崩さず、反対の一点張りで双方まったく譲らず、間に入った昌和も困り果てるが、昌和としては反対する理由もないのだった。
 誠二は強行突破するかのように絹代と仲違いしたまま家を出て行った。

 だが、そのまま疎遠になるかと思われたが、絹代が善三を出産したことで誠二はその祝いに呼ばれ、赤坂の家に戻る口実を得た。
 そして、善三の次兄として自分の立場を確保することができ、善三の姿見たさに休暇を赤坂に行くことに当て、可愛がったのだった。
 そうこうしているうちにいつしか絹代との間も改善されていった。

「まるで善三様は菩薩様のようですね」
「善ちゃんが菩薩様……」
「奥様が必死にされていたことに皆様は心苦しく思っていたところもあるのでしょう」
 絹代はその言葉が心に突き刺さる。
「皆にとってわたくしが重荷だったと?」
「気を悪くされたら申し訳ございません。皆様が奥様をお思いになるがゆえのことにて。それぞれ必死にしがみついているようにお見受けしておりました」
「……そう…」
 平井が微笑みを浮かべる。
「……そして善ちゃんがそれを救ってくれた…」
「善三様ご本人はそんなことを思ってもいらっしゃらないでしょうが」
「わたくしにとってはいつまでも可愛いだけでした」
「それも皆様同じでしょう」
「きっと善ちゃんそのものが癒しなのですね」
「そのようですね。とても不思議なお方です。生まれながらそういう徳をお持ちでいらっしゃる。もしかしたら前世の行いから来ているのかもしれませんね」
「前世…ですか」
 絹代が考え込むような顔をすると、平井が微笑む。
「とにかく、どうか無事にお帰りになってほしいです」
「ええ。二人とも帰ってきてほしいわ。また皆で賑やかに過ごしたいものです」
「人数がかなり増えましたね。秀一様のご家族、誠二様のご家族」
「ええ。大家族になりました。おばば様になれる日を若い頃は想像できませんでしたが、孫たちの顔を見るとこの上のない喜びと幸せを感じます」
 絹代は嬉しそうにそう言った。


 ********


 広島駅は多くの人々が利用する基幹駅で大きな駅である。
 未だ広島は空襲被害がない為、町は活気があり、駅で働く人々は殆どが女性だったが、勢いのある広島弁でかけあっており、汽車から降りた旅人たちにとっては悲惨な風景を見てきただけに頼もしく思えるものだった。
 帰郷した者、他の町から移動してきた者、仕事できた者など降りた人々の理由は様々だったが、大きな荷物を抱え、ほっとしながら慌ただしく駅舎を離れようとしていた。
 そんな中、絹代の乗っていた車両の部分に赤い絨毯が敷かれ、旅人たちは足を止める。
 そしてその絨毯は外まで延びており、その赤い道をゆっくりと歩く紳士の姿に皆は注目した。
 皆と同じ国民服を着ているにも関わらず、姿形の良さなのか、姿勢の良さなのか、それとも他の理由なのか、違った衣服を纏っているように見え、威厳のある威風堂々した様子に思わず頭を下げたくなる、旅人たちはそう思った。

「…真野のお殿様だ…」

 ある一人がそう呟いたら、ざわざわとそれが広がっていき、自然と絨毯に近づいていく。
 ご立派じゃの……、ああ、さすがじゃ…そんな言葉を口々に言い、いつの間にか皆は整列していた。
 白髪が混じる短く刈った髪、整った顔立ち、その顔にできた皺は渋く色気を漂わせるものだった。女性たちはため息を吐きながら見つめている。
 老若男女問わずこの人物に惚れ込んでいるということがわかり、初めてこの町に来た旅人は、それだけでもいい町に来たと思えるものだった。
 その眉目秀麗なお殿様は、車両に近づき、背筋を伸ばしていた。
 そして、降りてきた人に右手を差し出していた。
 もんぺ姿であるにも関わらず、優雅な物腰のせいか、驚くほど白く美しい顔のせいなのか、まるで豪華な打ち掛けでも羽織っているかのように思わせられるその姿だった。
 皆が一斉に、おお…と驚嘆の声をあげる。
 差し出された右手にそっと左手を載せてゆっくりと踏み出すと、二人は並んで群衆と化していた人々を見回すように見ていた。
「皆さん! 妻が無事到着しました。お世話になりました」
 見て下さいと言わんばかりに、手をつなぎ、似合いの夫婦のその姿に、駅長は万歳と叫んだ。
 すると、皆がそれに応えるように万歳万歳と言い、プラットホームの人々、駅舎に集まっていた人々、何百人いるかわからないという人々に大歓迎を受けたのだった。

 大正以前であったならば、このように元藩主家系を大歓迎するなど国家に対する反逆と見なされたが、今はそんなことは風化してしまったかのようで、それよりも戦地から無言の帰国をした夫や息子を持った遺族の悲しみを癒すことができるのなら…と県知事が迎え入れられるよう努力し、貴族院議員引退後であることを条件にそれが許されたのだった。
 殿のお国入りは、一気に広島の人々を明るくし、生きる希望を与えるものとなった。
 皆、代々敬ってきた殿様一家なのである。
 そして、我らが真野のお殿様なのだった。
 仲良く手を繋いで赤い道を歩く二人を涙ぐみながら女たちは見て、老婆は手を合わせていた。
 そんな中、ひとりの女が切羽詰まった様子で声をかける。
「あの! …息子が立派にお国の為に命を捧げ、昨日帰宅しました!」
 万歳万歳とお祭り騒ぎだったのが、急にしんとした。
 絹代は思わず立ち止まる。
 すると、その女ははっとして、申し訳ございませんと頭を下げた。
「姫」
「殿。あの方に声をかけてもいいですか」
「あなたはどうせ私が言ってもきかないでしょう」
 女が頭を下げ続けているところに絹代が近づくと、警護していた者たちが絨毯から離れるように皆を蹴散らしていく。
「いいのです。わたくしに危害を加えるつもりなどありませんでしょう?」
 すると女ははっとして絹代を見た。
「わたくしの息子二人も戦地に行っていますからお気持ちはわかります」
「…奥方様」
「よく頑張りましたね。おつらかったですね」
 女が堰を切ったようにぼろぼろと泣き出すと、周りの女たちも連鎖するように泣き出した。
 戦死を悲しんではいけないと戒められていたことの苦しさから解放されたのだった。
 平井が促し、絹代をその場から連れ出すようにして昌和の元に戻すと、昌和は涙を我慢していて動けなくなっていた絹代の肩を軽く叩いた後、肩を抱きながら駅舎の先にあった馬車に向かった。

 *********


 威厳ある漆黒の壁の天守を持つ広島城は、慶長三年(一五九八年)に毛利氏が創城したもので広島の人々の誇りである。
 
「なあ、なあ、昨日お殿さんたち駅に来ちゃったん(おいでになった)て、ほんま?」
 頬を紅色にした少女が興奮した様子でそう言う。
「うん。内緒じゃったけん言えんかった」
 答えた少女もつやつやとした血色のよい顔であり、俄に緊張感をにじませていた。
 食料は完全配給制という中、好きなものを自由に食べるというわけには行かず、不便さは変わりなかったが、他の町と違い、空襲を受けていない広島の町は比較的裕福で、空腹が満たされないということはなく、住んでいる人々も戦地に行っている家族を思いつつも、希望を失わずにいることができた。
 髪の毛を三つ編みにしている二人は女学校に通っていたが、勉強は中断しており、軍需工場での作業をする日々の中にいた。それでも青春時代であり、どんな環境に身を置かれようとも多感な思春期を過ごし、親しい友と共に語り合えば嬉しいものである。
「ほいじゃあ、あんたもいよいよお屋敷勤めじゃね! 気張りんちゃい!」
「うん。じゃけん、ここの勤めも今日までで」
 そのお屋敷とは、以前藩主たちが居住した広島城内の本丸御殿とは比べものにもならない城の東北にある藩主別邸の回遊式庭園の縮景園の中の館を改築しただけの小さな建物のことである。 
 広い池の周囲には茶室や亭が配置され、それらを散策路で巡るようになっており、四季折々の花々や風景が楽しめる。毎日歩いても日によってまた時間にもよって違う景色となり飽きることはない。名園と呼ぶに相応しい美しい庭であった。
「寂しくなるけえ、仕方ない。それにしても羨ましいわあ」
「何をいうとる」
「みんなそういいよるんで。殿様たちのお世話ができるんは、ご先祖様のおかげじゃろ?」
「まあ……ほうかのう…」
「羨ましいわ。うちも士族の家に生まれたかったわ」
「ふうん。うちはあんたんちみたいな菓子を作る家に生まれたかったけど」
「ほうなん?」
「ほんま、幼い時から二言目にはご先祖ご先祖、お仕えするんも誇りじゃ、ってくどくどうるさいけん、やる気もなんものうす(無くす)わ」
「ははは。ほうか。まあ、とにかく後で話聞かして」
「うん」

  
 翌日の午後、縮景園の彩りよく咲く初夏の花を愛でながら歩いている公爵夫妻のところに連れて行かれた。
「大殿。本日よりお世話にあがらせていただく者を連れて参りました」
 二人は紫色のこぼれ落ちそうな花弁が芳香を放つ藤棚の中にいて、そう言われた方を見る。
 抱き合いながら顔を向けたので、平井がこほんと咳払いをした。
「ここで赤坂の屋敷のようにしていますと皆は驚きます」
 神妙な面持ちで平井が言うとにやりと笑った。
「そうか。ならば慣れてもらわなければ、ね、姫」
 くすくす笑いながら背中に回した腕をほどきもせず頬に唇を寄せる。
「殿。真っ赤な顔をして、ほら、お気の毒ですわ」
 二人はその首から何から真っ赤にしている少女をじっと見る。
 平井は舌打ちが聞こえそうな様子を隠しもせず、自己紹介を促した。
「ひ、ひ、平井静子と言います! ご、ご尊顔を拝し恐悦に存じあげます!」
 普段より高いトーンの声を出す静子に平井が溜息を吐く。
「弟の孫娘です。私がこれから教育していきます。行き届かないところが多々あるかと存じますがどうぞよろしくお引き回しのほどを」
 二人は、そんな平井の言葉など耳に入らないかのように緊張して顔をひきつらせる静子を見ながら動きを止めていた。
「……しず?」
 高くて良い声が響いた。
 静子がはっと顔をあがる。
 それは愛称として呼ばれているものだった。
「はい。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「そう。ふふふ。よろしくね」
 嬉しそうな表情だった。
「では、失礼いたします」
 平井が静子を引きずるようにして下がっていくと、二人は藤の花の中、再び抱き合うのだった。 
 平井が井戸の場所や厨、家事の一切を行う為の説明をしていくが、静子がぽーっとしているばかりだった。
 まるで藤の花の精を見たような気がしていた。
「静子! 遊びではありません!」
 隠居の身分、このご時世では贅沢に使用人を多く置くことがはばかれ、どこの女房も今は一家の大黒柱であり、元家臣の家の中からと探した中、静子に白羽の矢を放たれた。平井と交代で殿付き下男は赤坂に戻され、料理人と静子の三人で夫妻の世話をすると決められた。
「は! はい、すみません」
「平井の名を汚すような仕え方をしたらただではすみません。よろしいですね」
「以後気をつけます」
「それから、標準語をしっかり身につけるようしつけられていたはずですが、訛りがありますね」
「ほ……いえ、…そんな……」
「友達は選ぶよう言っていたはず。大方、士族以外の者とつきあっていたのでしょう」
「……………」
 図星を指されて悄然とすると平井は溜息を吐いた。
「すぐ直しなさい。広島言葉は絶対使わぬよう」
「はい」
「それから奥様が優しいお方だからと言って甘えてはなりません」
「はい」
「お二人は一日中あのように仲睦まじくお過ごしになるのですぐに慣れるはず。いちいち大袈裟な態度を取らぬよう。大殿は奥様以外には興味がなくお前をお手つきにすることはないから変に気を回さぬよう」
 なになに…ぬようの言い方がやたらと耳に残ると静子は思った。
「はい」
 そして二人の姿を思い出すだけで顔が赤くなる。
「それから、母方実家の沖野家のことを聞かれても決してお前から答えてはいけない」
 それは母親から耳が痛くなるほど言われていたことである。
「はい。承知しております」
「では、夕餉の支度の手伝いに取りかかりなさい。明日は晩餐会になるから今からよく料理長に仕込んでもらいなさい」
 はい、と短く返事をしながら、静子は厨に向かった。

 *********

 静子は、夕餉の支度を手伝い、配膳、風呂を沸かし、食事の後片付けを終わらせて帰宅した。
 初日の緊張のせいか、疲れているはずなのに全く疲れを感じなかった。
「おかえり、静子」
 父親は戦死し、兄、弟も戦地にいて、母親とふたりきりの暮らしである。
「ただいま戻りました。おかあさま」
「勤めはどうでした」
「はい。大伯父様にいろいろ教えていただき何とか一日を過ごすことができました」
「ならばよろしい」
 素っ気ないその言葉に少々がっかりしながらも静子は頭を下げた後、仏間に行く。
 本家当主が東京常駐の平井家の分家の娘として厳しく躾られてきた。
 仏壇に向かって一礼して蝋燭に火を灯し、線香を一本取り出す。ついた炎を消して煙があがるのを待ち、立てた後、鈴を鳴らした。
「おとうさま。ただいま戻りました。殿様と奥様に初めてお目にかかりました。恥ずかしながら緊張してしまってうまく挨拶ができませんでした」
 仏壇の海軍将校姿の父は凛々しい顔を向けている。
「とても驚きました。殿様がたの仲の睦まじさと言ったら、おとうさまとおかあさまとはまるで違って、まるで芝居の役者のようでした」
 きょろきょろと母がいないのを確認する。
「人目も気にせずに抱擁されていたんですよ。私が来ても離れないのです。しかも接吻まで。びっくりしてしまいました」
 ふふふと口を押さえる。
「でも、とても美しいお二人だと思いました」 
 手を合わせて、ではまた、と言って、蝋燭の火を消した。
  
 教員の母は家では婦人会の活動に多忙を極め、静子が家事全般をしていたが、それができなくなった。
 仏間から離れて居間に来て、茶を入れる。
「どうぞ。おかあさま。まだ終わらないのですか?」
 ありがとうと言って一口飲んだあと湯飲みをちゃぶ台に置き、作業を続ける。
 繕い物が山のように積んであった。
 戦災孤児の為の活動の一環で、全国各地の空襲で孤児になった子供たちの衣服を作るために大人の着物の古着を子供用に直しているのである。
「手伝いましょうか」
「いや、いい。お前も勤めを終えて帰ってきたのだから。疲れたでしょう。風呂に入って寝なさい」
 どんなに夜なべしても次の朝は日の出前から起き、朝餉と弁当を作り、家中と玄関の掃除までしてから学校に向かう母を毎日見てきて、心から尊敬し、自分も母のように生きていきたいと思っていた。
 そしてそんな母を通して浮かび上がるのは、
 ――母の従姉の頼子様。
 素晴らしい女性だと聞かされていて、その血縁であることを誇りに思いなさいと言われて育った。
 風呂といってもたっぷりとお湯を張ったものに入れるわけではなく、体を清める程度である。
 そんな簡単な入浴を済ませて、居間に戻る。
「では、お先に失礼いたします」
「おやすみ」

 布団に入り、衝撃的な一日を振り返りながら、同時に聞かされ続けてきた頼子お方様のことを考える。
 あまりに仲の良い二人を見てしまっただけに何か心に引っかかっていて、しかし、すぐにそれを打ち消す。そこに何かを思うこと自体、大変恐れ多いことと自分を戒めた。
 大伯父が最初に釘を刺すように言ったのは、それに触れるのは禁忌であるとわからせるためのことだったと理解した。
 大きな溜息を吐く。
 とにかく一日一日、失敗しないように頑張ろうと思った。
「明日もよろしくお願いします」


 次の日は予定されていた晩餐会の支度に朝から追われることになった。
 部屋の飾りたて、道具揃え、酒の用意、父存命の時の親戚一同の催し以上に大変だと静子は思った。
 また、普段の配給で見ることのできない食材が並んでおり、あるところにはあるものだなと苦笑していた。
 県内の政治家、有力者たち、政財界、軍人、地方は地方なりの社会があり、東京での決定には従うが、地方自治という点では譲れないものがあり、お殿様が戻ってきて、ますますその意識が高まっていることに俄に興奮を覚えた。

 夕方から始まった宴席はすぐ賑やかなものとなった。
「ほいじゃけん」
 士族出身ではない者が酒を飲むとつい広島弁が出てしまう。
 昌和自身、広島での行事の度にそれを使ってみたくなり、ほうか? などと言って驚かせて見せた。
 標準語というのは、元々は武士階級の言葉である。
 べらんめいなどの江戸弁は、江戸庶民の言葉であり、標準語とは別のものである。
 幕府と他藩との関係の中で、どこの地方の言葉とも異なる武家社会の言葉が必要だった背景から、江戸の言葉は使わず、第三の言語として人工的に作り上げられたものだった。
 いわゆる侍言葉であったその言語は維新後も消えず、明治以降の官僚社会の中で継承され、山の手言葉として残り、後に標準語として採用された。

 静子は訛りがあると言われ、気落ちしていたが、次から次へと慌ただしく落ち込んでいる暇などなかった。
「静子、これを奥様にお届けしなさい」
「静子、あのお客様にお酒をお持ちしなさい」
「静子、早くお膳を下げなさい」
「静子、私は大殿に呼ばれておそばにいきますから、次のお膳をすべて一人で運びなさい」
 目が回るほどの忙しさだった。
 しかし、忙しそうな様子を見せてはいけなく、動きは機敏であるが、余裕を持っているようにしなくてはいけない。
 そういう動きについては、平井の所作は見事で、静子はそれを見るだけで勉強になると思っていた。
 ……大伯父様にはきっと後ろにも目がついているに違いないわ。

 *********

 その夜の宴会は普段の鬱積を晴らすがごとく皆は大いに飲み、酒樽は底をつきそうになった。
 絹代が優しい微笑みを浮かべながら、そんな皆を眺め、いちいち頷いていて、その様子に静子は感動する。
 本当はとてもお疲れでしょうに……。
 すると、目が合ってしまい、静子ははっとして、じっと顔を見てはいけないと注意されていたのにそれをしてしまったと慌てて頭を下げる。
 絹代は、ふふふと笑い、殿、と言いながら昌和にゆっくりと顔を向けた。
 その仕草が実に艶めかしく、昌和にだけ向けるその表情はどれほど絹代が昌和を恋しく思っているか伝わってくるようで、誰もがドキリとする。
 当然、本人の昌和はそれをされると落ち着かなくなるのだった。
「なんですか。姫?」
 絹代にそんな表情で見つめられて思わずその場で抱きしめたくなるのを押さえながら酒気を帯びた顔をして甘え口調で言う。
 何でも言うことを聞きたくなってしまう、そんな絹代の色香は、何年経っても昌和を捉えて放さないものだった。
「わたくしはそろそろ……」
「あ…、ああ。そうだね…では……」
 しかし、皆はまだ殿様と話し足りない様子であった。広島の未来について熱く語り合っていて、どの産業に力を注ぐべきか昌和の意見が聞きたく、昌和が何か言えばそこから話が盛り上がっていき、白熱していくのだった。
「気になさらずに。わたくしはしずと話をしたいので」
 話の腰を折らぬようさりげなく絹代はその場を立ち、静子を呼び寄せた。
「お茶をお願いね」
「は! はい! 承知いたしました!」
 緊張した声を出した。
 初めて二人きりになるのである。

 二人の居間は、畳の上に絨毯を敷き、ソファやテーブルなどを設置して洋風に仕立ててある。
 これを自分たちがしたら、鬼畜米英の真似事をしている非国民と糾弾されることになる。
 その上、飲むお茶というのが、まさに英国製の茶であり、最初、それを入れることに罪の意識と恐ろしさを感じたものだった。
 世の中は敵性言語として外来語の使用まで禁じている。
 その敵国の飲み物など毒でも入っているのではと何度も毒味をしてしまった。
 貴重になった砂糖と牛乳を用意し、花柄のティカップを揃えて持って行くと絹代はにこにことして待っていた。
「今日は遅くまでお疲れさま」
 そんな労いの言葉を言われてしまい、恐縮して腰を九十度に曲げる。
「お優しいお言葉を賜り、誠にありがとうございます」
 お盆を握りしめ、さっさと部屋を出て行こうとした。
「しず」
 心地よく耳に届く声で呼ばれる。
 まるで親しい者でも呼ぶように。
「そう呼んでもいいでしょう?」
「も! もちろんでございます!」
 呼び方など猿でも犬でもいい。
「ふふふ。そんなに緊張しないで。わたくし、もっとあなたとお話ししたいのよ」
 お前、ではなくあなたと言われて、静子はさらに緊張してくる。
 名目上はご隠居様とはいえ、町の人々はすっかり殿様ご夫妻が帰ってきたと喜んでいるのだ。
 気分は明治以前の気分だった。先祖代々がそういう意識でひとつの国としてまとまっていたのであるから、そこに戻りたいとどこか望んでいるところはいまだにあったということである。
「恐れ入ります」
「しずは年はいくつなの?」
「今年十八になります」
「そう。善ちゃんより年下だったのね。まだ女学校に通っているのでしょう?」
 絹代は嬉しそうに遠くをみる。 
「はい。でも今は勉強より作業ばかりで。善三様は陸大に行かれていると思っていました」
「ええ。南方に行っていて戻ってこられないようで」
「左様でございますか。私の弟も南方です」
「あなたの弟?」
「双子の弟で、志願兵です」
「そう。みんな同じ気持ちですね。無事でいてほしいですね」
「はい」
「しずには許嫁はいるの?」
「え」
 静子が途端に顔を赤くする。
「平井の家ならば幼少の頃から決められた相手がいるのでしょう?」
「あの……ええと」
「いないのですか?」
 絹代がわくわくとして期待した顔を向ける。
「一応…いるような……」
 静子が顔を下に向けると絹代は喝采でもあげそうな様子になった。
「そう!」
 静子はまさかこんなことを訊かれるとは思わず、首まで真っ赤にしている。
 そういう姿を見るのが楽しくて仕方ないとばかりに絹代は晴れやかな表情をした。
「どんな御方?」
 静子は訊かれるだろうと思ったがやはり訊かれてしまい、顔が熱くて溜まらない。
「あの……実は士族の人ではなく、医師の家系で」
「まあ、そうなの。ならばお医者?」
「いえ。医大を受験するという時に召集令状が来て、今はまだ訓練中のようですが」
「そうですか。ならば大丈夫よ。戦争はもうすぐ終わるのですって。だから心配ないわ」
「え? 終わるのですか?」
「ええ。皆ががそう言っているの。今日の集まって来た人たちもそのつもりで話を進めていたのよ」
 静子は会話の中身など耳にする余裕はなかった。
「でも終わるというと」
「残念ですけど、負けるそうよ。でも負けると決まったわけではないわ。勝てると思っていたいものです」
「……そうですか」
 様々な場所で絶対勝つと教えられてきたのだった。何が真実なのかわからなくなる。
「ねえ、しず。何度かお会いになっているのでしょう?」
 せっかく話が違う方向に行ったと思ったが戻ってきてしまった。
「いいえ。何度か手紙のやりとりをしていますが、実は実際お会いしたことがなく」
「まあ、まるで文のやりとりだけなんて平安時代のようね。許嫁になったのはいつなの?」
 恥ずかしさのあまり解放されたいと思いつつも、静子は何だか話したくなってきた。
「子供の頃に親同士で決めたようで。父が怪我をした際、お医師のお父様に大変お世話になって。お礼として娘をやるといったそうです」
「まあ。おもしろいお話ね。ふふふ。しずはそのお方がお好きなの?」
「え」
 静子はそんなことを考えたことがなかった。
「好き……。あまりそういうことはよくわからなくて」
 絹代がしょんぼりとした顔をする。
「そうなの? お好きではないの? 夫になる人なのに?」
 すっかり主従を忘れて気の合った女同士のような会話になっている。
「とても誠実な方だということは手紙でわかっているのですが、好きかどうか」
 絹代はますますがっかりしながら首を横に振る。
「つまり、しずは許嫁がいるけれども恋を知らないというわけね」
 絹代は熱い視線を静子に向ける。
 まっすぐ見つめるのだった。
 その視線を受け、奥様はなんて美しい人なんだろうと見惚れてしまう。
「恋ですか……」
 確かに恋とはまだ言えないと思った。
「しずはこれからそのお方に恋をするわ。妻になったときに」
「そ…そうなのですか?」
「ええ。わたくしがそうでしたの」
 結局は惚気話である。
 静子は思わず微笑む。
 恐れ多くもなんて可愛らしいお方なのだろうと思った。大殿が抱え込むように過ごす気持ちが理解できる気がした。
「そして、深く愛し合うのよ」
「恋をして、深く愛し合う、ですか……」
 そう言われて、それに憧れる気持ちが沸いてくる。
「しずはそういう星の下に生まれてきているの」
 絹代はそう断言したのだった。


 **********


 屋敷勤めを始めて二週間くらいした頃、手紙が届いた。
 静子は立石守と書いてある送り主を確認すると、逸る気持ちを押さえながら封を切る。
 月に一度ほどの間隔で何年も文通をしており、互いの成長を確認し合っていて、いつか結婚する人ということはあまり意識せずとも自分を支えるものであった。
 主に読んだ本の感想を語り合い、その他、学校での試験や成績はどうだったか、競技会ではどうであったか、友人はどういう人か、家族はどうか、食べ物はどんなものが好物か、とにかく様々なことを文で交わしてきたのだった。
「親愛なる静子様。
 いかがですか。お屋敷でのお仕事は。
 静子さんのことですから、真面目に頑張っておられるのでしょう。殿様の話は部隊でも興味が尽きぬ話で、婚約者がお屋敷勤めをしていると同輩に言ったら、とても羨ましがられ、話を聞かせえと言っておりました。
 来週月曜より二週間ばかり休暇をいただくことになりました。その時に会って是非お話を聞かせていただけますと幸いです。自宅に着いたら夜にでも電話します。
 私はそろそろ静子さんに会いたいと思っています。
 お父様の葬儀にも参列できず、せめてお焼香させていただきたく存じます。
 ではお会いできることを楽しみにしております。
 立石守」
 持っていた手紙が指からはらりと落ちた。
 ……会う?
 手紙を拾い上げるが、指が震えていてうまく掴めない。
 心臓が高鳴っていく。
 今まで一ヶ月の出来事を長い手紙に書き、それは読んで答えてくれる人がいる喜びに浸っていたということであり、実際会うとなるとまったく別のことのように思え、途端に緊張してくる。
 そして少々強引な文面に焦りを感じ取っていた。おそらく戦地に赴くのが決まったのだと察する。
 ―――祝言。
 それを求められるだろうか。
 そういう女性が周りに多くいた。
 華を持たせて戦地に行かせるということに、わずかばかりの夫婦生活になるということを覚悟しながら嫁ぐ女性が多かったのだ。
 後顧の憂いを絶つという意味合いでもあった。

「おかあさま」
 大量に積み上げられていた縫い物は消えたが、教師としての仕事を持ち帰っていた。
「あの……」
「なんです」
 わき目もふらずに答える。
「立石さんが休暇をいただいたので来週お見えになると手紙に書いてあったのです。ですから、もしかしたら」
 すると、走らせていた万年筆を止める。
「そう」
 筆を進めることができなくなったようで、静かに筆置きに置く。
「ならばそれに応えるのが銃後たる者の務め」
 言っていることは厳しいことだったが、その声はわずかに震えていた。
「そうですね。それを望まれたらお受けしたいと思います」
 それが今日の大和撫子の取るべき道である。
 不幸になるということなどを考えてはいけないのだった。
「立石様から正式なお話があるまで私は聞かなかったことにする。もしかしてお望みではないかもしれない」
「わかりました」

 静子は翌日、平井の補佐として、昌和と絹代の厳島神社参詣に同行した。
 宮島港に向かい、大鳥居に近づいていくと絹代は感嘆の声を上げ、初めて宮島を訪れる人と同じ反応をすることに静子は心の中でくすりと笑う。
 そんな期待を裏切らず可愛らしい反応をすることにいちいち感動してしまう。
 公爵家出身の公爵夫人という常人ではないのに、まるで気取ったところがなく、権力をみせつけるようなことは一切せず、感性豊かで、素直に態度に表し、その純粋な人柄にますます惹かれていくのだった。
 朱塗りの社が見えてくると、飛び上がらんばかりに感動した様子になり、昌和が耐えきれなくなって、肩に手を回し、頬に唇をよせている。
「ねえ、姫。美しいでしょう」
「ええ! 誠に! 絵で見るのとは大違いですわ。これほど美しい社は他にはないのではないかしら。奈良や京の神社仏閣も及ばない気がいたしますわ」
「それはさすがに言い過ぎではありませんか。日光の権現様も怒りますよ」
「東照宮様はまた別です。ああ、なんと素晴らしいのでしょう。これこそまさに神の住まう場所ですわ。とても美しい……」
 絹代は溜息を吐く。
 海に浮かぶ神を祀る荘厳な社、群青と朱、潮の香りがいざなう崇高なる神秘の妙、その神社を護るように背後に緑豊かな山が聳え、それら色彩は空、海、山、人智、まさしく天地人で織りなす、これ以上はあるまいと思わせられるほどに完璧な融合美だった。
「これを拝見しただけで清盛公のお人柄が偲ばれます。ご立派な政治家という他に芸術的に秀でた方でいらっしゃったのだと」
「ふふふ。真野家内室としては立派な感想ですが、源氏の姫としてはいかがでしょう」
「まあ、まだ源氏と平家のことをおっしゃるの?」
「それは永遠のものらしいですよ。こういうものがあれば尚更に」
 港に着き、昌和は社を指さしながらそう言った。
「左様ですか。では、わたくしたちは源平の……、そうですわ! シェイクスピアのロミオとジュリエットのようではありませんこと?」
 港は宮島の全住民が出迎えに来ており、厳島神社の宮司が古式ゆかしい出で立ちで立っていた。雅楽隊が演奏している。
「それはいいですね。ジュリエット姫とお呼びしましょうか」
「うふふ。ならば殿をロミオ様とお呼びしても?」
 そんな聞いていて恥ずかしくなるような甘ったるい二人の会話を耳にしながら、静子は頼むから人前で接吻しないでくださいと祈るばかりだった。
 住民たちが並ぶ中を二人が歩いていくと、途端に顔が変わり、殿様としての表情になり、絹代は観音様のようになる。
「ほんまにお殿様でがんすのう」
「よくおいでんさったなぁ」
「ああ…、奥方様ぁお綺麗じゃ。同じもんぺ着とるたぁ思えんなぁ」
「長生きするもんじゃ。ありがたや」
 ひとりひとりに声をかけるように歩いていくと、住民たちは感極まったようになる。
 二人が町を歩けばいつもそのようになり、人気はますます高まっていくのだった。
 静子はそんな二人に仕えることのできる喜びに浸っていた。
 立石家に嫁いだらお勤めを辞めなければならない……そう思うと途端に寂しくなってくる。
 辞めたくない。
 ずっとおそばでお世話をしていきたい。
 離れたくない。
 お嫁に行きたくない……。
 それが本音だった。


 *********


 静子は電話が鳴るのをびくびくして待っていた。事情を平井の大伯父に伝えたところ、守の休暇中は勤めを休んでいいということになった。平井本家から代わりが行くからと言われた。
 静子はそれを聞いて実にがっかりした。
 自分の代わりなど他にいくらでもいるのだと。
 二人に可愛がってもらえて、どこか自分は特別なのではないかと思い上がっている部分があったことに気づき、自己嫌悪と羞恥の気持ちが沸いてきて、とにかく悲しくてたまらなかった。
 突然、黒電話がけたたましい音を立ててびくりとする。
 受話器を取る手が震える。
 一呼吸してから電話器に唇を近づける。
「はい。平井でございます」
 ――あ……わし……立石、立石守です。
「はい。あの……うち、静子です」
「…………………」
 長い、実に長い間があく。
 何から話せばいいのかわからなく、緊張が走り、互いに息を殺しているような状況となった。
 心臓が飛び出してしまいそうだと静子は思った。そしてそれは守も同じことだった。
 ――先程、いんだ(帰った)ばかりじゃけえ、まだ勤めから帰っとらん思いつつ電話してしもうて。もう帰っとったん?
 守は一気にまくしたてる。緊張のあまり標準語が出てこなかった。とにかく無言のまま電話を切る羽目になりそうで怖かった。
「あ……いやあ、うち……今日休みじゃけん」
 久しぶりに話す安芸弁だと静子は思った。
 ――ほ、ほうか。
 まだ午後二時だった。
 ――ほしたら、今から会えんじゃろか。
「は…はい、ほしたら……」
 ――今からお宅さん迎えに行くけん、待っとって。
「わかりました」
 守の家は大手町にあり、静子の家は京橋町でそれほど離れてはいない。
 広島の町は、何本もの川に囲まれている。
 太田川と京橋川が外敵を阻むように広島城を守っており、太田川の支流として甲斐川、川添川、天満川、本川、元安川があり、そんな川がもたらす恵みに支えられた水の都である。 
 広島城周辺は明治以降の軍事施設のままで軍都とも言えるものであり、だから真っ先に攻撃対象であるはずなのに、空襲がないことにそれはそれで市民を不安に駆り立てていった。
 それでもいつでも攻撃に耐えられるよう防空壕は掘られ、昌和たちの住む場所は非常時の避難場所とされていて、地下壕が造られていた。
 
「こんにちは」
「は、はい!」
 静子が飛び上がるように玄関口に行き、戸を開けると、守は直立不動の姿勢をとって敬礼していた。静子もつい真似して敬礼をする。
「さいさいに手紙もらっとるけ、初めましてという気がせんの」
「ほうね」
 互いに顔を赤くしながらくすりと笑う。
 何枚も写真を交換して顔は知っているだけに当然初めてあったという気がせず、互いのことも知り尽くしている気がした。
「美人じゃって知っとったけど、写真よりずっと可愛いんじゃのう」
 守は思わず言ってしまい、自分の言った言葉にさらに顔を赤くする。
「………………」
 静子は可愛いと言われて頭に血が上ってしまって何を話したらいいのかわからなくなる。
 守こそ写真よりずっと男前だったのである。髪が生えてくる前に刈っているような短さの坊主頭、切れ長の目がきらりと輝き、清廉という言葉がぴったりの清々しさである。
「あの…あ…ああ……入っちゃってください」
「ほしたら、失礼します」
 客間に通そうとしたところ、すぐに仏間に行きたいと言われ、そちらに案内する。
 するとぱしっと音がしたかのように背筋を伸ばし、敬礼をした後、部屋に入った。
「大和に乗っちゃったって聞いとります」
「その通りなんよ」
 守が線香に火を灯して手を合わせる。
「ご挨拶が遅くなりましたっ! 自分は立石守言います!」
 鈴を鳴らした後、静子を見る。
「えらかった(つらかった)の」
「ううん。お国のために立派に戦こうた思ぉとるんよ。まだ兄さんと弟も戦地におるし」
「今は本土が戦地じゃ」
「……………………」
「ほいじゃけん、わしも九州行きが決まったんじゃ」
 特別攻撃隊用の基地とは言えなかった。
「ほ……ほう………ね」
 線香の煙ごしに父の写真を見て、静子はいよいよ覚悟を決める時だと思った。
「じゃけぇ、どうしても会いたい思ぉたんじゃ」
 守がじっと静子の目を見る。
 その澄んだ瞳に突き抜かれていくようだと息が苦しくなる。
「…うちも…待っとったんよ」
 そういう言葉を待っていたとばかりに守がぱっと明るい顔をする。
「ほんまか?」
 それが模範解答だと静子は思った。
「銃後の務め思うてます」
 すると途端に守が沈んだ顔をする。
「…………………………」
 そして複雑な表情をした。静子は何か間違えただろうかと不安になる。
 守は視線を畳に移して、唇を噛み、拳を握る。
 そして長い息を吐いた。
「わしが来たんは、ほい為と思ぉてるんか。箔つけに来よったと」
 悲しそうな顔だった。
「あ…あの……?」
「わしゃ…」
 切ない表情である。
「わしゃ、あんたに会いとうて」
 瞳を潤ませる。
「子供ん時からあんたにずっと会いとうて。大人になったら会えるぅて聞かされてん、ずっと待っとって」
 ぽろりと涙がこぼれる。
 すると数々の手紙の行間から伝わってきていた優しさが浮かび上がってきた。
「写真見る度、きれいになるんあんた見て、えらい我慢しよって。手紙がうれしいて、会いとうて、……会いとうて」
 守はずっと静子に恋をしていたのだった。
「……ひたすら会いとうて」
 静子はそれに気づかなかった。
「会える日を心待ちにしよって」
 守はもう後のない日々をせめて静子と愛し合いたい、そういう一縷の望みに突き動かされてやってきたのだった。
「あんたがわしをそがぁな男じゃ思うちょるんは悲しい」
「ち! 違う…んよ、うちも…」
 静子はもっと時間がほしいと思った。
 もっと語り合い、互いの心を寄せ合う時間がほしいと思った。
「ちぃと照れくさいけえ銃後言うてしもうた。うちも会いとうて。毎月手紙が届く度にそう思ってたんよ」
 だが、今はそう言うべきなのだと思った。
「ほんまか?」
 守が静子を抱き寄せる。
「ほんまにわしに会いたい思うてくれちゃったんか?」
 無理に力を加えぬ優しい抱擁だった。
 まるで届いてきていた手紙のような。
 ひとつひとつの言葉を選んで慈しむような文章、それは守の愛の形、真心だった。
 その優しさに自分はずっと守られてきたのだとようやく自覚したのだった。
 背中に回された腕が震えているのを感じ、心が熱くなっていく。
「ほんまよ」


 *********


 次の日には守の両親が静子の家に挨拶をしに来て、仲人として平井の大伯父が立つことになった。
 その翌日、祝言という花嫁になる支度も何もなく結婚式もごく内輪で済ますというものだった。
 せめて婚礼衣装くらいと豪華に着飾ったが、それは母親譲りの沖野家のものであり、静子はその打ち掛けに袖を通した時、どんな状況になっても頼子お方様のように毅然と過ごす心意気を持ちなさいと言われているような気がした。
 昌和と絹代に何の挨拶もできずに辞めることになってしまい、それは心残りだったが、心のこもった祝辞と祝いの品が届き、そのまま家宝になりそうな壺を贈られて恐縮しながら、お屋敷に向かって祈りを捧げる。
 絹代が婚儀にどうしても行きたいと大変な騒ぎだったと平井が疲れ切ったような顔で伝え、それだけでも静子の心は落ち着くのだった。
「緊張しとるんか?」
 紋付き袴姿の守が優しい微笑みを浮かべながらそう言った。
「ほうねえ、ちぃと」
「わしもじゃ。はあ、綺麗な花嫁さんじゃなあ」
「ほんま?」
 静子が恥じらうような仕草をする。
「ほんま、ほんま。これで静子さんと夫婦になれるんじゃけえ、夢のようじゃ」
 少年のような笑い方をされ、静子は胸が苦しくなる。
「わしゃ、日本一の幸せもんじゃ!」
 白い歯を見せながら心から嬉しそうに言うのだった。
 どれほど静子に恋い焦がれていたか、そんな心情を隠そうともせず、素直に嬉しくて堪らないといった様子で、静子はそんな守を見る度に幸福感に包まれていった。

 簡素な挙式を終えると、なるべく二人きりにしてほしいという守の意向を汲み、宮島の旅館に二泊することになった。
 浴衣姿になった静子の緊張をほぐそうと守は努力するが、静子はがちがちと震えており、新妻がどうするべきか母から少し聞いたばかりでは怖さの方が先に立ち、静子は消え入りたいばかりだった。
 守が溜息を吐く。
「なあ。静子さんはわしが嫌か?」
 静子が首をぶんぶんと振る。
 想像もしていなかったことが次々と起こり、ついていけなかったのである。
「怖いんか? 触れてもええんか?」
 守が顔をのぞき込むように見る。
 静子は不安そうな表情をした。
「あの…痛い…ん?」
「ん? うん…まあ…ちぃと痛いんじゃろうね」
 肯定されてしまい、顔色を青くするが、静子は唇を噛む。
「じゃけん、ほいが契りなんね?」
「ほうね。契りじゃ。ほいでほんまに夫婦になるんじゃけん」
 静子が頷くと、守が静子の頬を包むように両手を添える。
「静子さん」
 静子が恥ずかしそうに眼を瞑る。
「しず…て呼んでつかぁさい」
「しず?」
「はい」
 静子がにっこりと笑った。
 守は涙をほろりとこぼす。
「軍隊ではどんなにしごかれても涙なんひとつもこぼれんが、あんたの顔見よるだけで泣けてきてしもうて。はあ。ほんまわしの嫁さんなんじゃな」
 ずっと夢に見てきたのだった。
 ゆっくりと唇を重ねると初めての口づけは涙の味がした。
 唇を静子の耳に移していくと、静子の体がびくりと震える。
 その初めての感覚に静子自身が戸惑っていると嬉しい反応に守は興奮していく。耳の中を舐めると静子の体から力が抜けていき、甘い声があがる。
「耳、弱いんか。気持ちええか」
 静子はがくがくと勝手に身体が反応していくのを止められず、声も止められなかった。
 守の息も荒くなっていく。
「はあ…愛しいのぉ」
 ぎゅっと抱きしめる。
「細いのぉ。折れてしもたらどうしよ」
 静子も似たようなことを思っていた。
 男の人の体はこんなに大きく逞しいものかと。
「そんな容易く折れんよ」
「ほうか」
 浴衣を脱がせて静子を裸体にすると、守は息をのんだ。
「…き……きれい…じゃ…」
 白い柔肌はうっすらと紅色に染まり、官能の扉を開けるのを待っているかのようだった。
「あんたが好きじゃ」
 守が宝物をひとつひとつ手にするかのように愛しげに触れていく。
「あんたが…好きじゃ。好きじゃけん…」
 静子はこの上ない幸せを感じていく。
 ―――ああ……。
 私もこの人が好き。
 この人とずっと一緒にいたい。
「うちも…」 
 これが……恋。


 **********


 しかし、あまりにも短い新婚生活だった。
 わずか十日では到底足りなく、身体を重ねれば重ねるほど離れがたくなっていく。
 あと三日、あと二日と焦りを募らせながら二人は貪るように身体を合わせる。次から次と飢餓感が襲ってくるのだ。
 立石の家では家業の医院が忙しく、二人をそのまま放っておいた。
 離れたくない。
 放したくない。
 別れたくない。
 もっと一緒にいたい。
 もっとこの先もずっとともにいたい。
 一緒に年を重ねていきたい。
 守は医師になって、静子が看護婦になって、家族が増え、忙しくも明るく笑いが絶えない毎日を過ごしたい、二人はそんな未来を話し合っていた。
 共に笑い、
 共に泣き、
 共に喜び、
 共に悲しみ、
 共に幸せを分かち合う、
 そんな未来があるなら何にでも祈りたいと思った。

 ―――わしらを離れ離れにせんでつかぁさい―――

「奥様が、戦争はもう終わる言っちゃったんよ」
「……戦争が終わる。ほうじゃね、いつかは終わるじゃろう」
 だが、それは自分が出撃した後のことだと守は思った。
「じゃけん、うちは待ちよるよ」
 守は、帰ることなどできない約束だと思いながらもそれを言わなかった。
「しず」
「待ちよるけえね」
 手と手を握り合わせる。
「うちはいつまでも待ちよるけん……」
 守が静子の身体を抱き締める。
 最初の抱擁とは違う骨を擦り合わせるかのような互いの身体を密着させる抱擁であった。
「しず」
「うん」
「…しず」
「…うん」
「愛しよる」
 二人の瞳から涙が零れ落ちる。
「うん。うちも…愛しよる」
 息が止まるほどに力を込める。
 離れとうない……。
「心から……愛しとるけぇ……しず…」

 そして、非情にも別れの朝はやってきた。
 一睡もせずに迎えた朝は、日の光が眩しく、玄関先に立つ守を皆で見送ると、守は清らかな顔をして敬礼し、玄関の扉を開けて出て行った。
 医師の家では出立の儀式も何もない。
 静子が思わず玄関の外まで追いかける。
 殿…、と呼べないのなら何と呼ぶべきかわからない。旦那様はいやだと言われていた。
 とにかく、状況は昔の戦に出て行く武将と同じはずだった。
「ご…ご武運を!」
 守が立ち止まって振り返る。
「武運長久をお祈りいたします! 何卒、何卒」
 ご無事のお帰りをお待ちしております…、は言ってはいけない言葉だった。
 守が右手を挙げて敬礼をする。
「行って参ります」
 静子が首を横に振る。
 唇を噛み締めて、何度も首を横に振る。
 少しでも行くのを引き留めたいと思った。
 その姿をもっと見ていたい。
 そのお顔をもっと見ていたい。
 声をもっと聞かせてほしい。
 行かないでほしい。
 置いていかないでほしい。
 号泣する。
「しず」
 守がはあっと大きく息を吐く。
「士族の者ならばきちんと見送りしなさい。平井家のしきたりはどうですか」
 標準語で話されて急に距離ができた気がした。
 静子が嗚咽を堪え、涙を拭い、深呼吸する。
「はい。申し訳ございません」
 姿勢を正す。
「貴方様がお力存分に発揮できますこと、また武勲を立てられますことを!」
 違う、武勲なんてどうだっていい。とにかく、

 ――帰ってきて下さい!

 静子はそう心の中で叫ぶ。
「神仏ご先祖様に祈願し、武運を心よりお祈り申し上げます」
 静子の凛とした挨拶に守は爽やかな笑顔を浮かべた後、背を向けて朝の日の光の中、消えていった。


 **********


 静子は立石家で看護婦見習いとして働き始めた。舅姑は静子の心情に気を使いながらも、忙しくしていることで気が紛らわせるだろうと積極的に医院の仕事を手伝わせた。
 静子もどうしようもない喪失感と守に会いたいという思いを表面化させないようになるべく身体を動かした。
 しかし、就寝時には寂寥感に打ちのめされ、泣かずにはいられなかった。
 拳を握りしめ、腹部に押しつける。
 夫婦揃っている舅姑の姿にすら嫉妬を覚えてしまい、一人寝の淋しさに耐えられないのだった。
 何を心の支えにすればいいのかわからず、どうすれば心が強くなるのか誰かに教えてほしいと思った。
 実家に帰してもらいたいという思いが強くなるが、すでに嫁いだ身なのだと自分に言い聞かせる。
 それに、平井の家に帰ったりしたら、母のことだから追い返すだろうと想像がついた。
 とにかく、毎日がつらくてたまらないのだった。
 守さん……!
 うち…耐えられんよ……。
 あんたに会いとうて。
 布団を握りしめる。
 帰ってきて。帰ってきて。
 お願い。
 帰ってきて…!
「あああ…ああ…あああ……」
 その静子がむせび泣く声が静まりかえった家の中に響いていく。
 守の両親は毎晩響く悲愴な泣き声にせめて自分たちだけでもしっかりとして静子を守らなければと思っていた。

「静子さん。今日は往診の日じゃけえ、手伝い頼むね」
「はい」
 静子は往診用の鞄に必要な医療用品を詰め込んでいく。食料と同様薬品も貴重品である。
 往診をするのは医師が軍医として従軍してしまった為に医者が少なくなった南竹屋町方面で京橋川沿いのあたりだった。
 宇品港から第五師団司令部となっている広島城をつなぐ線路には路面電車が走っていて、それが町を貫く柱の役目を果たしている。
 その道路を渡り、公会堂を横目に見ていくと道が複雑に入り組む。そのあたりが南竹屋町で距離として2キロメートルほどで、静子は重い鞄を持ちながら舅の後ろをついていった。
「静子さん。重いじゃろ。貸しんさい」
「おとうさま。大丈夫です」
「平井のお嬢様にこんな仕事させてしもうて申し訳ない思ぉとるんじゃよ」
「そ…そんな……そのようなことをおっしゃらないでください」
「しかし、わしらも働いているけえ、守のことばあ考えんで済みよる。患者が待っちょるけんの」
 静子が唇をかむ。
「わしら…静子さんが来てくれちゃって嬉しいんじゃ。守がどれほど静子さんを好いとったか知っとるけんのお」
「……ほ…」
「実は平井様とのお約束は嬉しく思ぉとっても、家の格が違いすぎるけえ、お断りしとったんよ」
「え?」
「けどなぁ、守は子供ん時から静子さんに惚れてしもうて。どうしても嫁にもらういうて聞かんで、大人になったら自分で静子さんにお願いしてみぃ言うて誤魔化してきたんじゃ」
 静子がほろりと涙を流す。
「ほんまありがとう。あんな幸せそうな守を見ることができて、わしらも嬉しいんじゃ」
「おとうさま」
 京橋川のほとりまで来て、回る家の玄関先までくる。
「守さんは帰ってきます。そして、これからもっと幸せになります」
 静子がにっこりと微笑んだ。
「ほうか。ほうじゃの」
 うっすらと涙を浮かべて、さいさいに…と言い、玄関の扉を叩いた。   
 静子は心が軽くなっていることに気づいた。
 もっと舅姑と守の話をしよう、そして三人で守の帰りを待つ。そう思うことで自分を支えようとした。  


 *********


 一日、また一日と経っていく度に、壊れそうだった静子の心も落ち着いていった。
 守の子供の頃などの話を聞いたり、どれほど自分の手紙に狂喜乱舞していたかなどの話を聞き、守を近くに感じることができ、悲しみの心が癒されていくのだった。
 守からは手紙が届かず、九州基地での訓練が相当厳しいものなのだろうと想像でき、一日でも早く戦争が終わるよう、静子は毎日神社にお参りに行った。
 広島護国神社は、大手町にある立石医院から元安川沿いに広島城を目指していった相生橋のすぐそばにある。
 毎日参詣する人は多く、皆、勝利を祈願してきているようなそぶりを見せていたが、心の内では家族の無事を願っているのだった。 
 境内は大きな樹木が神聖な空間を生み出しており、梅雨入りした独特の湿った風が吹いていた。
 神社がある場所は、元々は静子の先祖の屋敷があった外郭周辺である。
 長い歴史とともに広島の街を作ってきた先人たちの思いがあふれる中に戊辰戦争で戦死した魂を鎮めるために神社が造られた。
 静子は今日の参詣は特別な思いで手を合わせていた。
「守さん。うちね、妊ったんよ。子供が生まれるんよ」
 神社に来る途中、それを書いた手紙を郵便局に出してきた。 

 静子が参詣から戻り、それを舅姑に伝えようと思ってうきうきしていたが、医院は休診の札がかけられ、舅姑がさめざめと泣いており、静子はその光景の意味をすぐ悟ったが、それを認めたくなかった。
「あ、……静子さん」
 卓袱台の上には電報が置いてあった。
「今さっき、届いたけん」
「うそ……」
 そんなはずはない。
「違います。これは何かの間違いです!」
 どこどこの海面においてなどカタカナで書かれた冷徹さを感じる電文からはどのような最期であったのかなど伝えてはくれない。
「これは嘘です!」
 そんなはずはない……!
 帰ってくる。
 守さんは帰ってくる。
「おとうさま、おかあさま、うちは信じません」
「静子さん……」
 姑が泣き崩れる。
「守……守……」
「おかあさま……」
「静子さん、悪いんじゃが、しばらく実家に行っといてくれんかの」
「え」
「少し二人で気持ちを整理しとうてな」
「………………」
 子供が生まれるんです…静子はその言葉を飲み込んだ。
「そ……そうですか……」
 急に婚家が他人の家のような気がしてきた。
 ふらりとめまいを覚えながら、帰ってきたばかりだったが、また家を出て行ったのだった。 

  
 **********


 静子はのろのろと歩いていった。
 実家に行こうと京橋町に向かうため城に歩みを進める。國泰寺の前を通り、京橋町に入ると生まれ育った場所に戻ってきた安堵感に包まれる。
 誰もいない家の玄関を開けようとしたが、錠ががかかっており、中に入ることができず、ぽとりと涙がこぼれる。
 たったひとりになった母が出かけるときに施錠したのだと理解したが、女三界に家なしと言われているようで、もはや戻れる場所でないのだと突き放されたような気がした。
 …………どこに行けばいい……。
 母が戻るまで比治山公園で時間をつぶそうかと考えるが、足は違う方向に向いていた。
 御泉邸(縮景園の別称)だった。
 門の前には警護の人が厳めしい姿で立っており、門は誰も入り込めないようにしっかりと閉じられている。
「大殿」
 思わず手を合わせる。
「奥様」
 頭を下げて、比治山に向かおうとしたところ、馬の蹄が響いてきた。
 複数の馬の後ろに馬車が向かってきており、県内中を回っている殿様がたのご帰館だと察し、静子は頭を下げ続ける。
 門が開かれ、馬車が入り込もうとしたところ、急に馬車が止まった。
 静子は思わず顔をあげる。
「しず!」
 馬車の中から絹代が叫んでいるのである。
「奥様」
「ここにいらっしゃい」
 手招きする。
「え」
「早く!」
 ともに乗っていた平井が頷き、静子はおずおずと馬車に近づいていった。

 屋敷の中に行くと、新しく世話係としていた親戚の年配の女性がいたが、平井が下がらせて、昌和と絹代と四人になる。
「ああ。ほんの数ヶ月なのにもう何年も会っていないような気がします。元気にしていたのですか。今日はお医者のご用で?」
 絹代が嬉しそうな顔をしてはしゃいでいる。
「実は…」
 絹代は優しく微笑んでいたが、泣きはらしたような顔をしていた。
「夫が戦死しました」
 静子がぐっとこみ上げてくるものを我慢しながら言うと、絹代がそう……と言いながら目を押さえた。
 平井がふうと息を吐く。
「誠二様の戦死も伝えられたばかりだ」
「え」
 昌和が遠くを見る目をする。
「あの子が軍人としてどう働いていたのかなどまったくわからないが、参謀になろうという者が前線に出て行くなど大方上役に楯突いたのではないかと想像している」
 身分は海軍大佐だった。
 梅雨の晴れ間だったが、急に雨が降ってきたようで瓦に当たる音が屋敷内に響く。
 誠二はそういう奴だ……、と昌和は肩を落としながら呟いた。
「左様でございましたか。誠にご愁傷様に存じます」
「しずもな」
 昌和が唇を噛みながら言った。
 悔しくて多くは語れないという心情が伝わってくる。
 誰に対して何を言えばその悔しさが収まるのか、苦悶の表情を浮かべていた。
 静子は、誠二様と守さんとは比較にならないと思いつつも、同じ時期に戦死とは戦争の容赦ない無慈悲さとそしてまだ信じられない守の死を現実のものと思えてくる。
「わたくしはまだ信じられませんけれど」
 心の内を読まれたようなことを言われて静子は心の中で苦笑する。
 ……そうでございますよね、奥様。
「しずはこれからどうするの」
「わかりません。舅にはしばらく実家に帰ってくれと言われました」
「そう、ならば、またここに来てもらえないかしら」
 絹代が縋るような表情をし、平井が呆れたような顔をする。
「奥様。それでは立石の家の面目が立ちません」
「平井。それを何とかしてくださらない?」
 平井が救いを求めるように昌和を見るが、昌和はくすりと笑いながら首を横に振った。
 この数日泣き暮らしていた昌和と絹代にとって静子の存在に心が軽くなっていた。
「う……、は、はい、わかりました」
 絹代がぽんと音がなるほど手を合わせた後、立ち上がる。
「では、しず、わたくしの部屋に参りましょう」
 こうなった絹代は誰にも止められないのである。
「はい」

 静子は廊下を歩きながらなぜか古巣に帰ってきたような居心地の良さを感じた。
 世話係が茶の用意をし、それを静子が受け取り、絹代の部屋に入る。
 絹代がふうと大きな息を吐いた。
「あんな紙切れ一枚で亡くなったことを信じろというほうが無理というものよね」
 絹代は憤慨したように言う。
「はい。私もそう思います」
「だから悲しむのはやめて、帰ってくると思うことにしたのよ。しずもそうなさい」
 絹代が手を握る。
「は、はい…」
「どんなお方でした? 夫君は」
 絹代が興味津々の顔をしてじっと静子をみる。
「夫は……」
 にこにこと待っている様子である。  
「とても誠実な人で、私をとても大事に思ってくれて……」
 ――あんたが好きじゃ。
「何度も私を好きだと言ってくれて、私もとても好きになりました」
 絹代が静子の頭に手のひらを載せる。
「それは見ればわかるわ」
「え」
「しずはとても綺麗になりました」
「そ…」
「元々可愛らしいお顔立ちでしたけれど、内からでる美しさ、それは殿方に愛されて輝く女の美しさだと思うのよ」
 ――しず。愛しとるけえ。   
 静子の瞳から真珠のような涙がこぼれ落ちてくる。
「会いたい…」
 ぽろぽろとこぼれる。
「会いたいんです」
 止められなかった。
「会いたくてたまらないんです!」
「しず」
「でも、もう会えないと思うと私どうしていいのか。どう心を強く持てばいいのかわからないのです。奥様、どうすればいいのか教えていただけますか」
 絹代が静子をふわりと抱き寄せる。
「しず。わたくしもどうすればいいのかわかりません。どうすれば心を強く持てるのか」
「奥様」
「わたくしもずっと心を強く持ちたいと望んできました。きっとその答えは…」
 絹代が視線を遠くに移す。
「あなたのご親戚の頼子さんの方がよりよい答えをお持ちでしょう」
 静子がはっとする。
「ご存知で…」
「ほほほ。もちろんそれくらいは」
 静子がぱっと立ち上がり、平伏す。
「ま。なにを?」
「頼子大伯母の血縁であることをご存知でお雇いいただけましたこと、大きな御心に感謝申し上げます」
「いいえ。わたくしは頼子さんには感謝しているのです。そのように思う必要はないのです。確かに若い頃は苦しみましたが、それよりも頼子さんなしには当家は成り立たないほど重要なお方なのです」
 絹代が立ち上がる。
「頼子さんの強さに殿もわたくしも支えられてきたのです」
 絹代がふふふっと楽しそうに笑う。
「そして、今でも殿を取られたくないとわたくし頑張っていますのよ」
「え? 大殿のお目には奥様しか映っていないと存じます」
「頼子さんのお心の強さに殿が惹かれていることも知っているのです」
 どこからどう見ても完璧な夫婦なのに、ガラスのような脆さがあるのだと静子は思った。
「そんな……」
「わたくしは殿を誰よりもお慕いしている、そのことは誰にも負けない。それがわたくしを支えてきたのかもしれないわ」
「奥様」
「だから、しずも。きっとその夫君への思い、それがしずを支えていくと思うわ」
 しずが大きく頷く。
 何か素直に納得できたのだった。
「奥様。私、身ごもったのです。ならばその思いを持ち続けて子に伝えていけばいいのでしょうか」
「まあ!」
 絹代が優雅に微笑む。
「ならば大丈夫よ。もうしずは乗り越える強さを持っているはず」
 慈愛に満ちた笑顔だった。 
「母親になるというのは、いいものですよ、しず」

第五話 原爆




 アメリカにおける全ての判断を任されているその男は焦りを募らせていた。
 これ以上戦争を長引かせれば国内の戦争反対の声を押さえることは難しく、日本に同情が集まる流れを食い止めることに神経を使わなくてはならなくなる。日系人差別に世界の関心が集まり始めており、非道な行いをしているという悪評は容易に払拭できぬものとなり、正道であると主張しつづけるのは困難を極めるのだ。

 ……こんなはずではなかった。

 なぜこれほどまでに時間がかかっているのか、どれほど戦費を費やせば済むのか、陣地の全てを奪い、本土を焼き尽くし、軍事施設のほとんどを破壊し、空母はもとより戦艦すらなく、航空機、武器製造工場も悉く潰してきた。迎撃どころか守備さえも事欠く状況の戦力等もはやないに等しい状態のはずである。報告される民間人犠牲者数は直視したくないほどのものとなっている。
 なのに、まだ降伏しない。

 なぜだ!

 ソビエト連邦がいよいよ牙を剥いた。
 ドイツを降伏せしめ東欧の支配、次の狙いは中国、インド他アジア全域、その次は我々とわかっている。
 すでに世界の覇権を掌中にするべく歩みを始めたのだ。
 民主主義とは真逆を行くその思想に人が変えられていってしまう。
 建国の精神さえ奪われたらアメリカ人をアメリカ人たらしめるものがなくなってしまう。
 全ての価値観の崩壊につながる。
 それに屈することなど決してできない。
 負けるわけにいかぬ戦いである。

 対ソ防波堤、防御の楯として、なんとしても日本が欲しい。
 太平洋を押さえるには是非ともそこを最前線としたい。
 日本を取られれば、アジアに近づくことは不可能になり、逆に容易に海を越えられてしまう。
 日本の降伏、単独占領は絶対不可欠であり、その先の道を進む上で避けては通れないことである。

 正義は我々にある。

 ファシズムや誤った思想から解き放つために我々が先導するべく時代に選ばれている。
 神託にも等しい。
 正義は我々にあるのだ。
 いかにすべきか。
 ソ連の動きを封じ、我々に恐怖を抱かせるにはどうすることが最も効果的か。

 複数の作戦の書類の中の一つに目を通す。
「………」
 ――新型爆弾による満州爆撃。
 ふっと笑う。
 日本側からの裏工作が見え隠れする。
 金で動く者は金で動かせる者に与する。
 そして大統領など容易に操れると思っているのだ。
「小賢しい。まだ工作を仕掛けてくるあたり、どうやら己の立場がわかっていないらしい。日本人のこういうところが嫌われるのだ。まったくこの卑しさが鼻につく」
 だが、金のなる木は欲しい。
 占領した後に使える駒は持っておきたい。
「いや」
 握りつぶす。
 ――ソ連が怖い――
 断じて見破られてはいけないこの恐怖。
 それを見抜いているといわんばかりのこの忌々しい工作。
 ならば、一蹴するしかない。付け込む隙を見せてはならない。
「我々は強い」
 そんなことを言えば、自ら弱いと認めているようなものである。
「我々は正しい」
 同じく、言えば人道の罪に落とされてしまいそうである。
「我々は正義の為に神に選ばれているのだ!」
 民間人を焼き殺すその罪がいずれ自分に襲いかかってくるという恐怖から逃れられない。
 潜伏させている諜報員から夥しい数の母子の死体の写真が送られ、それを見たとき、その焼死体からは恨みの声が聞こえてくるようで思わず目を覆った。

 ――我々は何をしている……!

 この先、日本上陸決戦をするならば、ソ連はその前に攻め込み、競争となる。
 我が方の戦死者の想定人数は想像以上である。その犠牲に国内の批判は一層高まるはずである。
 それより日本が先にソ連に降伏したらどうなる。
 憎々し気で強かな日本人の高笑いさえ聞こえてくる。
「ふざけるな……!」
 水泡に帰することだけは避けなければならない。
「ならば、これでいく」
 迷いを振り切るように作戦書に署名した。
 

 ***********


 グアム参謀本部でその命令書電文を受け取り、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーはまたもや自分をないがしろにしていることに苦々しい表情を浮かべていた。
 いつまでも降伏しない日本に苛つき、重ねて本国における政治コネクションが弱く、いつまでも軍に縛られていることに地団駄を踏み、命令書を机上に叩きつける。
 ――上陸作戦準備継続、ただし、指示した地点より五十マイルまで下がれ――
 その意味は、新型爆弾による攻撃を実施するためで、その爆撃について作戦の意見を求められることはなく、それどころか決定に至るまで何も聞かされていないのだった。
 大統領に嫌われているのはわかっていた。
 前大統領に疎まれ、それを受け継ぐように遠ざけられていた。
 つくづく舐められたものだと奥歯をかみしめる。
「ここまで日本を追い込んだのは私の作戦によるものだ。新型爆弾ひとつで降伏されたのでは、それまで苦労して戦ってきた私の努力はどうなる」
 コーンパイプをくわえ、気を落ち着かせようと煙を吐き出す。
「ふう……」
 フィリピンで敗戦した時から今までの戦いを振り返る。
 ……フィリピンで報復し、ミッドウエイ以降はほぼ勝ち戦だった。日本の軍隊など我が国の圧倒的な物量の前にはまったく取るに足らぬもので、赤子の首を捻るようなものだった。 
「もはや日本は降伏寸前ではないか」
 新型爆弾を投下する必要性など軍事的には全く不要である…と呟きながら拳を握る。
「失敗すればいいのだ」
 ……そうだ、失敗すればいい。
 それと同時に上陸作戦実施を始め、街と人を焼きつくし、その殺戮とともに築き上げた屍の山の前に軍参謀連中を引きずり出し、血祭りに上げ、そして天皇に命乞いをさせる。
 頭を垂れさせ、惨めな姿を晒させるのだ。
 日本に現人神などいない、ただの人間だと見せつけ、我が国を敵に回したことを心から後悔させ、服従させるのだ。
 誇りも何も奪い尽くしてやる……!
 せいぜい日本人に生まれたことを悔やみ、天皇を憎み、戦争に導いた幕僚たちを恨むがいい。
「ふ……」
 そうした後、
 ――人々は救世主を求める。
「ふふふふ」
 恨みのエナジーならば民衆もまとめやすい。
 天皇を崇拝する洗脳から解き放たれ、我が国のような人民による国づくりを目指させるのだ。
「ははははは」
 その方がよほど国民も幸福に暮らせるというものだ。
 民主主義の素晴らしさを教えてやる。それこそが人類に下された神のご意思だと。
 ふうと煙を吐き、肘をたてる。
 窓の外にはどこまでも青空が広がっている。
「ふふふふふ」
 その役目は私のものになる。
 その功績をもって凱旋帰国する。
 そして、大統領の椅子に座るのだ。

 
 国際的な認識としてはいつのまにか日本は天皇を頭とする独裁国家のような印象をもたれていた。
 憲法を持ち、立法、行政、司法の三権は分立し、選挙された代表者からなる立憲君主国であり、非民主国とはいえないはずであったが、本質的には確かに民主国家とは言い難いものだった。
 そこにアメリカは正義を振りかざそうとしていた。
 逆に言えば、それ以外に残虐な戦争行為を正当化することはできなかったのだった。
 立憲君主国。
 それは日本が江戸の幕藩体制の時代で育み、明治維新という生みの苦しみを経て、ようやく築き上げた近代日本国家の形であり、天皇がトップにいることで国が成るという長い歴史の教訓を生かした最も理想的な姿であった。
 歴史を持たぬアメリカ人がそれを理解することは難しく、民主主義こそが社会として最も理想的で完成されたものであるという考えに疑いの余地はなかった。
 イデオロギーの主張に正義を訴える、そして、そのための犠牲は許されるものだと信じたくなる。
 だが、それはとりもなおさず人の弱さが求めるがゆえに持った楯に違いない。
 己の罪の意識を軽くするために、仲間を求めていき、イデオロギーが一致していれば、それに対するものは敵で排除すべきものであるとしてもよいと、自らに言い訳をしていくのだ。
 視点を変えれば、相手にとっても同じことをいうことができる。
 その表裏一体の争いに果たして価値はあるのか、本当に戦う理由は何か、それを先に考えられぬのが人の愚かさなのである。
  
『正義とは、人々をして正しい行為の実践者たらしめるような、すなわち、人々に正しく行為させるのみならず、正しいことを願望させるような性状である』(アリストテレス、ニコマコス倫理学)


 **********


 昌和と絹代は誠二の葬儀を東京で行いたいと思っていたが、各地の空襲がひどく、汽車は危険ということで東京と広島それぞれで執り行うこととなった。
 真野家ゆかりの寺で、昌和は空の棺が飾られた祭壇に用意した自分の若い頃をそのままにしたような生き写しの面差しの軍人姿の遺影を置く。
 絹代のすすり泣く声が響いていった。
 昌和は訪れる政財界の弔問客に丁寧に接しながらも、軍関連の客には頭を軽く下げるのみで言葉を発しなかった。

 貴様等が誠二を殺したのか――!

 怒りをこらえきれないことを伝えるように口を一文字にし、肩を震わし、弔問客はその憤りを受け止めるようにうなだれていた。
 主に元の家臣団で構成される広島の地方自治を担う者たちは、東京の秀一様、広島の誠二様と将来を思い描いていて、東京との強いパイプは地方都市にとって生命線となり、結束力が強ければ強いほど恵みをもたらすもののはずだった。その片翼をもぎ取られてしまい、広島に暗雲が立ちこめていくような気がしていた。

 平井家と沖野家一族は特別の席を設けられ、葬儀を取り仕切る重職についていた。
 静子は、静かに手を合わせる喪服姿の頼子を見た時、胸が痛くてたまらなかった。
 思わず腹部に手をやる。
 つわりはさほどにつらいものではなく、絹代たちの世話をすることに支障はなかったが、葬儀では大事をとるように言われていた。
「静子さん」
 葬儀が終了し、後片付けを始めたところ、静子は頼子に声をかけられ、どきりとする。
「はい。頼子様」
 頼子は一族の中では巫女のような存在だった。
「懐妊されていると聞きました」
 静子は居たたまれなくなる。
「はい。夫は誠二様と同じ時期に戦死いたしまして」
「それはご愁傷様」
 頼子は丁寧に頭を下げる。
 静子はそれはこちらの台詞だと思いながらも、それを声に出せず、ぐっと腹に力を込める。
「つらいけれど、時世です。あなたも平井家で生まれ育ったのならその覚悟を持っていたでしょう?」
 毅然とした表情で言われ、背筋が伸びる。
 しかし、静子はその覚悟を持っていなかった。
 言葉につまる。
「そ……」
 そしていまだに覚悟を持てないのだった。
 守は帰ってくる、きっと帰ってくると思うことで日々を過ごすことができ、それが支えになっている。
 覚悟ができていました、夫の死を誉れにしております、それが模範解答ならば言うこともできないわけではない。
 しかしそれは自分に嘘をつくことである。
 婦人会や竹槍の訓練の集まりなどでならば言えるが、身内の中では言いたくないと思った。
 甘えたい気持ちがあった。
 頼子が小さく息を吐く。
 そうして儚げに微笑む。
「その覚悟が自分を支えてくれますよ。だからしっかり気を持ってお腹の御子を大事になさいね」
 頼子はにっこりと微笑み、その場を離れようと体の向きを変える。
「お待ちください。頼子様」
 頼子が立ち止まり、ゆっくりと振り向く。
「はい?」
 静子がすうと息を吸う。
「私、だめなんです」
 やめろ、と頭の中で自分の声が響く。
「覚悟を持っていたつもりでまったく持っていなかったんです。できないんです」
 口が勝手に動いて止まらない。 
「夫の死を受け入れることができないんです。待っているんです。きっと帰ってくると思いたいんです。夫は死んでいないのだと」
 いつの間にか大きな声になってしまっていて、周囲の視線が集まってくる。
 頼子が困惑した顔を向ける。
「教えてください。どうしたら毅然としていられるのか。どうしたら頼子様のようになれるのか。どうしたら覚悟を持てるのか」
「静子さん」
 頼子様の強さを分けてもらいたい!
「夫を返してほしいんです……!」
 静子の母がすっと近寄り、バシリと音を立てて、静子の横っ面を叩く。
「静子!」
 親戚一同の皆が注目する。
「見苦しい! 出ていきなさい!」
「おかあさま」
 静子が驚いて叩かれた頬を押さえる。
「下がりなさい! この場を何と心得ている! この恥さらしが!」
 頼子と同じ紋のついた喪服に身を包んだ静子の母もまた夫を亡くしてそれほど月日を経ているわけではない。
 恥ずかしさのあまり静子は涙を浮かべる。
 皆の視線に耐えられなく、後ずさりする。
「皆様。娘は体調が優れないようですので大変申し訳ございませんがお先に失礼いたします」
 静子を一瞥した後、平井のところにその報告をしにさっさと行ってしまった。
 静子は茫然としながらも、
「あ…あの……お先に失礼いたします」
 とりあえずそう言葉を出した。
 すると皆がお大事にと言って送り出した。

 ***********


 静子がぽろぽろと涙をこぼしながら家に向かうと、玄関先に人が立っていた。
「しずちゃん」
 友人の節子だった。
「せっちゃん?」
「もう終わったん?」
「うん。うちだけ先に」
「ほうか」
 泣いていたのが一目瞭然の顔だろうと思い、静子は思わず俯く。
「大丈夫?」
 節子に顔を覗かれる。
「うん。大丈夫。とにかく中に入って?」
「ほいじゃあ、お邪魔するけえね」
 静子は玄関で清め塩を裾にかけ、節子を居間に通しながら、着替えしてくるけんねと言うと、節子は勝手知ったる友人の家に気兼ねなく座る。
 しかしむずむずと動き出した。
 そしてたまらず声をあげる。
「なあ、しずちゃん。お台所貸して」
 するとほどなく、ええよ、という声が聞こえて節子が腰をあげた。

 静子が喪服を衣紋掛けにかけ、帯を丁寧にたたみ、小物を片づけて普段着に着替えているとなにやらいい匂いが漂ってきて、思わず台所に行く。
 節子が竈に火をつけて網を置き、何かを焼いていたのだった。
「なに? なに焼いてるんね?」
「ふふふふ。これ」
 牡蠣だった。
「え! どうしたん、これ」
 軍人以外が口にすることのできない高級食材である。
 広島湾では江戸時代から養殖をしていたが今は殆どが休止状態であり、なかなか手に入るものではないのだった。
「しずちゃんのお腹の子に食べさせよう思ぉて」
「だって、これは」
「旨そうじゃね。ああ、久し振りじゃ。うーん。ええ匂い」
「え? どうしたん? ねえ? どうやって手に入れたん? ねえ、悪いことなんかしてないよね?」
「なにぃ? ははは。人聞きの悪いこと言わんといて。これはな、ちぃと親戚の海女を手伝って分けてもろうたもんなんよ」
「え? どうして海女さんを手伝ぉたん?」
 節子の手は切り傷だらけだった。
「そ、それはな、まあ、そんなこと、どうでもええよ。とにかく分けてもろうて、しずちゃんの滋養になればええ思ったんじゃ」
 節子が顔を赤くしながら牡蠣に視線を移す。
 香ばしい匂いに食欲をそそられる。
「ほれ。焼けたね。さあ、食べよう」
 節子が火を落とすと、静子はゆるんでいた涙腺からこぼすように涙を落とした。
「……せっちゃん」
 節子がふうと息を吐く。
「あのね。勘違いしてもろうては困るんよ。これはしずちゃんのためじゃのうて、腹の赤ん坊のためじゃけんね」
 節子が静子の腹部に手の平をあてる。
「うん。うん。ありがとう」
 この二つの牡蠣を手に入れるためにどれほど節子が働いたのか、静子はその節子の気持ちに感動していた。 
「うん。この子のためにいただくけぇね」
「ほうじゃよ」
 その牡蠣は大変美味で、二人は一口一口味わうように食べる。
「おいしい、とてもおいしいねえ」
 静子が嬉しそうな顔をしながらそう言うと、
「ほんまいね!」
 節子は満面の笑顔を浮かべ、明るい声で言った。
  
 海の幸を満喫した二人は、お茶を飲みながら贅沢な気分を味わっていた。
「なあ。立石さん。写真通りの人じゃったん?」
 静子は持っていた茶を零す。
「な、なに? 突然に」
「ええじゃろが、聞かせて?」
 静子が真っ赤になる。
「う……うん。まあ、写真よりええ思ぉた」
「へえ! それはご馳走さん! 牡蠣よりご馳走じゃね!」
「もう、せっちゃん、やめて」
「ふふふふふ」
「ええ加減にして」
「あんなあ、うちも決まってん」
「え? ほんま?」
「うん」
「誰? うちの知っとる人?」
 静子が顔を紅潮させる。
「うん、知っとる人」
「誰よ、勿体ぶらんで」
「小学校で一緒だった林将太さん」
「ええ! あの林将太さん?」
 有名人だった。野球の腕が立ち、東京でプロ球団に採用されたとしきりに噂されていた。
「うん」
「すごいね! 小学校卒業してから会うたことあるん?」
「うん。よくうちの菓子を買うてくれちゃって」
「へえ………」
 今度は静子が節子を覗き見る。
「うちなあ。将太さんが好きなんじゃ。ずっと小学校から好きじゃったんよ」
 静子は小学校の時の容姿しか浮かばないが、節子にとっては立派な青年だった。
「え……知らんかった」
「うん。言えんかった。向こうはうちのことなんて何とも思ぉてないかもしれんと」
 節子がはにかむような仕草をする。
 静子はそれが可愛らしいと思った。
「せっちゃん。良かったね。好きな人と一緒になれて」
「しずちゃん」
「うん」
「やっぱり結婚て、ええ?」
 静子は心が温かくなるのを感じた。
 節子の手を握り締める。
「ええよ」
 幸せになってほしい。
「あれほど幸せな時はないんよ。生まれてきてよかった思ぉたよ」
「……ほ……ほうか……」
 どうか、節子が幸せになりますように、静子はそう願った。


 **********



 初七日が終わり、絹代は、仏間に籠もり、仏壇に向かい手を合わせ、長い間小声で読経していた。
 まるで誠二に子守歌でも聴かせるように。
 子供の頃の誠二ばかりが浮かんできてしまい、なかなかその場から離れられずにいたのだった。
「姫」
 あまりに時間を費やしていることに昌和が心配して襖を開ける。
「もう遅いでしょう。寝ますよ」
「ええ。でももう少し。先にお休みくださいまし」
「誠二も心配していますよ。ほら、ごらんなさい。頷いているでしょう」
 写真を指さす。
「殿……」
 絹代が泣きそうな顔をし、昌和は思わず絹代を抱きしめる。
 そこに電話のベルが鳴る音がして、二人ともはっとする。
「どなたかしら」
 これ以上悪い話を聞かされたくないと思った。
 平井が足早にやってくる。
「大殿。若殿よりお電話です」
「秀一さん? 殿、何かしら。こんな時間に」
 絹代の不安そうな言い方に昌和は神妙な表情をした。
「ああ、悪い知らせでなければいいが」

 昌和が不安な様子を隠しきれずに電話機に唇を近づける。
「ああ、私だ。どうした」
 ――父上。夜分遅く申し訳ございません。お休みでしたか。
「いや。まだだ。何かあったのか」
 ――こちらの葬儀が無事終わったことのご報告にと。こんな時間になってしまい恐縮ですが。
「ああ。なんだ。そうか。何かあったのかと心配した」
 ――驚かせて申し訳ありませんでした。
「いや。ご苦労だった」
 昌和がほっと安心した表情になり、絹代も小さく息を吐く。
 ――実は父上。分骨したいと思いまして、今週末伺おうかと思っているのです。ご予定いただけると幸いです。なので早めに連絡をした次第です。
「分骨?」
 ――実際は骨でありませんが、所持していた遺品です。
「そうか。君が危険ではないのか?」
 ――帝都も十分危険ですよ。
 昌和が苦笑する。
 今は子供たちがいる疎開先のような山奥でなければ安全ではない。
「ふ。違いないだろうが」
 ――どうせ母上は何も入っていない骨壺に熱心にお経をあげているのでしょう?
 昌和が絹代の顔を見て、思わず失笑する。
「まあ。聞こえていますわ。わたくしの悪口ですの?」
 昌和がくすくす笑う。
 ――泣いてばかりいるのでしょう?
「ははは。その通りだよ、秀一。君が来てくれたら泣いているどころではなくなるだろうから助かるよ」
 ――ふふ。はい。では、来週の日曜日に伺います。翌日すぐ失礼いたしますが。
 八月の暦を見ながら昌和が小さく息を吐く。
「そんなとんぼ返りしなければならんか?」
 ――火曜日の議会には出たいので。父上のご予定と合えばと思い、慌ててしまいました。
 汽車で片道十五時間以上かかる道程である。旅客列車は大幅に削減され、寝台特急や一等車が廃止されており、ひたすら堅い椅子に座り続けなくてはならない。
 日本の鉄道は空襲を受けてもすぐ復旧する力を持っており、輸送能力は落ちなかった。
「まあ。こんな状態だ。どちらも何があるかわからんからな。毎日空襲警報がうるさい」
 ――けれど、広島は偵察のみなのですね。
「ああ。呉はだいぶやられているようだが、市中の空襲はなく、皆日常生活を送っている」
 ――そうですか。とにかく、参ります。
「わかった。道中気をつけるように」
 昌和は電話を切りながら、重い息を吐いた。
「姫。何があってもいいように常に覚悟を決めておこう。秀一がこちらに来たいという理由もわからないことはない」
「そのまま帝都を離れた方が安全ではありませんの?」
「ふ。秀一にそんなことを言ったら真っ赤になって怒るぞ。たとえひとりになっても自分が帝都を守るくらいのことを言うはずだ」
「それはそうでしょうけれど」
「それに私たちに疎開しろとまたうるさくいわれる。おそらく、妙子さんを預けていく気かもしれん」
「まあ。それなら喜んで」
「だから、来たら家族として迎えてやろう。妙子さんは何の罪もないのに、ずいぶんとひどい仕打ちをしてしまっていたのかもしれん」
「もちろんですわ」
 絹代がにっこりと微笑んだ。

 
 そうして、週末、秀一は妙子と一緒に汽車でやってきた。
 途中、何度も足止めをさせられたらしく、疲労困憊の様子だった。
 お忍びでの訪問ということで秀一の来訪は非公式だったが、それでも平井が手配してそれなりの出迎えを受ける。
 朝の光を浴びる汽車から人が吐き出されるように降り、秀一が妙子と共に汽車から降りてくる。
 そして、待合室で待っていた昌和たちのところにやってきた。
「よく無事に着きました。お待ちしていましたよ」
 絹代が微笑みながら言うと、
「母上。お変わりなく」
 秀一は清々しい表情をしながらそう返事した。
 昌和よりも上背がある秀一が背筋を伸ばして立つとそれだけで威厳があるように見える。
「おじじ様によく似ている」
 いつも言うことをつい口にしてしまう。
「父上。お元気そうで何よりです」
「うむ。君も、そして」
 妙子を見る。
「妙子さんも」
 妙子が恐縮したような様子で頭を下げる。
「大殿様には大変ご機嫌麗しくご尊顔を拝し…」
「いい。いい。そんな堅苦しい挨拶は。うちの嫁なのだから」
 その瞬間に妙子が口を押さえる。
 ずっと親戚の誰にも紹介されずに認めてもらえなかったのだった。
「さあ。参りましょう。お腹が空いたのではありませんか」
 感動して肩を震わす妙子の肩に手を置きながら秀一が歩みを促し、四人は馬車に乗り込んだ。


 屋敷に着くと、静子が出迎え、お朝食の準備ができておりますと伝える。
 炊きあがった麦飯の匂いが漂っており、浅漬けと味噌汁、干物、豆腐という献立で、四人分の茶碗に静子は手際よく盛っていく。
 妙子が恐縮した様子でそれを受けているのを見て静子は妙子に親近感を持つのだった。

 食事が済み、皆はゆっくりと茶を飲んでおり、静子がお茶を注ぎ足していると秀一が口を開いた。
「では、父上、母上、仏間に行きましょうか」
「ああ」
 平井がその言葉を聞く前に扉を開け、仏間の襖を開けられると四人はその中に入っていき、平井はすっと襖を閉じ、その前に待機した。

「こちらが遺品です」
 絹の布で丁寧に包まれたものを秀一は懐から出した。
 それは懐中時計だった。
「これは……」
 絹代が思わず手に取る。
「徳川のおじじ様からの下さりものですよね」
「そうですよ。誠二が中学入学の時に賜った」
 懐中時計を開けると、絹代の写真が入っていた。
「まあ……」
「馬鹿だなあいつは。こういうものには妻の写真をいれておかんとならんだろう。いくら見られることはないとしても」
 誰もが知っていた。誠二が絹代に母親以上の思いを持っていたことを。盲目の妻とは絹代の血を受け継ぐという理由だけで飛びついて結婚したのだった。
「沖縄戦敗北で降伏していれば……」
 秀一が悔しそうに唇を噛む。
「おそらく沖縄の戦いは終わっているからもう抵抗させるなくらいのことを言ったのでしょう」
「秀一。憶測でそのようなことを言ってはいけない」
「誠二のような人間がこれからの日本に必要なのに!」
「わかっている。優秀な者が多く失われているのが現状だ。これから日本を背負って立つべき多くの前途有望であるはずの若者が」
 若者という言葉に秀一が悔しそうな顔をする。
「善三は。善三は…どうしているのか……」
「無事でいると思いたい」
「なんとひどい世の中だ……」
 秀一が拳を握り、膝を叩く。
「酒を飲むか。秀一」
 はいと頷くと同時に、襖が開き、平井が失礼いたしますと言って酒杯を盆に載せて入ってくる。
 痒いところに手が届く気配りはなかなか真似できないものだった。
 静子が酒の肴の江波だんごを持って入ってくる。
「しず。わたくしと妙子さんもお酒を飲むわ。ねえ、殿、よろしいでしょう?」
「飲めないくせに何を言っているのですか」
「妙子さんは飲めると聞きましてよ。わたくしもおつきあいしたいのです」
 秀一が奇妙な顔をしていた。
「ねえ。秀一さん。よろしいでしょう?」
「え。ええ」
「あら。何かおかしい?」
「いえ」
 秀一が静子を見る。
「しず……?」
 絹代がふふふと笑う。
「ええ。しずよ。ね」
 平井が自己紹介を促す。
「平井静子と申します。大伯父の元で修行しております」
 秀一がしず……と呟き、呆気にとられたような顔をしていた。
 昌和もくすくすと笑う。
 静子が何のことかわからずに困惑した表情をし、平井に救いを求めるような顔をするが平井はしらを切ったように表情を変えなかった。
「ああ……」
 秀一が納得したように膝を叩く。
「善三が……」
 絹代がそれに嬉しそうな顔をした。
「……こんなところに善三が……いたんですね……」
「まあ。それでは生き霊みたいで怖いわ」
「母上は……!」
 絹代が愉快そうにほほほほと笑い、静子は何のことかわからずともとにかく絹代が笑ってくれるなら何でもいいと思った。



 ***********


 雲一つない澄んだ青い空、凪いだ蒼き海、銀色に輝く白い砂浜、波と戯れるように飛ぶ海鳥たち。
「まだ本土からは連絡がないのか!」
 こぼれ落ちそうに熟した果実、熱帯の赤い花。
「はい! まだです!」
 甘い香り。
「早く! 狙いは広島だ! もっと早く打て! 打ち続けろ!」
 森林は神を宿すような霊気を漂わせている。
「一刻も早く逃げるのだ!」
 風が心地よく吹き、南国の自然に恵みを与える。
「早く!」
 悲痛な声をあげた。
 ラボールの通信士たちは必死に指を動かしていた。
「逃げるんだ……!」
 武井が机に拳を打ち付ける。
「頼む……逃げてくれ……」
 善三は放心状態で立っていた。
 ラボールの科学者たちが互いの力の限りを尽くして考えた爆弾の理論を先にアメリカが実現したという結論を得て、それにまつわる情報を必死に探り当てていた。
 どれほど歪曲した内容の通信をしようとも想像すればたやすくアメリカ人が考えそうな単語は予想がつく。

 ――患者の準備状況と環境条件次第で、手術は八月一日以降、いつでも可能であろう。患者の観点だけからすれば、八月一日から三日に幾分かの可能性、八月四日から五日に十分の可能性、そして予期しない再発がない限り、八月十日以前がほぼ確実。

 追い詰められた時には感覚が研ぎ澄まさせている為、少しでも気になることには勘が働くものだ。
 焼夷弾とは違う兵器について研究をラボールでも独自に進めていた。
 それが核理論だった。
 ラボールでどんなに最新兵器を開発しようとしても船も飛行機もない状態では何もできない。
 小型で大きな被害をもたらすことができるもの、それについて研究を重ねていた。
 だが、巨額な資金と豊富な人材を持つアメリカの科学力に及ぶべくもなく、ただの机上の空論となるばかりだった。
 しかし、研究をしてしまったがゆえにその威力がどんなものかわかる。
 前線を下げる命令は投下準備に違いなかった。
 その位置から推測して広島と結論を出した。
「政府はなぜ何の声明も出さない!」
 善三が日本列島のある方向を見る。
「広島が……」
 武井が地団駄を踏む。
 空襲の時と同じだった。
「広島を生け贄にするつもりか!」
 そしてテニアン基地から不気味な航空機が発進したという情報をつかんだのだった。
 ――こちら五号機。FBー29が護衛で飛んでいる模様。
 武井が通信機に向かって言う。
「これ以上の偵察は危険だ。帰投せよ」
 武井が顔を青くする。
「投棄することを願うほかない」
「投棄」
 善三が呟く。
「そうだ。実験では成功したかもしれんが簡単に投下などできるはずがない。迎撃を受けるのだから」
 とにかく逃げろ、武井はそう言い続けた。
 広島。
 今まで攻撃された地名の中にそれはなかった。
 軍都である広島を攻撃しない理由について皆でそれぞれ持論を述べ、何かするつもりだろうという見解を持ち、そしてある結論を出した。
 ――新型爆弾による広島攻撃。
 この結論に向かえば、それを裏付けるような通信をいくらでも拾うことができた。
 それがあと数時間で実行されるのかと思うと、善三はめまいさえ感じていた。
 広島が。
 数え切れぬほど行った広島の風景が浮かんでくる。
 厳島神社……。
 護国神社……。
 比治山……。
 川岸の情緒ある街並み……。
 市電が走り、よく整っていながらも、水と緑に囲まれた自然溢れる美しい町。
 その中で威勢のよい言葉で話す人々。
 一度も中に入れてもらえなかった御泉邸……。
 同じく外から見るだけだった広島城。
 その雄大な姿に行けば目を奪われずにはいられなかった。
 父昌和の言葉が甦る。
「なあ。立派な城だろう。善三」
 何歳の時のことか忘れた会話を思い出していた。
「はい。父上。そしてとても美しいです」
「あの天守に登ってみたいか?」
 善三は武士の装束を着た自分を想像する。
「はい! 是非とも!」
 昌和がふふふと笑う。
「残念だな。善三」
「え?」
「天守はな、藩主といえども滅多にあがることができなかったそうだ。おじじ様も一度しかなかったと言っていた」
「そうなのですか?」
「ああ。神域だったらしい。広島を守る神の住まいということだ」
「左様でしたか」
 善三ががっかりと肩を落とした。
「あそこからの景色を見てみたいな。広島の町を一望できるぞ。広島湾も綺麗に見えることだろう。絶景に違いない。私も是非とも見てみたい」
 昌和も幼い頃から憧れてきたのだった。
「はい。父上」
 鯉城と呼ばれる黒壁の威厳ある天守。
 広島を守る神が住んでいる。
 
 その天守を、目指してきたように白き閃光が走る。
 その光量は雷光など及ばぬほどに想像を絶する強烈な光である。

 次の瞬間、衝撃波とともに爆風に襲われる。

 そして一瞬で崩れ落ちた。

 三百年以上広島を守ってきた天守が一撃で崩壊したのだった。

 昭和二十年八月六日月曜日の朝、八時十六分のことだった。



 ***********



 一家団欒の朝を過ごした後のことだった。
 食事を終え、ひとしきりとりとめのない話をし、秀一が乗る列車の時刻を気にしながら、それぞれ支度を始め、静子は台所で自分用の食事を慌ただしく食べ、秀一を送り出す準備に行こうと腰をあげたところであった。
 絹代は紅を塗り、鏡で髪型を見ていた。
 昌和は仏間で手を合わせていた。
 秀一と妙子は、しばらく家族が離ればなれになるが、心の結びつきは強いのだと確認し合っていた。
 平井は馬車の準備をし、馬の様子を見ていた。

 広島駅では秀一を見送る人たちが集まり始めていた。その中に節子もいた。
 静子があまりに秀麗な秀一の容姿について語ったため、野次馬根性を出し、見に行くと言ったのだった。
 静子は将太さんは? と訊いたが、節子はそれは別の話だと笑った。
 前日、そんな話で笑い合ったのだった。

 ――――ピカッ―――!

 おそらくそれ以上に相応しい擬音はないであろう視力を奪っていく異常な光の瞬きは、働いていた者、朝の支度をしていた者、通勤途中だった者、学校で体操をしていた者、それら各々の作業の全ての手を止めさせた。
 そして誰もが目をくらませた。
 何も見えなくなったのだった。
 え……?
 そう思った刹那、

 ――世界が終わる音を聴く。

 それは、何かが弾けたなどという生やさしいものではなく、地獄が蓋を開けていく、まさにこの世を終わりを告げる恐ろしく禍々しいもので、塞ぎたくともその前に轟音が耳を劈いていった。

 何も見えず、何も聞こえず。

 それと同時に凄まじい爆風と熱線が駆けていったが、わからなかった。
 自分の身体が吹き飛ばされていることなど知らなかった。
 体内の液体が沸騰して蒸発し、内蔵が体外に出ようとする事態が起きているなど、知る由もなかった。
 何が起きたのかわからなかった。
 すでに命が消えていたからだ。

 ――――悪魔――――

 かつて人類を翻弄してきたどんな天変地異をも遙かにしのぐ災難が突如空から降ってきたことを、かろうじてその悪魔が振り下ろした残忍な斧に瞬殺されずにすみ、木の葉のように飛ばされ、地面に叩きつけられ失った意識を取り戻した時にそれを知った。
 だが、熱線に内蔵を直撃されなくとも、その触手にかかれば、皮膚など容易に溶かされ、上皮はたちまち火膨れとなり、捲りあがり爛れ落ちる。

 その悪魔の正体は、1,000,000℃という信じ難い熱の固まり、火球であり、突如現れたそれにより地表は3,000℃から4,000℃という想像を絶する温度に達することとなった。
 太陽の表面温度は5,700℃、鉄が溶ける温度が1,500℃である。
 
 なんだ……これは……。

 心の中でそう思ったとしてもそんなことを言い出せない。
 悲鳴すらあげることができないのだから。
 ひとたまりもなかったのだった。
 人体だけではなく、木々、家、燃えるもの全て燃やしていく。
 息を吸うにも空気そのものがない。
 
 何とか残留している空気を吸うことができ、開くことができた瞳にぼんやりと映ったものは、燃えさかる町と、人間の形をしていない親しい人たちで、そして自らと同じように衣服が燃え、全裸となって火傷を追い、茫然とする人々だった。
 異常な熱さから逃れたくて身体は自然と川に向かう。身体の皮を垂らしながら引き寄せられるように川に向かっていく光景は異様であるに違いなかったが、異様であるかどうかなどどうでもいいことで、とにかく身体を冷やしたい、水が飲みたい。それしかなかった。
 自分たちは川の恵みに支えられた町に生まれ育ったことをよく知っていた。
 水の都、広島。
 元いた場所から遠くまで飛ばされてしまっても、いつも生活の風景にあった川はどこにあるかわかる。

 ……きっとこの熱い身体を冷やしてくれる。

 重い身体がたどり着いた川には多くの人がいて、次々と川の中に入っていく。
 後から押し寄せてくる人に押されていくと身動き取れず、水中にいる人に躓いて溺れてしまう。
 それが折り重なっていく。
 それでも皆、川を目指していったのだった。
 痛みは感じない。
 何も感触はない。
 ただ、熱いだけだった。
 ふらりふらりと列を為すように、歩いていく。
 裸体であっても元は衣服を着ていたことがわかるような着物の模様が肌にくっきりと付いている者、腹巻きをしていた部分だけが火傷していない者、両手がもげてしまい棒のような者、歩いて川を目指すことができる者は既に息絶えたものを踏んでいく。
 避けていくなどと気を使っていられない。
 あまりに数が多いからだ。
 無数に転がる死骸は、腸や眼球が飛び出ていたが、それを見ても何も感じることはない。
 たとえ、それが昨日まで親しくしていた友人だったとしても。
「なあ、わしの孫はめっさ賢いんじゃ。わしのことがもうわかるんじゃ。わしを見てなあ、ころころ笑うんじゃよ」
「ははは。こりゃ、とんだ爺馬鹿じゃのう」
「ほんまのことじゃ!」
 そんな会話をしたことなど消え去ってしまっていた。
 はらわたを。
 脳を。
 夥しい血の海を。
 粉々に飛び散った肉片を。
 
 ……熱い。

 踏み越えていく。

「おお。あんたあ、増田屋のせっちゃんか? あんまし別嬪になりよってわからんかったわ」
「もう勘弁してぇな。おじちゃんは」
「ふぁはははは。おとうちゃんによろしくなあ」

 ……水が欲しい。

「ほら。ここ。まだ拭き終えてない!」
「え。そう?」
「嫁に行ったらお姑さんはもっと厳しいじゃけぇしっかり覚えんさい」
「はあい」

 ……助けて……。

「生まれたって?」
「ああ、お母ちゃん、今朝生まれてな、女の子じゃよ!」
「ほうね! 今からいくけん、待っとぉて!」

 ……助けてくれ……。

「シロ。ほれ、飯じゃ。こっち来い」
「くぅう。くうううぅぅぅ」
「なんじゃ、ほれ。どうした。甘えんでええから飯食え。ほれ」
「きゅうぅぅぅぅぅぅ」
「どうしたんじゃ、シロ」

 ……助けてくれ……!

「おかあちゃん、じゃあ、うち、勤め行ってくるけんね」
「ああ気張りんさい。あ! ほれ、弁当忘れとる! もう……まったくそそっかしい子じゃ」

 ……助けて…お……願い………。

「はははは。うちはほんまそそっかしいなあ」
 
 ………助…け……て………。

「いってらっしゃい」
「うん、行ってくるけんね!」

 朝だった。
 朝だったのだ。
 みんなそれぞれが迎えた朝だった。
 厳しい世情でも変わらぬ日常の朝、その日が始まる朝だったのだ。

 助けて。
 何でもいい。
 助けて欲しい。
 この苦しみから救ってほしい。
 一刻もはやく。

 しかし、渦中の人々に救いの手を差し伸べられることはなかった。誰もがその悪魔の前に平伏すしかできなかったのだった。
 業火は広島の何もかもを燃え尽くしていった。
 人が人であるということさえも。 


 **********


 広島の町が炎に包まれていく中、昌和たちがいた屋敷も木っ端みじんに吹き飛ばされており、その衝撃とともに地下壕の入り口が開いていた。
 大きな池は干上がり、木々は燃えており、昌和たちの身体を覆っている木材も燃え始めていた。
「大殿! お気づきになりましたか! こっちです!」
 平井の声が聞こえる。
「……ああ……」
 朦朧とする中、その声の方に行こうと這いずる。
「殿。よかったわ。ご無事で」
 そんな絹代の声が聞こえたが、右足の感覚がない為、無事ではなさそうだがと反論したくなりつつもその声のほうに近づいていく。
「父上。早く! 火が追ってます」
 しかし思うように身体は動かない。
「秀一。お前が無事で何よりだ」
「そんなことより早く! あっ! 危ない!」
 頭上から木材が崩れ落ちてくる。
 昌和はバリバリと音を立ててくるものを避けながら、何とか身体を前に進ませる。その入り口に身体を滑り込ませるようにすると、その先は皆に引っ張られるように身体が動いた。
 地下にずるずると身体が落ちていく。
 人がひとり通れる分の階段を下るというよりも身体を落としていったというほうが相応しいものだった。
 長い階段を下まで降りきると、地表の温度とは違って冷たさまで感じて心地よいと思った。
 眠りを覚える。
「大殿! 眠っている場合ではありません! ここもいつ崩れるかわからないのです!」
「ふ。生き埋めということか」
「これは城への抜け道です。城に参りましょう」
 平井が毅然とした声を出した。
「城とて同じことだろうが」
「いいえ。軍が強化しているはずなので、それほど柔な造りではないでしょう」
「軍人に命乞いをしに行けと?」
「違います! 大殿でなければ果たせぬ役割があるのです」
「私に? 隠居した私ができるのは慰問くらいだろうが。敵襲を受けていったい何ができる」
「そのような口論は後にいたしましょう。立ち上がって下さい。参りますよ」
「ふ。いつも平井は厳しいな。ああ。わかった。わかった。姫、秀一、妙子さん、しず、みんなおるか?」
 暗闇の中、立ち上がり、目が慣れた中、蝋燭のような灯りがぼわっと浮かぶ。
「しずがその先の少し広くなったところにおりますわ」
 絹代が寂しそうな声で言った。
「え? どういうことだ?」
 青白い炎が複数浮いていた。
「え?」
 ――燐火だった。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
「殿。本当はね、しずはね、助かっていたのよ」
「待ってくれ……」
 昌和が頭を掻きむしる。
 人が三人座れるかどうかという場所に、静子が壁によりかかって座っていた。
 その静子を照らすように燐火が囲む。
 すると、静子の姿を浮かび上がらせていった。腕には赤子を抱えているような格好をしていた。
「しず……?」
 昌和のその問いかけに静子がうなだれていた顔を上げる。
「お……おおと……の」
 頭部がざっくりと割れているようで顔が半分血で覆われている。
「今、手当してやるから!」
「奥様……が……」
 静子が腕に抱えていたものを昌和に差し出す。
 それは絹代の首から上の部分だった。  
「殿。しずったら私の顔を守ってくれたのよ。もう……この子ったら……」
 感極まった声でそう言う。
 傷一つない絹代の顔だった。
 昌和が驚愕のあまり言葉が出せない。
「奥様を……」
 差し出されたその頭部を受け取る。   
 昌和は心が何かを拒絶していると思った。
「絹姫……?」
 眠っているようないつものきれいな顔だった。
 しかし、顔だけあっても何の意味がない。
 けれども、静子は必死に守ったのだった。
「…うそだ……」
 静子はそれを渡して満足したように息を引き取る。
「いやだ……」
「大殿。もう一働きしていただかないといけないということです。我々はいつでも待っていますから、どうかお心を強く持ってお務め下さい」
 燐火が昌和の行く道を照らすように、列をなす。
「私を置いていくな!」
「置いていきませんわ。一緒に参りましょう。殿。こちらですよ。早く」
「姫」
「大丈夫ですから」
「いやだ……姫……」
「しっかりなさって」
「姫……」
 絹代の頭をがしりと抱き抱える。
 この美しい顔が最後に言った言葉は何だった。
 そんなことが頭をよぎる。
 ――そういえばね、木内さんにね、善三のどこが好きかって訊きましたのよ。そうしたらね、とても赤くなってしまって、木内さんも可愛らしいところがおありになるのよね。
 ――ああ、彼は善三に心底惚れているからな。
 ――父上。私はあまりそういう冗談は好きではありません。
 ――秀一。お前は……。だから木内くんに好かれないのだ。なあ、姫。
 ――父上。聞き捨てなりませんね。どういうことですか。
 ――ええ。殿。融通がまったくききませんの。面白くありませんわ。
 ――母上!
 いつもの家族のたわいない会話だった。
「ああああ―――――――――!」
 何を叫べばいいのかわからない、心が何を訴えたいのかわからない、とにかく心の中の何かが壊れていく、それはわかった。
 ひとつ増えた燐火に導かれていくように、その燐火を追っていくように昌和はその暗闇で狭い道をひたすら進んでいく。
 ひとり取り残されることに恐怖を抱きながら。



 *********



 昌和は絶望に身が千切られていくような痛みを感じながらも歩みを進める。
 悲しみと苦しみで自分をどうしようもできない状況では、何かすることがあるというのは逆に救いとなる。
「殿。泣かないでくださいまし」
 絹代の声で昌和は自分が泣いているだとわかった。
「……勝手に涙が出てくるのですよ」
「皆が見ていますよ。そんなお顔はわたくしの前だけだとお約束しましたでしょう?」
「姫のせいですよ」
「まあ。それはお悪うございました。はい。わたくしのせいですわね」
 絹代はわざと明るい声を出した。
 霊魂というものの不思議について考えるまでもなく、とにかくまだ亡くなったばかりの五人の魂はすぐそこにいて、生き残ってしまった自分を励ましているのだと昌和は思った。
 幽霊でも何でもいい……。
「ええ。ですから、すぐに追いかけてお仕置きしますよ」
「まあ。うふふふ」
 絹代の笑い声に秀一が忍び笑いをする。
 まったく相変わらずだと言いながら。
 平井がこほんと咳払いをする。
「大殿。こちらには先代様はじめ大勢の方々がいらっしゃいます。おいでになるときはお覚悟なさってください」
「覚悟? ふ。覚悟なら昔からしている。姫がいるところならば黄泉でもなんでも追いかけるさ」
「左様でございましたか。これはとんだ野暮なことを申し失礼いたしました」
 呆れた口調で平井がからかうように言った。
「なんだ。平井、その言い方は」
「奥様。大殿が赤くなってらっしゃます」
 静子までその話に乗る。 
 そんな話が一番気が楽なのである。
「ほほほ。殿。では、わたくしお待ちしておりますわ」
 どの燐火が絹代なのかはわからずとも、その揺れる炎を見ながら、昌和はぼろぼろと涙をこぼし、ぐすりと鼻をすする。
「ええ。待っていてください」
「父上に泣かれると切ないものですね」 
「秀一。私は泣いてないぞ」
「ふふふ。左様でございますか。ではそれは汗でございますね。これくらいの歩みで汗をかかれるとは稽古を怠っていたのではありませんか」
「まったく……。秀一はどんな姿でもおじじ様に似ている」
「いい加減聞き飽きましたよ、それは」
「おじじ様に会ったらわかるさ」
「ふふ。では楽しみにしております」
 昌和はそんな軽口が楽しいとさえ思った。
「大殿」
 だが、平井が会話を打ち消すような声を出す。
「この先は内堀です。この道は堀の下を通っているようです」
「そ……そうか」
「いつの時代か存じませぬが、これを築いた先人の苦労が偲ばれます」
「そうだな。造る必要があったということだろう。太平の世にあっても備えあれば憂いなしというところか」
 昌和を先導してきた炎たちが止まる。
「どうした?」
「殿。どうやら我々はここまでのようです。城はご結界があり、行けぬようでございます」
「え……」
 昌和はぎゅっと心が縛り上げられるような気がした。
「殿。どうかご存分にお働きくださいませ」
 もっとここに留まることはできないのだろうか。このまま皆と共にいて、仲間入りさせてもらえないだろうか、そんな思いに引きずられる。
「どうしても行かねばならんか」
 あえて答えが分かり切っていることを訊いた。
 そして、五つの炎はそれに返事をしない。
 しばらく昌和は返事を待つように黙ったが、ふうと長い息を吐いた。
「……そうか。私にやるべきことがあるのだな」
 昌和は奥歯を噛みしめる。
 そして拳を握った。
「ならば行かねばな……」
 勇気を振り絞って。
 たった一人きりでも。
 果たすべき役割があるのならば。
「では、行って参る」
 青白い炎は見守っているとでも言うように揺れた。 
 
 昌和が決意を新たにし、その結界を踏み越えるように力強く踏み出すと、空気が変わったように感じた。
 真っ暗闇で何も見えぬ進むしかないところ、不思議と恐怖を感じなかった。
 逆に狭さのせいなのか落ち着いてくるとさえ思った。進むべき道がはっきりしていて、その先に何があるかわかっているという安心感なのかもしれないと昌和は独り合点する。
 皆に送り出された心強さもあった。
 別れではない、また会える、そう思えば寂しさを勇気に変えることができた。

 本丸に近づくにつれ、空気が濃くなったような気がし、何かが語りかけてくる。
「のう。平井。わしがこの城の主だと」
「左様でございます。安芸一国、備後八郡、四十二万石の太守様でございます」
「三千石の冷や飯食いだったのにな」
「大殿のお跡目が殿になったということはご運の強さの証でございますれば」
「うむ。父上に負けぬよう、しかと務めねばな」
「はい。この平井、命を賭してお支えいたす所存」
「頼りにしているぞ。ああ。しかし、この城は立派すぎる。どうもこの城に負けている気がする」
「負けてなどおりません。殿をお守りしているのです。城がこの地を、そしてお家を守って下さることでしょう」
「そうか。ならばこの地をもっと豊かなものにしていけるよう、民が幸せに暮らせるよう力を尽くす」
 初代藩主の残留思念か……。
 漠然と昌和は思った。
 そして、激動の戦国時代を生き抜いた尊敬してやまぬ先祖たち、自分とは比較にならぬほど志の高い方だったのだろうと思った。

「殿! 赤穂様が松の御廊下で抜刀し、吉良様へ刃傷に及んだと!」
「ははは。平井。戯けたことを申すな。そんなことがあるわけがなかろう」
「…………………」
「誠なのか?」
 三代様あたりだろうか、と昌和は思った。
「戯れ言であればいいのですが、残念ながら」
「なにゆえ……」
「殿!」
「どうした、沖野」
「赤穂様にご切腹、赤穂藩改易のご沙汰が下ったと」
「なんだと! 吉良殿には?」
「お咎めなしとのこと。むしろ殊勝な心がけであったとお褒めの言葉を賜った由」
「ふざけるな。抗議に参る」
「殿! お待ち下さい!」
「平井! なにゆえ留める! 一族としてこのご沙汰、黙っていられるか!」
「殿中抜刀の法度を破ったのは赤穂様です! そのご処置に抗議なさったら、殿も同罪となります! お家を潰すおつもりですか!」
 いつの時代も平井は厳しいことを言う、と昌和は苦笑する。
 自分だったらどうしただろうと考えつつも、やはり先祖と同じように何もしなかったのだろうと思った。
 何を守るべきか、何を捨てるべきか、人は常にそんな選択の中で生きているのかもしれない。

「会津殿を見限れと?」
 懐かしい声が響いた。
 おじじ様の声だった。
「攘夷実現にはそれ以外の道はありませぬ」
「ははは。詭弁だろう。倒幕が道だと? 将軍の座に取って代わるだけのことであろう。謀反以外の何ものでもない」
「九州と四国はすでに固まりました。ご昵懇にされている安芸守様のお気持ちはお察し申し上げます。ですが、これ以上会津守様に肩入れしても不幸が増すだけと申し上げておきます」
「ふ。毛利殿に伝えるがいい。私に友を裏切れと平気で言えるその心根に沿うことはできぬと」
「ならば広島が戦場になるだけと我が主君は申すでしょう」
「なにゆえ我らが長州殿と戦わねばならん!」
「我らは官軍ゆえ」
「なんだと……?」

 幼い頃に見た祖父の苦渋に満ちた表情を思い出す。
 皆、守ってきた。
 安芸を、広島を、我が国を守ってきたのだ。
 先祖代々、家臣、藩民、それぞれ子々孫々に至るまで、多くの者が期待を背負って生まれ、精一杯生き、そしてその命を全うしてきた。
 皆で作り上げた豊かな地である。
 大事にしてきた。
 ひとつひとつ。
 風土も、文化も。
 皆で大事に育て上げてきた末に今日がある。
 愛する、愛するふるさと。
 
 ――愛する広島。

 暗いだけだった道が明るく、幅も広くなり、昌和は思わず走り出す。
 そして、入り口を見つけ、その扉を思い切り蹴飛ばした。
 その先には力なくうなだれる兵士たちがいた。
 弾かれたように立ち上がり、蹴り破られた扉から現れた昌和をぎょっとして見て、ぼろぼろの衣服に真っ黒な顔、そして生首を抱えているその姿に幽霊でも見たかのように震え上がった。
「ここで何をしている」
「何を……って」
 昌和はぎろりと睨んだ。
 地上から逃げてきたなどと言わせぬように。
 そして部屋の外に向かう。
 何層になっているのかわからない長い階段があり、それを登っていく。
 負傷した者らが階段を下りてきており、上は危ないぞ、どこに行く、と訊いたが昌和の耳には届いていなかった。
 一段あがるごとに温度も上がっていく。
 昌和は火傷した足を引きずりながらも力強く登っていった。
 見なければ。
 見なければならない。
 最も見たくない風景であろうとわかる。
 特殊兵器による攻撃を受けたことは誰に言われずともわかっていた。
 たった一撃であることも想像ついた。
 皆を助ける間もなく、逃げる間もなく、突如として現れた光に命を奪われたのだとわかる。
 その後、どのようなことになったのか見なければならない。
 この目でしっかりと見届けなければならない。
 何が起きたのか。
 どうなったのか。
 どうなっているのか。
 広島はどうなってしまったのか、見なければならない。
「父上」
 階段を登り切ると後ずさりするほどの熱気に襲われる。
「おじじ様」
 腕の中にいる絹代を見つめる。
「開祖様、皆様」
 絹代をぎゅっと抱き込む。
「申し訳ございませんでした」
 できなかった。
「私は……」
 何もできなかった。
 登り切った先には建物は何もなかった。
 城はすべて崩れ去り、石垣しか残らなかった。そこに、雨が突き刺さるように降っていた。
「お許しください」
 まだ火災は収まっておらず、広島一帯を焼いていた。そんな中を人々が右往左往している。
 地獄絵図だった。
「広島を守れませんでした」
 その雨は、黒かった。
 

 

  




 



 


 


 
 

 



    
 
 



 

     
 
   

終話


 昌和が地上で倒れ込み、意識を取り戻したのは、一週間以上経った後のことだった。
「大殿!」
 平井の息子の声だった。
「大殿! 今日ようやく辿り着きました! お探ししましたよ!」
 昌和は皆の最後を伝えたいと思ったが、声がまるで出なかった。 
 絹代の顔を探すように手をたぐり寄せるが、何もなかった。
 看護婦がそれを見て、探しているものを察する。
「お骨にさせていただきました。こちらです」
 小さな骨壺を見せられる。
 それを抱きかかえるようにすると、気持ちが落ち着いた。
「大殿。どうやらラジオで何か発表があるようです。かけてもらいますね」
 小さく頷く。
 すると雑音の中から今上帝の声が聴こえてきた。

『わたしは……』

 八月十五日、正午のことである。

『深く世界の大勢と我が国の現状を鑑みて、非常の措置をもって時局の収拾に務めたく、忠実なる良民のあなた方にそれを伝えます』

 ……陛下……。

 手を伸ばす。
 懐かしい声だと思った。東宮時代からずっと仕えていたが、広島に来てからは参内する機会もなく、その身を案じていた。

『わたしは、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の四カ国に対して、要求されていた共同宣言を受諾する旨の通告をするよう政府に命を下しました』

 ………なんと……。

 瞳に涙が溢れる。

『アメリカとイギリスの二カ国に宣戦したのは、我が国の自立と東アジア諸国の安定を望んだことであり、決して他国の主権を排して、領土を侵すということでありませんでした。わたしは、あなた方の平穏かつ無事を願い、代々の帝が目指してきた世界との共存共栄の思想を大切にしてきたのです』

 帝の無念の思いが伝わってくる。

『しかしながら、すでに戦いは四年が過ぎ、勇敢なる陸軍海軍の将兵、昼夜を問わず努力し精勤した官吏、無私のご奉公をしてくださったあなた方、一億の力それぞれが最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は好転せず、世界の大勢も変わらず、それどころか、敵は新たに残虐な爆弾を使用し、無辜の命を奪っているのです。その惨憺たる被害がどこまで及ぶのか計り知れません』

 激昂するのを押さえるような口調である。

『このまま戦いを続けるのならば、我が民族は滅亡してしまいます。それどころか人類文明を滅ぼしかねないのです。そのようなことになったら、わたしはいったいどうやってあなた方を守り、代々の御霊にお詫びしたらいいのか、それが共同宣言受託の命を下すに至った理由です』

 その結論に至るまでの帝の苦しみが伝わってくるようだと思った。

『わたしは、我が国とともに東アジア諸国の解放に協力してくださった同盟諸国に対して遺憾の意を表せざるを得なく、そして、前線で戦死した者、公務中に殉職した者、戦災で亡くなった方、さらにはその遺族の気持ちに想うと、我が身を引き裂かれるようです。また、戦傷を負い、災禍を蒙って家業を失った方々の再起については大変心を痛めております。今とこれから、我が国の受けるべき苦難はおそらく尋常ならざるものであり、その中にいるあなた方の心情をわたしはよく理解しています』

 部屋のあちらこちらからすすり泣く声があがる。

『しかしながら、わたしは、時運には逆らわず、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、未来へと続く太平の世界を切り開いていきたいと強く望むのです』

 ……耐え難きを耐え……、……忍び難きを忍び……。

『国体護持を得られれば、わたしはあなた方の真心に寄り添い、あなた方と共にいることができます。もし誰かが激情の末に事件などを起こせば、進むべき道を誤って、世界の諸国から信頼を失うことにもなりかねず、それは戒めるべきことです。そして、子孫に語り伝えるべきことは、我が国は不滅であり、復興への道のりは遠く、責任は重大で、国を挙げて将来の建設に総力を傾け、道義を篤くし、国体の精華を発揚し、世界に遅れを取らぬよう行動しなければならないということです』

 涙が流れ続ける。

 ……道は示されたということか。

『我が良民よ。これがわたしの考えです。どうか理解してください』

 ラジオ放送はそこで終了した。
 昌和は力が抜けたように目を閉じた。
 そして、ふっと笑った。
 地下施設の臨時病院に泣き声が響いていく。
 終戦の詔。
 終わったのだ。
 
「大殿! 大殿! だめです! 大殿は生きてください! お願いします!」

 生きてください……か。

 ――大殿。

 先に彼岸の彼方へ行った平井の声が響く。

 おお。平井。結局何もできなかった。果たして私に役割などあったのか?

 ――ございましたとも。お見事でございました。大殿が被爆されたと聞いて、陛下は泣き崩れたそうですよ。おそらくそれで決意を固め遊ばしたのでしょう。

 ――ご立派でしたわ。殿。

 姫。
 もう聴くことができないと思った可愛らしく歌うような声。

 ――あとは善ちゃんに任せて、わたくしたちは今後こそ隠居生活ですわ。

 ふ。善三ひとりで気の毒なことだ。

 ――あら。木内さんがいるのですもの。何も心配はいりませんわ。

 ああ、そうだ、そうだったね。

 ――父上。私はいささか心配です。

 自慢の息子の秀一の声が響く。
 ならば、君はさっさと善三の子供にでも生まれ変わればいい。

 ――父上。私が邪魔ですか?

 ――秀一さん。そうですわね。善ちゃんの子供として頑張ってくださる。え? あら。木内さんと一緒にいたら子供はできませんわね。困ったわ。

 ――母上。私が邪魔なのですか?

 秀一。とにかく君は早く善三を支えられるよう何とかやってみてくれ。私たちはこちらから見守っているから。

 ――やっぱり邪魔なのでしょう!

 ――兄上。それはそうでしょう。

 ――誠二まで!

 ――違いますよ。善三を支えなくては。私も早く善三の元に行きたいと思います。

 ――そうか。そうだな。

 秀一。誠二。善三を頼んだぞ。

 ――はい。
 ――はい。

 善三に託そう。
 希望をな。
 陛下が示したのは、希望だ。
 今後の我が国に一番必要なのはそれなのだ。
 皆が希望を持つこと。
 それが生きる力、前に進む力となる。
 だから、生きている人たちにそれを託そう。

「ご臨終です」

 ひとつの時代とともに、昌和は逝った。



 ―第三章 終― 
  


  


  
 


 


 

波濤恋情 第三章

お読みいただきまして有難うございます。
広島藩主とした真野家につきまして、実際の藩主一族の浅野氏とは一切関係ないと申し上げておきます。
歴史背景と実際の地名を使用するにあたり、史実に沿った内容としておりますが、その上で架空の真野家を創作したということでご理解いただけますと幸いです。
第三章を書くにあたり、多くの方に安芸弁のご指導をいただきました。
この場を借りて御礼申し上げます。
そして、先の大戦でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

舞濱りん

波濤恋情 第三章

太平洋戦争末期、日本は敗戦への道を進んでいた。 東京大空襲、原爆投下、その中に生きていた人たち、 遠く南方の戦地からそれを見ているしかない戦士たち、 真野善三、木内宗一、それらを取り巻く人々、 敗戦をどう受け止めていくのか。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-19

Copyrighted
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  1. 第一話 大正
  2. 第二話 昭和
  3. 第三話 明治
  4. 第四話 廣島
  5. 第五話 原爆
  6. 終話