波濤恋情 第二章

波濤恋情 第二章

第一話 要塞



 神国日本。
 世界の大国の中からすればそれはとても小さな島国が、そう呼ばれるのには理由がある。
 大和民族というほぼ同一の民族が住み、アイヌ民族や琉球人は後から日本に属するものとなったにせよ、神話に近い段階で日本人としてのアイデンティティが確立されていた。
 神道と仏教、これらを融合させながらどちらも生活の中に取り込んでいるなど、独自の文化であり、世界に類を見ない。
 宗教は、それぞれが違う道や価値観、倫理観の中にあり、相いれぬもので、それが原因で差別意識が生まれ、争いが起き、やがて宗教戦争へと発展する。
 しかし、日本はそれを融合させることができるという稀有な特質を持っており、そんな独自の文化を形成することができたのは、島国という外敵が容易に入り込めないという環境であったためである。
 だが、それでも、大陸とのせめぎ合いは続いてきた。

 ――西暦六六三年、白村江の戦。朝鮮半島での戦いに巻き込まれ、敗戦。
 しかし、その後、その戦いに勝利した唐は滅んでしまう。

 ――西暦一二七四年、文永の役。蒙古襲来と言われているものである。アジア大陸を猛烈な勢いで征服していった元は、日本への侵攻で敗退、元は滅んでしまう。

 ――西暦一八九四年、日清戦争。いつまでも開国を拒否する朝鮮に近代化を促進させようとしたが、朝鮮は清につき、日本は清と戦わざるを得なかった。その後、中華民国が形成され、清は滅んでしまう。

 ――西暦一八九六年、日露戦争。朝鮮は日本に属することに抵抗し、ロシア側につき、ロシアとしてはそれを渡りに船とばかり南下政策を実施する。日本はその大国ロシアから勝利を得て、その後ロシア国中に拡がった共産主義により革命が起き、ロシアは滅んでしまう。

 ―――神国日本。日本と戦った国は皆滅びる。

「諸君、そう教わってきただろう。だから臆することはない。我々は神に守られている」
 確かに歴史を見ればそれはそう言えるのかもしれない。
 だが、こじつけのようにも思え、無理やりそう思わせられているような気がした。
 真野善三は、軍用車の中で、それを力説していた士官学校同窓の前田の話を聞きながら、向かっている戦地でのことに緊張を強いられていた。
「神ってなんだろう」
 善三はついそんな言葉を零し、前田が溜息を吐く。
「……真野殿。そんな簡単に話の腰をおらんでくれよ。人がせっかく気持ちよく演説していたのに」
「え? あ、ごめんなさい。でも、神がいるならば、こんな風に争わせたりしないんじゃないかなって思う」
「厳しい訓練のひとつだろう。我々も日々訓練し、いざとなった時に力を存分に発揮できるように鍛錬を怠らないではないか」
「……戦争が訓練? ふふふ。面白いね、前田殿」
「ああ。やがて起きる神々の戦いの為に、人間同士を戦わせているんだ」
「それは奇想天外だね。楽しいよ。そのまま物語ができそうだ」
「だから、その為に神に選ばれし我々戦士は命を賭して頑張らなければ」
 前田が挙手注目の敬礼をすると善三が楽しそうに笑う。しかし、
「無謀とわかっていながらも」
 その言葉に一気に顔の表情を落とした。
「…………………」
 二人の会話を楽しそうに聞いていた他の士官学校の者らも、その一言に顔色を失した。 
 どうあっても戦況芳しからずという情報は伝わってきてしまうのだった。
 これから行く島の後方部隊として研修をすることになっているが、補給が追いつかず、この補給線が途絶えたら、その島にいる部隊は孤立した上に、餓えることになる。大事な任務だった。研修ではなく、もはや立派な兵隊の一員である。

 九四式六輪自動貨車の無線連絡に敵機襲来の報せが入り、善三たちは慌てて車から飛び降り、近くの草むらに隠れる。すると、壱式戦闘機「隼」の愛称として呼ばれているが攻撃し、敵機を大破させた。爆音が響き渡り、その衝撃が伝わってくる。
「すげえ……」
「かっこええなあ……」
 誰もがその雄姿に口を開けてみている。
「自分も航士に行くべきじゃったかな……」
 ひとりがそう呟く。
 確かに航空隊は花形のように見えた。
 地味に大砲を抱えて歩兵をする部隊よりも空で華々しく戦っている方が目立つ。
 しかし、それは常に死と隣り合わせという中での戦いに違いなかった。
 善三も憧れてはいるが、やはり恐ろしさの方が勝っていた。
「本当にすごいね」
 再び乗車した車に揺らされる。
「なあ、真野殿。基地の大将殿は宮様だから実際は中将殿が指揮を執っておられる。どのようなお方だろうね」
 善三はにっこりとする。
「きっと大きな身体で、大きな顔で、大きな声なんじゃないかな」
 士官学校の教官のひとりの特徴だった。
「やっぱり威張っている奴はみんな同じか!」
「前田殿ほど威張っている奴もいないと思うけど」
 善三がくすりと笑いながらそういうと、士官学校寮の同室の毛利が鼻を鳴らす。
「空威張りも大概にせんと後悔することになるぞ」
「なんだ、貴様」
 前田が大きな声を上げた。
 前田と毛利は気が合わないらしく常に喧嘩をしている。
 すると運転していた補給班の上官の堪忍袋の緒が切れたようだった。
「私語を慎めと言っているのが分からんか! 貴様ら。着いたら覚えておけ。今のうちによくケツをほぐしておくんだな」
 善三がげんなりとする。
 士官学校でも常に連帯責任で同じような目に遭っていたのだった。
 鉄棒で引っ叩かれ続けた尻はもう随分と固くなった気がした。
 目的の基地まで到着することができ、まずは全員鉄棒による尻叩きの刑を受けた後、待っていた資材を運搬していると、それを指揮していた上官が号令をかける。
 基地の責任者である中将が荷を確かめるために歩いてきたのだった。
「一同注目! 気を付け! 蒔田副司令に敬礼!」
 すると善三たちは手にしていた荷物を慌てて置いて、すっと背筋を伸ばして挙手注目の敬礼をする。
 蒔田中将が、うむ。ご苦労、と言うと、直れ! と号令がかかる。
 そしてにっこりと微笑んで、
「どうぞ、続けてください。お疲れ様」
 そう言った。
 皆は一瞬腰が砕けたかのようになる。それが軍人の言うきびきびとした言い方ではなかったからだ。そして、その容姿に皆は驚いて言葉が出せなかった。
 ―――どう見ても西洋人なのだ。
 茶色の瞳、透き通るような乳白色の肌、薄い形の赤い唇、日本人とは言えない容姿である。まるで西洋人形のようだと皆は思った。
 全員あんぐりと口をあける。
「貴様ら! 何をしている! さっさと動け!」
「はい!」
 一か月ごとに位があがり、数か月後にはその叩きあげの上官の位を軽く超えてしまう士官学校の生徒達だったが、今はまだまだ下っ端である。
 蒔田はくすりと笑った後、その場を去った。
 善三たちは、荷物を運びながらも、その蒔田中将のことで頭がいっぱいだった。

 その日の夜、夕食時に蒔田より挨拶があるということで、空腹に耐えながら皆はその挨拶を待っていた。
 食堂に姿を現すと、起立という号令がかかり、一千五百人ほどの将校が一斉に立ち、敬礼をする。直れと号令がかかると、一斉にざっと腕を下す音がした。
「諸君。今日は補給隊が無事到着して、武器も薬もこれで満たされた。そして嬉しいことに酒が大量に届いた。ささやかながら酒を振る舞いたいと思う。部隊ごとに支給するのでそれぞれが渡すように」
 酒樽を割り、ひとつを少将に渡すと有難く受取り、ひとりずつに杯が回る。
 士官候補生は特別待遇で、将校の一員としてその席に呼ばれていた。
 卒業式までのお預かりものであるから大事にしなければいけない。
「この基地を死守すること、これすなわち大本営よりの作戦遂行のための土台となる。よって、迫りくる戦いに気を緩めることなく日々の精進を怠らず臨んでほしい」
 厳しい表情だった。
「そして、諸君の一番の仕事は畑仕事であるから、部下をいかに働かせるか、そして住民の方々と仲良くし、どのようなものを栽培するべきかを相談し合い、よりよい作物をつくるよう」
 それを訊いて、前田がぽかんと口をあけた。
「それから、君たち」
 士官学校の生徒に蒔田が視線を動かすと、善三たちに起立と声が飛ぶ。
「補給隊と一緒に到着した士官学校の生徒たちだ。これから卒業までの間、どうか色々教えてやってほしい。皆、陸海それぞれ出身は異なるだろうが、学校が懐かしい気持ちは同じであろう。そして、隊付での良い思い出はなかなか忘れんだろう」
 皆が忍び笑いをするような声が響く。
 善三はやっぱりしごきが待っているのだと思った。
「では」
 蒔田が杯を持ち上げると皆が一斉に立つ。
「天皇陛下、そして大日本帝国に、乾杯!」
 一糸乱れぬ様子でざっと音をたて、一同が杯を上げる。
「乾杯!」
 そして、その畑仕事で作られたらしきものでの地元特産物での食材での晩餐となり、なかなか贅沢な食事に士官候補生たちは驚きながら、前田は善三に耳打ちする。
「……なあ。ここは農作物をつくる軍隊なのか?」
 善三がくすりと笑う。
「どうやらそうみたいですね」
 一番の上座にいる蒔田中将は食事が始まると、すぐ姿を消してしまった。
 起立、礼、着席の号令ばかりが繰り返されているうちに、空腹だった腹は悲鳴をあげていた。善三がバナナを嬉しそうに頬張りながら、おいしいと微笑む。
「前田殿。このバナナとても美味ですよ」
「我々も明日から農作業か?」
「楽しいですね」
 善三はにっこりとした。
 軍隊生活は士官学校での生活とあまり変わらなかったが、それでも様々な年齢や階級の人がいるのは緊張するし、何より戦地であることの緊張感は大きい。
 消灯までのわずかな時間に日記を書き、手紙を読んで、返事を書く。
 時間を有効に使わなければならないのは同じだった。
 善三は溜息を吐きながら、机に向かった。
 『親愛なる先生。いかがお過ごしですか。私はようやく部隊に到着し、いきなり戦闘機同士での戦いを見て、緊張しております。まるで学校とは違うのだと教えられたようでした。この訓練を終えて卒業式で先生からのお褒めの言葉をいただくことを目標に粉骨砕身し頑張ります。善三』
 ありきたりの手紙であったが、検閲を通るにはこれくらいで十分だった。
 一文字一文字に込めた思いをきっと受け取るから、大丈夫だとわかる。
 封をして明日郵便に出そうと思った。
 善三が部屋に帰ると、前田と毛利が珍しく口論ではなく、話し合いをしているように見えた。
「おお、そうかもしれんな。お、真野殿。貴君はどう思う? 蒔田中将の容貌について」
「え? ああ、うん」
 正直言ってどうでもよかった。
「自分は、西洋の人とのあいのこだと思う」
「あいのこ…母親がロシア人とか?」
 毛利が指を顎に触れながら考えるように言うと、善三が目を輝かせる。
 どうでもいいと思っていたのは束の間だった。
「それは大いにあるかもしれない! 帝政ロシアの生き残りの人とか」
「もしや…ロシア皇室の王女を匿ったとか?」
 前田が考え込むような表情でそう言うと、
「そうかもしれない!」
 善三が嬉しそうに言った。
 一番興味津々の様子である。
 そうして勝手に蒔田中将の母親は白人の美女で、その皇帝の血を引く王女に一目惚れして恋に落ちたという軍人の父親のロマンス話が膨らんでいった。
 そう結論づけて、三人は穏やかに眠りに入っていった。


 ******** 


 やはり隊付き訓練業務は予想した通り、農作業だった。
 しかも、蒔田中将自ら鍬を揮うので、皆は率先してそれを行なう。
 士官学校では農業の授業はなく、善三も前田も毛利も戸惑ってしまった。
 士官候補生の中で、華族なのはこの三人だけで、蒔田は三人を中将付きとした。
 善三たちは、昨日の勝手に作り上げた中将の両親のロマンスが頭から抜けないながらも、蒔田と同じように畑を耕す。
「軍隊の中ではあまり家柄は関係ありません。階級のみの社会ですからね」
 ひとしきり作業が終了したところで、蒔田がそう言った。
「はい!」
 善三たちは直立不動して、それに返事をした。
「ふふふ。そう緊張しなくてもいいから」
 その優しい口調に、善三は鍬が重く感じると思った。
 そして蒔田の顔をまじまじと見る。
 連日農作業をしているにも関わらず、肌の白さは変わらないものだなとじっと見てしまったのだった。
 汗を拭いながら、その視線に蒔田がくすりと笑う。
「どうした?」
 善三は顔を真っ赤にする。
「あの! 自分は! その! 中将殿のお顔は日に焼けないのだなと思った次第で!」
 緊張の上、慣れない言葉づかいで棒読みのような言い方になった。
 前田が、このばか……と言いながら、ガツリと善三の足を蹴る。
「失礼いたしました!」
 善三が腰を九十度に折った。
「いいよ。ああ、では、直れ。……そうだね。少し赤くなる程度ですぐ戻ります。先祖代々皆似たような顔で、相当強い血が入っているようです」
 ロシアの王女とのロマンスの話が遠のいていく。
「私の下の名前は慈音(じおん)。少々変わった名前でしょう。開祖の名前はマキシミリアン・ド・ベルナドット・蒔田。祖父が公爵に叙せられて、現在、私がそれを引き継いだ」
 三人は驚いた。
 公爵位というのは指五本で数えられるくらいの家にしか与えられていなく、蒔田という公爵がいることをまったく知らなかったからである。
「驚きましたか。宮様は驚くというより蒔田と訊いて怖がりましたが。君たちは知らないようだね」
 はい……と三人は返事をする。
 華族の全てを掌握するのは難しいが、公爵家は目立ち、知らぬはずがないと思っていた。
「明治前までは長崎にいたようで、その開祖が西洋で位の高かった者らしく、そのまま華族の一員となったと訊かされているが、実のところはよくわかっていない。とにかく何故か我が家のことは隠されているらしい」
 生粋の日本人である。
 ロシアロマンスは完全に消えていた。
「だから、君たちは私付きにしてもらった。やはり同じ立場の者同士の方が気楽でね。私付きということは宮様付きだ。よろしく頼むよ。さあ、後はここの豆を収穫して、それから朝飯としよう」
 すると三人の腹が一斉に鳴った。

 朝食後は演習が始まると思ったが、演習というよりもまたもや作業だった。
 ひたすら穴を掘る。掘って掘って掘りまくる。
 農夫と土方の両方を午前中に行うのが日課となり、その後は、蒔田中将の雑務をした。
 善三たちの部隊とは、パプアニューギニア、ニューブリテン島のラボールというところで、数万人の陸海軍の将兵が集まる要塞だった。
 敵襲に備え、地下壕を作っていたのである。

 日本の陸海軍は聯合艦隊として、南方戦線へと繰り出していた。
 それは、何故か。
 事の発端は、
 一九三七年、昭和十二年に起きた、支那事変、日中戦争である。
 それがなにゆえに東南アジアに行くことになったのか。
 そもそもの戦争の始まりは、中国の内乱に巻き込まれたというものであった。
 日本が、日本寄りで反共産主義の汪兆銘の政府を応援したところ、敵対する蒋介石の政府をソ連、アメリカ、イギリスが応援し、日本は孤立無援ながらも戦うことを強いられたのだった。
 石油を握っていたアメリカが、国内産業を支える為、エネルギーの確保は再優先としている中、その石油が欲しい日本を制しようと中国に加担して敗北させるつもりだった。
 しかし、なかなか屈しない日本に業を煮やし、さっさと片を付けようと石油の日本への輸出を全面禁止し、その仕打ちに日本はぶち切れた状態となり、アメリカへの開戦を表明し、攻撃を開始した。それが、
 一九四二年、昭和十六年、真珠湾攻撃である。
 この攻撃を機にアメリカは戦争に正面切って参戦する口実を得て、世界大戦に入り込んでいく。
 フィリピン、マレー半島、シンガポール、香港、ビルマ、ボルネオ島、ジャワ島、スマトラ島に日本は侵攻し、重要拠点を全て掌握した。
 アメリカ軍、イギリス軍を破竹に勢いで破っていったのである。
 ここまでが太平洋戦争における第一段作戦であり、華々しい戦果をあげた日本帝国軍は、世界最強軍隊と鼻息が荒かった。
 そして、石油を取った後は、陸軍としては目的を果たしたのであり、それを国内産業に反映させたく、早期に戦争を終わらせたかった。しかし、連合国側が和平に応じなければそれは難しく、その切り札になるものを模索していた。
 その結果、連合国側のアメリカの輸入で何とか経済を廻しているオーストラリアへの物資供給を止め、兵糧攻めにして降伏させ、連合国を解体させようという方針を取った。
 海軍は海戦で暴れることができ、陸軍としても戦争を終わらせることができるということで双方の意見の一致を見たのだった。
 オーストラリアが戦線離脱すれば、東南アジアでは日本は向かうところ敵なしとなり、イギリスとアメリカの協力関係も危うくなる。それならば容易に和平に持ち込むことが可能になる。これで行く、きっとそうなる、軍上層部の机上ではそう結論を出した。
 それが、『米豪遮断作戦』、東南アジアの島々にあるオーストラリアの基地を次々に奪い、アメリカとオーストラリアをつなぐシーレーンを断つというものであった。
 ニューブリテン島のラボールは、もともとドイツが開拓した町であったが、第一次世界大戦時にオーストラリアが占領し、基地拠点として重要な存在となった。
 そこを日本軍が占領して、要塞を築いた。
 しかし、この南方戦線は困難を極めることとなった。
 ラボールに拠点に置き、珊瑚海海戦と呼ばれるアメリカの空母と日本帝国軍の空母が激突をし、オーストラリアのポートモレスビー基地を占領しようとしたが、その海戦での損失が大きく、敗退はしなかったが、ポートモレスビー占領という目的を果たせなかったのである。それは、事実上の作戦失敗であった。
 第一段階作戦で無敗だった日本帝国軍にとって大きな痛手となった。
 ラボールは、オーストラリアの基地を攻略していく上で重要な拠点である。
 難攻不落の要塞でなければならず、空襲にも兵糧攻めにも耐えなければならない。
 よって、食料の自給自足と、破壊されない頑丈な基地を作らなければならなかったのである。


 *********


 蒔田は、司令官室の扉を開ける。
 司令官は大将である明治帝の弟宮の家系の萩王だった。
「失礼いたします」
 敬礼をしたが、机上の海図を睨んでおり、萩王は返事をしなかった。
 毎日、一日中そうしているのである。
「お食事にしませんか。夕飯をお持ちしました」
 その言葉にぴくりと反応するように顔を上げる。
「……私の分があるのか……?」
 蒔田がふっと笑う。
「勿論です。宮様に食べていただくために自分は畑で作物を育てているのですから」
 珊瑚海海戦の敗戦から衝撃を受けており、制海権を取られ、船が来なくなれば補給も途絶えると怯えていた。
 殆ど建物から出ず、上がってくる書類だけを眺め、周囲の戦況や状況を無線で聴いているばかりでは、疑心暗鬼になるのも当然のことであった。
「ジオンも一緒に食べぬか」
 陸軍士官学校で一緒に学んだ時からずっと共に過ごしていた間柄である。
「はい。ではご相伴仕ります」
 皇族にとって蒔田とは、長崎の五島列島の中のひとつの島、神の島に住む神の一族のことで、自分たちが信仰する神道とは別のものとして畏怖の念を抱いていた。
 皇族も神の子孫としてその血を絶やすことなく連綿と続いているが、蒔田一族も同じようにその血を繋いできた。
 ただ、世間からは身を隠すようにしており、神の血族であるというのは、皇族しか知らない事である。
 最初に士官学校で同窓になると訊かされた時は、萩王は恐怖心が湧いた。
「それから、今日から我々の面倒を見てくれる者たちを紹介しましょう」
 善三たちが通される。
「こちら、前田侯爵の嫡男、前田利貞殿」
 前田がぴしっと背筋を伸ばした後、腰を九十度に曲げる。
「こちら、毛利公爵の四男、毛利春元殿」
 毛利も前田と同じ角度に身体を折る。
「こちら、真野公爵の三男、真野善三殿」
 萩王が、腰を折る善三の姿を凝視する。
「ああ、君が真野君……。妹の降嫁先の一番候補だった…」
「大変申し訳ございません!」
 蒔田がくすくす笑う。
「昔話でしょう。すでにもうご降嫁遊ばしているではありませんか。では、膳を運ばせます」
 それを訊いて三人は二人用の食膳を用意した。
 運ばれたものは一汁一菜ではあるが、野菜の煮物は様々な種類の野菜が入っており、栄養も豊富だった。
「皆は、妻はいるの?」
 蒔田がその問いに答えるよう頷く。前田が先陣を切る。
「自分は、卒業式の日を祝言にする予定の許婚がおります」
「え? そうなの。だってすぐまたここに戻ってくるのでしょう?」
「はい。昔からの約束でありますので」
「そう…君は?」
 毛利が持っていた急須を配膳の机に置き、直立不動になる。
「自分には妻がおります。もうすぐ子供も生まれます」
 前田と善三が驚く。訊いていなかったことだった。
 意外そうな二人の表情を見て毛利はにやりと笑った。
「そう。それは楽しみだね。君は? 真野君」
 善三が居たたまれないような顔をする。
「……自分は、思う人はおりますが、結婚はできません」
「へえ……。それは意味深長だね。不義密通というわけではないだろうが。身分違いなのかな」
「……身分……」
 そういうことにしておこうと思った。
「はい。そういうことです」
 前田がこれはいいネタを仕入れたと言わんばかりの顔をした。
 茶を注ぎ、飯を碗に盛り、二人の食事の世話をしながら、三人は語ってしまっただけにそれぞれの愛しい者を思い浮かべていた。
 ―――不義密通でも、身分違いでもない。なのに隠さなければならない。
 善三は前田や毛利のようにはっきり言えないことに傷つく自分を必死に消そうとしていた。でも、二人の間には誰も入れないほどの強い絆があるのだ…そう心に言い聞かせていた。
「宮様。お喋りはその辺で。どうぞ召し上がりください」
 善三は、蒔田のその言い方に、萩王の前では中将ではないのだな…と思った。
 二人の食事の間、三人は別室で食事をし、二人の食事が終わるころには片付けにいくのでのんびり食べている時間はない。早食いはすでに士官学校で身に着いていた。
 食事の後は、入浴となるため、皇族用の浴場の風呂釜の薪をくべる。
 善三はその作業をしながら、今までは自分が風呂を沸かすことなどなかったとしみじみその作業の大変を思った。それは前田も毛利も同じだった。
「……なあ。我らは貴重な体験をしていると思わんか…」
 家では全て家人に食事を用意してもらい、風呂を沸かしてもらい、寝具の支度もしてもらい、着物を着せてもらい、武術の訓練をするにも道具は揃っており、その後の片付けもしてもらい、洗濯もしてもらい、何もかも欲しいと思う前に目の前に用意されていて、それを当然のように受取り、使っていた。
 毛利が小さく舌打ちする。
「これしきのことを貴重な体験というなど、貴様はさぞかしお坊ちゃまとして育てられたのだろう」
 毛利が四男ということから、おそらく正妻腹ではないだろうと容易に想像できた。
「いちいちうるさい奴だな」
「お二人とも、宮様に聞こえてしまいますよ」
 バキバキという薪の音に、毛利の舌打ちは消される。
「私も前田殿の意見に同意。こんなに長く息を吐くものだとは、そしてこれほど加減が難しく熱くて煙いものだと知りませんでした。何事もやってみなければわからないもので」
 蒔田が萩王の背中を流しているのだろうと湯を流す音が聴こえて、お喋りを戒められたような気がして、三人は肩をすくめる。
 すると蒔田の声がした。
「もう十分熱くなったから君たちはもういいよ」
「はい!」
 煤だらけになった三人は大声をあげた。

 その日の業務が終了し、消灯時間間もなく部屋に戻ると、前田はいきなり善三の頭を撫でた。
「何? 前田殿」
「身分違いで結婚を反対されているのか?」
 白状させる気満々である。
「語るような話ではありませんよ」
「いいじゃないか。訊かせてくれよ。今までも写真のひとつも見せてくれなかったじゃないか。毎日毎日恋文を書き続けているのはわかっているんだ」
「前田殿だってあまり言っていなかったじゃないか」
「生まれた時からそう決められている相手だ」
「そう。楽しみだね」
 しかし、わずか数日の夫婦生活となる。
「……いや。そういう話だったが、ラボールの看護婦になるから断ると便りが来て……」
「え?」
「夫婦になれなくとも、近くにいたいと言っていたらしい」
「えええ? 前田殿を追いかけてここまで来ると言うの?」
 その話に訊かぬふりをしていた毛利が「はあぁ」と大きく溜息を吐く。
「くだらん」
「……毛利殿! 無礼ですよ」
「前田殿の近くにいれば百年の恋も醒めると知らんからそんな無謀なことを試みる」
「なんだあ、貴様!」
 いつもの展開で、いつもの取っ組み合いで、いつもの叱られるパターンである。
 そして部屋全員に往復ビンタもしくは尻叩きが待っている。好きな方を選べと言われる場合はたいてい両方である。
 善三は、その二人のやり合いを見ながらも、前田には悪いがまったく違うことを考えていた。萩王と蒔田の間にある空気は独特のもので気になったのである。
 ……もしかしてあの二人……。
 首を横にふる。
 ――――ここは戦場である。
 仲間を求めたくてそう思えたのかもしれないとその考えを打ち消すように机に腰掛け、日記を広げる。しかし上官が飛んできた。
「何しておる! 貴様ら!」
 開いたばかりの日記を閉じて、はあ……と溜息を吐いた後、腰を上げる。
 ひとしきり往復ビンタを打たれ、頬がひりひりする中、ベッドに入る。
 この二人と過ごす限りには、これはほぼこれからの日課になるだろうと覚悟した。
 ベッドに入れば自由になれる。
 身体は浮遊して内地に飛んでいく。
 そして、あっという間に東京に着き、新橋の家に辿り着くのだ。
 玄関扉を開けると、帰宅したばかりの先生がいた。

 ………おかえりなさい。先生。お疲れ様でした。

 ………ああ、善三。ただいま。帰っていたのか。

 ………ええ。一足先に。

 ………どうじゃった、勤めの方は。

 ………今日の展開はなかなか厄介でしたが、手応えを感じました。

 ………そうか。うまくいくといいな。

 ………はい。頑張ります。次の公判で必ず反論できないようにします。

 ………おお。いっぱしなことを言うようになったな。

 ………これでも少しは実績を積んでいるんです。

 ………そうじゃった、そうじゃった。はははは。善三は立派な弁護士先生じゃ。

 幸せな夢である。
 夢の中にいることがわかると思えるほどの夢のことだった。
 このまま朝まで幸せの夢の中にいたいと望んだ。
 戦争は泥沼化が避けられぬ状態になってしまったとわかる。
 卒業してすぐさまラボールに戻ってこなければならないのだと覚悟している。
 今はまだ研修の気楽な身分だが、正式に配属されれば小隊長となり、前線に行く事を覚悟しなければならない。陸軍大学に行けるかどうかは成績によるが、自分が前田や毛利より劣っていることはわかっていた。全国の優秀な者が集まっている中で、更に誰もが必死に勉強していて、それでも進学できるのは二割程度である。
 自分はふるい落される方ではないかと気弱な考えが占めていた。
 帝国大学を首席で卒業した長兄の秀一も海軍大学校に行った次兄の誠二も優秀で、自分はつくづく凡人だと思った。

 ………そんなことはない。善三も優秀じゃ。

 ………ふふふ。ありがとうございます。先生。

 ………まったくお前はすぐ気弱になる。ほれ。もう寝るぞ。こっちに来い。

 ………はい。

 幸せな夢である。


 ***********


 蒔田中将の一日は多忙である。
 朝の農作業が終わり、朝飯を食べた後は各施設を一回りする。そしてその各隊長の様子を訊き、問題になっていることがないか、新たな提案はないか、情報収集し、的確な指示を与える。
 午後からは大本営本部からの指令を受け、航空隊幹部たちとの会議に追われる。
 善三たちはその日は土木作業をせずに蒔田の日課となっている視察についていく。
 基地の全貌は驚くほど未来的な建造物であった。
 地下五層、エレベータで行き来し、地下には戦闘機の格納庫があり、地上に出る滑走路がある。
 その格納庫に行くまでの間に工場ができあがりつつあった。
 内地より武器弾薬が届かなくとも、材料さえ供給できれば製造することができるのだ。
「飛行場に並んでいる戦闘機は贋物なのか……?」
 前田がぽつりと呟く。
 蒔田の耳にそれが届き、にこりと笑った。
 燃料も入れずに飾りとして置いてある戦闘機を爆撃して空襲を果たせたと敵に満足させる為のものであった。
 だが、その前に航空隊は敵機を爆撃するため、『見本』はそのまま温存されている。
 世界一の腕前のパイロット集団の前に、空襲を試みるなど無謀だと知らしめているようでもあった。それでも念には念をいれて地下深く基地を作っていたのである。
 格納庫に整然と並ぶ零式戦闘機は圧巻である。
 蒔田が姿を見せると、飛行兵や整備兵たちは作業をやめて敬礼する。
「ああ。そのまま続けてください。伍長、手を止めなくていいとしてください」
「は!」
 格納庫を拡張工事している隊もあり、数千という兵士が働いている。
 蒔田が歩けば、そこには敬愛の眼差しを向け、整然と敬礼して並ぶ兵士たちがいる。
 その蒔田の供をしていることに羨望の視線を受ける善三たちは、見習士官の階級章が恥ずかしくなった。
 そして、視察の中で一番驚いたのは、最下層にあるエネルギー施設だった。
 地熱を利用した電力を蓄え、基地中の電気を供給し続け、そこから繰り出される動力で工場生産を可能にしていた。
 活火山から得られる地熱エネルギーの開発で三百メガワットという莫大な電力を生み出すことに成功した日本の技術の粋を集めた最先端の場所である。
 各扉は自動で開き、大きな扉も難なく開閉できる。
「驚いたか? 日本の優れた技術者が結集しているからね。何でも作ってくれる」
 未来の世界に来たのかと三人は言葉も出なかった。
 善三は他にも驚くものが出てくるのではないかと思った。
 湯が張り巡らされ、熱気はあるが、それほど放出されておらず、基地の中は温度も適温に維持されており、換気も十分にされていて空気はきれいである。
 三人は、この湯を使って風呂に入ればいいのに…と思ったが口にしなかった。
 蒔田がくすりと笑う。
「薪で風呂を沸かすのも訓練のひとつだ。前線では自分で火を熾さなければならないからね。生活の利便性を求めて作っているわけではない」
 ……別に何も言っていないのに……と三人は黙り込んだ。
「それに、星が見えないところで寝るのはいささか寂しい」
「副司令! 自分はこれほどの施設と驚いている次第です!」
 前田が敬礼しながら言うと、蒔田が微笑む。
「勝つことも大事だが、負けぬことも大事だと思っている。だが、ここの欠点は空母までは作れないことだ。さすがにそれは大きな造船施設が必要になる。ここで作れるのはせいぜい戦闘機止まりだ」
 珊瑚海海戦で喪失した空母の代わりがなかなか寄港できなかった。
「空母がなければどれほど優秀な航空隊があっても戦場に行けない。宝の持ち腐れになってしまう」
 呟くように言った。
「ふ。愚痴をこぼしてしまったか」
「い……いえ!」
 この基地ごと空母にしてしまえばいいのでは…などということを言ってはいけないと空想好きな前田は言葉を切った。
「君たち、受験勉強は進んでいるか? 作業は少し休むといい」
「は! ありがとうございます!」
 善三も毛利も同時に声をあげた。
 これで合格しなかったら、どれほどの恥をかくのだろうと背筋が寒くなる。
 吹き抜けになっている格納庫の地下四階の通路に行き、同じ角度で並ぶ空母一隻分はある戦闘機を眺めながら、蒔田が少年のように嬉しそうな表情をする。
「いい眺めだろう。私は航科に進まなかったが、行けばよかったと後から後悔したものだ。君たちもそうではないか」
 三人とも騎兵科の為、空とは無縁である。
 一番人気の騎兵科であるが、空中戦が戦手法の主流となる中、意味のない兵法もなりつつあった。しかし、三人とも先祖に引き摺られるものがあったのだった。
「自分は……、侍である先祖と同じ気持ちになりたくて志願しました……が、確かに今は航空科の時代であります」
 善三がそう言うと、前田も毛利も似たような表情をした。
「そうか。君たちは勇猛な武将の子孫だったね。ふ。うらやましい」
 三人とも恥ずかしくなる。歴史の授業で先祖の名前が出てくると席を立ちたくなるものだった。
「鎧兜を着たことがあるの?」
 蒔田がうきうきとした表情をすると毛利は赤い顔をした。
「……自分は着せてもらいました。……長州征伐の戦いでの砲弾をかすめた痕がありました」
「そう! それで?」
 楽しそうな顔をされてしまう。
 三人は、西洋人のような顔の人に言われると、まるで欧米人に説明しているような気がしてきた。そして、侍の話がそれほど楽しい話だとは思わず複雑な表情をする。
「やはりね……、サムライは男子の憧れだろう。帯刀の儀の時にはあまりに嬉しくて感動してしばらく放心状態になったものだ」
「……………」
 悦に入った様子で語られ、刀は玩具じゃない……という腹立たしさと、何か少し違う、というような思いに駆られて三人はすぐ答えられなかった。
 確かに刀は武士の魂だが、持って嬉しいものではない。
 善三など、当主代々に受け継げられる刀はついに触らせてもらえなかった。
 おそらく持たされた暁には、嬉しいというよりも恐怖の方が大きいだろうと思った。
 しかし、それは嫡男である兄の秀一が受け継ぐものであり、永遠にその時は来ないはずである。
「家名は重いです」
 前田は口をついで出てしまったと焦り、ばっと手で口を塞ぎ、失礼いたしました! と背筋を伸ばす。
 蒔田が長く息を吐く。
「そうだね。どうしてもそれに縛られてしまうね。自分が気にしなくとも周りはそう受け止めない。だからその期待に応えなければならないと気負ってしまう」
「………はい。おっしゃる通りです」
 前田が色々な思いが押し寄せてくるような表情をして、それでもその言葉に助けられていた。
 毛利が拳を握る。
「……家名というならば、自分は……。学校では会津出身者に随分と苛められました……」
 毛利は息を抜くように言った。
「名前だけで鬼だと言われて、仇をとってやると言われ、散々な目に遭いました」
 蒔田が同情した眼差しを向ける。
「無用な争いだ。未だに引き摺っているとは……。親御さんに言えばすぐ解決するどころか、相手の子は追い出されただろうに」
「……そんな卑劣な真似はしたくなかった。……所詮は子供の喧嘩でしたので」
 悔しそうな表情だった。
 自分は何もしていないのに、幕末の先祖のことで苛められることへの理不尽さと、憎まれてしまうことの悲しさに必死に耐えてきた様子が読み取れた。
 また、前田のように他の大名出身者にとっては、毛利、島津家の専横へのやっかみがあった。明治以降の日本は薩長が作ったものである。
「……嫌われ者は慣れています。だから強くあろうと心がけてきました」
 唇を噛み締める。
「そう。毛利君は偉いね。それが長州魂なのかな」
 毛利は思わず目を伏せた。
 前田も善三も弱さを曝け出した毛利の様子に衝撃を受けていた。そんな毛利を初めて見たのである。
 前田は今まで毛利のことを長州長州とからかってきたことを反省していた。
 蒔田が毛利の肩をぽんと叩く。
「そして今は君らサムライが戦う時だ。互いに先祖に負けぬよう頑張ろう」
 蒔田は自分に言い聞かせるようにもそう言って先を歩いていく。
 三人は姿勢を正して敬礼した。
 蒔田の先祖について訊いてみたかったが、それは憚られた。
 それよりもたった数日で蒔田の人柄に触れ、すっかり魅了されていることを自覚していた。人をぐいぐいと引っ張っていくような力強さがあるわけでもなく、何か惹きつける言葉を発するわけでもない。しかし、絶対的な安心感を与えられる。
 その不思議な安心感に癒され、自らの力が高まっていくような気がするのだった。
 もっと長くそばにいたいと思わせられる、そんな人物であった。


 *********


 消灯時間になれば士官学校はしん…としたものだったが、基地は交代制二十四時間稼働の為、何らかの音が聴こえてくる。
 そして大本営からいつ連絡が入ってくるかわからないため気が抜けない。
 ましてや奇襲に常時備えていなければならず、ぐっすり眠ることなど許されない。
 様々な暗号で行き交う無線の音を聴きながら、蒔田はそんな不夜城の中の自分の執務室で様々な報告書に目を通していた。電燈は節電せずにも堂々と使える。
 すると扉が開けられる。
 萩王が酒を左手に持ち、立っていた。
 蒔田が書類を捲る手を止め、にっこりと微笑む。
「どうなさいました、宮様。こんなところまで。眠れませんか?」
「ああいうのが君の好みか」
「…え? 何のことです?」
 口調からして酩酊状態だった。こういう時は少々厄介だと蒔田は覚悟した。
「真野が気に入ったのだろう? なるほど可愛い顔をしている」
「何をおっしゃっておられるのか。意味がわかりません」
 萩王は酒瓶をそのまま口に持って行く。
 ごくりと飲み、くっと笑う。
「あんな奴に妹にやらなくてよかった」
「どうなさったのですか? 真野が気に入りませんか?」
 萩王がしかめ面をする。
「ああ。好かぬ」
「…ならば、仕方ありません。こちらでの役目を外しましょう。前田と毛利だけにしましょう」
「そうだな。奴は、航空隊の方にやらせればいい」
「真野は騎兵科です」
「何を生ぬるいことを。ここで覚えればいいではないか。陸も空も勉強しておけば士官となった時により有望な人材となる」
「もうすぐ受験です! もっと勉強する時間を与えてやらねば!」
「もうすぐ? まだ一年以上先の話だろう?」
「一年しかないのです。それほどの難関だから日々の勉強が大事なのです」
 皇族は陸軍大学に無試験で入学できる。萩王にとって興味のないことだった。
「ジオン」
 慈音という発音とは違い、「ZION」と独逸語の講師が発音した言い方が気に入ってそのまま使っていた。尤も、蒔田を役職や階級、姓以外で呼べるのは萩王のみである。
「………はい…」
「そんなに可愛いのか?」
 蒔田が唇を噛む。
「可愛いとか可愛くないとかそういうことではないでしょう。それに、それを言うのならば、ここにいる基地全員の者が可愛いです。皆、これから我が国を背負っていく前途有望な若者たちです」
「ああ皆若いな。私のように三十を過ぎればもはや老人か」
「宮様……。そのようなことを言っているのではなく……」
「とにかく、奴はもう来なくていい!」
 ぐいっと空になった酒瓶を蒔田の腹部に押し付ける。
 これ以上何を言っても無駄であるとでも言うように。
「……わかりました。早急にそのように伝えます」
 その瓶を蒔田が受取ると、萩王はなかなか瓶を離さず、右手を差し出す。
 それは、夜伽の合図である。
 蒔田が青ざめたような表情をした。
 酔うと雅な皇族らしい振る舞いなど脱いでしまった殻のようになり、本能をむき出しにしてくる。蒔田は差し出された右手を取り、その甲に唇を寄せる。
 もう長くそういう付き合いをしていた。
 縁談が持ち上がれば萩王が徹底的に潰し、誰一人そばに寄らせなかった。
 男であろうと女であろうと。
 そして、それに流されるままに流されてきた。きっとそれも縁のひとつであろうと観念していたのだった。
 軍隊生活は密着して生活するには実に恰好の場所である。二十四時間三百六十五日常に一緒に過ごすなど夫婦以上である。
 萩王との目合いは甘美であるよう務めさせられ、萩王を徹底して愛撫し、昇天させるほどに高める。萩王が達したところで、敵機来襲のサイレンとブザーが鳴った。
 萩王は身体をぴくぴくとさせながら、起き上がれずにいるところ、蒔田は衣服を整え、萩王の寝室のベッドから離れる。
「行って参ります」
 萩王は恍惚とした艶めかしい表情でそれを見送った。


 **********


 蒔田が執務室に戻ると、善三たちが指示を仰ごうと待っていた。
 ――――敵機来襲。各自戦闘配置につけ。
 けたたましくなるブザーとスピーカーからその声が響く。
「指令室に行く!」
「はい!」
 そう言っているそばから被弾したようで、その震動が伝わってくる。
「……いったい何機だ……」
「蒔田副司令!」
 参謀たちが集まり、その指示を待っていた。
「数は!」
 複数の巡洋艦から連絡がひっきりなしに入っていた。
 ―――敵空母を確認! 戦闘機百五十機確認!
「……百五十だと……?」
 未だかつてない数だった。
 その無線の後、衝撃音が聞こえて無線が途切れる。
「!」
 撃沈した様子が想像できた。
 蒔田が拳を握る。
「……空母を近づけるなど、海軍は一体何をしている……」
 駆逐艦が爆破されたことを物語っていた。
 空母から飛び立った戦闘機は夜間にも対応できるものだった。
 航空参謀の鹿島が蒔田に敬礼する。
「月光(夜間戦闘機)を出します。船をこれ以上沈められたらここが丸裸になる」
 最新鋭の戦闘機でまだ訓練中のものだが、軽量化に重点を置いた戦闘機が夜間に飛び立って行っても役に立たない。数は少ないが出て行くしかなかった。
「はい。頼みます。では、その他は迎撃砲弾準備! 確実に敵機を狙い落とせ!」
「真野! 前田! 毛利!」
 蒔田の張り上げる声に三人は姿勢を正す。
「はい!」
「この記録を任せる。できるだけ詳細に記載するよう! 暗号くらいわかるな!」
「はい! 承知いたしました!」
 三人は暗号書を片手に暗号士と一緒に無線機の前に位置する。
 迎撃砲弾が火を噴く衝撃も基地内に拡がる。
 ―――蒔田中将の健闘を祈る! 天皇陛下万歳!
 またひとつまたひとつと無線が途絶える。
「鹿島さん。零式も出してください。遠くに行く必要はありません。基地の周回で充分です。陽動作戦を行います」
 蒔田が地図を広げて、その空母のいる位置を確認する。
「ここから飛んで、何とかここの滑走路に敵を呼び寄せるようにしてください。ここに砲撃を定めます」
 鹿島がそれを受け、マイクを握り、指示を与えていく。
 砲撃参謀の木村もその位置について照準を定めるよう指示を出す。
 蒔田が地図上に拳を叩きつける。
「……見ていろ。全部落としてやる……」
 その迎撃砲弾は、開発に開発を重ねて極秘にラボールの工場で生産したものであった。
 まだ試作段階であったため、大本営にも完成の報告をしておらず、理論上の成功のみだったが、試してみる価値はあった。
 すると狙い通り、滑走路から飛び立つ戦闘機を目がけて飛行してくる敵機がきた。
「木村さん。十分敵機を引き付けてからです。恐らく地上の機を全て破壊したと油断していて叩きにくるはずです。鹿島さん、零式にはなるべく早く飛び立つよう指示をお願いします」
「ふふん。ゼロより早く飛び立てる飛行機なんぞありゃせん。夜目でもやってやります」
「危険は承知の上です。任せました」
 爆音が絶え間なく続き、その震動で基地は揺れるが、崩れるようなことはなかった。
 善三が恐怖に筆記をする手が止まりそうであったが、頑丈な造りの要塞にもおののいていた。前田も緊張に手が震えていた。
「…愛宕からの通信が途絶えました」
 重巡洋艦である。それには武勲名高い海軍大佐が乗船しているはずである。
 蒔田は表情を変えない。
「続けろ」
 戦況が悪すぎることはわかっていた。海軍が総崩れであるならば自力で何とかするほかない。
 すると、夜間飛行に慣れている連合国軍の戦闘機がラボールを囲むように飛行してきた。
 敵の新しい兵器を見る度に敵の莫大なる国力を見る気がしていた。
「いいですか。木村さん。ここで被弾したら、後機はこの場所に飛んでくるはずです。第二砲撃はここに狙いを定めてください」
「はい。承知いたしました!」
 問題はその砲撃がしっかり迎撃としての役目を果せるかである。
 蒔田は祈るように手を組んで肘をつく。
 すると、内部で爆発が起きたのかというような爆音がして、皆は思わず耳を塞ぐ。
 その瞬間に複数の敵機が大破していた。
 それを見ていた敵機パイロットは、砲撃地点をすかさず計算し、その場所に向かう。
 それこそが蒔田の狙っていた場所だった。
 ミサイルを発射しようとした戦闘機は、別方向から狙われているとは思わず、その火を噴く前に墜落していった。
 その砲撃の状況に、いったん空母に引き返そうとしたが、待ち構えていた月光の攻撃を受け、敵機は挟み撃ちにあったようになり、墜落していった。
 ―――空母が動いていきます。追いますか。
 蒔田がふう…と息を吐く。
「いい。追いかけるな。皆、帰投せよ」
 とりあえず、奇襲の空襲を防ぐことができた。
 鹿島と木村がパチパチと拍手する。
 蒔田がそれをやめるように手をひらひらとさせる。
「これで秘密兵器が知れてしまいました。どんな手を打ってくるか、こちらもその対策を練らねばなりません。それぞれ至急対策案を出してください。明日の夜にその作戦会議をしましょう。では後の処理をお願いします。私は宮様に報告してきます」
「は!」
 全員が起立をして敬礼で蒔田を見送った。


 ********


 空襲の被害は小さなものではなかった。格納庫を拡張しようと建設中の箇所が破壊され、各所の電力供給網が破られていた。それらの修復に全力を尽くしていくほかはない。
 その段取りが落ち着き、海の守りが手薄になったことから容易に海岸線に近寄らせることを想定して、島の他の場所から上陸されることを阻止する作戦を練り、島全体に支隊を置くという提案を受け入れ、それを大本営に報告していた。
 大本営は、空襲に耐えたことでラボールは難攻不落と安心してしまい、それを誇大宣伝するよう報道関係に圧力をかけ、戦況厳しいことについて国民を目くらましにした。
 また、守りに重点を置いておらず、それよりもラボール航空隊をどう使おうかそれに着目していた。
 蒔田は航空隊の機動力を高めるためにも早く空母を寄港させてくれと言ったが、なかなかその意見が通ることはなかった。
 重巡洋艦と駆逐艦があっけなく沈められる状態では、制空権制海権ともに取れず、戦況は敵方有利となる。
 そして、その理由が明らかになった。
 米豪遮断作戦とは別に、アメリカ軍の給油基地のミッドウエイ島を取ろうという作戦が進んでいたのだった。上陸作戦は困難であることから、海戦による決戦を目指し、それに勝利し、一気に和平に持って行くという作戦が決定されたのである。
 それを知らされた時、蒔田は目の前が暗くなった。
 ラボールを捨石にされると思ったからだ。
 米豪遮断作戦に邁進しているふりをするための、そう敵の目を欺くための道具にされる。だから空母など寄越すはずがないのだと。
 燃料も豊富にある。地熱発電をしているなど、敵もそのまま欲しいに違いない。
 補給などされなくとも武器も作れるよう生産工場が完成した。だが、まだ大本営への報告を踏みとどまっていた。暗号を解読される危険があるからで、それが知れれば敵は何としても上陸して占領しようとするに違いなかった。
 だから逆に補給の必要性を訴え続けて、ここを兵糧攻めにできると思わせておくのが得策であるとしてきた。
 しかし……何の為にここまでの要塞を作り上げてきたのか……。
 今、オーストラリアを徹底的に潰さなければこの戦の先はないのではないか? 
 どう考えてもそこに総力を上げるべきだろう!
 何の為の戦略か!
 なぜ今ごろになってハワイ占領を目指す! 真珠湾からそのままやればよかったではないか!
 握った拳に汗がにじむ。

 ……迷走している………。

 軍の上層部の面々の顔を思い浮かべ、唇を噛む。
 中には陸軍士官学校同窓の者もいれば、陸大同期の者もいる。
 自分への敵愾心を露わにしていた冷徹な性格の辻参謀の顔が浮かび、大きく息を吐く。
 わかっていた。この日本人に見えない顔が気に入らんということは。
 何でも杓子定規にしか考えられぬ辻は排外的な態度をあからさまにしていた。

 ……あいつが…この泥沼の戦争に導いているのではないか……?

 拳を机に叩きつける。

 ……どうすればこの戦争を終わりにできるのか……。

 将校であれば誰でも考えていることである。参謀として役に立つようそれだけの特訓を受けてきた。
 そして、その中での特に優秀な者が上層部にいるのだ。にもかかわらず、このじりじりと撤退を余儀なくされている状態はどういうことか。
 蘭印での戦いを率いたのは自分で、数で劣勢だったが、オランダ軍を打ち破り、石油を確保した。
 本当はその油田を守る戦いだけでよかったのではないか!
 それならば戦争の意義も見失うことはなかった。
 何の為に大勢の部下を失ったのだ……。
 首を横に振る。
 ここで悔いても悩んでも何もできず、自分に任された役割はこの基地を守ることで、それ以外は何もできないのだとふっと笑う。
 拳の力を緩め、書類を重ねて、筆を仕舞う。
 酒を呑もうと思った。
 棚から酒瓶を取り出し、茶碗並の大きさの猪口に注ぐ。
「……はあ……」
 ひとりでゆっくり酒を飲めるなどここ一年なかったことだと思った。
 萩王は自室から出てこず、酒も控えているようだった。
 そして、酒に酔った上であのような姿態を晒し、自尊心が高いだけにしばらく口を利きたくなさそうだった。大人しくしてくれるのであれば助かると思った。
 あまり我儘につきあってもいられない。
「そういえば、真野君に言わねば……」
 大きな潤んだ瞳をくりくりとして話す様子が確かに可愛らしいと思っていた。
 しかし、それが何だと言うのだ…。
 萩王に言われたことを思い出し、腹立たしくなる。
 昔からそうだった。
 士官学校の時から同室になるように言われ、皇族ではないから皇族寮は遠慮したいと言っても無理を通した。
 朝昼晩、毎日一緒に過ごし、休日も共に出かけた。
 親が見合いの話を持ってくると、その見合い当日には必ず何か問題を起こした。
 頭が痛い、腹が痛い、足を怪我した、手を怪我した、全てその原因を押し付けられ、ここに連れていけ、あそこに行きたい、あれが欲しい、これが欲しい。言うことをきかなければ長崎の一族がどうなるかわかっているな……。
 喉に酒を流し込む。
 ……それを可愛らしいと思った時期もあった。
 自分にそれほど執着し、愛情を寄せられ嬉しく思うところもあった。
 だが……。それが次第に重荷になっていたことも自覚していた。
 一切の自由を与えられず、常に従い、下僕のように奉仕する。
 身体を合わせることに苦痛を感じ始めたのがいつだった思い出せないながらも、その行為が始まってしまえば身体は自然とそれに反応し、その醜さに自己嫌悪を感じてしまうことが嫌だった。
 簡単なことである。
 苦痛など感じなければいい。
 喜びを感じればいいのだ。
 ……愛するべき人である……。
 酒を更に流し込む。
 酔いが回ってきたようで眠さがやってくる。
 すると、何故か真野善三の顔が浮かび、心が落ち着いた。
「……は。確かに可愛いな……」


 *********


 善三たちが卒業式の為、一旦内地に戻ることになった。
 だが、各地の状況が悪く、とんぼ返りになるため、各卒業生は家族に知らせることができず、後日郵送での連絡となった。
 前田の父親は陸軍大将として重責についており、また戦地にいるため帰国などできず、卒業式に行きたいとは思っていたが、私的な理由で離れられるほど悠長な状況でもなかった。
 善三の父、昌和は貴族院議員であるが、国会に赴いても何一つ軍部からの情報は得られず、息子二人がどのような状態であるのか知らされることはなかった。
 そしてまだ報せがないことにほっとしていた。
 報せというのは、戦死ということを示していたからだ。
 当然、卒業式のことも知らされず、すぐまた原隊復帰したことも知らなかった。
 卒業したならば、それから再び隊付き訓練となり、位をあげて陸大受験となる善三のことを思い、どうか合格して東京に戻ってきてほしいと思った。
 それは衆議院議員の善三の恋人である木内宗一も同じであった。
 国民総動員法に基づき、国民全員が戦士という中、そのようなことを思うことすら憚れる時代において、誰でも心の中ではどうか自分の息子だけは、自分の夫だけは、自分の恋人だけは無事に帰ってきてほしいと願うのだった。
 善三がなるべく前線に行くことの無いよう陸軍大臣に圧力をかけ続けていたが、木内はそれが遠く離れた現場で通用するのか不安だった。

 善三は原隊に戻るため、ラボールに向かう船の中にいたが、その落ち込みようは声も掛けられない程だった。しかし、それは善三だけのことではなかった。皆、内地に行って家族に会えると思っていたのだった。毛利も生まれた子供の顔を一目だけでも見たかったと涙ぐんでいた。
「…後顧の憂いを絶て…と言われたな」
 段々、戦死することが誉れのような風潮が広がっているということを内地に行って知ったのだった。
 自分たちのいるラボールに於いては、守られているという絶対的な安心感があり、それほど生きるか死ぬかという切羽詰まったものを感じずにいただけに、英霊となることに陶酔するかのような、そんな雰囲気にただただ驚くばかりだった。

 ……死んだら負けたことになるのではないのか?

 そんな素朴な疑問を持つことさえ許されない空気に善三はそら恐ろしさを感じた。
「…お子さんに…会いたかったでしょう…」
 毛利がぐっと腹に力を入れる。
「ああ。会いたかった。ずっと夢に見ていた」
 善三はその気持ちがわかりすぎるくらいわかった。卒業式に木内に来てもらうことを毎日夢見ていたのだ。だからどんなにつらい訓練でも耐えられた。
 蒔田中将付きから鹿島中将付きに異動になって航空技術の勉強も加算され、飛行兵に馬鹿にされながらも必死にやってきた。
「陸大に合格するよ」
 東京に戻るにはそれしかなかった。
 毛利が空に向かって顔をあげる。
「ああ。そうだな」
 善三も上を向く。
「君も、想い人と会いたかっただろう」
 涙が零れないように。
「…………」
 ぐっと奥歯を噛み締める。
 ……こんな思いをしているのは自分だけではない。
「……ええ。会いたかった……。せめてひと目だけでも……」
 先生。
 毛利がきらりと零れる涙を誤魔化しながら、背中を見せる。
「ならば、受験など待たずにさっさとこの戦を片付けて帰ろう!」
 善三が鼻をすすりながら頷く。
「ええ!」
 一方、ひとりだけ違う思いをしている者がいた。
 前田の許婚がラボールの病院に看護婦として勤務している為、一刻も早く戻りたくて仕方なかったのだ。
「まったく羨ましい限りです」
 善三がふうと息を吐く。
 だが、そんな前田にも苦悩があった。二人が婚約していることを内緒にしているため、前田も病院には怪我した時くらいしか行けず、マラリア患者に追われる看護婦は多忙で二人で逢引する時間も場所もなかった。
 それはそれで苦しいものだと前田は愚痴をこぼしていた。
 善三からすれば贅沢な悩みだと思ったものだが、前田の苦しそうな表情からそうは言えなかった。


 **********
 

 ラボールに戻ってきた卒業生全員を蒔田が迎える。
「君らには見習士官の期間はない。少尉として小隊の隊長とする。その上で陸軍大学を目指すよう。これからは自分のことだけではなく、隊長として隊を率いながら部下の面倒を見なければならない、より立派な士官となれ。いいか」
「はい!」
 一同が敬礼すると、担当の中隊長が呼ばれて、それぞれの隊に振り分けられていく。
 仰々しい儀式の後にはいきなり五十人の隊長となるのだ。
 善三は、その面々が並んでいるのを見て、緊張で足が震えてしまっていた。
「隊長に敬礼!」
 曹長がそう号令をかけ、一同がざっと右手を上げると、善三より随分年上のいかにも叩き上げの軍人といった風貌の小野がちらりと善三を見る。
 日に焼けて皺がある顔で見るその目はどうやっても値踏みしているようだった。
 気圧されながらも上官らしい態度を取らねばと善三は背中を伸ばす。
「真野善三です。これからよろしく頼みます」
 善三がきりっとした声で言うと、また再び敬礼をされた。
 心の中では悲鳴をあげていた。
 いきなり与えられた大きな責任に身の竦むような思いをしていたのだった。
「隊長」
 小野曹長が厳しい口調で言った。顔も怖い。
「はい」
「自分らには丁寧な言葉はいりません。全て命令形でお願いします」
 ……ええっと…誰に対しても丁寧な口調を心がけていた善三は戸惑う。
 その見本を見せるように、小野が隊員に向かって声を張り上げる。
「お前ら! 隊長が自己紹介しているのに、突っ立ってるだけか!」
 軍曹が進み出て、氏名を名乗る。続いて伍長が出て名乗ると、上等兵らが前に進み出て、一班なにがし、二班なにがしと言う。
 お前ら…と言えるようになるかどうか善三は不安だった。
「今日は東の海岸での演習をする予定です。是非隊長にご覧いただきたく!」
「は……はい……」
 何をしたらよいのかさっぱりわからない。言葉もどう言えばいいのか。
 何とも頼りない隊長であると、善三は思った。
 こんなんで隊を指揮できるのか…と心細くなった。
「万事相談していきますので、どうぞよろしくお願いします」
 新米隊長のことなら毎度のことと慣れているかのように曹長は表情を固めたまま、善三の心情を見透かしたように言った。


 **********


 その日の夜は、新隊長の就任祝いということで隊長以上出席の宴を催された。
 皆は、着いたばかりでいきなり部隊を任されたことには驚いたが、郷愁に駆られる余裕もなく、蒔田中将に感謝したいくらいだと思っていた。
 そして、いつまでも曹長におんぶに抱っこではどうにもならず、一日も早く部隊を率いることができるようにならなければならないと心に誓うのだった。
 宴たけなわになると蒔田は姿を消す。
 せっかく盛り上がっているところに水を差したくなく遠慮し、皆を騒がせてやるのだ。
 その蒔田が席を外そうとしていたところを善三が追った。
「副司令!」
 蒔田が後ろから走ってきた善三の声に足を止める。
「真野君」
 身体を一本の棒のように真っ直ぐ伸ばして右手を額に向かわせ、つけられたばかりの真新しい黄色の細線と太線、星ひとつの階級章をつけ、清々しい若き将校のそのもの姿である。一瞬眩しそうに蒔田は善三を見た。
「任官、誠にありがとうございました!」
「異動が多くあったから、君たちに早く一人前になってもらわないとならない」
「精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 そう言って善三は腰を折る。
「ああ。よろしく頼むよ」
 善三が顔をあげる。
 いい顔だ……、蒔田はそう思った。
 瞳はきらきらと輝き、やる気に漲った若者独特の美しさだと思ったのだ。
 蒔田がくすりと笑う。
「では」

第二話 混迷




 ミッドウエイ海戦で日本軍は大敗に喫した。

 攻撃したが勝利できなかったため撤退したという敗北ではなく、完膚なきまで叩き潰されたそんな負け方だった。
 加賀、蒼龍、赤城、飛龍の空母四隻、重巡洋艦二隻を失い、陸海軍の聯合艦隊の主力戦力を失うという最悪の結果であり、大和、長門、陸奥、金剛、比叡、伊勢、日向、扶桑、山城という九隻の戦艦が後方にいたが、その大型戦艦を使う布陣にはせず、その前に主力艦空母の護衛に霧島、榛名というたった二隻の戦艦を従えただけのものだった。それら戦艦はただ往復しただけであり、国民が困窮しながらも必死に戦地に物資を送っている状況であるのに燃料の無駄遣い以外のなにものでもなかった。
 空母を失うということは、戦闘機を失うということであり、空母離発着ができる優秀なパイロットも失ったということである。
 パイロットは育成に時間がかかる。この損失ほど大きなものはない。時間は金で買うことができない。そして空母の造船にも日数がかかる。製造が追いつかないはずであった。
 どんな言い訳も通用しない単に作戦の失敗、戦略の失敗、戦術の失敗の結果である。
 その戦の詳細を暗号電文にて受け取った蒔田はあまりの衝撃で言葉を失った。

「……加賀…蒼龍…赤城…飛龍………空母四隻…だと?」

 電文を握り締める。
 そのひとつでもいい、失うくらいならラボールに寄港させてほしかった。
 そうすればラボール航空隊と海軍航空隊と連携を図り、機動力を増すことができる。

 ………何としても空母が欲しい……!

「何と無駄なことをしたものだ…」
 山本五十六聯合艦隊司令長官が発案した作戦で、オーストラリアを孤立させるよりも直接アメリカ軍を叩きに行くことが最も早い手である、その主張は失敗という結果で終わった。だが、これにより山本は責任を取らされることはなく、ただ、日本への上陸が許されなかった。
 珊瑚海海戦の敗戦も誤魔化し、国民向けには華々しく戦果をあげているとされた聯合艦隊の敗北は国民を落ち込ませるものとして隠ぺいすることにしたのだった。
 山本は上陸も通信も不可能の状態となり、次の戦地にそのまま行くということになった。
 責任を取らせて敗戦を知られてしまうことより、生き地獄へと追いやるという措置にしたわけである。
 いずれにしても、どんな敗因理由を並べようとも山本の思惑は完全に誤りであり、もともとの作戦である南方戦線でイギリス、オーストラリアを追いつめ、アメリカとの連携を断つという方向に邁進するほか道はなくなった。
 しかし、連合国軍相手に日本は戦力を著しく失った状態で、南方での占領地を死守しなければならないという事態となり圧倒的に戦局不利となった。
 蒔田が心底悔しそうな顔をする。
「どうして珊瑚海海戦の教訓を生かせないのか。海軍の連中はまったく戦の仕方を知らない。捨石どころではない、おそらくここを総攻撃してくるだろう」
 ……空母も持たずにどうやって基地を守る。
 恐怖心が湧いてくる。
 昔の戦争のように船同士で戦えるのならば、戦艦を配備して基地に近づく敵艦を追い払えばいい。しかし、今は航空戦が戦いの主流となっており、それには戦闘機が離発着できる空母がなければ、配備している戦艦など敵の空母から飛んできた戦闘機に全て沈められてしまう。
 蒔田は考えながら指令室の中をうろうろとする。
 指令室には、ラボール防衛軍参謀たち、方面軍の司令官が複数、そして萩王がいた。
 萩王が落ち着かない様子の蒔田を椅子に腰かけて見ながら小さく溜息を吐く。
 ミッドウエイにおける敗北について電文報告を受けていて、萩王にも是非聞いてほしいと蒔田が言い、指令室につめていた。参謀たちは萩王の存在に緊張を強いられていた。
「失礼いたします!」
 暗号士長が届いたばかりの電文を翻訳終了し、息を切らして持ってきた。
 ひとつの作戦が伝えられたのだった。

 ――――ポートモレスビー陸路攻略作戦。

「やはり陸路での強行突破を取るのか」
 その道はスタンレー山脈という四千メートルの山を越えるということになる。
 富士山より高い山を越えていくというわけだ。いかに無謀な作戦か語らずともわかる。
 だが、ポートモレスビーを取ればオーストラリア本土に王手を仕掛けることになる。全軍をあげてオーストラリアを攻撃すれば和平も目前となるのだ。
 最重要戦略であり、脇目を振らずにそこに行くべきだったのだ。

 ――第十七、第十八軍、第二二八連隊、及びラボール第二軍、これらをポートモレスビー攻略隊とする。まずは偵察隊を出し、状況を知らせよ。

 蒔田は顔色を変える。
「なんだと?」
 ラボール防衛軍を出せということであった。
 ラボールを守るために上陸を阻止する部隊が島中に振り分けられ、基地そのものの駐留部隊が減っているという状態であるのに、その防衛隊を減らされたら防御が難しくなる。
 そしてその第二軍というのは、善三や毛利、前田がいる軍だった。
「大本営はアメリカ軍がこれからここを狙ってくることをわかっていないのか?」
 航空参謀の鹿島がふうと息を吐く。
「大本営はこの要塞を過小評価しているのかもしれません。つまり捨てるつもりでしょう」
「させるか!」
 蒔田が大声を発し、白い顔が赤くなっている。
「ここが取られたらどこにも行けなくなるではないか! なんたる……」
 砲兵参謀の木村が激昂する蒔田を制するかのように腕組みをする。暴言を吐かれれば軍法会議にかけられてしまう。
「とりあえず、大規模な空襲に備える必要がありますね」
 落ち着いた様子で年長者に言われると蒔田もはっと我に返る。
 ふうと息を吐く。
「そうですね。木村さん。急いで先日練った対空砲撃の演習を行いましょう。それから第二軍各隊長を呼んでください」
 蒔田がラボールに駐留していた第十七、十八軍の司令官を見る。
「この作戦はあなたがたの采配にかかっているでしょう。どうかよろしくお願いします。地図も何も入手できていない状態です。道なき道を行く厳しいものになると存じます」
 まさか自分の軍を他の軍の将に委ねることになるとは思わなかったと忸怩たる思いを隠そうともせずそう言うと、その思いを受け取るかのように十七、十八の中将は静かに頷いた。
「私は先に失礼する」
 萩王はさっさと部屋から出て行ってしまった。
 元々、士官学校でも陸大でも特別扱いのお飾りのようなもので、どれほどしっかり努めても期待されていないということがわかってからは何事も他人任せになっていき、それでも体裁を整えるための階級など捨ててしまいたいと思っていた。
 それに、自分がいざ何かしようとしても誰もついてこないとわかっている。
 だから蒔田のやることには一切口を出さず、まかせっきりにしていたのだ。
 それでうまくやってきたから、それが正解なのだろうと自分を納得させてきた。
 今回の件も、ミッドウエイでの敗北について知っておいてほしいと言われたから仕方なく顔を出したが、やはり何もやることはなく、いかに海軍がお粗末なのかと知り、気分が悪くなるだけのものだった。
 近々ここが襲われるのだろうとそれはよくわかったが、では自分は何をすればいいのかと問うたところで、宮様は皆の心の支えだからいてくださるだけでいいとか何とか言われるだけのことで、要は何もするなということである。

 ―――自分は何の為に皇族に生まれてきたのだろう……。

 子供の頃から思ってきたことだった。
 直系でもなく、皇位継承権も遠く、帝をお守りするにも宮家としてできることは少ない。
 そして皇族という特権だけで大将という位まで用意されてきたが、国の為に自分になにほどのことができるというのだろうと誰かに問うてみたかった。おそらく誰も答えられるはずがないとわかっていながらも。
 だから目指す道筋が明確である蒔田を羨ましいと思っていた。
 そして眩しい。
「ジオン…」
 西洋人のような顔立ちにコンプレックスを持っていることは知っている。だが、それは劣等感を持つべきものではないと思っている。この上なく美しいのだから…。
 あのような切羽詰まった指令室の中に於いても、その周りは光りが包んでいるように見え、皆はそれに不思議な安心感を覚え、冷静な判断をつけることができる。
 昔からそうだった。
 初めてその美しい顔を見た時、一瞬世界から音が消えたかと思うほど、何もかもが飛んでしまったかのような衝撃を受け、何が何でもそばにいたいと思った。
 それまで何かに執着するということがなかっただけにその存在は自分の全てを変えてしまうほどとてつもなく大きなものとなったのだった。
 ただ…いつしかその心を手に入れることができないのだと気付いた。
 いつも自分の言いなりになっているだけだと気付いたのだった。
 それから何としても心を手に入れたいと焦っても焦ってもますます心を閉ざしてしまうようで遠くに行ってしまうような、自分を見ているようで他のものを見ているような、とにかく心が自分に向いていないということを思い知らされ、そしてそのことに深く傷ついていくのだった。
 寝間着に着替えてベッドに入る。
 すると扉が開けられた。
「宮様。大丈夫ですか。ご気分が優れないのでは?」

 ……寂しい……。

「いや。詳細はわかったから後は任せる」
「はい。ではこれから作戦会議を行ないますので、どうぞ先にお休みください」

 ……少しくらい甘えてもいいのだろうか。

「……待て。ジオン」
 蒔田が顔を強張らせる。

 ……そうだ。……その顔が一番悪い。

「………はい」

 ……どうして明らかに嫌そうな顔をするのだ。

「……皆が待っておりますので」
「少しくらい待たせてもいいだろう。私の意向を訊くのも副司令の役目だな」
 右手を伸ばす。
 すると蒔田はその右手の甲に唇を寄せる。
 その右手から始まる。
 指を舐められると官能への扉を開けられるのだ。

 ……愛されている……。

 そう錯覚できるほどの甘い行為である。決して乱暴にはせず、おざなりにもしない。丁寧に身体を開かせていくのだ。

 ……私は愛されている……。

 繋がった部分から伝わってくる熱は愛だと信じたかった。
 自分は愛されていると信じたい。
 自分はここで生きていっていいのだと安心したい。

 ―――一度でいい。ジオンに愛の言葉を囁かれたい!

「……………っ………」
 達するといつもすぐ身体を離されてしまう。
 もう何年も前からジオンが快楽を得ていないことを知っている。
 それでも……。変わらずそばにいてくれる。
「宮様。ではゆっくりお過ごしくださいませ」
「………ああ…」
 扉の向こうに消えていく時の背中には、義務を果たしたと書いてあるように見える。
 それにどれほど傷つけられているか、本人は知る由もないのだと、平織りのシーツを握り締めながら、悔しさを呑み込んだ。


 **********


 蒔田がそんな命令を受けていた時、善三たちは演習に明け暮れていた。
 午前は農作業土木作業と担当が決まっていたが、午後は演習の繰り返しである。
 いざ敵が現れた時に臆病風に吹かれぬよう、機敏に対応できるようにと訓練は欠かせない。気を抜いていたらやられる。それが戦場である。
「あの岩をめがけて移動しつつ狙え! 当たらん奴は前の岩からやり直し!」
 兵士たちは、草叢から出て狙撃銃を構えて撃ってすぐまた移動する。
 その瞬間に言われた岩に当てなければならない。的としてはかなり遠くて小さい。
 当然できる者もいればできない者もいる。
「できん奴はその場で敵に撃たれて死んだとし、置いて行く!」
 軍曹の怒鳴り声が響く。
「遅い!」
 その日々与えられる課題をこなせないかぎり、ずっと落ちこぼれていくのだ。
「ばかやろう! 何やってんだ!」
 一等兵の者はなかなかそれができずにその上役の上等兵の者に年中往復ビンタを受けていた。
 その様子を流れ弾の来ない場所から善三は曹長と共に見ていた。
「少々厳しすぎるのではありませんか? 得手不得手もあるでしょう。もっと射撃の訓練をじっくりやらせてあげたほうが…」
 善三はついそう洩らす。
 曹長の小野がふっと笑う。
「射撃の名手を育てているわけではありません。的に当てればいいわけではなく、戦場でどう狙撃するかそれを学ばせているのです」
 そういう小野の喉元には銃創があった。
「相手も死にもの狂いでくるわけです。撃つか撃たれるかの中、どれだけ普段の訓練に助けられるか、現場でいやってくらいわかることでしょう」
 善三がきりりと唇を噛む。
「隊長に嫌味を申しているわけではありません。甘いことを言えば、人間はとここん甘えたくなってしまう。しかし、戦場では誰に甘えることも許されません。心の持ちようで死にもすれば生きもするのです」
「そうですか」
 小野が小さく溜息を吐く。
「……言葉づかい。直りませんね」
「だめですか。副司令もこんな話し方でしたね。勘弁してもらってもいいですか。命令する時はきちんとそうしますが、曹長のように自分より年上の方にはやはり難しいので」
「では、お坊ちゃんと呼ばせてもらいますよ」
「ええ?」
 小野が忍び笑いをする。
「隊長の愛称です」
 善三があんぐりと口をあける。
「……お坊ちゃん…?」
 それにはさすがに衝撃を覚え、落ち込んでしまう。
「皆、隊長を見るのが嬉しくて仕方ないようですよ。うちのお坊ちゃんは副司令に負けぬほどの別嬪だって、他の隊の連中に自慢しまくっておるようです」
 それはどうやっても尊敬される上官には程遠いものであると善三は意気消沈した。
「……別嬪……」
 しかも女扱いである。
「前の隊長が厳つい男で、それがまた鬼瓦みたいな顔をしていたんで、その隊長とつい比較してしまって。みんな、嫁が来たみたいに喜んで。ははは」
 まったく善三に気を使わない直属の部下である。
 そこまで言われれば善三も憮然とする。
 ……失礼すぎるだろう。下士官とはいえ、そこまで言って許されるものだろうか。
 そして、隊長の資質というのはいったい何だろうと思った。
「それは……、あまりに頼りないということなのでは……?」
 その通りである。
 小野がくすくすと笑ったのち、見事に岩に当てた兵士の様子を見て、おお、と言い、表情を固める。
「戦場に行けば、頼れるのは上官ではなく、自分だけです。だから、隊長は頼れるかどうかではなく、正しい判断ができるかどうかです」
 善三が拳を握る。
「隊長が誤った判断をしても、我々はその道に行くのですから」
「誤っていると言ってくださっていい!」
「上官の命令は絶対です。誤った判断でも迷わず我々はそこに進みます」
 善三は背筋が寒くなる。
「でもやはり出来得るならなるべく誤ってほしくない。だから、その上官に正しい判断を適切な選択をしてもらうためにも、我々は隊長を命がけでお守りするわけです。指揮官のいない部隊などその辺に転がる石と等しくなりますから」
「それは……」
「つまり、その神輿に乗っていてもらいたいんです。それに我々もどうせ担ぐならいかつい野郎よりも綺麗で可愛いほうがいい。はははは」
「……………」
 善三はもはやどう返答すればいいのかわからなかった。
「そしてその神輿の上から、右だ左だと指さしてください」
 善三は握った拳が震えているのを自覚していた。
「それが、隊長の役割です」
 恐ろしくて震えるということを初めて経験したのだった。
「失礼いたします!」
 伍長の大塚がやってきた。
「副司令から第二軍の隊長全員を招集すると無線が入りました」
 善三と小野が顔を見合わせる。
 今まで演習中に呼び出されるようなことはなかったからだ。
「緊急の用事のようですね」
「隊長。では、ここは私が引き受けます。伍長、隊長の護衛を頼む」

 
 ラボール第二軍の小隊長以上の二十名が呼ばれ、整列している中、蒔田がゆっくりと歩いてきた。
「忙しい中ご苦労。大本営よりの通達を伝える」
 一同が固唾を呑みこむ。
「君たちはこのラボールの防衛から離れ、スタンレーの任務に就くことになった」
 ポートモレスビー攻略作戦の別名である。
 皆、顔を強張らせる。
 この要塞を守るために日々の演習をしてきただけに、まったく想定していなかった命令に衝撃を受けた。
「そして、この作戦は私の手から離れる為、君たちは第十七軍の指揮下に入る」
 それを訊いた瞬間、皆は何か心の中に風が通ったような妙な心細さを感じた。
「よって、明日からは武井中将の命の元に動くよう。以上である」
 一同は敬礼をするが、顔は今一つ納得していない様子だった。
 自分たちが抜けた穴はどうするのか……という疑問が消えないからだ。
「ふふふ。ここが心配ですか?」
 蒔田はそれぞれの心情を汲み取るかのように言った。
 将兵合わせて六百名ほどがこの基地からいなくなるのだ。当然である。
「だから、必ず帰ってきてください」
 蒔田が大きく手を開いて右手を上に上げる。
「いいですか、皆さん。私はここで待っています。あなたがたの原隊はここです。かならずここに戻ってきてください。このラボールにかならず戻ってきてください」
 蒔田が大きく息を吸う。
「これは命令です」
 は! と皆は小さく返事をして再び敬礼をする。
 解散の号令がかかり、皆はそれぞれの自分の隊に戻ろうとしていたが、善三は思わず蒔田の後を追った。
「副司令! 少しお話が! 少々お時間いただいてもよろしいでしょうか!」
 蒔田が足を止めて、振り返る。
 その瞬間、善三ははっと蒔田を見てしまった。

 ……なんと慈愛に満ちたお顔なのだろう……。

「どうした?」
「あの! 副司令に……」
 相談しようとしていたことがいかに間抜けなことなのかと恥ずかしくなる。
「どうした? 訊きたいことがあるのか?」
 中隊長、大隊長が怪訝な顔をしていることに善三は気づいていなかった。
 いかに前に蒔田付きとは言え、組織の中での声をかける順番を間違っている。
 毛利が止めようとしたときには善三は蒔田を追っていってしまっていた。
 蒔田がそれに問題を感じていないならば誰も口を挟めなかった。
 善三は嬉しそうにする。 
「はい…自分は少々悩んでいることがあります。是非副司令の経験などを参考にさせていただけますと幸いです!」
「隊は? 問題ないか?」
「は! 下士官が演習を進めてくれているので多少の時間は!」
 蒔田はこの調子で話されるのは疲れると思った。
「では、私の部屋に行こう」
「え!」
「少しくらい話すのはいいだろう。私も君と話して見たかった」
「あ! ありがとうございます!」
 善三が直立不動の姿勢を取る。
 蒔田がくすりと笑った。
 毛利が心配そうに見ている前田の肩を叩き、どうやら問題ないらしいと囁いた。


 ********


 複数の無線機が並ぶ蒔田の部屋は、副司令の執務室として、指令室近くにある。
 その奥に大将の執務室があり、そこはまるで聖域のような雰囲気があった。
「かけたまえ」
 蒔田が木製の椅子を指さす。
 善三はまさか二人きりで話ができるとは思わず、緊張してうまく動けなかった。
「そんなに緊張しなくてもいい」
 そうは言っても、相手は中将で自分より何階級上なのかと目眩がするほどだった。
「それで、何に悩んでいるのかな」
 善三は水を向けられて、益々恐縮する。
「畏れ入ります。では、恥ずかしながら…」
 蒔田が机上で寛いだ様子になり、肘をついて手の甲に顎を乗せるようにする。
「下士官に、私に的確な判断をしてもらうために命を懸けて守ると言われました」
「それでこそ皇国戦士だ」
「私は……私は……」
 善三が俯く。
「皆の為に正しく判断をつけられる自信がありません。こんなことで隊を率いることができるのか不安で、副司令はそのように思ったことがあるのかお聞きしたくて」
 そう言いながらも随分失礼なことを言っていると思った。
 自分は五十人ほどで弱音を吐いているが、蒔田は万という単位の規模だった。
「無礼なことを申し上げて、申し訳ございません!」
「いいよ。真野君」
 優しい声である。
「私はそれでいいと思っている」
「え……」
「私は、一番大事なことは、自分の弱さを知るということだと思っている」
 長い睫毛をしばたき、大きな茶色の瞳で善三を見る。
 善三はまるで魔法にかかっていくような気がした。
「人は自分の弱さを見せないように、自分を強く見せようとする。そしてその弱さから目を逸らそうとする。それが自分を守ることだと信じてしまうからだ。だが、それは逆にますます自分を弱くするということなのだ」
「……弱さ……」
「だから、真野君が自分の弱さを知っているということは、それと戦えばいいのではないかな。戦うべきものがわかれば、戦い方など自然とわかるものだ」
 蒔田がにっこりと微笑む。
 善三が何故か涙が込みあげてくると思った。
「有難うございます!」
「ふ、それに、その悩みは私の悩みと同じだ。私も不安で仕方ない。私に務まるのか、私は間違っていないか、私はきちんとやれているのか」
 善三が顔を真っ赤にする。
「……そんな。……副司令はいつだって堂々となさっていて……」
「いつも内心はらはらとしている。ふふふふ」
「自分は……。……お坊ちゃんと皆から呼ばれているそうです。それを訊かされて……」
 蒔田が耐えきれずぶぶぶと吹き出す。
「……いや、失礼……」
 善三が羞恥心で涙ぐむ。
「真野君は可愛い顔をしているからね。彼らには幼く見えるのでしょう。でも、私も言われていたよ。もっとひどかったな。何と言っても『お姫さま』だから」
「え?」
「お坊ちゃんのほうがまだいいでしょう。ふふふふ」
 愉快そうに笑われて、善三もつい笑ってしまう。
 恥ずかしそうに笑う善三を見て、蒔田は笑いが止まらなくなる。
 善三が可愛くてたまらないのだ。
 もっともっと話をしていたい。もっと顔を見ていたい。もっと長く一緒にいたい。
 そんな気持ちが次から次へと湧いて出てきて、一秒でも長く引き留めたい、そう思った。


 **********


 そこは前人未到の場所である。
 オーエンスタンレー山脈、その想像以上の険しさに誰もが言葉を失った。
 地図もない密林に覆われる場所を切り開きながら進み、山を登っていき、山の反対側のポートモレスビーを占領する、これが可能かどうかまずは先遣隊が調査をする。
 その調査の道程はまったく未知の世界なのである。
 未知ということほど人を恐怖に陥れるものはない。
 わからないもの、わからないこと、わからないところ、これらに怖さを感じて、必死にその正体を知ろうとする。
 それが学問となる。
 知りたいという理由だけでは学問までには発展しない。追求せずにはいられない理由があるからこそ学問として発展するのだ。
 言葉もそうである。相手が何を言っているのか理解できないと自分の身を守ることはできない。
 算術もそうである。金銭のやり取りについて知識がなければ騙される。だから必死にその知識を身につけようとする。
 とりもなおさず、知りたいという欲求の根源が防衛本能からきているとするならば、人は常に恐怖に縛られているということになる。
 そして…どれほど知恵を振り絞ろうとも、人智が及ばないことがある。
 それに対して人を超越したものを作り上げ、無理やり辻褄を合せようとする。

 ――――それが神という存在である。

 最高峰四千メートルのオーエンスタンレーの稜線を眺めながら、隊員はその神へ挑戦するかのようなものだと思った。
 富士の峰のような悠々たるものはなく、ひたすら拒絶しているような密林に覆われたその山の姿はまさしく立ち入れば祟らんとせん神そのものに見えたのだった。
「我々は神の国の兵ぞ! 懼るるに足らず!」
 この作戦の先遣隊大佐がそう叫んだ。
 神国日本。
 窮地に陥れば必ず神風が吹く。
 富士山頂すら行ったことがない者たちがそれをさらに超えるものを目指してくのだ。
 大佐ももはや神の力を借りたいと叫んでいたのだった。
 挑むにはあまりにも大きすぎる。
 逃げられない状況において自分を救うのは、自己暗示しかない。
 それと連帯意識が加算され皆は喜んで洗脳を受け入れていく。
 ―――自分たちには神がついている。
 だからきっと果たせる。
「進め!」
 そうは言っても、木を薙ぎ倒す作業からである。人ひとり通ることもできないほど密集した木々を伐採しなければ前進などできない。
 地図上の直線では二百二十キロメートルだが、平坦な道とはわけが違う。
 善三たちは、先遣隊の報告と大本営からの命令を受けるまでラボールで待機だったが、道がまったく描かれていないその地図を見せられて、言葉を失った。
 おそらくジャングルの中、ひたすら岩をよじ登るということなのだろうと想像し、もたらされる報告を今か今かと待っていた。
 第十八軍も待機という中、第十七軍で編成された南海支隊のみが上陸し、その過酷な行程に挑んでいるのだった。
 善三たちは、その報告を待ちに待っているが、その間、今までと変わらず朝は農作業、午前中は土木工事、午後は演習という日々を過ごしていた。
 そんな中の常夏の島での生活で、入浴は楽しみのひとつである。
 兵士たちは酒保や慰安所でも楽しんだが、将校たちにそこで遊ぶ時間はない。

 大浴場に善三が入っていく。
 すると、何故か大勢が入浴していたが、潮が引くように急にいなくなった。
 毛利と前田が入浴していて、よお、真野殿と声をかけられ、やあ、と言う。
「みんな真野殿を見て逃げていったぞ」
 前田がにやにやとしながら言う。
「え? どうして?」
 前田が豪快に笑う。
「はははは。どうしてだって? おい、田川、教えてやってやれ」
「えっ!」
 前田の背中を流す前田隊下士官の田川が真っ赤な顔をしている。
 毛利が石鹸を握り締めて、前田の前頭部に投げつける。
「いってぇ……貴様」
「馬鹿者めが! 真野殿。こんな奴は放っておけ」
 毛利が吐き捨てるように言う。
 善三のお守りをするように後ろにいた小野が憮然とした。
「真野隊曹長の小野です。我が隊長の名誉を傷つけるようなことは慎んでいただきたくお願い申し上げます」
「え?」
 善三が何のこと? という顔をして小野を見る。
「失敬である! 名誉など傷つけん! 我らをなんだと思っている! 何年真野殿とともにいると思っている。前田隊長は悪ふざけをしているだけだ! 俺からよく言っておく!」
 毛利がそう言い放った後、小野を睨んだ。
「は! 出過ぎたことを申しました。平にご容赦くださいますよう」
「だが、なかなか潔いことだ」
「ありがとうございます。では失礼いたします」
「毛利殿? 何を……」
「隊長。こちらに座ってください」
 その口調は怒り口調だった。ずいぶんと前田と毛利から離れたところに移動する。
 蛇口を捻り、小野はへちまを濡らして、唇を噛み、腹立たしさを隠さずに善三の背中をごしごしと擦りあげていった。
「小野さん」
「小野です。さん、はいらないと何度も申しています」
 苛立ちを隠さない言い方である。
 そんな小野の小言など訊く耳は持たぬように善三は声を落とす。
「何か言われたのですか? 私は他からお坊ちゃん隊長と馬鹿にされているのですか?」
 小野にとってすでに善三は身内のようなものだった。
「くだらん噂です」
 囁くように言った。
「噂?」
「やっかみです。娯楽が乏しければそんなくだらん噂話に飛びつくわけです」
 耳打ちされるように言われ、善三はいやな気持になった。
「……どんな噂かな」
「副司令のお部屋で長時間過ごされていたとか」
「え? ああ。少々悩みを聞いてもらっていたから。それが何か?」
 善三が屈託なく話すと小野が、はあ……、と大きく息を吐いた。
「どうか人の口には戸を立てられませんので気を付けてください」
 善三が苛立ちを抑えられなくなる。
「どういう意味か訊いている! 答えなさい!」
 小野が更に声を落とす。
「隊長が副司令の情人であると噂されているのです」
「!」
 そんな馬鹿な……と言おうとしたら、湯を背中に流され、口をつぐんだ。
「皆が善意の心を持っているとは思わんでください。悪意でそういう噂を流す者もいるのです」
 善三が拳を握る。
 悔しさで目眩がした。
 目の前に命を懸ける戦場が待っているというのに、何とくだらない噂話かと怒鳴り散らしたくなる。握った拳が悔しくて震えてくる。
「……断じてそんなことはない!」
 小野が湯を汲みながらふっと笑う。
「わかっております。足を引っ張ろうとする者は大勢いるということです。気を付けてください。それだけここは暇なんです。人間暇だとろくなことを考えんもんです」
 善三が悔し涙を零し、それを誤魔化す為に顔を洗った。


 ********


 そうしてそんな暇はなくなった。
 南海支隊の隊長の少将が、先遣隊の報告を受け、山を登れば後は下り坂ではなく、たくさんの峰があり、道路建設は不可能で、占領するための武器が運べず、また、峰を越えずとも進める古い道路が見つかったが、いかにも敵に通じるものであり、それを進むのは危険であると判断し、つまり、陸路での攻略は難しいとの報告を第十七軍の司令官にし、司令官はそのままそれを大本営に伝えて次の作戦を待つことにした。
 だが、それを大本営の参謀、辻中佐が第十七軍の軍司令部に来た際、この作戦はすでに決行すると判断したと言い、攻略を実行することとなったのだ。
 ―――道が見つかったのならば進むべきだ。
 しかし、これは大本営決定ではなく、辻中佐の独断で行ったことであり、南海支隊長が不可能であると報告しているのにも関わらず、辻はそれを無視してやり遂げろと命令したのだった。
 その辻がラボールに滞在したのは、命令を出した数日後だった。
「お久しぶりですね。蒔田さん」
 細い鋭い目をぎらりと光らせて蒔田を睨みながらそう言った。
「ええ。お久しぶりです。随分とご活躍のようですね」
 蒔田も負けずに睨み返す。
「相も変わらず外国人のような顔をしている。くっ。まるで諜報員のようだ」
 そんなあからさまな差別の挑発には乗らず、表情を変えずにいると、辻が小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、視線を外した。
「十七軍には同時にガダルカナル島に行ってもらうことになりました。そこでラボール航空隊にその援護をお願いしたい」
 蒔田がその意味がわからないという顔をした。
「何の話です?」
「ガダルカナル島に飛行場が完成する。そこに行ってもらいたい」
「……行ってもらいたいって。……そこまで飛んで行けということですか?」
 片道一千キロある場所である。
「何をおっしゃっているのか。今はポートモレスビーを総攻撃する時でしょう!」
 辻が冷笑を浮かべる。
「蒔田中将のお立場は、確かこの基地の副司令だったはず。最高責任者でもないあなたが随分と大本営の意向に差し出がましいことをおっしゃる」
「ガダルカナルも戦場になるでしょう?」
 辻が侮蔑の表情を浮かべる。
「だから航空隊を出せと言っている! 相変わらず頭の回転の鈍い人だ!」
 毛嫌いしていることを隠そうともせずに言う。
 蒔田が拳を握る。
 ふざけるな! と言って殴りかかることができたらどれほどいいだろうと思った。
 このような理不尽極まりない辻の態度には何年経っても慣れることはない。
 ひたすら嫌悪感をぶつけてくるこの辻は、人を陥れるために策士として見事な手腕を発揮する。蒔田は常にその標的だった。
「宮様には貴殿からご報告願おう。では失礼する」
 顔の筋肉が動かないのではないかと疑いたくなるほど表情を変えない辻は立ちながら、そう言った。
 階級としては蒔田の方が上であるにも関わらず、敬礼もほんの少しの会釈もせずに、踵を返すようにして部屋を出て行った。
 塩を撒きたいと思った。

 ……異常だ……。

 ……狂っている……。

 …………狂気の沙汰だ………。

 机上にあるものすべてを払いのけ、机に拳を叩きつける。
 ……だから空母が欲しかったのだ……!
 これをどう鹿島に伝えればいいのか、あまりの悔しさに軽い目眩を覚えた。
 …………死に行けと言っているようなものではないか…!


 **********


「……つまりガダルカナルに飛んで行って戦えと?」
 片道四時間かかる。
 長時間飛行の訓練はしてきた。ただ、敵に見つからぬよう神経を使いながらの飛行は殊の外体力を奪う。精神的にも体力的にも極限状態になる。その後の戦闘に集中力がもたないというのは自明の理である。
 そして、その敵機を全て追い払い制空権を取らなければガダルカナルには降りられなく、劣勢で引き返すとしたならば、ラボールまで戻ってくる燃料を残しておかなければならない。戦闘ではあっという間に燃料を使い尽くしてしまう。
 いずれにしても勝つ以外にないのだった。
 鹿島は頭を抱えた。
 蒔田はその先にかける言葉がなかった。
 鹿島は机に肘をつき、重くなる頭を支えるように額を両手で押さえる。
「……やるしかないということでしょう……」
「はい……」
「もう敵はガダルカナルへの攻撃を始めたということですか?」
「海軍が作った飛行場が完成近いそうだ。だが、敵の上陸を許して奪われ、それを奪回しに行くとのことだ」
 辻が言った言葉を疑い情報を集めたところ、状況は想像以上に悪いものだった。
 ガダルカナル飛行場は、海軍が陸軍に相談せずに独自に作った飛行場で、海軍がその場所に飛行場が欲しいと思うのと同じで連合国軍側もその場所に飛行場が欲しいのだった。
 つまり、まずい場所に飛行場を作ったということである。その場所を取るということは、ソロモン諸島での制空権を握ることになるからである。
 そうすれば、難攻不落と連合国軍を悩ます要塞ラボールを孤立させ、総攻撃して奪回すれば、日本の米豪遮断作戦を完全に頓挫させることができる。
 そうして日本軍が占領した基地を奪取した先に何ができる。それは、

 ―――日本の本土占領。

 日本の完全なる敗北である。
 もちろん、その前に日本が和平を持ち込んで来れば受け入れるが降伏ということであり、つまり、南方の基地を取るということは日本の敗戦を意味していた。
 連合国軍はその為にも、ひとつひとつの基地を奪い、駒を進めるのだった。
 ガダルカナル島を取るということは、将棋で言えば王手飛車取りに等しいのだった。

 ―――王を逃がさなければ取られるぞ…。

 ポートモレスビーを狙うのなら、こっちはその間にガダルカナルを取るぞ。そうすればラボールなどすぐ落ちる。
 南西太平洋方面連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーには、敗戦続きだったが、珊瑚海海戦から徐々に日本の弱点が見え始め、ミッドウエイでそれに確信を持った。

 ―――日本軍は、陸軍と海軍の連携がうまくいっていない。

 だとすれば、ガダルカナルは恰好の囮になる。
「……私は、いっそのこと、ガダルカナル島は捨てたほうがいいと思っている」
「え?」
 蒔田がふっと寂しそうに笑う。
「そんなことを言う権利などどこにもないが。要はここが落ちなければいいのだろう? それよりも、もっとポートモレスビーに集中するべきだ」
 連合国軍に負けない兵器を作り出したのだと声高々に言えないことへのもどかしさに目が真っ赤に充血している。
「副司令」
「あれを第十七軍司令官に見せようと思った。だが、彼とて大本営の意向に逆らうことはできない。まんまと飛車を取るわけだ。背後には角が睨んでいるとよく見えるのに。盤上だったらもはや王手寸前だと相手の手がわかるだろうに」
 蒔田はくっと小さく笑った。
 鹿島は蒔田の話に乗ることができなかった。戦談義をしている状況ではなかったのだ。
 命令は絶対であり、無理な命令を自分が伝えなくてはならないのである。
「……空母発着の訓練をしたかったですな」
 鹿島のその言葉に蒔田が哀しそうな顔をする。
「……ああ」
 唇を噛む。
「よろしく頼む」


 **********


 善三たちは、ずっと待機中であった。
 しかし緊張感は増していた。
 ガダルカナル島に行く隊が第十七軍拠点よりラボールに着いたからだ。
「ガダルカナル? ブナ(ポートモレスビーの対岸の地区)じゃないのか?」
 前田は善三と毛利に囁くように言う。
「大隊長からきっと話があるだろう。いずれにしても我々には関係ないことだ」
 毛利は素っ気なく言った。
 てっきりポートモレスビー陸路攻略作戦に陸海軍で総攻撃すると思っていただけに、その部隊が他の戦場に行くと訊かされて、皆は不安になったのだ。
 ポートモレスビーさえ取れば、勝ちが見えてくる。
 なのに、なぜガダルカナルに…。
 隊長が不安な表情をすれば、部下たちにそれは伝わりすぐ不安になり、士気にかかわる。
「今日は真野隊、前田隊と合同演習である! 皆、負けたら許さんぞ!」
 毛利がよく通る声を張り上げると、毛利隊の全員が、おお! と叫んだ。
 実に凛々しく格好いい隊長である。
 これぞ隊長、隊長とはこうあるべきだという見本を見せられているような気がした。
 善三が羨ましそうな顔をすると小野がくすりと笑う。
「毛利隊長は誠に長州武士ですなあ」
 小野が感心したように言うと善三が頬を膨らませる。
「毛利殿は全然神輿に乗っていないではありませんか。まるで神輿の先を走っているようです」
「ははは。いいではありませんか。それぞれ特色があって。隊長は神輿の上が似合うんですから」
 善三が顔を真っ赤にする。
「私は! これでも! 剣術と射撃の腕前は毛利殿より上なのですよ!」
 精一杯の虚勢を張ると小野がくすりと笑う。
「はいはい。わかっております。隊長の見事な腕前はよく存じています」
 小野が駄々をこねる子供をなだめるように言う。
 善三が頬を膨らませてぷいと横を向いた。
 いつまでもお坊ちゃん扱いをされて腹が立つ。
 これでも士官学校で随分しごかれてきたのである。誰にも負けぬよう。
「では、腕のいい私の隊ならば、是非一番になってください。負けたら許しませんよ」
 三八式歩兵銃での的撃ち合戦である。
 小野がにやりと笑う。
「お前ら! 隊長が他の隊に負けるなとおっしゃったぞ!」
 小野が声を張り上げると、皆は、おお! と雄叫びをあげた。
 隊長の個性によって隊の雰囲気が大きく変わる。
 前田がその様子を見てくすりと笑った。
 兎にも角にもどの隊も結束力が強かった。

第三話 前線




 日本軍がガダルカナル島に進んでいることを知った連合国軍側は狂喜乱舞した。
 ―――罠にかかった!
 ―――徹底的に消耗させてやる。いいか、ここに誘い込むのだ。そしてここが蟻地獄だということを気付かせるな。できるだけ長引かせるのだ。

 大本営はそれが罠とは気付かず、ひたすら制空権を取りたいが為にそこに兵を送り込むことを決めた。その作戦を声高々に言ったのは辻中佐であり、ガダルカナルとポートモレスビーについては、辻の一言で全てが決まっていったのだった。
 そうした中、善三たちの出動が決まった。
 駆逐艦で輸送され、ブナ地区海岸から補給基地の海抜四百メートルの山脈の麓ココダという場所まで向かう。
 このココダでオーストラリア軍との戦いですでに勝利し、そこを占領していた。
 ココダからは本格的な山岳地帯であり、ジャングルの中、先がどのようになっているのか分からないうえ、敵は攻撃してくる。連合国軍は最初から日本軍をジャングルの中に誘い込む作戦で、ココダの奥、イスラバ山頂に布陣していた。
 ブナ地区からココダまで五日かかるが、荷車ひとつ通せない道であるため、兵士はひとり五十キロという戦闘武器弾薬、兵糧を背負いながらココダを目指した。
 善三は、自分は馬に乗り、苦しそうに運ぶ兵士たちを必死に鼓舞しながら隊を進めた。
 そうして向かった先のココダには、先に到着した主力隊がおり、善三たちが到着するのを待ちわびていた。すでにイスラバへの攻撃が始まっている中、武器が不足していたため、苦戦を強いられており、負傷者が続出していた。
 善三たちは、厳しい最前線に送り込まれたのであった。
 善三たちの大隊長が中隊長、小隊長を呼んで自分たちの役割を伝える。
 ―――イスラバの左側背を攻撃せよ。
 大隊長の大佐は表情を硬くした。
「諸君。誠に伝えにくいことだが、主力隊はほとんど食料を持っていない。イスラバを占領した時に食糧が残されていなければ、もはやそこで動けなくなる」
 善三たちは、ぞっとした。
 後続の自分達は補給しに来たが、主力隊全員分を賄えるほどのものではないとわかっていたからだ。敵の陣地のものを得ないかぎり餓えが待っているということである。
「とにかく今はイスラバを取ることが第一である。各自、一日の食料分を極力抑えなければならない。よって主力隊の補給分を確保しつつ、自分達の食料を一日二合で賄うようそれぞれやりくりしてくれ」

 ……一日二合……。

 戦闘で体力を奪われるというのに、二食分で一日を過ごせというのである。
 米一合というのは、握り飯で三個分である。
 激しい運動量を求められる成人男子の一日の摂取量としては完全に不足しており、たちまち空腹になるのが目に見えている。
「腹が減っては戦が出来ぬ……を地で行っているな」
 解散した後に前田がぼそりと呟いた。
「……ああ。だから是非ともイスラバを取らなくては」
 隊員を飢えさせたくない、善三はそう思った。
 初めての戦場でいきなり餓えと戦う事態になるとは想像していなかっただけに、いきなり窮地に立たされたような気がしていた。
 そして、ラボールから補給隊を出すにも、ガダルカナルへ兵を集中させることに必死でポートモレスビー主力隊への補給が追い付いていかなかった。

 ―――すべて連合国軍の作戦通りに事は運ばれていったのだった。


 **********
 

「高塚飛曹長、羽藤飛曹、国分飛曹、撃墜……されたとのことです」
 ラボール航空隊のエースたちだった。
 四十機発進した戦闘機の良くない状況が伝えられていた。
「笹井は!」
 鹿島は駆逐艦の中に置いた航空隊司令本部の中で、極力冷静に言った。
「笹井中尉からは応答がありません」

 ……墜ちた…のか……?

 撃墜王と呼ばれる陸海軍両航空隊の中でも屈指のパイロットである。
 笹井に憧れて皆は競うように腕を上げて、航空隊のレベルを全体的に向上させていった。
 鹿島はこの事態をどうすればいいのか考えることができぬほど気力を奪われていた。
 そして、敵の飛行隊司令官の笑い声を聴いたような気がしていた。

 ―――途中に中継点もないのに、戦闘機を飛ばしてくるなど、こんな命令を出す司令官はよほどの間抜けで愚か者に違いない。呆れて笑うしかないぞ。
 ―――ほれみろ。ぽろぽろ墜ちていく。
 ―――これが世界を震撼させたゼロ・パイロットか? まるでおもちゃのようだ。はははは。実に愉快だ。

 鹿島は両手拳を机に叩きつける。
「大隊長……」
 ―――……こちら…笹井……。
 鹿島がはっとして無線機を見る。
「笹井!」
 ―――被弾し、もはや帰投できる見込みなし。このまま敵陣に向かいます。
「だめだ! 笹井! 着水しろ!」
 戦闘機など後でいくらでも製造できる、しかし、笹井のような優秀なパイロットは二度と現れないのだ。
 しかし着水も不可能な状態なのだろう、その命令に返事をしなかった。
 ―――天皇陛下、万歳……。
 衝撃音とともに無線は切れた。
「笹井!!」
 嘘だ……。
 鹿島は今起きていることは全て偽りのことだと思いたかった。
 連合国軍航空隊の殲滅が大本営から発せられた命令だったが、殲滅されるのは自分達であった。ラボールに残した戦闘機を出すタイミングを誤れば全滅する。
「着水した機の乗組員を救助せよ。機体はかならず爆破せよ」
 皆は、ラボールから飛んできた時点で疲労激しく戦うことができなかった。
 ならば敵陣に突っ込み壊滅的な被害を与えようと覚悟していたのだった。
 着水して捕虜となった場合、零式戦闘機の構造を連合軍側に知られてしまう為、何としても破壊しなければならず、そんなことをするなら敵に……。
 誰もが馬鹿げた命令だと思っていた。
 だが、それに異を唱えることなどできなく、潔く遂行するほかないのだった。
 どんな命令でも、それが大本営決定ならば。

 
 その状況を蒔田は指令室で聴いていた。
 腸が煮えくり返るというのはこういうことを言うのだと悔しさで身体がおかしくなるかと思った。
 その無謀さは最初からわかっていたことである。自分はみすみす死地へと追いやったことを見過ごしただけだった。
 第十七軍司令官の武井も顔色を失っていた。
 蒔田は歯がゆくて堪らなかった。
「……撤退要請を出すべきです。早急に。これ以上兵を失いたくないのなら」
 武井は追い詰められていた。
 ポートモレスビーもガタルカナルもどちらも戦況厳しくどちらも勝つ見込みが薄い。
「ご自分の軍を全滅させるおつもりか!」
 どれほど貴重な人材を失ったのか…蒔田は武井の横っ面を叩きたかった。
「大本営は撤退許さぬとの一点張りだ」
 武井はどうしたらいいのかと頭を抱えるばかりだった。
「ガダルカナルの将兵二千三百名の壊滅……、続く四千名の支隊、あの島にそこまで投入する必要がどこにありますか! そんな余力があるならココダに送ってください!」
 ポートモレスビー攻略隊からは連絡が途絶えたままだった。
 山岳地帯では無線がつながらない。さぞかし激しい戦闘を繰り広げられていると想像できる。しかし、ガダルカナルへの輸送ばかりで、補給隊が満足にラボールから出発していないのだ。
「それは認められないそうだ」
「早くしないと南海支隊が餓えてしまう! ポートモレスビーに着く前に皆餓死してしまう! ガダルカナルの兵を全てココダに送ってください! ガダルカナルはもはや放棄すべきだ!」
 蒔田の悲痛な訴えにも武井は首を縦に振らなかった。

 ―――おしまいだ……!

 蒔田は拳で自らの頭を叩く。
 充血した目からは血が流れてくるのではないかというほどである。
「……あなたが言えないのなら、私が言います」

 ―――この馬鹿げた戦を誰も止められないのか!

 蒔田は、萩王の元に向かった。
「失礼いたします。宮様」
 萩王は書類への署名の手を休め、顔を上げる。
「久しぶりにジオンの顔を見た気がする」
「……申し訳ありません。打ち合わせが色々と長引きまして」
 指令室で仮眠を取るような生活だった。
「お願いがあって参りました」
 萩王がふっと微笑む。
「お願い……か」
 萩王が右手を差し出す。条件反射のように蒔田はそれを取り、唇を寄せる。
「寝室に連れて行ってくれ」
 蒔田は神妙な顔をした。
「……はい」
 蒔田は萩王の寝室に入るやいなや萩王の唇に自分の唇を押し付ける。
 言いようもない高揚感だった。
 舌を長く伸ばし、萩王の舌に絡みつかせる。
 息もできない接吻となった。
 ぜいぜいという蒔田の興奮した息が寝室に木霊するように響く。
 いつもの優しい口づけができなかった。

 ―――皆を救いたい……!

「ああ……」
 蒔田の獰猛な声に萩王は興奮していく。
 蒔田が萩王のそそり立つものを握り締める。
 びくりと波打つ身体の衣服を脱がせ、蒔田は膝を床につき、いきなり銜え込む。
「……んん……」
 萩王の卑猥な声に蒔田はさらに息を荒くする。
 くわえ込みながら、指を臀部の莟みを捉え、ゆっくりと指を指し込んでいく。
 この姿勢では触ってほしいところに指は届かず、萩王は身悶える。
「ジ…オン……」
 蒔田は萩王をひょいと抱き上げ、ベッドに横たわらせる。
 萩王の両脚を持ち上げ、自らの肩に乗せ、ベッドサイドに置いてあるパーム油を手に取り、淫靡な表情をしながら、萩王の一番感じるところを触れていく。
「あ……あ…ああ…ジオン……はやく……」
 蒔田は自らのズボンのベルトを外し、下着から血潮たぎるものを取り出し、萩王の中に埋めていく。

 ―――皆が待っている。

 獣のような声を蒔田があげる。
 こんな声は初めてきいたと萩王は思った。
 抑えが効かない状態で蒔田が腰を振り続ける。

 ―――救いたい……!

「ああ。ジオン…すごい……あああああっ!」
「……く……」
 蒔田が身体を硬直させ、どくどくと液体を萩王の中に流し込んでいった。
 何年かぶりに一緒に達したのだった。

 蒔田は久しぶりの性交での吐精にぐったりとしていて身体が戻ってくるのを待っていると、萩王が先に身支度を始める。
「君の望みはわかっている。陛下にお願いすればいいのだろう? どう言ってほしいの?」
 萩王はなるべく蒔田に表情を見られたくなく窓に顔を向けながらそう言った。
「…………………」
 蒔田はすぐ返答できなかった。
 ―――これではまるで男娼だ…。
 ベッドに顔を埋める。
「……私の気が変わらないうちに言った方がいいよ」
 萩王は自分が傷ついていることを誤魔化そうとそう言った。
 ……そんな理由で抱いたのではない。抱きたかったから抱いた、そう言ってほしい。
 だが、そんな甘いことを蒔田が言うはずがなかったのだ。
「……私を方面軍司令官に…」
「…………………」
 萩王が肩を震わせ、唇を噛む。
「……わかった……」

 
 ********


 善三たち攻略隊は、イスラバを占領した。
 しかし、食糧はなかった。
 オーストラリア軍は全て物資を焼却していたのだった。
 日本軍の戦法としては、兵糧を戦地に行く分まで持ち、後は敵のものをいただくという方式で、それを踏襲した形でジャングル戦に臨んだ。
 それが通用しないということをこの時点で誰もが悟った。
 善三は主力隊に渡してしまった食糧の残りをすかさず計算させ、あとそれぞれ三日分しかないということがわかり、おそらく敵方は撤退する度にそこの食糧を焼いていくのであり、とてもあと三日でポートモレスビーまで到着するとは思えなかった。
 なのに、主力隊はココダに戻ろうとせず、先に進むと言った。
 イスラバになければその先を取ると。
「小野さん。次の場所も同じようになっているでしょう。そうやって奥地への誘い込む算段ですね」
 善三が馬上からそう言うと、小野も同意した。
 動物が餌欲しさに罠にかかるのと同様であった。
「ええ。相手は地の利を知っていますから、負けるふりしてこちらの体力が落ちるのを待っているのです。それに誘い込まれているだけでしょう」
「小野さん。おそらくいずれ転進(撤退)することになります。動けなくなったら止まるしかないのですから。だから米を埋めましょう」
「え…」
 前進している時に転進のことを考える者はいない。
「ここからは消耗戦です。餓えたら負けなのです。木の実を取って来て下さい。それから原住民から農作物を頂戴してください。そしてこれから行く場所行く場所に埋めるのです」
「……わかりました」
「他の隊に気がつかれないように、です。いいですか、極限状態になったら敵も味方もなくなるものなのです。味方同士で奪い合うことのないよう」
「はい。承知いたしました」
 善三が全員無事にラボールに帰す…そう心に誓っていた。
 そこにヒュンと風を切る音を聴いた後、爆音が響いた。
 砲台から火が放たれていて、ジャングルで視界が遮られている中、随所に武器に隠されていて、どこから攻撃されるかわからない。

「隊長!」

 善三は咄嗟に馬上から振り落とされ地面にうつ伏し、思ったより衝撃が激しかったらしく、一瞬息が止まった。大事ないと右手をあげると小野が駆け寄る。
 小野の額からは血が流れていて、頭部を怪我していた。
「これくらいはかすり傷です。大したことありません」
「皆は?」
「少々お待ちください。伍長! 点呼!」
 伍長が頭を押さえながら身体を起こし、それを伝える。
 ―一班全員無事です!
 ―二班全員無事です!
 各班長がそう声を上げていくが、三班、四班は返事がなかった。
 ―五班全員無事です!
「三班! 四班!」
 伍長が声を張り上げると呻き声が聴こえてくる。
 他の班長が負傷者の数を報告する、生死にかかわる怪我をしているわけではなかった。
「小野さん。一班に負傷者をココダまで運ばせてください。その間、私たちは次の基地に進みます。一班はココダから少しでも兵糧を集めてくるように」
 そう善三が命令したそばから、次の砲弾が投げ込まれる。
 善三がきゅっと唇を噛む。
「あの砲台に向かって前進! 何が何でも落とすぞ!」
 進むしかないのだった。
 小野は、お坊ちゃん隊長はもうどこにもいないと心強く思っていた。

 イスラバのその先のギャップ、エホギという敵の陣地を取るが、食糧はまったくといって手に入れることができなかった。
「……案の定……」
 ―――まだ撤退しないのか……。
 善三は焦る気持ちが湧いてきた。
 どう考えても主力隊はもう食糧が底をついているはずなのである。
 すると、動けなく蹲っている主力隊の兵士が道のあちこちにいる状態になってくる。
 傷病兵たちがその場でどんどん置いて行かれているのだ。
「おお……援軍だ……」
 馬を失った善三目がけて皆が身体を起こして寄ってくる。
「え……」
「隊長さんだろ? お願いだ……何か食べるものを……」
 その身体には蛆虫が這いずっていた。
 気候のせいで傷口はあっという間に蛆虫の巣となり、白骨化していく。意識ははっきりしているのに、身体はぼろぼろになっていくのだ。
 痩せ細って頬はこけ、目が窪み、すでに兵士の様相を成しておらず、老人のようだった。
 善三があまりの衝撃に硬直していると、小野が引き剥がすようにその兵士を追いやる。
 マラリアで重症の者もいた。
 すでに屍骸になっている者もいた。
 善三は、これを後ろにいる毛利隊前田隊他の隊に見せたくないと思った。

 ―――これは本当に進むべきなのか……。

 その退路を塞ぐように砲撃が盛んに行なわれており、中隊長に状況報告をしたが、主力隊の後を追うように進むという判断をされた。
 そうして道で動けない傷病兵を無視して先を進んでいった。
 それを見ながら進む者らは、自分もこうなるのではないかという恐怖と戦い始める。
「小野さん。昆虫で食べられるものはありませんか。すみません、私は山遊びをせずに来たのでこういう時あまり役に立ちません」
「……虫と山菜を煮込んでみますか。味噌はまだありますから。それとトカゲを食べてみましょう。火で炙ればまあ何とかいけるでしょう」
 とにかく何でもいい。木の実でも葉っぱでも何でも食糧にしていくほか生き延びる道はないと確信した。

 オーエンスタンレー山脈の分水嶺に辿り着き、主力隊が作った吊り橋を渡っていく。その底は濁流だった。落ちたら命はない。
 善三はいやな予感がした。この橋を渡ってはいけない気がしたのだ。
 その嫌な気持ちを追うように標高が高くなってきた分、気温が下がり、夜の温度はとても野営できるようなものではなかった。
 火を熾してもまったく追いつかない。
 兵士たちがお互いの身体を合わせて寒さを凌いでいく。
 善三が寒さに震えていると、小野が背中を擦る。
「隊長。私の懐に身体を寄せてくれませんか」
 寒さに歯がかちかちと言わせながら善三が頷く。
 善三が小野に抱きつくような姿勢となった。
 小野が善三の背中をぐっと引き寄せて擦る。
 すると、互いの体温を感じてくる。
「隊長」
「……は…い…」
「隊長は…私の一番末の弟によく似ています。顔は隊長みたいに可愛い顔はしておりませんが、何となしに、そうですな…仕草というのか」
「……そ…そう…で…し…た…か…」
 歯ががちがち言ってきちんと喋ることができない。
「いつも私の後をついてきて、あんちゃん、あんちゃんって、可愛くて」
 さぞかし面倒見のいい兄だったのだろうと想像できた。
「満州で死んでしまいましたが」
「……え」
「だから……靖國で弟が待ってくれているんです」
「やめてください。そんなことを言うのは許しませんよ」
 小野の心臓の音がまるで優しい眠り歌のように聴こえる。
「ああそうですなぁ。私が死んだら隊長を守れなくなります」
 ―――守られている。
 常に自分は誰かに守られてきた。
 父。
 母。
 じいや。
 兄。
 ……そして、先生。私の愛しい人に。
「隊長の愛しい人は今頃何をしておられますかね」
 善三は心を読まれたようでどきりとした。
「え……、ええ。何をしているでしょう」
「うちの女房は、きっと子供に早く寝ろと叱りつけているでしょうな…」
「小野さんは幸せですね。綺麗な奥様と可愛いお子さんに恵まれて。さぞかし賑やかで楽しいことでしょう」
 小野が肌身離さずつけている懐中時計の中の写真を何度も見せてもらった。
 慎ましやかな大和撫子を絵に描いたような美しい女性である。
 その写真を見せる時の小野の顔が好きだと善三は思っていた。
「ええ。私には過ぎた女房です。内地の部隊の時は家にいることができましたが、蒔田副司令の隊についてからは、遠征ばかりだ。ああ…あいつの笑った顔を見たくなってきました」
 恋女房だと叫びたそうである。
 善三がくすりと笑う。
「夢で逢えますよ」
「はあ……。さすが隊長ですなあ。夢で逢いますか。それではどうぞお休みください。隊長も愛しい人が待っておいででしょう」
 善三は鼻の奥がつんとしたが奥歯を噛み締めて誤魔化した。
「寒くないですか。隊長」
 ――寒くないか、善三。
 我慢しているのに涙が出てくる。
「ええ、大丈夫です」
 ――ほれ。もっとこっちに来い。
 木内の声が聞こえてくる。いつもこうして夢にいざなってくれるのだ。
 繋がっていると思える瞬間である。
 固く瞳を閉じる。
 ………はい。先生。
 ――なんだ、泣いておるのか? どうした。
 ……お腹が空きました…。
 ――腹が減って泣いているのか…。
 ……私は一応隊長なので、お腹が空いたとは言えないのです。そして自分の食べる分を皆に回していて、とにかく空腹でたまりません…。
 ――腹が減っては戦ができぬというのになあ。
 ……ふふふ。皆同じことを言っています。実感しております。足も重くて、身体がだるくて、胃が痛くて、頭が朦朧とするのです。でもぼんやりとしていると攻撃されるので、気は抜けなくて。先生には弱音を吐いてもいいでしょう?
 ――そんなに厳しいところにいるのか……。
 ……戦場ですから。でも正直これほどつらいと思いませんでした。かなり訓練で鍛えてきたと自信があったのですが…つらいです。
 ――善三が腹を空かしているのならわしも飯を食わん。
 ……はい? 何をおっしゃって…。
 ――断食する!
 ……駄目ですよ……先生は…日本の為に…働いて…もら……。
 深い眠りに入っていく。
「……先生」
 善三の寝言に小野がくすりと笑った。
「なるほど、隊長の愛しい人は学校の先生ですか」


 ********


「曹長。役得ですな」
 伍長がころころと笑い転げている。
「もう少し静かにしていろ」
 小野が囁くように小声で言う。
 皆が忍び笑いをしている。
 善三は小野の首筋に唇を寄せて寝ていた。何とも艶めかしい。
「曹長。勘違いしちゃだめだぞ。そりゃ、嫁さんじゃなく隊長殿だ」
 小野が顔を真っ赤にしてプルプルと震える。
 善三が寝ていなかったら怒鳴り付けるところだが、それができず額に青筋を立てる。
「覚・え・て・い・ろ」
 口がそう言って睨むと皆はその場から笑いながら散って行く。
 その笑い声に誘われるように善三がぱちりと目を覚ました。
 手を小野の頬まで伸ばした時、はっとして飛び起きる。
「……あ…」
 木内かと思ったのだった。
 しばらく善三が茫然とする。
「すんませんなあ。折角先生との良い夢を見ていたのに、この髭面のおやじで」
「え?」
「はははは。寝言で先生、先生言っておりました」
 善三が寒い空気の中、頬を紅潮させる。
「隊長の通った学校は何て言いましたっけ、学習院?」
「はい」
「そこの先生ですか? さぞかし美人なんでしょうなぁ」
「………………」
 善三はそれでいい、身分違いの教師との恋…それでいいと思った。
「ええ。とても美しい人です。太陽のような人で」
 木内の顔が浮かんでくる。
 ……会いたい……。
 そんな心を封じ込めるかのように立ち上がる。
「さあ、今日はイオリバイワを取りに来ます。皆は大丈夫ですか」
 小野が少々険しい顔をする。
「実はマラリアにやられたのが五名ほどおります」
「そうですか……。自力でココダまで戻れますか。ここでは寒くて休養できません。薬もすぐ底を突きるでしょう」
「………………」
 小野は押し黙る。
 善三がモレスビーまでは行けないと踏んでいると思ったからだ。イオリバイワまで行けばあと四十キロのところまで迫る。だが、いつ退却命令が来てもいいように準備を怠らないことに随分強い信念を持っているものだと思った。
「はい。戻るように言います」
 主力隊の落伍者が続出しているのに何故支隊長は転進を具申しないのか、善三は不信感を持っていた。
 だが、イオリバイワを制した後、突然山から大音響が響いた。
 先鋒隊の雄叫びだった。

「万歳! ばんざーい」

 そう叫んでいるのが聴こえる。
 善三と小野が顔を見合わせる。
「どういうことでしょう」
 何が万歳なのか知りたくて気持ちは逸るが、身体はそれほど俊敏には動いていかなかった。
 善三たちが息を切らせてようやく主力隊に追いつくと、そこはそれまでずっとジャングルで視界を遮られていたが、急にひらけたようになり、遠くに海を望むことができる場所だった。
「やりましたね!」
 主力隊に随行していた新聞社の記者が後続隊である善三たちに駆け寄ってきてそう言った。善三の手を握り締めて、ぶんぶんと振り回す。
「……はあ…」
 突然そのようなことをされて呆然とする。
「小生、新聞社の山田です! おめでとうございます!」
 飛び跳ねながら、しきりに写真を撮っていて、一番おおはしゃぎしているようだった。
 まるで勝利でもしたかのようである。

『ついに攻め登った主峰の頂から、我々ははるかにパプア輪湾を望んだ。

 ――海がみえるぞ、ポートモレスビーの海だ――

 血みどろになった将兵は、岩角の上で抱きあい、泣きながら指さしている。
 この台上から南方を見渡せば、もはやこれまでのように、われわれの視界を立ちふさいでいた分厚い山は、何もなかった。うっそうと茂る樹海は、波状の起伏になって次第に低くなり、まっすぐ南の方角に延びている。木の間ごしに、山霧の切れ目の間に、太陽の光線に照らされてキラキラ光るものが見える。
 まさしく海だ。
 そこには夢にまで見つづけた攻略目標ポートモレスビーがあるのだ。
 さらにこの夜、山頂からわれわれは、ポートモレスビーの灯を見た。同市北郊外にあるセブンマイルズ飛行場のサーチライトが、ちらちらと見えるではないか』(引用:朝日新聞社)
 ポートモレスビーの灯が見えた、内地の新聞にはそういう記事が掲載された。
 ともにその場に居合わせなければ書けない記事であった。

 善三は、ああ、やり遂げられるのか…と思った。
 今までいつ撤退するのかとばかり思っていた自分が恥ずかしくなった。
 あと数日で敵方本陣に突入できる。
 しかし、もう食糧は最後の最後と残してあったビスケットくらいしかなかった。
 だが、皆の戦意高揚は凄まじいものである。
 山に皆の声が響いていく。
 突撃した先は……、と誰も考えなかった。突入すれば取れる気がするのだ。
 餓えに苦しみながら山にいる敵を全て倒し、死にもの狂いで山を駆け下りてくる軍隊は確かに無敵のように見えるだろう。
 しかし迎撃がどれほどのものか、南海支隊の最高責任者の支隊長は勝利を確信する皆の中、ひとり暗い顔をしていた。
 そして、受け取ってしまったのだった。

 ――ココダまで退却せよ――

 第十七軍司令官武井からの命令文だった。
 支隊長は目の前が真っ暗になった。


 *******


 翌日、将校全員が支隊長の元に呼ばれた。
「いよいよ、突撃の作戦だな」
 前田は頬がこけて目がギラギラとする顔つきで言う。
 毛利は喋ると腹が減るから無駄口は叩かないと言うことだった。
 善三は、あまり長く立たされたくないと思っていた。皆と違って戦意があまりないことに自責の念に駆られていた。あばら骨が痛むのだ。折れているはずがないが、周りの肉がないためなのか、痛くて堪らなかった。
「諸君」
 支隊長が凛とした声を出した。
 善三はさすが少将だと思った。自分はもうそのような声は出せないと思ったのだ。
「誠に遺憾ながら、我らはこれからココダに戻る」
 全員が耳を疑う。
「ちょ、ちょっと待ってください! 我々はこれからモレスビーに行くのではありませんか?」
 ある隊の大隊長が堪らずそう言った。
 善三は朦朧とする意識の中で、その内容が頭に入らないと思った。
 ……何…何を言っている…?
「真野殿。大丈夫か?」
 毛利に支えられる。
「熱があるんじゃないか?」
 善三はびくりとした。
「い…いや…大丈夫」
 まさかマラリア……。
 支隊長が涙を呑むような表情をして、声を張り上げる。
「転進する!」
 善三は、信じられない…と思った。
 ここで転進する意味はない。転進するならばイスラバだった…。
「これはご命令である…」
 そんなはずはない…。
 将校たちが喚きだす。
「無念である!」
「悔しいではないか!」
「あまりに惜しいではないか! 支隊長! やらせてください! 敵に日本男児ここにありと見せてやりましょうや!」
「そうだ、そうだ!」
 えいえいおーと言いながら皆は拳を振り上げる。
 だが、その命令は絶対であった。
「……畏れ多くも天皇陛下のご下命である」
 すると皆ははっとして、背筋を伸ばす。
 支隊長はその命令を無視して、皆の思いを遂げさせてやりたいと思ったが、全滅の危機に瀕するわけには行かないと判断し、転進の命令を受け入れたのであった。

 ふらつきながら善三は真野隊の皆の元に来ると、皆はどんな作戦なのかわくわくした顔をしていた。
 その表情を見て、伝えにくいと思った。
 ……こんなバカなことがあるか……。
「転進だ」
 力なくそう言うと、一同が「え?」という顔をした。
「ここまで来て、そのようなことになるとは思わなかったが、ココダに戻るという命令が下った。随分皆で反発したが、支隊長はそれを覆さなかった」
 そこまで言う必要はなかったが、善三は怒りを抑えられなかった。
「無念だが、戻る。支度をしろ」
「隊長? 具合が?」
「私は大丈夫。それより各地に置いてきた食糧の場所まで頑張りましょう。やはり役に立ちました」
 視界が暗くなっていく。
「いいですか、皆。きっとココダに戻るのです」
「はい!」

 一度見てしまった下りが続く景色はまた再びジャングルへと変わり、来た道をひたすら戻るという過酷なものとなっていった。
 そして、その後退を待っていたかのように、空爆が始まった。
 隊列は乱れ、各隊でそれぞれココダを目指すようになる。
 善三は皆に挟まれているから何とか歩いていたが、小野が少しでも離れると不安になった。
 ……目が見えない……。
 善三の下士官たちは戦地を潜り抜けてきた戦士だけあって痩せ細っても逞しかった。
 しかし、善三は初陣であり気負っている分、精神的な疲労が激しかった。
 すると、小野がむんずと善三の腕を掴む。
 そして、口の中にビスケットを放り込んだ。
「戻りますよ。何が何でも」
 行く先々で動けなくなっている者がいる。
 ココダに行くまでもう食糧がないと思うと、気力が出ないのである。
 そして、本当の地獄はこれからだった。

第四話 死闘



 蒔田は司令軍の任命式の為、帰京させられていた。
 そんな形式ばったものなどどうでもいいと思っていた。それより一刻も早く作戦を実行したいと焦っていく。
 駆逐艦から横須賀基地が見え、どんよりと曇った冬の空に、九月から出発したポートモレスビー攻略隊とガダルカナル隊がどれだけ窮地に陥っているのか暦を何度も見直す。
 もう十一月だった。
 どちらも食糧はとうに尽きているはずである。細々と駆逐艦で食糧を輸送しても焼け石に水で、おそらくそのわずかな食糧を奪い合っているに違いないと想像できた。

 ―――大本営は将兵に何をさせているのかわかっているのか…!

 東京が近づくにつれ、賑わいを増していくものだったが、人が少なくなった…と蒔田は思った。若い男子は皆戦場に行っているのだ。
 収穫するものもなく物悲しい農村風景が続き、夕日が何かを語りかけてくるかのように斜陽を車内に射してくる。
 三宅坂にある陸軍省は各戦地から寄せられる厳しい状況を反映するかのような緊迫感に包まれていた。
 総理大臣を兼任する陸軍大臣の東條は厳しい表情をしており、蒔田からは何も聞きたくないという様子だった。
 なにより東條は蒔田が嫌いだった。皇族からも一目置かれ、戦績もあげる優秀な軍人で、ラボールでは大層人気があると訊き、気に入らなかった。
 蒔田も何も話したくなかった。
 自分の好みのみで人事采配をするのが有名な首相に不信感を持っていたのだった。
「貴殿を第八方面軍司令官に任ずる」
「は!」
 そう、その一言さえあればいい。
 ――第十七軍、十八軍、十八師団、三十八、三十九、四十、六十五師団、を隷下に置く。
 ……やってやる…。
「参謀本部に行くように、そしてそのあと陛下にご挨拶していきなさい」
 東條は静かに言った。
 任命式が終わった後は、蒔田は参謀本部に顔を出した。
「ガダルカナルの奪回を成功させよ」
 参謀総長がそう言うと、末席に座る辻中佐が腕を組んでまっすぐ前を向いていた。
 蒔田がにやりと笑う。
「命令はそれだけですか」
 すると辻がピクリと眉を動かした。
 参謀総長が訝しげな表情をする。
「……それだけとな?」
「あの島だけ取って満足するわけではないのでしょう。勝ったその先はどうするのです」
 ……勝てると言うのか……と皆は驚いた顔をした。
 泥沼の戦場と化していて、その責任を誰が取るのか、その責任のなすり合いをしていたところだった。そこで新たに任命した司令官にそれを押し付けようと算段したのだった。
「その先の作戦をお聞かせください」
 そんなものはなかった。
「ポートモレスビーでの勝利ですか」
 辻がくくくくと笑い出す。そして、
「絶対に成功の希望なし」
 冷たくそう言い放った。
「……なに……?」
「そう結論が出たところだ」
 腹立たしいことばかりで、蒔田は堪忍袋の緒が切れそうだった。
「ならば何の為に……」
 貴様が出撃命令を出したのだろう!
 そう言ってその首を絞めたいと思った。
 ……まだ将兵が戦場に残されているのだ。
 こんな机上でその生死を操られているのかと思うと、全てを破壊したくなる。
 ……耐えろ……。
 我を失いそうなほどの怒りに震える自分に言い聞かせる。
「……物事には絶対はない……」
 それだけ絞り出すように言った。
「ほお」
 辻の挑発するような態度に参謀総長が不機嫌な顔をする。
 せっかくの生贄を逃したくないのだった。
「とにかく、ガナルカタル島での戦いの勝利、これに向けて全力を尽くしてもらいたい」
「承知いたしました」
 蒔田はとりあえずそう返事した。
 心の中で舌を出そうとも。


 ********


 宮城に行くと、近衛師団が宮城警護をしており、蒔田の姿を確認すると、ざっと隊列を作る。明治宮殿と呼ばれるその建物に入っていくと、洋館の宮内省があり、その奥に殿舎がある。総檜造りの日本家屋となっている。表宮殿の正殿に行くと、今上帝がやってきた。
 謁見の作法通りに進むと、陸海軍総大将大元帥でもある今上帝は、にっこりと微笑んだ。
「方面軍司令官になったようだね」
「はい。この度は陛下にお導きいただき、誠にありがとうございます」
「うん。頑張ってくれたまえ。期待しているよ」
「は。身命を賭して任に当たり、国の為に尽くしたく存じます」
 今上帝がまじまじと蒔田の顔を見る。
「よく似ているね」
 よく言われることである。
「陛下は私の父をご存知でいらっしゃいますか」
「父? ああ、そうだね、彼も似ていたけど、君は…もっと昔の君のご先祖の肖像画に似ている」
「さ……左様でございますか」
「神でいるのは苦しいね」
「…………………」
「その気持ちがわかるのは、おそらく我が国の中でも君くらいじゃないのかな」
「現人神であらせられる陛下と同列になるようなものはこの世に存在しません」
 蒔田が毅然と前を向きながらそう言うと、帝は寂しそうな表情を浮かべた。
「うん。うん。それでいいよ」
「……………………」
 蒔田は不敬ながらそれ以上言葉をつなぐことができなかった。
 孤独はわかる。
 神の力などなく、同じ人間であるのに、人として生きることを望まれず、ひたすら神と讃えられ、そのことがどれほど苦しいのか理解できるのだった。
 だが、その宿命にあるのならば、それに生きなければならない。そして今は、
 ―――皆、死に逝く者は最後に天皇陛下万歳と言っていくのだ。
 だからこそ、孤高でいていただかねば、皆が浮かばれない。
 独りきりでの戦いがいかにつらいものか想像がつくが、自分がそれに馴れ合ってはいけないと蒔田は思った。
 振り切るような冷たい表情を浮かべる。
「では戦場で皆が待っていますので」
「うん。そうだね」
 名残惜しそう表情をされても振り切るほかなかった。

 蒔田は取るものも取らず駆逐艦を出航させた。
 一刻も早く戻らなければ、一人でも多く助けなくては…それしか考えられなかった。
 蒔田は自らが立案した作戦を見た参謀連中の顔を浮かべると反吐が出ると思った。
「第十七軍司令官武井中将に告ぐ。十七軍は第八方面軍隷下となった。第八方面軍司令官としての意向を伝える。ガダルカナルから撤退する。その作戦を立案せよ」
 そう電文を送った。
 なるべくアメリカ軍がその暗号を解読するように、堂々と送ったのだった。
 大海原を全速力で行く船の船長室で、蒔田は胸に手を当てる。祈るしかない。今は祈るしかないのだった。
 船長の少将がそれに見習い、ともに祈る姿勢を取る。

 ……生き延びろ……。
 ………かならず生きろ……。


 ***********


 蒔田のそんな叫ぶような祈りを善三たちは聴いているかのごとく必死に撤退し生き延びていた。
 だが、ココダまで戻った時、傷病兵で溢れ、食糧は殆どなく、空爆は容赦なく行われ、早く脱出しなければ袋小路に追い詰められるばかりだった。
 善三の隊は何とか食いつないできたが、餓死する者が続出してきた。
 そんな中、南海支隊長は、ココダで様々な書類を受け取り、一時前後不覚に陥る。
 撤退命令は、一週間前に出されていたものだったのだ。
 それを知り、衝撃のあまり倒れ込んだのだ。
 イスラバで食糧を接収することができなかったことを鑑み、一旦ココダまで退却し、補給の方法を考えるという第十七軍司令部の決定だったのだ。
 それをもっと早く受け取っていれば、皆の士気をそれほどに奪うことなく、体勢を整えることができたはずだった。補給物資の要求にも余裕を持つことができ、補給隊の往復を計算できた。
 だが、全てが結果論であり、餓えにあえぐ事態ではもう後悔したところでどうにもならない。そして何より、見てしまったポートモレスビーの光景を皆は頭から追い出すことができないのだった。
 転進で命を奪われるのならば、いっそ敵に突入して潔く散る方がよほど軍人の死に方として相応しい。このまま逃げるだけで死んでいくなど耐えきれない。皆は、そんな思いを抱きつつ、弱っていく自分の身体に悔しさで身悶えするのだった。
 そうして、海岸線に退路を取ろうとしたとき、ブナ地区守備隊玉砕、他の海岸陣地も玉砕と最悪の状況を知らされ、支隊長は海岸に出て、撤退の道筋を立てようとしていた。
 しかし、いずれにしてもクムシ河という川幅一百メートル、深さ二メートル、雨で増水して濁流となっている河を渡らなければ海岸には出られず、来るときに掛けた橋梁は破壊され、退路を遮断されているという状況だった。
「各自で渡河し、河口に集合せよ!」
 大隊長の命令に、各隊はそれぞれイカダを組み始める。
 善三はその命令を伝えるが、皆の顔がよく見えなかった。
「隊長?」
 小野の声に善三が悲愴な表情をする。
「……すみません。小野さん。目が良く見えないのです」
「え! いつからですか?」
「転進した時から……霞んできて、まるで霧の中にいるようで……」
「どうしてもっと早く言ってくださらないのですか! 危ないでしょう!」
「そのうち治るかと思ったので」
 迷惑をかけたくなかった。
「事が起きてからでは取り返しがつかないのです」
 小野がイカダを組む皆の元を少し離れ、木陰に連れて行く。
「いいですか。隊長。今こそ神輿に乗ってもらいますよ。もう我々を先導しようとしなくていいです。この河を渡って海に出るという命令以外にはないでしょうから」
「はい。頼みます」
「隊長が弱くなれば、隊員全員が弱くなるんです」
 ――人は自分の弱さを見せないように、自分を強く見せようとする。
 蒔田の言葉が浮かんでくる。
「だから何かあったら早く言ってもらわんといかんのです」
 ――そしてその弱さから目を逸らそうとする。それが自分を守ることだと信じてしまうからだ。
「いいですね」
 ――だが、それは逆にますます自分を弱くするということなのだ。
 蒔田の言葉が身に沁みると善三は思った。
 皆に迷惑をかけまいとして、皆を危険にするばかりだと反省した。
「はい。面倒をかけますがお願いします」

 空爆をよけながら作ったイカダはいかにもにわかづくりだったが、それでもそれを使って河を下っていくほかないのだった。
 武器や衣類を乗せ、善三のみ乗せて隊員たちは素っ裸になりイカダに掴まる。
 善三が見えないところで身体の重心をどう置いていいのか分からず、それでも必死につかまる。
 岩と岩、流木もぶつかり渦を巻きながら全てを飲みこんでいくかのような水の勢いは激しく、イカダは前後左右に旋回させられるかのように翻弄されていく。舵など取る余裕はない。ただ流されていく。皆は流されないようしがみつくのに必死だった。
「しっかり掴まれ! 大木が前にある! ぶつかるぞ!」
 伍長がそう言うと衝撃を受けるかと思ったが、その木の上に乗りあげてしまった。
 ちっ……と小野が舌打ちする。
「隊長。しっかり掴んでいてください」
「え……」
 するとその木に跨り、うおおおお…と叫ぶ。
「曹長! 我々がやりますから戻ってください」
「だめだ! いいから、そのまま掴まっていろ! 持ち上げるぞ!」
「うおおおおおおお!!」
 小野は血管を浮き上がらせながら力をこめて持ち上げる。
 善三はただ言葉を失うばかりだった。
 他の流木が流れてきて、それとともに水の流れも変わり、小野を容赦なく呑みこもうとする。そして他の班のイカダが近づいてきていた。
「曹長!」
 がくんとイカダが動いた瞬間、また急流の中に巻き込まれていく。
「小野さん?」
 善三が荷に掴まりながらその姿を求めるように手を伸ばす。
「隊長。曹長ならきっと大丈夫です。泳ぎ切る自信があってのこと。きっと対岸に辿り着くはずです」
「本当に?」
 とても泳げるような流れには思えなかった。
「しっかり掴まっていてください。決して離さないように」
 善三は急に身体の体温が下がったような気がした。小野が常にそばにいてくれたのに、いなくなったことの不安に緊張を強いられたのであった。
 隊員たちはイカダを対岸に付け、小野の姿を必死に探す。
 すると小野がふらふらになりながら、イカダのところまで歩いてきた。
 肩が外れているのかだらりとしており、頭から血が流れている。
「そ…曹長……」
 小野が血の気を失い、小さく息を吐く。相当痛みがあるとわかった。
「待っていてくれたか……、悪いな。では先を急ごう」
「曹長は隊長と一緒に乗ってください!」
 イカダに掴まるのは不可能である。
「ああ…そうさせてもらうか……」
 右手はもう自由がきかないようだった。
「小野さん……」
 善三が不安そうな表情で小野に手を差し出す。
「隊長、心配かけてすみません、大丈夫です。では行きますよ」
「少し休んでからの方が……」
 しかし、上空ではグラマン機が近づいている音がした。F6F、ヘルキャットという愛称の戦闘機である。日本軍にとってはその名の通り、性悪女、そのままだった。
「そのような余裕はないようです」
 少し流れが緩やかになってきたと感じると、容赦なく戦闘機から攻撃され、水しぶきが上がる。
「隊長。海岸に着いたらどうしますか。指示をお願いします」
 バシャバシャバシャという水音とエンジン音に声が消されていく。
 恐ろしさの中で、善三は必死に自分を叱咤する。
「はい……」
 自分に何ができるのか…。
 すると視界が開けてくる。
「あ……、小野さん、目が……。見えてきました。ああ、どういうことでしょう」
「この河の水が良かったのかもしれませんな。山にはどんなばい菌がいるかわかりません。ひとまずよかった」
「ええ。では、まずは休息します。そして他の隊と戦闘状況について情報の把握を急ぎます」
「わかりました」
 小野がどれほどの状態なのか善三は心配でならない。出血は止まらないようだった。
 善三が自分の手を当てると、きちんと掴まれと外されてしまう。
「隊長」
「はい」
「取りたかったですな……、ポートモレスビー」
 善三がどれほど無謀な作戦だったのかと口惜しく思う。
「ええ。取りたかった」
「私は負けるのが大嫌いなんです。子供の時からお山の大将でね。兵隊に入ってからは誰よりも強くなるってやってきたんです。勉強もしましたよ。誰にも負けたくなかった」
「小野さん。あまりしゃべらない方が……、傷口が痛むでしょう」
「でも、隊長と一緒に戦えて良かった。イスラバは頑張りましたね」
 また別の戦闘機がやってきて、小野は善三の上に覆いかぶさる。
 低空飛行で狙い撃たれるとわかった。
「お前ら! 潜れ!」
 それが小野の最後の言葉だった。
 小野が善三の手を引っ張り水中に潜らせ、機関銃が止むまで手を離さず、善三が苦しくなって浮きそうになるが、まだだと言って浮かせなかった。
 苦しさのあまり気が遠くなる。
 ……まだですよ、隊長。
 ……無理……もう……。
 ……もう少しの我慢です。
 ………………っ…。
 ……ああ、行ったようです。
 そして、静かに手を離し、小野は川底へと沈んでいった。

 ……え? 小野さん…!

 善三が潜ろうとすると、他の隊員がそれを押しとどめて、川岸に連れて行く。

 ………小野さん…! 小野さん!



 ************ 


 隊員たちが急流の中、小野の身体を引き揚げることができたのは、夕暮れ迫る頃だった。
 暗くなってからではどれほど流されるかわからないため、捜索は困難を極めるだろうと皆は体力の続く限り河の中を潜っていた。
 そうして隊員たちが河の中にいる頃、善三は破壊されたイカダの上に乗っていたものを拾い上げ、沈まなかった武器を磨き、衣類を乾燥させ、ひたすら小野を待っていた。
 すると、森の中を歩く音がする。すかさず草叢に姿を隠す。
「Hey, come on」
 そう聞こえた。
 足音の数を数える。
 ガサ…ゴソ……。
 三人……四人か……?
 手榴弾を握り締め、川岸に歩みを進めていく敵方兵士たちを見送る。
 三人だ。
 無線で連絡を取ろうとする者まで距離はわずか数メートル、手榴弾を置き、思わず銃で狙い撃ちする。
 ………ズダ…ン………。
 顔に当たったようで悲鳴を上げる前に倒れ込んだ。
 ……いいぞ…。
 その銃声は林の中を響き、どこから撃っているのかわからないようだった。
 他の二人にも狙いを定める。
 ……よし、いける。
 頭に当たり、一人が倒れ込み、もう一人がまったく違う方向に火焔銃を撃っていてその背中を狙うと的のように当たった。
 急いで駆け寄り、無線機を傍受する。
 すぐ近くに隊がいるのか……?
 だが、その無線機からは途切れ途切れしか聞こえてこず、あまり電波の状態がいいとは言えなかった。ならば、この場所を探すのは難しいはずである。
 他に兵士がやってくるか耳をそばだてる。足音と草木が風に揺れる音では微妙に違う。
 聴こえてくるのはざわざわと風の音のみである。
 ……来ない…。
 その者らが所持していたものを漁る。
 だが、期待したようなものは持っていなかった。
 欲しいのは米だった。一人分の食糧などでは意味がない。
 そして胸ポケットに指を入れると写真が出てきた。
 金髪であるのが白黒写真からもわかる大きなカールのかかった髪の若い妻と小さな赤ん坊が腕に抱かれていた。他の二人の所持品も似たようなもので、ひとりは結婚式の写真だった。その写真をあった場所に戻す。
 皆、家族がいて、愛する人がいる。帰りを待っている人がいる。生まれた国が違うというだけである。そしてそれを、

 ………私が殺した……か…。

 しかし戦場に於いて、それについては居たたまれない思いは持っても、罪の意識までは持てなかった。やらなければ自分が死ぬのだ。そして、隊員も皆殺しにされる。
 銃を身体から剥ぎ取る。
 ……まだ闘いは続いている……。
 隊員は落伍者もいたが、四十人ほどが無事でついてきている。他の隊よりも多いとわかっていた。
 ふっと笑う。

 ……小野さんのおかげだ…何もかも。

 しかし、生き延びてはきたが、今はこの米兵たちが持っているもの以外、もう一粒の米も、乾パンの一欠けらもなかった。
 河で釣りをするにも流れが早く、釣りあげることは難しい。長時間釣竿を垂らしていなければならない。まずは今すぐ食べられるものが必要なのだ。
 短刀を取り出し、米兵の衣服を切り刻む。
 うつ伏せにして、脇の部分に刃先を入れ、下半身までその布を丁寧に切っていく。
 その服をぱさりと死体のそばに置き、それを風呂敷のようにする。
 裸体になった臀部に刃先を立てると血がにじんでくる。
 躊躇せず、その刃をぐさりと刺しこみ、柔らかい部分を抜き取るように抉っていく。
 切り取った衣服を袋に入れ、すかさず蝿が寄ってくるのを追い払う。
 肉と血がからみつく指で顔の汗を拭う。
 むせかえるような血の匂いに吐き気が襲ってくる。
 それより何より、今、この自分の姿をもし俯瞰して見たならば、それにこそ吐き気をもよおすだろうと思った。
 ぐちゃり…ぐちゃり…という音は、人としての感性を滅ぼしていく音だと思った。

 ………人は人であることを捨て、鬼になれる……。

 ――曹長を引き揚げたぞ!

 皆が大声で叫んでいる。
 日が暮れては米軍機も飛べなく、薪を焚いても襲ってくることはない、無理な夜襲をするほど焦っていないと善三は判断した。
 米兵の荷物から全ての物資を抜き去り、マッチを見つけて、それに火をつけ、三体の骸に落とす。すると忽ち燃え上がっていく。

 ――隊長、隊長どこですか!

 軍刀を抜き、肉片を刺して、その火に炙っていく。
「隊長! 隊長! 何をなさっているのですか! 敵に見つかります!」
 伍長がいきなり燃え上がった火を見て飛んできた。
「夜襲はないと見た。炎に釣られてやってくれば的になるだけだ。私ならそういう命令は出さない。それに戦いは今宵である必要はない」
「それはそうでしょうが……」
 善三がにやりと笑う。
 炎に浮かび上がるその善三の顔は今まで見たことない表情だった。殺気のような妖気のような不気味さがあった。
「肉を焼いている。手伝ってくれるか。皆、腹が減っただろう」
 伍長が震えあがる。

 ………肉……。
 ……………いったい何を燃やして…………。

「……猪がいたのだ……」
 そんなものは見たことがないと伍長は思った。そして、その焔の中の燃えているものの頭部を見てしまった。
 善三が無表情で伍長を見据える。
「これは命令である。皆で食べるのだ。いいか、皆、これを食べるのだ。私も当然食べる。生きるために食べる」
 伍長が背筋を伸ばす。
「は!」
 そして軍曹を呼んだ。
 肉の焼ける匂いは皆の腹部を刺激し始めて、隊長が獣を仕留めた…! と皆は単純に喜んでいた。その中身を知る伍長と軍曹と三人で肉を焼きあげていく。
「焼けましたね……」
 善三がふらりと立ち上がり、大きな葉を皿代わりにして肉を載せ、よろよろと歩いて行く。
「隊長」
「さあ……、行きましょう」
 善三は感情というものをどこかに置いてきてしまったかのように表情を失っていた。
 松明と満ちた月に小野が青く照らされている。
 無数の虫の声が響き、それが読経のように聴こえてくる。
「小野さん……」
 皆が隊列を作り、善三が歩いていく先に並んでいる。
「……小野さん…………」
 水中で手を離す時、にこりと笑ったように見えた。
 今は物言わぬ姿となっている。
 いつも厳しい顔をしていたが、善三と話す時は優しい表情だった。
 ―――隊長。
 低く響く声でそう呼ばれることはもうない。
 川砂が死に装束である。
 小石を取り除き、細かな砂だけをかけて固めてある。皆、小野に敬意を払い、心を込めて砂を身体にかけていったのだ。
 胸までかけた砂の上に組み合わせた手に掛けられていたのは懐中時計だった。
 立派な弔いである。
「小野さん……」
 善三は供物を捧げるように焼いた肉を顔のそばに置く。
 その肉から伝わる熱気と湯気がまるで焼香のようでもあった。
「小野さん、肉が焼けましたよ。……腹が減りましたね」
 隊員が堪らず嗚咽をあげる。
「一緒に食べましょう」
 皆は声をあげて泣き出した。



 ********


 廊下を忙しなく小走りでやってくる音がする。
 それはパチンと将棋の駒を置いた時に邪魔するようにやってきたのである。
「ふ……む……」
 その一手は実によく詰まれたものだった。
 秀一は駒から指を離して、ふうと息をつく。
 善三はその勝負はあったと思った。つくづく兄様はお強い…と思いながら。
「王手」
「ふう……む」
「いかがです。父上」
 腕組みをし、まったく抜け目のない、隙のない様子でそう言う。
「ふ……む」
 唸ってばかりである。
 しかしその対局を続けることを許さないと言わんばかりに障子を開けられる。
「いい加減になさってくださいまし!」
「……いま暫く…待……」
「殿! もう始まってしまいますのよ! お付き合いくださるとお約束でしたでしょう!」
 昌和は妻の絹代に肩を揺さぶられ、はあ……と息を吐く。
「ああ。そうだな。秀一、ではこの続きはまた後で」
 秀一がくくくくと笑う。
「はい。ではまた後ほど」
 靖國神社で薪能があり、いつもは妻の付き合いには恥ずかしさから二の足を踏んでいたが、今回はうっかり了承してしまい、少々顔を出す程度でいいと思っていたのである。
 そして今はむしろよい頃合いだったようだ。
「ああ。では参ろうか。姫」
 絹代は三人の母親とは思えぬほど少女のような満面の笑みを浮かべる。
「善ちゃん。玄関で木内さんがお待ちですよ」
「はい!」

 昌和と絹代、秀一夫婦、誠二夫婦、そして木内と善三の八人で神社に向かう。
 大鳥居を抜けて車から降りて、観賞用に用意された袴で歩いて行き、第二鳥居、神門をくぐった右手の能楽堂についた。
 五十年程前に立てられた能楽堂はもともと芝増上寺近くにあったもので、靖國神社に奉納された。周囲を桜の木に囲まれ、夜桜能は人気があり、よい席はすぐ埋まってしまう。絹代は欠かさず毎年観に来ていた。
 篝火が焚かれた能楽堂に幽玄の世界が広がっている。
 舞獅子が始まると、神社の雰囲気と相まって、神の領域に連れて行かれるような気がした。狂言で皆が笑い転げていると、すっかりと月は頭上に上るころとなった。
 木内が袖で隠しながらそっと善三の膝の上に手を置く。
 善三が木内の顔を見る。
 木内は前を見ていたが、口元が緩んでいた。
 善三がその袖に隠れた膝の上の左手に自分の右手をそっと潜らせ、握り締める。
 すると木内も握り返してきて、まるで心の中の言葉が溢れてくるようである。
 ……案外寒いな。大丈夫か。
 ……はい。あの……先生。
 ……なんだ、善三。
 ……このまま時が止まってしまえばいいですね……。
 ……ああ。そうだな……。

 妖艶な姿の能楽師が姿を現し、狂言で楽しかった雰囲気は一新される。
 その艶やかな衣装の女は山の紅葉を愛でようと酒席を催し、そこに平維茂(たいらのこれもち)一行が鷹狩の途中で通りすがる。
 だが、維茂が避けるように行ってしまう為、女が声をかけると維茂は立ち止まった。
「どなたか存じませんが、ご身分ある方だろうと遠慮し道を避けただけです」
 女が微笑む。
「私が誰かご存知なくても道中のよすがにお立ち寄りください」
「とんでもない。なぜ私をお引止めになるのですか」
 維茂が真っ赤になって歩き出そうとする。
「まあ、つれないお方ですこと。一降りの間の雨宿り」
 雅で高貴な雰囲気で麗しい姿に維茂は心惹かれ、その誘いを受ける。
 そして、酒を薦められるままに呑んでしまうのだった。
 二人の心のかけひきを謡いが語るように歌い上げていく。
 その朗々とした歌声が境内に響いていった。
 その恋物語に善三は心揺さぶられていく。
 歌舞伎にはなかなか連れて行ってもらえなかったが、能の鑑賞は子供の頃より何度もしている。ただ、子供の頃と違い、今はその維茂の恋心がどのようなものがわかるだけに観方が変わっていた。
 ……なんと美しい………。
 季節は真逆の春であり、桜の花がはらはらと舞い落ちていたが、にわかに芽生えた恋心の演出する役目を担っているようだった。
 だが、舞台はそれを打ち破るかのような展開となる。
 維茂は、勅命により戸隠山の鬼神退治に赴いていたのだが、その女の魅力に屈し、酒宴の果てに眠り込み、女は消えていた。
 深く眠りにつく維茂に、八幡大菩薩は自分の眷属を差し向け、その女は鬼神であると伝えさせる。そして大菩薩より預かった太刀を置いて行くという夢を見させた。
 維茂は、はっと目覚め、その太刀がそばにあることに気付き、その夢のお告げで鬼神に誑かされていたことを知った。
「我ながら情けない。煩悩に身を投じてしまったなど」
 辺りを見回すと稲妻が走り、轟音が鳴り響き、悪風が吹く。
 酌をしてくれていた女はおらず、身の丈一丈(三メートル)ある鬼神が姿を現した。
 角は火のようで、目は白く光り、直視できぬほどのものである。
「おのれ……鬼め……」
 維茂は少しも慌てることはなく、八幡大菩薩から授かった太刀を向けた。
「それは……!」
 鬼神が怯む。
「八幡大菩薩の神勅である!」
 鬼神がその恐ろしい形相でにやりとする。
「われを倒しても、他の鬼は倒せまい」
「……何?」
「われよりもっと恐ろしい鬼がおるぞ」
 謡いが「稲妻が走る……」と状況を謳っていたように現実に稲妻が光る。
 すると空が一瞬明るくなり、観客の顔を照らす。
「ほれ。あそこに」
 鬼神がまっすぐ指を指す。
 善三に向かって。
「われより恐ろしい鬼だ!」

 ……え…?

 一斉に皆が善三に注目する。
「人を喰らう鬼よ。正体を見せろ。角を出せ! 牙を出せ!」

 ……私が鬼?

 人々が恐ろしさに震えて席を立ちだす。

 ……違う、私は鬼ではない。

 誰かが叫んだ。
「大菩薩の太刀を!」
「違う……。私は……鬼などではない……」
 周りを見て見ると、父も母も兄も皆恐怖の色を浮かべていた。
「父上? 母上? 兄様?」
 絹代がぶるぶると震える。
「……善ちゃんが鬼に………」

 ……いいえ、私は鬼などなっていません。

 すると身体が伸びていくような気がした。頭から何かが生えてくる。
「きゃあああああああああ」
 絹代が悲鳴を上げて卒倒する。

 ……違います……。善三です、母上。

「おのれ、そこの鬼! 大菩薩の太刀に前に屈するがいい!」
 そうして振りぬかれたところから血が噴き出す。
 焼けるような痛みが伴う。
 思わず、その刃先から逃げるように走る。
「逃がすか!」
 維茂が追いかけてくる。

 ………違う! 私は鬼ではない!

 そうして走り出した自らの身体を見る。……それは、人の姿ではなかった。
「ああああ……ああああ………」

 ……私は…鬼になってしまったのか…。

「善三!」
「……先生……」
「こっちだ! 善三!」
「…私は…鬼ではありません…」
「そうだ。お前は鬼ではない」
「先生……」
 そう、先生はいつも私を導いてくれる。私が思う方向へ、私が望む方向へ。
「そうですよ、隊長。鬼なんかじゃありませんとも」
「小野さん……まで?」
 しかし、追ってきた維茂に太刀を突き刺される。
「…ぐっ……」
「善三!」「隊長!」
 刃先は背中から腹へと貫通していた。息がつけなく、目が霞んでくる。身体中から力が抜けていく。
 ……頼む………。
「善三!」
「……先生……」

 …………助けて……!

 手を伸ばす。
 すると、その手をしっかりと握り締めてくれる感覚を得る。
「大丈夫だ」
 ……ああ。その声は…。
「もう大丈夫だ」


 ***********


 蒔田は善三の手をしっかりと握り締めていた。
 高熱で魘され、悲鳴を上げながらそれでも眠りから覚めない様子にこのまま意識混濁のまま死んでしまうのではないかと焦ったのだ。
 ガダルカナル隊もポートモレスビー攻略隊も、引き揚げてきて戦える者は皆無に近く、皆飢餓に苦しみ、戦士としてのみならず人としての誇りも捨ててきたような状態だった。
 将校も戦死した者が多く、支隊長も落命して事の詳細を訊くにも訊けぬ状況であった。
 その中で最も部下を失わなかった善三が瀕死の状態であり、蒔田は自ら見舞い、見守っていた。

 ……生きろ……。

 蒔田は手を握り締めながらそう祈る。
「……に…じゃない………」
 苦しそうに絞り出すような声を出しながら手を伸ばしていたのだった。
 どれほどの地獄を見たのか…この無謀な戦いに行かされ命を落とした者たちが憐れでたまらなかった。どちらも悲惨極まる状態で、まだ取り残されている者も多いが、今はもうどちらにも近づくことはできず、置き去りにするほかない…と決定を下した。
「頼みます! まだうちの隊の負傷兵が残っているんです!」
 そう涙が零しながら訴える将校もいたが、その回収に行く者が死ぬに行くような状況にあり、そこは運命の分かれ道であると心を鬼にした。

 ―――鬼…か…。

 蒔田は、今後自分はどれほど鬼になるのかとぎりりと奥歯を噛み締める。

 ―――誰かがやらねばならぬことだ…。

 非情に徹する自分を鼓舞するように自らの頬を叩く。

 ―――鬼。上等だ。

「………あ…」
 善三が意識を取り戻し、ぼんやりと蒔田を見る。まるで幻でも見ているかのように。
「真野君。しっかりしろ」
「どうしてここに……」
 副司令が……? と言おうとしたが、そこは河口ではなかった。
 善三の意識はクムシ河口で止まっている。
 確か撤退の引き揚げの船が近くまで来るからそこに集合という命令を受け取って、それに乗れば助かる、ラボールに帰ることができると皆とそれまでの我慢だと肩を抱き合ったのだった、そこからの記憶がない。
「ここはラボールの病院だ」
 周囲を見ると、窓に白いカーテンが揺れており、看護婦が心配そうな顔で見ていた。
 軍医が聴診器を胸に当てて、音を聴き、聴診器を外した後、熱が下がるまではまだしばらくかかるでしょうと報告した。
「皆は……」
「引き揚げてきた者全て療養中だ。起きられるようになってから報告を訊きます。それまで身体を癒すように」
「……はい…」
「ああ、私が君らの司令官となった。また君は私付きになったので、よろしく」
 善三が敬礼をしようと身体を起こそうと思ったが力が入らなかった。
 重い右手だけかろうじて額につける。
 蒔田が苦笑いをする。
「無理しなくていい」
 蒔田は居たたまれない思いだった。
 華族である三人の将校は、自分と同じで生まれ出たときから大事に育てられて、それこそ食べるものの心配などして来なかったはずで、骨と皮だけになるほど痩せ細るとは誰もが想像していないことであり、狙い撃ったような後方部隊編成には作意を感じられ、華族を快く思わない者の指図ではなかったと疑う。自分は萩王のそばにいたから余計にその風当たりは強かったのだ。
 ……貧しさを経験してきた者よりもつらかったはずである。
「君はよくやった」
 善三がこけた頬で大きな目が更に大きく見えるその瞳を揺らしながら、くっとこみあがってくるものを堪える。
「……私は……、何も……何もできませんでした……」
「いや。立派にその務めを果たした。その功績を認め、昇進の申請をしたところです」
「そんな! 私は……何も……それより小野曹長を…」
「それはわかっている。心配には及ばないよ」
 善三の瞳が揺れる。
「君は私の参謀だ。特別にこの個室を自分の部屋だと思って使いなさい」
 特別扱いだと苦情が来ても受け付けないつもりだった。
「あり……ありがとうございます」
 そう言いつつ、善三がはっとした表情をする。
「……あの、……その異動は…私だけでしょうか」
 前田と毛利のことが気になった。
 彼らはどうしているのだろう。
「ああ。君だけだ」
「…………………」
「前田君と毛利君のことを気にしているのかな」
「はい」
「……毛利君はだめだった…」
「!」
「ラボールに着くまでは何とか意識があったのだが……、右足がやられていてね……」

 ……毛利殿が戦死した……。

 善三が奥歯を噛み締める。しかしそう訊いても現実として受け止められなかった。
「前田君は、内地に行った」
「え?」
「陸大受験の為だそうだ。密かに戦場から抜けていた」
 ………そんな……。
「転進までは一緒に……」
「お父上の前田大将が息子の人事を知らされていなかったらしく、それに憤慨してすぐ東京に呼び戻せということになったらしい。何とも陸軍省もいい加減だ」
 あの状況でそんなことができたことが不思議だった。
 前田隊はどうなったのだろう。
「君の陸大受験はこれから機会がある。年齢的にもまだまだ余裕がある」
 蒔田は慰めるように言う。
 善三は、それは別にいいと思った。羨ましいなどという気持ちが起きなかった。
 前の自分だったら東京に戻れることを切望しただろうが、そういう思いがまるで消えていた。敵とは言え、人を殺し、その肉まで食べたという自分は、前の自分とは違うと思った。汚れたというよりも、人間として何かを失った気がしていた。
「いえ。それよりも今の責務の遂行が重要かと存じます」
 何かを捨てたような気もしていた。
「うむ。君の回復を待っている。では」
「あ…あの…私の隊の皆は……」
「すでに新しい隊長が各員の病床に挨拶にいっているはず」
「え……」
 ……もう自分の隊ではなくなってしまった…。
「そう……、そうでしたか…」
 落胆の様子を隠さない善三を励ますように蒔田は布団を直してぽんぽんと叩く。
「ふ。そういうものだ。自分の隊に愛着が湧くのは当然としても、この先、中隊、大隊と階級が上がっていく。小隊だけの面倒をみていればいいというわけではない。異動はつきものだ。将校はそういうものと割り切りなさい」
「はい」
「そして、まずは英気を養いなさい。いいですね」
 蒔田は扉の外に消えていき、善三はそれを見送る。
 善三は蒔田にいつも救われていることに気付く。
 絶望の淵に落とされてしまいそうになる自分の心が、蒔田と話すことでいつの間にか前を向いているのである。



 ********


 数日もすると身体は回復していき、退院してもいいと医師から告げられ、軍務復帰となる。
 白い天井と白いシーツの中で過ごしていると、何もかも夢の出来事だったように思え、善三は早く何か役割が欲しいと思った。
 いつも世話をしてくれる看護婦が忙しなく働いており、その動きを目で追っていると、にこりと微笑まれてしまう。
「明日退院ですね。すっかり良くなって、回復するのが早いと皆驚いていました」
 明るい笑顔でそういう顔をまじまじと見てしまう。
「ありがとうございます」
 女性と話をしたのは母以外では記憶がなく、また若い女性というのは初体験だと思った。
 善三は何だか照れくさくなる。
 すると、親しげに声を掛けられる。
「想像していた通りのお方です」
「え?」
「前田さんの手紙ではよく真野様のことが書いてあって」
「ああ……。ああ、ではあなたが前田殿の奥方になられる……」
「久子と申します」
「これは……真野善三です。前田殿には随分と世話になって……」
 久子が沈んだ顔をする。
「あなたは内地に戻らないのですか? そうすれば夫婦になれるでしょう」
 美しい人なのだろうと善三は思った。儚げな表情が麗しい。前田がどれほど傾倒しているか分かる気がした。
「わたくし」
 凛とした声を出した。
「最初は前田さんを追ってまいりました。ラボールでは少し隊付き訓練をした後は東京に戻れると訊いていましたので」
 確かに善三自身もいきなり最前線に送られたのは腑に落ちない部分があった。
 何か失敗した者に対する人事であり、士官学校卒業したばかりの者たちにはきつすぎる任務だった。しかし、善三には上層部の思惑などわかるはずがない。
「けれども、そんな不純な動機でやってきた自分を恥じましたの」
 どこのお姫様か知らないが、純真を絵にかいたような表情だと善三は思った。

 ………眩しすぎる……。

「だからと言ってあなたがここにいる必要はない。代わりはいくらでもいるでしょう」
 善三のその冷水を浴びせるような言葉に久子は泣きべそをかくような表情をする。

 ………しまった。……失言だった……。

「ああ。別にあなたが役に立たないという意味ではなく、とにかく内地で前田殿が待っているのでしょう。早く帰って差し上げて前田殿との御子を、確か前田殿は嫡男でしたね」
 するとますます久子は泣きそうな顔をする。
「ああ! だからそうではなくて!」
「いいのです。どうせ殿方には女の心はお分かりになれないのですから。とにかく、わたくしはわたくしの意志でここにおりますの」
 善三は理解不能という表情をする。
「前田殿に会いたくないのですか? その為にいらしたのでしょう?」
「前田さんは、わたくしの顔を見ることさえおつらそうで、とてもご迷惑そうでしたの」
「それは当然……、ここは戦地なのですから。厳しく自身を律していらっしゃったのでしょう。けれどもきっと嬉しかったはず」
「そうかしら。いつも怒っているようなお顔ばかりで」
 前田の不器用そうな様子が手に取るようにわかると善三は思った。
「ですから、わたくしも日本人のひとりとしてここで戦うことにしましたの」

 ………戦場が何かも知らぬくせに……。

 むしゃくしゃしてくる。苛立ちが押さえられない。女がこんなわからずやで理解不可能で意思の疎通が図れないものだとは知らなかったのである。
 ………前田殿も前田殿だ…!



 *******



 明くる日、新たに善三の部下になった松本が退院の支度を手伝い、正装の軍服に着替えた善三が帽子を被ると、松本は見惚れるように見て背筋を伸ばす。
 久子がお大事になさってくださいと言い、見送ると軍医が敬礼する。
 そして部屋の扉を開けると、ずらりと人が並んでいた。
 真野隊の隊員たちだった。
 善三は動けなくなる。
 まだ足を骨折している者や手をつっている者もいるが、生存できた四十人しっかり軍服を着て整列し、挙手注目の礼をしていた。
「あ……君たち……」
「隊長! ご快復おめでとうございます!」
 その一声の後に、全員一斉で声を上げる。
「……私はもう君たちの隊長じゃない………」
 伍長が進み出る。
「隊長。皆、一言お礼が言いたくて、新任の隊長にお願いして、許可をもらったんです」
 善三がぐっと腹部に力を入れる。
 ―――将校たるもの泣いてはいけない。
「自分らは隊長のおかげでこうして生きております。ありがとうございました!」
 ありがとうございました! と皆が声を合わせる。
「私ひとりの力ではない。小野さんと皆のおかげです」
 小野の名前を出されて伍長がぽろりと涙を流す。
 善三は必死に堪えているのに目の前で泣かれて自分も声をあげて泣きたくなった。
 拳を握りしめる。
「見送りありがとう。では、各自これからも務めに励むように」
 努めて冷静にそう言った。
「隊長に万歳三唱!」
「え…やめ……」
「バンザイ!」
 善三が顔を真っ赤にする。
「や……」
 松本がくすくすと笑う。
 善三が逃げるようにしてその場を去る。
「バンザイ!」「バンザイ!」
 そして病院の建物から抜け出て庭に出る。
 その善三を迎えた空は青かった。
 穏やかな南国の風が吹いている。
 善三は零れそうになる涙を誤魔化すように顔を天に向けた。
 その様子を蒔田が木陰から腕組みをしながらくすりと笑って見ていた。


 *************


 墓地はラボールを見下ろすような小高い山の中腹にある。
 まだ建てられたばかりの真新しい墓標の前に善三は佇み、持ってきた酒と野菜を置く。
 ――――日本帝國陸軍少尉毛利春元の墓。
 実際にこの墓を見てもやはり実感が湧かなかった。
 後ろから、真野殿、ここにいたのか、と毛利に声をかけられる気がするのだ。
「毛利殿…」
 転進して攻撃を受けてからはそれぞれ隊がばらばらになり、どうやって帰還したのか後から聞くしかなかった。
 ……前田隊は殆ど生存者がいないと聞かされた。
 毛利隊は前田隊を救う為に危険を冒し、毛利はその犠牲になった。
 隊長が抜けて曹長に権限が委譲されたところで、士気は下がっており統制は取れない。
 ふうと息を吐く。
 ……自分は自分の隊のことで精いっぱいだったのに……。毛利殿は他の隊のことまで見ていた。つくづく凄い人だと思う。それにしても、
 ………上層部も何とひどいことをするのだ……。
 前田殿はそれを今後背負って生きていかなければならないのだろうか……。
 隊員を見捨てて、毛利殿を死に追いやったと呵責の念に苦しむのではないか。
 軍医は、毛利殿の身体は右足を切断したところで身体全体に毒が回っている為、手の施しようがなかったと話していた。
 しかし最後の最後まで毛利は諦めなかったと。

 ―――先生。頼みます。足でも何でも切ってください! 歩けなくともいい! お願いします!

 喋る事すら難しい状態の中、そう訴えたとのことだった。
 善三は、前から毛利ほどの男はいないのではないかと思っていた。
「毛利殿は男の中の男ですよ」
 心から尊敬する。
 おそらく家庭においても立派な夫であり父であったのだろうと思う。
「お子さんに会いたかったのでしょう……。ラボールに戻る時、初めて毛利殿が弱音を吐くところを見ました。あれが最初で最後でしたが」
 酒を墓標が埋まる地面に沁みこませていく。

 ………ああ。会いたかった。

 毛利の声が聴こえる。
 思わず顔を歪める。涙など流しては毛利に失礼だと懸命に我慢する。
 同情など一番嫌がるであろうと思った。
 相手が不幸な状況の場合、それについて泣くというのは自分の弱さの受容を求めているのであって、決して相手の望むものではない。人の為に泣いてもいいのは、相手が嬉しい時に喜びを分かち合う時である。もしくは相手が泣いている時である。共に泣いてやることでその心情に同調できるからだ。
 今の毛利は泣いてなどいない。そこにあるのは怒りなのだ。
 だから、今、自分が泣くのは卑怯なことで、哀しみに酔っているだけのことになる。
「……毛利殿。……生きていてほしかったです。私は貴方の背中を追いかけていたのです。貴方に負けまいと。……まったく…寂しくて堪りませんよ。さあ、酒を飲みましょう」

 ………生きたかった……。

 酒瓶を口に付けてラッパ飲みをした後、残りの分を地面に流す。
「ええ。そうでしょう。当然です。玉砕が花道だなんてまやかしですよ」
 吐き捨てるように言う。
「いいんです。大隊長はここにはいませんから。これくらい言わせてください」

 ……真野殿。俺は生きて、生き抜いて、しぶとく生き残りたかった!

「ええ。ええ」

 ……無念だ!

 毛利の声が風にのって響いていく。
 遠く内地に渡っていくかのように。
「……海行かば……」
 なぜがその歌が自然に出てきた。皆死んでいったものはさぞかし無念だったに違いない。
 小野も、他の者たちも、皆最後の最後まで生きようとしたのだ。
 それでも……。
「水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の……」
 声を張り上げる。
 歌くらいしか捧げられるものはなかった。
 その声が震える。
「辺にこそ死なめ かへり見はせじ……」
 その歌に毛利の声が重なっていった。


 *********
 



 蒔田は敵方司令官マッカーサーに米軍将校捕虜解放の申し入れをする。
 そしてその交換条件としてガダルカナル島の将兵の回収、その間の一時休戦を申し出た。
 捕虜にしていた将校は戻れると思ったら何が何でも戻りたく、自らも嘆願した。
 マッカーサーはそれが何某かの罠のような気がしたが、どうせポートモレスビーもガダルカナルも日本軍は撤退しているのであり、勝利に酔っていたため、それを些細なこととして何か事あらば一時休戦をすぐ破り息の根を止めればいいと思っていた。
 次に狙うは難攻不落の異名を取るラボール要塞、マッカーサーがくっと笑う。

 ―――落としてみせる。

「絶対に」
 敵方空母でその将校を引き渡し、休戦協定の間、互いに緊張した睨み合いが続き、ガダルカナルから引き揚げられる将兵はわずかな人数で、隠し玉として取っておいた人質でもある捕虜を手放し、これで日本軍としては手駒を確実に失ったことになった。
「まったく日本にはまともな司令官がいないのか? あんな戦えもしない兵士を拾い上げてもラボールで俺達に殺されるだけだとわからんのか?」
 捕虜になっていた将校の話では大した実のあることを聞き出せず、しかし拷問は受けなかったと言われ、余計に気に入らなかった。
 もっと痛めつけられたと言ってほしかったのだ。
 ヘビースモーカーのマッカーサーが煙管を口から離す。

 ―――正義は我々にある。

 
 蒔田は指令室の中で腕組みをしていた。
 皆が緊張をした面持ちでその次の言葉を待っていた。
「では、作戦通りに」
 空母が近づいて来る気配が迫り、蒔田たちはその動静を見極めるように固唾を呑む。
 配備してある戦艦に向かって戦闘機が飛んでくる…はずだったがその羽音が鳴ることはなかった。
 蒔田のそばに白衣を着た医療研究班の責任者が祈るように手を組みその時を待つ。
 そして静かに言った。
「空母に近づき威嚇せよ」
「はっ! 承知いたしました!」
 その命令を受けて、空母に向けて攻撃したが、空母から偵察用の航空機も飛び立たなかった。
「……………………」
 蒔田が海図の置いてある大きな机に両手を置いて考えこむような様子になる。
「博士。成功したと考えていいですか? 罠と考えなくても」
「ええ……。あの細菌の潜伏期間と症状から捕虜がもたらしたものとは考えにくく、風土病と結論を出すはずです」
「それこそが命取りになるということですね」
「マラリアだと判断して投薬した場合、症状が悪化するはずです。その感染者から次々と感染し、倍数の鼠算式で増えていきます」
「本当にそれほど蔓延するものなのですか?」
「耐性を持っている者も当然おります」
「五分と五分か」
 博士は丸い眼鏡の縁をくいと右手の人差し指であげる。
「いえ。耐性を持っていたとしても、自分も感染してしまうのではと怯えるはずです。偵察機も飛ばせない状況であると考えて差し支えないと存じます」
「騒乱状態にあるというのか」
 しかも空母という場所から逃げることができない。
 蒔田が緊張した面持ちとなる。
「我々がそれに感染しないと保証できますか」
「はい。ワクチンは効果的です」
「うまくいけばガダルカナルにも感染者が行っているでしょう。病人が急増していて応援にかけつけたとしても感染するだけです」
「それは困る! 我が軍の生き残りがいるかもしれないではないか」
「生き残っているというのは仮定の話ですね」
「……………………」
 満州七三一部隊、関東軍防疫給水部の中でも最も優秀であるという者は額が広く、怜悧さを浮かべたような容姿をしており、自身の研究以外にはあまり興味がないようだった。そして、実戦で細菌を使用するのは初めてで興奮している様子を隠せない。
 敵に回すと厄介な奴だ―――そういう印象を持たせる者であった。
 蒔田はその説明を聞きながら、人にどう感染するのか自信たっぷりに答えるあたり、実際に人体での実験を行ったということなのだろうと思った。
「すでに病死している者がいますか」
 博士は何度も暦を見直す。
「……すでに出ているはずです。劇症に特効薬はないと……」
 蒔田はぞくりとする。
 もし、逆のことをされ、このラボールの中に細菌を持ち込まれて次々と感染したら。
「…………………………」
 目に見えぬ兵器ほど恐ろしいものはない。兵糧攻めよりよほど恐ろしい。川に毒を流すのとはわけが違う。吸わずにはいられない空気そのものが毒なのだ。
 ――まさに神の領域。
 だが、この作戦は諸刃の剣でもある。
 敵に攻略のヒントを与えているようなものなのだ。
 上陸を許したら忽ち…。
 蒔田はそれ以上の思考を停止させるかのように首を横に振る。
 ――それをさせないための先手必勝である。
「では、空母をいただきにあがろうか。我々に空母がないのなら、頂戴するまでだ」
 その操舵方法、戦闘機操縦方法にラボールの技師たちは逸る気持ちを抑えきれずそれが前面に出ている。米軍の技術が見たくて堪らないようだった。
 蒔田はふっと笑う。
 好奇心と探究心、科学者の興味はつきないのだろうと思った。
 そして、戦争を制するのは科学力であると確信する。
 急速に発展を遂げる物理学、化学、生物学、それらを融合させればとんでもない兵器を作り出すことができる。それまでは経済力が敵を屈服させると思っていたが、ここに真の正体を見たような気がした。圧倒的な科学力の前には万人は財など投げ打って平伏すだろう。
 ……いや。
 それでも最後は人の知恵が勝つ。
 武器を使うのは、所詮は人なのだから。
「出撃!」
「はい!」


 ************


 先遣隊が駆逐艦を横づけした空母に乗り込むと、あまりに静まり返っていることに驚いた。
 堂々と侵入しているにもかかわらずまるで攻撃してこないのである。
 念の為に防ガスマスクをつけている隊員たちは、すんなりと船の中に入ることができた。
 そして、その船の中に入った瞬間、通路という通路に人が並んで寝ており、異様な光景に一瞬たじろいだ。
 医師らしき者や衛生兵が走り回っていて、先遣隊が入ってきたことに気付いていないのだった。
「とまれ!」
 衛生兵たちがその声にようやく敵の侵入だとわかったようだった。
 両手をあげて、投降する姿勢を取る。
 先遣隊長が全て拘束するように指示し、艦首に急ぐ。
 記録係が写真機のシャッターを切る音、駆けまわる足音に病人の呻き声が消されていく。
 その光景は地獄絵図に違いなかった。
 出血と汚物にまみれ、すでに死に絶えた者とまだ生存している者が混在し、医師はそれが感染原因を調べ、抗体をつくろうと焦っていた。空母という中でそれは難しく、研究所に検体を運びたかったが、軍司令部からの達しでは、感染母艦からの移動は認めず、その持ち出しも認めないと厳しい処断が下され、そのまま放置という処置となった。
 マラリアではないと結論を出した時には既に感染が広がり、遅かったのだ。
「HELP! HELP US!」
 私たちは病気なのだ! 戦いは仕掛けていない!
 軍医はそう叫んだが、先遣隊長はその叫び声を消すように脳天に銃弾を撃ち込んだ。
 ……ガダルカナルとポートモレスビーの同胞もそう叫びたかったはずだ。
 食糧もなく、マラリアの熱でうなされ、餓えながら死んでいったのだ!
 ……これは戦争なのだ。
「一人の生存者も許さないとの命令である。かかれ!」
 ざっと敬礼した後、それぞれの小隊は指示通りに散って行った。

 まだ生き残っている者には薬物投与をし、全ての遺体を焼却するため、袋に詰めて船に乗せ、艦内をくまなく清掃した後、蒔田がその空母全容を見る為にやってくる。
「司令。蒸気タービン四機、搭載機百機、兵装は、三十八口径連装単装ともに四基ずつ、五十六口径八基、単装七十八口径機関砲四十六基、以上です!」
 善三が各所から集まった情報を集計し、そう報告した。
 それを訊いて蒔田はすかさず頭の中で全体の攻撃力を計算し、適正な人数の配置を指示する。その凄まじい暗算力に善三は舌を捲いた。
 技師たちは空母のメカニズムをすぐに理解し、海軍の将校たちにその違いを説明していた。戦闘機も同じことで、その説明を聞いた航空将兵らはゼロより簡単だと笑い飛ばした。
 これだけ専門家が揃っているなら鬼に金棒のような気がし、ならばこれからの作戦もうまく行くはずだと蒔田は武者震いをした。
 そして細菌兵器の恐ろしさを目の当たりにし、それが自分たちの身に降りかからぬことを祈った。
 通信機を全て取り外して、ラボール仕様にし、蒔田は空母を後にする。
 駆逐艦に乗り込み、そこを司令本部と定めた。
 新たにその空母の艦長となった海軍大佐は敬礼して蒔田を見送る。
「グアムの艦隊を全てこちらに向かわせる。後は作戦通りに」
「お任せください!」
「頼みましたよ」
 蒔田が大佐の瞳に訴えるようにじっと見つめると大佐は顔を赤くした。
 皆、これに虜になっていく。
 蒔田の為なら命など惜しくないとまで思わせられてしまうのだ。

 善三はずっと険しい顔をしている蒔田の緊張感を途切れさせないよう細心の注意を払う。
 食事を勧める頃合い、欲しがっている情報は何か、次に何を指示しようとしているのか、それらを読みながら自分が何をすべきか考えながら行動する。
 それは、木内の秘書の仕事をして培ったものだった。
 おそらく次に欲しい情報は………。
「ポートモレスビー基地の地図を…」
 善三がにっこりする。
 そして、すでに手にしており、はい、こちらです、と渡す。
「……すごいですね。今、それをこの船の中から探してほしいと言おうとしたのに」
「すごいのは皆さんです。重要書類をすでに翻訳し始めています」
「は……それは見事だ」
「司令の影響かと存じます」
「私の?」
「はい。司令のお仕事の仕方を見ていれば、自分が自ずと何をすべきか何の役割を担っているのかはっきり見えてきますので」
「そうですか?」
「はい。皆、司令に憧れているのです」
 蒔田が照れたような顔をした。
 そして表情を落として手渡された地図に視線を移す。
「これがポートモレスビーか……」
 詳細な地図だった。基地内の建物も全て記載され、ジャングル内の陣地も記されている。
 善三たちがひとつひとつ制していった陣地、将兵の血肉が埋まっている場所である。
 蛆虫の這いずる身体、老人のように干からびた身体、濁流に飲み込まれていった者、敵の弾丸に身体をバラバラにされた者……善三はそれらひとつひとつを思い浮かべ、唇を噛む。
 そして、小野、毛利、親しい者の死がこれほど心を痛めつけるとは思わなかった。
 生きている自分が為すべきこと、その使命感が沸々と湧いてくる。
 蒔田が善三の肩に手を置く。
「行きますよ」
「え…」
「行きますよ、何としてでも」
 ――戻りますよ、何が何でも。
 蒔田の言葉に小野が言った言葉が重なる。
「取りに行きますよ、ポートモレスビー」
 ――取りたかったですな…ポートモレスビー。
 涙がぼたぼたと流れ落ちる。
 ――隊長。
 突然だった。
 泣くとは自分でも思っていなかった。
 涙は堰を切ったように溢れ出ていた。
 嗚咽があがってしまう。
「…ぐ………ふ………っ………」
 必死に止めようとも止まらなかった。
 蒔田が善三の背中に手を置く。
 その手の温もりが伝わってきて、川の中で離された時の小野が鮮明に蘇る。
「…す…すみ…ま……せ………」
「いいさ。皆の無念を晴らす為にも必ず成功させる」
 ――何が絶対に成功の希望なしであるものか。
「……はい…」


 ***********


 空母が奪われたということを連合国軍が知るまで随分と時を要した。
 通信士が病気に倒れたのだろうとされていたからだ。
 だが、空母が移動していると知ったのは、薬品を空から落下傘で落とそうとして航空機が空母のところまで飛んだ時だった。
 知らされていた場所には空母はおらず、ポートモレスビー近くにいることに騒然とした。
 オーストラリア軍に病原菌を持ち込まれては大問題である。
 しかし、すでに船が基地近くに接岸し、小船で次々と隊が上陸しているなど知る由もなかった。
 先鋒は、手に入れた地図でまっすぐ指令室を目指し、突然すぎる奇襲攻撃にオーストラリア軍はなす術もなく、司令官を拘束されると、基地は白旗を上げた。
 簡単だった。簡単すぎる勝利だった。あまりにも簡単すぎて、あのジャングル越えは何だったのかと怒りが湧いてくるほどだった。
 蒔田はそんな皆の心情がよくわかると思った。
「シドニーに向けて進軍する!」
 ミッドウエイやガダルカナルなどに兵を向けている場合ではなかった。
 最初から中央突破で豪最大都市のシドニー、そして首都キャンベラを目指すべきだったのだ。
 蒔田は拳を強く握る。
 乗っ取った空母における二千人を超える敵の屍の上に立つ。
 ガダルカナルに投入された将兵が三万六千名、そのうちの戦死者は二万二千名、戦闘での戦死者五千名、餓死および戦病死者一万七千名、と信じ難いものとなった。
 加えて、ポートモレスビーに投入された将兵一万一千名、そのうちの戦死者六千五百名。
 つまり、ふたつの作戦での犠牲者は二万八千五百名となっている。
 それらの将兵をラボールから見送り、挨拶をする度、生きろ……、と念じてきた。
 無謀な作戦であることから勝算の薄さはよくわかっていたが、送り出すほかなかった。
 死ぬために戦うのではない、生きるために戦うのだ、この戦争は避けることはできなかったが、戦争は永遠に続くものではない、その後が肝心でこうして戦線を潜り抜けてきた者たちだからこそ築ける未来がある。
 その為にも何としても生きるのだ。
「敵の通信を全て傍受せよ!」
 通信班は必死である。ものすごい勢いの通信が飛び交っている。
 シドニー湾まで来たときは、オーストラリア軍に空母を乗っ取ったことがわかっていた。
 マッカーサーは烈火のごとく怒り、周囲の物を破壊した。
「盗むなど何と卑劣な手段か……、さすがにやることが賤しい。まったく見下げ果てたものだ。いいか! 貴様ら! エセックスの乗組員の仇を取るぞ!」

 蒔田はポートモレスビーに停泊していた軍艦、空母、全てに日章旗を掲げさせる。
 ガダルカナルの戦闘機を運ぶ空母を盗まれて、その代わりの空母を出航させたが、その頃には蒔田の第八方面軍はシドニーを攻撃し始めていた。
 そして、アメリカ軍の増援が来る前に片を付けたかった。
 米軍が総力を上げられたら、戦力では圧倒的に不利になる。
 勝利するためには一秒も時間を無駄にできなかった。
「造船工場、戦闘機の製造工場を徹底的に潰せ!」
 ボートモレスビーにあった戦略爆撃機は、多くの爆弾類を搭載した強力な破壊力を持ついわば空の要塞である。
 ラボールのように要塞化していない都市など簡単に焼き尽くせる。
「民間人がいようといまいが考慮せず!」
 連合国軍の兵器で連合国を打ち破る。
 蒔田が握った拳の指を広げる。
 ――将棋とチェスの違うところは、将棋は取った駒を使えるところである。
 おそらく連合国軍は卑怯と罵るだろうが、そのような罵声など痛くも痒くもない。
 ――もし裁きを受けるのならば、それを一身に受ける。
 ――鬼でも悪魔にでもなってやる。
 連合国軍の戦闘機が飛び出すが、相手も同じ戦闘機ですぐ敵か味方かわからず混乱し、同士討ちをする羽目になる。
 地上からのミサイルも同じように味方まで爆撃していく。
 この大混乱にオーストラリア軍はアメリカ軍の手落ちに腹立たしくなってきて、痛烈な言葉を投げた。
 それを受け、マッカーサーは怒りのあまりぶるぶると震える。
 蒔田はシドニーの街が炎上していくのを冷静な目で見ていた。
 そして、ふっと笑った。

「これが……」

 ―――米、

「これこそが……」

 シドニーの民間人が突然始まった攻撃に右往左往して逃げ場がなくなる。

 ―――豪、

 味方であるはずの自国の戦闘機に叩き潰されていく。虐殺に違いなかった。

 ―――遮断だ。

 蒔田が目を瞑りながら、顔をあげ、右手を高く伸ばす。
 そして、静かに瞳を開き、右手を前に出す。
「王手」


 ************


 マッカーサーは胡坐をかいていただけに、このいきなり窮地に立たされた事態に理解が追い付いていかなかった。
 オーストラリア政府からは正式な苦情の声明が大統領あてに送られ、その責任を取らせられる羽目に陥っているのだ。

 ………有り得ない……。

 ラボールを落とせば、その先全ての基地を奪い返すことができ、その道に何も阻むものはないはずだった。
 日本に対して正義の鉄鎚を振り下ろす役目を自分は神から与えられていると思っていた。
 敗北など有り得ない。
 断じて有り得ないのだ。
 本国から怒りの電信が矢継ぎ早に届く。
 これでオーストラリア政府が停戦申し入れをしたら、間違いなく自分はその責任を取らせられる。
 ………誰だ……これを率いたのは……。このような作戦が立案できるのは誰だ…!
 ヤマモトか?
 いや、違う。奴は所詮ミッドウエイほどの作戦しか立てられない奴だ。
「全速力でシドニーに向かわせろ!」
 いや、待て…ヤマモト……。
 思わず太平洋全域の地図を見る。
「偵察機の情報は! グアム沖はどうなっている!」
 通信士が慌てて飛んでくる。
 その情報を見て、マッカーサーはにやりとする。
「やはり神は私に味方している」


 ポートモレスビー基地での戦力と空母だけでシドニーが攻略できるはずがなかった。
 グアム沖の艦隊、海軍の総力を上げて首都に迫り、壊滅的な被害を齎す必要があったのだった。日本軍はオーストラリア軍の攻防に次第に押されつつあり、当然援軍がなければその作戦は成功させられるものではなかった。
 だが、それが成功するとは陸海軍の上層部は思っておらず、蒔田はあくまでも失敗の責任を取らせるための生贄であり、失敗させて汚点を加算させるつもりだった。
 だから、グアム沖の艦隊はその場から離れていなかった。
 もうラボールを通過しているくらいでなければ到底間に合わないところ、まったく動いていなかったのだ。
 それを訊いて、蒔田が衝撃のあまり目の前が暗くなった。
「……なんだ…と………?」
 善三が更に悪い報告をしなくてはならないことに厳しい表情をする。
「……司令。実は、昨日ラボールから発進した山本聯合艦隊司令長官をお乗せになった機が打ち落とされたらしく…生存についてははっきりしていないようで…」
「なに?」
「それで現在海軍の統率が取れにくくなっているそうです。命令も行き届いていない様子で」
「そんな馬鹿な……山本さんはいったいどんな命令を出していたのだ…? 他の司令官はこの事態にまったく動けないのか?」
「……もう少々情報を集めます」
 とにかく援軍は来ない、それだけははっきりしていた。
 勝利が目の前にある。
 あと一押しすれば間違いなくオーストラリア政府は休戦を申し出てくる。
 そして、アメリカ軍の軍事行動の停止を交換条件にすればいい。
 この戦争に勝利することができるのだ…!
 何よりそれこそが最優先事項ではないのか――――!
「……詰めが甘かったか………」
 蒔田は頭を抱える。
 参謀たちは誰も声を発することができなかった。
 第十七軍の武井中将がぼそりと言う。
「玉砕を命じますか」
 その瞬間、蒔田が憤怒の形相となる。
「そんなことは断じて認めず! 無駄死にするだけだ!」 

 ―――勝ちが見えているのだ……!

 だが、味方が裏切るとは想定していなかった…。
 それが自分の甘さだったか…。

 ―――勝てるのだ……!

「わかりました。ここまでです」
 蒔田が両手拳を太腿につけて何度も何度も自身の足を叩く。
 悔しさをどうにもできないことが伝わってくる。
「転進……いや、退却、撤退する。全軍、ラボールに帰投せよ」
 退くという言葉を使ってはいけない中で、蒔田はわざとそれを言葉に出した。

 
 *************


 オーストラリア政府は休戦申し入れの声明を出すかどうか揺れていた。
 しかし、そんな中、攻撃が収まり、撤退していくという状況になり、それはひとまず保留となった。被害の全容が明らかにするまでもなく、軍事施設は殆どが破壊され、砦であるポートモレスビーは占領され、その戦力を補うにはアメリカ軍に頼る他なかった。

 あと一歩というところでの無念の撤退に蒔田はなかなか立ち直れなかったが、グアム沖の艦隊が動かなかったということは、ラボールも裸にされるということになり、落ち込んでばかりはいられないのだった。
「……は。もしや……」
 そこで、ようやく蒔田は上層部の意向に気付いた。
 まさか…ラボールを墓場にするつもりか……?
 そこに米軍の戦力を集中させ、囮としての役目を果させようとしているのか……。
 辻中佐の顔が浮かぶ。
 ――奴に違いない。
 幾万の将兵の命を燃やせば気が済むのだ…!
 空母も駆逐艦も接収した軍艦も皆ラボールに向かわせる。途中で戦場となるよりラボールで一気に片をつけようと思った。
「……だが、墓場などにはしない」
 厳しい戦いが待っている。
 米軍の総攻撃である。
「対空砲の準備、非戦闘員の地下層への速やかなる移動、零式の発進準備、各陣地は敵の上陸に備えよ。我らもすぐラボールに戻る。そう伝えろ」
 空母艦長の大佐は蒔田のその命令に、自分は海軍に見捨てられたような気がしていた。

 マッカーサーは日本軍撤退の報せに歓喜のあまり雄叫びをあげた。
 オーストラリア本土攻撃をするには総力戦でなければならないはずだった。にもかかわらず、主力艦隊はグアム沖にいて、すなわち、それは動かないのだと読んだ。
 日本の最大の弱点は、陸軍と海軍が互いの足を引っ張り合っていて一枚岩ではないということだ。それを露呈させるものであるに他ならなかった。
「第三艦隊。ラボールに向かえ。ハウゼーがやりたがっていた役だ。灼き尽くして皆殺しにしろ」
 笑いがこみあがってくる。
 この後に及んで仲間割れしているなど片腹痛く、我が国がそのような馬鹿な組織でないことに感謝する。
「残念だったな。どうやら司令官はポリシーに負けたらしい」
 政治力をつけなければ、どんなに良策であってもチャンスは潰される。
 そう、それは…。
 そういうことを全て乗り越えていった者こそが我が国の大統領になれる。
 密かに狙うそのポジション……。
 その為にも、何が何でも日本からの勝利をもぎ取る。
「詰めが甘いということだ。だが、なかなかやってくれたではないか。この俺に肝を冷やさせるなど大した奴だ。是非とも顔を見てみたい」
 もはや敵はいなくなったと思っていた。
 そんなところ突然現れた敵に全てが台無しになるかと焦った。
 だが―――。

 右手を前に差し出す。

 ―――チェックメイト。

「徹底的に潰してやる。そして、勝者がどちらか分からせてやる」


 ************



 想像以上の戦力を持ってアメリカ軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍はラボールを攻撃してきた。
 新型空母に搭載されている戦闘機の数は、二百八十を超え、まさに接収した空母の三倍の兵力である。その空母が三艘。
 軍艦を従えていないということは、その戦闘機は軍艦と同等の破壊力を持つ爆撃機ということであり、空中から徹底的に爆弾を落とすということであることが明らかだった。
 空母も軍艦並みの戦闘力があるのだと証明しているようなものである。
 乗っ取った空母でアメリカ軍の技術力を図り、圧倒的な爆薬の数、火力の強さを調べていた。
 蒔田は、海軍に対して、作戦を無視した理由は問い質さず、とにかくラボールを守る為の軍艦を寄越せと強気の発言をし、しぶしぶ海軍はそれに応じることとなった。
 蒔田は爆撃の強度を何度も計算させる。
 シドニー空襲で培った経験をひとつも無駄にできない。
 空襲に耐えなければ、降伏したら全てを奪われる。

 ―――何としても守り抜く。何としても守り抜くのだ!

 蒔田は要塞の中に響くスピーカーのマイクの前に立ち、大きく息を吸う。
 きゅっと拳を握り、それを振り上げたのち、胸の位置まで持ってくる。
 その拳で心臓を叩き、マイクに向かった。
「諸君」
 蒔田はマイクを通じて、スピーカーに耳を澄ましている様子が伝わってくると思った。
「大本営の意向を発表する」
 奥歯を噛み締め、一呼吸置く。
「この要塞を死守すべし」
 全員の固唾を呑む様子が手に取るように伝わってくる。
「それはすなわち、玉砕命令と等しい」
 皆一様に背筋を伸ばして聞いていると分かった。
「だが、私はその命令は命令として、諸君らに玉砕を命じない」
 動揺する様子も伝わる。
「我が国は、有史以来、諸外国を打ち払い、大和の国をひとつとしてきた。それが何故ここ遠く南の島で、言葉も文化も違う島を奪い合っているのか、おそらくここが内地であったら誰も戦いに疑問など抱かないであろう。なぜここで戦うのか、その意味があるのか」
 まるで戦意を失くすかのような問いかけに皆が不安を覚える。
「それは、我々が反省すべき点なのである。真珠湾攻撃から珊瑚海海戦まで聯合艦隊は勝利を続け、知らず知らずとこのまま向かうところ敵なしではないのかという油断が生じた。徴兵の制度を固め、全国から多くの戦士を集めることができ、多くの将兵を生み出すことができた。殆どの者が一年を通して武器など手にすることはなく、その手に握っていたものは、鍬や鋏、網などであったことであろう。そうした大事な働き手である諸君は故郷を後にしてこうして戦場にいる」
 皆の脳裏に故郷の風景が浮かぶ。
「驕れるもの久しからず。我が国には昔から言われる良い言葉がある。勝って兜の緒を締めろ。残念ながら、我ら日本帝國軍はそれを忘れてしまったのだ。陸軍も海軍もない。我らは同じ日本帝國軍の戦士である。一蓮托生、皆は同じ運命の元に動いている。だからこそ、皆が等しく厳しい状況に置かれているのである。勝っている時は頂点にいるような気持ちになるが、すぐそこに孤独という奈落が大きく口を開けている。そしてその奈落に落ちたものは這い上がれず孤独を深めていく。孤独こそが最も恐ろしい敵なのだ。だから、先人たちは警告としてそのような言葉を残してきた」
 蒔田が右手を上にあげる。
「我らは現在その孤独の奈落に落ち、孤立無援の戦いを強いられている。この苦境はそういうことだ」
 天を掴むように大きく手を広げる。
「だが、我らは必ずその奈落から這い上がってみせる。いいか、諸君。それこそが日本男児だ。ガダルカナルに置いてきた同胞の姿を忘れるな。悔しかったポートモレスビーでの転進を忘れるな。これらの戦いで散って行った同胞の無念を胸に刻め!」
 すすり泣く声が聴こえてくるようである。
「我らは生きる。生きて、生きて、生き抜く」
 しっかりと右手を握り締める。
「玉砕は許さない。生きることを考えろ。頭を使え。生きて目の前の敵を倒すのだ。以上だ」
 蒔田はマイクから離れ、指令室の皆を見渡す。
「空母配置! 迎撃準備用意! 戦闘態勢に入る!」
「はい!」
「よいか! 敵はまずこちらの対空砲を狙ってくるはず! それを封じるためには敵を分散させずに集めることが大事だ。確実に五時の方向の侵入を防げ」
「はい!」
「航空隊発進!」
 蒔田の命令が矢継ぎ早に飛び、それを実行するのは至難の業であったが、皆はそれぞれ持前の部署での最大限の力を発揮していった。
 雄々しく立つ蒔田の姿に、皆同じことを思った。
 ―――軍神。

 敵艦空母から飛び立った無数の戦闘機が向かってくる。
 ラボール航空隊は迎え撃つよう配置したが、すぐ左右に分かれて戦闘は避けた。
 そして、戦法を読むために、わざと被弾を受ける。
 前回での空襲で主砲の位置、地下からの滑走路を特定しており、それを狙ってきた。
 それを邪魔されないような予備隊が囲むように飛んでくる。
 想定内のことだった。
「地下一層破壊! 地上戦闘機すべて爆破! 管制塔消滅!」
 その司令塔には誰もいない。
「よし。やはり一層までしか届かない。火災の煙で攪乱させろ。主砲用意!」
 蒔田は目を瞑りながらそう言う。まるで地上の様子がわかっているかのようである。
 だが、衝撃は五層まで伝わってきて、電燈が揺れる。
「主砲、発射準備に入ります」
 要塞の中が暗くなる。電磁波を使う主砲は多大な電力を消費する。
 地下から上がってきた主砲を攻撃しようと狙って低空飛行をした時が好機となる。
「敵機、上空に五十機!」
「発射!」
 要塞が揺れるほどの爆音を響かせ、皆は耳がおかしくなりながら、その成果を見守る。
 しばらく静寂が訪れる。

 ―――敵機撃墜。後続機不時着。

 直撃した機体は他の機に飛び火させてともに墜ちていく。
 それでも圧倒的な数をもって米機は主砲を止めようとひたすら要塞目がけて突っ込んでくる。
 だが、数が多くなればなるほど標的となりやすく、軍艦からの攻撃に晒される。
 戦艦を狙い撃とうと隊列を分けて低空飛行をすれば、ゼロが待っている。
 連合国軍航空隊は、どこからどう攻めればいいのか混乱を極めた。
 まったく要塞に近づけないのだった。そして空母は上陸を目指して接岸を果たそうとする。蒔田が腕組みをして、目を閉じる。
 そして目を閉じたまま言った。
「魚雷発射、敵空母を沈めろ」
 その命令を受けて、各戦艦及び空母から魚雷を発射させる。
 すると、逆に空母からレーダーに捕獲され魚雷攻撃を受ける。
 ―――高雄、被弾、右舷前部水線大破孔!
 ―――摩耶、被弾、左舷機械室火災!
 ―――最上、被弾、船室火災!
 ―――筑摩、至近弾、一番魚雷発射管使用不能、水線下船体損傷!
 ―――能代、被弾!
 ―――阿賀野、被弾! 高角砲使用不能!
 ―――藤波、右舷中部に魚雷命中!
 ―――若月、至近弾、水線付近舷側に破孔多数、浸水!
 ―――早波、重油庫に小破孔、重油漏洩!
 ―――天霧、魚雷命中!
 ………耐えてくれ……。どうか当ててくれ…!
 蒔田はそう祈った。
 だが、二発しか魚雷は命中しなかったのであった。
 総崩れである。圧倒的な戦力の差、これを見せつけられるようなものだった。
「何としても空母を止めろ!」
 空母の零式戦闘機百機、ラボールからの零式と壱式戦闘機合わせて五十機、どうやっても数では不利だった。敵の航空機全てを乗りこなすまでの飛行兵がいなかった。
 だが、皆は蒔田の言葉が心に突き刺さっていた。
 ―――生きて目の前の敵を倒せ。
 死力を尽くせ……!
 零式戦闘機の飛行兵らはまさに神懸かった操縦をし、囲まれても回避し、一瞬の隙をついて攻撃していく。その的確な技能に米軍パイロットは恐ろしさを感じて油断する。
 すると、対空砲射撃範囲に追い込まれる。
 その戦意の低下は忽ち伝播し、全体的にこれだけの数をもってしてでも攻略は不可能ではないか…という意識を齎した。
 その指揮をした軍司令官ハウゼー大将は、退却を命じる。もっと楽に取れるはずだったのだ。空母を沈められる事態だけは避けなければならなかった。
 敵が去っていく報告を聞いて、蒔田はほっと胸を撫で下ろす。

 ………とりあえず……負けなかった………。

 防戦一方の戦いがあとどれくらい続くのか、と大きく息を吐いた。
「皆、よくやった」

終話


 一カ月ほどは空襲がなく、そうするとラボールの中では日常生活が戻り、午前中は農作業と土木作業、午後から訓練という日々となる。
 それでも各班から上がってくる諸問題、今後のラボールの戦備増強、組織が大きくなればなるほど仕事は増える。
 蒔田は疲れ切っていた。
 疲れすぎて、逆に眠れない日々が続いていた。
 酒を煽っても眠れず、不眠症はひどくなるばかりで、疲れが増すばかりだった。
 萩王のところにご機嫌伺いをした後、就寝するのだが、萩王を愛撫して指と舌で感じさせても、まったく性欲もわかず、萩王もそれを察して無理強いはしなかった。
 昼間の会議までは何とか持つが、夕方の事務処理までは集中力が持たない様子で、各書簡に返事をしようと筆を持つが、右手が痺れて筆が手からすり落ちる。
 善三はその様子に堪らず、蒔田の背後に立つ。
「少し、肩をほぐしましょう」
 蒔田がぼんやりとする頭を振り、手を上げてそれを制し、いや、いいと言う。
「いいえ! させていただきます!」
 善三の強い言い方に、蒔田は思わず周囲を見回す。
 すると、蒔田の書類の署名を待っていた参謀たちが心配そうな顔を向けていた。
「ああ……では頼みましょうか……」
 善三が自分の部下に風呂の用意をするように言う。

 蒔田が風呂場に入っていくと、善三が手拭いと石鹸を持って入る。
「お背中お流しします」
「はい。頼みます」
 適温の湯を背中に流されると蒔田は、はあ…と声を出す。
 ずっと冷水を浴びていただけで、風呂など何日ぶりなのか思い出せないと思っていた。
 湯船に入り、善三が風呂場から出ようとすると、蒔田がそれを止める。
「一緒にどうです?」
「え…」
 確かに二人入っても十分な広さの浴槽である。
「そんな畏れ多いことで…」
「こうして風呂でのんびりするなど贅沢なことだ。そう思いませんか?」
「そ…そうです…か?」
「独りではあまりに勿体ない。宮様は宮様用に沸かすでしょう」
「はい」
「だから、君も一緒にどうぞ」
「ええ…と……」
「ふふふ。上官命令です」
「は! では!」
 善三がおずおずと湯船に足を入れていくと、蒔田が面白そうに見ている。
「宮様以外の人と風呂に入るのは初めてです。家でもひとりでしたし」
「……さ…左様ですか…」
 そんなことを言われて、善三は入ったばかりだったが緊張のあまりのぼせそうだった。
 蒔田が浴室の窓の外の月を見る。朧月夜であった。
 新設したばかりの住居棟の新しい風呂はまだ木の香りがする。
「いつ空襲が来るかわからず、本当はこうしてのんびり風呂など入っていられないところですが、ありがとう。おかげですっかり気分がほぐれました」
「…お……お疲れのご様子でしたので……」
「ああ…確かに身体が楽になっていく……今晩は眠れそうです。そんな時に限って敵はやってくるものでしょうが」
「きっと…今晩は来ないと思います」
「ふ。そうだとありがたい」
 善三が顔を真っ赤にして、茹蛸のようである。
「熱そうですね。熱いですか? それほど温度は高くないように思いますが」
 善三が堪らず立ち上がる。
「あの! 司令の肩をほぐすというお話でした!」
「いいのに。もう軽くなりました」
「いいえ、させてください!」
「うん。じゃあ、お願いしようかな」
 全身を真っ赤にさせた善三は、蒔田の背後に回り、肩に指を立てていく。
 鋼板のようだった。
 指を突き立てているのは人体ではないのではないかと思うほど硬かった。
 善三は熱かった身体が急に熱を奪われていくほどその硬さに寒気を覚えた。

 ―――どれほどの重荷を背負っていらっしゃるのだろう……。

「気持ちいいですね…」
 気持ちいいはずがない。普通だったら痛くて悲鳴をあげているはずで、それほど体重をかけて押している。
「ああ。眠くなってくる…」
 善三はぐいと更に力をいれる。
「眠ってください」
 どうか。
「……ほ…ん………」
 本当に寝てしまいそうだ…と言いたかったのだろうが、蒔田は身体から力が抜けていくように眠りに入っていった。
 善三はその蒔田の身体を背負い、脱衣室に横たわらせ、身体を丁寧に拭っていく。
 均整の取れた美しい身体だと思った。日本人とは違う長い手足、尻の形、胸毛は薄く、体毛も髪の色と同じだった。
 浴衣を着せて、再び背負っても蒔田は起きず、まるで気を失っているかのようだった。

 ―――自分はこの方の為に何ができるのだろう…。

 無力な自分を痛感するばかりであった。
 蒔田の寝室を開けて、ベッドに横たわらせ、うつ伏せにして背中を解していく。
 ゆっくりと眠りを妨げないように力を加減しながら鉄のような背中と肩の血流を促す。
 ……鍼治療の方が効果はあるだろうか…。
 善三は汗だくになりながら指に力を込めた。
 蒔田が寝返りを打ち、善三がはっとして、身体を引こうとした時、体勢を崩してごろりと抱えられるようになる。

 ……この体勢はさすがにまずいであろうに………。

 蒔田は夢を見ているのか、唇を動かす。
 綺麗な整った唇の形だとつい見惚れてしまった。
 すっと伸びた高い鼻、長い睫毛、刈る必要もない薄い巻き髪、これほど美しい人が他にいるのだろうと思うほどに美しい。
 すると蒔田の手が伸びてきて唇を探すように顔を寄せられる。
「……気持ちよく寝ていたのに……ひどいですね……」
 そう言った後、唇を吸われる。
 善三はどうしたらいいのかわからなかった。
「許しませんよ……」
 誰かと勘違いしているのは間違いなかった。
 舌を絡ませられると、その巧みさに身体が震えてくる。
 ……先生と接吻を交わしてからどれほど月日が流れているのだろう……。
 木内の唇の感触を思い出すと、息が熱くなってしまった。
「……もう……あなたは……」
 蒔田が堪らない…といった様子で、善三を押さえつけ、頬を押さえて口を開けさせ、舌を喉奥まで伸ばして激しく吸う。
 善三は息がつけなくて苦しく、必死にそれから逃れようとする。
 奪い尽くすような口づけだった。
 だが、苦しいばかりかと思うと、舌はねっとりと動き、舌だけが感じる部分を解き放っていくような優しく撫でるように絡ませていく。
 その甘さに善三の身体が震えだす。
 ………なんという接吻……。
 感じていた。
 止めようがないほどに感じてしまっていた。
 善三は自分の身体を恨めしく思いながらもこのまま…と思ってしまう自分がいることに言いようもない哀しみを感じた。
 何とかその唇から顔を外す。
「……司令…私です。真野です」
 すると蒔田がはっとして目を開け、がばっと起きる。
「…………………………」
 善三は蒔田に恥をかかせてはいけないと冷静を装う。
「夢をご覧になっていたようで」
「………私は…なんということを……」
 顔面蒼白である。
「単にお疲れになっていただけのことです。どうぞ気になさらずに。ではおやすみなさいませ」
 善三は震える膝に動けと命じながら、衣服を整えて部屋を出ていった。



 *************


 翌朝、蒔田は普段通りに畑に出ていた。
「おはようございます」
 善三は気まずい思いを持ちながらも、今朝収穫できるものに視線を移す。
 芋が掘り起こすにはいい具合となっていた。
 蒔田が何か言いたそうな顔をして鍬を持ったまま立っている。
「司令。ああ。これは美味しそうです。煮っ転がしにしたらいいですね。宮様がお喜びになるでしょう」
 泥を払いながら、篭に入れる。
「真野君、昨夜のことだが……」
「昨夜何かあったのですか? 自分は司令を浴室からお部屋にお連れしましたが、すぐ失礼したので、その後のことはわかりません」
 蒔田がじっと善三を見つめる。
「……そういうことか…?」
「はい。そういうことにございます」
「すまないね」
「いいえ。さあ、朝礼の刻限です。お仕度をお願いします」
 そこにウーーとサイレンが鳴りだす。
「やってきましたね、朝礼どころではないようです」
「はい!」
 二人は指令室に走っていった。

 航空機ではなく、潜水艦が上陸を目指していた。
 最も基地より遠い場所に接岸しようとしていたのだった。
 蒔田は恐れていたことが起きたと思った。
 上陸はたったひとりでもいいのだ。いや、たったひとつの試験管でもいいのかもしれない。敵が報復をしてくると覚悟していた。
「よいか! かならず打ち落とせ! 一兵たりとも陸に上げるな!」
 蒔田は恐怖に縛られていく。護岸を強化させなければ島全体にどんな細菌を持ち込まれるかわからない。地下層への掘りこみと同時にもっと地下通路を延伸させなければならないと思った。
 地雷を増やさねば……。
 飛び立った零式はその潜水艦が姿を現した部分に飛んで行き、支隊もまもなく到着して上陸した敵を殲滅する。
 遺体をすべて燃やせという命令で油をかけて火をつける。
 その様子を米軍偵察機が見ていた。
 その偵察機を追い払うように零式戦闘機が追尾しようとしたら、すぐその場を離れた。
「……戦闘態勢解除。それぞれ作業に戻れ。ただし、今回敵と遭遇したズンケン支隊は衛生検査を受けるように。結果が出るまでは外出を禁ずる」
 蒔田が疲れた声を出した。
 このような小さな戦いは注意が必要になる。なぜならどこかに隙が生まれるからだ。
 指示を誤ってはいけない。それが命取りとなる。油断大敵である。
 椅子に身体を預けるように座ると、疲れがどっと出るようだった。
 肉体的ではなく、精神的な疲れの蓄積であった。
 善三が茶を運んでくる。
「敵は攻略の方法を模索しているようですね」
 指令室に入れば、今朝の畑のようなことなどまるでなかったように過ごせる。
「空襲ではかなり戦費を尽くしたはずだ。そうそう同じ手では来ない。だが、陸路で攻略できるほど甘い要塞ではないとわかっているのだろう」
 次の手を読まねばならぬ…。
 だが、その頃にはもう連合国軍ではラボール回避という結論が出ていた。
 ラボール空襲で海戦の脆弱さを知り、制海権を取りに行く方針に転換していったのだ。ただし、ラボールの軍備をそのまま外に出すことなく守りに徹することを強いる為に定期的に攻撃するということであった。
 グアム奪回に向けて連合国軍は駒を進めていたのだった。
 平穏な日々、時々ある攻撃、そういう生温さの中に九万の将兵は身を置くという状況となったが、焦燥感から神経はすり減っていくばかりだった。


 *******


 蒔田は精神的に追い詰められていった。
 かりそめの平和が余計に心に余裕をなくしていくのだった。目の前に敵がいれば何も考えずに突き進んでいけばいいが、周囲に敵がいてもひたすら自衛に徹するということに焦りを募らせ、精神的に疲労していく。そして、そろそろ軍法会議にかけられるのではないかと気分を重くさせていった。
 罪状などいくらでもある。
 ――ガダルカナル奪回失敗、敵艦略奪による攻撃の許可を求めず、逸脱した作戦の上、独断でオーストラリア本土攻撃を決行したこと、それによりラボールを危険な状態に置き、軍艦に多大な損傷を与え、他の戦線での戦いに影響を及ぼした。
 死刑は免れないはずである。
 参謀たちの作戦の失敗すら自分の責任にされるということもわかっていた。
 罪人として死ぬか、それとも自らの進退について全ての責を負って死ぬか、その決断も迫られていた。
「ふ。いずれにしても果てねばならぬ身だ」
 ならば、潔く自決することが花道であろうと、拳銃を頭部につける。
 遺書はすでに用意しており、机の引き出しに入っている。
 ――悔いはない。
 悔いることなど何もないと思った。
 やれることはやったのだった。
 本来自らの力の及ばないところまで無理して手を伸ばし、やはりこれが自分の限界と思い知りながらも挑んでみた。
 その果てにいったい何ができたのだろうかと逡巡する。
 ただ、多くの者を死地に追いやるのを見過しただけではなかったか。
 悔いはないと思いながらも、やはりこうしておけばという気持ちが湧いてくる。
 そうしたことも力不足と思えば、ここで自決するのが最も相応しいことであると結論を出した。
 拳銃の引き金を引こうとした瞬間、扉を叩かれ、真野です、と善三が声をかけた。
 そのまま無視しようかと蒔田は思ったが、力を抜いて拳銃を下ろす。
「はい、どうぞ」
「失礼いたします」
「伊号が寄港したとの連絡が入りました」
 最新型の潜水艦のことである。
「…………」
 蒔田が拳を握る。
「そうですか」
「驚きました。本当に連合国軍のレーダーに捕獲されないのですね」
「そうですね」
「それにしても何事でしょうか」
 善三が不思議そうな顔をすると蒔田がふっと笑う。
「よほど大事な作戦を授けにきたのでしょう」
「え」
「ねえ。真野君」
「はい」
「少し外を歩きませんか。ああ、夕焼けが綺麗です」
「はい。お伴いたします」
 
 二人は数千の墓標が並ぶところに行った。
 潮風が心地よく頬を撫でていく。
「真野君には失礼なことをしてしまったね。きちんと謝っておかなくては思いつつも、君が誤摩化してくれたことに甘えてしまった」
「そんな。どうか気になさらずに。忘れてください」
「君の愛しい人に申し訳ないことをしました」
「ですから、本当に気になさらずに、お願いします」
「その人は、君の帰りを待っているのでしょうね」
 蒔田が沈みゆく夕陽を見ながら、呟くように言った。
「はい。待ってくれていると思います」
「ならば、きっと帰らなければ」
 善三がふっと笑う。
「英霊にならずに生きて帰っていいのですか」
「ええ、生きて帰るのです。かならず帰るのです」
「そのお言葉。司令がそうおっしゃってくださるから、皆は自分の持てる以上の力を出せるのだと思います」
 善三の言葉に蒔田が優しく微笑む。
「鍛え上げた身体、磨かれた精神、日本男児の心意気、それらがしっかりと根付いた立派な若者たち、これからの日本を支える大事なひとりひとりです。生きて帰って力の限り働くこと、それこそが国の為なのです。死んでしまったらそこで終わってしまう。その先、何も生み出すことはできなくなるのです。それは損害でしかないはずです。だから、きっと生きて帰るのです」
 静かながらも強い口調だった。
「はい」
 蒔田が遠くを見る。
「君は軍人でなければどんな職業に就きたかったのですか」
「はい、自分は弁護士になりたいと思いました」
 蒔田が善三に視線を戻す。
「ああ。そう、ああ、それはいいね。とても相応しい」
「左様でございますか?」
 善三が顔を赤くする。
「ええ。真野君に相応しい仕事です。人の役に立ちたいと考えているのでしょう?」
「はい。おっしゃる通りです」
「戦争が終われば、そういう道も拓けてくる。たとえ負けたとしてもその後に国を立て直さなければならないのだから」
 蒔田が拳を握りしめて、それを前に出す。
「司令は、司令はどんなお仕事をされたいと思っていたのですか」
「私?」
 一瞬何の質問を受けたのかというような表情をした。
「ああ、私の仕事……。ふふふふ」
 善三はその笑いの意味がわからず、どう答えていいかわからなくなる。
「そう言えば考えたことがありませんでした。役割をこなすことに必死で」
「そ、それは大変失礼いたしました」
「謝ることなんてないですよ。こんな容姿ですからね、できることも限られてくるものです。父も祖父も皆、似たような顔立ちで。まったく随分と濃い血です。そのせいで人とは違う扱いをされて」
 苦渋の表情を浮かべる。
「生きたいようには生きられない、そんな宿命にあるのかもしれません」
「さ……左様ですか……」
「けれども、それに疑問を持たないというのが我が一族の奇妙なところで」
 善三は言われていることの意味がわからなかった。 
 返答に困る。
「はははは。そんな困った顔をしないでください」
「いえ。そんな」
「それでも必死に挑んでいく。そんな宿命に。自分の限界に。守るべきものの為に」
 そう言った瞬間、はっとした顔をして蒔田は動きを止めた。
 そうしてじっと善三を見る。
「え……」
 しかし、自分を見ているようで見ていないと善三は思った。
「ああ……」
 蒔田は目を見開いてみていたが、力をふっと抜いた。
「そうか……」
 そして、ぽろりと涙を零した。
「そういうことだったか」
「あの……」
「真野君。ありがとう」
「え」
「今までこんな簡単な答えを見つけられずにいたとは。君は不思議な人ですね」
「……司令……」
「私の家の始祖が西洋人だったということは、わざわざ説明しなくともわかることですが、西洋での位がどの程度のものだったのかは、何の資料もなく、蒔田家の者も聞かされていなかったらしく、誰もわからないことのようです」
「左様でしたか」
「ただ、西洋諸国の王侯貴族全てとの付き合いがあります。どの国も訪問すればいつでも王族の待遇を受けます。その立場は永久に引き継がれると各王家に伝わっていて」
「え」
「西洋の王族の世界がどのようなものなのか、様々な歴史書を紐解いても完全に理解できない。とにかく、そのお墨付きのせいで我が一族は江戸の時からずっと監視され続けているのです。そして、陛下もそんな我が家に一目置かざるを得ない」
「そ……、それは随分と難しいお立場かと存じます」
「ええ。おおかたそれが公爵位を叙せられた理由でしょう。東京の屋敷の者は全て役人です。書簡ひとつ自由にできない」
「そ、そんな」
「だから、軍人の道を選びました。いつも監視されている目から逃れたくて、しがらみから解放されたくてね」
 蒔田がふっと笑う。
「がむしゃらにやってきました。自分は自分として、自分を生きるのだと」
 苦渋の表情になる。
「そして、もうこのあたりで蒔田の血は終わりにするべきではないかと」
 善三はぐさりと心を抉られる。
「死に場所を探しにね」
 そしてその言葉に全身の血が駆け巡るような衝撃を受け、首を激しく横に振る。
「司令! おっしゃっていることがまったく逆ではありませんか! 司令は皆に生きろと、生きろとおっしゃっているのに、司令ご自身が死に場所を探していたなんて、そんなのは……、いやです! だめです! そんなのはだめです!」
 涙ぐむ善三に蒔田が微笑む。
「まったくその通りです。矛盾だらけなのですよ。でも、ようやく答えを見つけたわけです」
 蒔田が両手を前に出す。
「蒔田を終わらせようと自分だけの道を突き進もうとしていた私は、その実、ずっと何かを守りたかったのだと」
 掌を広げる。その何かを受け取るように。
「守るものを探していたのだと」
 拳を握りしめる。
「そして、守るべきもののために、その道を突き進みたいと切望していたのだと」
 そう言った瞬間、風が立つ。潮風が身体を押すほどに吹き渡った。
 その風を全身で受け止めるかのように蒔田は両手を広げ、そして、一陣の風が吹き抜けると晴れ晴れとした表情となった。
 全てを語り尽くしたような。
「真野君」
「はい」
「客人をもてなす支度を頼む。私はここで少し墓参りをしていきたい」
「は! 承知いたしました」
「それから宮様に伝言を頼む。ここで待っているので来てほしいと」
「かしこまりました」
「真野君」
 敬礼して背中を向けた善三が振り返る。
「は!」
 蒔田は眩しそうに善三を見た。
「いや。何でもない。では頼む」
「………………」
 善三が立ち止まる。胸騒ぎのあまり動けなくなったのだ。
「どうした」
「……あの。伊号の客人はどのような意味なのでしょうか」
 身体が震え始めていた。
 その目的に辿り着く思考を止めたいと思った。
 そんな善三を見て蒔田が微笑む。
「誰かが責任を負わねばならぬということを伝えにきたのでしょう。はるばる本土から」
「それは……」
「真野中尉!」
 蒔田が声を張り上げる。
 善三が弾かれたように敬礼する。
「はい!」
「命令です! 宮様をこちらにお連れするように。行きなさい!」
「はい……」
 しかし、なかなか足が動かなかった。
「早く行きなさい!」
「は…は…はい……」
「……早く行ってください」
 悲痛な蒔田の訴えに善三が身体を震わしながら背を向けて一歩踏み出す。
「……では……」
 宮様をお連れするのだ……、そう言い聞かせて、歩き出し、歩みを次第に速める。
 小走りになり、走り出す。
 宮様をお連れするのだ……。
 早く行ってまたここに戻るのだ。
 そうすれば何か他に取るべき道があるかもしれない。
 だから、早く宮様をお連れしてくるのだ。
 全速力で走る。
 すると、背後から銃声が聞こえた。

 ―――司令!

 善三はその場に踞りたかったが、それよりも命令を全うすべく振り返らずに進んだ。
 宮様でなければ見てはいけぬ姿なのだと思った。
 その行く先は涙で見えなかった。 

 
 **********

 
 九万人の将兵が一同に集まれる場所は飛行場であり、そこが葬儀会場となった。
 複数の法師が読経し、全員が整列していた。
 十七軍の司令官の武井がその葬儀を仕切り、格式高い葬儀となり、いかに蒔田が立派な軍人であったかを讃え、その偉業を延々と語っていた。
 陸軍式十九発の弔砲が鳴り響くと、泣き崩れる者も出てくる。
 すると洋上から十七発の礼砲が放たれる。
 敵方からのものだった。
 通信内容はとうに傍受されており、蒔田が亡くなったことはすぐ知れることとなり、いかに敵とは言え、相手の将には礼を尽くしていたのだった。
 それが狼煙をあげていくように伝播していく。
 皆は、それにどよめきの声をあげた。
 伊号の客人はそんな弔砲を聴くこともなくその葬儀に出ずに帰っていった。
 蒔田の他、武井や他の将校への罪状も持ってきていたが、蒔田の遺書によれば、全責任が自分にあり、他の者はその命令に従ったものとして無罪を訴えていた。
 皆悔しくてたまらなかった。
 蒔田がいなければなかったとうに消えていた命であり、蒔田がいたからこそ戦ったのだった。なぜその蒔田が死ななければいけなかったのか、誰も納得できずに、悔しさに震えるしかなかった。

 ―――我らは生きる。生きて、生きて、生き抜く。

 蒔田の言葉がそれぞれの心に重く刻まれるのだった。  
 生きて虜囚の辱めを受けずというのは戦陣訓でもあった。

『恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ』

 だが、蒔田はどんなことをしてでも生きろと訴えた。
 耐えることのできた空襲、上陸をまったく許さない堅固な守り、どこの基地も玉砕が叫ばれている中、ラボールは生きるためにそれぞれが力を尽くしている。
 それは蒔田がたったひとりで背負い、自らの命を差し出すことで守ったものだった。
 そして、守ったのは基地そのものではなく、幾万の将兵の命であった。
 その命は、日本の未来である。
 蒔田はミッドウエイ敗戦からすでに勝てぬ戦であるとわかっていた。
 しかし、喩え負けても国は滅びぬ、そう遺書に書いてあった。
 生き残った帝国軍人が国を支え続けていくと希望を託したのだった。
 だから、生きろと。

 善三が水を汲み、蒔田の墓に行く。
 毎日、欠かさず日課のようにしているのだった。
 だが、それは善三だけでなくたくさんの者が墓参りをしていて、酒瓶や花や食べ物、煙草が墓石に置かれていて、賑やかな墓所となっていた。
「おやおや。今日も司令には客人が多かったですね」
 明らかに散らかっているものを片付ける。
「……司令。グアムが取られました。本土がいよいよ攻撃を受けることになりそうです」
 墓石の下部に水を染み込ませる。
「皆は焦り始めています。我々は一歩もこの基地から出られません。訓練もむなしいというか……」
 そう言った瞬間、強い風が渡っていき、鋭く頬に当たる。
 善三は蒔田に頬を叩かれたような気がした。
「は。申し訳ございません。愚痴です。左様でございますね。弱音を吐いている場合ではありませんでした。ここから何ができるのか考えるべきです」
 本土が決戦場になる。
 多くの民間人が犠牲になる。
 それはとりもなおさず、自分の家族であり、愛しき人々である。
 自分たちは戦場にいるつもりだったが、本土が戦場になるというその状況にそれぞれが絶望していた。
「お力をください。司令。乗り越えていく力を」
 再び風が吹き抜けていく。
 優しい風だった。
 海からあがる潮風とは違い、包んでいくような風だった。
 
 終 

波濤恋情 第二章

波濤恋情 第二章

太平洋戦争に突入した日本、南方戦線では苦戦を強いられていた。 その基地のひとつに真野善三は配置され、熾烈な前線での戦いに挑んでいく。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-19

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  1. 第一話 要塞
  2. 第二話 混迷
  3. 第三話 前線
  4. 第四話 死闘
  5. 終話