波濤恋情 第一章

波濤恋情 第一章

 夕方になっても変わらぬ茹だるような暑さのあまり、遠雷の音を聴いた時には人々はほっとした。

 雷光が近づいてくるにつれ、あちこちで戸板を嵌める音がし、やがて来る雨に備えていた。
 まだ遠いと感じられた光と音の間隔が次第に短くなり、近辺に近寄ってきたことを告げたと思った瞬間、稲光が空間を引き裂くように走った。
「わかっておるか、善三」
 低い声で言われる。
 次の瞬間、怒りの鉄槌を下すような耳を劈く雷鳴が轟き、地面を揺らす。
 身体を組み敷かれながら、唇を噛みしめ、小さく「はい」と返事をする。
 執拗なまでに繰り返される落雷は、まるで退路を絶っていくようだと思った。
「後戻りできぬからな」
 思ったことを裏付けるかのようなことを言われる。
 元々後戻りなどできなかったのだった。
 その覚悟を見せるように瞳を見つめる。
「いい目だな、善三。わしはその目に一目惚れしたんだ」
 外の破壊音が耳を素通りしていく。
 それより今、自分の身体こそがいかづちを受けている。
 激痛に悲鳴を上げたくなるが、歯を食いしばる。
「だめだ。そんなに力んでは」
 どうすればいいのかわからなかった。
 熱い塊は、闇を斬り裂き、地面に叩きつける稲妻そのもののようである。
「息をしろ!」
 それも無理だった。
 すると身体からふっと力が抜ける。
「あ……」
 すかさずしがみつく。
「大丈夫です! やめないでください!」
 その声をかき消していくかのような大量の雨が屋根を叩いていく。
 雷鳴は他の獲物を見つけた獣のごとく音が遠くなっていった。
「馬鹿だな。無理をすればいいというものじゃないんだ。もうこれで充分契りだ」
「でも…」
 荒ぶるものに口をつけようとした。真似をするように、他の誰かに二度とそれをさせないように、自分だけのものだと訴えるように…。
「やめろ! お前がそんなことをせんでもいい!」
「…だって…あの人たちは…」
 唇を重ねられる。
「お前はわしの言うことがまだわからんのだな。いいか。わしはな、お前の為ならば命なんぞ惜しくないんだ。お前が死ねと言えばこの腹いつでもかっ切る」
 騒がしいだけの雨音がざあという音に変わっていく。
「……そんな……。先に死んだら許さない……」
「それはどうかな。順番から言えばわしのほうが先だ」
 力を入れた上腕に抱き締められ、厚い胸板に顔を埋める。
「いいか。悋気など無用だ」
「ならばもう誰もこの身体に触れさせないで! 誰も触れないで!」
 そう訴えると、外の驟雨が和らいできたような優しい眼差しを向ける。
「ああ。約束する」
「本当に?」
「本当だ。お前以外の者にこの身体は触らせん。わしも誰も触らん」
 その言葉だけでも支えになると思った。
 戦地への出立の日は近づいていたのだった。  

第一話 出会い

 


「善三坊ちゃま。どうか車にお乗りください。これ以上はもう見過せませんよ」
 目白にある学校からほど近い場所で道草をしていて、真野善三はなかなか車に乗ろうとしなかった。
 腕を引っ張られる。
「じいやはうるさいよ」
 それを振りほどくようにしながらも視線は釘付けになっていて背中を向けたままである。街頭演説している人に夢中になっているのだった。
「今日こそ殿に言いつけますよ!」
 真野家は戦国時代から続く名家で、公爵の称号を得て華族に列せられていた。善三は現当主の三男で、母親は徳川家の姫君である。
 善三が傾倒していたのは、日本の強さを世界に見せつける時が来たと強く訴える活動家で、強国ロシアを倒した日本の存在価値を世界に知らしめ、軍事力をもって決定的なものとすべしと訴えていた。
 熱心にその演説を聴き入っていたのだった。

 大正天皇が崩御して数年の、新しく始まった時代に、新たに何かが始まるのだと皆はそれを興奮して聞いていた。
 ―――日露戦争に日本は勝った。
 そう後世に語り継がれることとなったが、実際は賠償金も受け取れず、樺太南部の割譲と満州の開発権益という小さな戦利品を得ただけで、国家予算の四倍という莫大な戦費と戦死者の数を差し引きすれば、とても勝ったとは言えない内容だった。
 しかも、ポーツマス条約と呼ばれる講和の仲介をアメリカに依頼し、見事にロシアとの交渉を成功させたアメリカは、それを機に国際舞台に躍り出て脚光を浴びることとなり、日本としては多大な犠牲を払い、お人好しなことをしたわけだが、その当時としてはロシアに負けなかったことが重要で、中立国であったイギリスは戦費の調達に協力し、また、その軍事力を高く評価し、不平等条約を修正し、親日を増していった。
 その後、第一次世界大戦勃発による特需が起きると日本は大きく経済を発展させ、先進国と肩を並べられるほどになっていったが、しかし、戦争終結に伴い、各国が工業生産力を取り戻すと需要は落ち込み、経済状態は一気に冷え込んでいった。
 その現象は世界中で起き、特にアメリカは壊滅的な打撃を受けた。
 イギリスは、植民地を囲い込み、何とか世界恐慌の影響を最小限に留め、それを死守していたが、欧州は欧州でかなり逼迫した事態となっていた。
 日本は深刻な経済不況に陥り、あとには引けぬ危機的な事態に追い込まれていき、英仏のように植民地を持てば経済も立て直すことができるとの結論を得て、満州を拠点にアジアでの覇権を目論み始めていた。

 活動家は、どんな苦難にも負けずに挑み続けるのが日本の進むべき道であり、日本人であるからこそ成し遂げることができる、一致団結して外敵に向かうべきだと力強く声高らかに訴えていた。
 産業力をつけるにも、軍事力をつけるにも、国民一人一人の意識が原動力となる。
 だが、国民にそっぽ向かれるような政治家に国を動かす力はない。
 だからこそ、国民が求める言葉を、国民が理解しやすい言葉で、国民が感動するように伝え、夢を見せてくれる者の言葉に耳を傾ける。
 誰もが強いられる苦しさの原因と打ち勝つべきものを知りたく、何より希望を持ちたかった。その熱のこもった演説はまさに希望そのものであった。
 善三はその演説を一言も漏らすまいと聞き入っている。
 貴族院議員の父にその姿を見られたら、どれほどの怒りを買うか想像に難く無い。
 善三付きの奉公人の与助は、この様子を今日こそ殿様に報告しようと決めていた。
「じいや。あの人は日本を救うに違いないよ」
「坊ちゃま。殿はもっとご立派でいらっしゃいますよ。いずれ大臣にもおなり遊ばします」
「父上は、宮殿にご機嫌伺いばかりしているんじゃなかった?」
「坊ちゃま!」
「ねえ。きっとあの人はそのうち総理大臣になって皆を幸せにしてくれるよ」
「左様でございますか。ならばその前に選挙に勝って政治家にならなければお話になりませんね。殿とは身分が違うのですから」
「じいやはどうしてそんな意地悪なことを言うのさ」
「あのお方のお話は過激すぎます!」
 そんな与助の言葉には耳を貸さず、演説を終えたその人を眩しそうに見ており、人々と握手をしている活動家の様子に、できることならば自分もその場に駆け寄りたいと思っていた。
「あの人…美しいよね」
 与助は呆れた顔をする。
「それは奥様のためにある言葉で、間違ってもあんなやくざ者に使う言葉ではございません」
「だって美しいよ……」
「ならば奥様に似ておいでの坊ちゃまの方がよほどお美しゅうございます。許嫁候補が後を絶たないと聞きました」
「秀一兄様みたいに?」
「はい」
「ということは、それは私に関係なく話が来るということだね」
「違います! 噂だけで…」
「ねえ。あの人は、秀一兄様より年上かな。ならばきっと奥方がいらっしゃるね」
 配っているビラを喉から手が出るほど欲しいと思った。
「坊ちゃまには関係ないことでしょう。さあ、行きましょう。帰りが遅くなれば、師範をお待たせすることになります」
 善三がふうと溜息を吐く。
「はいはい、わかったよ」
 口を尖らせながら、身体の向きを変えた。

   
 ***********

 
「筋に乱れがありますな、若」
 そう言われて構えていたわけでもないのに、目にも留まらぬ早さで善三の手首にピシャリと小手を打ち、すると痺れた手から離れた竹刀は床に転がっていった。
 ……そっちが筋を読ませないんだろう、少しくらい手加減してくれてもと腹立たしくなり、容赦無く打ち込んでくる相手に善三は落ちた竹刀を拾い、必死に食らいついていく。
 これが真剣だったらとっくに絶命していると思った。
「これまでと致しましょう」
 善三がほっとして呼吸を整え、ありがとうございました、と頭を下げた。
「学校で嫌なことでもありましたかな」
「え…」
「心に落ち着きがないから、隙が生まれるのです」
「………」
 きつい言い方だった。
 思わず憮然とする。
 幼少の頃より毎日稽古をつけてもらい、一度も褒められたことがなく、厳しいばかりの武道の師匠である。
 代々真野家の武芸師範を務めてきた家系の、維新前までは家臣としても一目置かれていたとのことで、明治からは道場を開き、門徒を多く抱える菅谷は、剣の達人だった。
「恐れ入ります。単に精進不足のことにて、さらに励みます」
 善三がぐったりとしながらそう言うと、兄の秀一が入ってくる。
 帝国大学卒業後外務省に勤務しており、海軍兵学校にいる次兄の誠二よりは自宅で過ごせる時間がある。帰宅したら稽古というのは、習慣となっていた。
「先生。よろしくお願いします」
 きりりとした顔で挨拶し、善三のことは一瞥しただけである。
「うむ。では、秀一様のお覚悟をとくと拝見することといたしましょう」
 菅谷が静かに言った。
 善三は、そういう一言に大人の世界で色々起きていることがあるのだと察する。
 長身で迫力があり、顔立ちは涼やかな瞳が魅力的で、眉目秀麗とは秀一の為にこそある言葉だと善三は溜息を吐く。
 礼をした後、いやあぁ…と掛け声をあげて剣を振り上げるが、その瞬間に胴に竹刀を打ち込まれる。秀一は唇をきっと噛み締め、敵わない相手にがむしゃらに向かう。
 普段の冷静な秀一とは別人のようだった。
 しかし、がむしゃらのように見えて、実は汗ひとつかいていないかのようで、それは冷ややかさを感じさせるものがあり、まるでやけにでもなっているような様子である。
「それまで」
「あ…ありがとうございました」
 結局一本も取れずに終わったが、防具をはずした秀一はすっきりとした表情をしていた。
「秀一様の信じる道が、正道でありましょう」
 菅谷はそう言い、秀一は深々と頭を下げた。
 何やら打ち合いの中にも対話があったのだろうと善三はぼんやりとして見ていた。
 すると秀一が善三を見る。
「学校はどうだ?」
「え」
「中等部からは学問も難しくなる。きちんとやっているのか」
 忙しい父親に代わり、よく面倒を見てくれてきた長兄だった。
「心配ご無用です。いつまでも子供ではありませんから」
「何を言っている。お前はまだ子供だろうが」
 善三よりひとまわり以上年の離れた秀一にとっては、いつまでも揺り籠の中にいた可愛い赤子のままである。
「それはそうと、最近学校の近くで良からぬ連中が活動していると聞く」
 善三がどきりとする。
「斯様な者たちの言葉に耳を貸さないように」
 じいやだな……と思ったが、それよりあの人を良からぬ連中と位置づけられるのは気分が良くなかった。
「良からぬ連中とはどういう人を指すのですか?」
「後で私の部屋に来なさい」
 秀一がそう言ったのち厳しい表情を浮かべて立ち上がると菅谷は一言も発せず、礼をした。その様子は、まるで次期主君に対するもののようで、善三はそういう場面に出くわすと言いようもない焦りを感じる。
 いつかまたあの時代に戻ることができたら……誰も口にはしないが、その気持ちはなかなか潰えることなどないのだと突きつけられている気がするのだった。
 凛々しい秀一の姿は、確かに父親にも勝ずとも劣らぬ殿様然としたものだった。
「はい。わかりました」

 道場の次の間で、秀一の妻が着替えを支度して待っており、善三が会釈してそこを抜けると、与助と与助の甥の喜助が待機していた。
「そのまま湯殿にどうぞ」
 善三はプイとしながら湯殿に向かい廊下に身体を向ける。
 善三の不機嫌の原因に与助は気にも止めずに背筋を伸ばして歩いていく。
「兄様より先に使ってもいいの?」
「秀一様は、まだ柔道の稽古をなさるそうです」
「へえ。よく腹が減らないね。私はもう無理。じいや、夕餉は何かな」
「本日は洋食でございます」
 善三ががっかりとした顔をする。
 パンより白米が食べたかったのである。しかも、晩餐会で役に立つようテーブルマナーを仕込まれるためのもので、少しでも音を立てたら叱られ、面倒くさく和膳の方が好きだった。

 湯殿で喜助が背中を流しながら、善三の腹がきゅるきゅる鳴るのを笑いを堪えきれずにいた。
「笑うならちゃんと笑えばいいよ。とにかくお腹空いたから」
「坊ちゃまが元気な証拠です」
「喜助だって腹は減るだろう?」
「ええ、もちろん。勤めが終われば腹が鳴ります」
「勤めか…偉いな。喜助はまだ私とそれほど年が違わないのに」
「坊ちゃまのほうが偉いです。難しいお勉強に、武芸、厳しい作法、やることがたくさんあって」
「まったくだよ。でも楽しいこともあるんだよ。今日ね、学校で庭球というのをやってね。皆、夏は軽井沢に行って一日中やるらしい」
「軽井沢ですか、そういえばそんな風に避暑をされたことはありませんね」
「兄様があそこは女子がいくところだと言うからね。この夏は一緒に行こうと誘われたよ」
 喜助が背中にお湯を流すと与助が入ってくる。
「それは良かったですね。ご学友は大事です。坊ちゃま、そろそろ食堂へ。皆様お待ちです」
「え? 兄様は?」
「行水をされました」
「ふうん」

 洋食用にシャツとズボンに着替えて食堂に行くと、母の絹代が待ちわびていたように嬉しそうな顔を向ける。
「大変お待たせいたしました」
 秀一が身体から湯気をだす善三をみてくすくす笑う。
「いつもながら長湯だな」
 秀一の妻の妙子も微笑んでいる。
「秀一さん。あまりからかっては気の毒よ。いくら善ちゃんが可愛くても」
 善三が顔を更に真っ赤にする。
「母上!」
「善ちゃん。頬が真っ赤よ。ふふふ。口づけしたいくらい。だめかしら?」
 善三が引かれた椅子に座り憮然とする。
「遠慮いたします。それは赤子にすることです。私は中等部に通う身です」
「わたくしは、まだ添い寝したいくらいですのに」
 絹代が大きく息を吐くと、秀一が運ばれてきたスープにスプーンを入れながら苦笑する。
「そんなことをなさったら父上が必死に止めることでしょう。母上もいい加減になさったほうがよろしいですよ」
「まあ。秀一さんは本当に意地悪ね」
 絹代が不貞腐れながら頬を染める。いつまでたってもお姫様の母である。
「善三もいつまでも赤子ではないのですよ。本人の為によくありません」
「秀一さんのような厳しい兄がいるのですから、わたくしくらい甘くないと善ちゃんが気の毒よ」
 絹代がつんとしながら言うと秀一が皿の中にスプーンを落とし、音を立てる。
「母上が猫可愛がりして甘すぎるから私が厳しくしなければいけなかったのでしょう」
 善三が物心ついた時からのいつものこんな母と兄の二人のやり取りに身の置き場がなくなる。
「あの……私はしっかりやりますので心配しないでください」
 スープを口に入れながら善三がとりあえずそう言ってみる。
「心配ですよ!」「大いに心配だ!」
 食事中は私語禁止のはずなのに、食事どころではなかった。
 過保護な母と兄にげんなりとするのだった。
 
 食事を終えて、秀一が自分の書斎に善三を入れると、妙子が茶を入れて持ってくる。
 まるで女中のようないつまでも若奥様らしからぬ振る舞いをするのは、秀一が見初めた神社の娘で、身分違いの縁組にいまだに恐縮しているからである。
 妙子が部屋を出ると、秀一は厳しい表情をした。
「さて、良からぬ連中についてだったな」
 秀一が長く息を吐くと善三は拳を握る。
「兄様。あの人が良からぬ人というのは違うと思います。みんな有難くあの人の話を聞いていますし、私も素晴らしいと思います。悪い人ではありません」
 今まで善三が秀一に逆らうようなことはなく、ゆえに反抗するような言い方に秀一は表情を険しくした。
「素晴らしい? 何を素晴らしいと思うのかな」
 しかも、善三が反論してまで特定の者を賞賛することに苛立ってきていた。
「あの人の話に勇気づけられるのです。人々はみんな夢中になって話を聞いているんです。すると希望を持てるのです」
 秀一がますます苛立った表情をする。小さく舌打ちした。
「だから、内容は」
 そんな秀一の心情など気づく様子もない善三は、その活動家の顔を思い浮かべて嬉しそうに言う。
「日本人としての誇りを持てと」
「誇りを持ってどうしろと?」
「外敵に立ち向かう力をつけようと」
「……外敵……だと…?」
「今は、外国ばかりが利益を得ていて、日本は貧しいと。だから税金も高く、働いても暮らしが楽にならないと。学校でも教わらないことをあの人はよく教えてくれます」
「それが正しいことだとは限らんだろう?」
 秀一が煙草を咥える。
「でも人々は納得します。真実を伝えているからではありませんか?」
 まずは話を聞こうと秀一は煙草を吸って気を鎮める。
「しかも外国は日本が苦労して得たものまで狙っている、だからそれを守り、同じように苦しんでいる国も助けるって。それで皆が豊かになれるって。だからその為にはひとりひとりが自信を持ち、力を高め、それを集結させていく必要があると」
 善三がうっとりとした表情をする。
「……名を何と言う」
 煙を吐きながら小さな声でいった。
「え」
 苛つきを抑えられず煙草を持っていないほうの手を机に叩きつける。
「その極右の狼の名は何と言う」
「極右?」
「国民を扇動する排除すべし者の名は何と言うのだ」
「兄様、何を言っているの? 排除すべし者?」
「………………」
 秀一が苦虫を潰したような表情をする。
 煙草をくわえた後、長く息を吐く。
 仕事で追い詰められることが多く、余裕が持てずにいた。
 外務省がどれだけ必死に外交を重ねても、満州幻想に取り付かれた者たちの前では何もしていないのと同然とばかり扱き下ろされる毎日に疲れてきていた。
 前方のソ連、中国だけでなく、背後にはアメリカがいると訴えても届かず、アメリカの軍事力に火をつけたら同盟国のイギリスにも裏切られるという危険極まりない現状を訴えても聞く耳を持たぬ風潮が広がっていた。
 ―――満州は火山の中にある宝と等しい。
 日露戦争の戦利品である満州鉄道と鉱山開発権利、投資を重ねて磨きあげた宝をソ連が奪いにくるのは必至だった。中国新政府も清との条約など無視し、ソ連より先に奪いたいと挑発してくる。アメリカはその戦いの覇者と一騎打ちをするつもりだとわかる。
 そして、アジア全部が欲しい。石炭、銀、綿…利権の宝庫である。そして貿易拠点としての魅力が大きい。ソ連は何より凍結しない港が欲しい。力を持った国なら当然欲しがる。
 つまり泥仕合である。
 我が国にそんな戦いに耐えるだけの国力などない。
 だからこそ、満州を手放すことも視野に入れるべきだと進言すれば、ソ連と中国との外交を決められないことの弱さを外務省の体たらくとされ、軍部は責任を押し付けてくる。弱腰外交しかできぬ者は黙れと。
 大臣は、肩を震わしながらそれを皆に伝えていた。
 あれだけの犠牲の上の成果を奪われたら陸海軍省としては立つ瀬がなく、それを死守するのが日本の取るべき道だと声をあげたくなる気持ちは理解できる。
 しかし、国民にそれを容認させるようなことを焚きつけるなど危険極まりないことだった。誤った考えも誤っていると言えない社会となってしまうからだ。
 秀一は苦笑する。
 ……自分が随分と左寄りということだ。
 国の役人であるというのにそんな自分に嫌気が差してくる。
「いいか。そんな奴の話など二度と聞くな」
 弟にそんな自分の弱さを見せたくないと思った。そしてそんな自分とは逆の道に行く活動家に憧れる様子を見せられたことに嫉妬を覚えた。
「ち、ちょっと兄様、それはどういうことですか」
「我が国は、いま大事な局面を迎えている。確かに奴の言うとおり。だから、国民は冷静にそれを受け止めなければならない」
「……はい」
 善三が緊張した面持ちとなる。
「国が苦しい時は皆で耐え抜く。飢饉や災害の時も助け合って日本の国はそれぞれの藩がそうしてきた。だからこそ長い平和を維持し、ひとつの国として続けてこられたのだ。私たちの先祖も代々」
「……はい……」
「一揆が起きたこともあったが、各藩は何とか自分のところで処理をしてきた」
 煙草を吸い、煙を吐く。
「お前は一揆を起こした者たちに苦しいなら隣の藩の所有物を奪いに行けばよいと言えるか?」
「けど……、それと外国とでは違う話では? 満州は日本のものでしょう?」
「所詮は同じことだ。先住民を追い出して日本人を移住させている。あそこは大和の国ではない」
「でもそれは……琉球だって……アイヌだって……」
「満州は元々ロシアの罠なのだよ。後で奪い返すつもりの」
「だって!」
「そうだ。一度奪った物は手放したくなくなる。そして欲に目が眩んでいるから、相手の動きがわからなくなる。善三、相手の動きがわからなければ剣道ではどうなる」
 善三が俯く。ならばインドなどはどうなるのか……と言い返したいが言えなかった。
「……打たれる」
「そういうことだ。こんなことは誰もが考えれば容易に思いつくことだ。しかし、なかなか歯止めが利かない」
 善三が反論したくて悔しそうな表情を浮かべる。
「だからお前までそんな奴の言葉に踊らされるな。真野の名が泣くぞ」
 だがうまく切り返せなく、べそをかくような顔をすると、秀一が善三の頭に手のひらを載せ、短い髪をくしゃくしゃとさせる。
「お前はまずは学校での勉強だ。英語は特にしっかり学べ。英国人と進んで会話しろ」
「……はい。兄様…」
「……奴は、名前は何と言うのだ」
「木内宗一というお方です」
「……覚えておこう」

 **********


 善三はその晩なかなか寝付けなかった。
 ……あの人は……。
 どうしても戒められるほど悪いことのように思えなく、考えてしまうと堂々巡りしてしまい、眠りは遠のいていくのだった。
 止められれば益々興味を持ってしまうのは仕方ないことで、しかしもう与助の目をくらますことはできないのだと溜息を吐く。
 本音を言えば、演説の内容よりも、熱く語るその人そのものに惹かれていた。
 短く刈った髪、濃い眉毛が印象的なはっきりとした目鼻立ち、すべてを射抜いていくような鋭さを持つ瞳、一度見たら忘れられない独特なものがあり、その上、表情豊かで、人々に挨拶をしていた時の笑顔に抱擁力を感じ、それに皆は惹き付けられていくとわかった。
 ……あの人は美しい……。
 人を美しいと形容する場合、美人であるかどうかという基準で考えがちだが、自分はそうではないと思っていた。
 美しさというのは、生命の力のことを言うのであって、だから、植物も動物も美しく、地球という生命体の空も海も美しく輝く。
 ―――あの人は美しい―――
 まさに輝ける太陽のようだと思った。
「はあ………」
 祖父が建てた洋館の大きな窓から満ちた月を見ながら、大きな息を吐く。
 そして、あの響く声……。
「あの人の言うことの何が悪いのだろう」
 何が問題なのか秀一の話では実のところよくわからなかったというのが本音であり、誤魔化された気がしないでもなかった。
「そうさ…」
 憧れる人がいるくらいいいではないか。何も悪いことなどしていない。心は自由なはずだ。
 月の輝きが、そんな心を応援してくれているような気がした。


 *********


 日本が満州事変をきっかけに建国させた満州国に多くの日本人を移住させ、様々なアジア民族の共存の実現を掲げたが、国際連盟の意向としては、中華民国の主権に置くべきと非難され、日本は国連を脱退することになった。
 しかし、その後、孤立化せぬよう外交努力を重ねたことにより、ドイツ、スペイン他の国が承認するに至り、複数の国々の動静から態度を軟化させてきたソビエト連邦さえ黙らせれば当面の平穏を維持できるというところまで来ていた。
 ―――満州国の独立と平和…。
 それを実現するというのが政治決定であり、それに邁進するために官民一体で動いていた。もはや後戻りなど許されなかった。
 外務省としては少しでも外堀を固めるよう働きかけをして行くほかなく、秀一も度々満州に行き、各国から訪れる大使に対応していた。
 満州国を独立させたように見せかけて国家機関を置き、所詮は日本の意向通りに動かす独立を夢見る満州人のやる気を失わせる傀儡国家だったとしても、砂上の楼閣である「五族協和」というアジア民族共存の建国理念を訴え、ひたすら諸外国にその理想郷の素晴らしさについて賛同を得るため努力していく、それが至上命令であった。
 世界は綺麗事に弱い。
 綺麗に見えるものに賛同したがる。それを支持するものが増えればそれが潮流と見て、乗ろうとする。そして商売として成り立つならば堂々と受けいれる。だから、満州を売り込むためにはどれほど張りぼてであろうとも大見得を切るしかないのだった。
 秀一は苦悩しながらその仕事をこなしていた。
 その秀一とは反対に、それらを見事な美談に仕立て上げた新聞記事を読みながら、やはりあの人は正しかったではないかと善三は胸をなでおろしていた。
「殿。秀一様は予定通り来週戻られると連絡がありました」
「そうか。秀一も忙しそうだな」
 家令の報告に当主の昌和が珈琲を飲みながらそう答えた。
 その二人の邪魔をしないように与助は善三の朝の支度を細々としている。
「ねえ、じいや、私は日本人に生まれてきたことを誇りに思うよ」
 顔を上気させてそう言うと、それを聞きつけた昌和が優しく微笑む。
「善三はなかなか勉強家だな」
 滅多に家にいない父に久し振りに会えた上、褒められて嬉しくなる。
「今日は一緒に車に乗っていこう。私もまもなく出発する」
「はい!」
 家令が目で与助に指示をすると、善三を昌和の車のところに連れて行く。
 車に乗ると善三は久々に父親と話ができて嬉しそうな顔を向けた。
「善三には進みたい道があるのか?」
「は、はい?」
「先ほど新聞に穴が空くほど熱心に読んでいたから。それほど世情に興味があるなど、何か心に思うことがあるのではないか」
「い、いえ、私は三男だからどこかに婿に行って、そこのお舅様の後を継ぐのだと教えられてきましたので、そんな進む道についてなど考えたことはありませんでした」
「ふふ。絹姫はどこにもやらないと言っていたが、秀一がそう言ったか?」
 昌和は絹代のことを絹姫と呼んでいた。
「はい。それが私の役目と。誠二兄様もいるからお前は他家に行くのだと」
「そうだな。分家に出すよりその方がいい。嫁をもらうようならば絹姫が嫉妬に狂って壊しかねないからな。お前を奪い合うだろうよ。ふふふ」
 苦笑しながら言って、それから黙られてしまった。
「父上」
「ん?」
「国を思い、国の為に役に立つよう諭す人は悪い人ではありませんよね?」
「え? ああ。勿論悪くはないね」
 昌和は複雑な顔をしたが、否定されなかったことに善三は顔を輝かせる。
「そうですよね!」
 やはり兄様が考え過ぎなのだと思った。


 **********


 秀一が気を重くしながら満州で外交を続けていた中、木内宗一も満州にいた。
 早く帰国したいという思いが一層強くなる。
 善三からその名前を聞いてから忘れることなどなく、驚くほどの早さで時の人になっていく様子に脱帽するものの、好意を寄せることはできなかった。 
 木内が立ち上げた新政党、国粋党への入党者が後を絶たず、寄付も多大に寄せられ、短期間で人気を博していき、次の選挙では確実に議席を取るだろうと目され、満州での演説も望まれてやってきていた。満州国の皇帝一家にも好かれ、その様子が大きく報じられることになり、話題となっていた。
 秀一は木内から発せられる雰囲気に圧倒され、心の中で舌打ちしながらそれに危険なものを感じ、催されたパーティでは型通りの挨拶だけにしようと決めていた。
「外務省の真野と申します。どうぞよろしくお願いします」
 そう頭を下げると木内は仰々しい態度を取った。
「木内です。今後ともひとつよろしく」
 ぺこりと頭を下げるのを見て、関東軍のひとりがやたらと愛想のいい笑いをする。
「この方は真野議員、公爵のご子息ですよ」
 嫌味的に言った。
 武家の出身でない軍人にとって歴史上の武将の家系など妬ましいだけである。
 秀一はそのような羨望を露にした態度には慣れたものだった。
「真野議員……」
 木内がわずかに表情を変え、何か考えているかのように瞳を動かす。
「真野……ああ、そうですか。これはお目にかかれて光栄です」
 秀一の整った容姿と物腰、いかにも育ちの良さそうなところが表れていてそれが華族の証のように思え、それが鼻につく。
 値踏みするかのような木内の視線に嫌悪感を抱きながらも秀一は爽やかな笑顔を向ける。
「今を時めく方にこうして直接お話しできる機会を得ることができて、こちらこそ光栄です」
 嫌味を微塵も感じさせない口調だっただけに余計皮肉られたような気がして、こいつは……と木内は思った。
 秀一としては嫌味を言っていたのであり、それが空気として伝わっていた。秀一は心の中でガッツポーズをする。一本決まったような気持ち良さだった。
「真野さん」
 にやりと笑う。
「弟さんはお元気ですか。しばらくお会いしていないのですが」
 秀一が顔色を失くす。
 それを隠せなかった。
 今度は木内が心の中で喝采を上げる。
 学習院に通う子息など全員把握していて写真を見れば誰の倅か調べはすぐついた。
 その場所で演説をしていることには意味があったのだった。
 政治家の子息への渡りをつけるきっかけになればいいと狙ったものであり、こそこそと隠れるように見ていた様子から善三は罠にかかった獲物そのものだった。
「最近、集会も開いていなかったのでどうされているかなと」
 秀一が拳を握る。
「またお会いしたいと思っております」
 動揺を見破られないように笑みを浮かべる。
「そうでしたか。弟と懇意にしていただきありがとうございます」
 冷静にそう言う秀一の鉄面皮を引き剥がしたいとの欲求が勝り、ぞくぞくしてくると木内は思った。
「大変嬉しく思っておりました。小生の話に興味を持って下さって。またお会いできるのを楽しみにしております。これを機にご家族皆様とも是非親しくさせていただきたいと思っております」
 すると関東軍の軍人がそれにわざとらしい態度を取った。
「それは素晴らしい! きっと良いご縁ですな」
 ふざけるな…!
 秀一は心の中で叫ぶ。
 そして引きつりそうな顔に力を注ぐと木内がくすりと笑う。
「では真野様のお屋敷にご挨拶に伺います。早速来週にも」
「え……?」
「来週にはご帰国なさると伺っております。小生もその予定です」
 厚かましさは秀一の想像を超えていた。
「では、宜しくお願いいたします」
 言葉を待たずに木内は頭を下げてその場から離れた。
 秀一は怒りのあまりその場から動けなかった。


 **********
 

 広い座敷の当主の間には、鎧兜が鎮座しており、江戸上屋敷の建物そのままである。中庭は日本庭園となっていて、獅子おどしの音が響き、静謐で厳かな雰囲気を作っている。
 先代まではこの屋敷を当主の居住場所としていたが、昌和はそれまで住んでいた洋館にそのまま使い、本来結婚したら独立して居住をするはずの秀一夫婦も洋館の中におり、文化財として保存していた。
 その屋敷の当主の間に善三が呼ばれるということは、一大事が起きているということであり、善三は緊張しながら背筋を伸ばして昌和を見ていた。
「善三。正直に言いなさい」
 父の厳しい口調に善三は小さくなる。善三の隣に座る秀一も険しい表情をしている。
「私は、ただ、話を聞いていただけです」
 昌和は訝し気な顔をした。
「ただそれだけで、私の息子だとどうして分かる?」
「分かりません! 父上! 信じて下さい! 直接話したことなどないのです」
 善三が必死に訴える様子か嘘をついていないのだと秀一は思った。
 善三の嘘など幼い頃から面倒を見ていて容易く見抜ける。
 木内は帰国早々の朝にやって来た。中に入れてくれるまで門の前に陣取るつもりのようだった。皆、外出を控えるほかなかった。
「秀一! お前も何をしている! 満州で奴に付け入る隙を与えたのだろう!」
 秀一が正座して頭を畳に擦り付ける。温和な父に叱られたのは初めてのことだった。
「申し訳ございません、父上。私の不徳の致すところにて」
「こちらに握られる弱みはない。だが、あんな風体の悪い輩に屋敷を囲まれてみろ。警察が騒ぎ出す。いい恥さらしだ」
 善三は、自分の軽はずみな行動がどれほど父と兄に迷惑をかけてしまったのかと猛省していた。それでも突き動かされるものに逆らえなかった。
「あの!」
「なんだ、善三」
「私に会いに来て下さったのでしょう? ならば、父上はご不在ということで私が対応すれば良いのでは? 兄様はどうぞ勤めに行って下さい。お忙しいのでしょう」
 浮き足立つ善三に秀一が溜息を吐く。
「何を馬鹿なことを言っている。また何を餌にされるかわからん。お前、相手がどんな奴がわかってない。満州の皇帝にさえ取り入る奴なのだぞ」
「ならば、帰ってくれるよう頼んで来ます」
 姿がどうしても見たかった。
 すぐそばにいると思うと心が暴走していく。
 善三が腰を浮かした。
「待ちなさい、善三」
 ぴしゃりと昌和が制する。
「会おう。目的はわかっている」
 善三は踊る気持ちを抑えるのが苦しかった。ずっとその姿を見たいと望んでいたのである。

 家宝の名刀を背にした昌和が座る場所は一段高くなっており、襖側に秀一と善三が並ぶと、全員洋装でありながらもさながら江戸時代に遡ったようである。
 真野家は、最初は侯爵だったが、後に公爵に昇爵し、それで昌和は徳川公爵家から妻を得たのだった。押しつぶされそうなほどに重い家名に負けじと日々を過ごしていた。
 羽織り袴姿の木内が大股で歩いてきて、すとんと座り、頭を下げる。
 それは、まるで猛将が戦況を報告しにきたような様子だった。
 善三は正座した足が急に痺れてくると思った。
「突然の訪問、些か無礼ではないか。木内さん」
 秀一が厳しい口調で言う。
「無礼は承知の上のこと。木内宗一と申します。閣下にどうしても受け取っていただきたいものがあり、参上いたしました」
 頭を下げながらそう言う。
 昌和が、小さく息を吐く。
「君に閣下とは呼ばれたくない。それを受け取る代わりに、陸軍大臣に会う道筋をつけろと? 安く見積もられたものだ。顔を上げなさい」
「違います」
 ゆっくりと顔を上げて毅然として言うその声に、座敷の空気が変わっていった。
「大事なものだからこそ、一刻も早く、そして直接お渡ししたいと思いました。それ以外には何も考えておりません」
 ずっしりと重く響く声色である。その声だけで信用したくなる、そんな声だった。
「見ていただければわかるはずです」
 念を押すように言った。
 昌和の心がぐらりと揺れる。
 てっきり目の前に金を積みあげるのだと思っていただけに、下品極まりないと追い出すことはできなく、金ではないと言うその物が気になったのだった。
「お持ちしてもよろしいでしょうか」
 善三は昌和の緊張を感じて固唾を飲む。
「……十代様ゆかりのものかと」
 昌和が顔色を変える。
「なんだと…?」
「是非ご覧いただきたく」
「……………」
 あまりに魅力的な罠だった。
 昌和が断わらないことに危機感を持ち、秀一がそれを遮るように咳払いをする。
「私が検めさせていただく」
「いいえ!」
 木内が秀一を睨みつける。
「これはご当主に是非とも献上したいものにて」
「!」
 秀一にその資格はないと言っていた。
 秀一は顔を真っ赤にする。
 恥をかかすことも遠慮しない木内から感じ取るものは嫌悪感だった。
「……私はそれを継ぐ者である。お控えいただこうか」
 精一杯虚勢を張り、木内を睨み返す。
「いいえ。それでなければ結構でございます。小生としてはご当主に見ていただけなければ意味がないと思っておりますので」
 二人の間に不穏な空気が流れ、昌和が憂鬱そうに溜息を吐いた。
「……わかった。見るだけみよう」
 木内が居住まいを正す。
「ありがとうございます」
 外に置いてあった箱を運び入れ、丁寧に包みを外し、箱の上蓋を外して中身を出し、蓋を戻した箱の上に置いた。
 それは、見事な柄の鞘に収まった刀だった。
「……!」
 昌和は言葉を出せなかった。
 秀一も驚きのあまり動きを止める。
 それは昌和が毎日手入れをしている後ろにある当主に伝えられる刀と同じものだったからだ。
「なぜ……」
 昌和がそれだけ言葉にすると、木内は待っていましたという表情をした。
「とある家に幾分用立てしたところ、お返しが難しいということで、質にこれを」
「質だと……?」
 眩暈を起こしたように額に手を置く。
 祖父が会津藩藩主に送った刀で、兄弟刀だった。戊辰戦争後は行方不明と言われていた。
「幾らだ」
「いえ。これは売りにきたわけではなく」
「この刀のことではない! 幾ら借金しているのだ!」
「それはお教えするわけには」
「その者を自由にしてやれ!」
「生憎、それは先生に肩代わりしていただく筋の事ではなく、それに残念ながら借金は消えました。お亡くなりになったので」
「!」
 昌和が拳を握る。
「殺したのか?」
「殺すはずがありません。貸した金は返してもらわないと。商売ですので」
 相当厳しい取り立てだったのだろうと想像ついた。
「名前も知らせる気はないのか」
「先生が知る必要もない者です。これは盗んだ品物ですから。相場に手を出して身を滅ぼした者です」
「盗品?」
「だからこそ! 先生が然るべきところにお戻しいただくのがよろしいかと。その手伝いをしたくお持ちしました」
「ならば聞く。なぜこの刀を当方に預けようとする。この刀が盗まれたものと言いつつ、所縁がわかるのか?」
「この箱の中に書簡がありましたから」
 それを聞き、たまらず昌和が立ち上がり、刀に走り寄る。
 がしりと掴むと、木内はその書簡を恭しく両手で差し出した。
 指を震わせながら広げていく。
 そして、それは、
 ……祖父の筆跡だった。
 懐かしさに震えてくる。
 偉大な祖父が目の前に現れた気がした。
 肩を震わしながらその書簡を丁寧に畳む。
「…………これを預かる……」
 それがどんな木内の術中でもいい気がしたのだった。
「ありがとうございます。これで刀も安堵していることでしょう」
 ほっと息を吐いた。
 これで交渉が成ったと思い、それまで視界に入っていなかった善三の顔を何となしに見た。善三の存在は木内にとってあくまでも真野家当主に会うという目的の為の手札のひとつでしかなく、真野公爵の懐に入れさえすればどんな手段でも良かったのだった。
 その善三が、満面の笑みを浮かべて木内を見ていた。
 どきりとする。
 ……なんと可愛らしい………。
「父上。自己紹介してもよろしいでしょうか」
 昌和が刀を隅々まで見ながら、ああ、と生返事をする。
「私、真野善三と申します。お目にかかれて嬉しく存じます」
 きらきらと輝く瞳だった。
「あ…」
 暫く口を開けたままになる。
「あの、何度かお話を聞きに参りました。感動しました」
「え、ええ……」
 驚いて目を見開いたままである。
「あの……?」
 するとかあっと顔を真っ赤にした。
 どっどっどっと心臓の音が聴こえてくるほどに汗が吹き出ていた。
 手がぶるぶると震えている。
 目を瞑り、唇を噛む。息が苦しそうであった。
 善三が心配そうな顔をする。
「あ…の…?」
「では! 小生はこれにて!」
 取るものも取らず、逃げるようにして部屋から出て行ってしまったのだった。


 **********


 なんだ、あれは………。
 ――――真野善三と申します。
 家に帰ってきてもまだその時の衝撃の中にいたようだった。
「なんであんなにでっかい目をしているんだ」
 信じられないほど潤んでいて、思わず触れたくなる宝石のようだと思った。
 綺麗な、無垢の、純粋で穢れのない………。
 また胸が苦しくなってくる。
 その瞳から目が離せなくてどうにもならず、交渉のまとめもろくにせず逃げ帰ってきてしまったが、それは後から折衝すれば良いことだった。畳み掛けるほど急ぐことではない。懐に入るということは成功したのであるから、それはいいのだった。
 それよりも―――。
 ごろりと座敷に寝そべる。
 目を瞑っても開けてもあの顔が浮かんでくる。
 笑い顔が何とも可愛らしかった。
「く―――」
 最近畳替えしたばかりで、藺草の香りが鼻腔をくすぐる。
 畳に拳を叩きつけ、脚をバタバタとさせる。
「あ――――――!」
 顔が熱い。身体中が熱かった。
「わあああああああ〜〜〜〜〜!」
 熱を吐き出したいと思った。
 障子が開く。
「どうかされましたか、先生!」
「何でもない! 入って来んでいい!」
「それは失礼いたしました」
 秋の空より読むのが難しい機嫌を損ねぬうちに障子を閉めようとしたが、早速その機嫌が変わったようだった。
「いや、待て。菊治」
 その声色に菊治はぞくりとした。
 開けた障子をゆっくりと閉じる。
 その瞬間、腕を引かれて押し倒された。
 帝大を卒業したのち、内務省に勤務していたが、家の借財の返済に目処がたたず、秘書になれば借金を免除してやると言われて女郎小屋に売られる貧しい家の娘のごとく木内の元へやってきた。
「真野様との交渉はいかがでしたか。あの書簡なら……」
「聞きたいか?」
 着ている服を剥がされていく。
「お前らご華族様がわしに振り回される話を」
「うまく行ったのならばそれはそれで」
 上から物を申すような生意気な口調が抜けない菊治を、木内はどうしても好きになれなかったが、自分の身体に馴染んできたことを否定するように必死に自尊心を保とうとする様子が面白く、それで溜飲を下げていた。
「ふん」
 色欲の味を知ったら早々には抜け出せない。
 菊治が必死に喘ぎ声を殺す。
 日増しに肉欲に溺れていくことを自覚していた。その都度、破談になった人が遠くなっていくのだった。しかし、心までは渡すまいと誓っていた。
 木内の荒い息が大きくなる。
 菊治がぐったりし、身体をひくひくと痙攣させた。
「よかったか」
 にやりと笑う。
「……………」
 ぷいと顔を背けた。
 全く可愛気がない…と舌打ちして浴衣を着直してどかっと座り、煙管を手にする。
「ふぅ……」
 善三の顔がまた浮かんでくる。
 ……あの唇に口づけをしたら……。
 首を横にふる。
 高嶺の花だ……。
 相手はこちらが近づけば飲み込まれてしまうほどの公爵家のお坊ちゃんで、まだ髭も生えていないひよっこである。
 あの外務省の兄貴と菊治は自尊心の塊の同類だと思ったが、あの坊は違う……。
 くすりと笑う。
 相場で儲け、金貸しをして、財を成してきた。金は金を呼ぶ。
 広い屋敷を手にいれ、舎弟を増やし、血の気の多い者たちの力の矛先を外部に向けるために団体として活動させるのが良いだろうと国家に向けたものとした。
 それが時代に合致したものとなり、人数は膨れ上がり、このままいけばクーデターさえ可能ではないかと噂されるほどである。
 ふっと笑う。
「先生?」
「飛行場がまもなく完成する。陸軍大臣にそれを献上する手筈を何が何でも整えたい」
 善三の顔が頭から離れない。
「……ならばやはり真野様に近づくことが一番の早道でしょう」
 他の貴族院議員への布石より最も近道に違いなかった。
「そうだな……」
 自分への言い訳ができたと思った。


 *********


 数週間した後に、木内は真野家を訪れ、堂々と善三に会いに行った。
「これを一緒に観に行きませんか」
 歌舞伎の切符を通された応接間のテーブルの上に置いた。
 昌和も秀一もいない夕方の学校から帰宅する時間を狙っての訪問だった。絹代も留守にしており、誰もいない中、善三は通すよう執事に言った。真野家にとってはすでに大事な客人となっていた。
「歌舞伎……?」
 木内はなるべく善三の顔を見ずに行った。見たらまともに会話できない気がしたのだ。
 二十も年の離れた子供相手にこれほどの緊張を強いられるとは思っても見なかったと心の中で苦笑する。
「あの…是非行きたいです」
 大きな瞳をくりくりとさせながら、頬を染めて善三が恥ずかしそうに言う。
「そ、そう。菊五郎は好きかな」
 木内は声が上擦っていないか気になった。
「はい! とても! 吉右衛門も!」
 善三の顔を見ないようにしていたが、顔を赤くする様子をつい見てしまった。
 すると、心臓に穴が空いたのではないかと思えるほど痛みを感じ、息苦しくなる。
「では明後日、お迎えに参ります。お父上によろしくお伝え下さい」
 善三が飛び上がらんばかりに喜んでいる。
「帰りには帝国ホテルでカレーライスを食べましょう」
 十銭くらいが相場のカレーライスだったが、帝国ホテルは一円近いという破格の値段で、確かに値段通り美味と評判が高く、善三の学友たちが噂していた。
「銀座で時計店ができあがったらしくなかなか良い建物らしいのでそれも見に行きませんか。銀座をそうやって歩くのも流行っているらしい」
「銀ブラですか!」
 それは同級生たちがよく話していることである。モダンボーイをモボ、モダンガールをモガが呼び、流行の最先端のことであった。
 そういう流行を昌和や秀一は嫌い、絹代が連れ出そうとするのを禁止していた。
 歌舞伎見物はまだ早いと言われ、カレーライスを外食することなどまるで機会がなく、銀座をぶらぶらと見物に歩くなど母や義姉のすることだと一喝されそうなことだったが、善三の気持ちはすでに銀座に飛んでいっていた。
「カフェーで珈琲を飲むのはどうかな」
 今からすぐにでも行きたいと思った。
「はい! どうぞ宜しくお願いいたします!」


 *********


 初代中村吉右衛門が舞台に姿を現すと、「播磨屋!」と声が飛んだ。
 善三は六代目菊五郎の「義経千本桜」を見てみたいとはしゃいでいたが、渡された切符は「番町皿屋敷」で、菊五郎は次の時にと木内は微笑んだ。
 善三が昌和に歌舞伎を観に行くことを頼み込むと、相手が木内だけに昌和は了承せずにはいられなかった。
 ノートに書き込んだものを胸に抱き締め、瞳を輝かせながら待っていた。
 怪談として知られているのは、播州皿屋敷の方で、それは姫路城が舞台となっているが、それは歌舞伎の創作によるものである。
 怪談ではない番町皿屋敷は大正五年に作られたもので、悲恋物語となっている。
 その舞台は、江戸番町(現在の東京都千代田区番町)で、旗本屋敷が連なっている屋敷のひとつ、青山家でその物語は始まっていく。

 主人公である旗本の青山播磨は、喧嘩っ早くて年中揉め事を起こしていた。
 親戚の者は、それはいつまでも播磨が独り身であるから落ち着かないのだとして、縁談を持ち込んできた。いつも持ち込まれる縁談に播磨は辟易していた。
 ある日、播磨の元に客が来ることになり、先祖伝来の皿でもてなすことを家来たちに命じていた。
 その支度をしていた時に播磨の恋人である腰元お菊は、播磨の縁談の噂話を聞き、途端に不安になる。
 相思相愛の二人はこの上なく幸せな日々を送っており、播磨としてもお菊以外の女性を妻に娶るなどまったく考えていなかった。
 播磨に一心に愛されるお菊の美しさと艶かしさは言葉を失うほどである。
 だが、そのお菊は身分違いであることから自信が持てず、播磨の心変わりを疑っていく。
 ……もしかしたら殿様は奥様をお迎えになりたいのでは……。
 もし奥様がいらしたら……私はどうなる……?
 ……捨てられる……?
 そのお菊の心の中が会場を包んでいくように、長い、実に長い間がある。
 お菊が播磨に抱かれている閨まで想像できるほどに艶かしい表情であった。
「殿様の心の奥の奥を知るにはどうしたら……」
 ……奥様が来るなど耐え難い……。
 お菊は、家宝の高麗皿を手入れしており、そんな自分の邪な心から、もしこの皿を割って播磨の心を知ることができたら……と考えてしまう。
 万が一に一枚でも割ったら手討ちと決められている皿を故意に割ってしまったら。
 ……殿様は私を許してくださるだろうか……。
 そしてお菊は皿を落としてしまった。

 帰宅した播磨は家来が騒ぎだしていることに何事かと問い質し、家宝の皿を割ってしまったことを聞かされる。
 お菊はどんな咎めも受ける覚悟だと平伏していた。
「定めて粗相であろうな……、以後は慎めよ」
 寛大な処置に、お菊はぱっと顔を輝かせる。
 ……殿様が…宝より私を大事にしてくださった……。

 二人きりになり、お菊は自分の行いを恥じると、播磨はそんなお菊が可愛らしく、その後、愛を確かめ合うように語らう。
「お菊よ。母を屋敷に呼んでやれ」
「はい?」
「婿として大事にしよう」
「まあ、なんと!」
 お菊は天にも昇るような気持ちになり、これ以上の幸せはないと思った。
「殿様!」
 そんな二人の雰囲気を打ち破るように家来がやってきた。
「なんだ。急ぎの用か?」
「家宝のお皿について申し上げたき儀が!」
「申してみよ」
 お菊が顔色を失う。
 そして、お菊は粗相でなく、わざと割ったと告げる。割っているところを他の腰元が見ていたと。
「わざと…な?」
「…………………………」
 言い逃れができなくなったお菊はそれを認めると播磨は動揺しながらも、事情を聞くこととした。
「なにゆえ…なにゆえじゃ」
 播磨が顔色を変えながらお菊を問いつめる。
「それほどのことをしたには何か理由があってのこと、包み隠さず申せ」
 お菊はぽろぽろと泣き崩れながら、本心を告げるしかないと思った。
「……奥様お輿入れのお話を伺いまして……その……疑いより…」
 そう言いながら畳に額をこすりつける。
「疑い…?」
 播磨が悲しそうな顔をする。
 小石川の親類にどれほど縁談を進められても首を縦に振らず、吉原に足を運んだこともなく、酒の席でもおなごからの杯を受けたことがないほどだった。
 それほどに菊一途だった自らの気持ちを疑われ、大事な家宝とどちらが大事かと心を試されたような行いに憤慨し、言いようもない悲しみに襲われ、お菊を押し倒す。
「おのれ……」
 播磨はお菊を成敗すると言い放つ。
 そこに他の家来が播磨を諭す為にやってくる。
「皿一枚のことで成敗するなど!」
 すると、播磨はお菊に箱の中の皿を出せと命ずる。
「は……はい……」
 震えながらお菊が皿を置くと、播磨は刀の鍔でそれを割る。
「……一枚」
 お菊が震え上がる。
「次を出せ」
 顔色を失いながらお菊が皿を置くと、すかさず播磨は鍔で叩く。
「……二枚」
 善三が両手で口を押さえている。
 木内はその様子を見て微笑む。
 播磨が怒りを殺した無表情で迫る。
「次!」
 善三は完全にその世界に入り込んでいた。まるで自分が皿を出している気分になる。
「三枚……」
 全ての皿を割ると、播磨は立ち上がり、きっと前を向く。
「青山播磨は皿の五枚十枚が惜しくて人の命を取るような無慈悲な男ではない。潔白な男の誠を疑った女の罪は重い」
 お菊が項垂れてもうだめだと観念したような様子になる。
「嘘偽りならぬ心を知りまして死んでも本望でございます」
 その言葉に播磨は更に激怒した。
「嘘偽りの恋であったならば、そちを殺したりはせぬ! 偽りならぬ恋を疑われ、重代の皿を割ってまで試されるなど到底許すことはできぬ」
 そうして家来が止めても播磨はお菊に刃を向けた。
 ばさりと斬られ、お菊はゆっくりと倒れ込み、絶命する。
 家来たちが証拠を消す為、お菊を井戸に沈めていると、他の家来がやってきて、町でまた揉め事が起こっているという。
 家宝を無くし、愛しい者を亡くし、これからどうやって生きていけばいいのかと、どうにもできぬ悲しみに暮れ、その喧嘩に身を投じるように屋敷を出て行った。
「播磨屋!」「播磨屋!」
 まさに青山播磨を表すような屋号をかけられ、中村吉右衛門は舞台から姿を消した。
 善三は瞳からぼろぼろと大粒の涙を零しながらその姿を追った。
 万雷の拍手となる。

 帝国ホテルでカレーライスが運ばれてきても、善三は心ここにあらずという感じだった。
 木内がふっと笑う。
「坊には少々刺激が強かったですか」
 すると、善三がカレーを一口入れて飲み込み、水のグラスを取る。
 そしてまたぽろりと涙を零した。
「まあ、確かに名演技だったが、そんなに泣くほどよかったかな…」
 はて…と考えるような仕草をする。
「……読むのと観るのは大違いでした……」
 お菊と播磨の心が突き刺さっているような気がしていた。
 善三の後ろに控える与助が困ったような顔をする。これではまるで木内が善三をいじめているように見えたからだ。木内が気にせんでいいと手をひらひらとさせる。
「坊は心が豊かなんですなあ」
「坊じゃありません。善三という名前がありますから」
「おお。左様でしたなあ。善三君。芝居を見たんは初めてですか?」
「はい。母から話は聞いていて、連れて行ってほしいと思っていました。まさかあんなにすごいものとは…」
 また場面を思い出してぽろりと涙を零す。
「確かにいい俳優たちでした。心に響く演技だった」
「どうして。どうして播磨はお菊を成敗しなければならなかったんですか!」
 まだ芝居から抜けられない善三だった。それに、それは創作の話なのでどうして…と言われても困ることだが、木内は嬉しそうに微笑んだ。
「男の誠というものは譲れぬということでしょうな」
「だって…だって……それは気持ちを知りたくてそうしたのに……」
「うーん、どうですかな。わざと皿を割ったのに、粗相をしたとお菊は主に嘘をついていたわけで、それだけでも許し難いことである上、ましてやその理由が心を試すようなことだったと知って許せないということでしょう。ふむ。播磨は正しいだろう……が…」
「でも殺さなくたって…!」
「播磨はおそらく必死にお菊を守ってきたんでしょう。親戚から寄せられる縁談を断わるごとに。お菊を妻にする準備を色々してきたところ、そんな気持ちを疑われたことに耐え切れなかった、きっとそういうことでしょう」
「……わかりません……」
「まだ善三君には難しいことのようで」
「だって、好きな人が死んでしまうなんて……」
 またぽろぽろと泣き出す始末だった。
「…とにかく、有難うございました。母の話を聞く限り、歌舞伎は綺麗で楽しいものだと。これほど生々しい舞台とは思っていませんでした」
「良い経験になったのならそれはそれでよかった」
 あくまでも善三を包み込もうとする木内に与助がほっとした顔をしていた。
「さて、もう帰りますか。それともぶらぶらと歩きますか。カフェーで珈琲飲みますか」
 善三が鼻をすすりながら首を振る。
「まだ帰りたくありません。銀ブラがしたいです」
 木内はくすくすと笑った。


 案外遅くなって帰宅すると昌和も秀一も帰宅しており、その帰りを待っていた。
 木内は応接間に通される。
 昌和がきっちりネクタイを締めている姿で表すと、木内は俄に緊張した。
「息子が世話になりました」
 善三を連れ出したことは、昌和にとって十分な脅迫だった。
「楽しい時を過ごしました。こちらこそありがとうございました」
「回りくどいことは嫌いなたちでね。君の条件を訊こう」
 昌和はあまり時間をかけたくないとばかり単刀直入に言った。
 あの刀を会津松平家に寄進できたことで、元会津藩主の孫娘で今上帝の弟宮の雍仁親王の妃の覚えめでたく、昌和はより立場が良くなったのだった。
「条件などありません」
「誰もが知っている。君が建設したあの飛行場を陸軍に引き取れというのだろう?」
「それは良いのです」
「私財を投げ打って建造したと聞いている。次の選挙での公認が欲しいのだろう?」
 木内は以前の自分ならそうだったと心の中で笑う。
「あれが必要なら使っていただければいいですし、そんなことではないんです」
 ふっと笑う。
「小生は中学校しか出ておりません。一応世間を知った気がいますが、学ぶべきものはもっとあったと思っておるんです」
「…?」
「先生のように大学や外国で勉強したお方には、無学がどれほど恐怖かわからんでしょう」
「……あ…ああ……?」
 昌和は曖昧な返事しかできない。
「だから、今から学問をやり直したいと思っておるんです」
「はあ…」
「あの刀での取引ということでしたなら、ご三男の善三殿を小生の教師に据えて戴けんでしょうか」
「なんですと?」
 耳を疑うような顔をした。
「善三殿が学校で教わってくる内容を聞かせていただいてもう一度勉強をしなおしたい。週に一度でいい、是非お願いしたいんです」
 ソファから降りてひたすら土下座をする。
「善三にそれができると思いますか」
「はい。実に聡明なご子息で、こんな年になりましたが学ぶべきことが多いと存じます」
 木内はそれを実現できるのならば何を失ってもいいと思った。
 昌和がふっと力を抜くようにする。
「貴方は不思議な人だ」
 しばらく天井を見上げる。
「君の活動は所詮金儲けの為と言われていて、我々はそれを信用していないところがある。選挙に勝ち、国政に来たところで、どうせ金を握らせて要職を得ようとするのだろうと目されている。それについてどう思う」
 木内が苦笑する。
「噂は妥当なところでしょう。小生のしてきたことは誠に無法者のすることでしたから。金を稼ぐにはどうしたらいいか、そればかりでした」
 昌和が木内をまっすぐ見据える。
「善三にどれほどのことができるかわかりませんが、貴殿の家に行くよう言いましょう」
「あ……ありがとうございます!」


 *********


 木内は自宅に帰る車の中で、今日一日のことを振り返っていた。
 菊治が横で明日の予定を話しているが耳に入らなかった。
 とにかく楽しかった。
 それに浸っていた。
 真野公爵に陸軍大臣を紹介してもらう約束の詰めをする予定だったが、そんなことはどうでもよいと思っていた。それより善三との時間を作りたかった。
 これほど冷静さを欠いた自分は若い時以来のことだとそれまでの自分の行いを振り返る。
 金貸しをやるようになってからは、人の一番見たくない部分を見てきたため、どこか純粋な自分とは決別してきたところがあった。
 目的の為ならば手段を選ばず、どれほど罵られてもひたすら己の欲のままに突き進んできた。それでいいとしてきた。
 欲こそが生きる力となる。
 欲しいものがあれば欲しいと言っていい。その瞬間から行動に転ずるのだから。
 忍耐などを美徳としていたら容赦のない弱肉強食の闘いの中、生き残れる道はない。
 日本だけで生きていけた時代は遠く過ぎた過去のことで、誰もが戦いを強いられている。
 これが現実である。
 そして、貧しさから目を背けず、豊かな社会を目指していかなければならない。その為に戦う必要があるなら、戦うべきなのだ。
「皆は貧しいなあ…」
 生まれ育った村では、百姓の娘は女郎屋に売られるくらいの価値しかなかった。
 口減らしが当たり前のように行われ小学校にも満足に通わせてもらえず……。
 善三の顔と、幼馴染の顔が重なる。
「先生?」
 赤坂から新橋の自宅に向かう道筋で貧しさなど見ることはない。
「いや、独り言だ……」
 幼馴染のしずの顔が浮かんでくる。
 ――宗ちゃん。これ、ありがとうね。あたし、もう勉強できないから、これ返すね。
 ――これはしずにあげたもんだ。奉公先でも続ければいい。勉強が好きだろう?
 ――でも…無理だと思うから。それに持っていたらやっぱり帰りたくなっちゃうし。宗ちゃんに会いたくなっちゃうし。
 あの子は別嬪になるよと大人たちが下卑た笑いを浮かべて噂するほど可愛い顔にひとすじの涙が零れる。
 ――もう一度うちで働けるよう父さんに頼んでみる!
 造り酒屋に女はいらね、と断られていたのだった。
 ――宗ちゃん、もう父ちゃんはお金をもらったんだよ。明日迎えが来る。いいんだよ。みんなそうしてるんだから。
 ――じゃ、迎えに行く! わしが必ず迎えに行くから!
 ――ありがとうね。宗ちゃん。うん。待ってる。あたし、待ってるよ。
 ――待ってろ! 約束だ!
 嬉しそうに笑った顔を忘れることはできなかった。
 学校を出て親父の後を継ごうとすぐ働き始め、必死に金を貯め、親から金を借り、しずを迎えにいった時には、しずは梅毒にかかり、余命幾ばくもなかった。
 ………間に合わなかった。
 しずを看取った時のことを思い出し、目頭が熱くなる。
 女が苦手なのは、それが原因だとわかっていた。
 ……だが。
 そんなことはよくある話である。
 どこの村でもあったよくある話なのである。つまりはそれほどに罷り通ることということで、そんなところにしか生きる場所がないなど不幸以外の何ものでもないのだった。
 ふぅと息を吐く。
 欲の源泉は、誰かを守りたいという思いなのかもしれない。
 自分のことだけでは楽な方に流れる。
 何が為に生き、何が為に死に行く、その答えを得んとせんこそが欲の正体ではないかと思う。
 ……いや。
 欲ではなく、これは業というものか…。
「日本は強くならなければならんのだ」
 菊治が小さく溜息を吐く。
「おっしゃる通りですね」

 数日後、善三は決められた日の決められた時間にきっちりやってきた。
 頬を染めながら、教科書を持ち、緊張している。
「私に先生の家庭教師が務まるとは到底思えません」
 そんな様子にくすりと笑ってしまった。
「本格的な勉強はいいんです。ただ学校でどんなことがあったのかを聞かせてほしいだけで」
 善三が肩の力を抜く。
「あー。よかったあ…それくらいならできそうです」
 満面の笑みを浮かべてそう言った。
「今日ならば、報告のしがいがあります。試験の結果が出ましたので」
「ほお…」
 その紙を広げて渡す。順位は一番と書いてあった。
「これはすごい」
「今回は勝てました。いつもは友人に負けていますが」
「優秀だ」
 真剣な顔をしてそう言うと善三が照れる。
「勉強は好きかな」
「はい! とても!」
 それがしずの顔と重なる。
「……………し……」
 暫し茫然とする。
「……………」
 目を瞑る。
 …………ああ、ああ………。
「知らないことがたくさんあって、覚えるのがとても楽しいんです。特に数学が好きで、その次は化学です。ああ、でも物理も好きです」
 …………そういうことだったか…。
 言葉が出てこなかった。
「…先生?」
 こんどこそ…。
「……それはいい。よく学んでくだされ」
「はい!」
 ――今度こそ、その笑い顔を守ってみせる…。

第二話 恋心

 


 単なる学校での報告を毎週するだけが家庭教師の仕事となり、給金まで出すと言われ、食事を用意されて帰りは車まで見送られる。
 大した報告ができるわけでもなく、教室であったこと、友人のこと、読んだ本のこと、そんな取り留めのない話を熱心に聞いてくれるのだった。
 木内といると、不思議な安心感が広がり、帰りたくなく、父や兄に感じるものとは違う何とも形容し難い、心から安堵できるものを善三は感じていた。
 毎週の木内邸訪問が楽しみであり、帰宅した後は次の訪問までの一週間を長く感じ、前の日はうきうきとする。訪問日など、朝から興奮して早く起きてしまう。
 どうしてこのような生活になったのだろうと不思議に思っていた。
 いつのまにか憧れていた人は身近な人になり、今はその週に一度の訪問が自分を支えているような気がしていた。
「善三、少しいいか」
 秀一が扉を叩いた。
 はっとする。
「はい、どうぞ」
 毎日仕事で多忙な兄を久しぶりに見たと思った。
「おかえりなさい」
「久しぶりだな」
「本当に。兄様は大丈夫? 無理しているんじゃない?」
 顔色が悪かったのだ。
「善三。戦争が始まる。明日の新聞に載るだろう」
「え…」
「またすぐ役所に詰める。着替えに来ただけだ」
「そ…そうですか…」
「木内氏は何か言っていたか」
「え?」
「なんだ。父上に事前に報告できるようなことは掴めなかったのか」
 善三は、そこでようやく毎週自分が訪問していた意味を知った。
 ……そんな……。
「衆議院議員、陸軍だけでなく海軍上層部まで木内氏の金を握っている。大方、支那を刺激して相場の金を釣り上げる操作をしていたんだろう。まったく悪どい」
「あの…」
「うまく探りは入れられなかったのか。 父上からは何を聞くように言われていた?」
「………あの……それが…」
 居たたまれなくなる。
 秀一がふっと笑う。
「いいか。少しでも情報を掴めるよううまく会話しろ」
 冷水をかけられた気がした。
 父に何も言われていなかった。
 まさかそんな期待をされているなど夢にも思わなかったのだ。
 父たちと木内の駆け引きの道具であるなど気がつかずに、
 ………浮かれていた。
 恥ずかしいほどに。
「あの…気をつけて」
「ああ、行ってくる」

 翌日の新聞は、それ一色だった。
「夜間演習中の我兵に支那軍突如発砲。自衛上已むなく応戦」
「北平郊外で日支交戦」
「支那側の出方次第」
 これが支那事変、日中戦争のきっかけとなる。
 常に一触即発の状態が続いていており、喧嘩をふっかけられ、先に手を出してきたお前が悪いと言わんばかりの内容に支那側が黙っているはずがないのだった。
 喧嘩両成敗などにはならず、相手が参ったというまでやるのが戦争である。
 日本としては、そこに突き進む以外の道は絶たれていた。
 議会は軍色濃くなり、軍の政治介入を阻止しようとすれば解散に追い込まれる事態になり、また国民もそれを後押しするような風潮があり、現職議員を公然と批判した。
 秀一たちが取り組んできたことは、水泡に帰することとなり、各国は冷たい反応をするようになった。
「何が……五族協和だ……!」
 秀一が拳で強く机を叩くと、部下の職員らは震え上がった。
 いずれ爵位を継ぎ、貴族議員として活躍する外務省での最高地位も時間の問題である秀一は、職場では厳しい上司であった。
 誰も言葉を発せず、扇風機の音が響いていた。
 昭和十二年(1937年)の夏のことであった。


 *******


 善三が重い足取りで木内の家に向かう。
 木内はいつも通り大歓迎した。
「まもなく夏の休暇ですな。避暑はどこに行かれる予定で?」
 前ならば、友人たちと軽井沢へと喜んで答えただろうと善三は悲しくなった。
「いえ。予定はなく。先生はどちらに行かれますか?」
「いや、わしに避暑に行くなどの贅沢は許されんでしょう」
「ご多忙ですね」
「ああ。貧乏暇なしというやつだ」
 皮肉に聞こえた。
「先生が貧乏ならば世界中の人が貧していることになります」
 木内がその善三の口調に訝し気な顔をした。
「お父上に何か言われましたか」
 首をぶんぶんと横に振る。
「わしの噂でも聞きましたかな」
「……………………………」
 木内がふっと笑う。
「稀代のぺてん師とかはよく言われますがね」
「先生…」
 善三は顔を強張らせる。
「……それは私の知る先生とは別人のようです」
「実家は、代々造り酒屋で、家はそう貧しくもありませんでしたが、早々に後を継いだのちは、売り飛ばして金にしました」
「…………」
「その金を相場で増やして、金貸しをして、先物で更に儲けました」
「先生は、とても理想高く…」
「秘密も金になる」
「皆に勇気を与えて……」
「綺麗事だけでは通りません。汚いことにも手を染めてきたんです」
「でも!」
「金というものは動かせば動かすほど虚しくなるもんで、それに振り回されている人間の醜さを見なければならん」
 木内が疲れたような顔をする。
「大層なことは言えんもんです。善三君は、英雄のような話をすることを期待しているだろうが、それはできん。…わしは単なる弱い人間だからな」
「でも先生を尊敬している大勢の人がいます!」
「その人数と同じくらい軽蔑している者がおろう」
「先生は希望です」
「ふふふ。今日は他では悪魔だと言われたが」
「……父に……」
 善三が唇を噛む。
「父に伝えたいことは何ですか」
 木内は悲しそうな顔をした。
 そして寂しそうな顔をした。
 善三は、その質問に対して特別な反応がないということで、やはり父と木内の間で何がしかの取り交わしがあったのだと悟った。
「そうですな」
 木内は残念そうな表情を浮かべながら溜息を吐く。
「フィリピン……そう伝えてくだされ」
「フィリピン? ですか……?」
 顔色を失いながら木内が頷く。
 善三は、それを伝えることがどれくらい大事なことかわからなかったが、伝えたら窮地に立たされるのではないかと察した。
「それをお父上に伝えたらもうここには来んでいい」
「え……」
「わしもしばらく外国に行くんで…どちらにしても都合がつかないんです」
「あの、お待ちします」
「楽しく話を聞かせてもらいました。半年も通ってもらえて」
「いやです!」
「わしにはもう関わらん方がいい」
「私は私が来たくて…!」
 会いたくて来ていた。
「私が来ることで、先生にご迷惑をかけるのですか? ならば私は父には何も言いません」
「そんな顔をせんでくだされ」
 木内が善三の頬を両手で包む。
「たくさん学んで、そしてその豊かな心を大事にしてくだされ」
 木内が切ない表情をして、善三を抱き寄せる。
「ありがとう。お元気で」
 善三の瞳からひとすじの涙が流れた。


 **********


「先生。お支度が整いました」
 うむ、と言いながら車に乗る。
 自家用車は国に供出してしまった。持っていても燃料が買えない為、意味がないのだった。迎えに来た軍用車で軍に献納した自分の飛行場に向かう。
 ――――イタリアに渡る。
 クーデターを起こして政権を奪取し、強国を目指すというその統領との会見が叶い、日本の意向を示すという裏外交をしに行くのだ。
 戦闘機を改造した自前の旅客機で旅費も全て自腹である。
 外務省は見て見ぬふりをする。
 昨晩の真野秀一の悔しそうな顔を思い出すと笑いが込み上がってくる。
 自分を毛嫌いする者のそういう顔を見るのは愉快だった。
 これで外濠が埋まる。
 ドイツとはすでに同盟関係にある。日独伊の三国は独裁体制を整え、鉄壁を作る。
 イタリアでの会見帰国後に、現在の陸軍大臣を筆頭とした野党勢力全てを排除した一党独裁体制を作り上げる根回しを始める。
 日本は一丸となり、火の玉になる。近づけば火傷を負うのだ。
 それを実現させるために更に金が必要となる。
「ふ……」
 皆は自分を札束だと思っている。打ち出の小槌のように思っているのだ。
 だが、金のなる木などはどこにもない。
 金貸しや興業で得る金を投資に回すが、国内産業は軍需産業に変わり始めて融通が利かず、衣料、薬剤、食糧を押さえればすぐ見つかり逆に安く叩かれる。
 もはや注ぎ込むべき動かす先がなく、軍に搾り取られて行くだけだった。
「投資先ならあるじゃないか」
 地図を指しながら陸軍幹部のひとりがそう言った。

 ――――支那のどさくさに紛れて金銀を奪い、それを秘密裡に運べ。

「取り立てには慣れているだろう。餅は餅屋だ。ははははは」
 それが、次の選挙での推薦の条件だった。
 それは投資先ではなく、強盗先ですな……という言葉を必死に呑み込んだ。
「フィリピンを狙うために何が何でもドイツとイタリアを味方につけ、アメリカとの対戦に備える必要がある。その下準備をしろ。フィリピンは、インドネシアから石油を運ぶ関所なのだ。あれが欲しい、どうしてもあれが欲しい。その為に動け」
 その要求に否などと言うことは許されなかった。
 呑むほかなかったのだ。
 弟子たちを路頭に迷わせたくなく、国政に送るという約束を違えたくなかった。
 そして、身包み剥がされて放り出されるなど我慢ならないのだった。
 しかし、行っていることは借金の取り立てと同列に扱うことなどできぬ残虐なものである。
 ふぅと息を吐く。
 振り返れば、全ては、人々を貧しさから抜け出させようとその為にしてきたことであった。少なくとも自分の中には大義名分があった。
 なのに、殺戮を伴う略奪の片棒を担ぐようになり、議員の懐に入ろうと弱みを握りながら脅していた自分が、いかに小さいものだったかと思い知らされた。
「………つくづく甘かったな」
 借金をしたわけでもない者が財産を奪われ、いったいその先、どうやって生きていけばいいのか。
 主を殺された家族はどう生きる。
 貧しさに打ちひしがれる日本人とは比較にならないほどの恨みの連鎖はどうなる…。
 果たしてこれは許されることなのか?
 大義など追いつかぬほどの絶望感に襲われる。
 そんなことを考えていないかのように心を消し、まるで家畜小屋でも襲い蹴散らすよう、弟子たちに命じた。弟子たちは、嘔吐しながら殺した住人が必死に隠した金を収集し、夜毎悪夢に魘されながら、やり続けている。
 人は人を殺せば、自分の心を殺してしまう。
 呪いの言葉とともに吹き上がった血を浴びた皆とは一蓮托生、何が何でも守らなければならない。日の目を見るようにしなければ。

「迷っているのか。君らしくもない」
 見送りに来てくれた海軍次官の山本にそう声をかけられる。
 懇意にしてくれている尊敬すべき人である。
「ここまできてアメリカとの戦争はもはや時間の問題だ。ならばせめて事態を悪くしない方向で最善を尽くすほかあるまい、と話しあったじゃないか」
 共にアメリカとの戦争には勝ち目がないと何度も算盤を弾いて嘆いてくれた軍人の中の数少ない仲間である。
 アメリカに負けぬよう意識を持つのと実際アメリカと戦争をするのは全く別の話である。
 無謀な戦いは避けるべきで、今まで先物で稼いで来た身からすれば、これほど投資として賭けてはならぬものはなく、敵はそれではないと確信する。
 そして、履き違えたまま突っ走っている。
 石油を握るアメリカとはうまくつきあうことが大事で戦ってはいけないのだ。
「おっしゃる通りです」
 財産の大半を注ぎ込み、身動きが取れない事態に陥っており、そして、その逃げられぬ茨の道に進んだのは他ならぬ自分であった。
 真野公爵にそれを伝えたところで何も変わらないとわかっていながらも、善三に真っ直ぐ見られて、弱音を吐いてしまった。
 ………止められるものなら止めて欲しい。
 山本が、自分の後ろの菊治を見つめている。
 小さく笑う。
「出発は明日の早朝です」
 まだ夕方である。山本が顔を赤くした。
「菊治、山本様をお部屋にご案内して差し上げなさい」
 菊治も顔を赤くする。
 …これは…と、ほくそ笑み、二人の後を歩く。

 レンガ作りの建物は、飛行機の爆音を遮るようにつくったが、それでも隣の部屋から壁越しに菊治の嬌声が聴こえてきた。
 自分の時は声を殺していたのにとくすりと笑う。
 このまま菊治を山本様にあげてしまおうか…と考えた。
 そして、善三を秘書に置くのはどうか。イタリアから帰れば周囲の見方も一変するとわかっている。
「は…自分で来るなと断ったくせに…女々しいことじゃな」
 毎週会っていた善三と会わなくなってひと月以上経っていた。
 しかし、思わない日は一日とてなかった。
 菊治の声が絶え間無く響き、他の者らは堪らないだろうと思った。
 …皆に女を買いに行かせるべきだったか。
 自分も善三をあんな風に泣かせてみたいと思った。
 あの小さな唇。
 細い首。
 赤く染まる耳……。
 善三の顔を思い浮かべて浸っていると扉を叩く音がした。
「先生」
 書生のひとりだった。
「なんだ」
「今晩は私がお世話するよう言われました」
「は…菊治の奴、余計な気を回しやがって」
 書生は恥ずかしそうに俯いている。
「わしはひとりで平気だ。それより飲み屋の女将に言って、女を呼んでやってやれ。ただし、明日、寝坊したものは破門だ」
「は、はい!」
 ばたばたと駆けて行く。
 女か……。
 それも大量に必要となる。
 そして、自分の仕事になるだろうと思った。
 汚れ役に徹すればとことん汚れていく。
 だが、どれほど禍々しく汚辱にまみれようとも魂だけは清いままでいたい。
 そう思った。

 
 *********


 ………いちいち大袈裟な奴だな……。
 イタリアの独裁者を見たとき、木内はそう思った。
 身振り手振りが歌舞伎役者のように大きく、つい目を留めてしまう。
 ローマの大学で日本語教師をしている通訳の人を介して会話をするが、言葉よりも饒舌に訴えてくるのが、その大振りな仕草だった。
 そして、それに惹き込まれて行く。
 ………なるほど、独裁者というものは、役者並みでなければだめなのだな…。
 ローマ中の人々が一目その姿を見ようと建物の外では列を成しているのであった。
 神か仏のようである……。
 祀り上げられただけの者かと思っていたが、実際会ってみると圧倒的な存在感に驚き、ビリビリと感じるその何かに平伏しそうだった。
「ソーイチが日本の統領になるのですか」
 軽快なイタリア語で言われ、どきりとした。
「いえ、私は単なる小間使いですよ」
 すると、けらけらと笑われる。
「小間使いがわざわざ海を渡って私に会いに来るはずがないでしょう」
「ええ。しかし、誰を統領にするべきか、それを指名するだけの力は持っていると思います」
 精一杯の虚勢である。
「ふうん」
 じろりと見られる。
「日本には、エンペラーがいるね。日本だけの王なのに、なぜ皇帝を名乗れるのかな」
 いきなりの難問だった。それを外国人に説明するのは難しい。答えによっては相手の機嫌を損ねてしまうのだ。
「アジア諸国を束ねる皇帝という意味かな」
 にやりと笑われる。試すような質問をするのはいかにも小心だと思った。
「天からその役割を授かった天皇、エンペラーと訳されるのは仕方ないことなのですが、日本語では皇帝とはいう呼称ではないのです」
「詭弁だろう?」
「いいえ。それはすでに千五百年前から決めたことですから。子孫である我々はそれを信じるほかありません」
 すると独裁者は鼻を鳴らした。
「エンペラーは、ローマにこそ相応しい」
「………………………」
 通訳者も顔を強張らせる。
 欧州の覇者は皆古代ローマ帝国に憧れる。ローマ皇帝を名乗りたがる。
 だから古代から今に継承され続け、現存するエンペラーの存在など許せないのだ。
 …………まったく子供じみている。
 心の中でそう呟いた。
「まだエンペラーではなかったのですか? 私はそのつもりで話していました」
 すると顔を輝かせた。
「そう…私はその継承者である。だから、遺跡を発掘し、元のローマがどれほどの大都市だったのか、皆に知らせたい」
「素晴らしい。是非、その発掘に寄付をしたい」
 木内は回りくどいことは言わずに直球を投げた。金を握らせることができればこっちのものである。常套手段だった。
「グラッチェ!」
 同盟を組むために軍から用意されていた手持ちの金額を提示すると、快く返事をした。 
「では、正式に外務省の者らが書類をお届けにあがるでしょう」
 ドイツは、ソ連を押さえたく、その為には、日本にソ連を攻撃させ、兵力を分断させたい。イタリアは、イギリスとアメリカを押さえたい。その為の利害は一致していたのだった。再びの世界大戦の火蓋が切って落とされようとしていた。
「君がエンペラーになるという道筋はないのか」
 外国人には中国の歴史はわかりやすいが、日本の歴史はわかりづらい。
「エンペラーが不要なのです。帝がおわしますので」
「ミカド…。その呼び方がいいじゃないか」
「ええ。帝をお護りするために、日本人はひとつにまとまるという特性を持っているのです」
 蘇我入鹿、平清盛、織田信長…いずれも中国のような皇帝を目指して破れていった。 
「それは見事な独裁だ」
 ……それは違う…。そう言いたいが、理解などされるはずがなかった。
「それを独裁と呼ぶのならば、きっと日本は無敵でしょう」
「頼もしい。是非アメリカを打ち破ってほしいものだ」
 その言葉を聞いて、やはりアメリカがアジアに介入してくると諸外国は見ているのだと思った。国力をあげたアメリカはどの国にとっても脅威となっていた。
 
 コロッセオ周辺の野原で遺跡の柱が地下から天に向かい伸びている様子は、その昔の栄華がここにあると主張しているかのようだった。
 ローマは遺跡の倉庫のようである。日本よりも長い歴史を持ち、また世界を束ねる大国が存在した。だが、それは全て過去のものとなっており、だから施政者は余計に夢を見る。
 車で市内を案内されながら、歴史に裏付けられた欧州の底力を見せられている気がした。
 明治の政治家が西洋化を目指した理由も納得する。
 建築物、町づくり、技術力、芸術、服装、食べ物、それらに憧れていったのだ。
 だが、日本の文化のほうがずっと奥ゆかしく誇れるものだ、おそらくそう思ったはずである。西洋文化を受け入れようとも日本の美が損なわれることはない。それを確信したのだろうとその矜持をひしひしと感じながら帰国の途についた。


 **********


 飛行場では大勢の人々が待っていた。陸海軍省の役職者、特に山本が一番に待っていてくれた。すでに会見の内容は大使館から暗号打電されているはずで、その内容は満足されるものだったのだろうと歓迎されている様子でわかった。
 これで、すっかり現金は底をついた…とは誰にもこぼせず、また弟子達に厳しい回収を命じなくてはならない。
 裕福に見える貧乏人だ…と苦笑いしながら、出迎えてくれた人たちと握手を交わした。

 陸軍大将が催してくれた晩餐会で、さんざん持ち上げられながら気疲れしていると、真野公爵が挨拶に来てくれた。
「英雄凱旋に大変な賑わいですね。同盟成功の立役者と皆喜んでいます」
 昌和にそう言われて、恐縮する。
「英雄などという言葉は重すぎます。小生は自分ができることをしただけです」
 秀一も友好的な態度を取った。
「今日は、外務省の者としてではなく、父の補佐で参りました」
 どちらにしても同じことであるのに、何か違うのかと突っ込みたくなったが、それより昌和の後ろに隠れている善三の姿を見たかった。
 涙ぐんでいて顔を見せられなかったようである。
 息苦しくなる。
「善三くん。お久しぶりですね。お元気でしたか」
 ぽろりと涙を零されてしまい、冷静を装っていたのに心が騒いでいく。
「なんだかすみませんね。この子がどうしても行きたいというので連れてきました」
「ありがとうございます。無事着くことができました」
 善三がおずおずと顔をあげる。
「…お帰りなさい…」
 それだけ言うのがやっとのようだった。
「今日はここまで来てくれて嬉しいですよ。お会いできてうれしいです」
 すると善三が真っ赤な顔をした。
 その時、他から呼ばれて、真野一家の場所から移動してほっとしている自分に苦笑する。

「英雄の貴君にお願いしたいことがある」
 山本がそう言った。
 こほん……と咳払いをしてなかなかその続きを言わない。
 にやりと笑う。どうせ菊治のことだろうと思った。
「貴君にどうしても会いたいという人がいるのだ。内緒で連れてきている」
「え?」
 こっそりと別室に連れていかれた。
 関東軍の軍人が部屋の外を警護し、その部屋の中に招かれる。
 部屋の中にいたのは、清国の皇族の姫だった。
「このお方が貴君に会いたいとおっしゃっていてね」
「ああ。これはお久しぶりです。満州では何度か…ご機嫌うるわしゅう、姫様」
 するとにやりと関東軍の軍人たちは部屋を引き揚げていく。山本もわざとらしく咳払いをして、部屋から出て行こうとする
「ちょ……ちょっとどういうことですか」
 山本は、ま、そういうことだ、と言いながら扉を閉じた。
 部屋に突然二人きりにされて、対応に困りながらも姫を見る。
 軍服を身にまとい、おおよそ姫君らしからぬ出で立ちである。
「日本にもよく来るのだ」
「左様でございましたか」
「私がお前に会いたいと言った」
「恐れ多いことにございます」
「それを変に誤解されたようだ。だが、その誤解のままにいたい。それでいいか」
「…………………」
「迷惑か?」
「そのようなことは……ただ…私は役に立つことができず」
「お前が男色であることはわかっている」
「え?」
「妻がいるかどうかではない。女を見る目が違うからわかるのだ。他の男とは違う目だ。まるで眼中にないような」
「恐れ入りましてございます」
「だから安心できる。間違って孕むこともない。だから愛人役として適任だ」
「それは……」
「困る相手がいるのか? 樺沢男爵の子供を囲っているそうだな」
「……囲っているわけでなく、秘書として働かせているんです」
「山本が欲しいらしいぞ」
「……………………」
 色々と手が回されているのだと思った。断わることはできない。それにこれ以上ない取引だった。満州の商売がやりやすくなる。その魅力には勝てない。
「愛人の役くらいにはなれると思います」
「ああ、そうしてくれ。今晩は飲み明かそう。では、私はこのホテルにそのまま宿泊する」
「お伴いたします」
 するとにっこりと優雅に微笑まれる。
 姫のエスコートをするように手を取って部屋から出て行くと、会場からはどよめきがあがった。


 *********

 
 善三は、木内の横に寄り添うように立つ女性から目が離せなかった。
「父上。あのお方はどなたですか」
「愛新覚羅の王女、けんし様だ」
「え……」
 秀一がくすりと笑う。
「男妾までやるのか」
 そう小声で言うと、それを昌和が聞きつける。
「秀一、控えなさい」
 その二人の会話など耳に入らないように善三はその女性に目が釘付けになる。
「王女様……」
 並んだ二人はとてもお似合いに見えた。
 まるでそこだけ光を当てたように輝いて見え、特別なものが二人を包んでいるように思え、善三はにこやかに微笑む王女をじっと見る。
 さり気なく木内を見る目が愛しい者を見る眼差しであることに気づき、鼓動が早くなる。
 ………これは何だろう……。
 きりきりと締め上げられていくような感じがする。
 それと同時にどす黒いものが自分を包んでいくような気がした。
 ………先生から離れてほしい、先生の横にいないでほしい……。
 息が苦しくなる。
 すると、木内が善三の方を見た。
 善三は、かあっと身体が熱くなった気がした。
 心を読まれたかのような気がしたからだ。そして、とてもひどく傷ついたと思った。 
 誇りを傷つけられたような、罵声を浴びたような、屈辱感に打ちのめされたような。
 木内が見たのは一瞬だったが、とてつもなく長い時間のように思えた。
「ち…」
 声が裏返っていると思った。唾を飲み込む。
「父上。恐れ入ります。私はそろそろ」
「ん? そうか? そうだな」
「はい。ご挨拶も済みましたし」
 秀一が善三の背中に手を置く。
「では、私が送ってまいります」
「ああ。私はまだこの場から離れるわけにいかんからな」
「はい。では失礼いたします」

 与助らを引き連れて軍の車に乗り込むと、秀一は露骨に不機嫌な様子になった。
「たかだか新興団体の代表にしか過ぎん奴に何という媚の売りようだ」
 木内は肩書き以上の役割を担っているが、秀一はそれを認めようとしない。
 善三はそれに答えなかった。
 秀一が話す木内は、自分の知っている木内と大きな違いがある気がするからだ。
 それに気になることは別のところにある。
「王女様は綺麗なお方でしたね」
「ふ。軍服などを着てまるで軍人だ。女はもっと女らしい恰好をするべきだ」
 ……最近、兄様と話すと疲れる…。
 善三はそう思いつつ心の中で溜息を吐いた。
「あれはあれで麗しいと思いました。満州の民族衣装の御姿も拝見したいところですが」
「ふうん。善三は王女とお近づきになりたいのか?」
「え……」
 その時、頭をよぎったのは、王女に近づけば、木内との仲を邪魔できるのではないか、そんな浅ましい考えだった。
「そんな、恐れ多い」
「恐れ多いものか。日本の庇護がなければいられない皇族だ。父上の取りなしでいくらでも可能だ」
「…あの…木内先生は…どうして横にいらしたのでしょう」
 聞きたくないことが口から出ていた。
 秀一が不敵に笑う。
「お前にはまだ早いだろう」
「早い?」
「それを知るのは嫁をもらってからでも充分だ。ああ、お前は父上に養子に出ると言ったらしいな。父上にどこにするのがいいかと意見を聞かれたぞ。母上には内緒で」
「え?」
「ああ。お前の縁談だ。近いうち見合いがある。島津様分家を薦めておいた」
「見合い…? 島津様?」
「萩王様というお話しが有力のようだったが、善三は宮家より武家のほうがいいだろう?」
 縁談が……進んでいる…。
「まだ…結婚は…成人にもなっていませんし」
「十五ならば、立派に元服の年だ。結婚は先でも養子の話は進めることができる」
「そのお話し、お断りしたいと思います」
「なんだ、島津様は気に入らんのか?」
「いえ。そうではなく……」
「理由もないのに、お前のわがままが通るわけがなかろう」
 ……兄様ともうこれ以上話をしたくない…。
 善三は、苛立つ心を抑えられなかった。
「父上には自分で言いますので、結構です」
 そうこうしていると、赤坂の自宅に到着して、善三は逃げるように車から出た。


 ********


 その数日後、昌和は善三を呼び出した。
 善三は、まさか縁談の話ではないかと緊張した。
「木内氏が、お前に仕事を手伝ってほしいと陸軍大臣を介して申し出てきた」
「えっ!」
 思わぬ話で胸が高鳴る。
「私は断ろうとした」
「ええっ?」
 そんな勝手に…と文句を言いそうになる。
「島津様とご縁組の話が出ているのだ」
「……婿に行くことが決まったのですか…?」
「島津様ならばこちらからお願いしたいところだ。お前はどうだ。九州もいい。絹姫にはまだ言えんが。何も決まらぬうちから一緒に付いていくと騒ぎだしかねないからな」
 ………九州……。
「宗家はほとんど東京住まいだが、分家筋は国許にいるそうだ。気楽であろう?」
「………………」
「桜島が望める風光明媚なところだ」
「木内様にその話は?」
「ああ。もちろんした。それがゆえに断ると言ったのだ」
「な…なんとおっしゃっていたのですか?」
 すると昌和が顎髭に触れながら、ふむ…と言う。
「私は彼を不思議な御仁だと思っている」
 その時のことを思い浮かべるようにくすりと笑った。

 ――その儀、確かに大事な御縁と存じ上げます。しかし…。
 ――しかし?
 ――そうやって何もかも親が子の行く道を決めてしまっていいものでしょうか。
 ――親が子の道を示してやるのはごく当然のことと存ずるが?
 ――私のところに集まっている弟子たちは、みんな親から言われたのではなく自らが決めてきました。
 ――樺沢殿の子息もか?
 ――親の借財を返済するため自らやってきました。見上げた根性だと思いました。
 ――善三に選択させろと?
 ――樺沢菊治は山本五十六様の秘書とすることにしました。だから、善三殿にお手伝いをお願いしたく存じます。もちろん、学業を優先していただき、細かなことは他の弟子たちが行います。その者たちに采配を振るようになってほしいと思います。人の上に立つことを学んでいく、それは善三殿にとってよき経験になるのではないでしょうか。

「そう申されてな…私は正直恥ずかしかった。先ほど言ったように、分家で東京より離れていれば気楽に過ごせるとお前の行く道の小石を拾ってやることばかり考えていた」
 善三も恥ずかしかった。
 先生に会いたくて、ただそれだけだったのだった。
「私は木内先生のところで修行したく存じます」
「うむ。お前ならそう言うであろうと思っていた。ただ…な…」
「はい…」
「木内氏と樺沢君は、単なる仕事だけの関係でなかった」
 善三は、一瞬言葉が頭を素通りしたと思った。
「はい?」
「………お前に何と言えばいいのか…若道と言えばわかるか?」
「え…………」
 その先を訊きたくないと思った。顔が引き攣っていく。
 その善三の表情を見て、意味がわかったのだろうと昌和は言葉を切った。
「……まあ、だからな、…つまり、お前をそういうことに引き摺りこまないと約束するなら、この話をお前にすると言ったら、木内氏はそれを誓ってくれた」
 知りたくないことだった。
「それでいいな」
 善三はこくりと首を縦にふった。


 **********


 木内は、酒を浴びるほど飲んでも酔えず、ただただ部屋の中をうろうろとしていた。
 再び善三がこの家に来ると思うと落ち着いていられないのだった。
 華族の一員であるならば、当然同じ華族のところに婿に行くことを選ぶはずだったが、それを断って自分の元に来てくれるという公爵からの手紙を受け取った時、周りの景色が白くなったほどだった。
 ………どうしてこれを喜ばずにいられようか。
 とにかく狂喜乱舞し、居てもたってもいられず、心とともに身体も暴走していくようだった。身体が火照り、押さえられなくなっていく。
「ああ……」
 早く明日の夕方にならぬものか…。
 湯浴みをして裸体に寝間着だけとなり、横になり、ますます熱くなるものを宥めるように握り締める。
 善三と共に歌舞伎を観に行った時から菊治や他の弟子と同衾していなかった。
 精は強く、夜にどれほど出し尽くしても、朝にはまた出さなくてはいられない。
「……まったく厄介だな……」
 すでに自分の妄想の中では善三を抱いている。
 あの細い身体を…。
 しかし、決してそのようなことはしまいと心に誓っていた。
 公爵との約束は己を自制する防波堤である。
 そのようなことをして傷つけたりしない、大事にする、そう自分に言い聞かせる。
 吐き出すものを吐きだしたら身体がだるくなり、ようやく眠りが来ると思った。


 そうして、次の日の夕方、学校の帰りに善三はやってきた。
 きっといつものように真っ赤な顔をして恥ずかしそうにしているのだと思って、自分の部屋に来るのを心待ちにしていた。
 善三が週に一度通ってきていた時のように挨拶に来る。
「先生。善三でございます」
「あ…ああ」
 声が掠れる。
「どうぞお入りなさい」
 障子をゆっくりと開けて、正座をして背筋を伸ばし、頭を下げている。
 見事な所作である。
 血筋に裏付けられた躾の賜物であろうという気品に溢れるその姿勢は、生まれた時から厳しくそう育てられなければ身につくものではない。
 菊治もそうであったが、華族という家に生まれたかぎりには、育まれた文化を継承していく宿命にあるのだろうと思った。ならば自分はその庇護をする者でありたいと願う。
「今日からお世話になります。どうぞよろしくお願い申し上げます」
 そう言う善三の顔はいつものように赤面していなく、はにかんだ様子もなく、表情を消していた。その様子になぜか不安になった。
「一日も早くお役にたてるよう努力いたします。どうぞ宜しくお願いいたします」
 型通りの挨拶なのだと思った。
「そんな気遣いは無用ですよ。もっと気楽に…」
「私は秘書見習いでございますので、お言葉づかいは、他の弟子の方と同様に願います」
 善三は冷たい表情を浮かべていた。
 落ち着かなくなる。
「どうしました。善三くん。わしは前のようにしたいが…」
 ………笑顔が見たい。
 あの照れたような可愛らしい顔が見たい。
「善三…とお呼びください。確か樺沢様のことはそのようにお呼びだったかと」
 その言い方はどことなく線を引いているような、まるで壁が見えるようだった。
 そしてその表情は能面のようである。
「まず、樺沢様とお仕事の引き継ぎなどから進めてもよろしいでしょうか」
「………………」
「片手間でやれるような仕事ではないと存じますが、精一杯務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「…………ぜ……」
 何を話したらいいのかわからなくなり、思わず横を向く。
 何かがおかしいと思いつつも、それが何かわからなかった。
「………………………………」
 とにかく、想像していたような好意を寄せられていないということだけはわかった。
急に気温が下がったような、冷たい風が吹いているような、冷ややかなものが自分を包んでいく。
「…学校は…いかがだったかな…」
 取り繕うような話をする。
「本日で試験が終了し、しばし休みに入ります。なので、こちらに詰めることができると存じます。樺沢様になるべくお時間を取らせぬようしたいと思っております」
「そうではなく…ご友人との話とか、ほれ、前のように」
「友人たちとは、とても有意義な時間を過ごしました」
 …………そうではなく………。
 凍り付くような雰囲気を和らげることはできなかった。
「……………そうか…………」
 なぜこれほど遠く感じるのか、埋めようもない溝はどうして生まれたのか……。
「では、早速、これにて失礼いたします」
 善三が頭を下げる。
「ああ……よろしく頼む……」
 善三が障子の後ろに下がり、静かに閉める。
 しばし、茫然とした。
 善三は一切微笑まなかったのだ。


 *********


 それから数日、善三は菊治から引き継いだ内容を覚えようと必死で、木内としてはそれを邪魔するのは憚れるような気がし、菊治と善三で組み立てた用事をこなしていった。
 そうして、菊治が山本家に行く日が近づいて、善三はいつものように事務的な態度を改めずに、行動予定を伝えていた。
「山本様のお迎えの車が来るのは、午後三時です。私もその時は学校を早退することになっております。その後、山本様のお屋敷に共にお出かけになり、晩餐となります」
「わかった」
「それまでのご予定の講演会には樺沢様が同行するとのことです」
「ならば、明日からは誰がついてきてくれる?」
「その手配表がこちらです」
 書生の名前が順番に記されている。
 皆善三より年上であり、その者たちに指示をするということで緊張を強いられている。
 そういう中での処世術を学ぶというのは確かに善三にとって大事な経験のひとつであった。

 山本邸に着くと、山本は上機嫌で歓待した。
「お父様には大変お世話になっております」
 善三にそう挨拶するほど気さくであり、懐や器の大きさを感じられ、素晴らしい人物だと思った。
 善三が微笑みながらお辞儀をして挨拶をすると、山本が善三殿は男前ですなあと言う。
「はい?」
 それを聞いて木内と菊治が忍び笑いをしている。
「……そんな男前だなんて……」 
 自分の容姿について特別なことを思ったことはなかった。
 だが、最近、言われるようになっていた。
 ―――君は美しいね。
 先日、高等部の人に呼び出され、何の話があるのだろうと思いつつも家の付き合いもある人で、無下にもできずその待ち合わせの場所に行ったが、頬を触れられ、引き寄せられそうになり、慌ててその場を去ったということがあった。
 若道は、当たり前のように行われている。
 女子たちと交流はなく、あったとしても婚前交渉などできるはずもなく、遊郭に行けない学生の身分ならば、当然のように学生同士にそれを求めるのだ。
 ―――君を大切にするよ。君と触れ合いたいんだ。君に恋をしている。
 その求愛にぞっとしてしまった。
 自分は、同性愛に興味があるわけではない。父と母のような結婚をしたいと前から思っていて、兄夫婦を見ても、愛し合うならばやはり男女の方が自然のような気がするのだった。
 ――――しかし。
 恋……。
 これは……恋……なのだろうか。
 山本と木内と樺沢の三人が楽しそうに談笑しているのを見る。
 その様子には恋人と別れる悲愴さは微塵もないように思えた。
 だが、周知の事実なのだと他の書生たちの噂話を聞いてわかっていた。
 ――よく先生も決心したよね。いくら海軍の幹部だからって樺沢さんまでくれちゃうなんて、気前が良すぎるというか。
 ――先生の機嫌を損ねぬようにできるのは樺沢さんだけだからな。この先どうなるかな。
 ――後任の真野さんが何とかしてくれんじゃないか。
 ――しかし、樺沢さんの身代わりにされるなんて気の毒だね。まだ子供なのに。
 ――子供だからだろう。先生の真野さんを見る目ったら、まるで狼だね。
 ――真野さんも尊敬する先生が男好きだと知ったらさすがに驚くだろうな。
 ――やめろよ、僕たちだってその仲間じゃないか。
 ――ははは。違いない。僕はもう二度とごめんだけどな。
 その話にはかなりの衝撃を受けた。まだ父の話の方がいいと思ったくらいだった。
 ……………先生は男好き…………。
 家を出る際に父に言われたことが浮かんでくる。
 ―――よいか。善三。お前はいずれどこかの令嬢と夫婦になるのだ。若道など覚えぬ方がいい。もし、木内氏にそれを求められても断るように。それを強要されたら陸軍大臣に圧力をかける。
 まだその話を信じられない、信じたくないという思いがあった。
 ―――はい、父上。肝に銘じておきます。私はあくまでも修業に参りますので。

 ……これは恋なのだろうか……。

 帰りの車の中で、酒に酔った木内が居眠りをする。
 朝から夜まで各地での講演、政治家との懇談、寄せられる案件、処理しきれないほどの書簡、寝る暇などなさそうなほどの多忙さである。
 やはりすごい人だと思う。心から尊敬する。
 寄りかかられて肩に頭が乗った。
 小さくいびきをかいている。
 ……少しでも役に立ちたい……。
 そっと手に手を重ねた。
 男でも女でもどうでもいい気がした。
 ……お慕いしております。


 ********


 複数の野犬の鳴き声が聞こえ、満月が照らす庭では一本の桜の木が満開になっており、その姿を浮かび上がらせていた。
 鹿威しの音が響き、贅沢に作られ丁寧に手を入れてきた庭園と屋敷は、静けさの中に包まれ品格に満ちていた。そこにみしり……と廊下を歩く音がする。
 与助がその音に敏感に反応し、月明かり人影が映る障子を少し開ける。
「これは旦那様」
 木内は見つかったか……と悄然とする。
「夜分にすまん。善三と少しばかり話がしたくてな」
「はい、では少々お待ち下さい」
 真夜中に部屋に忍んでくるなど、目的は見え過ぎていたがこの家では殿様と同じであり、それに逆らうことなど一介の奉公人にはできず、昌和から聞かされていた通りやはり男色家であるということは真実なのだと与助は悲しくなった。
 自分は生まれた時から善三付きになり、陰日向となり大事に育ててきたのであり、まさか華族でもない男の情人にされる日が来ようとは口惜しくてならなかった。
 気を重くしながらも溜まった仕事と勉強を終えてようやく眠りについた善三を起こし、褥を片付け、木内を迎える支度をする。
 単衣の浴衣ではまずいと、せめて袴を履かせようとしたが、木内はしびれをきらせたかのように入ってきて慌てて部屋から出る。
 善三は、半分寝ているようで、ぼんやりとしていた。
「あ、申し訳ありません。呼び出しを受けていたのでしょうか。深い眠りについており失礼いたしました。お越しいただきありがとうございます。先生のお部屋に参りましょうか」
 木内は今更夜這いに来たなどは言えなかった。
「いや、単に眠れなくてうろついていただけじゃ。満月のせいかもしれん」
「左様でしたか」
 眠さもあり、つい気が緩んで善三はにっこりと微笑む。
 その顔を見られただけでも来た甲斐があったと木内は切なくなる。
「では、少し花見などいかがでしょう。明日には散り始めるでしょうから」
「ああ。いいな」
 廊下に木内がどかりと座ると、与助が酒の準備をして持ってくる。
 こういう気の使い方を知っているから、善三自身も次の仕事に必要なことを先回りして考え、実に気が利くのだと思った。何をさせても優秀だった。
 自分には過ぎたる秘書であると、心の中で溜息を吐く。
「皆、お前さんの言うことをよく聞いているようだ」
「樺沢さんに負けぬよう気張っております」
「菊治か……」
 そう言い、酒を喉に流しながら桜の木を眺める。
「海軍兵学校で研修を受けたのち兵役につくそうだ。山本様付きだ。特別待遇らしい」
「左様ですか」
 善三が銚子を取り、酒を注ぐ。
 木内は空を見上げてふうと大きな息を吐いた。
「まあ、菊治のことだからうまくやるだろう」
「……………………………」
 何を言えばいいのだろうと善三は考えを巡らす。
 菊治と別れたことでの哀しみの心情が伝わってくるような気がしたのだ。
 ……お寂しいのだろうか……。ならば……、
「……よろしければ、樺沢さんがここにおいでになるきっかけとなったお話をお聞かせ願えませんか」
「ん?」
「樺沢男爵家と我が家とはまったく交流がなかったので、父もよく知らないと。樺沢さんに伺ってもあまり語らなかったので」
 菊治としては公爵家の何も苦労のない三男坊に語れる話などなかったのである。
「そんなことを聞きたいのか?」
「……ええ」
「あいつの……菊治の父親は古物に凝っていてな……」
 苦笑する。
「しかし贋作を見抜けんでな、騙されてばかりいた」
「まさか……あの会津の剣は」
「あれをどうしても買いたいと思ったそうだ。金もないのにな……」
 善三は自分から聞いておいて、あまりいい話ではなさそうで先を訊くのを躊躇った。
「元々は盗っ人のならず者が博打に失敗して手放したものだ。それを買った奴が転売するからわしに金を都合してやってくれと言ってきた。随分と値は膨れ上がっていた。カモがいると言われたが、どう見ても危うく、最悪刀さえ手に入ればいいかと思った」
「…………」
「仔細まで語らんでもわかるじゃろうが、案の定支払いは滞った。担保の刀と払えない利息の代わりに菊治がやってきた。父親は自殺して爵位は返上したとのことだ」
 訊かなければよかったと善三は思った。少しはロマンティックな話かと思ったのだった。
「……あの……」
「女ならばそのまま女郎屋に売るところだったが、男も男、しかも若くもない。だから仕方なくわしの下働きにしたというわけだ。給金なしでな」
 菊治の矜恃を見た気がした。
「…………」
「金で買われることがどういうことかおしえてやった」
 善三は懐に刀を差しこまれたような衝撃を感じた。
「もうそれ以上は……」
 そして、その衝撃の事実を本人から語られるのは耐え難かった。
「山本様とは良縁だと思った。もう自由にしてやってもいいだろうと思った。充分な働きをしてくれた。肩の荷が下りた気がした」
 虚勢を張っているように聞こえる。
「菊治だけではない。書生もみな似たようなものだ。まるで慈善事業だ」
 吐き捨てるように言った。それにも衝撃を受ける。
「軽蔑するか?」
「…………軽蔑など……」
 桜の木から花びらがひらりと落ちる。
「だがな、そんなわしにも誠はある」
 鋭い眼差しで木内は善三を見た。
 善三はその視線に身体が熱くなる。
 射すくめられているようになる。
 だが、それは借金のかたに来た菊治をいつしか愛するようになったのだと告白を受けているように思えた。
 傷ついている自分を隠すように視線を桜の木に移す。
 風が吹くと桜の花びらが留まることに耐えきれなくなったかのように落ち始める。
「桜が……もう散りますね」
 木内は、ふっと笑い、ああ、そうだなと言った。


 ********


 次の日から一人で業務をこなさなくてはならず、善三は多忙に過ごし、学校から帰ってくる間に溜まった書簡に目を通し、鋏を入れる。
 その書簡のひとつに目が止まる。それはけんし王女からの手紙だった。
「ほう。姫から」
 読みながら険しい顔をし始める。善三は中味が気になって仕方なかった。
「ふむ。近いうちに満州に行かんとならんか。善三、手配をしてくれるか」
「はい。承知いたしました」
 木内は、あまり善三に詳しい内容を明かさなかった。
 善三はそれに悄然としていた。
 菊治には意見を求めていたことを知っており、まだまだ経験が足りずに支えることはできないのだと意気消沈しながらも、本業である学業も怠らないで成績をしっかり収めることで木内の評価も変わってくるのだろうと、善三は自らを厳しく戒めていた。
 しかし、けんし王女の用件は気になるところだった。
「……けんし様は何と?」
 聞かずにはいられなかった。
「会いたいと思っていた人と会わせてくれるそうだ。わしより商売上手な奴でな。向こうもわしが気になりだしたようだ」
 楽しそうに言う。
「その仲介をなさると」
「ふふふ。まあ、これで姫にはまた借りをつくってしまったが、こちらも貸しがあるからよかろう。ふふふふ」
 木内が満州に行く時は単独で行く。満州で世話する者が大勢いるからである。
 善三はまったく踏み込めないその世界が、木内にとって一番大きなものであり、木内についてほとんどが把握できていないのだと落ち込むばかりだった。


 二週間後、善三は飛行場に行くために与助を連れて電車に乗る。
 電車は鉄道省管轄であり、省線電車、省電と呼ばれていた。
 各路線の出発駅となる東京駅はいつも人で溢れており、駅舎は活気に溢れていた。
 赤レンガの瀟洒でありながら堅固な建物は、日露戦争の勝利記念として大正三年に建造されたもので、震災にもびくともせず悠然たる姿は人々に勇気を与えていた。与助はそんな東京駅が大好きで、省電というと目を輝かせる。各路線の駅名を全て把握しており、列車の種類なども訊いていないのにいちいち説明する。とにかく何度見ても飽きないようで、車のない生活を逆に喜んでいた。
 善三が一等席に行くと、よく知った顔に出会う。だいたいが軍人だったが、父の知り合いも多く、真野の坊ちゃんと言われることもある。
 立川駅まで行く列車はいつも満員である。
 殆どの人がすし詰めの状態で立っているのに恐縮していると、ひとりの婦人がそれを察した。
「それだけの対価を支払っているのですもの。気になさる必要はございませんことよ」
 善三は軽く頭を下げる。
 やはり車のほうが気楽だと思いつつ、明らかに階級が存在することを見せつけるようなこの方法は好きではないと思った。
 背筋を伸ばして座る。椅子の背もたれに背中をつけてはいけないと躾けられた身には、ごく自然なことで、他の乗客も同じだった。
 列車の中では退屈であるため本を読む。しかし、あまり文章が頭に入っていかない気がした。早く…早く…と木内の顔を見たくて、集中できないのだった。

 飛行場に降り立つ機体を見た時は涙が出そうになるほどだった。
「先生。お疲れ様でございました。ご無事で何よりです」
 にっこりと微笑み、そう挨拶する。
「うむ」
「お泊まりになりますか。それとも邸に戻りますか」
「家に帰る」
 ぶっきら棒に答え、軍用車が駅まで送ってくれることになった。

 帰りの電車で与助と書生が二等席に座り、木内とともに一等席に並んで座ると旅でもしているような気がして嬉しくなる。
「お仕事はいかがでしたか」
 木内があくびしながら、首尾は上々だと言う。
 やはり教えてもらえないのだとがっかりする。
「お前はどうだった。学校は……勉強は……」
 秘書とは名ばかりだと思った。
「剣道の大会がありまして、残念ながら準優勝でした。最後に油断してしまって」
 木内は、そうか……と言いながら目を瞑っている。
「……すまん。着くまで寝かせてくれ……」
「はい。もちろんです」
 肩に顔を乗せられる。
 過労で倒れられるのではないかと心配するほど顔色が悪い。
 ………帰ったら時間をかけて指圧をして差し上げよう………。
 自分はこの方の為に何ができるのか、何をするべきか……。
 車窓から見える星々と流れていく街の明かりをぼんやりと見ながらそんなことを考えていた。

第三話 別離




 秀一は、沈没することがわかっていながらも下船不可能な船に皆を乗せているような、そんな恐ろしさの中にいた。
 首相が出した声明は、中国との戦争を長期化させるだけのものだった。
 戦争が長期化すれば、消耗戦となり、体力のない方が負ける。
 満州さえ守っていれば良かったはずが、中国の内乱に巻き込まれて収拾がつかなくなってしまい、底なし沼に引き摺り込まれているような様相を呈してきたのだった。
 軍が内乱にかこつけて中国に駒を進めたのはフィリピンを取る為の足掛かりとするためだった。
 石油の安定した供給が軍事力や産業の動脈となる。しかしそれはどの国も同じことで、それを握るアメリカが日本の動きを封じ込める作戦を実行し始め、その為にソ連と手を組みはじめていた。
 蒋介石を頭に置く中国国民政府は万里の長城より中に入ってきた日本軍を徹底的に叩き始め、後には引けぬ事態となった。
 中国大陸全土に拡がった戦火に、国際的な非難を浴び、日本は侵略者と位置づけられ、支那事変での自衛という大義名分を失い、それら事態を収拾するべく、ドイツに和平工作を依頼したが、首相はそれを打ち切る声明を出してしまい、外務省が苦労してドイツに頼み込んで和平の道筋を立てようと努力を重ねたものだったが、握りつぶされたのだった。
 中国の各都市を次々と占領していく姿はいかにも連戦戦勝をあげているかのように見えるが、単なる持久戦であり、相手が白旗を上げぬ限りには戦いは続く。
 そして、各国による蒋介石を応援しようという『援蒋ルート』が完成したのだった。
 それは、アメリカ、イギリス、ソ連が中国に軍事援助をするための輸送路のことであり、どれほど日本が侵攻して奪い尽くそうと、中国には武器が送り続けられていくのである。
 ビルマルートの他、仏印ルート(ベトナム)、香港ルート、ソ連ルートとあり、叩いても叩いても中国軍を敗北させることができない。
 英米の金で商人らはボロ儲けをし、皆が群がってきて異常なほどの盛り上がりとなり、沿道の倉庫という倉庫には物資が溢れていた。
 日本では戦地に物資を送る為、国内での生活物資が不足し、国民の生活は締め付けられるばかりというのに、中国軍には豊富な物資が補給され、尚且つ、巨額の借款を受け取るという財政的な支援もあった。
 そのルートの閉鎖交渉が外務省に課せられた当面の課題だった。
 国内の産業は全てが軍需産業に転換していき、まるで中国の都市を焼き尽くす為に国民が働いているようであった。
 皆は必死に働いて、早く決着がつくのを待っているのに、首相は逆の判断をしており、日本の誇りを示すための行為であると豪語しているが、軍部、報道、国民、それらから高評価を得たく、名宰相という勲章が欲しいだけなのではないかと役人は皆疑っていた。
 綺麗な言葉を使って戦争を美化しているのだ。
 だが、もはや掲げられる理想などなかった。
 終わらせなければ先には底無しの泥沼しか待っていないのだとわかるはずなのに、それを認めようとしない空気があった。
 なぜ止められない…。
 なぜ誰も止められない…。
 なぜ…!
 秀一は握り締めた拳を机に叩き付ける。
 そして、アメリカは、日米通商航海条約の破棄を通告してきた。
 事実上の宣戦布告のようなものだった。
 …………敵は、中国、イギリス、ソ連、そしてアメリカ…………。
 そして、ドイツは独ソ不可侵条約を締結し、つまりドイツはソ連が関与することでは日本に援助しないということになる。
 勝てるわけがない……。
 すでに負けているようなものではないか……なぜそれを認めない。
 中国も中国だ。
 いかに援助があるとはいえ、自国民の命を何だと思っているのだ。
 どれほどの犠牲が出ているのか、なぜそれに目を瞑る。
 なぜ負けを認めない。
 ソ連は、日本と中国で潰し合いをさせ、共産主義で覆い尽くすことを狙っている。
 アメリカは、日本と中国で潰し合いをさせ、弱体化させた後、その後の権益を奪うことを狙っている。イギリスは、植民地を守るためには、火の粉が飛んでこぬよう日本と中国で戦っていてほしいという思惑がある。
 その為に、物資でも金でも中国に運び、なるべくこの戦争を長引かせようということだ。
 和平などさせてなるものか、どちらも疲弊し消耗し立ち向かえない程になればいいのだ。
 そんな各国の思惑が押し迫ってくる。
 蒋介石は何を目指しているというのか。
 我が国に勝ったとしても、すぐソ連が待っている。アメリカが待っている。
 共産党がソ連と手を組めば、息を吹き返してくる。
 日本と争うべきではないとわからないのか。
 秀一は煙草に火をつけ、ふうと長く煙を吐く。
「殿。お紅茶はいかがですか」
 妙子が扉越しにそう声をかける。
「ああ。もらおうか」
 煙草を灰皿に押しつけて気持ちを静め、妙子がしとやかに入ってくるのをぼんやりと見る。だが、妙子に言葉をかける余裕はなかった。
 巫女姿の妙子に一目惚れして求婚し、進んでいた徳川家との縁談を破談にして嫁に迎え、しばらく父に口をきいてもらえないという中、妙子との愛を育ててきた。
 そんな自分を支えてくれたのが中学校時代の学友たちだった。
 皆は軍人を目指し、士官学校から陸軍大学に進学し、なかなかその後の交流を図れなかったが、たまに手紙の交換をする良き友人らは、自分よりはるかに優秀な者たちである。
 囲碁や将棋では敵わず、その先見性や洞察力には憧れたもので、陸海軍にはそういう人材が豊富に集まっているはずである。なのにこの無駄な戦いを終わらせるすべを見つけられないとは考えにくい。
 唇を噛み締めながら、机上の書類を握り締める。
 とりあえず、明日からドイツに敗れたフランスに行き、仏印ルートを閉鎖の交渉に行かなければならない。この後手に回る交渉に、外務省はますます能無しというレッテルを張られている。
 能無しはまともな判断ができない大臣たちではないかと言えたらどれほどすっきりするのかとティカップを口に運びながら、ふふふと笑う。
「殿?」
「いや。なんでもない。子供たちは寝たのか?」
 それに対する妙子の返事を上の空で聞いていた。
 ……とにかく戦争さえ終わらせればいい。大事なことはその後のことだった。
 今は和平へと導くためにできるかぎりのことをしなければならない。
 フランスは他の者に任せて、自分はイギリスに交渉に行くと決意を固める。
 ―――援蒋ルート閉鎖の直談判に行く。
 自分ができることに最善を尽くすのみである。
「父上はどこにいる」
「大殿は、宮城でお召しがあったとのことで……」
「またか……ああ……しかし、それもいいのかもしれない……」
「お紅茶、おかわりはいかがですか」
「いや。もういい。それより妙子、ここに来てくれないか」
 膝を叩いた。  


 *********


 秀一は全権大使として父の昌和とともにロンドンに行った。
 昌和は天皇の名代という大きな役割を持って行くこととなった。
 出迎えた首相は大変気まずそうな顔をしていた。
 ドイツとの戦争は避けられぬところまで来ており、フランスの敗北は大きなもので余裕をなくしていたのだった。
 秀一は、まずは英国王への謁見を申し出た。
 それに首相は慌てる。そういう話は聞いておらず、それであったら会見を拒否していたのだった。
「わが国の天皇よりの書簡を携えております。大使としてその資格は充分に備えていると存じます。逆にお断りになる理由を教えていただきたく宜しくお願いいたします」
 英国王室より古い歴史を持つ日本の皇室に対しては一目置くところがある。
「こちらが、真野公爵です」
 デュークという称号を持つ者に対して英国紳士ならば失礼な真似はできない。
 それがソ連やアメリカと違うところである。
 昌和が英語で自己紹介をすると、きちんとした英語を話すことに首相は驚いた。
 アメリカで黄禍論というものが湧き上がっており、その影響を英国も受けている。
 黄色人種は人間ではなく動物で、二千年ほど進化が遅れている下劣なものだという考えである。そのアメリカ人が英語以外を話しているのを聞いたことがないと秀一は思った。
 ふっと笑う。
 下劣な民族はどちらだというのか。
 秀一が気品あふれる微笑みを浮かべ、首相を見る。
「偉大なる大英帝国、その貴国がソビエトに怯えていることはよく存じております」
「Pardon?」
 通訳など介さずとも英語で直接話したいと秀一は思ったが、そうはいかなかった。
「中国はソ連の援助を受けて、蒋介石は気付いているかどうか知りませんが、兵士達は共産主義の思想を受け入れ始めています。ご存知の通り、実に恐ろしいものです。人間を変えていってしまうのですから。ですから、貴国がソ連と同じ姿勢を取るのでしたら、貴国も同じ運命を辿ることでしょう。……ロマノフと」
 首相が瞳を光らせてじろりと睨む。
「それに恐怖を感じていることはわかっています」
「…ほお」
 首相は秀一の誘導に乗らぬよう冷静を装う。
「我が国が長い間大陸と戦いを強いられているのは、最初はロシアの南下でした。清王国が健全な形で維持できれば、我が国は貿易国として良好な関係でいられたのです」
 秀一がわざとゆっくりと噛んで含むような話し方をする。
 イギリス側の通訳が時間をかけて伝えられるように。
「ロシアがアジアを制覇しようとしたから、我が国は自衛の為に戦う道を選ばざるを得なかったのです。貴国は同盟国だったのですからその事情はよくお分かりのはず」
「随分と懐かしい話をしてくれるものだ」
「ええ。お忘れのようですから」
 秀一は不敵に笑った。
「そして、今、ロシアを破ったわが国が戦っているのは、まさしく共産主義なのです。これが真の敵の姿です。貴国も長い歴史の中、帝国を築き上げられた。それが、自国の民に王が惨殺させられるという事態に陥ることに恐れを感じていらっしゃるのですよね」
 昌和の置いた書簡が重みを増す。
「国王陛下によろしくお取次ぎのほどお願い申し上げます」
 秀一と昌和は背筋を伸ばしながら深々と頭を下げた。
 その秀一の気迫が勝ち、ビルマルートを閉鎖するという決断をイギリスがした。


 ********


 ……これで一本…。
 ベトナムも押さえれば二本……。
 補給さえ断てば、蒋介石も追い詰められる。軍の言う通り勝ちも見えてくる。しかし、
 ……やはり怖いのはソ連とアメリカである。
 中国に勝った後が怖いのである。
 昌和がひたすら考え込む秀一をじっと見る。
「……おじじ様によく似ている」
「え?」
「戊辰戦争で我が藩が肩入れした長州藩の無謀を黙っておれなかったという話を繰り返ししていたおじじ様を思い出す」
「戊辰戦争ですか……。明治前の話をされると、まるで別の世界のような気がします」
「ふ。そうか。明治前は…。そうだな…昭和からすれば大昔のことか」
 昌和が自嘲するようにくすりと笑う。
「父上。父上は大臣になるおつもりはまったくないのですか」
 そして寂しそうに笑う。
「今でも荷が勝ちすぎているというのに、まだ背負わせるつもりか?」
「けれど、陛下信任厚き父上が大臣になれば…」
「秀一。人には器というものがある。それは大きかったり、小さかったり、形が歪んでいたり、小さくとも整っていたり、それぞれに授かったものがある」
「はい」
「それを自覚せずに何かを盛ろうとしても、結局は器からはみ出て、零れ落ちてしまうものだ。私はよくわかっている。自分がどれほどのものか」
「……そんな。父上は、とても大きな器をお持ちでいらっしゃると思います」
「ならば、もうすでに色々とたくさん載っていて、これ以上は不可能だということだ」
 きっぱりと言い切る昌和に秀一は黙り込む。
 かもめが寄ってきて、餌を欲しがっている様子に次の港が近いのだと知らせているようだった。
「父上。どうして戦争をやめられないのです。このままでは国が立ち行かなくなります」
「やめたいと誰もが思っている。陛下も…そうお望みだ」
「なのにやめることができない……」
「ロシアとの戦争の時もそうだった。あの頃はまだ救いがあったが。今回のように私もロンドンに来て日本の戦争の大義を訴える手伝いをしたものだ」
「父上が大蔵省に勤務されていた時の日本の公債の発行のお仕事ですね?」
「単なる使いっ走りだったが良い経験をした……。あの時の我が国も必死だったな……」
 昌和が水平線を見るように遠くを見る。
「戦わざるを得ないのだ……」
「…………………………」
「覚悟を決めねばならんということだ」
 厳しい表情をする昌和から秀一は視線を同じ水平線に移す。
「そうですか……」
「そういうことだ」
「誠二も…前線に出て行くことになるのでしょうね」
「ああ。あの子は自ら進んで軍人になりたいと言ったのだからね。危険な場所に志願していくのではないか」
「……無事を祈っています」
「私もだ」
 船旅での往復で、帰りは靖國丸という船で帰ってくる。
 途中で誠二と会えるといいな…二人はそんなことを考えていた。


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『わが大君に召されたる 命榮えある朝ぼらけ 讚えて送る一億の 歓呼は高く天を衝く いざ征け つわもの 日本男児

 華と咲く身の感激を 戎衣の胸に引き緊めて 正義のいくさ行くところ 誰か阻まんこの歩武を いざ征け つわもの 日本男児

 輝く御旗 先立てて 越ゆる勝利の幾山河 無敵日本の武勲を世界に示す時ぞ今
 いざ征け つわもの 日本男児

 守る銃後に憂いなし 大和魂揺るぎなき 國のかために人の和に 大盤石の此の備え  
 いざ征け つわもの 日本男児

 あゝ万世の大君に 水漬き草生す忠烈の 誓い致さん秋到る 勇ましいかなこの首途  
 いざ征け つわもの 日本男児

 父祖の血汐に色映ゆる 國の譽の日の丸を 世紀の空に燦然と 揚げて築けや新亞細亞
 いざ征け つわもの 日本男児』
 引用、出征兵士を送る歌

「本当に良い歌です。心が震えるというか、私もこの歌を歌って送ってほしいと思います」
 出征時に歌われる歌として売り出された人気のあるその曲のレコードをかけ、善三はうっとりとする。
「善三が成人するころには戦争は終わっている」
「それは残念。英雄になりそこねました」
 善三がにっこり笑うと木内が寂しそうに笑った。
「そうでなければ困る」
 援蒋ルートで流れてくるものを横取りするために中国人を雇って軍に横流しし、相変わらず金銀を盗み続けて日本に送るという悪事は続けていた。そして更に満州での利益をあげる為の麻薬取引に手を付け始めた。
 全くヤクザ者に成り下がったものだと溜息をつく。
 そして、いざとなったら自分は容易に消される…そう覚悟していた。
 だからこそ、次の国政選挙で必ず議員にならなくてはならない。その企みを国が行ったことにするにはそれしかないのだった。満州での麻薬売人とのルートの確保をしたことで余計に危険度が増していた。
「また満州ですか? この時期に満州に行くのはかなりの危険を伴います。どうしても行かなければなりませんか」
 善三が不安そうな顔をする。
「心配無用だ」
 弟子らを見殺しにするわけにいかない。
 何としても脱出ルートを確保しなければ、秘密を知る軍人が死ねば、孤立してしまう。私設の軍隊を作らなければ守れないのだった。
 戦死者の数は日に日に積み上がっている。成人した健康な男子はすぐ徴兵され、中国大陸に送られる。そして死んでいるのだ。それをあの歌の通り、出征が誉れとばかりに送り出す。
 実に残酷極まりない。
 書生たちにも徴兵検査の出頭命令が来ていて、ひとりあとひとりと軍に引っ張られていた。裾野を大きく広げた政治団体と事業団体だったが、一番の働き手の若い者が取られてしまい、減収していた。せめて徴兵された者を関東軍に送り、特殊任務ということで『赴任』させなければ、やりたくてもできないと陸軍省とかけあって来たところだった。
 関東軍への司令を約束してくれたが、しかし、自分の目で見ないと信用ならない。
 もし自分が客死したら真野公爵に善三がある番号を届けることになっている。
 それを昌和が政府に伝えるには、木内一門の解放が引き換えと約束したことだった。
 善三は…いわば人質である。
「今度もけんし様にお会いになられますか?」
「あ?」
 一瞬何を聞かれたのかわからないような顔をした。
「ああ。おそらく。しかしこう状況が悪化してしまったら、護衛が多くそうそう会えんだろうが」
 満州でのことを考えて憂鬱になる木内に対して、善三がにっこりしながらも複雑な顔をし、その様子に木内は敏感に反応した。
「姫が気になるようだな」
 善三がどきりとする。
「え…ええ…あの…とてもお美しい御方なので…」
 善三としては木内と王女の仲を嫉妬して言ったのだが、木内は逆の意味に取り、寂しそうな顔をする。
「そうか。善三はああいう類いが好きなのか。確かに美しいおなごだ」
「いえ! そのようなことは思っておりません!」
 顔を赤らめて語気を強めて否定すると、ますます肯定したように聞こえる。
「引き合わせてほしいか?」
「ですからそのようなことは!」
「お前では若すぎる。あの姫には太刀打ちできん。やめておけ」
 木内としての牽制だったが、善三はそんな木内の心境などわからなかった。
「姫にはわしが相応しいのだ」
 善三はその一言にズンと心が重くなった。
「……では、先生、満州行きの準備をしておきます。今回は、空は危険ですので船でお願いします。おやすみなさいませ」
「ああ」
 木内は不機嫌そうに返事した。


 *********


 木内は善三との距離が縮められないことに苛立ちを隠せなかった。
 ましてや、けんし王女に憧れているような様子を見せられて腹立たしくて堪らなかった。
 忙しすぎることも問題だった。
 善三と仕事以外の話をする暇がないため、心を寄せ合うこともできず、心を通じ合わせなければその先に進むことなど不可能で、しかし、我慢も限界に来ていた。
 布団から起きあがり、廊下に出る。
 月が照らす真冬の深夜は息さえ凍るような寒さである。
 善三の部屋からは蝋燭の明かりが洩れていた。まだ勉強していたのかと驚く。
 廊下の足音で訪ねてきたことがわかったようで、障子がすっと開く。
「お寒いでしょう。早く中にどうぞ」
 まるで待っていたかのようだった。
「……なんだ。わしが来るのがわかっていたかのように」
 毎日毎夜待っていたとは善三は言えなかった。
「前にこうして来て下さったので、眠れぬ時がおありになるかと」
「……そ…そうか……。それはよい心遣いだ。雪が降ってきたぞ」
「左様でしたか。道理で冷えると。熱燗を用意いたしましょう」
 火鉢にはすでにその準備がしてあった。
「……その支度はどうしたのだ……」
「もし先生がいらしたらお飲みになりたいのではないかと思いまして」
 絶句していた。
「うれしいぞ……」
 善三が顔を輝かせる。
「さすが善三だ」
 そんな言葉しか出てこない自分に腹が立つ。
 善三が燗徳利を傾けると、良い薫りが立った。
 猪口を握る指が震えている。
 酒を注ごうとしても震えているため注げない。
「ああ。寒すぎたのですね。ではお貸しください」
 善三が猪口を預かり、一度火鉢に徳利を戻し、木内の両手を包み、息を吹きかける。
「与助にはいつもこうしてもらっていましたから。温かくなりますよね」
 その息は、手だけなく全身を温めていくようだった。
 震えているのは寒さではないとは今更言えないと思いつつも、ああ、温かいと言う。
「すまんな……」
「どういたしまして」
 善三の両手を弾き、身体をぎゅっと抱きしめる。
 善三が驚いて身体を固める。
「……あの……」
 木内は力を抜かない。
 止めようもない溢れる思いをどうしたらいいのかわからないのだった。

 …………まいった……。

 心底まいったと思った。
「…酒が…温まりすぎてしまいます…」
 善三が苦しくなる息の中、そう言う。
「……悪いが酒は…あとでいい……」
 とうとう抱かれるのだと善三は思った。
 これで菊治と対等のところまで来ることができる……と。後は自分に夢中になってもらえればいい。菊治のことなど忘れてしまうほど夢中になってもらえればいい。
 その熱い胸板に頬を埋めていると、とても懐かしい気がすると思った。
 今初めてではなく前からこうして抱かれていたような不思議な感覚があると。
「善三……」
「はい……」
「このまま朝までここで眠ってもいいか。お前とともに」
「え…ええ…」
 木内がふっと力を抜いて身体を離す。
「ならば、酒をもらおうか」
「え……」
 善三は肩透かしを食らったようで、絶句する。
 徳利を持つ手が震えたが、必死に冷静を装い、猪口に酒を注いだ。
 何杯めかわからぬところで木内は酩酊状態になり、布団に沈み込む。
 善三はかい巻き布団を被せ、自らもその布団に入り込む。
 あたたかい……と思った。
 ぴたりと寄せられ抱え込まれるようになり、大きな安心感が広がっていく。
 すぐ眠りに入れそうだった。
 すると夢の中に入っていくようだった。
 
 最近、頓に誘われるようになった。
 前は上級生だけだったが、今では同じ学年の人や後輩からも誘われる。
「真野君は人気者だよ。誰が落とせるか、評判になってるよ」
「近衛君。そういう君はどうかな。何人の人を泣かせているのかな。随分後輩を苛めているみたいじゃないか」
「苛めてほしいと頼まれるからね。これは人助けさ」
 くくくくと近衛は笑った。
 一緒に勉強すると家に呼んでは、勉強などしていないと楽しそうに教えてくれる根っからの遊び人である。
「全く君という人は」
「真野君。誰の誘いも受けないなら、僕が下ろしてあげようか」
「近衛君!」
 指でその部分を指されるとさすがに堪え切れず憤慨して声を荒げた。
「きっと夢中になるさ」
 不覚にも赤面してしまう。
「そ! そんなことより! そんな暇があるなら私達はもっと勉学に打ち込むべきだ!」
 近衛が高笑いをする。
「戦場で死ぬために?」
「………………」
「どちらにしても死ぬのなら、今のうちにやりたいことをやっておいたほうがいいのではないか?」
「死ぬとは限らないだろう?」
 近衛がふっと笑う。そして、突然胸を反らして、
「死んで来るぞと勇ましく〜」
 そう歌った。呆れた顔をする。
「勝ってくるぞと勇ましく…だろう」
「勝てないからそういう歌が流行るんだろう?」
「近衛君。ここで議論してもあまり意味がない。君のお父上はご立派だし、私の父と兄も必死に取り組んでいて、それでこの現状なのだから」
 近衛がぷいと横を向く。
「やくざ者に飼われている君に説教などされたくない」
 聞き捨てならなかった。
「何のことだ?」
「なんだってあんな成金のところに。君ならもっとまともな勉強先がいくらでもあるだろう?」
「木内先生のことなら、大変立派なお方で、学ぶべきことが多い」
「ふうん。君は氏の正体を知らないで、いいところばかり見せられているんだろうね。父はなるべく関わりたくないと言っていた」
「……よく知りもしないで決めつけないで欲しい」
「平民の、帝大も出ていない者に何ができる!」
 一番鶏の声を聴き、そこで目が覚めた。
 嫌な夢だった。
 先日近衛に言われたことだった。
 近衛とは親しくしていたが、それを言われて今後は距離を置こうと決めていた。
 華族以外を信用しない偏った考え方は受け入れられないと思っている。
 元々公家出身の家は自尊心が高過ぎてついていけず、とくに五摂家(藤原氏嫡流)の近衛はそれが著しい。
 ……先生の素晴らしさが理解できないなど、あまりの視野の狭さに憐憫さえ感じる。先生の演説を聞いている時の皆の様子を見れば、どれほど稀有なお方なのか分かるのに、出自で決めてかかり、認めようとも見ようともしないのは大きな間違いであると思う。
 善三はそんな憤りを常々感じていた。
 ―――皆さん! いいですか。あなた方は日本人に生まれてきた。それだけでとても大きな意味があるのです!
 ―――日本人がいかに優れているか、知るべきです。そして日本がいかに平和で素晴らしい国か知るべきです。
 ―――なのに、そんな我が国日本が、外国に追い詰められ、我々の家族は、息子は、夫は、外国を打ち払う為に命を懸けて戦っています。戻って来ない者も多い! 手足を失って帰った者も多い! まだ戦いから帰らぬ者は日々死と向き合っている! みんな辛い、みんな辛い日々を送っています。だからこそ勝たなくてはならないのです!
 ―――必ず勝つ。
 ―――勝って我々は喜びの涙を流すのです!
 こちらで演説草稿を用意しても、その通りに話したことなどない。より簡単でわかりやすい言葉に直されてしまう。飾った言葉は不要なのだと。
 ……先生に勝つと言われれば、皆は安心する。
 言霊が宿っているかのようなその力強い話し方に、皆は酔う。
 なのに、先生自身はその人気にまるで奢ることがない。
 その演説は鎮魂の祈りでも捧げているかのように聞こえる。
 ―――だから共に戦いましょう!
 ……先生。貴方は素晴らしい人です。
 腕と足を布団からはみ出して寝ている木内にくすりと笑いながら、布団を掛け直すと手首を取られる。
「……もう起きたのか、まだ早いだろう…」
「稽古の時間ですので」
 だが、羽交い絞めにされて布団に潜り込ませられる。
「ほれ。ぬくいであろう……」
 温いというよりも熱かった。木内の身体は汗ばんでいて、それがどんな生理現象なのかはよくわかっていた。
 寝間着の中に指が入ってくる感触に善三はぶるりと震える。
 木内の血潮の塊というものを臀部に感じると自分も硬くしてしまう。
 躊躇なくそれに触れられると、思わず身体を仰け反らせる。
「……させてくれ。……わしも耐えられない…」
 ……ああ。とうとう…。
 性欲処理でも何でもいいと思った。
 口の中に指を入れられ、強く扱かれていく。息が荒く熱くなっていく。
 何も考えられなかった。
 本能に突き上げるものに素直に従った。木内も同時に達していたようだった。
 

 ***********  


 昭和十五年。
 ビルマルートの閉鎖により、中国軍は団結力を増し、アメリカは二千五百万ドルという借款を供与していた。日本軍は仏印ルートを閉鎖すべく進駐し、とにかくルートを閉鎖して少しでも中国軍の兵力を削ぎたいが、限界が来ていた。
 陸軍が外務省とは別の動きをし、勝手に和平工作を行っており、国内での政治の不協和音が増していたからだ。軍部が時間のかかる政府決定を待てずに独断で進めてしまう為、見切り発車も多く、桐工作という、蒋介石と直接交渉をする和平工作を行っていたが、失敗に終わっていた。
 そして、アメリカはいよいよ鉄鋼、屑鉄の対日輸出の禁止という経済封鎖を開始した。
 日本軍の戦争資金は、満州で栽培しているアヘン売買である。
 それは国際条約違反を犯していることであり、その事実を木内から語られた時、昌和は耳を疑った。
 財閥が出資して結社をつくり、アヘン流通を行ない、その金の回収は木内の手下が行うという。そしてそれを一手に握っている阿片王の異名をとる政商がいた。
 その阿片王から木内にはいやな部分だけが回ってくる。
「五百億……?」
 金額だけでも震え上がる。 
「そうでもしないかぎり、船も作れませんし、飛行機のひとつも飛ばせません。蒋介石が欲しいのはその芥子の畑です。麻薬を奪い合う戦争というわけです。…醜い限りです」
 苦笑いをしながらそう言った。
 中国人をアヘン中毒にしている上、家には強盗して隠していた金銀を奪い、そんな露悪な実情を訊かされ、昌和はその為に命を捧げている若者が不憫で仕方ないと思った。

 そして、

 ―――徳川慶光公爵、二等兵として、兵役につく。

 その事実を告げられた。
 それは武家華族の心を挫く、衝撃的なものだった。
 慶光は、徳川十五代将軍、最後の将軍徳川慶喜の孫である。
 今上帝の弟宮の義理の弟となり、准皇族の貴族議員の地位にあるものが上等兵でもなく、単なる…。
「足軽と同じではないか……!」
 昌和は手入れをしていた刀を振る。
 慶光は、帝国大学卒業後、宮内省に勤務していた。
 華族ならば、裏工作が可能だが、父親が急逝し、十歳という年齢で爵位を継ぎ、徳川宗家とは距離を置き、ひっそりと過ごしていて、あまり人と交流するのが得意ではない二十代の若者は、国からの事務的な命令をそのまま受け入れたと知り、皆は慌てたが、すでに出征したと知り、愕然とするしかなかった。
 ……世が世なら、我らが江戸に参上し奉るべきお方である。
 まさか、長州の連中が故意にやったのではないだろうか……。
 刀を鞘に戻す。
 それはない……。そう信じよう。そう信じたい。
 いずれにしても海軍と違い、陸軍は家柄を考慮しないということが明らかになった。
 それに恐ろしさを感じた。
 どこか自分たちは特別な立場に置かれるのが当然と思っていたからだ。
 それだけの責務を負い、それを天命とするよう躾けられてきた。
 だが、この先いったいどうなる…。
 長男の秀一は外務省の役職者であるから兵役免除は当然であり、いずれは要人となる道筋を立てる事ができた。議員となれば入閣も難しいことではない。次男の誠二は海軍大学校に入学し、将校としての道が拓けている。しかし、
 ……善三はどうだ。
 この先、戦が長引き、成人したら徴兵を逃れるのは難しくなり、その時は無官の雑兵として兵役につくことになる。
 ぞっとして首を横に振る。
 そんなことはさせない。
 そのような死に方などさせない…!
 この馬鹿げた戦の餌食などに絶対させないのだ…!
 鈴を鳴らす。
 すると家令が静かに扉を開ける。
「殿。お呼びでしょうか」
「善三に話があるから家に帰るように言ってくれ」


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 次の日、学校に直接迎えに来られ、善三は俄かに緊張した。
 玄関先で家令が出迎えており、与助に目配りする。
 家令の後をついていくように当主の間に行き、襖の前ですっと息を吸う。
「父上。善三でございます」
「入りなさい」
 襖を開けて、頭を下げる。
 すると昌和が古い衣装を着て正座していた。
 衣冠束帯の昌和を見たのは初めてで、代々藩主しか袖を通すことが許されない蔵に大事にしまってある家宝のひとつである。歴史を背負っている、そう思わせるものだった。
「参朝用の衣装だ」
「……はい。お召しのお姿を初めて拝見いたしました」
「もはや不要のものだが、大事にされている」
「はい。まさに宝と存じます」
「木内氏のところで世話になって、二年だな」
 善三は学習院高等部に進んでいた。
「はい。とても勉強になっております」
「絹姫が最近あまり顔を出さないと嘆いてたぞ」
「申し訳ありません。かなり多忙で」
 善三は家に帰れと言われるのではないかと緊張する。
 木内とは寄り添うように日々を過ごしていた。互いの部屋で寝泊まりし、身体に触れあいながら、多忙だが充実した日々であった。
「お前は陸軍士官学校に行きなさい」
「え……」
「お前も分かっておるだろうが、戦局は厳しく、成人男子はみな兵役についている状況だ」
 二十歳から四十歳までの男子は徴兵検査を受け、その身体検査により甲乙丙に分類され、健康上に問題がなければ、それぞれの部隊につく。大学に通っているものは卒業まで猶予されていた。だから善三は、自分はまだまだ兵役は先のことを思っていて、そしてそれまでに戦争は終わるのだろうと漠然と思っていた。
 木内の元にいた書生は全員出征し、自分は若い書生を教育するという立場になっていた。
怪我や病気で戻された者らもおり、邸の雰囲気は殺伐なものとなっていた。
 そして、戦地から帰ってきた者らを木内は大事に扱い、その者らも遠慮せずに木内に甘えるようになった。木内の情に縋りたいのだ。
 その中で最もそれが著しいのが恩田龍平という書生であった。
 身体のつらさを訴えれば慰めるような言葉をかけられ、時にはその部分に触れ、痛みが収まるように撫でてもらえる。そういう時には、必ずと言っていいほど目が合い、じっと見られていた。まるで心の声が聴こえてくるようだった。
 ――――自分だけ可愛がられていると思うな。
 先生を奪い合うようなそんな構図に、あまたの妾を持ったと聞く祖父、側室を多く置いた曾祖父を想像させられた。かくいう父、昌和にも側妾がおり、次兄の誠二は腹違いである。
「私は帝大で学びたく存じます」
 大学では法律を学び、法曹の世界に行きたいと考えていた。
「ならぬ。行くのならば陸大だ。華族だからと融通の効かぬ実力一本の世界だ。武家に生まれたのならばそれを目指すのも道理。私自身がその道に行きたかった」
「法律を学び、政治にも携われる仕事につきたいと思います!」
「……政治家になりたいのか?」
 ……先生と同じ土俵にいたい。そして役に立つ者になりたい。
「はい。いずれは。ですからその為の勉強として是非法律を」
 甘い見通しだと昌和は思った。
 悠長に法律など勉強していられる時代ではなくなったのだ。
「残念だが、それはいまお前が為すべきことではない。お前の先を行った優秀な法律家が山ほどいる。だが、その者たちが今いる場所は戦場だ」
 善三が唇を噛み黙り込む。
 今はどうあっても木内のそばを離れたくないのだ。
 毎晩添い寝をして特別な関係になれたところである。
 どれほど他の書生に妬まれようともその立場を奪われたくない。
「それはそうでしょうが……私は」
 承諾しない善三に昌和が苛立ち、すっと立ち上がった。
 仁王立ちになり、憤怒の形相となる。
「善三!」
 睨みながら大声を発した。凄まじい迫力である。
「立場を弁えろ!」
 父の怒鳴り声を初めて聞き、善三は恐ろしさを感じる。
「第十二代当主として命じている! お前はそれに逆らうのか! 善三!」
 面打ちを食らったような衝撃を受けた。
 温和の父が声を荒げたことに驚き、だからこその本気を見た気がし、否を唱えることなどできないと思った。
「………い……いえ………」
 書生たちと駆け引きをしている自分が急に恥ずかしくなる。
 父の背後にたくさんの人が見える。
 皆、髷を結い、同じ衣装を着ており、代々の藩主たちだと思った。
 そして、国の存亡の危機に色事に現を抜かすなど武門の名折れと叱責されている気がした。震える両手を畳の上に置き、額を乗せるように身体を落とす。
「……は。謹んで承ります」

第四話 慕情

 
 


 陸軍士官学校への入学は、受験資格を得るだけでも狭き門で、それでも全国からその難関に挑むため成績優秀な受験生が殺到し、倍率は三十倍以上であった。
 二十歳くらいで将校になれるのは大きな魅力であり、士官学校を出ていない者は、どれほど現場で活躍しても上等兵止まりでその上の少尉には上がれず、その後の階級に進むには士官学校に入学するほかないのだった。
 それは大きな壁であった。
 士官学校を卒業すれば、だいたい半年ほどで少尉となる。
 その先の陸軍大学に進学できるのは二割くらいと更に難関であり、つまり、陸大卒は特別に選ばれた者ということになる。
 善三の場合は華族枠がある為、比較的容易に入学でき、寮なども区別され、カリキュラムは同様であるが、無用な妬みなどを買わないよう配慮がしてあった。
 予科二年、本科一年を経て士官として戦地に配属される。
 家族の元に帰れる日は来ないということを示していた。
 毎日、木内の温もりに触れなければ眠れない善三だった。
「いよいよ明日からだな」
 涙目の善三の頭を木内が撫でる。
「相当厳しいらしいぞ。覚悟はいいか」
 木内も昌和と同様、善三の将来が不安だった。善三は戦後に活躍する次代の人材のひとりのはずだったが、やはり徴兵を意識せざるを得ない事態になっていたのである。
 なかなか終わりの見えない戦争に、皆が疲れ果てていた。
 士官学校入学は得策に違いなかった。戦争が終われば帝大に行けばいいのである。
 ただ、三年後には確実に戦地に行くこととなり、それまでに何とか戦争が終わることを願った。
 …そう。戦争さえ終わればいいのだ。
「はい。しっかりやります!」
 陸軍式に右手を額につける真似をする。
 善三がくすりと笑う。
「なあ、善三。戦争が終わったら、わしは教育事業をやりたいんだ」
「総理になってくださるのでは? そのための仲間作りの毎日ではありませんか」
「政治家はやめたいなあ」
 その言葉に善三が驚いた表情をする。
「……何を。これから国政に出て行くという時に」
「お前と二人で、日本の子供たちを育てる、そんな仕事をしたい」
 善三ははっとして動きを止める。
「わしはな……。お前と二人で生きていきたいんだ。わしはお前にとことん惚れとるからな」
 さらりとした告白だった。
 今まで言えなかったことが嘘のようだと木内は思った。
 今言わなければ後悔すると思ったのだった。
「わしはな、お前を一目見た時からこう……どう言ったらいいのかわからんが、お前のことしか考えられんようになってな。毎日毎日お前の顔を思い浮かべてお前に会いたくて」
 そう言いながら照れたような表情で真っ赤な顔をする。
「お前がうちに来るようになった時は天にも昇る嬉しさだったんだ」
 善三が驚きの表情を崩せない。次から次へと驚くばかりの言葉だった。
「………………」
 そして涙ぐむ。
「……樺沢さんは……」
「ん? 菊治?」
「先生は樺沢さんのことを思い続けていらっしゃるのだと思っていました」
「あ? どうしてだ?」
「そう皆さんがおっしゃっていましたし……」
 木内が自らの額を叩く。
「なるほど!」
「……はい……?」
「だからあんなよそよそしい態度を取ったのか」
 合点したように、ああ、そうかと言いながら頭を掻きむしる。
「それは誤解だぞ。菊治はわしのことを好いてはいなかったし、わしも秘書以上の感情は持っていなかった」
「でも……!」
「身体のことを言っているのならば、それで菊治が何の為にわしの元で働いているのか確認するためにしていたことだ…借金返済の為だと菊治は自分を納得させていたんだ。そこに惚れた腫れたというものはない」
「………………」
「その証拠にお前には手を出せなかった。真に惚れるとそう簡単にはできない。自分の都合を押し付けるようなことはできん。契りとなるからな。……まあ。触るくらいは許してもらえるだろうと思ったが」
「……そういうものなのですか…?」
「ああ。身体を触るのと契るのはまったく違う。お前はどうだ。わしをどう思っている?」
 善三はこんな愚問はないだろうと思った。
「なにを今さら…わかっていらっしゃるくせに。好きでもない人と毎晩、共に眠れるはずがありません」
 木内が切ない表情を浮かべる。
「国会議員になれば、お前に相応しい者になれると思っていた。それまでは我慢するつもりだった。だからその時、契りを結んでもらうようお前に頼もうと思っていた。二世の誓とともにな」
「……二世……」
「お前に嫁など来させぬように、一生わしの元にいるように」
 善三の瞳からぼろぼろと涙が零れる。
「お前と離れぬように」
 善三が鼻をすすり、首を左右にふる。
「士官学校に行く気力を削ぐような話をしないでください」
「将来の楽しみになるだろ。お前と二人きりで住みたい。屋敷などいらん。小さな家で充分だ。賄いも二人でやるんだ」
「ふふふ。できますか?」
 善三が泣き笑いをする。
「ああ。できるさ、米を炊いて、味噌汁を作り、糠床からきゅうりとなすを出して。魚を焼いて」
「洗濯も掃除も二人で?」
「そうだ。当然便所掃除もだ」
 善三が吹き出した後、渋い顔をする。
「みんな私の係になりそうです」
「そんなことはない。わしもできるぞ」
 得意気な顔をする。
「雑巾掛けなぞ得意だ!」
「私も負けません」
「薪割りもうまい」
「どちらが早いでしょう」
「その薪で、お前の為に風呂を沸かす」
「え……」
「毎晩、二人で縁側に座り、夜空を見ながら晩酌して」
「…………」
「星の出ている夜は星を眺め、月夜は月下を楽しみ、雨の日は雨音を聴き」
「……詩的ですね」
 木内が、ははははと笑う。
「なかなかだろ?」
 夢である。
 誰にも邪魔されずに、しがらみのない二人だけの生活。
「そしてな……」
 木内が優しく善三を抱きしめる。
「そして……抱き合って朝まで寝るんじゃ」
 善三の瞳から止め処もなく大粒の涙が零れる。
 木内が必死に涙をこらえる。
「……そういう日々が待っている。だからそれまでの辛抱じゃ」
 声が震えていた。
「ならば……契りは今でもいいのではないですか……」
「だめじゃ。お前を手放せんようになる。先の楽しみにしておこう。その代りならいくらでもしてやるぞ。ほれ……」
 長い接吻をすると善三の涙は止まった。


 *********


 陸軍士官学校の朝は早い。
 五時半の起床ラッパが聴こえたら、全員、即ベッドから起き、着替えて集合場所に走る。
 そして朝の体操を始める。
 体操が終わると、タワシで身体を擦りあげ、善三はそれまで武術の師匠の菅谷に鍛えられたとおり、乾布摩擦は行っていたが、タワシによるものは初めてで、その痛さに最初は悲鳴を上げたくなった。
 ゴシゴシと全校生徒で自らの身体を擦りあげる光景は圧巻である。
 その後、神社礼拝、宮城礼拝、故郷礼拝をした後、七時に朝食を食べ、1時間の自習時間を経た後に授業が始まる。
 学習内容は、英語、露語、独語、支那語、仏語、漢文、倫理、化学、物理、地学、数学、歴史などの学科、鍛練として、モールス信号、射撃、剣術、柔術、弓道、馬術、鉄棒等の器械体操など、毎日ヘトヘトになるまで詰め込まれ、叩き込まれる。
 予科ではそのような基礎学習となり、本科で戦術を学ぶ。
 五時に入浴、
 六時に夕食、
 七時まで号令調声、軍歌演習、
 七時から九時までが自習時間となる。
 九時半に消灯であるため、手紙を書くならその時しかない。
 善三はその自習時間を木内への手紙を書く時間に充てたい為、授業で何ひとつ聞き漏らさずにいようとした。

『先生。
 お健やかにお過ごしでいらっしゃいますか。今度先生がこちらにいらっしゃれる日を楽しみにお待ちしております』

 全国を飛び回る木内が朝霞に来ることは容易ではなかった。
 そして、週末に木内を訪ねようにも留守が多かった。
 善三自身がその忙しさをよくわかっていた。
 衆議院解散総選挙まであと一年、知名度をあげる為の活動などいくら時間があっても足りない。
 本当は自分がそれを手伝いたかった。

『今日は皆で遠乗りに行きました。馬を休ませていたら村の子供たちが寄ってきて大騒ぎになって大変でした。子供は可愛いですね。明日は海に行き、遠泳をします。苦しい訓練になるとわかっていますが、泳ぐのは好きなので楽しみです。梅雨が明けましたからこれから暑くなりますね。どうぞご自愛くださいますよう』

 万年筆を置きながら溜息を吐く。
 本当はもっと違う事を書きたい。
 毎晩、顔を思い浮かべて添い寝しているつもりで寝ているとか、入浴後は外に行き、先生の大きな手を思い出しながら身体の熱を吐き出しているとか、そんな熱い思いを書きたかった。
 しかし、誰が読むかわからぬ手紙にそんなことは書けなかった。
「恋文か?」
 隣りの席に座りながら忍び声で言われた。
「前田殿。違います。家族宛てです」
「顔に書いてあるから隠しても無駄だ。真野殿はかわいいのう、はははは」
「前田殿。お静かに」
 善三が人差し指を立てる。
「おお、すまんの。恋しい人の邪魔をして。ん? それで? 真野殿を射止めたのはどんな美女だ? 写真はないのか?」
「ありません」
「くくく。やっぱり恋文じゃないか」
 善三がつんとする。
「おほん。勉強しますので」
 追い払うように手をひらひらとさせる。
「真っ赤になってますます可愛らしい。くぅ〜」
 成績優秀な前田侯爵の嫡男は豪快な性格だった。
 前田家は言わずと知れた元加賀百万石の大大名の藩主であり、誰でも一目置く。
 最初から陸軍幼年学校に進み、士官学校に進学した。
 父は陸軍大臣の東條英機と同期で、陸大を成績三番で卒業するという優秀さで、軍人一家となっている。
「前田殿と違って必死にやらないと良い点数が取れませんから」
「真面目だなあ」
「ここで真面目でないのは前田殿くらいです」
「いや、宮様もなかなかだ」
「は?」
 二人の話し声に周囲は苛立ってくる。
「前田殿! 真野殿! 勉強しないのなら出て行ってくれないか!」
 善三が、あー、もうだから…と片目を瞑る。
「毛利殿。すまない」
「長州はやはり気が短い。短慮で浅慮という点では敵わんのう」
 前田がにやりとした。
「何を貴様!」
「やるなら相手になるぞ。表に出ろ」
 善三がおろおろしていると、毛利は額に青筋を立てて、前田の肩をダン!と叩きながら、外に向かう。
 前田がぎろりと睨み、追い立てるように外に行く。
「ち…ちょっと……」
 裸足になった二人はいきなり取っ組み合いの喧嘩を始める。
 すると皆はそれを観戦しようと群がり始める。
 教官を足止めしようと生徒は通路を塞ぐ。
 ――やれ! やっちまえ!
 ――いまだ、そこだ!
 ――腹狙え!
 ――顔だ! 決めろ!
 野次馬は前田殿に一円だ、毛利殿に二円だ、と賭け始める。
 しかし、九時のラッパが鳴ると、二人は動きを止めた。
「覚えておけ」
「貴様こそ」
 二人は睨みあいながら点呼の場所に歩き出す。
 善三も呆れながら歩き出した。
 前田も毛利も同室で、華族は華族で集められていた。そして模範であるよう求められていたが、模範どころか二人のせいで問題児である。
 だが、前田の父が陸軍での地位が高い為、大目に見られていた。

 九時半の消灯後はベッドにもぐり、ようやく自分の時間となり、善三は木内から貰った 懐中時計を取り出して頬につける。
 二人で撮った写真が入っている。揃いの時計、揃いの写真である。
 ……先生…。
 木内の温もりを思い出す。
 ……善三。さあ、もう寝ろ。
 ……はい、先生。
 ……昼間は暑かったが、夜は涼しいな。
 ……ええ。風が心地よい…。
 ……明日はわしが髪を刈ってやる。
 ……お願いします。母はがっかりするでしょうが、先生にお願いしたいので。
 ……ああ、男前にしてやる。
 ……ふふふふ。
 ……さあ、もう眠れ。
 ……眠りたくないです。
 ……仕方ない奴だな。ほれ、こっちを向け。
 ……はい…。
 重なる唇の感触が甦る。
 ……善三がわしのことを考えている時、わしも善三のことを考えている。だから、いつも一緒にいる。わしは常にお前のそばにいるんだ。
 逞しい腕に抱かれているような気がしてくる。
 毎日しごきに耐えていても骨格が違うのか細身は変わらず、木内のような体格にはならなかった。
 ……だから眠るんだ。
 ……はい、先生。


 *********


 中秋の名月を眺めていると、それが善三の顔に見え、木内はふっと笑う。
 ………会いたいのう……。
 せめて夜に抜け出せるのなら夜汽車に乗ってほんの一時でもいい…と会いに行くが、もはや兵隊に取られたのだと思って諦めるほかないのだった。
 日曜日は街頭演説を朝から晩まで行い、弟子たちの演説にも積極的に顔を出した。
 応援演説をしていても、気は朝霞に飛んで行っていた。
 軍人になることが一兵卒として戦地に行くことになるより善三を守る手段なのだから、耐えるしかないのだった。普通では入りたくても入れない士官学校である。出征した弟子たちの話は凄惨なものだった。まだ弟子に戦死者は出ていないが、戦争が長引けば長引くほどその危険は増していく。
 アメリカが中国にさらに借款供与を行ない、イギリスは一千ポンドという借款供与をし、そして、ビルマルートを再開した。
 ソ連はドイツの攻撃の危機感からこの戦争への介入をやめ、日ソ中立条約、中ソ中立条約を結んだが、アメリカの執拗さは異常さを増していくのだった。その根底にあるものが人種問題であるから厄介である。アメリカは黄色人種など絶滅してしまえばいいというほどの嫌悪感を持っており、それに注意を引かれすぎていた為、ソ連がどれほどの脅威であるか見過ごしてしまっている。いずれにしても、
「どこの国も醜いなあ、誠にえげつない、なあ、善三」

 月に雲がかかり、朧月となる。
 ……もう寝たか…。
 夢で逢うにも自分はなかなか眠れない。
 付き合い酒で泥酔して帰ってきても、寝床に入った途端、眠れなかった。
 世の中は殺伐としていく一方だったが、不思議と自分の心は潤っていくようだった。
 月見をしながらの酒は、善三と一緒にいるようである。
「今日はな、新聞記者が煩かったぞ。東洋新聞の山田とか言ったな。わしが私腹を肥やしているんじゃないかなどとふざけたことを言っておってな。まったく腹が立った」
 確かに『手数料』はもらっていた。当然のことだった。どれほどの犠牲を伴っているのか、それに見合う手当がなければやっていられない。
 アメリカに行くことが決まった。
 例の如く裏外交である。
 その資金も都合をつけるのである。
 金などいくらあってもないのと同然であった。


 *********


 ワシントンに着くと、正式訪問をしていた秀一や日本大使館の外交官らは、結局大統領に会えぬ門前払い状態で、外交の道筋も立てられずにいた。
 そこに阿片王と呼ばれている城島と共に渡米し、まったくの非公式で、記録は一切残さずという約束で大統領は時間を作った。
「お時間をいただき、大変恐縮です。ミスタープレジデント(大統領閣下)」
 城島は相手がどんな人物であろうと臆することはない。飄々とした表情でそう挨拶した。
「作らないと死人が増えそうだからな」
 大統領はいかにも不機嫌そうな顔でそう言う。
「石油王殿がそれほど見境ない方であるとは思っていませんが」
 その会話を遮るように右手を出す。
「どうでもいい。用件を言え」
 嫌悪感を露にした高飛車な態度に城島が眉を動かす。
「もうこの辺で終わりにしましょうや」
 城島は座るように言われた椅子に鷹揚に腰かけながら言った。
 木内もそれに従うように腰掛ける。
「アメリカから支那に渡しているあの金、どこに消えているか把握していますか。蒋介石は私のところのアヘンを買っているんです」
「……なに…?」
「あんたがたはアジア人を猿だと言っているようですな。まあ、いいですが。…ふ。日本語には猿を使った言葉がたくさんある。猿真似、猿芝居、猿知恵…」
「まさに君らを象徴するような言葉ではないか」
 自ら言った嫌味に大統領が顔を歪ませると城島がくすくす笑う。
「そう。猿は猿なりに知恵がつくもんです。この木内は実にうまくその金を廻している」
 木内が資料を机上に積み上げるように置く。
「閣下。蒋介石の息のかかったと思われる口座、その売り先、香港経由で購入者はアメリカ人です。アヘンからモルヒネを作っているということは調べがついています」
 語りかけるような木内の口調に大統領は明らかに顔色を変えた。
 城島が大きく息を吐く。
「…もう、戦争終結の時ではありませんかね。蒋介石も和解の糸口を見つけたいんです。それにはもうアメリカさんに手を引いてもらわんと」
「蒋介石の話を訊いてみないことには判断がつかん」
「それもそうでしょう。そちらもここまで投資して見返りがないことには国の人々が黙っていない。だが、そこに拘って何の得がありますかな。ひとつ提案なんですがね」
 城島が地図を広げる。
「我が方でこの海の真ん中にひとつ爆弾を落とさせてもらって、日中の戦争介入に対する脅しをする。そしてアメリカさんは、アジアの戦争にアメリカが参入することは不必要であるということを国民に訴えて、爆弾を落としたことへの損害賠償を請求する」
 城島がゆっくりと通訳を意識しながら話して大きく溜息を吐く。
「我が方はそれを支払って、おたくさんにごめんなさいをする。そして、蒋介石に金を握らせて、この戦争を仕舞いにする」
 大統領が眉をぴくりとさせる。
「石油王はどうしてもアヘンが欲しいそうだが、それを閣下が受け入れるならそっくり渡してやってもいい」
「それじゃあなたは商売にならんだろう」
 城島はくすりと笑った。
「実は失うものはもうないんですわ。この身ひとつくらい何とでもなる」
 しかし、その資金力、影響力たるもの、身ひとつなどと言えるものではない。木内はその城島の人脈に舌を巻いていた。自分はまだまだだと思い知るばかりだった。この城島と協力するよう設定したのは、けんし王女だった。陸軍はなるべく引き合わせたくなかったようだった。とにかく城島に近づいたことで一気に扱う金の額が増え、より危険さが増していた。
「この狂言に乗ってくだされば、残るのはソ連だけです。アメリカさんもその恐ろしさをよく知っておくといい」
 大統領が舌打ちする。
「投資した金は回収したい。そして正義を貫かなければならない」
 木内はほっとした。相手から要望が出てくればこちらのものである。
 城島が木内の顔を見て、発言を認めるように小さく頷く。
 木内は大統領をじっと見た。
「正義は、アジアの平和にアメリカが寄与した、そして、その見返りとして上海を割譲されたというのはいかがですか。イギリスの香港とアメリカの上海、アジアにおける最大の貿易都市となるでしょう」
 木内のその言葉に大統領の心が揺れる。
 城島が畳み掛けるように言葉を繋ぐ。
「石油とアヘンはアメリカのものだ。我らはそれを買い、貧しい中から、次の産業を目指す。我が方は大損ばかりで何も残らんがいいとしましょう」
「国民がそれを受け入れるのか?」
「希望が残るでしょう」
 城島が遠くを見るような目をする。
「日露戦争の時もそうだった。これ以上はもう戦いたくないんです。元々日本人というのは争いごとが嫌いなんですわ。なるべく穏便に済むならそれで過ごしたいという気質でね」
「島国だからそれで通用するのだ」
「そういうことでしょう。だが、別に悪いことではない。ああ、そうそう、蒋介石の裏切りはソ連の仕業です。蒋介石はそれを受け入れてから本質に気がついたんですわ。今は戦時中ということで国民も昂揚しているが、終戦してからの身の振り方を考えれば、共産主義が国に拡がって恐ろしい目に遭うのは自分だとわかっているんです」
「…………………」
「アメリカさんは、そのうち起きるソ連との戦いに備えた方がいい」
 大統領はそうは言われてもそれがあまり現実として実感できない。
 木内が資料に指をそっと乗せて、大統領を見る。
「香港の取引の裏を取れば、蒋介石も言い訳できないはずです。我々は真実を伝えています。ソ連から逃れる道を模索していたんでしょう」
 木内の射るような真っ直ぐな視線に大統領は若干気圧される。
「………時期は知らせる」
 城島がにやりと笑った。
「軍の連中にその計画を実行できるよう言っておきましょう。歴史に残る美談の工作を頼みますよ」
 石油王がアメリカの真の支配者であると言っても過言ではない。石油の相場ひとつで国家予算は大きく変わってくる。
 大統領は忌々しげな顔をした。
「…アメリカは正義の為に戦っている」
「おっしゃる通りです。実に見事で理想的な国家だ。国民の果敢さはその心根の正しさから来ている。心から尊敬いたしますよ。まあ、我々を猿だと言っているのは気に入らんがね」
 城島は真剣な顔をして言った。そこに嫌味は感じない。
「だからこそ、いつまでも喧嘩している場合ではないと思っているのです。次の段階に進まなければ。彼もそう言っていました」
 真の支配者のことである。
「うまくやれなかったらどういうことになるかわかっているのだろうな」
 大統領が椅子から立ち上がり、威圧するように言う。
「うまくやりますよ」
 城島がそう言い、木内は頭を下げた。


 *********
 

 帰国した後しばらく参謀本部から帰してもらえなかった木内は、自宅に着くと倒れ込むように布団に身を沈めた。異常な疲労感だった。
 ………今回はさすがに草臥れたな……。
「先生。お身体をほぐしましょうか」
 障子ごしにそう声をかけられる。左足を負傷して戦地から戻ってきて、書生から秘書になった恩田龍平だった。選挙活動で多忙さを増している中、善三不在の穴を埋め、混乱せずに済んでいる優秀な人材のひとりである。
「ああ。頼むか」
 龍平は静々と障子を開けて入り、一礼して、肩に親指をぐいと押していく。
 貧乏華族でまともに学校も通っておらず、家庭教師代わりだった父親が芸者と心中したという家で育ったにもかかわらず素直で真っ直ぐな性格をしており、生まれ持ったものなのだろうと思っていた。
 菊治がやってきた時のような、刺し違えてもいいと思わせるような気迫はなく、この世の不幸を全て背負っているというような絶望感もなさそうな楽観的な気質なのか、おかげで気楽にそばに寄らせることができた。
 他にいくところなどなければ、大人しくするしかない、人間はそういう環境に置かれると、それに順応していくようになる。
「具合はどうだ」
「ご心配いただきましてありがとうございます。歩くのは問題ないのですが、走ることは難しいようです。負傷兵とは情けないかぎりで」
「お前はもう十分戦ったということだ」
「先生はずっと戦い続けていらっしゃいますね。随分お疲れのようです」
「ああ。さすがに今回は疲れた。長旅だったからな。しかも城島の親父と付き合うようになってから気疲れが多い」
 そう言いながら、龍平相手に珍しく弱音を吐いてしまったと苦笑する。
「お疲れ様です」
 その言い方が若干善三に似ている。善三に会いたいという思いが募ってくる。
 背中を押されると心地よい眠りに入れそうな気がした。
「……先生。どうぞこのままお休みください」
 木内は、ああ、と言おうとしたが、口が開かなかった。
 今回の渡米でのことが形になれば、戦争が終わる。
 そうすれば善三は士官学校をやめることができる。それまでの我慢である。
 その為の城島の機嫌を取ることなど造作もないことである。

 ――先生。厳しい訓練の毎日ですが、随分慣れてきました。最近とても身体が軽くなったような気がします。そして、背が日に日に伸びていくようで、すぐ服が小さくなってしまい、庶務官の人が驚いています。今まで小さかったから急に伸びているのでしょうか。

 ……会いたいな…。その姿が見たいな…。

 ――同室の前田殿と毛利殿はいつも喧嘩をしていて、消灯時間まで口論していることが多く、寝るまで騒がしくて大変です。挙句には、私がどちらの味方につくのだと追い詰められて、どちらにもつけないと言うと、ならば腕相撲で決めようなどと言われて困ってしまいます。本当に迷惑な人達です。

 ……少しは楽しく過ごしているか…。

 ――先生は夜をどうお過ごしでしょうか。

 ……しょぼくれておるぞ。お前がいないことに耐えられんでな。

 ――星降る夜のその星の瞬きに目を細められる先生のお顔を、月が照らす夜の月下で酒を酌むお姿を、そして雨の夜のその雨音に耳を澄まされるご様子を思い浮かべております。

 ほろりと涙が零れる。

 ――どうか、よい夢を。夢でお逢いできますように。

 ……ああ。夢で逢おう…。
 指が頬を這う感覚を得ると、夢で善三が触れてくれているのだと嬉しくなる。
 善三と契りを結ばなかったことを半分悔やんでいた。
 弟子の身体を玩んだものとは確実に違うとわかっていたからこそ恐れたのだった。
 ……わしはお前に溺れてしまうのが怖かったんだぞ。わかるか、この心が。
 情けない限りだろう。心底惚れるというのはこういうことなのだ。
 おそらくみんな同じだろう。
 臆病者になるのだ。
 何もかも捨ててしまいたい。
 自分の命さえどうでもいいと思う。
 ましてや世の中がどう動こうが構わない。
 お前と過ごす事以外に何も喜びを得られん。
 お前の笑い顔、笑い声が何より大事だ。
 お前を守る為ならば何だってやってやる。
 だから……。
 もう少しで……また共に暮らせる。
 まもなく戦争が終わる。
 そうしたら二人で過ごせる。
 あと少しの辛抱だ。
「……ぜ…ん……」
 ―――お前と共に生きていくんだ……!


 **********


 だが、事態は木内の望むのとは逆の方向に進んでいくのだった。
 城島の話を訊いた陸軍と海軍で意見が食い違っていき、対立していく。そしてアメリカを食い止めるには戦力を奪う方がいいという結論になっていった。
 城島と木内は、その内容を陸軍大臣から訊かされて、しばらく放心して言葉を出せなかった。
 城島も木内も大統領の会見設定の、石油王に渡す金を工面する為に、またもや私財を投入する羽目となっていた。その上でなった一縷の望みを絶とうとしていることに憤りを通り越して、茫然としてしまった。
 陸軍省を出てから城島は口を開いた。
「宗一さん。こりゃだめだ。戦争が終わるどころか、ますますひどくなる」
「……………」
 衝撃が大きすぎて木内は何の言葉も出せなかった。
 城島に肩をぽんと叩かれる。
「あいつがあれほど腑抜けだとは……どうやら骨折り損の草臥れ儲けだったな」
 大臣もあいつ呼ばわりである。
 電気を使って儲ける話はまだ後の話だ……と城島は溜息を吐いた。
 木内は足元が覚束なくなりよろける。
「……戦争を終わらせる気がないのか……?」
 壁に手をつきながら肩を震わす。
「わしらができるのはここまでだ。これ以上は介入しようがない。何と言っても相手の一番偉い奴と話をつけてきたんじゃ。それを無視されたら他に交渉相手はおらん。揃いも揃って何たる連中だ」
 城島は吐き捨てるように言った。
 木内はその事実をなかなか受け入れられなかった。
「……そんなばかな……うそじゃ……」
「宗一さんよ。更に長期化となれば物資が不足する。何とか運べんかな」
 援蒋ルートでの横流しは続けている。
「……どこから……」
「どこでもいい。とにかく商売人としては物の確保が最優先だ」
 まだ終わらせることができないという現実に木内は吐き気がしてきて口を覆う。
「これ以上、どこから泥棒してこいというのか…!」
 なるべく大きな声を出したくなかったが、言わずにはいられなかった。
「わしらはここで負けるわけにはいかん」
「……そうだろうが……」
 戦争は終わるはずではなかったのか……!
「いいか。所詮これは負け戦だ。早く白旗を上げてくれればいいが長引けば悲惨な事になる。負けた後のことを考えて行動せねばならん。頼んだぞ」
 木内はすっかり子分扱いだった。
「……負ける……」
「ああ、前門の虎後方の狼だ。八方塞で逃げ場がなく、同盟国の援軍など当てにならない。宗一さんはアメリカとの戦争はだめだと言い続けていたではないか」
「その時と今とでは状況が違う」
「そうだ、より悪い方を向いているということだ」

 そして、アメリカは日本に痛烈な要求をしてきた。
 それが「ハルノート」と呼ばれるものである。
 その内容というのは、日本が中国から撤兵すること、ドイツ、イタリアとの同盟から抜けること、中国の政府に関わらないことなどで、要は戦争を終わりにして即時撤退しろと言っているのであり、アメリカ流の正義を示したこととなった。
 陸軍大臣がこれには理由があると言っても、裏工作を信用しようとしない陸海軍幹部らは、これをそのまま受取り、徹底して戦うべきと強硬な主張を繰り返し、報道関係もそれを煽り、結果、それに押し切られるようにアメリカと戦うという政治決定をしてしまったのであった。
 そしてその一週間後、日本軍は攻撃を開始した。それが、
 昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃である。
 アメリカ大統領の怒りは半端なものではなかった。
「おのれ……、卑怯者のジャップは皆殺しにしてやる!」
 戦死者は二千人を超え、軍艦十隻以上撃破、戦闘機三百機以上の損害を出し、国中から日本を叩きのめせという声が上がった。
「正義を見せつけてやるのだ!」
 ―――リメンバー パールハーバー!
 これによりアメリカが堂々と戦争に参加する口実を与えたこととなり、イギリス、オーストラリア、カナダ、フランス、ソ連、中国の連合軍が形成され、それに対抗するのがドイツ、イタリア、ハンガリー、フィンランド、ルーマニア、ブルガリア、タイ、ビルマ、日本となり、日中戦争は世界大戦の一部となっていったのである。


 *******
 

 真珠湾の勝利に湧く日本であったが、秀一は敗北感に打ちのめされていた。
 奇襲作戦は宣戦布告もしていない実に卑怯な行為であると日本の非をアメリカ側が訴えたからである。
 御前会議でアメリカとの開戦を決め、それから宣戦布告の声明を発表、それをアメリカに伝える、そのことを邪魔したのは軍幹部だった。
 しかし、手続き怠慢と外務省の汚点であるとして声高々に言い放っているのである。
 ………不意打ちとはいかにも卑劣な作戦だ…。
 それで戦績をあげたと鼻息を荒くしている軍人らに嫌悪感を持った。
 その勢いのまま、各基地を襲う日本軍は連戦連勝をあげているかのように見える。
 そして、何もできぬ自分に一番腹が立った。
 それは父昌和も同じだった。
 役所に詰めていても各国から非難の電文を受け取るばかりの狂気の場所から逃げて帰宅すると、父が道場にいた。菅谷が相手をしていた。
 秀一が面を被り、稽古の様子を見ていると、息を上げながら菅谷から面を取ろうと打ち込んでいく昌和から感じるのは焦りだった。
 ―――もはや貴族院などあってもなくても同じだ……!
 そんな思いが伝わってくる。
 ………父上。今は軍幹部以外で国を動かせる者はいませんよ。
「これまでといたしましょう」
 菅谷にそう言われ、ようやく昌和は竹刀を下ろした。
 どれほど打ち合いをしていたのか、疲労困憊の様子で横に座り、面を外して息を吐く。
「…なんだ。お前は。仕事はどうした。家に帰ってきている暇があるのか」
「父上こそ。総理と今後についてお話し合いをしなくてもよろしいのですか」
「……総理か…ふふふふふ…」
 昌和が物悲しそうに笑うと、秀一も笑いが込み上げてくる。
 情けないという思いが極限までいくと笑うしかないのだと思った。
「………何もできませんでした……」
「それは誰も同じことを思っておるはずだ。お前だけではない。誰もが思っている。だが、こうなってしまったからにはもうどうにもならない。一刻も早く終わらせることだ」
「今までも終わらせるために必死にやってきました!」
「石油がなくてはどうにもならない。それをアメリカに売ってもらっている立場で、客のつもりだったのが大きな間違いだ。アメリカの機嫌を損ねぬうちに早く撤退すべきだった。支那との戦いは避けられぬものだったが、この戦いは違う。避けるべき戦いである」
 城島と木内の折衝はぎりぎりのところの最後の頼みの綱だった。
 石油全面禁輸の経済制裁で軍部は暴走することになり、やすやすと裏工作ができるなど到底信用しなかった。
 昌和がふうと長く息を吐く。
「しかし、このまま勝てる気がしてくるのが不思議だ」
 その後、イギリス海軍、アメリカ海軍を破竹の勢いで打ち破っている日本海軍である。
 秀一がふっと笑う。
「金も人も物も総てにおいて勝っているものなどないのに…」
「なかなか戦上手ということだ。その勝利には大きな力が加わっているように思える。これはもはやどうにもならないものなのだろう。人はその見えぬ力に翻弄させられるものなのだ」
「……大きな力…まもなく衆議院解散ですね……」
「ああ。いよいよ、あれをするのだろう……。現実として叶う日が来るとは思わなかった。木内君も随分働いたものだ。よくここまでやった」
「善三はそれの手伝いをしていたということなのですか?」
「善三はせいぜい書類の管理をしていたくらいのものだろう。働くのは木内君に忠誠を誓っている者たちだよ。ひとりひとりは独立していて見事な組織ができあがっている。木内君は人を動かす天才かもしれんな。かくゆう私も動かされたひとりというわけだ」
 しかし、嫌っている様子はない。
「……私はあまり好きではありません」
「ふふふ。お前とは対極にいるようなお人だからな。だから善三を任せてみた。お前の価値観に縛られるばかりでは窮屈だろうからな」
「父上! それではあまりにも!」
「木内君の善三の話をする時の表情が…何とも良くてな。あの顔を見たいと思ったのだ」
「え?」
「くくく。木内君の弁慶の泣き所にしてやった。はははは……」
「何のお話ですか?」
「善三を守る者が多ければ多いほどよいということだ」
 秀一が憮然とする。
「そう不貞腐れるな。お前も善三が可愛くて守ろうと思っていることはわかっている。だが、お前が守るべきものは他にもある」
 秀一がはっとした顔をする。
「お前は家を守れ」
 昌和が秀一の肩に手を置く。
「私は隠居して国許に行く。皆がどうしても来てほしいと言っている。毎日そのような手紙が届けられる。何か心の支えになるものが欲しいのだろう。私が祖父の代わりになれるわけがないのだが、そういうものを求める人が大勢いるということだ」
「広島に……」
 昌和の手に力が入る。
「安芸の国だ」
「……………」
 その旧地名は古き良き時代に何かを捧げるような響きを持っていた。
 菅谷のすすり泣く声が道場に響いた。
「母上を頼んだぞ」

第五話 契り

 


 衆議院解散の年となった。
 それは、事前のできあがっていた結社により、ほぼひとつの政党にまとまっており、木内の国粋党もその一部の一大勢力は、それはドイツのナチスと同じ様相を呈し、軍部の意向を追認するという体制となった。
 木内はその選挙に当選し、国会議員となった。
 短期決戦でアメリカの主要基地を叩き、片を付けるという方針に賛同し、とにかく早ければ早いほどいいと祈るように日々を過ごしていた。
 その後の日本軍は強かった。
 巧みな戦術を繰り出し、連戦連勝で東南アジアを制していく。そのニュースに国中が沸いていく。
 『大本営陸軍部発表(三日午後四時四十五分)帝国陸軍比島攻略部隊は二日午後首都マニラを完全に占領し、さらにコレヒドール島要塞およびバタン半島の要害による敵に対し攻撃を続行中なり』
 国民はこのまま戦争に勝って素晴らしい日がやってくるのだと信じ、苦しくつらい毎日に必死に耐えていた。娯楽は自粛、贅沢は敵とされ、食料は配給制度での締め付けはますます厳しくなっていたが、好戦続く戦況に、喜んで戦地に物資を送る為と皆は国債を買い、自分の資産を捧げていくのであった。

 ―――先生。三日休みをいただきました。その時にお会いできることを楽しみにしております。

 善三から短い葉書が届いた。詳しい事は何も書けないのだと木内は察した。
 しかし、書いてあるその日程は、いずれも国会に詰めていなければならず、帰宅は何時になるかわからない。その葉書を胸に抱き締める。
 胸騒ぎがした。
「龍平や。善三に伝言してきてくれるか。ここで待つようにと」
 龍平はにっこりと微笑んで、早速次の日に朝霞に向かう。


 ********


 士官学校は一般の人が近づけない緊張感の中にあり、面会を申し出てもなかなか龍平は会えなかった。仕方なく木内の名前を出すと、面会が許され、木内の使いだと訊いて、善三が飛び出してきた。
 全速力で走ってきたのがわかるくらい息を切らしている。
「……あ…。恩田さん……」
 唾を呑込み、息を整える。
「お久しぶりです。随分逞しくなりましたね」
「あ…いや…はは……恩田さんはお身体の具合はいかがですか」
「まあ、相変わらずです。長い間歩くのは少々難儀で」
「……左様ですか……」
 早く返事を訊きたかった。
「あの…先生はお元気ですか。お忙しいのでしょうね…お祝いにも駆けつけられずに…」
 善三が切ない表情をする。
「ええ。とてもお忙しいですね。連日の議会で帰りも遅く」
「…そうでしょうね……」
 …会えるのだろうか…。
「先生からのご伝言です」
 善三がぱっと顔を輝かせる。
「はい!」
「……その…お知らせいただいた日は会合で遅くなるので難しいと」
 みるみる間に善三の表情が沈んだものへと変わっていく。
「あの…遅くても大丈夫です。お待ちしますので…あの何とか…」
「何時になるかわからないのでお待ちいただいても…なので、ご実家でゆっくりしてくださいとのことです」
 善三が瞳を大きく見開いて、龍平を見る。
「…そ…そう…です…か…。では…」
 善三はしばらく黙り込む。息を止めているように見えた。
 まさか会えないと言われると思わなかったのだ。
 しかし、どうしても会いたい。
「では…実家でお待ちしていると…お伝え願えますか……」
 龍平が心底同情するような顔をした。
「はい。そのように伝えます。事情が変わりましたらすぐ連絡します」
「……はい。よろしくお願いいたします」
 善三は深々と頭を下げた。


 *********


 母の絹代は、いつも慌ただしく土曜日の晩に来て、日曜日の朝には帰ってしまう善三が三日間も家で過ごせると訊いて、浮かれていた。
「ねえ、善ちゃん。歌舞伎につきあってくださる?」
「え?」
「最近楽しいことが減ってしまっていて、せめて歌舞伎でも観に行かないと具合が悪くなってしまうわ」
 贅沢は敵だということで公演も自粛気味ではあるが、かろうじて行っていた。だが、絹代の楽しみである銀座の百貨店を見て歩くということは白い目で見られ、買い物できるようなものも売っていなかった。
 善三は躊躇する。
 ………出かけている間に先生がいらしたら……。
 けれど、行っている先を伝えれば、もしかしたら出かけている場所に来てくれるかもしれないと思った。
「はい。何がやっていますか?」
 六代目尾上菊五郎だと絹代は頬を赤らめながら言った。


 歌舞伎座は、少なくなった娯楽に群がるように人で溢れていた。
 同室の前田も母親を連れ立っていて、互いに顔を見合わせてくすくすと笑った。
「これもお役目だな」
「はい。違いありません」
 絹代と前田の母親はすっかり意気投合して二人してうきうきと菊五郎の出番を待っていた。その菊五郎の演目は「藤娘」であり、まるで藤の精が降り立ったかのような幻想的な演出と踊りに皆は溜息をつく。
 ……美しいな……。
 善三はその優美な世界の中で、横にいてほしい人がいない寂しさがこみ上がってきていた。
 前に一緒に歌舞伎を見た時のことが鮮明に蘇る。
 あの時は、ぼろぼろと泣いて…恥ずかしかったな。
 ……これも先生と一緒に観たかったな……。
 前田がぽんと肩を叩く。
「また観に来れるさ」
 善三が泣きそうな顔をしていることを変に勘繰ったようであった。
「……そうだね。きっと……」
 …俺らは勝ちに行くんだ…前田がそう呟いた。
 …前田殿、と善三が小声で注意する。

 時勢がどうであろうとまったく意に介さない絹代と前田の母は似たような姫様ぶりで、お茶をしていきましょうと前田と善三を護衛のように扱い、仕方なくその後をついていく。
 外出着として義務付けられている士官学校の制服を着ている二人は目立ち、注目を浴び続けており、恥ずかしくなる。
「だから出かけるのはいやだと言ったのに。まったく母は言うこときかなくて」
 前田が顔を赤らめてそう言う。
「うちも同じです」
 善三が舌を出す。
 前田が爽やかな笑顔を浮かべて敬礼をする。
「では、残りの休暇、楽しんでくれたまえ」
 善三がこくりと頷く。
「前田殿も」

 家に到着すると、昌和と秀一が帰宅しており、久々に団欒となり、絹代はこの上なく嬉しそうな顔をした。
 善三が休暇をもらったことにどのような意味があるのかわかっていながらも、わからないふりをして、ひとりではしゃいでいたのだった。
「殿。今日は善三さんと歌舞伎に行って参りましたのよ」
 食糧不足から食卓に並ぶのは質素な献立である。白米のみの米はしばらく食べていない。
「そうか。それは楽しかったね。私も行きたかったよ」
「まあ。一度もつきあってくださったことなどないのに、ひどい御方」
「あ? 君が行きたいと言う時は大抵都合が悪い時なのだ」
「嘘ばかりですわ」
 昌和が優しく微笑む。
 仲のいい夫婦である。
 その二人の様子を見ている秀一夫婦がくすくすと笑っている。
 前田様がね…と絹代はひとりで喋っており、昌和はそれをうんうんと訊いている。
 秀一たちは善三がいることで普段沈みがちな絹代が明るくなったことを喜んでいた。
 だが、善三は自分だけが独りきりのような気がしていた。家族の中、自分だけが浮いているような疎外感の中にいた。
 玄関の辺りで物音がする度、つい顔を向けてしまう。
 ………風の音か……。
「父上」
 何故父は家にいられるのに、先生は帰れないのだろうと善三は悲しくなってくる。
「……父上は…お話し合いの場にいなくてもよろしいのですか。兄様も…」
 昌和が寂しそうな表情を浮かべる。
「二人とも閑職であることが恥ずかしいか?」
「いえ! そのようなことを申し上げているのではなく」
「お前の顔を一分でも長く見ていたいと思っているのだよ。なあ、秀一」
 秀一がふっと笑う。
「ええ。赤ん坊だった弟がこんなつわものになって。立派な軍人だ」
 そう言って目を細める。
 昌和はこんなはずではなかった…と思いつつも口に出さぬよう無理やり笑みを浮かべる。
「ところで、木内君のところに挨拶に行かなくてもいいのか?」
 いきなり昌和にそれを言われて、善三が表情を固める。
「……………」
「ん?」
 昌和が善三の顔を覗きこむように見る。
「あの…木内先生は…とてもお忙しいようで……」
 昌和はふむ…と言って顎髭を触る。
「まあ、彼は新人議員だから、奔走していることだろう」
「…ですからこのままお会いできなくても仕方ありません」
 それだけ言うのが精一杯だった。それ以上言ったら泣いてしまうと思った。
「では、私はこれにて。ご馳走様でした」
 自分で言ったことに衝撃を受けていた。
 ――――お会いできない――――
 自分のこれからのことを考えると、ここで会わなかったら一生後悔するような気がした。
 だから、きっと来てくださる…。
 仕事が終わったらきっと来てくださる。
 そう思うことで何とか自分を保っているのだった。

 そんな祈るような思いで待つ善三に対して、木内は、帰宅すれば善三が待ってくれていると思っていただけに、善三の姿が見えないことに愕然としていた。
「……善三は…?」
 龍平が表情を消して、頭を下げる。
「ご実家の方で色々とお忙しいようで、こちらに来ることはできないそうです」
 それを訊き、木内はふらりとした。
「ならば…これから赤坂の屋敷に行ってくる」
 疲労困憊の様子で今にも倒れ込みそうである。
「先生! お休みください!」
 お山の大将でいた時と違い、国会議員としての活動の窮屈さに疲れが増していた。
 がくりと膝をつく。
 ………会えないのか……。
 目の前が真っ暗になった。


 **********


 どれほど体調が悪かろうとも、国会での議論は白熱しており、休むわけにはいかなかった。生活必需物資総合計画について話し合い、衣料、燃料、食料の配給について検討していく。
 木内は思っていた以上に悲惨な状況に打ちひしがれていた。国には備蓄したものがないのだ。しかし戦費は嵩んでいくばかりだった。自分が扱うアヘン以外に資金源はほとんどなく、国民も随分と財産を捧げてしまっていた。
 どれほど国が追い詰められているかその実態に触れ、ただただ恐ろしかった。
「……この時代の総理大臣になったことを天命と心得ている」
 そう悲愴な表情で言われても、腹立たしいだけだった。
 そして、ひとつの敗戦の報せが飛んできて、そんな中の善三の休暇である。
 戦地に行かされるのだとわかった。
 士官学校の生徒が前線に送られることはないだろうと思うが、ひとたび戦場に行けば何があるかわからない。
 全国民の生殺与奪を握る目の前の権力者に、どうやったら善三を危険から回避するよう頼めるのか頭を巡らせるが、脅すか金を握らせるほか方法が見つからないのが己の矮小さを見るようで嫌気が差した。
「……総理。実はお頼みしたいことがあります」

 一大政党を築き上げたのはいいが、それゆえに派閥ができ、そこでの凌ぎ合いに力を奪われていき、外に出ればマスコミが寄ってきて、ろくな働きもしていないのに疲ればかりが増していくことに木内は焦りを募らせていた。
 会議場から出て、廊下をのろのろと歩いていく。
「木内君」
 そう声をかけられ、後ろを見ると昌和が立っていた。
 木内は丁寧にお辞儀をする。
「ここで会うようになったね。君もよくやったよ」
 昌和のそんな言葉に疲れた表情で木内が微笑む。
「ここまで来ましたが、逆に道を失ってしまったように思っています」
「ふ。ここにいる者たちは皆そう思っている。だからこそ慎重に、さらに慎重にとなかなか先に進めないのだ。以前の君の方がずっと良かったかもしれんね」
「…おっしゃる通りかもしれません」
「いや、だめだ。君には閣僚になってもらわんと。はははは」
 木内はそれを目指す気がまったく起きていなかった。
「善三に」
 木内がはっとして昌和を見る。
 昌和がふっと笑う。
「忙しくて会えないと言ったそうだね」
「……え?」
「あの子、明日には学校に戻ってしまう。会ってやってくれないか。見ているほうがつらい」
 意味がわからなかった。
 しかし、凝視され、昌和には全てを見通されているような気がした。
「……ならば……」
「うん?」
「お宅にお邪魔してもよろしいでしょうか……」
 木内が情けない声を出すと、昌和が大声で笑い出す。
「木内君」
「はい」
「私は善三を婿に出したと思っています」
「!」
 昌和は真剣な表情でそう言ったのだった。冗談などではない。
「………それは………」
「ええ。ですから、固めの杯…交わしてやってください」
 木内は口を開けたまま、言葉を出せなかった。
「どうかその絆、大切にしてほしいと思います」


 **********


 木内は会議が終わると国会議事堂から飛び出した。
 秘密警察が慌ててその後を追うが、その行き先がそれほど遠くない真野公爵邸ということで安心する。
 しかし、すぐ出てきてしまい、また走り出して自宅に向かい始め、警備体制を敷く。
 善三に会いに行ったが、出かけていると言われてしまい、行き先は自分の家だと言われて挨拶もそこそこに退出した。
 だが、自宅がある新橋に行っている間にすれ違うのではないかと不安で仕方なかった。
 
 一方、善三は木内邸で門前払いを受けていた。
「大変申し訳ありませんが、許可のない方をお通しすることはできないのです」
 警官が邸の入り口を警護していた。大臣並の警護である。
「あの…木内先生のお母様とも面識があるのです。以前にここに勤めていた者なのです」
「では、もう一度聞いてきますのでお待ちください」
「お願いします」
 しかし、善三が家の中に入ることは許可されなかった。
 ……恩田さん……。
 ……………きっとそうに違いない………。
 家で待てないのならば近くでと思いつつ、外に立っていると陸士さんがいると子供が群がってくる。すると警官が困ったような顔をして、お帰り願えないでしょうかと言った。
 思わず道をきょろきょろと見る。
 いつお帰りになるのだろうか………。
「これ以上は陸軍省にお連れすることになりますが」
 苛立つ様子の警官の言葉に唇を噛み締める。
「……わかりました。ご迷惑をおかけしてすみません」
 善三が気落ちした様子ながらも右手を額につけるようにすると、警官は背筋を伸ばした。
 肩を落としながら歩いていくと、じりじりと焼き付けるような日射に痛めつけられ、なかなか足が前に進まなかった。

 新橋駅に着くと出征を見送る人たちで溢れており、電車も相当混雑しているのだろうと思い、それから逃れるように駅舎から出る。
 歩いて行こうと思った。どうせ何もすることはなく、明日には学校に戻らなくてはならない。
 そしてその後は、聯合艦隊での実地訓練の海軍兵学校との合同訓練がある。
 ……訓練とは名ばかりの出兵である。
 見せられた海戦の映像は想像よりもはるかに恐怖を覚えるものだった。船ごと沈められれば訓練生も共に海の藻屑となるほかない。
 前田は遠泳の訓練が活きるなと高笑いをしていた。
 ……お会いしたかった……。
 不覚にも涙が浮かんでくる。
 歯を食いしばる。
 毅然と前を向いて姿勢正しく、人々の模範となるよう歩かなければならなかった。
 自分は国民から尊敬を受ける帝国陸軍の将校になるのだ。
 会いたいと思っても会えぬ状況に、訣別すべきであると天からの声を訊いた気がした。
 家に着いたら手紙を書こう。学校からでは送れないから、家から送ろう。
 どれほどお慕いしているか、その熱き思いを綴るだけ綴ったものにしようと思った。
 ―――善三!
 一瞬、木内の声が聴こえたような気がして、振り返る。
 しかし、人混みの中、それは消されてしまった。
 ……空耳?
「善三!」
 今度ははっきりと聞こえた。
「……先生……」
 押し戻されそうな人の波をかき分けていくと、その姿が見えた。
「先生!」
 訣別すべきことであるなどと思ったことは一瞬で消える。
 ―――この人の為に自分はある……!
 心を偽ることなどできないのだ。
 伸ばされた手を握る。
「…先生……」
 握り返された手をぐいと引っ張られると、走るぞと言われて、そこから走り抜けていく。
 木内の家のある方向とは逆方向の静かな一角に向かい、料亭に向かった。
 木内が入っていくと、女将は万事承知したかのように案内する。
 静かな庭の眺める部屋に通され、襖を閉められると木内は一秒も惜しいというように善三を抱きしめる。
「善三…善三………善三」
 狂おしいばかりの表情をして、唇を重ねる。
 荒い息を吐きながら食い尽くそうと言うほどの熱い接吻となる。
 舌を絡ませて互いの呼吸がかけあっているようになり激しさを増していく。
 すると善三の身体が硬直していく。
 善三がこのまま達してしまいそうで、慌てて唇を離すが、木内は善三の後頭部を押さえてそれから逃れさせないようにする。
「……先生……」
 善三が首を振ると、木内は跪き、善三のズボンのベルトを外し、熱い塊を口に咥える。
 その瞬間に善三が小さな悲鳴をあげた。
 木内の口の中にその熱が迸っていく。
「……そんな…」
 木内もズボンをおろし、熱く固くなったものを手で擦りあげる。
「……く……!」
 射精したのにも関わらず益々猛々しくなっていく。箍が外されていた。
 はあはあ…と興奮した息づかいをする。
「善三。わしはもう我慢ならん。遠慮せんぞ。お前をわしのものにする。これは契りだ…いいか」
 善三が木内の首に腕を絡ませる。
「はい」
 善三が身体を離して、服を脱ぎ始める。
 休暇はそのつもりだった。どうしても確かなものが欲しかった。
 家の外は夕立が来るようで、ゴロゴロと音が近づいてくる。
 稲光が走ると、それが学校で見せられた戦闘機の爆撃の光に重なる。
 まだ遠いと思っていたが近くにやってきたようで、音が大きくなる。
 全裸になると、いつの間にか木内も服を脱ぎ捨てていた。
 添い寝をしていた時のようなものではないとわかっていた。
 少しばかりの恐怖心が湧く。
「わかっておるか、善三。後戻りできぬからな」
 その心を見破られたかのようにそう言われた。善三は拳を握る。
「はい。わかっています……。私もそう望んでいましたから」
 雷神が雄叫びをあげるかのような轟音が響き、衝撃とともに地を突き刺す。
 砲撃の演習での爆音と、外の雷鳴は似ていた。
 その破壊音は地獄の門を開く音であり、そしてこれからの契りは地獄へ行く儀式なのかもしれないと思った。

 ――――人を殺すのだ――――

「いい目だな、善三。わしはその目に一目惚れしたんだ」
 殺さなければ殺される。
 木内が指を臀部の窄みにゆっくりと挿入していく。
「あ……」
 長く指が入っていくと、その中にある快感に声が上がっていく。
 我慢できない喘ぎ声が指の動きに合わせていき、善三はそれが大きくなっていることに気付いていなかった。木内はその声の卑猥さに我を失いそうになる。
 善三が口から唾液を垂らして、精を抜いたそこから再び液体が滴っていることもわからず訪れる絶頂にわなわなと震えていた。
 絶叫すると外の劈く音に消されていく。
「……入るぞ…」
 それは指とは比較にならなかった。
「ひ…!」
 外の破壊音が耳を素通りしていくと善三は思った。
 それより今、自分の身体こそがいかづちを受けていると。
 歯を食いしばる。
「だめだ。そんなに力んでは」
 何をどうすればいいのかわからなかった。先ほどまでの快感は飛んでおり、熱い塊は、闇を斬り裂き、地面に叩きつける稲妻そのもののようだと思った。
「息をしろ!」
 それも無理だった。
 すると身体からふっと力が抜ける。
「あ…」
 すかさずしがみつく。
「大丈夫です! やめないでください!」
 その声をかき消していくかのような大量の雨が屋根を叩いていく。
 雷鳴は他の獲物を見つけた獣のごとく音が遠くなっていった。
「馬鹿だな。無理をすればいいというものじゃないんだ。もうこれで充分契りだ」
「でも……」
 木内の熱は収まりそうになく、善三がその荒ぶるものに口を近づける。
「やめろ! お前がそんなことをせんでもいい!」
「……だって…あの人たちは…、樺沢さんも恩田さんもそうしていたのでしょう?」
「お前はわしの言うことがまだわからんのだな。あいつらとお前は違う。まったく違うんじゃ。いいか。わしはな、お前の為ならば命なんぞ惜しくないんだ。お前が死ねと言えばこの腹いつでもかっ切ってやる」
「そんな……。先に死んだら許さない……」
 善三が甘えた口調で言う。
「それはどうかな。順番から言えばわしのほうが先だ」
 木内は真剣な顔で言った。
 死ぬな…そう言えない時勢の禁句とも言える言葉の遠回しにした言い方だった。
 善三が厚い胸板に顔を埋めると力を入れた上腕に抱き締められる。
「いいか。悋気など無用じゃ」
 だが、恩田は執拗だろうと思った。
「ならばもう誰もこの身体に触れさせないで! 誰も触れないで!」
「ああ。約束する」
「本当に?」
「本当だ。お前以外の者にこの身体は触らせん。わしも誰も触らん」
 善三がしがみつく。
 離れたくない…離れたくない……離れたくない……!
「もう一度…お願いします。きっと大丈夫です。もっと繋がっていたいのです」
 これが最初で最後かもしれない。
 木内が善三の頬に手の平を載せる。
「一晩中抱いてやる。わしを忘れぬようにな」
 離したくない……!
 いっそ、この今の瞬間、この世が終わればいい……!
 二人ともそう思ったのだった。


 第一章 終

波濤恋情 第一章

お読みいただき有難うございます。
第二章、第三章へと物語は続いていき、現在第四章執筆中です。
時代背景が戦争ということで、重くて暗いものとなってしまいますが、
そんな中での愛というものを感じていただけたら嬉しく思います。

波濤恋情 第一章

時代は昭和初期。 日本は避けられぬ戦争へ向かっていった。 華族の家に生まれた善三は、そんな時代に翻弄されつつ、愛を知り、それを支えに生きていく。 ※男性同士の恋愛です。苦手な方はご遠慮下さい。 誤字脱字重複表現など見つけ次第修正しております。見つけた際にはご容赦のほど宜しくお願い申し上げます。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一話 出会い
  2. 第二話 恋心
  3. 第三話 別離
  4. 第四話 慕情
  5. 第五話 契り