陸《おか》の帆船《ふね》においでよ

001

 とある高校の昼休み。教室の机で1人昼食をとりながら、岡田茜(おかだアカネ)は対人関係について思い悩んでいた。
 アカネは、横浜市内にある私立高校の1年生だ。とはいっても、ここで生まれ育ったわけではなく、横浜に来てからまだ2週間しか経っていない。
 今までは、ずっと札幌に住んでいたのだが、新学期が始まった4月に、父の転勤が急に決まり、5月のゴールデンウィーク明けという、なんとも中途半端な時期に、家族で横浜に引っ越してきたばかりだ。
 父の転勤については、アカネも高校に入学したばかりであり、妹も中学2年で来年には受験のため、父が単身赴任をするとの話も出たのだが、転勤後に札幌に戻れる予定がないことや、大学受験を考えれば、今のうちから横浜に引っ越しておいたほうがいいだろうという話も出て、せっかく入学した札幌の高校ではあったものの、わずか1ヶ月ちょっとで横浜の高校に転入手続きをとることになったのだ。
 そして、ゴールデンウィーク明けという、クラスの人間関係がほぼ出来上がる時期に転校してしまったことと、もともと恥ずかしがり屋で引っ込み思案な性格も災いし、アカネは2週間近く経っても、未だクラスに馴染めずにいた。
 札幌の高校では小学校からの友人も数人いたので、なんとかなっていたものの、とりたて人に話せるような趣味や特技もなく、運動も苦手。勉強も学年で中の上くらいのアカネには、初めて話す同級生との話題も思いつかず、話しかけられても気恥ずかしくて、ゴニョゴニョとよくわからない受け答えをしてしまう。
 部活に入ろうかとも考えたが、この時期に1人新入部員として入部するのは、人見知りのアカネには敷居が高く、これといって興味のある部活があるわけでもないので、現在も帰宅部のままだ。
 さすがにイジメられたり、のけものにされたりはしていないが、クラスでは、いてもいなくても一緒の、なんとなく浮いた存在となってしまっている。

 ――そんな現在の状況をどうするべきかと、アカネが窓の外を眺めながら考えていると、クラスの女子が話しかけてくる。
「岡田さん。今日の放課後みんなでカラオケボックスに行くんだけど、岡田さんも一緒に行かない?」
「あ、ありがとう。でも、私……、そのー、歌とかあんまり得意じゃくなて……。あの、ご、ごめんね」
「そっか、じゃあまた今度ね」
 クラスメイトはそういって、自分のグループに戻っていった。そして、アカネに聞こえないよう、小さな声で話しはじめたが、その声が漏れ聞こえてくる。
「無理に誘わなくてもいいのに~」
「え~でも、まだ転校してきたばかりだし、一応ね」
「ユミコ優しい~。でも、岡田さんって、なんか暗いよね~」
「うん、いつも1人だし、話しかけてもハッキリしないし――」
 そんな言葉を聞いて、アカネは、よりいっそう落ち込んだ。
 せっかく声を掛けてくれたのだから、誘いに応じて一緒に遊びに行くべきなのはわかっている。
 しかし、それができるのなら、最初からこのような状況には陥らないだろう。
 過去に、そうやって無理に遊びに言ったことも何回かあるが、その場のノリや場の空気に合わせるのが苦手なアカネが行っても、場をシラケさせてしまったり、変に気をつかわせてしまうだけだ。
 酷い時には、置物のようにいないものとして扱われたことさえある。まあなにも話さないアカネが悪いのだが。
 そもそも、自分が興味を持てない遊びや話を友達のに合わせることができるのは、アカネから見れば、かなりの高等スキルで、無理に合わせようとすることが、状況を余計に悪くすることを、小学校と中学校でイヤというほど味わった。

 ――高校の帰り道、1人横浜の街をトボトボと歩く。
 春の遅い札幌と違い、横浜の5月はすでに30度を超える暑い日もあり、札幌育ちのアカネには、辛い日々が続いていた。
 結局、1人で本を読んだり音楽を聴いたりしているのが、自分には一番合っているのだと思いながらも、同級生達と交わらず、1人で過ごす高校生活はとても寂しいことだと思う自分もいる。
 そして、そんな現状を変えることのできない、不甲斐ない自分に嫌気がさし、アカネは変化を求めていた。

「なにか興味が持てることが見つかって、同じことが好きな友達と出会えればな……」

 もうすぐ6月になり、横浜では北海道にはないジメジメとした梅雨が始まる空気が漂っている。そんな天気がアカネの気持ちをより暗くさせた。

  ※

 アカネが横浜に引っ越してきてから2回目の日曜日。やっと部屋の片付けや転入後の雑務が終わり、ひさしぶりの休日だ。
 天気もよく初夏のような日差しが降り注いでいるが、気温はそれほど高くなく、北海道育ちのアカネにとっても過ごしやすい、外出にはもってこいの陽気となった。
 相変わらず友達はできず、クラスで浮いた状態が続いているが、悩んでばかりいるのもよくはないし、これから長く住むことになる横浜の街にも慣れなれていかなければならない。
 アカネは気分転換も兼ねて、まだ行ったことのない〈みなとみらい地区〉へ買い物に出かけてみることにした。

 みなとみらい地区は、横浜港に面した再開発地域で、オフィスや大型ショッピングモール、ホテル、遊園地などの他、港町横浜の歴史を感じさせる古い建物が改装されて博物館やレストランになっていたりと、観光地としても有名な場所だ。
 札幌にいたころから行ってみたいと思っていた場所の1つだが、引っ越したばかりで忙しかったために、まだ一度も行ったことがなかった。
 そんな賑やかな場所へ1人で行くことに寂しさも感じたが、母は家の片づけがまだ忙しく、妹も中学の部活で家にいない。
 ふと、一緒に遊びにいける気の合う友達でもいればと思ったが、そんな友達が誰もいない現実が、アカネをまた落ち込ませた。

「しっかりしなきゃ!」

 ――気持ちを切り替え朝の9時半、アカネは1人、〈JR桜木町駅〉の改札を出た。
 ちなみにこの駅は、1872年に日本で最初の鉄道、新橋~横浜間が開通した時の横浜駅として開業し、1915年に東海道本線の延伸により、現在の横浜駅にその名を譲るものの、その後も車社会が到来するまで、横浜港との連絡や貨物輸送に活躍した、由緒ある駅らしい。
 東京駅などのように昔の面影を残す駅ではないが、そんな歴史に想いをはせながら、建物や周りの地形を見て過去を想像するのがアカネは結構好きだ。
 横浜の街には、歴史的建造物も多く残っているそうなので、きっと好きになれると思っている。
 もっとも、このような感覚が今どきの女子高生としてちょっとズレていて、それが友達がいない原因の1つになっていることも自覚はしているのだが……。

 ――駅前は、日曜ということもあり、混んでいるかと思ったが、時間が早かったこともり、まだ街に人は多くない。
「どうしようかな……」
 どこに行くかを決めずに来てしまったので、ちょっと立ち止まって悩んだが、とりあえずは、横浜で一番高い建物である、〈ランドマークタワー〉に行ってみることにした。
 ランドマークタワーは、その名の通り、みなとみらい地区のランドマークとなるような超高層ビルだ。ビルとしては、日本で2番めに高さだそうで、中にはオフィスやホテルが入居し、低層階にはショッピングモールが併設されていている。フードコートなども充実しているらしい。
 69階には展望室もあり、横浜の街と港、東京湾までを一望できると、以前読んだガイドブックに書いてあった気がする。
 アカネが今まで住んでいた北海道は、広大な土地があるので建物は全体的に低く、こんなに高い建物は見たことがなかった。
 ちょっと登って見たいと考えたものの、1人で登ってもとつまらないだろうと思い直し、低層にあるショッピングモールを目指すことにした。
 駅前で地図を確認し、ランドマークタワーの入口へ続く、〈動く歩道〉のほうへと歩いて行く。
 たいていのお店は10時開店なのでまだ少し時間があるが、初めて来た〈みなとみらい地区〉の街並みを見ながら散策すればすぐに時間がたつだろう。
 アカネは、そう考えて長いエスカレータに乗り、地上より10mほど高くなっている動く歩道へ乗ると、ぼ~と景色を眺めた。
 動く歩道はゆっくりと動き、〈赤レンガ倉庫〉、〈汽車道〉、〈コスモワールドの観覧車〉など、ガイドブックに載っていた、みなとみらい地区の観光名所が見えてくる。
 遊びに行ってみたいなとふと思ったが、一緒に遊びにいける友達がいないこと再確認してし、また気分が沈んでくる。
「だめだなー、私……」
 アカネが落ち込みそうになったその時、観覧車の手前にオレンジ色の電柱のような柱が何本も立っているのに気がついた。
「なんだろう、アレ?」
 都市計画できれいに整備された〈みなといらい地区〉にしてはやや不似合いな建造物だ。遊園地のアトラクションなのか、それともビルの建設工事でもしているのか?
 動く歩道の平らなエスカレーターに乗ったまま、先のほうへ進んでいくと、段々とその全体が見えてきた。
「――帆船(はんせん)?」
 それは大きな帆船だった。帆船という物自体は、歴史の教科書や一昔前に流行った海賊映画で見たことがあり知っている。
 最初は遊園地のアトラクションとして作った偽物かとも思ったのだが、どうも違う気がする。
 なぜかというと、その船はあまりにもリアルなのだ。
 船はとても大きく、上に乗っている人がずいぶん小さく見える。船の先端から後まで、100mぐらいはあるのではないだろうか。
 船体は木ではなく鉄でできているようで、真っ白に塗装されている。
 先ほど電柱と間違えたオレンジ色のマストには、アンテナやレーダーのような物もついていて、何百年も前の船を再現したものではないのがわかる。かといって、未来風なわけでもない。
 この船は、現代の船なのだ。
 しかし、現代の船は普通エンジンで走るのだろうし、この船にはなんで帆が付いているのだろう?
 普段であれば気にも留めないようなことだったが、横浜港に近いとはいえ街の中に大きな帆船が置いてある姿は、なんとなくアカネの興味を引いた。
 ショッピングモールの開店までには、まだ時間があったので、アカネは、歩く歩道を降り、その船の近くへ行ってみることにした。

  ※

 その船は、近くで見ると動く歩道から見たときよりずっと大きく感じた。
 船体の上にはオレンジ色のマストが4本あり、そこには帆を張るための横棒が何本も付いている。
 マストや横棒には沢山のロープが縦横無尽に張り巡らされていて、まるで蜘蛛の巣のようだ。
 船体の側面には小さな丸い窓が沢山ついていて、船の中に、沢山の部屋があることがわかる。また、前後には金色の装飾が施され、船に気品を与えていた。
 船首には、大きな黒い錨が載っていて、その横に漢字とローマ字で〈日本丸〉(にっぽんまる)と書いてある。
「この船、日本丸って言うんだ」
 日本丸は、海から少し奥に入った細長い池のような場所に、黒い大きな鎖で繋がれていた。
 池は海と繋がっているみたいだが、船の後ろには橋が架かっていて、海には出られないようになっている。
 そもそも船の周りは公園になっていて、港のようには見えない。やはり遊園地のアトラクションなのだろうか?

 ――この船は、一体何なんだろう? アカネが色々な想像を膨らませていると、色は茶色だが、警察官や消防士のような制服に身を包んだ女性がこちらに歩いてきた。
 どうやらこの船の関係者らしく、何かのチラシを配りながら、船の説明をしているようだ。
 いつもなら自分から他人に話しかけるようなことをしないアカネだが、この船がなんなのか知りたい欲求が抑えられなくなり、思い切って話しかけてみた。
「あの……。この船は、遊園地のアトラクションかなにかですか?」
 女性は一瞬キョトンとした顔をしたあと、笑いだしてこう言った。
「違う違う。この船は、船乗りになるための学生達が実習を行うための船だったの。今はその役目を終えて、ここに保存展示されているのよ」
「船乗りさんですか?」
「ええ、そうよ。今でも外国に行くような大型船の船員になるためには、帆船で実習を行う必要があるのよ。この船も、半世紀にわたって船乗りを育ててきたの。今は二代目の帆船がその役目を担っているわ」
 その話を聞いて、アカネはちょっと驚いた。船乗りになるための学校があることや、船乗りになるために帆船で実習をしなきゃならないなんて全く知らなかったし、そもそも職業として船乗りになるという発想自体、アカネには思いつかなかった。
 普通に高校を卒業して、大学に行って、事務系の公務員か会社員になる。そんな漠然とした将来しか想像していなかったアカネには、この制服の女性の話はとても新鮮だった。
 とはいっても、自分がそのような道に進むことがあるとは思えないが。

「今日は〈総帆展帆〉(そうはんてんぱん)といって、全ての帆を広げる日なの。もうすぐ開き始めるから、良かったら見ていって!」
「帆を広げることができるんですか?」
 見た目は綺麗だが古い船のようだし、もう帆は広げないものと思っていたのだが、制服の女性はアカネの言葉を力強く肯定した。
「もちろん! この船が全ての帆を開いた姿は、〈太平洋の白鳥〉と呼ばれたのよ」
 海の上に浮かぶ大きな白鳥か……。ちょっと見てみたいかも。
 アカネが、そんなことを考えていると、女性は腕の時計を見てこう言った。
「私は、総帆展帆の準備があるからそろそろ行くわね。こちら側でも見れるけど、反対側に回ると広場があって、イスが並べられているから、そこで見学するといいわ」
 そう言って女性は、日本丸のパンフレットをアカネに渡して去っていった。
 アカネは、パンフレットを開いて船の説明を読んで見る。
『日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船(れんしゅうはんせん)です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育てて……』
 どうやらこの船は、船員を養成するために日本が作った帆船で、今は横浜市が所有し、この場所で保存展示されているらしい。
 お店はもうすぐ開店の時刻だが、とりたてて急ぐわけではない。
 アカネは、総帆展帆を見てみることにして、制服の女性に言われたとおり、船の後ろに架かっている橋を渡って、反対側へ歩いていった。

 ――橋を渡ると、女性がいったとおり椅子を並べた広場があった。
 広場は石造りになっていてわりと広い。日本丸の前には一段高いステージがあり、大きな字で〈日本丸メモリアルパーク〉と彫ってある。
 どうやらこちらが正面になっているようだ。
 後ろには〈横浜みなと博物館〉という、横浜港をテーマにした博物館もあるようで、その後ろは芝生の公園になっていて、海も見える。
 すでに日本丸の前の広場には沢山の椅子が並べられ、お年寄や親子が帆が張られるのを待っていた。大きなレンズのカメラを抱えた人たちもたくさんいる。
 アカネも端っこの椅子に座り、一緒に総帆展帆が開始されるのを待つことにした。
 ――しばらく待っていると、博物館の奥にある建物から、黄色い帽子と真っ白な作業服を着た人たちが何十人も出てきて陸と船をつなぐタラップを渡り、続々と帆船へ乗りこんでいく。全部で100人ぐらいはいるのではないだろうか?
 白い作業服の人たちの性別や年齢はバラバラで、男女比はだいたい半分くらい。年齢も20代から70代くらいに見える人まで様々だ。
「船の帆を張るのに、こんなに沢山の人が必要なんだ……」
 白い作業服の人たちは、船の上の倉庫のような所から順番に黄色いベルトを取り出して腰に巻き、4本あるマストの下にグループを作って集まった後、準備運動を始めた。
 先ほど出会った女性も船の上にいる。彼女は白い作業服ではなく、先ほどと同じ茶色の制服を着ている。
「偉い人なのかな?」
 アカネがそんなことを考えていると、白い作業服の人たちが船の上で整列を始める。いよいよ〈総帆展帆〉が始まるようだ。そして、その中に1人の少女が混じっていることに気付いた。
 はじめは背の低い大人の女性かと思ったが、どうみてもその容姿は中学生か高校生ぐらいだ。
「何をするんだろう?」
 自分と変わらな年の少女が、大人たちに混じっていることの違和感と、同年代の親近感から、アカネは自然とその少女の方に目を向ける。
 もちろん展帆作業をすることは理解できるのだが、少女が大人達と同じ作業ができるとは思えず、なにをするのか疑問が湧いてくる。
 ――しかし、その疑問は〈展帆開始〉の号令が掛かると同時に驚きに変わった。 なんと、その少女が船の横からマストへと伸びている梯子のようなロープに取り付き、大人たちと一緒にマストの上の方へ登っていくのだ。
「!?」
 アカネが驚きで言葉につまる間に、少女はマストをスルスルと登り、自分の担当らしい場所まで登り終わると、横の棒へと渡って、棒の端の方まで移動していく。
「す、すごい……」
 どう見ても少女がいる場所は船の水面から20~30mぐらいはある気がする。それに、横棒の足場はロープが1本あるだけで、少女が足を掛けて移動するたびに頼りなくふらふらと揺れている。その下には、デパートなどにあるような安全対策のネットなど一切なく、もし落ちれは船の甲板(かんぱん)まで一直線に落下するはずだ。
 そこは、アカネだったら足が震えて動けなくなりそうな場所だった。それ以前に、あんな高さまで登ることができないだろう。
「――怖くないのかな……」
 自分が登っているわけでもないのに、アカネはドキドキしながらマストの上の少女の作業を見守った。
 しかし、少女は恐怖など微塵も感じていないようにテキパキと動き、他の人たちと一緒に帆を縛っているロープを解きはじめている。
「あんな高いところで作業するなんて、一体どんな気分なんだろう」
 いつのまにか、アカネの驚きは憧れへと変わっていった。

 あんな高いところで平然と作業をこなせるような強い心があれば、人間関係でウジウジするようなこともないんじゃないのか?

 そんな単純なことではないと頭では解っているが、それでもアカネはそのようなことを強く思う。

 ――全ての帆を解き終わったらしく、白い作業服の人たちがマストから順番に降りてきて、最初の位置に整列しなおす。
 先ほどの少女も一緒に降りてきて、何事もなかったかのようにその列に並んだ。
 そして、次の号令が掛かると、それぞれのマストに整列した人たちは、また一斉に動き出した。
 まず、船の先端にある三角の帆が開きだし、続いてマストとマストの間にある三角の帆が開きだす。
 白い作業服の人たちが掛け声を掛けながらロープを引くと、クシャクシャだった帆はドンドン拡がっていき、ピンと張られて風をはらみはじめる。
 さらに次の号令が掛かると、今度は全てのマストの人達が一斉にロープを引き始め、マストの下の方に付いている帆が順番に張られていく。
 帆を張るためには、とても力がいるらしく、1本のロープを10人以上の人たちが掴み、綱引きのように引いている。
 もちろん、少女も大人達に混じってロープを懸命に引いていた。
 そのような作業を何度も繰り返し、最後にマストの一番下についているとても大きな帆が開かれると、日本丸は停泊時(ていはくじ)から帆走時(はんそうじ)へその姿を変えた。
 帆走時の状態となった日本丸は、その真っ白な帆に風はらんで少しだけ船体を傾け、今にも動き出すような錯覚をアカネに与える。
 それは、〈太平洋の白鳥〉と呼ばれていたことを納得させる美しさだった。

 ――全ての帆を張り終えて、白い作業服の人たちが、船のヘリに整列する。数人は船の先端にある棒状の部分にも立っている。先ほどの少女ももちろん並んでいた。
『左舷整列。登舷礼用意』
 スピーカーから声が聞こえる。
 ピピーっと長い笛が3回鳴った後、ピーーピッっと最後に短い笛がなると、作業服の人たちが一斉に敬礼する。観客たちの大きな拍手が広場に響く。
 アカネも他の観客と一緒に拍手を送り続ける。その光景は、まさに今から港から出港する船のようだった。
 気づけば展帆開始から、既に1時間が経っていた。

 展帆作業が全て終わり、白い作業服の人達が船から降りてきて建物へと戻っていく。そのなかには先ほどの少女もいて、大人達と笑いながら歩いていた。
 本当は少女と話をして色々聞いてみたかったが、恥ずかしがり屋のアカネが声を掛けられるわけもなく、そのまま少女を見送ることしかできなかなかった。
「やっぱりダメだなー」
 アカネが、声を掛けられなかったことに、ちょっとだけ落ち込んでいると、先ほどの制服の女性も船から降りてきた。
 途中、アカネがいることに気づいたようで、女性はこちらに向かって歩いてくる。
「どうだった?」
「と、とても凄かったです。あんな高い所に、みなさんあっという間に登って行って――。それに、帆を開いた帆船は、とても綺麗ですね。」
 いつものアカネなら、初対面の人とこんなふうに話すことはできないのだが、展帆前に女性が気さくに話してくれたのと、総帆展帆を見た衝撃で多少興奮していたのか、今日に限っては普通に話すことができた。
「喜んでもらえて、よかったわ」
 女性はにっこり笑うと、何か思いついたような顔になり、話題を変えた。
「ところで、あなた高校生? もし興味があったら〈展帆ボランティア〉にならない?」
 そういって、展帆ボランティア募集と書いたチラシをアカネに渡してくれた。
「展帆ボランティア……。どんなことをするんですか?」
「白い作業服の人たちがいたでしょう? あの人たちのことよ」
 アカネはその言葉に驚いた。
「白い作業服って、マストに登っていた人たちですよね。あの人たちは船員さんじゃないんですか?」
「ええ、普段は船と関係のない会社や学校に通っている、普通の人達よ。彼らは展帆日に、日本丸の帆を広げるために集まってきてくれるの」
「私と同じくらいの女の子がいたんですが、彼女もそうなんですか?」
「ええ、そうよ。普通の高校の1年生。保護者の許可は必要だけど、展帆ボランティアは15歳からなれるの。でも、今は高校生が少なくて、彼女1人だけなのよ。もし、あなたがなってくれたら嬉しいわ」
 まさか、あの人達、そしてあの少女がボランティアなんて……。先ほど見た総帆展帆の作業は、とても普通の人ができるような作業には見えなかった。あんな高いところで行う作業を普通の人がおこなえるようになるものなのか?
「でも、私、運動も得意じゃないし……、あんな高いところ怖くて登れないと思います」
 そう、なかには出来る人もいるのかもしれない。でも、全ての人ができるとは思えない。いくら、彼女にできたとしても、アカネにできるとは限らないのだ。
 しかし、制服の女性はそんなアカネの考えを見透かすように、優しい顔で答える。
「大丈夫よ。最初はもちろん怖いけど、ちゃんと訓練すれば誰でも克服できるわ。展帆ボランティアには女性も多くいるし、70代の人達だっている。それに、マストより高い場所なんて、世の中にいくらでもあるけれど、恐怖を克服して自分の力で登ったマストの上から見る景色は、別世界みたいに綺麗なのよ」
 女性は一旦マストの上を見上げたあと、アカネに視線を戻してこう言った。
「見てみたくない? 見たことのない景色!」

 私が見たことのない景色……。

 アカネの中に、目の前の日本丸のマストへ登っていった少女の姿が浮かんでくる。

 いつものアカネであれば、即座に断っていたはずだ。しかし、今自分が抱えている閉塞感のせいもあってか、制服の女性が言った言葉は、アカネの心の中で響いた――。

陸《おか》の帆船《ふね》においでよ

陸《おか》の帆船《ふね》においでよ

主人公、岡田アカネは父の転勤のため5月に札幌から横浜に引っ越してきた高校1年生。 しかし、趣味や特技もなく、これといった特徴のない自分に自信がなく、引っ込み思案な性格も災いして、新しい学校になじめずにいた。 そんな時、偶然、横浜みなとみらい地区の街中に展示されている帆船日本丸《はんせんにっぽんまる》の総帆展帆《そうはんてんぱん》を見かけ、その魅力に引き込まれる。 全ての帆を張った日本丸の美しさと、同年代の少女がマストへ登っていく様を見て、自分もあんなふうになれたらとアカネは憧れ、自身も展帆ボランティアになるべく申しこむ。 〈陸の帆船〉で繰り広げられる、少女たちの、ゆるふわ帆船物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-17

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