たぶん死ぬまで、君が好き

プロローグ ver.h

白も黒も、ぐずぐずに混ぜ込んでしまえば、そこに私のいる場所はできるのだろうか?



実父は、私が生まれてすぐに死んだと聞いている。
私が気づいた時には、両親と呼べる者がいなかった。まとわりつくのはいつも、「片親なんです」という声と、「ごめんね」という何に謝るかもわからない言葉。そのせいなのか、毎日迎えに来る女性を母と認識するのにはかなり時間がかかった。
一人っ子で他に家族と呼べるものもなく、ぼろぼろと崩れるような土壁のアパートに、母と私は二人で暮らしていた。

保育園にいた記憶は私にはない。物心というものを持ったのは、幼稚園に通っていた頃だ。
鮮明に覚えている、おそらく最初の記憶は、ひどく暗い園内とたった一つを覗いて白い上履きだけが入れられた背の低い靴箱から始まる。
その日はとても冷たい雨が降っていて、冷たい床に膝を抱え黄色い帽子を握りしめていたが、たぶん冬ではなかったと思う。けれど寒かった。そして色がなかった。黄色い帽子以外の色は、線を描いて落ちていく雨粒が瞬く間に灰色へ変えてしまった。

「おかあさん、まだこないね」

と、誰かの声がする。

「さみしいね、もう少しだからね」

さみしくない。
帽子を握る手がひどく白く見えた。私は誰も待っていないのだと、意固地な最初の反抗期を迎えてた頃。
土砂降りの、灰色の中、園の門扉から入ってきたあの人の手を、私は持っていた帽子で叩いた…そんな物心の始まり。私はこの頃から、なんとなく世界が灰の色で出来ているように見えていた。


小学校に入学する頃、反抗期も相まって、私は母を……あの女をひどく憎むようになっていた。

あの人は、運動会に来たことがなかった。
誰かを待つということに幻滅した。

あの人は、学芸会に来なかった。
誰かに見てもらうことを諦めた。

あの人は、入学式に来なかった。
私はもう、なにも悲しくなかったし、なにも楽しくなかった。

あの人は、私の中で母親という意味の全てを壊した。
父親がいないという言葉以上に、私には母親という意味がわからないでいた。
私はあの人を、そう、それは小学校を卒業する頃まで、ひどく憎んでいた。
今でもあの人を母と呼ぶことは無いし出来ない。あの人もそれを求めてはいないのだ。愛情はあるのかもしれないし不器用なのかもしれない。


けれど、彼に会ったあの日から、あの人は彼の母親になった。まるで重たい荷物をおろしたように、私はあの人を彼に押し付けるようにして、母親という得体のしれない憎しみをやっと降ろすことができた。

そう。
私はあの人から開放されたのだ。

彼はとても白くて小さかった。
私とは4つも年の離れた少年だった。まだランドセルが背中からはみ出るほどの、小学校2年生だった。
最初はどうということはなかったのだ。よく聞く、お決まりの自己紹介。

「今日からこの子が、あなたの……はじめの弟よ」

あの人がそう言って、そっと少年の背中を押す。半歩前に出た彼は、恐る恐る私を見上げた。
初めて生き物を見たような……実際、私のような濁った色を見たことのないような、きれいな黒い目が私をそっと映した。
本当に無垢な、本当に弱々しい、けれど優しくはっきりと灰の私を映しだした瞳を、まだよく覚えている。

「いっちゃん、彼が、今日からあなたのお兄ちゃんよ」

小さく、少年は「はじめまして」と言った。
こんにちはと、私の口から出た言葉は、それまで音にしたどんな言葉よりも透明で綺麗だった。
私が出した、彼よりも少し大きな手に、白い白い手が重なった。

暖かかった。とても暖かかった。
肌の色からは想像がつかないほど、小さな手から伝わる体温は私のぐずりと重たい心と体を温めた。目の前に色が挿したように見えた。
その時はわからなかったが、たしかにその時私に家族ができた。弟ができた。
父親も母親もいない私に、何の血のつながりもない弟ができた。

たったそれだけで、私の心は母という呪縛から開放されたのだ。


ただ、私の心はそれほどの時を経ずに再び病んだ。

弟は、「一」という名前だった。
私は、「一」という名前だった。

偶然にも、二人の名前は同じで違う。

弟は、「いち」。
私は、「はじめ」。

彼もまた片親で、最初の子で、そして母親を早くに病で亡くしていた。
名前も境遇も似たような彼は、だが、決定的に私と違った。彼はまっすぐで美しかった。疑うこともなく、憎しむこともない。眩しいほどに、彼は私と正反対の「心」を持っていた。
新しい母にもすぐに懷き、彼女もよく彼をかわいがった。彼女に振り回されるように、彼には色々なものが買い与えられた。私はそれを羨ましくは思わなかった。彼は大抵のものを、私と分かち合おうとする、優しい子だった。それは彼の、幼いなりの、義兄への気遣いだったのかもしれない。

小さな頃の、彼との記憶は多い。どれも似たような、幸せな風景だ。
笑いながら、ぱたぱたと嬉しそうに走ってきて、「はい、お兄ちゃんの」と手渡す彼の顔ほどもある肉まんを、半分に渡して寄こす。受け取ると、満足そうに彼は私と手をつないだ。私の記憶の中では、半歩後ろに、まるで本当の兄弟のように、私達は色々なものを分けあいながら手をつないで歩いている。

いつからだろうか。
やっと救い上げてもらった私の灰の心が、またずぶずぶと深く腐っていったのは。


あぁ、そうだ。あの時だ。
最初の冬だ。

彼はふわふわとした、そうあの人の趣味で買い与えたのであろう白くまのような格好をしていた。
年齢にしては小さい彼は、あの人が「可愛い、可愛い」と手を叩くのを、ほんとうに嬉しそうに笑って、はしゃいでいた。真っ白で柔らかい新雪の積もった道を、彼は笑いながら走った。私の手は、その時は彼の手を取れなかった。彼の小さな手はいっぱいに広がって、空をつかむほどに高く上がって喜びにあふれていた。きゃっきゃとはしゃぐ彼に、私は少し笑いながら、寒さにジャンパーのポケットへ両手を突っ込んだ。第二の反抗期を迎えかけた私の、それは一人でいるときに良くした仕草だ。

私の手は彼の小さな手を握れなかった。

私の手が、冷たく白く、握りこまれた時。
大抵、私の記憶の節目が訪れる。


すいと、彼がコンクリートの塀を曲がった。あ、と私もあの人も呟く。
彼の泣き声が聞こえた。
あの人が「いっちゃん!」と叫んだ。なのに動けないでいる。私も動けないでいた。
白く白く降り積もる雪とコンクリートで記憶は眩しい。高く高く、悲しい鳴き声がまだ、耳をかすめる。

次に、一が姿を表した時、ふわふわの白い小さなくまだった彼は、泥水に倒れこんだのか黒く汚れて水濡れていた。
小さな手は小さく一人ぼっちで握りこまれて、涙を拭いていた。
水を吸った毛がしょぼくれて、一回りも二回りも小さくなった弟を見て、あの人は笑った。笑ったあの人と一緒に、一に駆け寄った私の顔はこわばっていたと思う。
ぐるりぐるりと、後悔が鎌首をもたげていた。それまで上手く隠していた、名前も知らない感情を引き連れてきた。

「転んじゃったのね、いっちゃん怪我はない?」というあの人に、一は新しい真っ白い服を汚したことを、ごめんなさいと、何度も何度も謝った。「洋服なんて、大丈夫よ」というあの人に、一は何度も何度も謝っていた。
それはまるで、絵に描いたような、仲のいい母親と子供の姿のように、目の前を流れていた。
私の前には深く高く険しい境界線があり、隔絶されたあの灰の世界に再び引きずり込まれていく。得体のしれない感覚に襲われながら、切り取られた一枚絵のように、目の前の現実が、時間の流れの違う場所へとさらわれるのがわかった。

なぜ、あの小さな手をとらなかった?
なぜ、一緒に喜びを分け合えなかった?
なぜ、一緒に悲しみを分け合えなかった?

なぜ、一は一人で泣いている?

なぜ……私はあの小さな手を繋がなかった?


私の心に潜み、この時暗く陰鬱な影を広げ、再び見難い己を自覚させたのは……彼は私のものだという感情だった。

愛しいという言葉を、当時の私は知らない。
ただ明確に、確かに言えたのは、ジャンパーのポケットへ突っ込まれたままの私の手は、つぷりと薄皮を爪で破くほどに固く握りこまれていたということだ。それは幼い頃から溜め込んだ憎しみそのもののようでもあった。泣いた一の頭を優しくなで、大丈夫だと、もう怖くないのだと、なだめるあの人への憎しみだった。私はあの人に嫉妬していた。私のものを取られたという嫉妬だ。狂おしいほどに、私は独占欲に引きずり込まれていった。
女性を愛したこともない。恋を覚えたこともない。なのに私の感情は、同性の、ついこの前家族になったばかりの一へ、無名の本能を切っ先を向けた。


もし。

もし、あの時。
彼が新しい、白い、ふわふわのくまのような服を与えられて、その喜びをいつものように分かち合えていたなら。その小さな手を、いつもの様にもう少し大きな手で繋ぐことができていたなら。
私は、こんなにも彼を愛することはなかったのかもしれない。

私は、もう少し偽善的な兄でいられたのかもしれない。
私は、たったひとりこの歪んだ感情を抱えることなく、生きていけたのかもしれない。

けれど、私はもう、彼の名を呼ぶと指先がしびれる。好きだという言葉も、愛しているという言葉も、そしてその意味も汚さも知っている。
彼を見ると、心が見難く歪んでいく。彼の声が、彼の一喜一憂が、他の誰かと共有されていることを許せない。彼が私のものだと、この喉を食い破って恐ろしい言葉がわき出しそうになる。それが、どれほど彼を傷つけるのかも、わかっている。

この感情を、私は10年以上も抱え込んできた。
消す手段があると思えばどんなことでも試した。
比較的早く、女を抱いた。性教育や、テレビや小説の中のような愛がなくても、身体は勝手に女の抱き方を知った。けれど私は満たされなかった。
一に何かが似ていると思えば男でも抱いてみた。結果は女も男も変わらない。それは絶望のような味がした。

幸いにも、私は彼が傷つくことを私の乾きよりも恐れていた。
自分が同性を愛したということも、自分が義弟を愛したということも、自分がそれ以外の者達に酷く無頓着だということも理解していた。
だから、まるでアタリマエのことのように兄を続けた。アタリマエのように、中学も高校も卒業して、まるで当然のように県外の……東京の大学へ入学した。もちろん、理由は学ぶためではない。一人になるためだ。私が彼を傷つけないためだ。

何度も捨てようと思い、何度も捨てたと思い切り、何度も捨てられないと思い知らされた感情が、彼のあらゆるものを傷つけないためだ。
義父に頭を下げて始めた一人暮らしは、なんとか私をまともな人間にした。
このまま、ただ切り取ってしまえば「一を愛している」というだけのひとりよがりの、私だけに正義を掲げた感情を大学三年間、「独立」という孤独で埋める自信を確立しようとしていた。


卒業まであと一年。
「同じ大学に入った」と、私の知らない間に、無愛想な物言いを覚えた、すっかり身の丈も同じ程に成長した一が私のマンションに転がりこんでくるまでは。




愛しているよ。
とてもお前を愛しているよ。

多分死ぬまできっと、お前を。

たぶん死ぬまで、君が好き

たぶん死ぬまで、君が好き

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-16

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