箱
男は平凡なサラリーマンだった。
中堅の大学を出て、中堅の会社に入った。
誠実な仕事ぶりから、社内での評判も良く、それなりの出世も期待されている。
男自身も仕事にこれといった不満はなく、自分の人生には大方満足していた。
だが、人間、毎日同じ作業の繰り返しとなると、どうしても非日常の刺激が欲しくなるものである。
男は昔から好奇心が人一倍強く、興味を持った事には例外なく手を出してきた。
その一方で、人一倍飽きっぽい性格でもあり、未だに特定の趣味を持ち合わせていない。
最近は思いつく遊び、暇つぶしをやり尽くしてしまい、休日はどうしても手持無沙汰になってしまう。
「何か面白いものはないものか・・・」
そんな休日に嫌気がさし、男はあてもなく街中をぶらぶらしていた。
ふと、男が歩を進めている道の先数メートルの距離に30センチ四方程の大きさの箱が落ちていることに気がついた。
「・・・はて、どこぞの運送会社の落し物かな。とはいえ、送り票も何も付いていないのでは連絡のしようがないな。まぁ、私には関係のないことだ。放っておこう。」
そうして男が歩を進めようとしたその時、
『助けてくれ!』
と、叫び声がした。
辺りを見回してみるが、人の気配はどこにもない。
元々、人通りの少ない道である。
気味が悪くなり、早々にその場を離れようとすると、
『待ってくれ!ここだ!出られないんだ!』
と声が男を呼び止める。
改めて声の出る方に振り返ってみると、そこには例の箱がある。
男が箱に近寄り声をかけてみるとすぐさま反応があった。
『良かった。なぜだか中から出られないんだ。どうにかしてもらえないか?』
「出られないって・・・この箱からですか?」
『箱?アンタが何を言っているのかわからないが、いいから早くどうにかしてくれ!』
箱から聞こえているであろうその声は男をまくしたてる。
しかし、どう考えても人が入れる大きさの箱ではない。
それに開けようにも開けられそうな所もない。
(ははぁ、これは箱の中に通信機でも仕掛けてあって、どこか遠くから俺の様子をうかがって楽しんでいるんだな。)
突然の出来事に混乱していた男も、こう考えをまとめると途端に腹が立ってきた。
(俺が暇を持て余しているという時に、あろうことかこちらをダシにして楽しもうとは許しがたい行為だ!)
「やい!人を馬鹿にして楽しもうだなんて何てヤツだ!」
普段は温厚な男だが、何故だか無性に腹が立ち、見る見るうちに逆上し、力いっぱい箱を蹴り飛ばした。
『痛い!何て事をするんだ!』
箱は叫び声をあげた。
「まだ続ける気か!ええい腹が立つ!こんな箱ぶっ壊してやる!」
男は怒りに任せて箱を蹴り続けた。驚いたことにどれだけ蹴っても箱は壊れるどころか、傷一つ付きはしない。
その間中、箱からは絶えず悲鳴が聞こえてきた。
男は初めの方こそその声に苛立ちを覚えていたが、気がつくと箱を蹴り飛ばす行為と箱の叫び声が相まって、今までに味わった事のない特殊な愉悦を得ていることに気がついた。
もはや、それが誰かのいたずらであるかどうかなどは気にも留めなくなっていた。
(どういう仕組みかわからないが、外部からの刺激に反応する様になっているみたいだ。これは良いものを見つけた、持ち帰って自分の部屋で思う存分続きをしよう。なに、例え誰かのものだったとしてもこの通り頑丈な箱だ。後で交番 に届けるつもりだったとでも言えば乱暴をしたこともバレはしないだろう。)
男は自分の中にわずかに残っていた罪悪感にこうして別れを告げる。
実のところ、男はこの行為を続けたくてどうしようもなくなっていたので、例えどれだけ徳の高い聖人が説得を試みたところで、それをやめさせることはできなかったであろう。
こうして男は箱を持ちかえり、休日の間中、寝る間も惜しんで箱をあらゆる方法で痛めつけた。
そうこうする内にあっという間に時間は過ぎ、月曜の朝になった。
出勤する時間である。
(だいぶ気も晴れたがまだ物足りない。急ぎの仕事もないことだし、今日はたまっていた有給休暇を使って一日中こいつに時間を割くとしよう。)
と、男が上司へ電話をかけようと思い立った時、突然、ピタリと箱からの声がしなくなった。
男は残念に思ったが、それなりにストレス解消にもなったし、時間が経てばまた叫び始めるかもしれないと考え、ひとまずその日は会社に出ることにした。
身支度を整えている間も以前に比べて気が軽い。
これなら仕事の効率も上がるだろうと、意気揚々と玄関のドアに手をかけるもドアが開かない。
何をしてもびくともしないので、これは故障だと思い、仕方ないみっともないが窓から出るかと後ろを振り向くと、窓どころか部屋にさっきまであったはずの家具、そして例の箱も何もかもが、跡形もなく消え失せていた。
男はパニックになり、いまやドアすら消え失せた壁を叩きながら叫んだ。
「だれか助けてくれ!出られないんだ!」
箱