さよなら四角

それは休日前の晩だった。私は素っ裸の姉と取っ組み合いの大喧嘩をした。
風呂場から聞こえる姉の歌が私の逆鱗に触れたのだった。
「丸竹夷二押(まるたけえびすにおし)御池(おいけ)、姉(あね)三六角(さんろっかく)蛸(たこ)錦(にしき)・・・」
その歌は明らかに、失恋に尾を引く私に対するあてつけだった。
私は彼に未練があることを決して姉に悟られないよう過ごしてきたのに、
つい先日、不覚にも下駄箱に置き忘れた手帳を盗み見られたのだった。
手帳には、京都の通りの覚え歌である『丸竹夷(まるたけえびす)』の歌詞が
ハートマークと共にルビ付きで記されていた。それは別れた彼が教えてくれた歌だった。
姉は、初めの歌詞しか知らないのか、同じところばかりを繰り返し歌っていた。
頭にきた私は、浴室のドアを勢いよくV字に開けて姉に怒鳴った。
「ちょっと!さいでんから、うるさい!」
「ひゃっ!びっくりした。なんやのん、もー。何を歌おうが私の勝手やろ」
姉は、突然扉を開けたので一瞬は驚くも、至ってお淑やかに答えるのだった。
その態度が余計、私の癇に障った。私は脱衣場の洗濯機の横にあった新しいボトル型のシャンプーを取り、
姉のふくよかな白い尻に投げつけた。そこから取っ組み合いは始まった。
姉は私のシャツを破るくらいに掴んでいたが、裸体というのは実に掴み辛かった。
「うるさいんやったらな、耳栓でもしとけ!」
「なんやてー!そんなに歌いたかったらなあ、湯船に潜って歌いーさ!」
掴み合いながら抗弁する。
「あ!ははあーん、そうか」
「なんや?」私は力を少し緩めて口をとがらせる。
「あんた、図星やから怒ってんねや?姉ちゃんは、前からが言うてたやろ、そんな“蚊みたいな男”はよ忘れって」
姉は、別れた彼のことを「蚊みたいな男」と呼ぶ。
吸うだけ吸ったら、要らん痒みだけを残して去る。という意味らしい。
口達者な姉に気圧され、返す言葉も無い私は、再び力技に転じ、だぶついた姉の二の腕を懸命に掴んで、湯船に押した。
すると姉は、狭い浴室で器用に体を反転させて、着衣したままの私を湯船に投げつけたのだった。
「あ!」
瞬間、声をあげたのは姉の方で、私は口元だけが「あ」になっていた。
倒れた私は後頭部をタイルの壁にぶつけ、すっぽりと湯船に浸った。
しばし真顔になって、頭をぶつけた痛みを覚えると、私は高島屋の玩具屋で泣く駄々っ子みたいに声をあげて泣いた。
「ごめんごめん、大丈夫か?」
ちょっとやりすぎた、と省みたのか姉が私の後頭部をさする。
私はしゃくりあげながら姉に訴えた。
「なんや、あんたもアレか!人を殺すんか!」
そう言ってから、いや言いながら後悔していた。
今、口から出た言葉を私はこの濡れた手で姉の耳の穴から引っ張って、自分の口の中に戻したかった。
だけどもう言葉は姉の耳から脳へと入り、姉は豆腐のように無表情になっていた。
「のぼせた」姉は、しんみりと、そうこぼして浴室をあとにした。

私に初めて彼氏ができたのは高校三年の頃だった。高校一年からの片思いが成就した恋だった。だけど恋の終わりは二週間という早さで訪れた。初めて彼と同衾した翌日のことだった。
「なんか、えらいことになったな」
「ごめん」
どう答えるべきか判らずにとりあえず私は謝った。携帯を耳に強くあて『別に謝ることないよ』といった類の慰めを待った。でも返ってきたのは「じゃあ、ごめんやけど」という、謝り返しだった。
ごめんやけど、の体言止めの後に続くのは、
「別れくれへんかな」であることは容易に予測変換できた。
理由は一つだ。その前日に私の父が人を殺したからである。
滑稽にも私が処女を喪失した日に父は人を殺したのだ。
父は、小さな設計会社に勤めていた。事件は勤務先の事務所で起こった。死んだのは女性事務員。普段から口うるさい御局的存在であったと聞くが殺意を抱くまで恨むことなどなかったと父いう。殺したのは、あくまで「はずみ」だったというのが父の主張だ。発端は非常に些細なことだった。父は、よく配膳室にある電気ケトルのコンセントを抜いて自分の携帯を充電していた。これを父は、その女から一度咎められていた。にも関わらず父は、また同じことをしていた。会社に来客があり、お茶を淹れようとした女は湯が冷めていたことに腹を立て、父のデスクに携帯を叩きつけた。そして他の社員たちの前で嘲る様に父を罵った。
「前にも言いましたよね、頭、ボケてるんですか?」
「そんなんやから、部下にもバカにされるんです」
父は普段から気弱な男だったが、その日は取引先とのいざこざがあって虫の居所が悪かったらしく、去っていく女の背中を「何やと!」と押したのだ。女は押された拍子に開放されていた窓から地上に転落したのである。事務所はビルの四階にあった。中途半端な高さからの転落だったので即死にはならず救急車が着くまで、女は地べたで、のた打ち回り病院でえらく苦悶しながら死んでいったそうだ。裁判では父に殺意があったかどうかが争点となった。事件の日、いつもは閉ざされている窓を開放したのは父だった、という同僚の証言から転落するという認識があった、として重い判決が下された。父が犯した罪にショックを受けた母は、間もなく認知症になった。絵に描いたような不幸の連鎖だった。もう母は、今では私たち娘のことも誰だかわからなくなってしまった。母が病んだ当初、私と姉は、喧嘩しながらも連携して母の介護をしていたが、結局精神的に息切れしてしまい、なけなしの貯金をはたいて入所金を払い、丹波笹山にある寂れた介護施設に入れることにした。事件後、私の友達は蜘蛛の子を散らすように消えていった。近所の住民には好奇な目でチラ見される。親戚たちも悉く疎遠になった。ましてや彼氏をつくるなんてことは発想すら湧かなかった。
「そら、人殺しの娘やし、しゃーない」
これは姉の口癖だ。姉は事件があった年に短大を出ていて、しょーもない、とぼやきながらもファスナーを作る会社で勤めている。結婚も考えていないだろう。太っていくばかりだ。方や高校を卒業した私は、何のワクワク感もない五十嵐乾物店という中央市場にある乾物問屋の事務職についた。父の面会は、月に一回姉と交代で行っている。私が母の呆け具合をアクリルボード越しに話すと、父は薄ら笑いを浮かべ「やっぱ地獄に仏は、おらんな」と、もらしていた。ちょっと前までは、まあまあ幸せな家庭だったのに、人生というのはふとしたことをきっかけに奈落の底へと落ちていくものだと実感した。そうして私たち姉妹は、つましく退屈な暮らしを積み重ねていった。そんな人生諦めムードの濃霧に包まれた暮らしの前に現れたのが「蚊みたいな男」だった。
こんな境遇でも彼氏ができたのだ。相手は、乾物屋の常連客で和菓子屋の息子だった。彼は乾物屋の息子の友人でもあった。初め、私と彼は天気の話をする程度だったが、ある日彼から小さなメモ書きをもらった。
『一緒に映画でもいきませんか?』きれいな字で書かれていた。
桜がつぼみをつけ始めた季節だった。正直、男にかなり飢えていた私は、デートの初日にして彼と寝た。高三の初体験から三年。一度は破られた処女膜は再生されているのではないかと疑うほどの時を経て、再び日の目を見た。もう過去のことは時効ですよ。と濃霧の向こうから淡い光が差し込んできた気がした。地獄にだって仏はいる。私は毎日のようにデートをして浮かれていった。
彼の顔は寝ぼけたアシカみたいにパッとしない顔だけど、何よりも彼の好い所は私が話す愚痴の数々を親身になって聞いてくれる天性の聞き上手さにあった。ぐうたらな姉のこと、退屈極まりない仕事、薄情な友達の話など、まるで胃の底の粘膜に絡んだ私の苛々を、長くてしなやかな綿棒を使うようにして、ほじくって聞きだし、根こそぎ掃除してくれるのだった。それでも、父のことだけは打ち明けられなかった。自分が「人殺しの娘」だと彼が知ったら、と考えるだけで気が重かった。時機を見て話そうとするものの、なかなか言い出せなかった。会う度に彼を失いたくない気持ちが膨らみ、自分の中で都合良くうやむやにしていった。
そんな付き合いを半年続けた頃。
「言うたんか?」
いきなり姉に訊かれた。それは一応、姉なりの心配だ。私は生返事しながら、もういい加減伝えなければ、と強く思い、彼にすべてを話すことを決意した。

「あー、知っとったで」
私は窒息するほど虚を衝かれた。彼は、味噌汁の隠し味は醤油だったんでしょ。というくらいのノリで軽く受け流したのだ。
別れの覚悟すら決めていた私は、安心のあまり目頭が熱くなった。波打ち際で穴を掘っていくと湧き出てくる海水のように涙が湧き出る。
「そんなん、心配しとったん?」
彼はコートの袖で私の頬を拭い、私の頭を抱いた。彼の肩越しに将軍塚の夜景が見えた。潤ったまつ毛越しに、ゆらゆらとネオンが瞬く。彼の心音を右耳で聞きながら街の灯を見た。
「お父さんも早く帰ってこれたらええなあ」
その彼の言葉に、私は胸のすく思いがした。今まで散々、人から避けられるばかりだったのに。
「そや、見てみ」
彼が何か思い出したように切り出す。
「ここからの夜景見たら、京都の町が、ほんまに碁盤の目になってるんがようわかるやろ」
私は頷く。涙はアニメの場面が変わったようにもう乾いていた。
「ちょっと手、貸してみて」
「はい」
「あれが四条河原町やろ」
彼は私の手をとり、私の指で夜景を示す。
「四条河原町から河原町通りを御池通りまで真っ直ぐに上がって、
御池通りを左折してまた進んで、烏丸御池を曲がって下がる。わかる?」
「うん」
「ほんでまた四条通りを東に進んだら、元の四条河原町に帰ってくるやろ」
「ほう」
「京都の道は、四角に進んで行ったら、元の場所に帰ってこれるさかいに迷子にならへんやろ」彼は一呼吸置き「オレも同じやで」と私の顔を持ち上げて目を見た。どういう意味だろうか、と思い訊ねてみた。
「それは、浮気しても帰ってくるってこと?」
「えー?違うよ。いつも迷わんと、帰ってくるっていうことやで」
「ふーん、そうか。四角ね。その資格が私にはあるのん?」
「おもろいやん!」彼が肘で私のわき腹をつつく。
「大丈夫や。今の誓いに、死角はないから」
彼も負けじと同音異義語で返し「うまい!」と二人で笑った。
その夜、彼は私の指を使い、通りの名前を覚える「丸竹夷」という数え歌も教えてくれた。私は歌詞を手帳にメモした。メモを見て鼻歌しながら彼に訊いてみた。
「何で知ってたん?事件のこと」
「あー、五十嵐に聞いたんや」
乾物屋の息子。男のくせにお喋りなヤツだ。余計な質問をしたせいで、この清く澄んだ夜を濁してしまった。

そんな歯が浮くような台詞を吐いた彼から、別れを告げられたのはほんの二ヶ月後のことだった。全く予期していなかった。このところセックスをすると彼は中出しばかりしていたので、デキ婚でも狙っているのか、と勘ぐっていたくらいで、
「ちょっと話があんねん」と連絡があったときは、おめでたいことに私の頭の中には「求婚」の二文字がプカーンと浮かんでいた。
「親に、時間かけて話してんけど、どうしても反対されてなあ」
事情は無理やり飲み込んだ。飲み込むしかなかった。
「そうか、しゃーないな」
―そら、人殺しの娘やし、しゃーない。
姉の口癖がよぎる。
そんな糠喜びに終わった別れ以後、私は休日になると、姉と共同で買った中古のラパンに乗って将軍塚に来ている。姉には休日出勤と嘘をついている。朝から晩まで日がな一日、将軍塚の展望台にあるベンチに腰掛け、彼が教えてくれた「通りの歌」をそらんじながら彼の導きを反芻させていた。
「丸竹夷二押(まるたけえびすにおし)御池(おいけ)、姉(あね)三六角(さんろっかく)蛸(たこ)錦(にしき)、四(し)綾仏(あやぶっ)高松(たかまつ)万(まん)五条(ごじょう)、雪駄(せきだ)ちゃらちゃら魚(うお)の棚(たな)、六条(ろくじょう)七条(しちじょう)通り過ぎ(とおりすぎ)、八条(はちじょう)越えれば(こえれば)東寺(とうじ)道(どう)、九条(くじょう)東寺(とうじ)でとどめさす」
こうしてここで待っていたら、彼がいつか
「帰ってくるって言うたやろ」と、現れるかもしれない。1%の確率でもいい。1%の中身は100%の希望に溢れていた。
そんな、叶うはずもない望みを胸に抱いていたある日のことだった。
私の右肩をトントンと誰かが触れた。
ついに、ついに、ようやく来てくれた。私は気色ばんで振り向く。
しかし、そこにいたのは馬上の彼ではなく五十嵐乾物店のお喋り息子だった。
「何、やってはるんですか?」
息子は、やたらとけばけばしい女と一緒だった。いつか知人と会うことを想定はしていたが、よりによってコイツとは。
「あー、こんにちは」私はうろたえながらも、よそ行きの声音で挨拶をして、連れの女にも会釈した。
「どなた?」針のようなつり目をした女が訊く。まつ毛が虫みたいに羽ばたいている。
「友達のモト、やなくて、うちの社員さん」
息子は、友達の元カノ、と言いかけて無骨に訂正した。
女は「どうも」と会釈を返す。
「お一人ですか?」息子が訊く。
「は?」素っ頓狂な声が出た。嘘をつくべきかどうか激しく逡巡する。将軍塚に一人で来るなんて恋人達がいちゃつく鴨川沿いに独りで佇んでいるのと同じくらい珍妙なことだ。ぬるい沈黙が流れた。
「彼、今トイレに」
「あー、そー、なんですか」やたら間延びした反応だった。その間延びの間に息子は、どこで新しい男を見つけた?などと考えたのだろう。下世話な男だ。連れの女は腕を組み、右手の人差し指を左腕に気忙しくペタペタとあてている。
「では」
私が踵を返しかけると、息子が、
「知ってました?」と袖を引くように人差し指を向けた。
「何を、でしょ」
「あいつ、婚約したんですよ」
―え。
この場合の「あいつ」とは勿論、元彼のことだ。
聞いた途端、臓器をすべて失くしたように体内が空洞になった。
さらに息子は耳打ちする。
「デキチャッタコン、ラシイヨ」
鼓膜に毒針が飛んできた。通りの歌の最後の歌詞のように、私はとどめをさされた。まだ、別れたばっかりなのに。
「そうなんや、よかったですね。おめでとうって伝えといて下さい」
息も絶え絶えにコメントする。気張って笑顔を作るけど、頬の筋肉が震えて上手く笑えない。
「えらい若い子でね、ボクもね、初めはね・・・」
無理だ。平常心では訊いていられない。いつかはどこかで耳朶に触れるにせよ、よりによってこの場所では知りたくなかった。
「じゃあ、もう急(せ)くんで」
私は架空の新しい彼氏が行った便所を指し、息子のデリカシーのない話を強制的に遮った。
「はいはい」
私は去りながら、息子が私の後姿を卑しく見ているだろうと背中で感じ、振り返ると、じっと見ていた。息子は慌てて手を振る。けばい女は横で煙草を吸っていた。私も息子に合わせて、スウェード生地の手袋をつけた手を振った。

ラパンに乗った私は、鍵の束を見て思い出した。
「鍵、返さなあかんわ」
彼と付き合い始めた頃、車の免許を取った私に彼はワゴンRの合鍵を貸してくれたのだ。
「オレの車とは別に妹が乗ってたんやけど、ずっと留学してるから良かったらつこて」
私はワゴンRの鍵をキーホルダーから外す。今から彼の家に鍵を返しに行こう。それで終わりにしよう。私は車を走らせながら、結婚祝いの品を買うべきだろうか、いや、そんな必要はない、などと巡らせた。
「ごめん、鍵、返しそびれとって」
「小耳に挟んでんけど、結婚するらしいね」
車輪止めの上がるウィーンという音が聞こえる。彼の家の近くにある西院駅横のコインパークに車を停めた私は車内で独り、彼に会ったらどう話そうかと練習をする。情けなくなってドアを閉め、彼の家へと歩き出した。薔薇の絵の紙袋がロングスカートの上から膝にあたる。結局、四条河原町の高島屋で結婚祝いにペアのティーセットを買ったのだ。私はつくづく阿呆な女だ。歩きながらスカートのポケットに入れた鍵を手袋の上から触る。この鍵だけが彼と私を必然的に、もう一度会話させてくれるアイテムだったのに。そこの角を曲がると彼の家だ。目を閉じて冷たい息を吸った。息を止めてしばらく立ち止まり鼻からゆっくりため息を出した。目を開けると、曲がり角にある古い金物屋が視界に入った。「合鍵」と書かれた看板がだらしなく回っている。私は、ふらふらと金物屋に入っていった。店主らしき中年の男がレジの前に座って夕刊を読んでいる。私は何の挨拶も交わさずに男と顔を見合した。
「合鍵、作ってもらえますか」
鍵を受け取った男は眉をよせて鍵を見る。
「合鍵で合鍵は、作られへん」
男は堂々と言い切り、鍵を返そうとする。私は、やにわに店主が差し出した反対の左手を掴み、自分の胸を揉ませた。男は奇声をあげて驚き、十秒ほど胸を揉んでいた。そして男は「特別に」と舌なめずりをして合鍵の合鍵を作った。
出来上がった鍵と元の鍵を見比べる。同じタイプだ。記されている番号だけが違う。きっと彼もこの金物屋で合鍵を作ったはずだ。彼の家には金物屋から大股で歩くと十八歩で着いた。駐車場にはシルバーのワゴンRだけが止まっていた。ボンネットに鳥の糞が付いている。彼の車は停まっていなかった。おそらく彼は車で出かけている。つまり彼はいない。青銅の門扉の横のドアホンを押さえた。人差し指の爪先が白くなる。微かにベル音が聞こえる。「犬」と書かれたシールが三枚貼ってあった。龍馬という名のコーギーを飼っていたのだが去年に死んだのだ。再びドアホンを強く押す。誰も出てこない。私は門扉をゆっくりと開けた。蝶番が嫌な音を鳴らす。門扉を開けたままにして玄関のドアまで進んだ。ドアの右に郵便受けがあった。私は彼にもらった合鍵を入れようかと考える。私は目をつむり、鍵が郵便受けから家の中に落ちるのをイメージしてみた。鍵は五百円硬貨が落ちたときに似た重い音をたて、下駄箱の下に入っていった。ダメだ。私は鍵をポケットにおさめた。無理に今日、返すことはない。腰を上げて、お祝いの品だけ置いていこうと置き場所を探してみた。玄関の脇を覗くと木炭と書かれた段ボール箱とカセットコンロがあった。私は紙袋をドアの前に置いて思いついた。
「そや、ここで死の」
憑かれたように私は木炭の箱を開ける。炭がごろごろと入っていた。カセットコンロは、つまみをカチカチと2回ひねると勢いよく青い炎が点いた。家の前を低学年の男子グループが自転車でにぎやかに通り過ぎる。私は車に鍵を差し、ドアを開けて木炭とカセットコンロを助手席に置いて、運転席に座った。車内はひんやりとしていた。この車でもよくドライブした。懐かしい匂いが私の肺の管から管に充満していく。私はコンロの上に木炭を「井」の形に三段積み、躊躇わずコンロの火を点けた。今度は一度で青い火が点いた。炭の温かさが充満してきて体中に生えている産毛が柔らかくなっていくようだった。彼を愛する気持ちが色褪せるのに任せて、だらだらと生きるよりも、今、彼のことを愛している気持ちが残ったまま死ぬほうが余程マシだ。煙たさに目が霞んでくる。小さな後悔があちこちに渦を巻き始める。これで終わりにする。やはり私は、人殺しの娘だから恋愛なんかできない。気の多い私は、姉みたいにあっけらかんと生きていくのは無理だ。きっとこの先も「人殺しの娘」という烙印は一生消えず、自分が進むべき道も見つけられずに逆行してしまうに違いない。そして碁盤の目になった、わかりやすい道ですら迷子になってしまうのだ。私は目をこすり、コートの内ポケットから手帳と鉛筆を取りだした。そして『丸竹夷』のフレーズを口ずさみながら手帳に走り書きをした。咳が二つ出る。これって遺言か。書いてからわずかに頬が緩んだ。
力を込めて「さよなら、四角」と書いた。
息が苦しい。手帳のメモをやぶり、彼がすぐ見つけられないよう助手席の前にある収納を開けた。すると、収納の中から写真が一枚、はらりと落ちてきた。
「ん?」
写真には寝ぼけたアシカみたいな彼と、私の知らない若い女が写っていた。
「あほらし」
写真を見て確信した。きっとこの男は、将軍塚の、あの時点で浮気をしていた。私は催眠術が解かれたように興醒めした。
車の外に飛び出し、扉を思い切り閉めた。そしてドアの前に置いた高島屋の袋を取り、悪態をつきながら早足に歩いた。
コインパークを出る頃には彼の家から煙が濛々と上がっていた。
蒸れた手袋を外しながら私は呟いた。
「そら、しゃーないわ」

さよなら四角

さよなら四角

ドライアイスのような恋の話です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-21

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