REPLACE -続ママの知らないひと-

誘拐騒ぎを経て、美沙の環境は激変した。そして一年。なんとか落ち着いた生活を送り始めた美沙の周辺で、不気味な事が起こり始めた。

 =ママの知らないひと:あらすじ=

 美奈子(=ママ)は郵便受けに不審な封筒を見付ける。その中には娘、美沙の髪や生徒手帳が入っていた。高校は学園祭中だったが、電話をした美奈子は美沙が登校していると聞いてほっとする。
 そこへ身代金を要求する電話が掛ってきた。急ぎ学校へ向かった美奈子だったが、校内に美沙の姿はなかった。親しい友達の亜衣に話しを聞くと、カレシと遊びに行ったのかも、と言われるが、美奈子には寝耳に水だった。
 さらに美沙の画像が送り付けられ、美奈子は夫と共に犯人との交渉に臨む。
 しかし夜になって、美沙本人から電話が掛って来た。美沙は誘拐などされていないと言う。
 実は美沙には腹違いの妹がいて、親しく付き合っていた。家族に隠された存在である彼女は、美沙と瓜二つで、間違って誘拐されたのだと気付いた。
 美沙は、妹を救おうとすれば、彼女の存在が白日の元に晒されてしまうと悩むが、結局、妹の存在を知るパパだけを、外に呼び出す事にした。

 ***
 ***



 美沙は足を速めた。そうすると後ろからついて来る足音も、心なしかスピードが上がった気がした。怖くなった美沙の歩みも、自然と速度が上がっていく。
 そして角を曲った所で、美沙は荷物を押さえて一気に走り出した。
 住宅街の長い直線道路から横道に入り、そこで足を止めた美沙は、そっと元来た道を覗き込んだ。
 誰もいない……。足音も聞こえなくなっていた。しばらくそうしていたが、追って来るような人は現れなかった。
 もう大丈夫そうだ。ほっとして、美沙は再び家に向かって歩き始めた。明日からは、踵の高い靴は避けよう。実は先週も同じような目に遭ったばかりだった。
 相手のシルエットしか見ていないが、男とも女とも分からない。でも視線を感じるのだ。自意識過剰なんかではない。明らかに自分を見ている、と美沙は感じていた。

 家に辿り着くと、緊張が解けて力が抜けた。鍵が掛っている事を二度確認してから、スリッパに履き替える。
「ただいま」と言っても、「お帰り」と応える声はない。それはそうだ。ここに住んでいるのは美沙ひとりなのだから……。むしろ返事が返ってきたら、それは泥棒か何かという事になる。
 リビングの電気を点けると、テーブルにうっすらと埃が積もっていた。たまには掃除しなくちゃ、と思うのはいつもの事で、実践される事はまずない。
 防犯の為にいつも灯りは点けている物の、リビングにいる事はほとんどなかった。ここだけではない。帰って来ても、時間の大部分は自分の部屋で過ごすし、風呂や洗面所、キッチンをなどを除けば、他の部屋に入る事も滅多になかった。
 この家は美沙ひとりには広すぎる。それは悲しい贅沢だった。

 いつものようにスリッパをペタペタ鳴らしながら階段を上がり、まっすぐ自分へ部屋へ入る。
 電気を点けると、棚に並んでいたぬいぐるみのひとつが床に転がっていた。
 やっぱり……。実はこんな風に思うのも初めてではなかった。
 その時に、美沙は考えて、人形の向きだったり、抽斗の中の小物の下に印を付けたりという、自分だけが分かる目印を付けておく事にした。でも調べていくと、それらには動かした形跡が見当たらない。
 ぬいぐるみは十個程が隙間なく並んでいて、大きな地震でもなければ、ひとつだけが床に落ちるなんて事は考えられなかった。
 前は、ほとんど使っていない本棚の中の人形が倒れていた。これもガラスの扉が付いていて、不注意で倒す事などあり得ない物だ。
 でもどれも、何かの拍子に倒れたり、落ちたりしたんじゃないか? 無意識に、いや、そうでなくても、慌てていれば気付かない事だってあり得るのでは? そう思うと、自分でも半信半疑になってしまう。
 ぬいぐるみを拾い上げた美沙は、それでも何か筋中がぞくっとして、数歩後ずさった。急に家にひとりなのが怖くなっていた。
 どこかの部屋に人が潜んでいるんじゃないかと思うと、居ても立ってもいられなくなり、部屋を飛び出した美沙は、片っ端からドアを開けて電気を点けていった。
 どこも埃っぽかったが、人の姿などない。割られた窓もなかった。
 玄関の鍵もちゃんと掛っていたのだ。もちろん鍵を失くした事もない……。
 自分の部屋に戻った美沙は、腕を組んだまま中をぐるりとひと回りした。
 客観的に見れば、それほど心配する事ではないのかもしれなかったが、帰りに怖い思いをしたばかりだったし、他にも気になる事があった。
「やっぱりストーカー、かな?」 
 美沙はそっとカーテンを開くと、窓から下の道路を眺めた。すぐ傍にある外灯の光に誘われた蛾が一匹、元気に飛び回っているだけで、他に動く物は見当たらない。
 こう言ってはなんだが、自分は割とかわいい部類に入るんじゃないか、と美沙は思っている。どこかの男に見初められてしまったのか? もちろんストーカー男などゴメンだったが、これまで何度も同じような事件のニュースを目にしていたし、楽観的に考える事は出来なかった。
 気が付くと、いつの間にか左手の爪を噛んでいた。またやっちゃってる……。美沙はそんな自分を自嘲気味に笑った。
 子供の頃も、母親にみっともないからと随分注意されたし、あれだけ気を付けて、癖を直したつもりだったのに、無意識の内にまた繰り返している。
 あ~ぁ、なんか疲れちゃった……。
 取り敢えず、鍵だけは明日にでも付け替えよう。不気味だったけれど、どれも侵入者がいたという確実な証拠とはいえなかった。
 美沙はベッドに乱暴に腰掛けると、そのまま後ろ向きに倒れて、布団を身体に巻き付けた。

 *** 

 眠い……。上下の瞼がひとつになってしまいそうだ。どうして丸岡先生の講義はこうも眠くなるんだろう? まるで催眠術にでも掛ったように、席に着くと必ず眠気が襲ってくる。不眠症の人も、ここに来れば治るんじゃないか。そんなつまらない考えが頭を過った。
 手に持ったシャーペンはすでに定まらず、上体がゆらゆらと揺れて、長机につっぷくしてしまうのは時間の問題だった。
「……えっ?」美沙は思わず後ろを振り返っていた。まただ、と思った。一瞬で眠気は吹っ飛んでいた。
 すり鉢状になっている講義室の中ほどに座っていた美沙は、背中に刺すような視線を感じて目が覚めたのだ。
 アジア経済概論の講義は必修科目ではないが、これからはやはり中国だし、出欠の確認が甘い事もあって、単位を稼ごうとする学生にも人気があった。席はかなり埋まっているが、ぐっすりお休み中の人も少なくない。
 変に思われると思い、すぐに前を向いた。学年もばらばらなはずで、知った顔などほとんどない。誰の視線なのかなど分かるはずがなかった。
 美沙は自分の肩を抱いた。本当に怖くなったからだ。学校、家、バイト先。どこにいても誰かの視線を感じていた。
 一体誰なの? 美沙は正体の分からない相手に怯えた。

 ***

 あんな事があった後、しばらく高校を休んだ美沙は、そのままなし崩し的に中退する事になった。そしてほとんど引き籠りのような生活を送るようになる。
 ママの妹にあたる美恵子叔母さんが、心配して自分を引き取ると言ってくれたが、美沙はそれを拒んでいた。別に叔母が嫌いという訳ではなかったが、とにかく誰の世話にもなりたくなかったのだ。それに自分の中ですべてをリセットする為には、どうしても時間が必要だった。
 高校生の、それも女の子のひとり暮らしを叔母は心配したが、どうしても嫌だという娘を連れて行く訳にもいかなかったのか、「何かあったらすぐに連絡を入れるように」と言い残して、取り敢えず引き上げて行った。その時にはまだ学校に籍だけは残っていたので、いずれまた高校に通えるだろうと叔母も思っていたはずだ。
 でも美沙は同時に、それまでのすべての友達関係も切り捨てていた。あれ程仲のよかった亜衣さえ、例外ではなかった。別に彼女達がどうこうという訳ではない。亜衣などは随分自宅に通ってくれもしたし、皆美沙を心配してくれているのは、痛い程分かっていた。
 でもそんな視線の中で、すべてをやり直したくはなかった。お互いその方が気兼ねもないだろうとさえ思った。
 叔母は時々現れては、美沙の世話を焼いて、同時にその生活が乱れていないかチェックしていった。元々それ程付き合いがある訳ではなかったのに、そこまで心配してくれる叔母をありがたくも思い、少し鬱陶しくも思った。

 やがて半年程が経ち、なんとか落ち着いた美沙は、大検を受ける為の勉強を始めていた。
 この時になって美沙が高校を辞めていた事を知った叔母から、強烈な雷を落とされたが、そこはしおらしく彼女の言う事を聞いてやり過ごした。
 正直成績はよくなかったが、大学に通う事は、昔から憧れだった。
 大検には運がよかったのか、一回で合格する事が出来た。幸いお金の心配はなかったので、家から通える総合大学を目指す事にして、美沙はさらに勉強に励んだ。
 そして頑張った甲斐あって、美沙は普通より一年遅れただけで、そこそこのレベルのMM大学に入学する事が出来た。これから新しい生活が始まるんだと、心がうきうきしていた。
 でも、もっと楽しい所だと思っていた大学は、正直落胆する程つまらなかった。せっかく望みが叶ったというのに、その思いを引き摺ったまま、美沙は淡々と学生生活を続ける事になった。
 
 結局、すべては自分の心構え次第だったんだな、と思えたのはずっと後になってからだ。
 美沙は、少しでも変化を求めて、自分に出来る事を考えてみた。
 まず何かサークルに入ろうと思い付く。でも、どれもちゃらちゃらと遊ぶのだけが目的の、なんちゃってサークルばかりで、およそ美沙の好みには合わなかった。運動系は苦手なので初めからパスしていた。
 そこまで考えて、これじゃ何も変わらないじゃないか、と自分自身に苦笑した。
 やっぱり、人とつるむのがダメなんだな……。そう思って、今までにやった事のないバイトに挑戦してみようか、と閃いた。
 それがNN洋菓子店の接客のバイトを始めるきっかけだった。
 人見知りがひどい自分には向かないと思っていたのに、やってみれば案外普通にこなす事が出来た。
 店にやって来る人のほとんどは、ただ普通にケーキやクッキーを買って帰って行く。でも中には、不条理なクレームを付けてきたり、文句や嫌味を言うようなイヤな客もいたし、言い寄って来る男までいた。
 でも時間は自分を変えたのかもしれない。そんな彼らも、美沙にとっては今更驚く程の強者には思えなかった。そして、言葉は悪いが、”困ったお客さん”を適当にあしらう事が出来る美沙を、店長もバイト仲間も重宝してくれのだ。店員すべてが女性のこの店では、そういう客に舐められて、無理を聞かされる事も多いのだという。
 こういうのを才能というのかは別にして、自分を受け入れてくれたこのお店に、美沙は初めて大学以外の居場所を見付ける事が出来た気がしていた。

 ある時、バイト仲間の菜穂さんが、店に来る途中に転んで、足を引き摺ったまま現れた事があった。その日は人出が足りないのが分かっていたので、責任を感じて無理をしたらしい。
 ちょうど支度をしていた美沙は、彼女に肩を貸して椅子に座らせ、足の具合を診てから、すぐにアイシングの為に氷を当てた。骨は大丈夫そうだったが、結構ひどく捻ったらしく、捻挫した足首は腫れ上がり、かなり痛そうだった。
 隣の薬屋さんでテーピングを買って来た美沙は、足首を固定するように丁寧に巻き付けながら、「後でちゃんと病院で診て貰ったほうがいいよ」とアドバイスした。
 その手付きを見ていた菜穂が、「まるで看護婦さんみたいだね」と驚いている。
「どこかで勉強したの?」
「違う違う。自己流なの。だから、あんまり信用しないでね」美沙が経済学部に通っているのを知っている彼女は、「へえ」という顔で手元を見詰めていた。
 元々店の中では一番気が合った彼女だったが、この時からぐっと距離が縮まった気がした。
 そして菜穂は、美沙が大学に入って初めて出来た親しい友達になった。
 ひとり友達が出来ると、まずバイト先で輪が広がった。大学でもなぜか急に友達が出来た。驚いた事に、付き合ってほしいという男の子まで現れた。
 実際には付き合いはしなかったものの、これは何なんだろうと思わずにはいられなかった。
 菜穂に訊いてみると、突然両手を広げて、美沙の輪郭をなぞりながら「なんか近寄りがたい雰囲気が、こーんな風にオーラみたいに広がってた」というのだ。
「でも、最近そういうのがなくなったよね」と笑う。
「ふーん」と頷きながら、そんなつもりがなくても、自分の醸し出す雰囲気が他人に伝わるのか、と不思議に思った。もっとも、自分では何が変わったのか分からなっかたので、イマイチ実感は湧かなかった。

 それからの一年は、美沙にとって、あっという間だった。
 いろいろな所へ遊びに行ったし、お酒も少しだけ飲むようになった。大学もバイトも楽しくて仕方なかった。別に大した事じゃなく、友達と学食でおしゃべりしたり、グチったり、遊びに行ってちょっと騒いだり、そんな事が楽しくてたまらなかったのだ。
 やたら積極的な男の子に押されまくり、試しに付き合ってみた事もある。もっとも、自分がどうしていいのかよく分からなかった美沙は、割とすぐに別れてしまった。
 菜穂曰く、「そりゃ、相手の事が好きじゃないからよ」と素っ気なかったが、美沙は”死ぬ程好きな相手”というのに出逢った事がない。
「お互い、また頑張っていい男を見付けよう!」
 菜穂はジュースの祝杯を掲げて、笑っていた。
 
 そう美沙は変わった。今まで分を取り戻す為に変わったのだ。
 少しだけ勇気を奮い、これまでとは違う新しい世界にその足を踏み出し始めていた。

 ***

 亜衣の家は、美沙の家のひとつ隣のPP駅にある。別にターミナル駅でもないPPに降りる用事などないので、普段はただ大学へ通う為に通り過ぎるだけの存在だった。
 亜衣はストレートで大学に合格し、美沙とは違う、QQ女子大に行っている事は知っていた。
 でも家は大したでも距離でもないのに、一度遠のいた足が戻る事はなかった。

 そんな彼女と久々の再会を果たしのは、しかし偶然ではなさそうだった。
 美沙の家と利用している駅の間の道筋に、Kという喫茶店がある。そこを通りかかった美沙に、Kから出てきた亜衣が声を掛けてきたのは、部屋にぬいぐるみが落ちていたあの日から、一週間程経った頃だった。
 家の鍵を交換し、痴漢防止スプレーを買い込んで、少し様子をみようと思っていた、その矢先だった。
「元気そうだね、美沙」
 すっかり大人っぽい女子大生に変貌した亜衣の姿に、美沙は声も出なかった。化粧をしているせいもあるが、何かひと皮剥けたように綺麗になった気がした。
「びっくりした……。あんまりキレイになっちゃったから、誰だか分からなかったよ……」
 この時の美沙の笑顔は、少し引き攣っていたかもしれない。
「でしょ? ま、元がいいからね」
 相変わらずの軽口に笑いながら、美沙は、「誰かと一緒なの?」と訊いた。「近くにカレシでも住んでるとか?」
 でも亜衣はちょっと真剣な顔になって言った。
「違うよ。美沙に会いに来たの。なんか急におしゃべりしたくなっちゃって……。迷惑だったかな?」
「そんな事ないけど、突然だったから……」
 美沙はそこで頭を下げた。
「ごめんね。なんか一方的に絶交したみたいになっちゃって」
「いいよ。あんな事があれば、気持ちの整理がつかない事だってあるよね? 自分だって同じような事があれば、どうなるか分からないし」
 亜衣は美沙を見詰めると、「少し時間ある?」と尋ね、頷く美沙を見てから、今出て来たばかりの喫茶店を指差して、「お茶しよ」と、腕を絡めた。
 ここを経営する麻木という人の事は、ずっと前から知っている。こんな街中の立地にも関わらず、潰れもせずに二十年以上もここで店を開いているのだと、聞いた覚えがあった。
 高校の頃に、たまにふたり一緒に顔を出した、美沙と亜衣の事をマスターは覚えていた。ここ二年以上足を踏み入れていないのに、自分の顔を覚えているマスターをちょっと恐ろしく思った。でも、だから亜衣は食い逃げ犯にもされずに、中座出来たのだと気が付いた。
 亜衣は精算して店を出たのではなかったのだ。窓際の席は、道路が見通せる場所にあり、テーブルの上のコーヒーカップもそのまま残っていて、ずっとここで美沙が通るのを待っていたのが分かる。
 元の席に戻った亜衣を見て、その向かいに美沙も腰を下ろした。
「なんか、美沙って高校の頃と全然変わらないね」
 美沙もコーヒーを注文してから、「そうかな?」と亜衣に向き直った。
「でもそれって、なんかあか抜けないねって、言われてるように聞こえるんだけど」
「そうじゃなくて……。変わってなくて安心したって事」
 亜衣が手を横に振りながら言った。
 美沙のコーヒーと一緒に亜衣の分が運ばれてきた。美沙がマスターに、「こんにちは」と挨拶すると、「これサービス」とケーキをご馳走してくれた。
 話しはお互いの近況報告がほとんどだった。どうやら亜衣も楽しく学校生活を送っているらしい。
「カレシいるの?」と訊くと、「いるよ」となんでもない風に答えた。
「へえ、羨ましいな。どんな人?」
「自分は付き合っている人がいないのに」と言うと、彼女は長い髪を指先でくるくると弄りながら、美沙を見詰めてきた。
「美沙、覚えてるかなぁ? 二年の時に下村って男の子いたでしょ?」
「下村?」
「そう。クラスは違ったけど、美沙と同じ図書委員でさ、よく一緒に図書館の受付で、貸出とかやってたじゃない」
「下村、下村……。うーん……。何組だったっけ? D組?」
 そうは言ってみたものの、思い当たる顔はない。
「違うよ、確かB組」
「なんか、あやふや。で、その下村くんが、まさか今付き合ってるカレシな訳?」
「その通り!」 
 一段大きくなった声で、亜衣が目をキラキラさせた。
「美沙と図書館でよく並んでたからさ、顔は知ってたけど……。まさか付き合う事になるとはねぇ。運命ってヤツですか?」
「さあね」
 美沙がそう言って突き放すと、「あら……。やけにそっけないリアクションじゃない」と亜衣が文句を言った。見た目は変わったけれど、中身は全然変わってない。美沙は笑いながら言ってやった。
「亜衣ってさ、口開かない方が絶対美人に見えるよ」
「ひどーい。それが久しぶり会った友達にいう言葉か!」
 むくれる彼女に、美沙は声を上げて笑った。

 ***

 薄暗くなる頃までしゃべって、携帯の番号を交換してから、ふたりは手を振って別れた。まるで高校生に戻ったようだった。

 家に戻った美沙は、家中を見て回り、侵入されていない事を確認しながら、卒業アルバムを探して引張り出した。
 B組か。いや、三年でクラス替えがあったから、違うか……。
 ぱらぱらと集合写真を見ていくと、”下村君”は確かにいた。D組だった。下村勇樹。写真の下にそう名前が書いてある。
 特別かっこよくはかったが、優しそうではあった。彼が、亜衣とねぇ……。
 そう思いながら別のページを見ていくと、図書館の風景にも彼の顔があった。しかしその隣りに美沙の姿はない。普通、こういう写真は女の子を使うだろう、と思ったが、考えてみればこれは三年になってからだった。
 彼には申し訳ないが、記憶に残らなかったのだから仕方がない。
 美沙はアルバムを閉じた。でもすぐにまた開いた。そして慌てて開いたページに映っていた美沙の姿を、穴のあく程見詰めていた。

 ***

 パパが冷たくなって見付かったのは、誘拐騒ぎがあって、ひとり家を出たその出先でだった。
 お酒を飲んでいたらしく、かなりの量のアルコール成分が検出された、と後で警察に告げられたのを覚えている。
 暗くなってから無事に戻って来た美沙を抱きしめたママは、その直後にパパの悲報を聞く事になった。もちろんそれは美沙も同じだった。
 転んで出来たらしい傷以外に外傷もなく、家から大分離れた寂しい道にひとり倒れていたパパを、結局警察は事件性はないと判断して、病死扱いで処理される事になった。
 死因は心不全。つまり心臓が止まったという事だ。
 結局、どこでお酒を飲んでいたのか、その足取りすら捜査されず、数日後にはパパは骨になって、骨壺に収まっていた。
こんなに簡単にすべてが収束してしまったのも、ママが誘拐の件を最後まで口にしなかった事が一因だった。なぜなら、帰って来た美沙の髪が短くなり、制服が乱れ、下着を着けていなかった事実を、ママが知ってしまったから……。
 美沙の元気な声を聞いてほっとしていたママには、何がどうなっているのか、さっぱり分からなかったらしい。でも娘の姿を見れば、誘拐された先から逃げ出して来たとしか考えられなかった。でも美沙が手元にあるのなら、警察に話した方が真実に迫れるとは思わなかったのだろうか? 
 きっと最後まで何か思う所があっただろうに、美沙の事を考えて、結局すべてを胸の内に仕舞いこんだのだ、と思っていた。
 けれどそれにはもうひとつ理由があった。ママの携帯に送り付けられた画像や、夫婦の間、犯人との間で交わされた通話履歴がすべて消えていたのだと、後にママが教えてくれた。
 驚いた事に、郵便受けに入っていたあの封筒も、そして中身もすべてが魔法のようになくなっていたのだという。
 誰がやったのか? 考えるまでもなく、夫以外にこんな事が出来る人間はいない。でもなぜ夫がそんな事をする必要があるのか? 誘拐の物証をすべて消し去る理由だ。
 でもママには最後まで思い当たる事がなかったらしい。
 家に着いた途端に倒れてしまった自分を介抱するだけでも、精一杯だったはずのママの頭の回転の速さに、美沙は驚かされる思いだった。

 ママはパパのお葬式までは気丈に振る舞っていた物の、終わると、まるで魂が抜けたように、何もしないで佇むだけの日が続くようになった。
 美沙はほとんど口をきかず、寝込む事が多かったし、その頃は心配した叔母が付いていてくれたので、なんとか生活は回っていたが、彼女もそう長く留まってはいられない。
 きっとそう察したママが、「もう大丈夫だから」と言って、叔母を帰したのは、容易に想像出来た。
 でも叔母が帰って僅か三日後。朝起こしに行った美沙が見付けたのは、パパと同じように冷たくなったママの姿だった。


 美沙は目を開いた。夢に出て来たふたりが、じっと美沙を見詰めていたのを思い出した。そしてそんな美沙を、もうひとりの自分がずっと遠くから眺めていた。
 ひとりでに溢れてきた涙を、パジャマの袖で強引に拭った。なぜか急に止まらなくなった涙を何度も拭きながら、やがて美沙は声をあげて泣いていた。

 そのまま眠る事も出来ず、白い天井を見詰めて、朝まで過ごした。
 天井の模様が人のように見える。その人に見下ろされながら、美沙は神様に見られているような気がしていた。
 バカらしい……。すぐにそんな空想を否定する。そもそも神様なんていやしない。それは自分が一番よく知っているじゃないか……。
 美沙はそう思いながら、毛布にくるまって、目を閉じた。
 カーテンが白く染まり、部屋が明るくなると、美沙は陽が上ったのだと知った。

 ***

 ほとんど誰も訪れる事のない美沙の家のチャイムが鳴った。しかもまだ六時前だ。
 美沙はベッドから出て窓の傍まで行くと、そっとカーテンに隙間を作った。門の所に人がひとり、ぽつんと佇んでいるのが見える。
「まさか、ね……」
 それは本当に予想外の人物だった。美沙は悲しいのに、なぜか笑みが零れていた。
「人の行動には必ず理由がある」犯罪心理学か何かの本にそう書いてあった。もちろん下にいる人にも理由があるはずだった。
 
 ざっと鏡を見て髪を直し、汗拭きシートで顔を拭った。眉はちゃんとあるし、すっぴんでも大目にみて貰うしかない。こんな時間に訪れる方が悪いのだ。
 そして美沙はパジャマ姿のまま、部屋を出て、玄関に向かった。

 部屋には、大きな旅行カバンがひとつ、荷造りの途中で放棄されたまま転がっていた。

 ***

「みっさ」
 電話ボックスを出た所で、後ろから声を掛けられた。
「紗枝……」
 美沙は言葉を失っていた。そこに妹の姿があったからだ。
「あなた……、どうしてここにいるの?」
「どうしてって、待ち合わせ場所にいないから、ぶらぶら捜してたら姿が見えたの……。でもなんで公衆電話なの? 携帯持ってるでしょ?」
 まるで夢を見ているようだった。たった今パパとした話しはなんだったのだ。ちゃんと紗枝はここに、こうしているじゃないか。
 幽霊でも触るように顔を撫でる美沙に、紗枝は気持ち悪そうにその腕を払った。
「今までどこにいたのよ? 時間までにちゃんと戻って来てってあれ程言ったじゃない!」
 涙混じりに声を上げた美沙に、紗枝は困惑していた。
「ごめんね。なんか気の合うヤツがいて、ついつい話し込んじゃったんだよね。気が付いたら暗くなってた」
 悪びれる様子もなく、紗枝が笑う。
 美沙はそんな妹を見て涙が止まらなくなり、声を上げて泣いてしまった。
「なんなの、もう……。遅れたのは悪かったけどさ、みんな見てるし、こっち来て」
 紗枝に抱かれ、連れて行かれた先にはワンボックスの車があった。
「乗って」
 ドアをスライドさせ、戸惑う美沙を、紗枝が、「いいから!」と言って強引に乗せた。後部座席に座った美沙の隣りにすぐに紗枝も収まった。
「パパが……、来るの……」
 涙を拭(ぬぐ)いながら、紗枝に言った。
「知ってる……」
 知ってる? 
美沙は紗枝の顔を覗き込んだ。でも彼女の顔には表情がなかった。別人のような妹に、美沙は話し掛けらなくなていた。
 知ってるって……どういう事?
 疑問をぶつける間もなくいきなり発進した車に、美沙の身体は座席に押し付けられた。運転席を見ると若い男がハンドルを握っている。
「ねえ、どこに行くの?」
 紗枝がいるので心配ないと思いつつ、美沙は何か変だと思わずにはいられなかった。
「いい所……」
 紗枝はこちらを見向きもせずに言った。そして少ししてからひとり言のように口を開いた。
「ねえ、美沙。私って、あなたに似てるわよね?」
 美沙が頷こうとすると、それを無視して話しは続いた。
「でもこんなに似てるっておかしいと思わない? だって……、普通姉妹だってここまで似ないでしょ?」
 紗枝がこちらを向いた。
「まして私たち、母親が違うのよ? そりゃ世の中には三人位そっくりさんがいるっていうけど、なかなか出会う事はないわ」
 紗枝は年下とは思えない口調で美沙に語り掛けてくる。これまでとのギャップがあまりに大きすぎて、美沙は彼女が怖くなっていた。
「何が言いたいの?」
 美沙が口を開くと、「さあ?」と紗枝が首を竦めた。
 どこかに車が止まると、紗枝だけが降りて行った。後に続こうとした美沙は、直前に嵌められたシートベルトが外れず、もがいている内にドアが閉じられてしまう。
 運転席の男は何も言わず、車内は緊迫した雰囲気のまま、沈黙が訪れた。

 次にドアが開いた時、彼女の横にパパが一緒にいた。そして、紗枝に押し込まれるように車に乗り込んだパパが、もうひとりの美沙をを見付けて驚愕の表情を浮かべた。
 再びドアが閉まり、パパにもシートベルトが締められる。
 静まり返った車内で、パパが口を開いた。
「君は、誰だ?」
 その視線は、高校の制服を着ている紗枝に向けられていた。
「誰だと思う?」
 はっとして、パパの脳裏に何かが浮かんだらしいのが分かった。
「まさか……」
 真っ暗な空き地に車が止められると、運転席の男が後部座席のドアを開けた。そしてパパを押さえ付けて、その口にウォッカを流し込み始めた。
「やめろ! やめてくれ!」
 咽ながらも、呼吸するた為には飲み込むしかない。
 美沙は、パパに縋ろうとして紗枝に押さえ付けられていた。
 二瓶飲み干した所で、前掛けが外された。それでもパパは美沙の手を握っていた。
 横を見れば、紗枝がいつの間にかアンプルから注射器に透明な液体を吸い上げている。
「苦しまずに逝かせてあげるんだから、感謝してほしいわね」
 紗枝の顔は鬼のようだった。憎しみが表情に映り込んでいた。
「やめろ!!」
「やめて!!」
 二つの声が重なった。

 ***

「おはようございます。誰かさん」
 玄関の扉を手で押さえながら、美沙はそういって微笑んだ。目深に被った帽子で、表情は見えない。でも、もちろん彼女が誰なのかは分かっていた。
「来るのが分かってたみたいね」
「まさか……。少なくとも、あなたが来るとは思わなかったわ」
 道路には誰もいなかった。空に鳥のさえずりが微かに聞こえるだけだ。
「生きてたんだね、美沙」
 すると彼女は楽しそうに笑った。
「ごめんなさい。あなたの思い通りにならなくて。ね、紗枝」
「…………」
「違ったわね。若林沙希さん」
 沙希は思わず笑っていた。
「取り敢えず入ったら? こんな所で立ち話しもなんだし……」
「驚かないのね。ちょっとがっかりだわ」
 そう言って、美沙は自分で門を開けて、閉め、沙希が身体を避けた間を抜けて、廊下をすたすたと歩いて行った。
 
 沙希が鍵を掛けてから後を追い掛けると、美沙はリビングのソファに座っていた。背凭れに身体を預け、ゆっくりと室内を見回している。
「何か飲む?」沙希が訊くと、「毒が入ってなければね」と美沙はこちらを見ずに答えた。
 ポットのお湯で、インスタントのコーヒーを作り、美沙のカップをテーブルに置いた。沙希は自分の分に口を付けながら、「アイツはどうしたの?」と訊いた。車を運転していた男の事だ。
「さあ? どうしたのかしらね……」
「知らない訳ないでしょう? あなたがここにこうしているんだから!」
「気になるの? どうせ捨て駒だったくせに」
 沙希の怒気を含んだ言葉に、美沙がこちらを向いた。
「あなたにとっては、みんな捨て駒なのよね? 私たち家族を抹殺する為の……。なのにもう一度私を殺そうとしないのはなぜ?」
 どうやら彼女はすべて知っているらしい。
「もういいよ。警察も動いてるし、今更美沙に死んでもらっても、何も変わらない」
「警察? 来たの?」
 沙希は首を横に振ると、「来たのは、てっきり警察かと思った」と答えた。 

「パパはあなた達に何をしたの? 実の娘であるあなたに……」
 沙希はカップをテーブルに置いた。
「この顔はちょっとしか弄ってないの。やっぱり半分DNAが同じだからかしらね? そっくりに仕上がったわ。自分でも驚いちゃった。
 それと知ってると思うけど、私の方が年上よ。二つ年上。つまり私の方がお姉ちゃんな訳」
 美沙は何も言わずに、続きを促す。
「パパは職務に忠実な人だった。そして、非情だった。だからこそ出世したのね。
 バブルが崩壊した後、銀行は生き残るのに、いろんな無茶をやったの。知ってる? 貸し剥がしとか。
 お母さんは、別の男の人と付き合ってたけど、私に遠慮して結婚まではしていなかった。当時その相手の人は事業をやっていて、取引先が倒産した事もあって、融資が焦げ付きそうだったの。銀行はそんな小さな所からも資金を引き上げたわ。
 系列のノンバンクからお金を借りさせて、返済させたの。そのノンバンクも同じようにして、怪しい所からお金を借りさせた。やっぱり系列だからって。役所の目を誤魔化しつつ、お宅を救う為だとか言っちゃってさ」
 沙希が遠い目をしながら、ソファの周りをゆっくりと歩き始めた。
「取り立てはすごかったわ。どう見ても相手はヤクザ。思い出すと今でも足が震えるくらい。お母さんと私を守る為だったのか、疲れ果てたのか、その人は死亡保険金目当てで自殺しちゃった……。
 よくある話しよね? でもね、それをやってたのが、あなたのパパだった訳。
 私、知ってるんだ。家にまでそういう迂回融資みたいな話しをしに来てたパパの事。おかあさん共顔を合わせてた。分からないはずないじゃない? パパはそういう人だったのよ」
 そう言って、沙希は美沙の向かいに腰を下ろした。
「借金はそれでも払い切れなかった。バカみたいに高い金利で、払い終わる前に、お母さんも死んじゃった……。
 私宛にお金が届いていたのは本当だけど、それはもっとずっと後になってからで、あなたのパパが何をきっかけにしてお金を送るようになったのか、私は知らない。罪滅ぼしだったのかしらね?
 何にしても私はそれをずっと使わずに取っておいた。後で突き返してやろうと思ってたんだけど、顔の整形に使ちゃった。
 ……私は憎んだの。ぬくぬくと生活するあなた達をね。
 勤めてた病院は、筋弛緩剤が手に入ったらすぐに辞めて、養護施設にいた時の仲間ともうひとりのバカ、誘拐なんか引き起こした奴ね。三人で始めたの。この家の乗っ取り……。
 本当はもっとじっくり時間を掛けるつもりだったのに、バカが勝手に誘拐なんか始めちゃって……。 信じられる? あいつ本気で間違えて私の方を誘拐したのよ? そりゃずっと一緒だった訳じゃないけど、あり得ないわよね?」
 笑っちゃうでしょ? と言わんばかりに沙希が笑った。
「しかも私を襲おうとまでしたのよ。このバカ野郎って、怒鳴ってやったら、真っ青になってた。
 もちろん、そんな自分勝手な男を仲間なんかにしておけない。多分、この世にはもういないと思うわ……。多分、だけど……。」
「…………」
「それからの事は知ってるわよね? 彼が美沙の事気に入っちゃって。欲しいっていうからあげたの。薬と一緒にね。とっくに薬は使われてると思ってた。彼もそう言ってたし……。
 取り敢えずお金を少し渡して、それぞれが落ち着くまで、別々にやっていこうという事になった。
 言っとくけど、彼は捨て駒なんかじゃないよ。後で書類上結婚してもいいかなと思ってた。そうすれば怪しまれずに、この家のお金も共有できると思ってね。そしてすぐに離婚する。彼とは別に恋人でも何でもないし、そこでお別れになる予定だった。
 トラブル続きだったけど、とにかくすべては丸く治まった。だから安心してたんだ。もし来る事があるとして、それは警察だろうって、ね。
 でも”本人”が元気に生活してるのに、誰か不審に思うかなって考えたら、私が安心するのだって無理ないわよね」
 沙希はコーヒーをひと口飲んで、「冷めちゃったわね」と言ってから、急に話題を変えた。
「所で、下村くんって知ってる? 高校の友達だっていうんだけど」
「もちろん知ってるわよ」
「彼って何者?」
 沙希がソファにあった卒業アルバムを広げて、指差した。図書館での別のショットに、ふたりの姿が映っていた。
「ラブレターを貰ったの。初めてね。もっとも最初で最後だったけど……。
 この写真は……。そうだ。断ったのに、それでも一度でいいからデートしてほしいってお願いされちゃって。そんなのが隅の方に映ってるなんて、気が付かなかったな」
「そういう事か……。亜衣ちゃんには、やっぱり会うんじゃなかったなぁ」
 美沙は亜衣にだけ、下村君の事を打ち明けていたんだろう。写真の美沙は三年生のバッチを付けている。下村君は学年が上がっても美沙にご執心だった訳だ。そんな相手を忘れるはずがない。
「美沙の事はとことん頭に入れたつもりだった。その為にあなたに近付いたんだし。
 でも所詮すべてを知るなんて事、初めから無理だって分かってた。だから一度すべてをリセットする必要があったんだ……。
 それにあなたのママ。間違いなく気付いてたわ、私の事。叔母さんは誤魔化せたけど、さすがに母親は無理ね。でもあんまりそっくりなんで少し観察する事にしたみたいだった。だからパパの時も警察を介入させなかったのかもしれない。あなたのママは本当に頭がよかった。怖いくらいに……。
 だからあんなに早くに亡くなるはめになってしまったのね。
 本当に、あのバカのせいで計画は目茶目茶になっちゃった。だから無茶を承知で、あなたのママの元に飛び込む事にしたの。髪は短くなってたし、どうしようもなかった。
 取り敢えず履歴や物証になりそうな物を消して、盗聴器を外して、大変だったんだから……。
 もっとも、権利書や証書類が一か所に集まってて捜す手間が省けたっていうのもあったけどね」そう言って、沙希はソファに凭れ掛かった。

「こんなヤツでしょ? 盗聴器って」
 美沙が手に握っていたコンセント型のそれ床に落とした。
「言っとくけど、あなたの彼もこの世にいないわよ。多分、だけど……」
 突然の告白にぎょっとして、盗聴器を拾い上げた沙希は、美沙の顔を見詰めていた。
「それに……。何を勘違いしてるのか知らないけど、警察も来ないわ」
「どういう事? 亜衣が私に会いに来たのは偶然だとでもいうの?」
 美沙は言葉を探している。
「ま、ちょっと嗾(けしか)けるような電話は掛けたけど……。つまり保険ね。
 亜衣は不審に思ってくれて、あなたにカマを掛けた、という訳か。ふたりがKで会っていたのは知ってるけど、内容までは分からなかったし。いい事を聞かせて貰っちゃったわ」
「いい事?」
「私も今日あなたに会おうと決めた日から、色々と考えたの。無駄死にはイヤだから……」
「怖い事言うのね……。でも美沙の言う事を聞いてると、今ならまだ私はやり直せるって聞こえるけど?」
「……残念だけど、もう手遅れだわ」
 沙希はパジャマのポケットから取り出そうとしたアンプルを、そっと元に戻した。そんな沙希を美沙の冷たい視線が捉えている。
「あなた、コーヒー飲んじゃったもの。たまには別の物、飲んだ方がいいわよ」
 やはり部屋に入り込んでいたのは、美沙だったのだ。当然鍵も持っていたに違いない。
「まだ分からないの? 長い時間掛けたのは、何もあなただけじゃないって事……。もう一度入れ替わるには、それなりに準備が必要だって、あなたなら誰よりも分かるわよね?」
 沙希の身体を突然の痺れが襲った。まさか、と思った。今まで美沙が語った事も、話し半分で聞いていたのだ。”あの”美沙にそんな事が出来るはずがない……。そう思う間もなく、沙希の手は泳ぎ始めていた。
「変わったわね、美沙……」
 荒い呼吸をしながら、沙希がソファから床に滑り落ちた。
「あなたの彼に、私がどんな目に遭わされたのか教えてあげましょうか? 今でも足が震えるくらいよ。
 ここまで回復するのに時間は掛ったけど、それが出来たのは、あなたがいたからだわ。
 本当はあんたなんか、滅多刺しにしてやりたい。パパもママも殺されて、こんな目に遭わされて……。
 でも警察なんかには絶対にあなたを渡さない。
 今のあなたを消す事が一番の復讐だと思った。やっと”美沙”になって、楽しい生活を送り始めたあなたを消す事がね」
 沙希はもう聞いていないようだった。身体の動きは止まり、その目から光が失われていく。
「さようなら、沙希。感謝しなさい。後で彼の所に一緒に埋めてあげるから。そこで何があったかじっくりと訊けばいいわ」

 時間はたっぷりとあるのだから……。

REPLACE -続ママの知らないひと-

REPLACE -続ママの知らないひと-

誘拐騒ぎを経て、美沙の環境は激変した。そして一年。なんとか落ち着いた生活を送り始めた美沙の周辺で、不気味な事が起こり始めた。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-11-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted