夢と遠い彼女
「手が届かなくても、繋がってるって想ってた」
そう言って、彼女は月に向かって手を伸ばした。ベランダから身を乗り出すように必死になって、空高く孤独な月に向かって。
部屋を見渡せば至る所に様々な月の写真が散らばっていた。写真に載る月はどれも美しく、それでいて儚げな表情で、見る者に助けを求めるかのような錯覚を覚える。
それはまさに、今彼女が必死に手を伸ばすしている姿と酷似していた。薄い雲に架かる月の陰りが、まるで彼女の心のようだった。
冷たく肌を刺す寒さに、より一層悲しみが増していく。涙が頬を伝う感覚すら、彼女は当に慣れてしまっていた。
心痛な思いに胸が切なく、張り裂けそうだった。
「私には、会いたいと願うことも叶わないのかな…」
伸ばしていた手は何を掴むことなく彼女の胸におさめられた。膝から力が抜け、冷たいベランダの床に崩れ落ちる。
遠くに聞こえる賑やかな音も、彼女には届くことはなかった。心から、深い悲しみに沈んだ彼女には、誰からも手を差し伸べられることはない。
「…会いたいよ…あなたに、会いたい」
散らばる写真の下から、一枚の封筒が姿を現す。彼女宛に届いた国際郵便のその封筒には、まだ写真が半分程出されずに机に置かれていた。
彼女は無意識のうちに感じていた。写真を見てゆくほどそれは確信に繋がってゆく。
それは彼女が出会った一人の青年との想い出を、全て清算するものだということを。
全身を包む虚無感や悲壮感に心が押し潰れてしまいそうになる。たった一つだけの繋がりを今、失おうとしている。
「どうして……遥」
どうして、彼との想い出を捨てなければいけないのか。彼女には分からない。
掃天に輝く孤独な月と、地上に華やいだ孤独な月。そのどちらにも、救いようがないほど周りは暗く、異質なほどに美しい光をただ放っていた。
四月の魚にダイレクトメール
高校の入学式に遅れてから入った教室は、すでにグループが出来上がっていた。中学の頃と同じように男女が入り混じったグループがひとつもないのは初対面だからなのか、気にしている様子は見受けられるが話しかけはしない。特攻隊の意思は誰も持ち合わせてはいないのだろう。
一人遅れて入った教室の生徒たちから奇異な視線を向けられる。
なんでこんな時間に来たんだ?的な至極全うな疑問を乗せた視線をバシバシ向けてくる。
いや、寝ぐせが気になって遅れたとかじゃないからね?
首元のネクタイを緩めつつ、自分の席を探し始める。黒板に書かれてるかと思ったが、真っ白に綺麗な状態のまま堂々と教壇の前を占拠していた。
「なあ、もしかして席探してる?」
窓際の席で談笑していた男子が呼びかけてきた。内心ほっとしながらその男子のところまで歩み寄る。
「助かったよ。遅れて席が分からなかったんだよ」
「大丈夫だ。俺らも分からん」
聞けば朝、直接体育館に行って入学式を終えた後、振り分けられた教室内で適当に座ってろとのこと。出席簿やら書類やらを先生が持って来るのを待っているらしい。
「しょっぱなから遅刻とは玄人か?お前」
「いや新人だから。布団が僕のこと離してくれなくて、宥めてたんだ」
「あまいなお前は。俺は夜激しく愛して、朝は素っ気ないプレイなボーイを心がけている」
「僕は朝もしっかりと愛を受け止めるよ」
「そこは見習いたいが…あいつな。朝になっても暖かく俺を包もうと必死なんだぜ?尽くすタイプなんだよきっと。それでも突き放す俺はかっこいいと思う。とりあえず横空いてるから座ろうぜ」
ほかの机と比べて傷が少ない真新しいものだった。鞄を置いて凝った肩をほぐすために首を左右に傾けてコキコキっと鳴らす。
「それ首にものすごい負担掛かるらしいぞ?」
「え?鳴らしたほうがストレス解消に良いって聞いたけど」
当たり障りのないごく普通の会話。でも互いに深い話をせず、名前も言わない。いつの間にか出来てしまっていた心の壁が親しくなりたいと思う気持ちを邪魔する。友達になりたい、けれど緊張してしまう。初めて地元を出た少年の心理は複雑だった。
「…すぅ……すぅ、んぁー」
そんな心理で焦りまくりな気持ちを変な方向に落ち着かせる寝息の声と気配。すぐ後ろから聞こえてはいたし、座る時も目の前を通ったから気にはなっていた。
話が一区切りすると、思わず気になって振り返ってしまう。
…うん。まあ寝てるのはいいんだけど。
「ま、気になるよな。こんな可愛い子がいたら」
「うん、そうなんだけど。でもなぁ…」
栗毛色の腰まで届く長い髪は朝日に照らされ眩く輝いている。こちらを向いたまま目を閉じて寝息を立てる彼女は、綺麗に整った顔立ちをしていた。机の上におかれた腕を枕代わりに、少し乱れた髪が口元に付いて若干の妖艶さも見て取れる。
「ん…、すぅ…」
時々聞こえる色艶のある吐息に、鼓動が早く打ってしまうのを自覚しながらもやっぱり気になってしまう自分がいた。
「これは気づいたとき相当恥ずかしいんじゃないか?」
「だろうな。でも起こして指摘する勇気あるか?」
いや無いに決まってるだろ!男子ならともかく女子に涎がものっそい出てるよなんて言える分けない!
涎で水溜りが出来るのは初めて見た気がする。口元を伝うだけでも恥ずかしいのに溜まるなんて。
枕代わりの腕も涎で色が変わっていそうだなぁ…なんて変な所が気になるも、彼女の寝息を聞いてるだけでも、涎なんぞ些細なものに見えてきてしまう。
「ところでこの子、なんて名前なんだろうな」
窓際に座る名前の分からない同級生が誰にとも無く疑問を口にする。
実はそれが一番気になるポイントだった。高校入学という華やかなこの時期、恋愛面での進展を期待する者は多い。しかも入学早々同じクラスに美少女がいるのである。多少、涎というハプニングはあるものの、補って余りあるほどの幸運だ。
「出席を取るときに分かるだろう。ただ、一つだけいいか?」
「ん?何?」
顔を寄せてもったいぶる同級生の話を聞こうとする。やっと聞こえるかと言うほど小さく彼は口にする。
「周りの男子を見ろ、そして聞け。全員彼女の話で盛り上がってる」
…即座に周りに目を走らせる。気を回せば皆彼女を見ているではないか。いや、見ているなんて表現はまだマシだ。なめ回している者も少なくは無い。寝ていることを良しとして遠慮しないこのクラスの男子共に、軽い衝動的な怒りを覚える。
「落ち着け玄人よ。お前も言わばその内の一人だ」
「玄人言うなハゲ。まだだ、もう少し情報を…」
「ハゲだと!なんてこと言うんだ!これは男子の一種のチャームポイントなんだぞ!」
口々に男子が話す内容に聞き耳を立てる。
「あの子どこ中出身かな」「髪すっごい綺麗だなー細っせー」「彼氏とかいるのか」「友達いないのか、いたら仲介してほしい」「てか涎が聖水に見える」「あのハゲ、チャームポイントだってwうけるw」
少し女子の話も聞こえたが、男子一様に彼女の話題で持ちきりだった。
「なるほど…これは強敵だな」
「だろう?彼女を狙うのはこのクラスだけじゃ無いぞ。後女子が鼻で笑ってるんだけど」
「そこは受け流せ。お前の運命…いや、宿命だ」
「変えても同じだ。そしてハゲじゃない」
「髪が無いなら胸毛を増やせばいいじゃないの」
「無い言うな。あとそれマリー・アントワネットの真似か?分かりにくいから」
朝の喧騒が途端に耳障りに思えてきた。なぜだか自分の後ろで寝ている女子は、とてつもなく人を惹きつける。天性のようなその美しさは最早、生ける美術品とでも言うかのような存在だった。
「おーい、玄人。競争率高そうだから言っておくけど、この子海外から来た子らしいぞ?」
「海外?なんでそんなこと知ってるんだよ」
「朝早くにこの子が校長室に入って行く所を見たもんでな。ちょっと聞いてみた」
「…ってことはこの子ともう話したのか?」
「いや?校長に聞いたの」
入学式初日から校長と話したのか、こいつは。なんか行動力があるというかなんというか…。直接この子に聞いたらそれこそ好奇心ついでに顔を知ってもらえるかも知れないのに。
斜め上を行くクラスの男子。まだ情報を隠していそうだが、そう簡単に話すとも思えない。初日から詮索する嫌なスタートとなった高校デビューだった。
夢と遠い彼女