メシのタネ

   一

 三十日、月曜。
 十七時三十一分発の各駅停車に乗車した波奈子は、最寄り駅までのおよそ三十分、右手で吊革をつかみ、窓の外を眺めていた。昨日、仙台から帰ってきたからだろうか、週の頭から疲れている様子。最寄り駅で下車した後は、駅前の商店街を抜けて自宅である〈コーポ海浜〉へ。帰宅したのは十八時十六分――

「わたしに、ストーカーがいるみたいなんです」
 そう言って女――渡された名刺には、山田波奈子とあった――が、私の事務所を訪れたのは土曜日のことで、知人の催した宴席に招かれた私は、久しぶりのタダ酒にあずかろうと、そろそろ事務所を引き上げようとしていたところだった。
 山田波奈子は、年の頃は二十七、八歳。スタイルのいい女だった。身につけているデニムのジャケットも、焦げ茶のパンツも、決して派手ではないが、それなりに金がかかっていそうな代物だ。なんにせよ、西日しか射さないせいで、ブラインドを降ろしっぱなしにしている薄暗い夕方の事務所には、似つかわしくない女であるのは、確かだった。
「それは、尋常じゃありませんな」続いて出てきた言葉は、私の稼業で一番言ってはいけないことだった。「悪いことは言わない。警察に駆け込んだ方がいい。ここを出て大通りを右に百メートルも行けば……」
 長いこと本業での稼ぎがないせいで、せっかくの依頼も厄介事のように思われた。
「本当です。わたしをつけ回している人がいるんです」
「だったら、なおのこと、警察に行きなさい。あそこは、お金がかからない」
 私はいろいろな意味で疲れていた。面倒な依頼より、目の前のタダ酒だ。のんべんだらりとしたいのだ。
 しかし、彼女は引き下がらなかった。「キヨシから、〝今の警察は信用ならないから〟と言われました」
 確かにキヨシなる人物が波奈子に言ったように、昨今のニュースで目につく警察の不祥事のせいで――新聞やらテレビといったいわゆるマスコミが狙い撃ちにしている感も否めないが――警察への不信感を募らせる人も多いのは事実だ。だが、果たして私のような稼業が、警察以上に信用に値するかといえば、それは別の問題だった。
 私は思ったままを口にした。「まあ、だからといって、私が信用できるとは限らないでしょう?」
「いいえ。〝あなたなら信用できる〟と、キヨシは言ってました」
「私なら信用できる?」
「ええ」
「その……キヨシさんは、どちらの方です? 私を知ってるんですか?」
「キヨシは、私の婚約者です」
 波奈子の左手の薬指に、ルビーの指輪が輝いているのに気がついた。タダ酒に目がくらんだのか、疲れのせいなのか、観察力が落ちている。
「キヨシは、以前いた会社で、あなたと仕事をしたことがあると……」彼女が名刺を差し出した。「今は独立して、自分で会社をやっているんですけど」
 受け取った名刺には、〈(株)ダーウィーズ 代表取締役社長 西川清司〉とある。まったく身に覚えがない。しかし、一介の羊飼いからイスラエル王にまで昇りつめ、ミケランジェロが彫刻のモデルとした勇者の名前を社名に冠するあたりに、〝西川清司〟という男の気概が見て取れた。
「以前いた会社というのは?」
「あの――」波奈子が口にしたのは、とあるコンピュータ関連グッズの小売業者の名前だった。
 思い出した。二年ほど前になるだろうか。倉庫に保管してある商品が紛失していることが発覚し、どうやら内部犯行の可能性があるということで、調査を依頼された。三カ月ほどの調査の末、経理部長――だったと思う――の息子とその悪い友人たちが、倉庫の合い鍵を作り、商品を盗み出しては、小遣い稼ぎ目的で売り飛ばしていたことが判明した。結局、警察沙汰にはせずに社内で処理をしたはずだ。口止め料も含まれていたのだろう、相当額の報酬になった仕事だった。
 調査の性格上、身分を隠して会社に潜り込んだのだが――派遣社員を装った――、社内には何人か私の身分を知っている社員が存在していた。ただその中に、後に山田波奈子の婚約者となる〝西川清司〟がいたか――までは、思い出せなかった。
「清司は、まずは、あなたに調査をしてもらって、ストーカーがいることがわかったら、清司の知ってる弁護士さんのところに行けばいい、と。報酬についても、きちんとお支払いしますから」
「なるほどね……あなたは相当、その清司さんを信用してるんですなァ」
「はい」波奈子が、事務所に入ってから初めて笑顔で頷いた。飛び切りのいい笑顔だ。
「清司があなたを信用しているんです。だから、わたしもあなたを信用しています」
 ――報酬は、きちんと支払う
 それを言われてしまえば、いかに無精な私とて、勤労意欲ぐらいはわいてくる。
 そして、なにより
 ――あなたを信用しています
 そこまで言われてしまえば――それも、スタイルのいい女に飛び切りの笑顔で、だ――悪い気はしない。遅れて行っても、タダ酒はタダ酒なのだ。
「詳しい話をお伺いしましょう」
 二カ月ほど座る相手のいなかった分だけ、磨きに磨き上げた依頼人用の応接セットに、山田波奈子を通した。

   二

 九日、水曜。
 途中駅で下車した波奈子は駅前のスポーツクラブへ。およそ二時間後にスポーツクラブを出ると、十九時二十八分に最寄り駅に到着。今日は駅前の商店街にあるコーヒーショップに入り、ターキーサンドとグレープフルーツジュースを注文。店が混雑しているため、喫煙コーナーの近くに座らされたせいで、不機嫌な様子。夕食を済ませた後、この日は二十時十八分に帰宅――

「あ、あのコーヒーとか、お茶は結構です」コーヒーを淹れに申し訳程度の流しへ向かった私の背中に、山田波奈子が声をかけた。「わたし、カフェインとか採らないようにしてるんです。あまり、身体に良くないっていうし……」
「そうですか……」二カ月ほど熟成させたコーヒーをふるまえずに、手ぶらのまま応接セットに戻った。「で、ストーカーの存在に気づいたのは、いつです?」
「仙台から帰ってきてからなので、一カ月くらい前からです。家に帰るときに、ずっとつけてくる人がいるんです」
「後をつけられているだけ、ですか?」
 波奈子が頷いた。
「いたずら電話とか、家に侵入した形跡があるとか、そういったことはないんですか?」
「今のところ、ありません」
「そのつけてくる人――ストーカーの特徴は?」
「知りません。怖くて後ろは見れないですから」
「まあ、そうでしょうねェ……」
「それに、その人を調べて欲しいから、ここに来たんです」
「仰るとおりです」二カ月ぶりの本業に、やはり感覚が鈍っている。いつもの感覚を取り戻すため、私は彼女に訊いた。「煙草、いいですか?」
「やめてください」山田波奈子の顔から一瞬で笑顔が消えた。鋭く睨みつけてくる。「わたし、本当に煙草とかダメなんです」
 私はワイシャツの胸ポケットに伸ばした手を止めた。
「大体、なんで身体に害しか与えないものを好んで喫うのかも、わからないんです。今、禁煙が世の中の流れなんですよ。考えてください」
 彼女は〝喫煙者はストーカー以上の悪である〟とでもいった剣幕だった。
 そんな彼女に対抗して、
 ――カフェインとニコチンに依存しなければ生きていけない、オールドスクールな人間
 あるいは、
 ――毒にまみれて、初めて気づく健康のすばらしさ
 と題して一席ぶちたかったが、この稼業では依頼人の言うことは絶対なのだ。煙草は諦めるしかない。およそ二カ月ぶりの本業ということで、ただでさえ感覚が鈍っているのだ。ニコチンの禁断症状が出てしまうまでに、話を聞いてしまわなければならない。
 私は質問を続けた。「少し立ち入ったことを訊くことになりますが、仙台から帰ってきたと言ってましたが、仙台には、なにをしに行かれたんですか?」
「清司と、清司の実家へ。結婚式について打ち合わせを」
「なるほど……今が一番幸せなときだ」
 彼女は私の軽口につき合ってはくれなかった。仕方なく、私は質問を続けた。「あなたにストーカーがいるとして、心当たりはあるんですか?」
 少し間を置いてから、波奈子が答えた。「ヤスシじゃないかと……」
「ヤスシ、というのは?」
「半年前に別れた前の彼氏です」
「半年前、ですか」
「あ、勘違いしないでください。わたしが清司とヤスシを二股かけてたなんて、思わないでください。清司とは、ヤスシと別れてすぐだったけど……偶然、新宿のバーで会ったんです。〝久しぶりだね〟って話しかけられたのがきっかけで、つき合い始めたんです」
「勘違いはしません」二股であろうが、三股であろうが、私にとっては正直どうでもいいことだ。
 波奈子は、私の本心に気づかずに「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
「ただ、今、久しぶりに会ったのがきっかけだ、といいましたね」
 波奈子は顔を曇らせ唇を噛むと、大きく息をついて言った。「清司とヤスシは親友なんです。清司は、ヤスシと中学、高校とサッカー部で一緒だったんです。それで、四年くらい前に、まだヤスシとつき合っていたとき、清司を紹介されました。それが、清司との出会いです」
「ちなみに、ヤスシさんとは、どれくらいのおつき合いだったんです」
 波奈子はすぐに私の質問には答えなかった。うつむいたまま、しきりに左手の薬指に輝くルビーの指輪をいじり始めた。まるで、魔除けの護符のように。
 やがて、波奈子は絞り出すように答えた。「五年です」
「清司さんと婚約したのは?」
「三カ月前です。わたしの誕生日にプロポーズされました。来月には式を挙げる予定です」
 やっぱり、今が一番幸せなときだ――先刻と同じ軽口を呑み込んで、私は話を続けた。「ヤスシさんがストーカーではないか、と考えられる理由があるんですか?」
「一カ月ちょっと前です。仙台に行くくらいのころに、清司にヤスシから突然、メールが来たそうです」
「メールの内容は?」
「〝婚約おめでとう。末永くお幸せに〟と書いてあったそうです」
「ただのお祝いじゃないですか? 中学、高校と一緒だったら、同じ地元でしょう? 別の友達からでも聞いたんじゃないですか?」
「それまで清司とヤスシは、二年くらいやり取りがなかったんです。わたしがつけ回されるようになったのも、仙台から帰ってきてからだし、それに……」
「それに?」
「清司が、仙台で昔の仲間に聞いた話なんですけど、最近ヤスシの様子がおかしいって」
 五年の間つき合っていた女が、自分と別れてすぐに出会った親友と、三カ月ほどのつき合いで婚約してしまう――前の彼氏にしてみれば、面白くない状況だろう。様子がおかしいのも当然だ。ただ、だからといってストーカーにまで変貌してしまうものなのか。
 いや、それを調べて欲しいというが、彼女の依頼だ。やはり、ニコチンが切れかかっている。思考能力も落ち始めているようだ。
「お願いです。いくらかかるかわからないけど、ちゃんとお金も払います。だから――」
 目の前の女は、お守りであるルビーの指輪から手を離そうとはしなかった。
 私は自分の言葉に責任を持たねばなるまい。
「わかりました。お引き受けしましょう」
「本当ですか!」
「嘘をついたってしょうがないでしょう。まあ、二週間、あなたの身辺とその……ヤスシさんについて調べてみますよ。二週間後の土曜、またここにいらっしゃい。お金もそのときで構いません」
「ありがとうございます」波奈子が、またあの飛び切りの笑顔を見せた。
「ついては、そのストーカーと思われるヤスシさんのフルネームと、顔写真とか、現在の住所とか、わかる限りの情報をください」
「あの――」彼女の顔が再び曇った。「ヤスシに関するものは、みんな捨ててしまったんです。スマホに入ってたのも、全部削除してしまったし……」
 今度は、私が顔を曇らせる番だった。
「あ、清司ならヤスシの写真とか、まだ持ってるかもしれません。清司に訊いてみます」
「わかりました。メールで構わないので、清司さんにこちらに送るよう伝えてください」私は名刺を一枚引き抜いて、彼女に渡した。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」ようやくルビーの指輪から手を離し、波奈子は私の名刺を恭しく――そこまでするほどのものでもないのだが――バッグにしまった。
「しかし、なんですな。婚約者の清司さんが、一緒に来てくれれば、話は早かったのかもしれませんな」
「ごめんなさい。清司、今日は仕事の都合で……」
「いいです、いいです。では、二週間後の土曜に」
 それから波奈子は、立ち上がって一度、事務所の入り口で二度、深々と頭を下げて立ち去った。
 彼女を見送ってから、私は大きく息をついてワイシャツの胸ポケットから箱ごと煙草を取り出すと、一本振り出した。ようやく煙草が喫える。
 煙草に火をつけようとしたとき、事務所にかすかに女の匂いが残っていることに気がついた。久しぶりの依頼人――それも、スタイルのいい女だ――がいた痕跡を消してしまうのがもったいない気がして、私はブラインドを引き上げて窓を開けた。
 強烈な西日が目に刺さる。殺意すら覚えるほどだ。もっとも、この衝動に駆られて実行に移したとしても、一昔前なら文学にも、映画にもなったろうが、今ならワイドショーや週刊誌のネタとして一時世間を騒がせるだけのことだ。ブックマッチで煙草に火をつけ、最初の一服を空に向かって吐き出すとともに、心を鎮める。
 ふと階下に目をやると、この路地にはふさわしくない白いレクサスが停まっていた。レクサスの傍らで五階からでもわかるほど仕立てのいいスーツを着た男が、私の事務所を見上げている。
 男は私と目が合うと、照れくさそうに笑い、両手を口に当てて叫んだ。「お久しぶりです! よろしくお願いします!」
 取り敢えず頭を下げた。波奈子の婚約者――西川清司本人なのだろう。ただ、残念なことに声を聞いてみても、私は彼のことを思い出せなかった。
 やがて、私の事務所のある雑居ビルから――このビルのエレベーターはこの三カ月間、〝定期点検中〟のままだ――波奈子が姿を見せた。最初は戸惑いをみせた彼女だったが、婚約者と二言三言交わすと、彼にぴったりと寄り添った。
 ――どうしたの? 今日は仕事じゃないの?
 ――いや、思ったより早く終わってさ。迎えに来たんだよ
 ――ありがとう。やさしいのね
 恋するふたりの会話など、大方こんなものだろう。やがて、肩を抱いた婚約者に促されて、波奈子が五階を見上げた。そしてふたりそろって叫んだ。「よろしくお願いします!」
 声は路地中に響き渡ったが、恋するふたりには恥も外聞もないようだ。私は手を振って応えるのが、精一杯だった。
 それから、レクサスが路地から消えた後も、私はしばらく路地を眺めていた。きっちり根元まで煙草を二本喫うまでの間、恋するふたりをつけ回す不届き者の存在がないことを確認した後、タダ酒にあずかりに事務所を出ることにした。

 しこたまタダ酒にあずかった五時間後、自宅に戻ると、西川清司から波奈子の前の彼氏、ヤスシ――横山康志に関する情報がメールで届いていた。横山康志の現在の住所と勤務先――どちらも文京区だった――が書き込まれ、二年前、サッカー部のOB会でふたりで肩を組んで撮られた写真が添付されていた。一通り読んでから、お礼の返信メールを送信して、私は眠りについた。
 明日から二週間、真面目に仕事をしようと心に誓って。

   三

 二十四日、木曜。
 十七時三十八分発の通勤快速に波奈子は乗車。今日は最寄り駅までの間、しきりとスマートホンをいじっている。メールのやり取りをしている相手が、すぐ隣の車両にいるとわかったら、彼女はどんな顔をするだろうか。最寄り駅で下車後は、いつもとまったく同じルートで帰宅。帰宅したのは十八時二十四分――

 慌ただしく仙台から戻ってきてから、報告書を書き終えると、私は卓上カレンダーの二十五日のところに、赤ペンでバツ印をつけた。山田波奈子が事務所を訪れた十二日から、赤いバツ印が十三個並んでいる。達成感とか、充足感とかいったものはない。
 私は事務所に鍵をかけると、〝花金〟で浮かれる街中をくぐり抜け、自宅へと足を急いだ。

   四

 山田波奈子が再び私の事務所を訪れたのは、二週間前と同じ土曜の夕方のことだった。ただ、二週間前の土曜とは、ふたつのことが異なっていた。
 ひとつは、私がブラインドを引き上げていたことだ。もっとも、今日は天気が悪いせいで、事務所が薄暗いことに変わりはないのだが。
 もうひとつは、彼女が婚約者の西川清司を伴ってきたことだった。二週間前、五階から眺めたときには、気がつかなかったのだが、さほど背の高い男ではなかった。身長は一七〇センチほど。どこにでもいそうな青年だ。なにかスポーツでもやっているのか、引き締まった身体をしていた。
 ふたりは消臭スプレーで煙草の匂いを拭い去った応接セットに腰を降ろした。
 話を始めたのは西川清司だった。「お久しぶりです。あの……ホント今回は、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ。よく覚えていてくれたね」二週間前より間近で見ても、彼を思い出せない。とはいえ、話を合わせるしかない。それぐらいの営業努力は、私にだってできる。
「いやァ、そう簡単に、あの仕事は忘れられないですよ。カッコ良かったですもん」
「ねェねェ、どんな仕事だったの? ホントにカッコ良かったの?」
「えェえと、あれは――」
「あのですね」私は少しだけ声を張り上げて、ふたりの会話を止めた。「調査結果について話させてください」
 このまま主導権を握られていたら、私が西川清司を覚えていないことがバレてしまう。
 私は昨晩、書き上げた報告書を、じゃれ合うのをやめたふたりの前に置いた。「結論から言います。山田波奈子さん、あなたにストーカーはいませんでした」
 報告書に落ちていたふたりの視線が私に移る。
「ちょっと、ちゃんと調べたんですか?」口を開いたのは、波奈子の方だった。
「もちろん。ただですね、この二週間、あなたの後をつけている人間は二名いました」
「二名……ふたりも?」
「ええ。ひとりは、この私ですけどね」
「冗談はやめてください」波奈子が声を上げた。
 彼女に頭を下げて、私は話を続けた。「もうひとりは、おそらくあなたがストーカーだと思っている人物です」
「それが、康志?」
 波奈子の質問に、私は首を横に振った。
「じゃあ、誰なんです?」
 私は視線を左に走らせた。彼女の眼差しも、私の後を追ってついてくる。
「清司……なの?」
 波奈子の問いかけに、黙ったままでいた清司が口を開いた。「いや……波奈子が、彼女がストーカーにつけられてるって言うから、僕は――」
「守ってくれてたの?」続きを波奈子が受けた。
 清司が頷く。「守ってやれるのは、僕しかいないので」
 隣で山田波奈子が小さく「ありがとう」と呟いた。
「さて、清司さん。それで、あなたはストーカーと出くわしたんですか?」
「出くわすもなにも、それが見つからないから、プロのあなたに頼んだんじゃないですか」
「そうよ、高いお金も払ってあなたに頼んだんじゃないですか」
 興奮するふたりに釘を差した。「ふたりとも、まるでストーカーがいなきゃ困るような口振りですけど……」
「そういうわけじゃ……」波奈子がルビーの指輪に右手をやった。二度ほど指輪をさすり、口を開いた。「康志は? 康志のことは調べたんですか?」
「もちろん、調べましたよ」
「康志は、ストーカーじゃないんですか?」
「康志さんは……横山康志さんは、ストーカーになれる状況じゃない」
「どういう意味なんです?」と波奈子。
「まず第一に彼は今、仙台にいます」
「仙台? 康志は東京にいないんですか? 会社を辞めたんですか?」
「ええ。あなたと別れてから二カ月後、お父さんが倒れられたそうで……実家の家具店を継ぐために、仙台に戻ったそうです」
「そうなんですか――」
「――ちょっと待ってください」清司が割って入った。「康志は仙台にいるんですよね。波奈子がつけ回され始めたのは、僕らが仙台から帰ってきてからなんですよ」
「そうです。それはこの前、言いましたよね」波奈子が後に続いた。
「まァ、確かに、仙台から東京までは新幹線で二時間ほどだ。あなたをつけ回すためだけに上京したのかもしれない。ただ、実家の跡を継いだばかりで大変なのに、わざわざそんな面倒なことをしますかね。いや、そんな面倒くさいことでもするのが、ストーカーなのかな?」
「ふざけないで、真面目に話してください」波奈子が言った。
「これは申し訳ない」彼女の言うとおり、私はふざけ過ぎた。素直に謝り、話を続けた。「ただ、横山康志さんがストーカーではない第二の理由があります。康志さん、一カ月ほど前に怪我をして入院してたんですよ」
 私の言葉に反応したのは、波奈子だった。「入院? どれくらい入院してたんですか?」
「二週間ほど」と私は答えた。
「どうして?」
 私は再び視線を左に走らせた。波奈子の隣で、目を閉じた清司は両膝の上で拳をきつく握っていた。私の口から伝えた方が良さそうだった。「あなたたちふたりは、一カ月前……二十八日から二十九日、仙台に行かれてますよね? その二十八日の夜に、清司さんひとりで出かけているはずですが」
 少し間を置いて、波奈子が答えた。「はい。清司の高校のサッカー部時代の仲間と飲み会があって、わたしはお酒を飲まないし、二次会のカラオケで清司の実家へ戻りました。清司はその後、四次会まで行って……夜遅く、三時くらいに帰ってきました」
 波奈子はカフェインとニコチンだけでなく、アルコールまで拒絶しているらしい。おそらく私とは一生反りが合わないだろう。これはどうでもいいことなのだが。
「でも、飲み会には、康志はいませんでした」
「ええ。彼は仕事を終えた後……なんでも、家具の搬入があったとかで遅れたそうですが、三次会からの参加になったそうです。ですよね、清司さん?」
 私の問いかけに、目を閉じたまま清司が頷いた。
「そして、四次会は康志さんとふたりきりで、飲みに行った。これは、別の友達が証言してます。あなたが誘ったそうですね」
 意を決して、清司が目と口を開いた。「それはあいつが、康志が突然メールを送ってきたから……どうして僕たちのことを知ってるのか、訊き出そうと思ったんです。驚かそうと思って、昔の仲間には敢えてなにも言わなかったのに……」
「〝婚約おめでとう〟という例のメールですか?」
「はい……実際、康志以外の昔の仲間たちは、僕たちの結婚のことを聞いて、驚いてました」
 清司の隣で、波奈子がしきりに頷いている。
 私は清司に訊いた。「松本隆介さん、ご存じですよね?」
「高校時代の監督です」
「あなた、松本隆介さんには、婚約したことを伝えてますよね」
「それは、恩師ですから当然です」
「松本隆介さんが、康志さんにあなたたちのことを、伝えたそうです。康志さんだけじゃない。他のサッカー部員たちにも、伝えていたそうです」
「じゃあ、あいつらが驚いてたのは――」
「そう、あなたたちを喜ばそうと、一芝居打ったんですなァ」
 私の言葉に波奈子はうつむき、清司は天を仰いだ。
「――で、四次会でなにがあったんですか?」厚い友情にひたる清司に訊いた。
「なんで僕たちのことを知ってたのか、訊いたんだけど、あいつ、はっきりと言わないんです。そのくせ、波奈子と別れてからしばらくの間、毎晩のように波奈子の家まで行ってたけど、波奈子に会う勇気がなくて、家の前で引き返してきたって、言い出したんです」
 清司の言葉に、波奈子が息を呑んだ。
「そしたら、ついカッとなって……」
「殴ってしまったと」私が言葉の後を継いだ。
「そうです」
 あっさりと認めた清司に、私は少しだけ驚かされた。
「康志は、いつもそうなのよ。困ったことがあると、モゴモゴモゴモゴしちゃってさ」波奈子が毒づいた。隣に婚約者がいるとはいえ、前の彼氏にとってはひどい言われようだ。
「でも、そんな二週間も入院するような怪我をしてるなんて……」
 清司は嘘をついている。
 横山康志によれば、彼の行きつけのスナックで、酔った清司は波奈子と別れた康志をからかい続けた。
 ――別れた波奈子の家まで行くなんて、それ、ストーカーだぜ。それにしても、お前が家の前で帰っててよかったよ。家まで来てたら、俺とはち合わせてたかも知れないんだぜ
 困ったことがあるとモゴモゴしてしまう康志もさすがに腹を立てて席を立ったが、追いかけてきた清司に階段で後ろから突き飛ばされ、下の階まで転げ落ちたところを、ひとしきり蹴りつけられた――そうでもしなければ、肋骨二本にヒビが入ったことに加えて、頚椎捻挫に脳しんとうで二週間も入院はしない。
 清司が身を乗り出して言った。「僕は小さいながらも会社をやっています。まだ五人しかいませんが、社員がいるんです。彼らを守らなきゃいけない。警察沙汰にはせずに示談とか、なんとかなりませんか?」
 ――ひどい芝居だ
「まあ、私は弁護士さんではないんでね。清司さん、ご存じだと思いますが、私は探偵さんなんですよ」
「そうですか……」男が呟いた。
 婚約者の名前を呟いて、波奈子が小さくなった男に寄り添う。
 恋するふたりに私は言った。「ただですね、康志さんは今回の件であなたを警察に突き出すとか、訴えるとか、そういったことは考えていないようです」
「そんな……それでは、怪我をさせてしまった僕の気が晴れません」
 男の三文芝居が続く。
「清司は悪くない」波奈子が、芝居を続ける男に言った。「清司には、守らなきゃならない会社があるでしょ。ストーカーからわたしを守ってくれてたんだし、大体……わたしたちに疑われるようなことをした康志が悪いのよ。あいつが悪いの」
 男のまだ堅く握られたままの拳を包む波奈子の左手には、ルビーの指輪が輝いていた。
「失礼」私はそう言って立ち上がると、事務所の窓を半分ほど開けた。そのまま窓辺に立ち、煙草をくわえた。女が先日のように睨みつけてくるが、気にせずブックマッチで火をつける。
 ニコチンを補充しなければ、恋するふたりの毒気には勝てそうになかった。窓の外に向かって、私は煙を吐き出した。それぐらいのエチケットは持ち合わせている。
 もう一回煙を吐き出してから、私は昨日仙台から戻ってくるまでの間、考えていたことを口にした。「さて、ここからは憶測なんですが……聞いてください」
 彼らがなにも言わないので、ふたりはこの申し出に同意していると好意的に解釈して、私は話を続けた。「清司さん……一カ月ほど前から、波奈子さんの後をつけ回してたのは、あなたじゃないですか?」
「僕が? どうして? 康志は二週間入院してたんですよ。あなたに調査を依頼するまでの間に、波奈子が警察に行ったら、全部バレちゃうじゃないですか。なんで、僕がそんなリスクまで背負ってまで、そんなことをしなきゃならないんですか。」
 ――おいおい、さっきは康志が入院していることを知らなかった、と言ったのは清司、あんただぜ
「さァ。なんで、あなたがそんなことをしたのかは、私にはわかりません。康志さんが、彼女の家の前まで何度なく通ったことを聞いて、仙台で彼をからかったことの延長で始めたのか」灰皿を持ってくるのを忘れたことに気づき、私は煙草を窓の桟で揉み消した。「それとも、前の彼氏である親友――康志さんへの歪んだ対抗意識なのか」
「もう一回言いますが、僕がそんなことをする理由がない」
「そうよ。清司はわたしの婚約者なのよ」
「まあ、待ちなさい。ここからが本題なんだ」私は新しい煙草に火をつけた。「波奈子さんがストーカー、いやストーカーのようなものを気にし始めて二週間後、問題が発生した」
「問題? どんな問題なんです?」と男。
「清司さん、あなたは退院した横山康志さんからお金を要求された。怪我の治療費なのか、今回の件の示談金なのか、あなたたちとの手切れ金なのか……名目は、どうでもいいですけどね」
 これは本当の話だ。仙台で会った康志が、はっきりと私に告白した。ただ、なぜこんな要求をしたのか、についてはモゴモゴと口を濁したのだが。
「そこで、あなたは考えた。康志さんに払う額よりも安いお金で、彼をストーカーに仕立て上げてしまおうと」
「どうやって?」男が言った。
 私の〝憶測〟に興味を示している。悪い気はしない。「まずは波奈子さんに、つけ回しているのは康志さんではないか、と思わせる。仙台での彼の告白を使えば、彼女にそう思わせるのは簡単でしょう」
 男は表情を変えない。波奈子は隣で怪訝そうに私を見つめていた。
「そして、私に調査を依頼して、彼女をつけ回すあなたの存在を確認させる。あなたは、康志さんと歳はいっしょだ。背恰好もそうかわらない。波奈子さんの話を聞いている私も彼女をつけ回すのは、康志さんだろうと誤認するに違いない。その後は、事情を知らない弁護士にでも私の出した調査結果を話して、康志さんに要求を取り下げるよう働きかけるつもりだった――」
「ちょっと、馬鹿なこと言わないで」私の〝憶測〟に波奈子が声を上げて反論した。「なんで、清司がそんなことしなきゃいけないの? そんなのあなたの妄想じゃない。お金の話が本当なら、悪いのはやっぱり康志じゃない」
 女の話を聞いた男の唇の端がきゅっと上がった。「今の話は……あくまで憶測ですよね」
「ええ、あくまで憶測です」半分まで喫った煙草を私は窓の桟で揉み消して、応接セットに戻った。
 彼らは自分たちの言葉に、行為に、まったく悪意を感じていない。彼らはただ純粋に、無邪気に〝自分たちの幸せ〟だけを考えている。私が外から毒物を補給したとて、太刀打ちは出来ない。あとは金を受け取るだけだ。もっとも、この話の聞いても支払ってくれるのだろうか。
 私の不安を余所に、男はレザージャケットから白い封筒を取り出した。テーブルの上で、私の前に封筒を滑らせる。「お金をお支払いします。取りあえず二十万持ってきました」
 私は彼に断りを入れてから、封筒の中身を検めた。封筒の中には福沢諭吉がきっちり二十人分、顔を揃えていた。
「その金額で足りなかったら、連絡をください。ちゃんとお支払いしますよ」
 要するに〝これで私とのつき合いはお終い〟ということなのだろう。
「いや、金額はこれで結構です」康志が男に要求した金額の半分にも満たないが、受け取り損ねるよりはマシだ。そこまで欲深くはない。
「生意気な言い方になりますけど――」そう前置きをして、男が微笑みを浮かべながら言った。「あなたの仕事ぶりには感心しました。わざわざ仙台の康志のところにまで行くとは、思いもしませんでしたよ」
 私も微笑みを返した。「こう見えて、根が真面目なんでね」
 仕事には常に忠節を尽くせ――前の稼業で嫌というほど叩き込まれた姿勢は、今も骨の髄にまで染みついてるらしい。「俺のことを覚えてたら、こんな依頼はしなかったと思うけど?」
 男は、私の問いかけには答えず立ち上がった。「これで、失礼します。この後、式の打ち合わせがあるんで」
 婚約者に寄り添って女も立ち上がる。
「僕は……自分で会社を立ち上げてから、わかったことがあるんです。商売っていうのは、人と人とが信頼し合って、初めて成立するものなんだって」そう言って、男は女の肩を抱き寄せた。
 恋するふたりが、私を見下ろしている。
「でも、あなたの商売のように、人に疑われるようなことをするヤツがいるから、成り立っている商売もあるんですね」
「そいつァ、違うな」封筒を上着の内ポケットに入れ、私も立ち上がった。
 私はふたりを正面から見つめたが、男と女はそっと目をそらした。
「簡単に人を疑えるヤツが、俺のメシのタネさ」

メシのタネ

メシのタネ

「私に、ストーカーがいるみたいなんです」そう言って女が、私の事務所を訪れたのは土曜日のことだった。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-12

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著作権法内での利用のみを許可します。

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