アイスクリーム
アイスクリーム
「終電、間に合わなくなるよ」
私はラグの上で熟睡する男の頬をたたく。ぺちぺちと乾いた音が部屋に響いた。軽く叩いただけなのに、音はこんなにも「からっぽ」を伝えてくる。
「からっぽ」という言葉の稚拙さに私は薄く笑う。何もかも私の気に入った家具を、時間をかけて揃えてきた。何の過不足もない自分の部屋なのに。
だけど夜の十一時を指した時計と床に寝ころぶ男を交互に見比べて、私はまた溜め息を落とす。「からっぽ」は、男のいびきや身じろぎといったどうしようもない存在感が問題なのではない。ただこの男の頬を叩き、体を揺するたびに心が冷えていくようだ。
男はまだ起きない。
「樹君、起きないと帰れなくなるよ。帰れなくなっても泊めないからね。家からほっぽり出すからね」
頬を強く引っ張って、漸く樹は眼を開いた。起きぬけの状況がよく理解できないようで、私の顔を一度見て、次に部屋を見渡して、空のワイングラスを見つけ、最後にもう一度私に視線を戻した。寝転がったまま頭をがりがり掻いて、不覚、と呻いている。
樹の髪は短いけれどもくっきりと寝癖がついていて、口元には涎の跡がある。首元だってワイシャツのボタンがいくつか肌蹴られていて、ネクタイはどこにいったのだろう。ものすごくだらしない。でも、樹は目の前で息をしていて、体温がある。抱きついてしまえば彼はきっとこのままここにいてくれる。その誘惑はどうしようもなくはしたなく、同時に甘すぎた。
「さちさん、すみません。でかいくせに眠りこんじゃって。邪魔だったでしょう」
「いいの、私はソファで飲ませてもらっていたから。ねぇ、それより何が不覚なの?」
「忘れてください」
言うなり、樹は立ち上がって散らばったつまみの包装などを片付け始める。楽しかった時間のなれの果てだ。
「そんなの置いといていいよ。終電があるから急いで」
「勝手に押しかけたんです。これくらいは片付けて帰ります」
「そう」
小さな失望。彼の行動はとても常識的なのに、私はそれを非難してしまいたくなる。
ふと窓の外を見やる。そこには緩やかな弧を描くふっくらとした月が見えた。十三夜月というのだったか。雲ひとつない夜空に、きりりと澄みきった光を照らしている。周りの小さな星明かりを呑み込んでしまうほどの力強さだった。慎ましやかなふりをして、星たちが脇で小さく輝くことも許さない厳かな光。
「月、綺麗ですね」
樹がポツリと漏らす。
「あんなに輝いているの久々に見たな。それに、この窓からとても綺麗に夜空が見えるんですね。こういうの、月見窓っていうんでしたっけ?この月見酒を一人占めって、すごく贅沢ですね」
酒が残っているのか、樹は饒舌だ。
「知らないわ」
私は漸くそれだけ言うと、片手に樹の荷物を、もう一方の手で樹の手を掴んで無理やり部屋の外に出る。樹がなんと言っても聞き入れなかったし、どんな顔をしているのかを見ようともしなかった。
「駅までの帰り道はわかるわね」
マンションのエントランスを背に、私は樹を見送った。樹は礼儀正しくお辞儀をして帰途についたが、随分と長い間、樹はマンションを振り返りながら、私の部屋を見上げながら歩いて行った。
私はそれをベランダから見つめ、やがて部屋に戻った。
その人はまるで桃のような美しさを持っていた。
そう告げると友人はまず眼を丸くして、次いで大きな口をあけて笑った。樹が大喰らいなのは知っていたけれど、どこまで食いしん坊なのだと。情緒がない、と。
それから友人は自身の付き合っている女がいかに美しいのかを、詩人になりきって語りだした。でも使われている言葉としては「陶器のような肌」だとか、「薔薇色の頬」だとか、どこかで聞いたことのある言葉ばかりで、僕は途中で退屈してしまった。
得意げに言葉を並べる友人をそのままに、僕は今一度彼女を夢想する。
彼女の頬にはいくつか黒子があった。肌は透けるように白いのだけれど、学生時代にテニスをしていたので無防備に紫外線に肌を晒していたのだという。日焼けの代わりに黒子が増えてしまったと彼女は憂いていたけれど、僕はごく小さなそれをこっそりと星座のように繋げてみるのが好きだった。彼女の髪は短い。前髪は眉よりもかなり高い位置で整えられ、後ろの髪も短いながらもニュアンスがあって、ふわふわと風に揺れていた。それがあまりに柔らかそうだったので、思わず手を伸ばしてみたらぱしりとはたかれた。妄想の中でだけど。
でも、何も彼女の白い肌や柔らかな髪が桃のようだと言っているのではない。彼女の持つ性質がまるで桃のように瑞々しい甘さを持っていて、だけど時々見せる憂いの表情が果実の熟しすぎた色合いとよく似ているから。美しさと危うさを表裏一体でもち合わせた彼女の均衡を、僕はいつまでも見つめていたいと思っていた。
別の友人には、それは変態であると諭された。美点の並べ方も、接し方もストーカーのそれと何も変わらない、妄想は論外だと言われた。心外だと反論したかったけれど、よくよく考えれば反論する余地などまるでない。近しい立場でもないのに見つめていたい、というのは危険思想に片足を踏みこんでいる。
「ならば、お近づきになればいい」
「簡単に言うな」
友人はまるで名案だと言わんばかりに得意げだが、それができればこんな苦労はしないのだ。僕は苛立ちを込めて友人にピーナッツを投げるけど、友人は器用にそれを口に入れた。
「彼女とはまだ仕事以上の話をしたことはないんだ。いつも一人でランチに行って、いつも一人で帰ってしまうんだ。席が遠いから話をしに行くのも難しい」
彼女――山上さちは会社の先輩だ。彼女は内勤で、僕は外回り。僕はまだ新米で、担当エリアも違うから仕事の話でさえネタを探すのも難しい。それでも彼女が一人での行動を好む割には周囲からの評判も良い。その笑顔がテレビの女優よりもよっぽど優しげであること、声音は低いが他者を思いやる言葉ばかりが口から溢れ出るなど、ジェラシーで身を切られるような話を毎日のように聞く。
「でもその白桃の君のことが好きなんだろう?」
「なんだ、その白桃の君ってのは」
今度はカールのチーズ味を手に持つと、友人は口を開けて待っていた。投げてやると、上手くそれを咀嚼する。
「だって桃のようにって言うんだから。今時遠くから思いを寄せ続け、見つめ続けるなんてものは流行らないし、気持ち悪い。だから早々にアプローチして、仲良くなって、彼女の傍で存分に見つめればいい。彼氏、という大義名分を得るのだ」
「勝手を言う」
僕は頭を抱える。僕は黒子に悩み、憂いの溜め息をつく彼女を好きでいたかった。しかし厄介なことに僕の気持ちはもっと強欲で、彼女の瞳に僕を映したいと願ってしまう。新米社員としてではなく、一人の男として。
「そうだ、白桃の君の家を訪ねるといい。適当な酒とつまみを持って、杯を交わすんだ。そこで彼女の話を聞き、彼女の手料理を頂き、彼女のベッドルームを拝み」
みなまで言わせず、僕はイチゴ大福を投げつけた。が、友人はそれを右手で受け取る。
「さすがに大福は無理だ」
しかし結局僕は友人の言葉に従った。奮発してワインといくつかのチーズと生ハムを買って、彼女の家を訪ねたのだ。彼女はつぶらな瞳をさらに丸くして、びっくりした、と言った。なんと言い訳をしたのかは覚えていないが、彼女は少し考えた後、笑って迎えてくれた。
「なんだか楽しそうね」
まるで他人事のように呟く声に僕は振り向く。でも彼女は僕の脇をすっと通りぬけて、つまみを作るから待っていてと言って台所に消えてしまった。仕方がなく、僕はのろのろとリビングに入り、テーブルのわきに腰を下ろした。
リビングテーブルには一輪のガーベラが飾られていた。小さなガラスの平皿に水がはってあり、そこに茎を除いた花だけが浮かべられている。盛りは過ぎたのだろう、花弁は開ききっていたけれど、水は頻繁に変えているのか、澄みきっていた。
それを見た時、僕の中に淡い期待と同時に滲むような後悔が生まれた。本当に彼女の内部に来てしまったのだ。会社で見せる笑顔ではない、危うい憂いを僕はきっと見ることになる。もう白桃の君などと冗談を言いながら憧れることはできなくなる。ベールに包まれた美しさは今夜で失われるだろう。
それは確信であり、事実その通りだった。
私はゆっくりと片付けを始めた。
チーズの包み紙を一つ一つ伸ばして重ねてまとめ、つまみの皿は油汚れに気をつけながら流しに戻した。ワイングラスに残ったボルドーを見つけ、私はゆっくりそれを飲み下す。そのグラスが私のものか、樹のものかはもう忘れてしまった。
片付けは嫌いな作業ではない。楽しかった時間を反芻し、それに感謝しながら丁寧に行うのが私のやり方だ。それはまるで第二の宴のような、奇妙な高揚感を私に与える。
「楽しかったな」
私は一人呟く。その声は静かな部屋に溶けて消えたけれど、「からっぽ」には響かなかった。私はそれに満足する。異物に音が反響するよりも、するすると解けるように音が透けてしまえばいい。透明のゼリーになって、この部屋をゆっくり満たしていけばいい。
ここはもう、いつもどおりの私の部屋だ。
樹の急な訪問には驚いたけれど、私にはそれを拒む理由がなかった。男たちは自由にこの部屋を訪れればいい。率直に愛の言葉を囁いてもいいし、樹のように不器用に見つめられるのも悪くない。ただ私が気をつけるのは、それに溺れることなく、確固たる自己を持って楽しめばいいのだ。それは丁度ガラスケースの中のケーキを選ぶ時のときめきと似ている。
かさり、と音がした。目をやると、壁面のリースが風に揺れて落ちていた。青い薔薇と白の紫陽花のプリザーブドフラワーのそれは、昔ここによく訪れていた男からのプレゼントだった。貴女の部屋はあまりに殺風景だから、と弱弱しく微笑んでいた。私はその時の男の眉の顰め具合や頬の緩め方をきちんと覚えている。
友人は早く捨てなさいと言う。忘れなさい、と。
友人は誤解している。昔、男はずっと私の側にいてくれた。私が眠るまで手を繋いでいて、と頼めばその通りにしてくれたし、一人でご飯を食べたくない、と言えば鶏鍋の材料を買ってきてくれた。でもきっと男は目が覚めた時の掌の空虚さや、大量に残ってしまった鶏鍋を何日もかけて一人で食べなければいけないことを失念していたのだろう。
男がいけないのだ。男は私を甘やかしすぎた。私はどんどんつけあがって、我儘になり、多くを望みすぎてしまった。
私は私であることを律せなければいけなかった。
食器を洗い終わって、手持無沙汰になった私は雑巾がけをした。女性ボーカルのロックを鼻歌で歌いながら、固く絞った雑巾でフローリングを磨く。樹との宴を思い出そうとしながら、でも実際頭に浮かぶのは男の困ったように眉を顰めた優しい笑顔だった。鼻歌はサビに差し掛かった。もはや鼻歌と呼べる声量ではないが、私は高音も一生懸命に歌う。
それでも、その音は「からっぽ」だった。
帰り道、僕は彼女の表情を思い出そうとしていた。
宴の最中は、彼女は良く笑っていた。くつくつと喉を鳴らして、目尻に愛嬌のある皺を寄せていた。話のタネにそう困ることもなく、職場の周辺のレストランの話や最近よく聞く歌手の話など、するすると会話は進んだ。きっと僕の訪問は歓迎されたのだと思う。
それなのに、と僕は呟く。それなのに、家から送り出す時の彼女の様子は一体どういったことだろう。宴の最中寝入ってしまったことを怒っていたとも思えない。片付けの後、帰ると言ってから急に元気がなくなってしまったようだった。花が萎れていくように、みるみると喜色が消えていったのだ。
「どうしろっていうんだ」
僕がぐしゃぐしゃと頭を掻き毟ると、隣を歩いていた女学生が嫌そうにこちらを見てきた。僕はぺこりと会釈をする。
「どうしろってんだ」
彼女と話をしている時、とても楽しかった。評判通り、彼女の言葉は優しさに溢れていたし、話の運びもとても上品だ。それなのに、いくら言葉を重ねても、僕は少しも彼女に近づいた気がしなかった。情熱をワインに借りたけれど、彼女との間にあったひんやりした膜はどうにもならなかった。
彼女の部屋はとても居心地が良かった。食器はすべて二つずつ揃いのものが用意されたし、クッションも色違いのものが二つあった。勿論歯ブラシも二本。見渡してみれば何もかもがペアで揃えられていた。
「どなたかと一緒に住んでいるんですか?」
宴の最中、尋ねてみると彼女は首を振った。僕の質問の意図を知ると、なんてことないように
「昔ここに出入りしていた男の人のものなの」
と、チーズをつまみながら言った。
「捨てないんですか?」
図々しいと自覚しながらも更に質問を重ねると、彼女は目を丸くした。そしてふわりと笑う。
「なぜ?」
彼女の美談をあちこちで聞きながらも、彼女と交際したという話を聞かなかった理由がよくわかった。
どん、と追い抜き際に男と肩がぶつかる。男はよれよれのスーツに千鳥足で、女性物の香水の匂いがした。男は歩きながら電話をしていたようで、「すまなかった、すぐに帰るから」と慌てて弁明していた。やがて意外な早足で電灯のない曲がり角へ消えていく。
対する僕はぼんやりと立ち止まってしまって、なんとなく上を見上げた。先ほどと違って空には朧雲がかかっていた。たなびく薄い雲の合間から月明かりが零れている。太陽に比べればよほど儚い光なのに、それは暗闇の中で鮮烈な輝きを示していた。きっと彼女の部屋でも美しく見えているのだろうか。
あの、彼女一人の部屋で。
そして自身の失態に気づいてからの行動は早かった。携帯電話を探して彼女に連絡する。すぐに十五分後に駅前で待ち合わせすることを決めた。
吸い込まれるように人の集まる駅前は、暖かな光できらきらしていた。
「まだ帰っていなかったの?」
改札前の広場で樹は待っていた。
「男としては、まだ帰れません」
「……うちに泊まるの?」
樹は笑って首を横に振り、私の手を引っ張っていった。戸惑うも、樹はぐいぐいと広場の奥へと引っ張っていく。駅に向かう会社員や学生の間を器用に通り過ぎて、深夜にもかかわらず煌煌と明かりを照らすキッチンカーにたどり着いた。それは柔らかなピンクと黄色で彩られ、白熱灯の明かりで場違いなまでに温かく照らされていた。
「アイスクリーム食べませんか?」
私は思わず口をぽかんと開けて、しげしげと樹を見つめる。樹は先程と変わらず笑ったままで、その真意が読めなかった。
樹は私をメニューの前に押し出し、注文を催促する。結局、樹が抹茶白玉のアイス、私が葡萄のアイスを頼んだ。
「白桃のシャーベットも美味しそうでしたよ」
「桃は嫌いなの」
桃の皮をむくときに手がべたべたになってしまうことや、水っぽい食感が私は苦手だった。しかし、そう言うと樹は更に声をあげて笑う。その声は深夜にしてはあまりに大きくて、近所迷惑だと怒る。しかし樹は笑い涙を拭うとやけにさっぱりとした様子で頷いていた。
アイスクリームを受け取って、私達は隅のベンチに座った。
「もう季節は秋なのに、しかもこんな深夜に外でアイスを食べるだなんて」
「こんな夜は、アイスは外で食べるからおいしいんですよ」
ベンチのすぐ横にイチョウの大木があった。ライトアップされたそれは黄金色に輝き、はらはらと葉が揺れて落ちていく。ぴんと澄みきった空気の中、風にまぎれて虫の音も聞こえる。足元では枯葉がかさりかさりと音を立てて踊っている。ここは秋の情緒を凝縮したように穏やかな風情があった。
私達はアイスを食べながら、その空気を楽しんだ。
「こんな所があったの、さちさん知らなかったでしょう」
私が頷くと、樹はやっぱりと言った。そしてそっと手を伸ばし、ベンチに置かれた私の掌にそれを重ねてきた。初めこそ驚いたけれど、やがてそれを受け入れようと思った。また新たな男が一人、私の部屋を訪ねるようになるだけだ。
「またうちに来る?」
「いいえ」
その声がやけにはっきりとしていたから、今度こそ私は目を見開いた。
「次はまた別の所に連れて行ってあげますよ。これからの季節は牧場がおいしいですし、夏になればお祭りで食べましょう」
「ねぇ、何の話?」
樹はさもそれが当然だと言わんばかりに、アイスクリームです、と言った。
「牧場の濃厚なソフトクリームは絶品です。夏祭りに行けばかき氷は外せないでしょう。冬はコタツでぬくぬくしながら雪見大福が鉄板ですけれど、さちさんのお家にはコタツはありませんよね。だから、その時は僕のうちに来てください」
一気にまくしたてて、樹は息を吸い込んだ。樹の頬が赤く染まっているのは、キッチンカーの明るすぎる電灯のせいだろうか。重ねられた掌に力が込められているのは、寒さで悴んでいるからだろうか。
樹の瞳を覗き込んで見ると、そこには意志があった。私の部屋に通っていた男の瞳にはないもの。どうやら大人びた優しさで私を包み、困った笑顔で柔らかく撫でてくれる気はないらしい。今、目の前にある熱はあまりに幼くて、もっと直接的な強さを持っていた。
「いつまでも、あの部屋で待っていてはいけません」
私は上を見上げる。もう先程の月は見えなかった。挑戦的に輝いていたあの月も、やがて雲居にまぎれる。あの男と見上げた月も、それから一人で眺めてきた月も、もうそこにはない。
そう考えると、頬を一筋の涙が伝った。私の涙腺はまるで馬鹿になってしまったかのように、それはどんどん溢れていった。それを拭うことすらしなかったから、樹は大いに慌てた。
「貴方は優しいのね」
それはちっとも甘い囁きにはならず、寧ろ樹を責め立てるような響きを持った。
樹の触れ方は乱暴だった。ガラスケースを隔てた恋愛ごっこも、ブルーローズに託した古い恋も、どちらも取り上げていきなり現実を見せ付けるのだ。
そりゃあ私だって、自分から別れを告げたのだから男がもう戻ることがないことぐらい知っている。男が眉を少し顰めるだけで、やがて自分の妻のもとに帰っていくことくらいわかっていた。
だからせめて、男の気配を部屋に満たしていたかった。
もう涙の止め方なんてわからない。男の微笑、使っていたコロンの香り、しめやかな肌の温度。そういったものが体の中で秩序なく溢れていく。何に縋ればいいのかもわからない。
でも、やっぱり樹はとんちんかんだった。
「さちさん、アイスが溶けてしまいます」
それが、泣いている女を目の前にして言うことだろうか。
私が恨めしく睨むと、樹は葡萄のアイスを私の口元に寄せてきた。人工甘味料による葡萄の芳香。仕方なくそれを食べる。
「ね、美味しいでしょう?」
とても悔しいことに、それは今まで食べてきた度のアイスクリームよりも柔らかく口に溶けていった。薄っぺらな甘さなのに、口の中で解けてしまうととても名残惜しい。その冷たさがゆっくりと思考の波を沈めていく。私は勧められるがままにそれを口に運び、儚い甘さを楽しんだ。
私が大人しくアイスを食べているのを見て、樹は満足げに微笑んだ。
「淋しい時は、甘いものを食べるといいですよ」
飄々とした口調とは裏腹に、樹の掌はどんどん熱さを増していった。じんわりと手汗も滲んでいる。私はそれを見て呆れればいいのか、強引さに怒ればいいのか分からなくなってしまう。
「僕と一緒に甘い物、いっぱい食べに行きましょう」
なおも続ける拙い言葉に、とうとう私は吹き出してしまった。樹はそれを見てさらに顔を赤くし、また慌てて何か言っているけれど、どもっていたり、噛んでいたりでよく聞き取れなかった。
だから、私は樹の眼をきちんと見つめた。
普段のように、いつでも受け流せるように視線を揺らすのではなく、きちんと正面から見据える。
「優しいのね」
樹は呆けたように口をあけていたが、やがてにかっと笑顔を見せた。
今度こそ、心からその言葉を伝えることができた。
この先、樹と恋仲になるかは分からない。今すぐあの男を完全に忘れることはできないし、第一これだけの失態を年下の樹に晒したのだ、ただのグッドフレンドになるかもしれない。それでも、このイチョウの輝きを見るたびにきっと思い出す。
私はこのアイスクリームの甘さを忘れない。絶対に。
アイスクリーム
ごくシンプルな恋愛を描きたいと思いました。
竹久夢二「憩い」がモチーフです。
葡萄の木の下で物憂げに憩う女性に恋をした男の子は、どんなふうに恋焦がれるのか。
心情描写と情景描写のバランスが最近の課題です。
お読みいただき、ありがとうございました。