夜を探す人
ほんのり冷めた風に花の香りがする日。さわさわと雨音の鳴る夜の事でした。
駅から三十分ほど離れ、街の喧騒をいくらか逸れたところに建つアパートに、一人暮らしをする女学生がおりました。
その夜、女学生は窓を開けて、夜風で少し湿った髪を乾かしながら、眠気が訪れるまで、机に向かってだらだらと読書をしていました。
窓にはブラインドカーテンを下げてあるけれど、なんとなく外に漏れる明かりを気にして、机の上の電気以外は消しています。
女学生は静かな雨音を聞きながら、平面の、紙の中の世界に没頭していました。時折、そばに置いていたコップを口元で傾けます。
しかし気づけば、もうコップからは、お茶が唯の一滴、降りて来るだけでした。
ふいに喉の渇きを自覚して、現実に舞い戻ってしまうと、物語を思う半分で、どうにもムズムズして、きりの良い所でしおりを挟み、お茶を入れに立ちました。
冷蔵庫に入れたばかりで、まだ生ぬるいお茶を一杯煽って体を満たします。ほっと、一息吐いて、また、しばらく席を立たないで済むように、ふたたびコップにお茶を注いでいると、突然、扉をノックする音がありました。
寝間着姿の女学生は、体を強張らせて玄関を振り返りました。
ハッキリとした音ではありましたが、チャイムがあるのに、わざわざそんな事をする人もそう無いだろうなぁと、思われました。近所の人が扉の前でごそごそと何かをして居る様子を、なんとなく想像して、しばらく玄関を見つめます。
するとまた、こんこんと音がして、今度は続けて声がしました。
「すみません」
どうやら女性の声のようです。
それにしたって、こんな夜も更けた時間に人が来るなんて、珍しいこともあるものです。
女学生は、緊張して扉に付いた覗き穴に目をあてました。
「何か御用ですか?」と、少し厳しい声で尋ねます。
「夜分に失礼します。旅の途中でお金が少なくなってしまったので、ご迷惑で無ければ何か飲み物をいっぱい頂けませんか。」と女性は扉に向かって軽く頭を下げながら言いました。
その女性は、たしかに旅行中の様な簡素な格好をしています。それなのに、何処かに荷物を置いてきたのか、やけに身軽な様子なので、あやしげだと女学生は感じました。でも、まぁ飲み物を一杯くらいならと、自分のを置いて、新しいコップに水道水を淹れます。
そしてドアをそっと開けて差し出しました。
「水道水で構いませんか。」
「どうもありがとうございます。」
女性は微笑んで、コップを受け取りました。
その笑顔は、のぞき穴からみるよりずっと人当たりが良さそうです。
「玄関で失礼ですが、宜しければ座って飲みませんか。」と、思わず招き入れてしまいました。
旅人の女性は靴を履いたまま、女学生はスリッパを履いて、玄関に腰掛けました。
水を、砂漠の砂の様な早さで飲み干してしまった客人は、申し訳なさそうな顔をして、コップを差し出しました。
「すいません。もういっぱい頂いてもよろしいですか。」
「あ、はい。いくらでもどうぞ。」
女学生は、コップを受け取らずに立ちあがると、ヤカンいっぱいに水を淹れて横に置いてあげました。なんとなく、その人が、まだまだ飲むような気がしたのでした。
「あ、助かります。」
女学生の想像通りだったようで、客人は首を縮めてはにかみました。
「旅の途中に、そんなに飲んで、お手洗いは大丈夫ですか。」
あんまり客人の笑顔が人懐っこいので、口が緩んでしまったようです。女学生は言ってしまってから、失礼だったなと、後悔しました。
客人は事もなげに、ぐいぐい水を飲んでいきます。
「たまに胸がキュッとした時に、こんなに飲みたくなるんですが、それ以外は特になんともありません。」と、客人は言いました。
女学生は、水を飲む横顔を見ながら、旅人の苦労を想像してみました。女性の旅だったら、危ないし、それは大変な事でしょう。もしかしたら、そんな旅をはじめる前にも、色々あったのかもしれません。
「一人旅ですか?それはやっぱり大変ですか?」
彼女の、ここには無い荷物も心配だし、あまり引き止めてはいけないかなと思いつつ、女学生は尋ねました。
「どうでしょう。ただフラフラと歩いているだけなので、これと言って大変に感じる事はありません。」
旅人は、何故か、はにかんで言いました。
そして空になったヤカンを差し出すので、女学生が洗い場に持って行きます。
何だかふんわりとした旅人の返答を聞いて、女学生は更に想像を膨らませました。
この危険な時世に、水を買うほどのお金も持たず、女性の一人旅を決行し、ふらふら歩いてきたという彼女は、一体どういう人なのでしょうか。
「言いたくなかったら、良いんですけど、旅の目的地なんかは、ないんですか?」
洗い場にたったまま、女学生は背後に尋ねました。
「ありますよ。」
旅人は言いましたが、何か思うところがあるのか少し言葉を途切れさせました。
女学生は旅人の言葉を待ちながら、ヤカンの底で跳ね返る水を眺めていました。
ちょうど目についた台所の小さな窓から外を覗くと雨はすっかり止んでいました。強い土の匂いに、先ほどからしている花の香りが混ざりあって、漂ってきます。
そうして居ると、女学生はぼんやりとしてしまいました。そろそろ瞼が重くなってきて、少しの間、水音が遠くなりました。
「ゆっくりと眠れる場所を探してるんです。」
突然に聞こえた旅人の声に、ハッと閉じかけた眼を開いて玄関を振り返ると、そこには誰もおらず、コップがポツンと置かれているだけでした。
「あれ、ちょっと寝てたかな」
女学生は首をかしげます。
視線を戻すとヤカンの水が溢れていたので蛇口をしめて、適当に中を手でかき混ぜてから、そのたっぷりの水をだばだばと流します。
コップも拾ってからゆすいで、逆さにして食器置きに干しました。
そういえば、先ほど旅人を招き入れたとき、玄関のかぎを開けたままだったと思い、見ると、鍵はきちんとかかっていました。
とても不思議な事でしたが、女学生は、もうとにかく眠くて、目がしょぼしょぼしていました。さっきコップを拾ったときに、自分で閉めたのだろうと納得して、大きく欠伸をしました。
「さて、いい加減に布団に入ろう」
女学生は言って、ずっと置きっぱなしだったコップのお茶を体に流し込み、机の上の電気を消しました。
それは気持ちいい風の吹く、夜のことでした。
夜を探す人
別のサイトで書いていたとき、お題をいただいて書いた話しを少し書き直しました。
小川未明の月夜とメガネに影響を受けてます。