陳宮伝
時は西暦194年。曹操配下であった陳宮は、主君が不在の兗州にあって叛旗を翻した。弱肉強食の乱世である。陳宮は一世一代の豪傑である呂布を迎え入れ、曹操軍に挑戦する。それを迎え撃つ程立、荀彧、夏候惇。彼らは大動乱の時代に生き、己の全てを賭け、智と武を競い合うのであった。
陳宮(ちんきゅう)・・・・・この物語の主人公。曹操軍に叛旗を翻す。
呂布(りょふ)・・・・・・・一世一代の豪傑。陳宮と組んで乱世に挑む。
程立(ていりつ)・・・・・曹操軍謀臣。智謀に長ける。
荀彧(じゅんいく)・・・・曹操軍民政担当。戦は上手くない。
夏候惇(かこうとん)・・曹操幕下の武将。曹操の親族でもある。
1.叛旗
日の光が、頭上に輝いていた。日といってもそれは大きなものではなく、手鞠のようなものである。
程立は、他とは一段高い所から、その手鞠程の日を両手で大きく掲げていた。その下では、無数の影がうろうろと何かを探している。程立は日を掲げながら、その影を見下ろしていた。日は、ここにあるのだ。こんなに光輝いているのに、何故これが分からないのだ。
影の方に行きたかった。影の中に入って行って、あそこを見ろと叫びたかった。しかし、それはできない。ここを離れてしまえば、この日は地に落ち、無数の影に踏み潰されてしまうだろう。
程立は掲げた日を見上げた。光輝いてはいるが、それは決して直視できないというものではない。何故これが、下の者には分からないのか。
寝台の上で目を覚ました。ここのところ、しばしば見る夢だった。夢には吉凶があるというが、程立はそれを信じてはいなかった。夢は、ただの夢である。
外に誰かが走る音がして、戸が激しく開かれた。
「荀彧様がお呼びです」
程立は目を擦りながら身を起こし、衣を整えた。
兗州の東南にある、鄄城内である。主君である曹操は東の徐州へと出兵しており、ここでは同僚である荀彧と共に留守を任されていた。
「どうしたというのだ、荀彧」
「どうしたもこうしたもありません。張邈と陳宮が、反旗を翻したのです」
「そうか」
程立は何でもないように、ゆっくりと椅子に腰かけた。
「そうかですと」
「慌てるな、荀彧。我々が慌ててしまえば、それは城内の兵にまで伝播してしまうぞ」
「しかし」
驚きがないわけではなかった。しかし驚いたからといって、事が解決するというわけではないのだ。むしろそれを表に出してしまえば、それを見ている兵の心に不安を植え付けるということになりかねないのだ。荀彧はまだ三十歳という若さにも関わらず、民政に関しては非凡なものを持っていたが、戦に関することではまだ分からぬところが多いようであった。
程立は、五十三歳である。少々のことで心が動くということは、なくなっていた。
「ここにも離反を促す、劉翊という使者が来ています」
「同心しようというのか」
「まさか。しない上で、どうすべきか手を打たなければならない、と私は思うのです」
「私は思う、だと。心配するな。私にも同心する気などない」
言って程立は笑いかけたが、荀彧は若い顔に皺と刻ませたまま、何かを考え続けていた。
「東阿にいる、惇将軍を呼ぼう」
「既に使者は出しています。馬を走らせれば、今夜中にここに到着するでしょう」
二人は張邈からの使者を厚くもてなして留め置き、日が暮れるのを待った。
待っている間、荀彧は腕を組みながら、しきりに部屋の中をうろついていた。
「なあ、荀彧」
荀彧が、顎に手を当てたままこちらに目を向けてきた。
「おかしな夢を見たんだ。私が小さな日を掲げていてな、その下で無数の影が蠢いているんだ」
「こんな時に、夢の話ですと。曹操様が帰られるまでここを守り抜かねばならないというのに、あなたはどこまで胆が太いのですか」
「こんな時だからこそ、夢の話でもしよう。お前は何かおかしな夢など見ないのか」
荀彧はそれを無視し、またうろうろと歩き始めた。
「夏候惇将軍が、お着きになられました」
伝令が告げてくると、荀彧は部屋を飛び出して行った。
しばらくして、二人が部屋に入ってきた。夏候惇が身に付けている具足が、戦塵で汚れている。
「すまない、二人共。陳宮が、東阿の軍営から唐突に姿を消したのだ。その時に、怪しむべきであった」
東阿は曹操の留守中、夏候惇と陳宮が任されていた。
「そのお姿は、どうされたのですか。惇将軍」
「ここに来る途中、伏兵に遭ったのだ。何とか切り抜けることができたが、兵を率いていたのは、あの呂布だ」
荀彧が、あっと声を上げた。呂布とは、数年前にこの国の首都である洛陽を焼き払い、この乱世を招いた董卓の腹心であった。武勇に優れた大男であったが、仲違いして董卓を殺し、今は流浪の軍となっていたはずだ。
程立は腕を組んで唸った。その流浪の軍が兗州の北西辺りをうろついていたという情報は入っていたのだ。しかし曹操の強い希望のため、二度目の徐州攻めが決行され、そちらに手を打っておくことができなかったのだ。
陳宮は智謀の士ではあるが、小男であり武勇はない。しかしそれに呂布の武勇が加わったとなると、これは厄介なことになるかもしれない。その二人が張邈の持つ地盤を得たとなると、それはさらに厄介なことになると思えた。
想定はしていた。してはいたが、何も手を打っていなければ、それは想定していなかったのと同じことである。心のどこかで、大丈夫であろうと高を括っていた。それは多分、荀彧も同様であっただろう。
「東阿が、危ないですな」
程立は腕を組みながら、呟くようにして言った。
「一応、副官の韓浩に厳戒態勢を布かせている。それよりも、先ずやることがあるな」
「私もそう思います、惇将軍」
城内には、夏候惇の他にも、周囲の大小の城から将が呼ばれていた。その将らは城外の広場に集められ、抗戦か恭順かを議論させている。
不意に、戸が開かれた。呼び出した将の一人と、陳宮からの使者である劉翊が、こちらに拱手した。
「恐れながら、申しあげます。陳宮殿が迎えられた呂布殿は、武勇のあるお方であり、それに従えば必ず天下を平定できると存じます。こちらにおわす劉翊殿も、それに従えば曹操殿以下全員の命を保障すると言っております」
それを聞いた荀彧が色を成したので、程立はそれを手で制した。
「御苦労。私もこれから広場へ向かう」
夏候惇が言い、三人は広場へと出た。十六名がいた。その中の十二人が恭順派で、四人が抗戦派なのだという。やはり曹操軍の主力が出払ってしまっていることで、将の気持ちは弱気になっているのだ。
恭順派の口からは、ただ屈服するのではなく、今は敵を作るべきではないという、前衛的な意見が出ていた。そして同時に、殺気を放っている。数を頼み、場合によっては抗戦派を殺し尽くすという構えだと見えた。
夏候惇が前に立った。集められた十六人の目がそちらに集まった。中には腰の剣に手を当てている者もいる。
「恭順だ」
夏候惇が静かに言うと、恭順派の十二名がほっとしたような顔を見せ、殺気を消した。その瞬間、夏候惇が腰の剣を抜き払った。恭順派の一人の首が飛び、程立も懐の小刀で劉翊を背から貫いた。
それを合図にしたかのように、夏候惇の手勢が広場に乱入し、恭順派を一人残らず突き殺した。
「曹操殿に、恭順だ。お前ら、驚かせて悪かった」
夏候惇が微笑みかけると、抗戦を叫んでいた四人は大きな息をつかせていた。
「惇将軍、早く東阿への帰還を。私もこれから笵に向かい、これ以上の離反者が出るのを防ごうと思います」
程立が言うと、夏候惇は手勢を率いて東阿へと馬を走らせ、程立自身も笵へと向かった。
月が照らす草の中で、虫の音が響いていた。近くには三十の供回りがいるだけで、陳宮はそこである男の帰りを待っていた。
ふと隣に目を移すと、許汜が俯きながら膝を震わせていた。陳宮はその膝を掴んでぐっと力を籠め、許汜の顔を見つめた。
「ここまできたというのに、まだ腹を据えれんのか。困った奴だ」
「腹は決まっております。ただこればかりは、どうにもならないものでして」
「何度も言うが、これからは袁紹殿の世だ。いずれ曹操は滅びる。その滅びから我々はいち早く脱したのだというのだから、何も怖れることなどない」
許汜がそれに頷いた。
袁紹とは、漢の名臣を輩出し続けた名族家の当主で、河北に一大勢力を持っていた。今のところ、領土を接する袁紹と曹操の関係は良好だが、いずれはぶつかるであろうことは火を見るよりも明らかであった。
そこで曹操陣営から抜け出し兗州に一つの別勢力を築き、その勢力を背景に袁紹と結ぼうと提案して許汜や張邈を承知させたのだった。それを容易に承知させれる程、曹操の名は地に落ちていた。
昨年の秋、曹操は徐州に攻め込み、無辜の民数十万を虐殺したのだった。徐州の主である陶謙の配下が、兗州に来ようよしていた曹操の親族を殺したことに対する報復であった。しかしそのやり方は、誰の目から見ても異常なものであり、周囲からの反発を買っていた。そしてこの夏、またしても曹操は徐州に攻め込んで行ったのだ。その間隙を突いた反旗だった。
乱世である。隙を見せた者は、足元を掬われるのだ。曹操が兗州を空にしたのも隙であれば、徐州の民を虐殺し周囲からの反発を買ったのも、隙である。そういうものを見逃さなかった者だけが、この乱世で生き残り、後世にまで輝く栄光を掴むことができるのだ。
「兗州の西半分は、既にこちらに靡いている。何も怖れることはない」
また頷き始めた許汜に、陳宮は言った。それは、自分自身にも言い聞かせていることでもあった。
しばらくすると、馬蹄の音が近付いてきて、それはすぐに大きなものとなった。
一際大きな栗毛の駿馬が陳宮の目の前で止まり、男が馬から下り立った。
呂布である。その身は九尺もあり、六尺程の陳宮からは見上げなければならないほどの大男だった。前々から噂には聞いていたが、実際に目の当たりにすると驚く程にでかく、対面しているだけで圧倒されそうになる。隣では許汜が小さくなっていたが、陳宮は腹に力を籠めて言った。
「首尾はいかがでありましたか」
「お前の言っていた通り、五百程の騎馬が目の前を通過した。交戦はしたが、暗かったため逃してしまった」
嘘だ、と陳宮は思った。まともなぶつかり合いもせず、瀬踏み程度の手出しをしただけで戻ってきたのだろう。その証拠に、呂布もその周囲にいる者らも、少し具足が汚れていたが、血の跡などは見えない。
仕方のないことだ、と陳宮は瞬時に割り切った。この大男にとっても、自分はまだ信頼の置ける者ではないのだ。
「その軍勢は、北からでしたか。それとも南からでしたか」
「北からだった」
「それは東阿の夏候惇であろうと思います。昨日までの、私の上官でありました」
頷いた呂布の顔は、尋常ではない面長である。目は横に長い切れ目で、一見すると阿呆のようにしか見えない。しかし戦場では、その巨体を生かした並々ならぬ武勇を発揮するのであった。
自分の体は小さいが、智謀には自信があった。足りないのは、武力である。この男の武力を上手く扱うことができれば、天下を望むことすらできる、と陳宮は考えたのだ。
「その夏候惇とやらは、こちらに付いてくれないのか」
呂布が威圧的な態度で、陳宮を咎めるような口調で言った。陳宮はまた腹に力を籠めた。この呂布という男は、こういう態度を見せることで、自分とどちらが上だと思っているのかということを測っているのだろう。
「東阿の夏候惇と、鄄城の荀彧は、先ず諦めた方がいいと思います。もしあれらがこちらに恭順の意を示せば、それは謀である可能性が大かと」
呂布は顎に手を当て、少し考えるような仕草をした。
「なるほど。敵のことを知っている者がいるというのは、便利なことなのかもしれん。俺は戦場で、そいつらの首を飛ばせばいいのだな」
「御意」
自然と主人に対するような口調になっていた。呂布の放つ威圧感が、陳宮にそうさせていた。
「東阿には、私の腹心である、王楷という者を残してきております。城主不在となった東阿の城は、我々のものとなるでしょう」
呂布が、顔をにやりとさせた。
「お前は、軍師か」
「は」
「体で闘う男でなく、頭で闘う男なのかと聞いている」
おかしなことを聞かれている。陳宮は、呂布という男を測りかねた。
「軍師かどうかは分かりませんが、頭で闘うというのは間違っていないと思います。見ての通り、私は小男ですから」
それを聞いた呂布が大笑した。自分の卑屈な物言いが、この男にとっては面白いことなのかもしれない。
「俺に付いて来ている者は、体で闘う者ばかりだ。俺の軍師となれ、陳宮」
おかしな方向に話が進んでいる。自分は、別に軍師になりたいわけではない。この乱世の中で、一大勢力を自由に操ることができる、君主となりたいのだ。それでも、陳宮はその言葉に自然と頭を下げていた。
張邈と手を組み、袁紹の力を背景に曹操と対峙する。そして自分の下で呂布が武を奮う。それが、陳宮の望んでいた形だった。
しかし、そうそう上手くはいかないようだ。今だけだ、と自分に言い聞かせた。今だけの、我慢である。
「では軍師として、献策させて頂きます。夏候惇は今、鄄城で荀彧らと今後の方針について話し合っていると思われます。その話し合いが終われば、夏候惇は東阿の帰途へと着くでしょう。そこを、伏勢して討つのです」
呂布がまた顎に手を当て、考える仕草をした。でかい分だけ、その仕草には威厳がある、と陳宮は思った。
「いや、もうよい」
「は」
「俺達は、もう疲れた。張邈の待つ濮陽に帰還するぞ」
「しかしここは」
呂布が、かっと唾を吐いた。
「くどい。俺に二度と同じことを言わせるな。一度襲ったのだから、次は備えをしているに違いない。お前は頭でしかものを考えんから、そんなこともわからんのだ」
地に響くような低い声で言われ、陳宮は思わず萎縮してしまった。
しかし備えをする余裕などないことは、昨日まで東阿にいた陳宮にはよく分かっていた。曹操軍の主力は今、東の徐州へと遠征しているのだ。
それを言おうとしたが、頭上から見下ろす呂布に睨まれ、何も言えなくなってしまった。
「では、帰還いたします」
陳宮は諦めた。ここで仲違いしてしまっては、元も子もないのだ。隣ではやはり、許汜が小さくなっている。
「俺の馬に乗せてやろう、陳宮」
「は」
呂布はその太い左腕で陳宮の体を軽々と持ち上げ鞍に乗せ、自身も陳宮の後ろに跨った。
「この馬はな、赤兎というのだ。涼州で見つけた、一番いい馬だ」
「はい、とても立派な馬です」
馬などに興味はなかったが、呂布が機嫌良さげに言うので、そう答えていた。
「これから仲良くやっていこうではないか、陳宮」
言って呂布は、馬を疾駆させた。馬に乗れない陳宮は、ただ必死に馬の鞍にしがみついていた。
陳宮伝
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