任務
あらすじ
一九四五年夏、主戦場への補給路防御を任務とする米軍中隊と補給物資への攻撃を任務とする日本軍特別任務部隊が河を挟んで対峙していた。
幾度かの闘いの後、ついに両隊は総力を挙げて激突した。日本軍部隊はわずかな兵と指揮官の大尉が生き残り、一方米軍中隊は壊滅した。
しかし唯一人無傷で生き残った米軍伍長がいた。伍長は退却命令に反し、一人で敵拠点近くに陣取り、生き残った日本軍部隊を封じ込める決意をする。それが壊滅した中隊に与えられていた任務であり、また自らの命を賭けるに値する任務だと信じて…。
しかし、日本軍部隊との対峙と闘いを続ける伍長にはやがて漠然とした疑問が生まれる。「自分や敵の『任務』とは一体何なのか」と。
そして終戦。傷つきつつも生き残った伍長はさらに戸惑う。昨日までの「殺すべき敵」が、突然「ひとりの人間」に変わったからだ。
混乱する心を抱える中、伍長は日本軍部隊の指揮官だった大尉と収容所で語り合う機会を得る。その中で伍長の心には、「人間としての自分の本当の任務」への気づきが生まれてくるのだった。
プロローグ
彼の目の前には草原が広がっていた。
草原と言うほどに広くは無かったが、彼とその仲間は草原と呼んでいた。その草原の向こうの端に小さな川が流れている。おそらく雨季になれば増水して草原は水に浸かるのだろう。
その小さな川は彼の右手から左手へ流れ、少し大きな河に流れ込んでいるのだが、彼の位置からは崖の出っ張りに遮られ大きな河は見えなかった。草原の両側は切り立った崖になっていた。洞窟の多い崖だった。
彼は崖の下にある大きな岩の陰にいた。そして彼の右手奥、崖の中ほどの洞窟に恐ろしいものが据え付けてあった。
黒光りする重機関銃である。
彼が岩から頭を出せば、すぐに火を噴く恐ろしい火器である。
目の前に広がる草原を眺めると、彼の所属する中隊約百名と敵兵数十名が倒れている。また敵の掘った二本の塹壕からは煙が上がり、三両の戦車が擱坐し爆発後の煙を上げていた。
彼は半狂乱に陥っていた。戦車の後ろに付き草原を進撃したことは覚えている。だがその後の記憶がほとんど無かった。突然の爆発と炎。それと、あの重機関銃と小銃の射撃音。ただ、この岩陰に走ったことだけを覚えていた。
彼がようやく理解できたのは、中隊で無事残ったのが自分ひとりであるということと、中隊長の最期の言葉だけだった。
伍長
時は一九四五年の夏。そして彼の名はキングといった。合衆国陸軍の伍長である。
伍長の属する中隊の任務は、大きな河に沿って走る道路を守ることだった。
中隊の仲間は誰ともなくこの河を「ミシシッピ」と呼んだ。それが通称になった。もちろん、母国最長の河の名である。中隊の兵たちには望郷の念が高まっていたのである。もうすぐ戦争は終わる、そうすれば懐かしい故郷へ帰れる、と。
実際サイパン島は何ヶ月も前に我の手に陥ち、そこから毎日のように爆撃機が日本本土を空襲しているはずである。伍長のいる南太平洋の戦線では素通りした敵基地の攻略を受け持っていたが、最前線は沖縄に達し激戦の末陥落させたと聞いていた。どう考えても日本に勝ち目は無かった。むしろなぜまだ戦い続けるのか不思議だった。中隊の兵に母国を懐かしむ気持ちが生まれるのも止むを得ない戦況だったのである。
中隊長は士気の低下を危惧し、日本本土攻略もありうるのだ、日本軍の執拗さはわかっているだろう、まだまだ先は長いぞ、と口を酸っぱくして皆を引き締めていたが、「ミシシッピ」の命名には特に何も言わなかった。
キング伍長もこれまで何度か南太平洋の島嶼や基地攻略作戦に従事し、日本兵と戦ってきた。日本兵は恐ろしかった。兵力火力は我が軍が圧倒的であったが、日本兵のその戦い方が恐ろしかった。彼らは自分の命などなんとも思っていないように見えた。たびたび夜襲を仕掛けてきた。もとより生還を期しない、銃剣による肉弾攻撃だった。
勧告しても彼らは決して降伏をしない。そして弾薬食料が尽きると、最後に生き残った者が一斉に銃剣突撃して来るのである。
目を血走らせ銃剣をきらめかせて「バンザイ!」と叫びながら突っ込んでくる。そして敵兵の何割かは我が軍の銃砲弾の雨をかいくぐり、陣地最前線の壕に飛び込んで来た。狭い壕の中での白兵戦である。銃剣やナイフによる殺し合いだ。阿鼻叫喚の地獄がそこかしこに現れた。戦いの後、戦友の中には精神を病んで後送される者も多かった。
キング伍長自身、初めて銃剣で敵兵を倒したときは発狂しそうになった。銃で離れた敵兵を撃つのは「倒す」といえた。だが目の前の、息遣いさえ聞こえる敵兵に銃剣やナイフを突き刺すことは、文字通り「殺す」だった。
返り血を浴び、敵兵の最期のうめき声を聞く。それが「天皇陛下万歳」なのか、「母さん」なのか、妻や子の名前なのか、「畜生」なのか、日本語を知らない彼にはわからなかった。
キング伍長は日本語がわからないことを神に感謝していた。なぜなら日本兵の最期の言葉をひとつひとつ聞き取れていたら、彼も間違いなく発狂していただろうからである。
だが参謀本部や軍司令部など上位単位から冷徹に見れば、伍長の属する中隊、そしてその中隊の属する大隊・連隊・師団は、ようするに歴戦の精鋭部隊ということであった。
そして、その精鋭中隊に下った任務が「ミシシッピ」に沿って走る街道の防衛であった。この道は南の補給本部から北の主戦場まで、補給物資を運ぶルートだった。中隊の仲間はこの道を「ルート66」と呼んだ。これもまた言うまでもなく合衆国を横断する有名な国道の名である。命名の理由は「ミシシッピ」と同じだ。
先週この「ルート66」の南方で大きな会戦があった。合衆国軍は圧倒的火力で日本軍を粉砕した。だが以外だったのは日本軍が退いたことだった。退却したのである。
日本軍は「ルート66」を北へ退き、そこに用意していた陣地に篭城したのである。しかもほとんど夜襲も行わず、ひたすら篭っている。さらにかなり堅固な陣地であった。明らかに持久作戦である。次の拠点の防衛陣地を構築するための時間稼ぎと思われた。
ここが中隊の属する師団の主戦場となった。そして「ルート66」は重要かつ唯一の補給路となったのである。
だが問題があった、一気に北へ追い詰めたのは良かったが、北の陣地にたどり着けなかった日本兵たちの行動である。彼らは仲間を探し合流して、この「ルート66」を走る輸送トラックを目標にゲリラ戦を仕掛けてきたのである。特に対岸に草原のある辺りでの被害が大きかった。敵の残兵はかなりの集団になり統率のとれた作戦行動を行っている様子だった。
師団司令部はここを「Dポイント」と名づけた。その上で、伍長の属する『精鋭中隊』に補給路Dポイント防御の命令を下したのである。
Dポイント
中隊は「ルート66」を南下し、昼前に対岸に草原があるというDポイントに到着した。だがそこは道の両側が密林に覆われた場所だった。対岸の草原は見えない。情報では、「ルート66」と「ミシシッピ」に挟まれた幅100mほどの密林の中から、手榴弾を中心とした攻撃を受けている、ということだった。攻撃方法から推察するに敵戦力は五十名、多くても百名程度と思われた。
中隊長は早速、第一小隊を密林へ威力偵察に出した。小隊は散開しつつ密林を進み「ミシシッピ」の河岸まで到達した。
小隊長の報告は、
「街道と河の中間辺りに街道に沿って十五個の壕を発見。壕の大きさは二名程度が隠れられる大きさであり、日本兵のものと思われる靴跡あり。ただし日本兵は、対岸にも全く見かけず。」
とのことだった。
おそらく日本兵は、中隊の到着を見て「ミシシッピ」の対岸にあると思われる陣地に引き揚げたのだろう。
中隊長は第一小隊に命じた。
「敵の残した壕を使い、河を渡って来る日本兵に備えよ。」そして、「我々の任務は街道の安全を守ることである。敵を追う必要は無い。」
と付け加えた。
第一小隊は各壕に二名ずつ配置し、残りの約二十名はその後方の密林に潜んだ。その日は第一小隊の威嚇のお陰か、「ルート66」への攻撃はなく日が暮れた。
第一小隊の小隊長は各壕に潜む部下に
「日本軍の夜戦奇襲に注意せよ」
と命じていた。
部下たちは了解済みであった。みな歴戦の勇士なのである。日本軍のやり方は分かっている。奴らは夜陰に乗じて突っ込んでくるだけだ。落ち着いて一人ずつ撃ち倒せばいい。
だがここの日本軍は違っていた。「敵を知り」過ぎていたことが第一小隊の命取りになった。
夜中午前二時ごろである。その日は夕方から雨が降り出し真っ暗な夜だった。突然南側で大爆発が起こった。
壕に潜む第一小隊の兵はみな「来たぞ!」と南を見た。だが、それが最期だった。
夜陰と雨音に紛れて、壕に近づいて息を殺していた日本兵がナイフ一本で各壕に踊りこんできたのである。
しかも南を向いた反対側から突入し、次の瞬間には第一小隊の兵たちの頚動脈が断ち切られていた。ほぼ即死である。声を上げる間も無かった。いくつかの壕では、最初の一撃をかわし白兵戦となった壕もあった。だが、狭い壕の中での超接近戦では小銃は役に立たない、結局敵のナイフに斃れていった。
雨の中、真っ暗闇での一瞬の奇襲だった。後方支援の約二十名は何が起こっているのか分からなかった。
「敵襲!」という声が一度聞こえ、小銃の発射音が二,三発聞こえただけだった。
警戒しつつ前進した後方支援の約二十名と小隊長が見たものは、見事に首を切られ息絶えた戦友の姿だった。そして、彼らが持っていたはずの自動小銃やその弾丸、手榴弾などが奪われていた。敵兵の姿は見えなかった。
その刹那、第一小隊残存約二十名は河岸から連射を受けた。聞きなれた自軍の自動小銃の音である。敵は奪い取ったその三十挺の小銃で撃ってきたのである。日本軍の三八式とかいう、一発ごとにボルトを引きしかも5発しか弾丸を装填できないという時代遅れの小銃ではない。
小隊長は止むを得ず命じた。
「退却せよ!」
すでに三十名が倒され今また数名が負傷したはずである。ここに踏み止まることは完全な全滅を意味した。
第一小隊は事実上壊滅した。そして密林の壕はまた日本軍のものとなったのである。
報告を受けた中隊長は歯噛みしながら思った。今回の敵はいままでの日本軍とは違う、と。
第八百特務連隊
翌朝、早朝から「ルート66」へ向けて日本軍の手榴弾攻撃が始まった。
補給大隊の所属でこのDポイントに派遣されている少尉は中隊長に言った。
「おかしいですね。トラックも通っていないのに…。それにこんな風にばら撒くことはなかったのですが…。」
中隊長は言った。
「我々が来たことで、敵もあの密林内の壕を維持することは無理と判断したのだろう。だから今のうちに道路を破壊できるだけ破壊して退却しようということではないか。」
しかし、と中隊長はさらに思った。
「日本兵は敵兵を倒すことのみに意義を感じているはずだ。補給路の破壊など、これまでの彼らの戦略戦術にはほとんど無かったがな…。」
やはり、と思った。今回の敵はこれまでと明らかに違う。根本的に違う。と。
手榴弾攻撃が止んだ。
道路はダメージを受けていたもののそれほどではなかった。補給大隊の少尉は、半日は通行止めだが、昼過ぎには徐行運転で通れる、明日には復旧できるだろう。といった。
中隊長は残存の二個小隊を率いて密林に入った。おそらく日本兵は退いているだろう、と思った。彼らは合理的に、いわば我が軍のように動いているのだ。
中隊長の予想通り、日本兵の姿はどこにも見えなかった。密林の木々に隠れながら河岸まで出たが、対岸にも敵兵の姿はなかった。
中隊長は双眼鏡を覗き対岸を丹念に調べた。
左右を崖に挟まれた草原があった。左の崖の下には小さな川が流れていた。崖は奥へ伸びており右へ曲がっていた。崖には多くの洞窟があった。
「これは陣地にするにはもってこいだな。」
と思ったとき、ある洞窟の入り口の横に木の看板が掛かっているのが見えた。左手奥の方である。
「第八百特務連隊本部」と読めた。
「連隊だと?」
思わず口にした。周りの兵が驚いた顔で振り返った。
「『特務連隊本部』と書いてあるよ。」
と中隊長は苦笑いしながら周りの兵に言った。そして続けた。
「ハッタリだよ。こんな所に連隊級の人員が篭れるはずが無い。第一、北の主戦線で戦っている相手が一個連隊程度だ。人を食った奴だな、敵の指揮官は。」
そのとき中隊長の側で双眼鏡を見ていた兵が言った。彼は日本語に詳しい男だった。
「中隊長、確かにハッタリでジョークですよ。第八百特務連隊とありますが、日本語には『嘘八百』という言葉があります。」
中隊長はそれを聞きまた苦笑した。
「大した指揮官だ。何を考えているのかわからんな。」
しかし次の瞬間顔を引き締め部下たちに言った。
「『連隊』というのは『嘘八百』だそうだ。だが『特務』というのは本当だと考えていい。その特別任務とは、ここで北の主戦場の後方撹乱をすることだ。自分たちで勝手に任務を作ったのだろう。だが確かにここで粘られて補給路を脅かされては困る。それがわかってここに篭っているということは、敵の指揮官は、これまで我々が知っている日本軍指揮官とは考え方が全く違う侮れない男だということだ。簡単には第一小隊の仇は取れんぞ、心しておけ。」
歴戦の勇士であり連隊一の中隊長と賞賛されているブラウン中尉の言葉と、第一小隊の壊滅は兵の緩みかけていた気持ちを引き締めるのに十分だった。
中隊長はそのまま命令を出した。
「この密林を確保し、敵が街道に出られないようにする。河岸から密林へ五mほど入ったところに塹壕を掘れ。連隊本部に依頼し、照明弾とサーチライト、重火器をもらえるだけもらってこい。」
塹壕はすぐにできた。河に沿って約三百m。残存の第二小隊と第三小隊合わせて約百名が三m間隔で配置についた。
だが照明弾は十分に入手できなかった。北の主戦場でも夜襲に備え引っ切り無しに打ち上げ続けており、余裕がなかったのである。サーチライトや重火器も同様だった。
中隊長の属する連隊の司令官は北の主戦線に居た。しかし、信頼するブラウン中尉の要請とはいえ目の前の敵が以外に頑強なために火器を割けなかったのである。
連隊としては当然作戦期間が決まっており、このままでは次の作戦に支障がでる。
連隊長はブラウン中隊長に無線電信でこう伝えるしかなかった。
「連隊主力は師団長の指揮下、北陣地を攻略中であるが、敵は予想外に頑強である。どうやら食料弾薬も備蓄していたらしい。一方で作戦終了の期日は迫っている。よって貴官の要請は受け容れられない。中隊手持ちの銃器で守勢に徹せよ。」
ブラウン中隊長は、「止むを得ない。」と考えると同時に思った。
「『食料弾薬も備蓄していたらしい』だと…? つまり最初からあの北の陣地に篭る作戦だったということか? どうやらあちらの指揮官も『日本軍離れ』した男のようだな…。」
と、そのとき中隊長は思った。
「全てが敵の作戦だったとしたら!」
つまり、南の会戦であっけなく退いたこと、北にたどり着けなかった兵がゲリラ戦術で補給路を脅かしていること、それが全て一貫した作戦だったとしたら…。つまりこのDポイントと北の陣地で、徹底的に時間稼ぎをするつもりだったら。
ブラウン中隊長の歴戦の背中が思わず寒くなった。
「ゲリラ戦で補給路を脅かしている兵は、北陣地にたどり着けなかったのではない。補給路を叩き、北陣地を少しでも長く保たせるためにわざと残ったのだ。ならば…。」
中隊長は河の向こう、「嘘八百連隊」の看板を見た。
「彼らは単なる残兵の寄せ集めではない。我々の補給路を妨害するための任務を最初から与えられた、文字通り『特別任務部隊』だ。当然あの洞窟陣地も事前に用意し食料弾薬もそれなりに備蓄していると考えた方が良い…。また精兵を選抜し、指揮官もこの作戦の目的を十分に理解した一流の指揮官だろう…。」
そう考えれば、第一小隊が受けた、悔しいながらも見事としか言いようの無い奇襲攻撃も納得がいく。奴らは特殊部隊並の精兵なのだ…。
その時中隊長の側にいた伍長が声を掛けた。キングという伍長で、階級を越えてブラウン中隊長と気の合う男だった。年齢も近かった。軍歴は伍長の方がはるかに長かったが。
伍長は、中隊長の様子が急変したことに気付いた。
「中隊長、どうされました。」
「いや、なんでもない。思ったより難しい任務になりそうだと感じただけだ。」
とにっこり笑い、
「そういえば、そろそろ貴様にも分隊を任せてもいい頃だな。」
と言った。
連隊長がブラウン中隊長を信頼しているように、キング伍長は、中隊長が特に信頼している下士官や兵の中の一人だった。
その頃、洞窟陣地の中では日本軍将兵の会話が交わされていた。
「河の向こうの密林は、敵に抑えられましたな。」
「夕べのような奇襲はもう効かないでしょう。」
「崖の頂上で観測している兵からの報告では、ほぼ二個小隊百名ほどが三百mにわたって塹壕を掘ったようです。」
「どうやらこちらを封じ込める作戦のようですな、大尉殿。」
大尉と呼ばれた男は目つきの鋭い四十歳くらいの男だった。下士官や兵の言葉に答えた。
「うむ。塹壕を掘って守勢を維持か。敵中隊の任務は、我々への攻撃ではなく補給路の守備、安全確保のようだな。」
「では、第二段作戦に移行しますか?」
大尉は少し考えた後、言った。
「第二段作戦に移行する。明日04: 00より移動を開始、05: 00をもって擲弾器による対戦車弾攻撃を開始、徹甲弾で道路に大穴をあける。敵トラックの朝の便が渋滞したところで擲弾筒による榴弾攻撃を行う。目標は弾薬運搬車だ。極力発射位置が発見されないよう留意せよ。また03: 00までに交互に食事、休息を取れ。」
「はっ!」
部下が答えた。
翌朝、黎明から午前に掛けて「ルート66」は壊滅的打撃を受けた。空が白みかけた頃、突然道路上で爆発が起こった。どこから撃ってきているのかはわからないが、敵は街道までの距離を正確に測量していたようだ。見事に道路上へ弾丸が落下してくる。だが十五分ほどで攻撃は止んだ。
明るくなるにつれ被害が明らかになった。大穴があちこちに口をあけている。相当な被害だった。とてもトラックが通れる状態ではない。補給大隊の少尉は復旧のメドすら立てられなかった。中隊長は、小銃に装着する対戦車用の徹甲弾を地面に打ち込んだのだと判断した。
そこへ補給物資を積んだトラックの第一陣がやって来た。当然通れない。補給少尉は本部に連絡を取りトラックの出発を止めるよう要請していたが、すでに出発していたトラックがやってきたのである。絶妙なタイミングの敵攻撃だった。街道上では混乱が避けられなかった。大穴群を前にトラックが渋滞し始めたのである。
少尉とブラウン中隊長は、
「危険だ!戻れ!」
と叫びながら交通整理の巡査と化していた。
その時である。一台のトラックが爆発炎上した。続いてもう一台。ブラウン中隊長は、擲弾筒を使った手榴弾攻撃だ、と判断した。擲弾筒を使えば河の向こう側からでも届く。だがどこから撃ってくるのか判らない。その間にも一台、もう一台と渋滞したトラックは爆発していった。積み荷が誘爆する弾薬運搬車も多かった。
何とか無事なトラックを南へ帰したものの、それは今日一日、北に一切の補給が行われないことを意味していた。中隊長と少尉は歯噛みした。
攻撃
だが中隊長はすぐに冷静さを取り戻した。そして密林を抜け河岸の最前線で対岸の地形を丹念に見た。
「俺が日本軍指揮官ならどこから撃つか?」
彼は、これまでの戦闘と同様、敵の立場に立って自問した。
被害は甚大だが、攻撃そのものは小規模だった。敵の火器の数、員数はそれほどでもないだろう。対戦車銃が三、四挺、擲弾筒がやはり三、四挺、これを連射するために必要な員数は十五?二十名、といったところか。
「その戦力で攻撃をするとすれば…」
当然、第二第三小隊の塹壕から死角になる場所であり、また狭い場所でよく、街道が見える場所である。中隊長はすぐに気づいた。
「あの左手の崖、河岸に突き出した辺りの頂上だ。」
中隊長は急いで街道にもどり、双眼鏡で左の崖の頂上を見た。兵の姿は見えなかった。
「退いたか、岩陰に隠れているか…。だが、街道を撃てる場所はあそこしかない。」
中隊長は確信した。
街道に戻った中隊長は補給大隊少尉の声を聞いた。彼は無線電話を持ち、
「…はい、戦車などキャタピラの車両ならなんとか通れます。」
と話している。補給大隊本部と連絡しているようだった。
中隊長は駆け寄り、少尉と電話を代わった。相手は補給大隊の大隊長だった。
大隊長は「十五両のM4戦車が届いたのですぐに前線へ送る予定だ。」と言った。
なりふり構わず中隊長は言った。
「途中で一発ずつ撃たせてください。責任は私が取ります。」
状況をよく理解している大隊長は承諾した。
「私にも砲弾を使う権限は無いが…。いいだろう、戦車隊指揮官には私から依頼しておく。」
中隊長、補給大隊長そして戦車隊指揮官は無線暗号電信で綿密に作戦を打ち合わせた。今度はこちらが奇襲を掛けるのである。キャタピラの音に気づかせないため、トラックに積んで来る。戦車砲の有効射程距離ぎりぎりで止まり、照準を合わせて待機。この位置は左の崖の頂上から見て密林の影になるところだ。
打ち合わせが終わり、戦車隊は出発した。やがてトラックに載せられた戦車十五両は無事にブラウン中隊長の元に到着した。中隊長は、やって来た戦車隊指揮官の大尉に、左の崖頂上への方位、距離や仰角を教えた。その後、砲兵が風向き、距離をもとに照準をつけ装弾し待機した。そして大尉が言った。
「私も一発責任を取る。二発ずつ撃とう。敵兵だけでなくあの崖を崩してしまった方がいい。」
街道では工兵や補給大隊の兵も総出で道路の復旧作業をすすめていた。中隊長はほぼ復旧が完了するまで次の攻撃は無い、と読んでいた。敵の立場に立てば、すでに街道は寸断されていて、復旧するまで攻撃する必要はないからである。
問題は敵が左の崖頂上に居る時に撃たなければならない。その合図は、残念ながら敵の攻撃が再開された時、としか判断ができなかった。
街道はなんとか復旧が進み、翌日昼頃にはトラックが通れる状態に戻りつつあった。中隊長は、前日派遣されてきた工兵隊長に注意を促した。
「そろそろ敵攻撃が再開されるぞ。私の部下が目を皿のようにして見張っている。声があればすぐに退避だ。」
中隊では第一小隊の生き残り約二十名に双眼鏡を持たせ、できる限り多くの角度から左の崖頂上周辺を監視していた。第二第三小隊は変わらず河沿いの塹壕で敵襲に備え、双眼鏡で敵地を観測していた。
第一小隊長は片時も双眼鏡を眼から離さず左の崖頂上を睨み続けていた。双眼鏡に隠された眼は血走り、憤怒に燃えていた。当然である。大切な部下を一瞬にして奪われたのだ。いや、単なる部下ではない。最前線の下級指揮官にとって下士官や兵は共に死線をくぐり抜けて来た、かけがえの無い戦友たちなのである。
それがようやく反撃の機会を与えられたのである。彼の背中には、絶対に見つけてやる、との強い思いがみなぎっていた。それは第一小隊の残兵にとっても同じことだった。それぞれが崖方面を凝視していた。
曇天だった。敵の動きが見えるとしたら、対戦車弾の発射煙程度であろう。曇り空を背景に煙を見つけるのは難しいことに思えた。
だが、今回は第一小隊の執念が勝った。予想通り左の崖頂上あたりで、噴き出す煙に何人かの兵が気づいた。小隊長も気づいた。気づいた兵はすぐ振り返り、工兵たちに
「退避!」
と叫んだ。小隊長はブラウン中隊長に
「予想通りの位置です!」
と叫んだ。
すかさず中隊長は握り締めていた無線機のマイクに
「予定通り!発射願います!」
と叫んだ。電波は戦車隊各車両に飛んだ。
敵の対戦車弾が街道に落ちるのと、味方の戦車隊の砲が火を噴くのがほぼ同時だった。
続いてもう一発。合計三十発もの七十六ミリ戦車砲弾が左の崖の上に打ち込まれた。中隊長も第一小隊長も固唾を飲んで見守った。
最初の砲撃で、十名ほどの敵兵が吹き飛ばされ崖のこちら側に落ちてきた。
左の崖は頂上が無くなったほどに破壊された。もうあの場所から攻撃はできないだろう。また、二十名程度の敵を倒したはずである。ブラウン中隊長は作戦成功に安堵した。
戦車隊は通り過ぎて行った。だが最後の一両が中隊長の前で止まった。上部のハッチから戦車隊長の大尉が上半身を出していた。中隊長に言った。
「敵の観測兵の居場所は破壊したか?」
中隊長には痛い質問だった。敵は当然こちらの動きが良く見える場所に、つまり主陣地以外に双眼鏡なりを持った兵を配置しているはずである。それは判っていたが、到着直後から敵に振り回され、まだ十分に草原や崖を調査できていなかったからである。
中隊長は正直に言った。
「恥ずかしながらこれからです。」
だが、見つけたところで砲を持たないブラウン中隊に攻撃する方法はなかった。本来なら軽機関銃や迫撃砲をもつ四つ目の小隊があるのだが、北の主陣地攻撃のため大隊直属として引き抜かれていたのである。
その時である。一人の兵が密林の中から走って来て中隊長の前で敬礼した。
「第二小隊長より伝令であります。先ほどの我が方の砲撃時、草原真正面の崖の頂上に双眼鏡を持った敵兵二名を発見。砲撃に驚き頭を出したようです。観測兵と思われます。」
中隊長と大尉は顔を見合わせた。大尉は言った。
「すぐに正確な距離、仰角等の諸元を測量してくれ。もう一発ぐらい撃ってやるよ。」
中隊長は伝令に命じ、第二小隊から諸元が報告された。
「よし。」
大尉は言って射手に伝えた。砲塔が旋回し、砲身は大きく仰角を取った。
中隊長は走って密林を抜け前線の壕から正面の崖頂上を双眼鏡で見た。敵兵は見えなかったが大型の双眼鏡のレンズが光っているのが、かろうじて見えた。
「間違いありません。」
ブラウン中隊長は大尉に無線で伝えた。
後方で戦車砲の発射音が響いた。砲弾の飛ぶ音が中隊長の頭上を越えた。次の瞬間、双眼鏡の中で敵の大型双眼鏡が爆発した、ように見えた。見事な照準である。
「目標に命中。お見事です、大尉。」
「ハハハ、おだてるな。止まっている目標を停まって撃ったんだ。当てなきゃ戦車乗りの名がすたる。それより北で砲弾が尽きないよう街道の防御を頼んだぞ、中隊長。」
「了解しました。大尉。」
二人の士官は無線越しに挨拶を交わし、大尉の戦車は北へ向かって仲間を追いかけて行った。
「何っ!」
洞窟から双眼鏡で第二段攻撃隊を見ていた日本軍大尉は思わず声にした。攻撃隊の陣取る河岸の崖頂上が吹き飛ばされたのである。昨日の攻撃では大戦果を挙げたと報告を受けていただけに驚いた。
しかも執拗に撃ってくる。三十発近く撃ちこまれたようだった。大尉の周りの兵も驚き息を飲んだ。
その後若干の静寂が洞窟内を支配した。やがて兵達の眼は大尉に向けられていた。大尉は自らを落ち着かせるように言った。
「予想外に早い敵の反撃だったな。いつの間に砲を用意したのか…。頃合をみて攻撃隊は退却させたかったんだが。」
その時、キャタピラの音が聞こえた。かなりの数だ。だがそれらは遠ざかっていった。
日本軍大尉は言った。
「北へ送る戦車部隊に、途中で仕事をさせたと言うわけか。この反応の速さはおそらく現場の独断だろう。北の司令部に依頼していたらもっと時間が掛かるはずだ。敵の中隊長はなかなかの指揮官のようだ。」
大尉がそういい終わった瞬間、また砲撃音が一発聞こえた。その砲撃音の反響が消える頃、崖頂上の観測兵のいる場所が爆発した。
「…やるな。」
大尉はつぶやいた。
そしてまたキャタピラの音が遠ざかって行くのを聞いた。今度は一両のようだった。
しばらくして洞窟の中で一人の曹長が言った。
「やられましたな。大尉殿。」
古参の副官だった。それだけに大尉同様冷静だった。
「うむ、もう少し粘りたかったんだがな。」
「そうですね。」
「ただ彼らは危険な任務を立派に果たした。彼らのような勇敢な部下を持てたことを私は誇りに思う。」
と大尉は崖に向かって敬礼をした。
「はっ。私も十分な戦果を挙げたと考えます。」
どうやらこの部隊は、やはり他の日本軍部隊同様、死ぬまで戦うことを前提にしているようだった。確かに北陣地が陥ちるまでは、この部隊の任務は終わらないのである。どちらが先かというだけだった。北陣地が陥ちるのと自分たちが戦死するのとが、である。
とはいえ曹長の目は少し潤んでいた。他の兵たちは崩れた河岸の崖と観測兵のいた頂上に向けて手を合わせていた。
洞窟内では、部下たちが落ち着いたのを見計らって大尉が言った。
「第三段作戦に移行する。本日23: 00まで各員休息を取れ。」
洞窟の中で座り込んでいた部下たちは大尉を見上げた。この人の闘志がどこから湧いて来るのか不思議でもあった。将官ではないがまさに闘将というにふさわしい。
曹長が言った。
「大尉殿。観測隊がやられましたが代わりを登らせますか?」
「うむ、二名だそう。だが崖下でいい。すぐにここへ戻れるようにな。敵が攻勢に出るかどうかが最大の問題だ。その動きを探らせる。」
大尉は二名を選抜し言った。
「いつも双眼鏡を出しておく必要は無いぞ。適宜覗くぐらいで十分だ。潜水艦の潜望鏡のようにな。」
二人の兵は崖下、河と敵塹壕線の見える場所に降り、岩陰に身を伏せた。
さらに大尉は曹長に言った。
「今夜からの指揮を頼んだぞ、宮崎。」
「はっ。」
宮崎と呼ばれた曹長は返事をした。
そして振り返って部下たちに向かっていった。
「夜に備えてゆっくり休もう。」
ブラウン中隊は河岸の塹壕で小銃を河の向こうへ向け守備隊形のまま布陣していた。ブラウン中隊長は塹壕を回り中隊の将兵に状況を教え、一方で士気を確認、鼓舞していた。そして頭の中では、敵が次にどう出てくるか考えていた。だが一方で
「もう出てこないでくれ。」
とも思っていた。
中隊長の士気が鈍ったのではない。北陣地は、作戦期間の問題はともかくいずれ陥とせる。そのための支援戦闘でこれ以上部下の血を流したくなかったのである。
宮崎曹長と空
夜半過ぎ、第三段作戦が始まった。
宮崎曹長が率いる攻撃隊は洞窟から縄梯子で草原に下り、南側の崖下に沿って進んだ。左に曲がり大きな河が見えるようになる場所、つまり敵から見えるようになる場所からは、崖下に沿って細い通路が掘ってあった。むろん事前に準備しておいた通路である。ブラウン中隊が到着した時や、第一小隊を襲った後に退却した通路でもあった。攻撃隊は腰をかがめ、敵から見えないよう進んだ。
ブラウン中隊は爽やかな朝を迎えていた。恐れていた夜襲もなく、敵に動きは全く見えない。昨日の砲撃で第一小隊の仇を少しは討てた気持ちもあった。敵の最後の攻撃で損傷した道路も、夜明けまでに工兵が復旧していた。早朝第一便の輸送トラック群も問題なく南から北へ走り去っていった。
中隊長は塹壕の中を歩き回りながら、次に敵が出てくるとしたら、という自問を続けていた。だが、中隊の兵たちには気の緩みが出てきたようだった。このDポイントに来てから三日間あれだけ執拗な攻撃を仕掛けてきた敵が、今日は朝から動きがなく、しかもトラック群も順調に通っていく。昨日の攻撃で、敵にはもう戦闘力が無くなったのだ、と思っている兵もいた。
「油断するな。敵は『嘘八百』部隊だ。何を考えているのかわからない連中だぞ。」
と中隊長や小隊長は兵に言い聞かせていた。
一方、宮崎曹長率いる攻撃隊はすでに密林の中に浅い壕を掘り、潜んでいた。米軍の言うDポイントより二kmほど南の地点だった。この辺りには敵兵はいない。
「曹長殿、まだ仕掛けませんか。」
兵の一人が声を潜めて言った。
「まだだ、やるからには敵が油断しきったところでやる。その方が敵の士気に与える影響も大きいってもんだ。昼過ぎまで遊ばせてやれ。どうせごく短時間の攻撃しか出来んのだ。」
さらに曹長は声を潜め笑いながら続けて言った。
「なんなら貴様、寝ててもいいぞ。その方が気配が消えるかもな。でもイビキはかくなよ。」
「そんな度胸ありませんよ。宮崎さんじゃあるまいし。」
と兵も声を潜めて笑った。
ブラウン中隊長の自問は続いていた。
「敵の残存兵力はおそらく三十名程度…。火器はあの対戦車銃と擲弾筒だが、まだ残っているかどうか…。仮に五十名居て火器も有ったとして、どうやって街道を攻撃する? 崖の上を使えなくなった今、対岸のあの草原を進んでくるしかない…。それなら我が中隊の射撃で全滅だ…。」
中隊長にも
「少なくとも昼間はもう出てこないかもしれない。」
という考えが頭を占め始めていた。
昼になった。中隊の将兵は交互に食事を摂った。そして食事中話し合っていた。
「今日は平和だな。奴ら何してるんだろ。」
「もう奴さんたち、『ルート66』を攻撃する弾薬は残って無いんだぜ。きっと今頃向こうもメシ食ってるさ。食料が残っていればだがな。」
「ということは、もう『ルート66』への攻撃はあきらめて、食料が無くなったら例の『バンザイ突撃』か?」
「そうなるだろうな。だがここは『ミシシッピ』を挟んで向こう岸は何も隠れるところの無い草原だ。出てきたところで狙い撃ちさ。いくら夜襲でもこの塹壕まではたどり着けないよ。」
「そうだとありがたいんだがな。だが北の主戦場はどうなってんだろうな。えらく手こずってるようじゃないか。」
「もう『ルート66』の安全は確保したんだ。物資がたっぷり届けば時間の問題だろ。」
中隊の雰囲気は概ねこういった状態になっていった。
中隊長は
「油断するな。」
としか言えなかった。具体的に注意すべきことが思い浮かばないからである。
宮崎曹長は仰向けに寝転がって密林越しの空を見上げていた。どこまでも青く澄み切っていた。あまりにも美しかった。
戦場という現実の中で完全に忘れていた「美」がそこにあった。こんな地獄のような場所でも、空には「美」があることを不思議にも感じた。
そして思わず彼は自分の手を掲げて眺めた。敵の血で汚れきった手だった。
空の美と汚れた手、その落差が大きすぎた。この手で一体何人の命を奪ってきただろう。そして今から何人の命を奪うのだろう。
「嫌」だった。
大尉とも何度も話し合った。
「俺たちは何故戦うのか?」
だが大尉も明確な答えは持っていなかった。いや、大尉には大尉なりの答えがあるのかもしれない。だがそれはきっと職業軍人である士官としての答えなのだろう。いつも結論は
「それが任務だから。」
に行き着くだけだった。
「任務…か。」
つぶやきながら宮崎曹長は少し身を起こした。
「なんです? 曹長殿。」
隣に伏せていた兵が聞いた。
「なんでもない。そろそろやるか。」
「はっ。」
「帰りの渡河地点はわかってるな。深みに足をとられるなよ。」
曹長は言った。
ブラウン中隊長はもう一度、Dポイント到着以後の戦闘を振り返っていた。
敵のあざやかさは、攻撃もさるものながらその退き方だった。第一小隊が前進した時、そして中隊長が前進した時、敵は消えていた。対岸にも見えなかった。中隊長はそこに考えが及び違和感を感じた。
「消えるのが早すぎる…。」
自分たちの動きを見て退いたとしても、河を渡り洞窟陣地に戻るにはそれなりの時間が掛かるはずだ。対岸の草原を退却する敵兵が見えて当然だった。
「こちらからは見えない通路があるのか? ならば…。」
中隊長は両小隊長に命令した。
「各小隊から一個分隊を河沿いに南北へ偵察に出す。第二小隊からは北、第三小隊からは南だ。それぞれ三km先まで偵察せよ。敵が当初のように潜んでいる可能性がある。十分注意させろ。」
両中隊から二つの分隊が南北へ動いた。
「敵部隊に動きあり。両翼からそれぞれ一個分隊程度の兵が消えました。」
洞窟内では偵察兵からの報告を大尉が受け取っていた。
「まずい。早く仕掛けて帰ってこい。」
と大尉は思った。
宮崎曹長の攻撃隊は散開した。兵は片手に手榴弾、もう一方に水風船のようなものを持っていた。
トラック群がやってきた。最右翼の宮崎曹長が手榴弾を投げ、先頭車両の前で爆発した。トラックを運転していた兵は思わず急ブレーキを踏んでしまった。曹長の読み通り、朝から平穏なので油断していたのである。通常なら突っ切るべきところであった。
先頭のトラックが急停止した為、後続のトラック群も急停止した。軽く追突してしまったものもあった。
攻撃隊は一斉に攻撃を開始した。まず水風船を投げる。中身はガソリンだった。これを弾薬箱が積まれた荷台に投げ込み、その後手榴弾で攻撃する。誘爆させやすくする戦術だった。一瞬にして五台の弾薬運搬車が爆発し、炎上した。炎に包まれた兵がトラックの運転席から転げ落ちた。
だが二回目の攻撃に掛かろうとした時である。宮崎曹長のそばで北側を警戒していた兵が小さな声で叫んだ。
「曹長殿!敵兵です!」
「何?早すぎるぞ。」
宮崎曹長はすぐに察した。こちらの作戦を読まれたのだ。
「退却だ。大至急全員に伝えろ。」
敵は小銃を撃ちかけてきた。宮崎曹長は応射しながら後ろ歩きで退いていった。さっきの兵が戻ってきた。
「曹長殿、全員渡河開始。すぐに対岸の通路に隠れます。曹長殿も急いで下さい。」
「いや渡河中が一番危険だ。俺が殿を務める。貴様も早く退け。」
「しかし曹長殿!」
「俺の失敗だからな。何、心配するな。敵に古参下士官の恐ろしさを教えてやるだけだよ。早く行け!命令だ!」
「はっ。ご武運を!」
兵は走っていった。
宮崎曹長は密林の木々を遮蔽物にしつつ小銃を撃ち、手榴弾で攻撃した。特に渡河中の部下を狙おうとしている敵兵を狙い続けた。
一瞬振り返り、全ての部下が渡河を終えたことを確認したその時、宮崎曹長は右肩に熱いものを感じ、後ろへ倒れた。
また、あの美しい青く澄み切った空が目の前に広がった。
「死に場所としちゃ悪くねえな。だが、あの空のような美しいところへは行けないんだろうな。」
そんなことを思わず考えた。
宮崎曹長は仰向けのままナイフを取り出した。
「ヤンキーどもめ、俺の最後の罠を見抜けるかな。」
にやりとしながら、自分の胸にナイフを少し突き刺した。血が溢れ軍服の胸のあたりは赤く染まった。
そのまま宮崎曹長は再び空を見上げた。
澄み切った青い空に昼間の白い月が見えた。彼はその白さを神々しく感じた。
「神様だか仏様だか知らんが、ろくでもない時代に俺を生みつけてくれたもんだ。でも俺は任務を果たした。部下も守った。満足だ。」
だが、さらに思った。大尉と話し合っている時に感じていたことだった。
「考えりゃ、ろくでもない時代にしたのは神様や仏様じゃない。人間なんだ。もちろん俺自身がそうした覚えはないがな。まあ人間としては自業自得ってわけだ。」
その時視野の隅に敵兵が見えた。彼は薄目にして息を殺し死体に化けた。
第三小隊から派遣された分隊は、前方に一人の日本兵が倒れているのを見つけた。警戒しながら接近した。だが日本兵の胸は血に染まり、絶命しているようだった。
「ふう、まったく神出鬼没だな。」
「ああ、しかし中隊長の読みはさすがだな。」
「そうだな、だが俺たちは完全に油断していた。その結果があれだ。」
と分隊長が指をさした。五台のトラックが炎上している。黒焦げの死体も転がっていた。
話しながら、分隊の兵は宮崎曹長の『死体』の周りに集まって来ていた。
「七人か。十分だな。」
薄目で確認した宮崎曹長は思った。そして背中に廻していた親指を引いた。親指には紐が結び付けられ、紐は残った手榴弾三発の安全ピンに結ばれていた。
「一、二、三」と曹長は数を数え「四」の瞬間、さっと寝返りを打った。
分隊の兵が驚いて見た。そこにはピンが抜かれレバーもはじけた手榴弾が三個転がっていた。それが、レバーが弾けてから五秒後だった。
分隊長が「伏せろ!」と叫びかけた瞬間、手榴弾は炸裂した。
分隊長を含む七名は吹き飛ばされ全員絶命した。中心にいた宮崎曹長の身体は四散して消えていた。
「宮崎はどうした。」
洞窟陣地では帰還した兵に大尉が聞いた。
「敵の対応が早く、我々の退却の為に対岸に残って殿を務められました。」
と一人の兵が言った。
「我々の渡河後、手榴弾三、四個程度の爆発音が聞こえました。おそらく…」
もう一人の兵が言ったが最後は言葉にならなかった。洞窟内にしばし、すすり泣きの声が響いた。
大尉の表情は冷静だったが、奥歯は砕けんばかりに噛み締められていた。
ブラウン中隊長も後悔と苦悩に耐えていた。読みが当たり敵は塹壕線から離れた地点から攻撃してきた。そして撃退した。
だが判断が遅かった。もう少し早く索敵に出していればトラックの損害も阻止し、第三分隊長以下の半数近くを失うということもなかったはずだ。
「敵兵の罠にはめられたようです。敵は死体のふりをして我々を集めたところで、手榴弾を爆発させました。自爆攻撃でした。」
第三分隊の生き残りのキング伍長が報告した。側にはもちろん第三小隊長もいた。
中隊長は「判った。」と言い、そして続けて言った。
「伍長、第三分隊では貴官が先任になった。今後第三分隊の指揮を執れ。」
「はっ。了解しました。」
キング伍長は第三小隊第三分隊の分隊長となった。
「中隊長、小隊長、早速ですが分隊長として意見具申があります。」
とキング伍長が言った。
「何だ?」
「我々の追った敵兵は河を渡るとすぐに姿が見えなくなりました。こちらから見えないように通路を作っていると思われます。偵察に行かせて下さい。」
中隊長は頷いて言った。
「確かに、敵が消えるのが早すぎると、俺も同じことを考えていた。だが危険な任務だぞ。」
「はい。ですが先ほどの地点ならもう敵は主陣地へ戻っていると思われます。河岸に残る必要はありません。」
「わかった。だがくれぐれも注意して行け。深入りはするな。」
「はっ。」
キング伍長は分隊から二名を選抜し、Dポイント南二kmの地点を渡河した。
「我が軍で『ミシシッピ』を渡ったのは俺たちが最初だな。」
と伍長はつぶやいた。
「ここからだ、周りに注意を怠るな。」
と続けて部下に指示した。
河原を歩き、崖下にたどり着いた。そこには、思ったとおり溝が掘ってあった。その溝は崖下を縫うように草原の奥へと続いている。
「溝の存在を小隊長に報告。」
伍長は部下に指示した。
「進むぞ。どの洞窟が主陣地かわからん。注意しろ。」
伍長は言った。だが彼は予想していた。
「敵の主陣地は右に大きく曲がった先のどこかだ。」と。
我が軍が砲を持ち出したとき死角になる場所のはずだからだ。『敵の立場になって考えろ』というのは中隊長がいつも部下に教えていることだった。
大きく右に曲がる地点まで来た。
「鏡を出せ。」
伍長は鏡を岩陰から出し、右に曲がった先をうかがった。
その時二方向から射撃を受けた。一方は鏡を向けている右奥の方向、もうひとつは左手、自軍塹壕の正面になる崖下からだった。三人は溝の中に伏せた。伍長は言った。
「よし、十分だ。引き揚げる。」
三人は溝の底を這い銃弾を避けて帰隊した。
「通路を発見されたようですね。大尉殿。」
洞窟の中で一人の兵が言った。
「うむ。仕方があるまい。問題は敵が次にどういう手を打ってくるかだ。」
と大尉は言った。
「北の主力はまだ頑張っているんでしょうか。」
兵は大尉に問うてもわからないことを思わず聞いた。
大尉は答えた。
「わからんが、目の前の敵が活発に動いていることを考えると、まだ維持していると判断していいだろう。我々の任務もまだこれからだ。」
「はい。」
兵たちは答えた。
キング伍長は帰隊して報告した。溝の存在と敵主陣地は右手奥であることなどである。ちょうど中隊長と三人の小隊長が、テントの下で小さな机を挟み、打ち合わせをしているところだった。
第三小隊長が言った。
「他に通路らしきものは見つからなかったか?」
「はい。」
そして続けていった。
「これは私見でありますが、地形からみてもあの通路が唯一のものだと思います。」
四人の士官は頷いた。
「河を渡り、右手に曲がるところまであの通路を抑えて、敵を封じ込めてはどうでしょう。仮に他の通路があったとしても、あの通路は塹壕として攻撃拠点になりえます。」
と第二小隊長が言った。
中隊長は頷いて言った。
「敵は通路を我々に発見されたことを知った。それに対する作戦も事前に立案していると考えた方が良いが…。」
中隊長の言うことはもっともだった。少しの間、四人は考え込んでいた。
「私の小隊がやります。中隊長。」
第一小隊長が言った。
「私の小隊は残存二十名ですが、むしろ通路封鎖にはちょうどよい員数と思います。」
「…。」
中隊長はまだ考えていたが、やがて言った。
「よし、やろう。第一小隊に命じる。今夜、通路が右へ曲がる手前まで進出せよ。ただし崖正面に展開していると思われる敵に気取られるな。それから、地雷と崖上からの攻撃に気をつけろ。」
補給路の安全確保を任務とする、ブラウン中隊の方針は決まった。
決戦
しかし。
中隊の作戦方針が決まり、四人が立ち上がろうとした時である。通信兵が声を掛け入ってきた。
「大隊長からの命令書であります。」
通信兵は言い、タイプされた紙を中隊長に渡した。一読した中隊長の顔色が変わった。
「何です?中隊長。」
第一小隊長が聞いた。中隊長は答えた。
「…小隊長。とりあえず今の命令は取り消しだ。」
「どういうことです?」
中隊長は無言で通信文を小さな机に置いた。各小隊長は覗き込んで読んだ。
内容は、
「中隊はDポイントの敵を攻撃、殲滅すべし。」
である。しかも発信元は、大隊さらに連隊の上、師団司令部からの命令であった。
第三小隊長は言った。
「小銃を持った歩兵だけで洞窟陣地を攻略しろ、と言うのか?」
「命令の意図がわからん。今さらなぜ?」
第二小隊長も言った。その時再び通信兵が入ってきて言った。
「連隊長から中隊長宛の『私信』であります。」
非公式の通信というわけだ。中隊長は受け取り、読んだ。
文面には連隊長の苦衷が読んで取れた。連隊長自身、今Dポイントの敵を攻撃することには意味がないと考え、師団に意見具申していた。だが師団司令部の参謀たちを説得できなかったのだった。
師団も上位の軍司令部から矢のような督促を受けていたのである。曰く「北陣地はいつ陥とせるんだ。」と。
軍司令部にすれば早々に北陣地を陥とし、師団を次の戦場へ移動させて、早く新たな作戦を開始したかったのである。そうしなければ北陣地が戦線全体の凹み部分となり、他の師団の側背を突かれる恐れもある。
だからと言って今Dポイントの敵を攻めることが北陣地攻略の鍵にあるとは思えなかった。当初こそ敵の跳梁を許したが、ブラウン中隊を派遣し今はほぼ封じ込めつつあるのである。北に届く物資の量で判りそうなものだった。
連隊長の私信は続いた。
「師団命令となった限り、本官も貴官に命ぜざるを得ない。だが洞窟陣地に篭る敵を、歩兵のみで攻略するのは無理がある。本官の権限で、連隊の予備兵力であるM3軽戦車を三両送る。旧式とはいえ歩兵相手なら十分な戦力になるだろう。貴中隊の健闘を祈る。」
だが実際は連隊長の独断だった。戦車は師団から配備され北陣地攻略現場での指揮権を与えられていただけだった。
中隊長はこの私信も小隊長たちに読ませた。そして言った。
「貴官たち、それぞれ思うところはあるだろう。だが中隊長として命令する。敵陣地を攻略する。」
そして力強く続けた。
「『嘘八百連隊』を壊滅させる。それがこれからの我々の任務だ。」
翌日、中隊長は新しい任務を兵たちに伝えた。そして言った。
「第一小隊と第三小隊第三分隊の仇をとり、Dポイントを完全に安全な街道とする! 敵を血祭りに上げ、指揮官のサムライ・サーベルを奪い取れ!」
これまで守勢に徹しながらも損害を出し、欲求不満気味だった兵の士気は上がった。
戦車が到着した。戦車隊の指揮官はブラウン中隊長の指揮下に入ることを報告した。兵たちは喜んだ。旧式とはいえ大戦初期には歩兵支援の主力として活躍した戦車である。遮蔽物の無い草原を進み、陣地を攻略するには不可欠な兵器だ。
中隊長は工兵隊に依頼し、戦車が河へ出られるよう密林の切り開きを始めた。中隊の兵には交互に休息をとらせた。
中隊長は塹壕から河と草原を眺めながら、敵がどんな守備作戦を考えているか、を想像していた。特に戦車にどう対応するつもりなのかを、である。敵指揮官は戦車が出てくることぐらいは考えに入れて陣地を構築しているだろう。
これまで戦ってきた日本兵は戦車に対し、爆弾を抱いて飛び込む、といった肉弾攻撃をしてきた。今回もおそらくそれに近い戦法しか方法は無さそうだった。となるとやはり塹壕を何本も掘り、兵を潜ませるしかない。
だが彼らの任務は補給路の破壊である。兵を損耗させる作戦を取ってくるとは思えなかった。
その時、中隊長は「第八百特務連隊本部」の看板を目に留めた。
そして今さらながら不審に思った。
「なぜゲリラ戦を仕掛ける部隊が、わざわざ敵から丸見えの所に本部の看板を掛けているのか…。」
中隊長は最初から「連隊」が嘘八百なら、あの看板の洞窟が本部であることも嘘八百だと思っていた。砲さえあれば簡単に破壊できる位置だからである。
そして今、本来自分たちの存在を隠すべきゲリラ部隊がわざわざ看板を掲げていることに改めて疑問を持ったのである。
少し考えていた中隊長は気付いた。
あの看板は、我々米軍に対して「この辺にいるぞ」とアピールするためのサインだ。
彼らの任務は、補給路の破壊とばかり思い込んでいたがそうではない。北の陣地と連携して我が師団をこの戦場に釘付けにすることが任務なのだ。
つまり「この辺にいるぞ」とアピールすることで、師団の兵力のいくばくかはここに割くことになる。実際ブラウン中隊は北陣地の攻略から割かれてここにいる。
敵の誤算と言えば、一個中隊しかも重火器小隊を除いた三個小隊しか来なかった、ということだ。もっと多くの兵力を引き付けたかったはずだ。
「そして『連隊』などと、嘘とすぐわかる大きな部隊単位を看板に書いたのも、逆に兵力がどれほどなのか我々に悟らせないためだ。看板は立ててアピールしたいが、兵力を教えるわけにはいかない。それで『連隊』にした、というわけか。」
中隊長はおそらくこの推察は間違いあるまい、と思った。
「となると…。敵は、補給路破壊が無理と判断すれば、全滅覚悟で我々中隊の出血を強いてくる作戦を取るだろう。例の自殺的攻撃で…。」
中隊長は各小隊長、分隊長、そして三人の戦車長を集め自分の推察を話した。そして言った。
「今度の作戦では、おそらく敵兵は退かないぞ。戦死覚悟で突っ込んで来たり、負傷したら周りの我々を巻き添えに手榴弾自決もしてくる可能性もある。だから敵を追って突出するな。戦線を維持し、最初から殲滅戦で行く。そして残兵を洞窟に追い詰め止めを刺す。」
各隊長は頷いた。
草原にはチェーンソーの音が響いていた。工兵が密林を切り開く音である。
「どうやら攻勢にでるつもりのようですね。」
洞窟の中で一人の兵が言った。
「うむ。戦車か装甲車か…。何で来るかな。」
大尉は答えた。
「いつ来ますかね。」
「作業は明日の夜明けまではかかるだろう。その後だな。とりあえず作業の音が止むまでは交互に休息をとれ。それと…、今夜は残っている酒を飲んでいい。酔いすぎるなよ。」
と大尉は言った。
兵たちは大尉の「酒を飲んでいい。」で全てを察した。最後の作戦の開始だ、と。
その夜、洞窟ではささやかな宴会が開かれた。偵察兵も交代しながら飲んだ。皆、死ぬ覚悟は出来ていた。多くの戦友が逝ったあの世へ行くだけだ。死ぬこと自体は怖くなかった。
だが、この世に心残りの無い者は居なかった。その想いを振り切り、断ち切るように、彼らは大声で歌い笑った。
大尉はそんな部下たちを心から頼もしく思った。そして、そんな彼らを死地へ追いやらねばならない自分の任務が辛かった。
宴が終わりかけた頃、その想いがつい口をついて出てしまった。酒のせいだろうか。
「皆、今日まで私のような男について来てくれて本当にありがとう。」
兵たちは少し驚いた顔をした。この闘将がそんなことを口にするとは意外だったからである。だが兵たちも大尉の気持ちを理解し、そして信頼していた。大尉の想いを察し、すぐに茶化した。
「何をおっしゃるんですか鬼大尉殿。らしくもないですよ。」
皆笑った。
「そうそう。自分たちは大尉殿の下で働けたことをありがたく思っているんです。士官学校出の世間知らずのヒヨッコ士官に指揮されるなんて真っ平御免です。」
大尉は士官学校出身ではなかった。一般大学を卒業し一度就職した後に志願兵となり、その後幹部候補生となって士官に昇進した男だった。
それだけに兵も大尉を身近に感じ、また大尉も下士官や兵の気持ちのわかる指揮官だった。それらがこの部隊の結束力を高める一因でもあった。
「…。」
大尉は何も言えなかった。ただこの生き地獄で、こんな素晴らしい仲間に恵まれたことを感謝していた。
ようやく大尉は口を開いた。
「確かに士官学校出身、特に成績優秀者には使えん奴が多いな。」
大尉は珍しく冗談を言った。皆また大笑いした。まったくだ、特に高級参謀らエリート連中はどうしようもねぇ、などと言って笑った。
場が和んだところで大尉はもう一言言った。
「おそらく明日が決戦だが、『水杯』は許さんぞ。絶対に死に急ぐな。意地でも生き延びて一人でも多く敵を倒せ。わかったな。」
「はい!」
兵たちは元気よく応えた。
一人でも多く生き残って欲しいと願った言葉だった。
夜明け前、ブラウン中隊長は進撃を命令した。三両の戦車が、密林を切り開いた間を抜け河を渡った。そして横一列に並んだ。
兵は三つの隊に分けられた。左翼に第二小隊の二個分隊、右翼に第三小隊の二個分隊、中央に中隊長と第一小隊の残存一個分隊、第二、第三小隊から一個分隊ずつ割り振って合計三個分隊となり、それぞれ各戦車の後ろを進撃することとなった。
進撃を開始した。中隊長は、
「塹壕に気をつけろ。草のために見えにくいぞ。」
と兵たちに注意していた。
進撃しつつまず戦車砲が火を吹いた。正面の崖下に展開していると思われる敵の殲滅が目的である。崖下は次々に爆発と爆煙に包まれた。左翼の戦車は、例の「第八百特務連隊本部」の看板とその洞窟に砲弾を打ち込んだ。看板は木端微塵に吹き飛んだ。
同時刻。洞窟では大尉が偵察兵の報告を受けていた。
「敵戦車三両及び歩兵が渡河して来ます。戦車はM3の戦車砲型、歩兵は約一個中隊、三隊に分かれ戦車の後をついてきます。」
大尉は命じた。
「よし、偵察任務は終わりだ。すぐに予定の洞窟に退避せよ。」
その洞窟は、大尉から見て右手近く、崖の一番下にある洞窟だった。奥で曲がっており隠れるには絶好の洞窟だった。偵察兵が本部洞窟近くまで走り、予定の洞窟に駆け込むとすでに待機していた仲間が攻撃準備を整えていた。
偵察兵は彼らに敵の情報を伝えた。全て作戦通りだった。敵情報を聞いた一人の兵が軽口を叩いた。
「なんだM3かよ。塹壕の連中には潰し甲斐がねえんじゃないか。」
皆にやりと笑った。
大尉は、本部洞窟の正面に二本の塹壕を掘っていた。そこに潜む兵にも情報と命令が送られた。
「敵はM3戦車砲型三両。予定通りの方法にて攻撃せよ。」
ブラウン中隊は反撃も受けず草原を進撃し続けた。やがて大きく右に曲がる地点に差し掛かった。
「ここからだ。どこから撃ってくるか分からんぞ。それと塹壕にくれぐれも気をつけろ。」
中隊は隊形を維持したまま、右へ旋回し停止した。正面の崖に多くの洞窟があった。そのうちのどれかが敵の『連隊本部』のはずだ。
「左右及び正面の崖下を砲撃。歩兵は周囲の遮蔽物及び各洞窟を警戒。」
中隊長は命じた。
ひとしきり砲撃が終わった。敵に動きはない。塹壕も見えなかった。
「前進。」
中隊長は命じた。
日本軍本部洞窟から離れた方の塹壕に潜む日本兵は、敵が前進を再開したことを確認した。幅五十センチあるかないかの非常に細い塹壕である。この幅では、すぐそばまで近づかなければ草に隠れて塹壕は見えない。
壕の兵を指揮する上等兵が指示を出した。
「よし。敵は三両だ。展開しろ。」
塹壕内で、合わせて九名の日本兵が各戦車の正面へそれぞれ移動した。その他の兵は等間隔に展開し小銃や手榴弾を用意した。
戦車兵は運転兵も上部ハッチから覗いている車長も塹壕に気づかなかった。後ろに付く歩兵たちも。正面の崖はかなり近づいていた。
中隊長は、「どこまで引き付けるつもりだ?」と考えていた。
三両の戦車は気づかないまま塹壕を越えた。狭い塹壕のためキャタピラでは越えたことにすら気づかなかった。
戦車の後ろについていた何人かの兵が叫んだ。
「塹壕!」
その時には各戦車のキャタピラと車体底部に爆弾が貼り付けられていた。土嚢袋に火薬と鉄屑などを入れ、粘度の高い油で粘着力をつけた爆弾だった。塹壕を乗り越えた時に下から貼り付けられたのだ。
中隊長以下は塹壕と聞き伏せた。戦車は気づかずに進んでいる。回転するキャタピラに、何か黒い塊が付いているのと、そこから伸びた紐がチリチリと燃えているのが、中隊長の眼に見えた。
次の瞬間、九つの爆発音が立て続けに響いた。そして三両の戦車の、六本のキャタピラが全て切れた。戦車は三両とも停止した。車体底部の爆弾は鋼鈑を破り、戦車内の砲手や運転兵を死傷させた。
中隊長が「あ!」と思った時、細い塹壕から日本兵が飛び出し、停止した戦車の後部上面に大きな水風船のようなものを叩き付けた。それは割れて、中の液体が戦車のエンジンの排熱溝から中に流れ込んでいった。そして日本兵は手榴弾を置き、戦車から離れた。が、すぐに中隊の小銃射撃に撃ち倒された。
「伏せろ!」
各隊長が叫んだ。
その後手榴弾は爆発した。そして戦車のエンジンルームから火が上がった。
「お得意の『ガソリン風船』か!」
中隊長はすぐ新しい命令を出した。
「前方の塹壕を制圧!前進!」
兵は塹壕へ飛び込んだ。狭く浅い塹壕である、後続の兵は塹壕を飛び越えて前進した。塹壕内には十数名の日本兵が残っており白兵戦となった。銃剣やナイフがきらめき壮絶な闘いになった。後続の兵が全て塹壕を飛び越え、振り向きざまに小銃で日本兵を撃ち、ようやく制圧できた。だが制圧した兵たちは足下が不安定なことに気づいた。
「?」
足下には枯れ木や草などが深く敷き詰めてあった。そしてその下にはまた『ガソリン風船』があった。
気付いた兵が叫んだ。
「ガソリンだ!塹壕から出ろ!」
その時、倒れた日本兵が手榴弾を爆発させた。塹壕は火の川になった。塹壕からの脱出の遅れた少数の兵が炎に包まれた。炎は深く敷き詰めてあった枯れ木や草に燃え移り、いつまでも燃え続ける火の川となった。
中隊長以下は振り返った。戦車兵も燃える後部エンジン部分を見て脱出を試みた。前方への注意が逸れた瞬間、前から日本兵が各戦車に突っ込んできた。その兵は戦車の正面から傾斜の大きいM3の前面を蹴って飛び上がり、上部ハッチから手榴弾を投げ込んだ。さらに燃料に引火し、戦車内の砲弾が誘爆した。戦車の装甲は内側からの爆圧で吹き飛ばされた。
上部ハッチで倒れていた一人の車長は空中高く吹き飛ばされた。そして四肢や内臓が四散し、血の雨と共に戦友の頭上に落ちてきた。
三両の戦車は上部ハッチや運転用の覗き窓など、あらゆるところから炎と煙を噴き出す大きな鉄屑と化した。一方で突撃してきた日本兵は全て倒され、細い塹壕の日本兵も全滅した。
洞窟内で大尉は無表情に命令した。
「側面隊から攻撃開始。合図送れ。」
先に偵察兵が駆け込んだ本部洞窟から見て右手の洞窟から十数名の兵が飛び出し、崩れた崖を遮蔽物にして小銃を連射し、手榴弾を投げ始めた。
ブラウン中隊の兵は崩れて燃える戦車の後ろに付いていたところだった。各隊長はともかく兵は動揺していた。そこへ左から射撃を受けた。
中隊の兵は左からの射撃を避けるため、戦車の右へ移動して、擱坐して燃える戦車を遮蔽物とした。その時正面に別の塹壕が見えた。十メートルと離れていない。
今度の塹壕は大きいようだった。日本兵の鉄兜が見える。伏せて射撃を開始した。
だが日本兵の応射は銃弾ではなかった。また『ガソリン風船』であり、しかも大量だった。中隊の兵の戦闘服には大量のガソリンが染み込んだ。
崖の洞窟の中で一人の兵が言った。
「大尉殿。まだですか?」
「まだだ。それより落ち着け。深呼吸しろ。」
「はっ。」
ブラウン中隊長は命令した。
「左翼隊は左の敵を制圧!中央隊、右翼隊は正面の塹壕を制圧する!」
正面の塹壕にも何か仕掛けて有る、と不安ではあったが他に手は無かった。
左翼隊は燃える戦車の陰から崖下に攻撃を集中した。大量の手榴弾と自動小銃の連射に日本軍の側面隊は壊滅した。
中隊長は直卒の中央隊と右翼隊に突撃を命じた。ガソリンを大量に浴びた体で、のんびり匍匐前進で接近するわけには行かない。敵の一発の手榴弾、いや火炎瓶で相当の被害を受けることになる。側面の制圧を終えた左翼隊にも命じた。
「散開して突撃!走れ!」
中隊は塹壕に殺到した。
洞窟陣地では大尉が静かに言った。
「扉を閉めろ。撃ち方始め。」
洞窟入口が鉄の扉で閉ざされた。ブラウン中隊長はそれを見た。
「あの洞窟か!」。
だが扉の隅には銃眼が開いていた。そこから重機関銃が火を吹いた。
中隊の兵は立ち上がって突撃に移ったところである。次々に撃ち倒された。前の塹壕からも小銃を撃ちかけてくる。手榴弾も火炎瓶ももちろん投げ込まれた。
中隊の兵は重機と小銃の銃弾と炎に包まれ次々と斃れて行った。
中隊長は、予想外の重機の存在と炎による損害を見て、
「一時退却…。」と言いかけたが無理だと判断した。
後ろではまだあの細い塹壕が火の川のままなのである。ガソリンの染み込んだ戦闘服で飛び越えれば間違いなく引火する。中隊長は唇を噛んだ。敵と炎に包囲されたのだ、損害覚悟で正面の塹壕を制圧し突破するしかない。
中隊は突っ込んだ。重機とはいえ一挺、塹壕から撃ってくる小銃も十挺程度だった。かなりの兵が塹壕にたどり着き飛び込んだ。
だがその塹壕は異常に深かった。三メートル以上あった。日本兵はその中ほどに足場を作って、そこから攻撃していた。
そして日本軍側、つまり重機側は斜面になっていた。それは、この塹壕が重機に対する遮蔽物にならないことを意味していた。
塹壕に『落ちた』兵は重機と頭上の足場にいる日本兵の小銃に倒された。もちろん日本兵も倒れて塹壕の底に落ちてきた。だがその都度、日本兵が最期にピンを抜いた手榴弾や火炎瓶が爆発した。塹壕内は火炎地獄となった。
落ちた兵たちは、「来るな!トラップだ!」と叫びながら炎に包まれ斃れていった。
ブラウン中隊長は塹壕に飛び込む直前だった。左の太腿に銃弾を受け前のめりに倒れた。塹壕内の地獄の様子が見えた。
「敗けた…。」と思った。
中隊の突撃が始まり、そして敵の重機の射撃が始まった時、最右翼に居たのはキング伍長率いる第三小隊の第三分隊だった。命令どおり塹壕へ突撃を始め、重機の射撃を受けた時、伍長は重機の存在に驚くと同時に、
「まずい!」
と直感し、周りを見回した。伍長の視野の隅に大きな岩が映った。右側崖下である。
伍長は思い出した。斥候に出たときこの岩を見たことを。そして攻撃時には遮蔽物になると思ったことを。さらに正面の塹壕は危険すぎると思った。何か仕掛けてあるはずだ。
伍長は分隊の部下に命じた。岩を指差し、
「あそこだ!あの岩陰へ走れ!あそこから塹壕の敵を撃つ!」
「急げ!走れ!」
伍長は部下の背中を引っ張り岩の方向へ押し出した。そして最後に自分が走った。だが、伍長の目の前を走る分隊の部下は次々に撃ち倒された。
「次は自分の番だ。」と観念した時、一瞬重機の射撃が止んだ。保弾板交換か銃身の冷却か交換かに手間取ったようだった。伍長は岩陰に転がり込んだ。
「無事な者は?」
伍長は起き上がりながら叫んだ。返事は無かった。
伍長は振り返った。すると一人の部下がすぐ近くで倒れている。岩へ近づこうとしているようだった。
伍長は飛び出し、その兵を岩陰に引きずり込んだ。胸を撃たれており、伍長にも助かる見込みは無いと思われた。彼は伍長の部下でジミーという愛称の狙撃兵だった。
「分隊長…。」
「しゃべるな!」
狙撃兵は自分の狙撃銃を伍長に差し出して苦しそうに言った。
「お、お願いします…。私は…、い、いつもこの銃で敵の指揮官を射抜くことが…、自分の任務と思って、た、戦って、来たんです…。」
「…。」
「お、お願いします。分隊長なら…。」
伍長は狙撃兵の手を狙撃銃ごと握り締めた。
「ジミー、判った。任せろ。」
「ありがとうございます…。お、お願いします…。」
狙撃兵は息絶えた。
その頃、塹壕の辺りでは中隊が最期の時を迎えようとしていた。もう動いている中隊の兵はいない。塹壕内の日本兵もほとんど全滅したようだった。あの重機は、射撃は止めていたものの左右に銃身を動かしていた。
「本部洞窟は、陥とせずか…。」
伍長は思った。
その時、塹壕の手前で一人の米兵がゆっくりと立ち上がった。ブラウン中隊長だった。左足を撃ちぬかれ、斃れた部下の小銃を杖にして立った。右手には自分の小銃を持っていたが、構えずに降ろしていた。
「ちっ!」
洞窟では重機の機銃手が銃口を中隊長に向けた。
「待て、撃つな。」
大尉が止めた。
「銃を下げたままだ。それに彼は中隊長だ。何か言いたいんじゃないか。」
大尉はブラウン中尉のヘルメットのペイントを見て言った。
ブラウン中隊長は周りを見回した。部下は全員倒れていた。右を見た時、一人の下士官が軽く手を挙げた。岩陰に隠れたキング伍長だった。中隊長は気付かぬ振りをして正面を向いた。そして叫んだ。
「私はこの中隊の部隊長である合衆国陸軍中尉ブラウンである!日本軍指揮官に申し上げる!ご覧の通り我が中隊は壊滅した。貴官の見事な指揮、並びに部下将兵の勇敢な戦い振りに敬意を表する!
しかし我が中隊はまだ生きている。貴官から見えない所に狙撃銃と小銃を持った下士官と兵がまだ十数名潜んでいる!彼らは、貴官以下が洞窟を出ようとすればすぐ、眉間を撃ち抜くであろう!もう貴官たちが洞窟を出て街道を攻撃することは不可能である!また早々に戦車が到着する予定である!塹壕内の貴官の部下たちは全て戦死した!よって戦車の撃退も不可能である!洞窟内に戦車砲を撃ち込まれる前に投降することを勧告する!」
見事なハッタリであった。残ったのはキング伍長一人だけであるし、戦車が来る予定など無かった。だが、新たに一台でも戦車が来れば中隊長の言う通りである。
一息ついて中隊長は続けた。
「別件であるが、貴官にお願いがある!倒れている兵たちにはまだ生きている者がいる!私はこれから中隊長の職責を下士官の先任に委譲する!新中隊長と休戦し、負傷者と戦死者を収容させて欲しい!収容には河の向こうに展開している補給部隊と工兵隊があたる!何とかお願いしたい!」
洞窟内では大尉が静かに言った。
「拡声器を持って来い。」
そしてブラウン中隊長に向かって言った。
「私は帝国陸軍大尉、秋山である。投降勧告は拒否する。だが、休戦と貴官の部下収容については要請を受け容れる。」
「感謝する!」
ブラウン中隊長は言った。そして正面を向いたまま続けた。
「キング伍長!返事をせずに聞け!只今をもって中隊長の職責を貴官に委譲する!引き継ぎ事項として中隊の任務を改めて伝える!我が中隊の任務は街道の安全確保である!その方法は貴官に一任する!以上だ!」
キング伍長は反射的に返事をしかけてあわてて口を閉じた。
彼には中隊長の意図が良くわかった。わざわざ中隊長職を委譲し、任務は街道の安全確保であると伝え、やり方を任せる、と言ったのは、彼に行動の自由を与えたということだった。つまり退いてもいいぞ、ということである。
ブラウン中隊長、いや中尉はもう一度周囲を見回すと、大きく息を吸い込みそれまで以上の大音声で言った。
「秋山大尉!覚悟せよ!」
と言うやいなや、杖にしていた小銃を横に払い、右手の小銃を洞窟の鉄塀に向けて構えた。自動小銃の連射音が響いた。
中尉の弾丸が鉄塀に跳ね返される音が洞窟内に響いた。
機銃手が言った。
「撃ちます!」
大尉は静かに答えた。
「撃て。だが彼の胸、心臓を良く狙え。これ以上彼を苦しませるな。」
九二式重機関銃が火を噴いた。この重機は小銃と同じ口径だが、照準器が付いていて命中精度が高い。
機銃手は、大尉の言った「これ以上苦しませるな」の意味は判りかねたが、命令どおりの照準で撃った。弾丸はブラウン中尉の胸を射抜き、中尉は後ろへ倒れた。
大尉は眼を閉じた。
中隊長
河の街道側では補給大隊の少尉がずっと耳を澄ませていた。ブラウン中尉の最期の言葉も聞こえた。信じられなかった。あの精鋭ブラウン中隊が三両の戦車を伴っていて全滅するとは…。
その時、秋山大尉の声が聞こえた。
「キング中隊長。前中隊長の依頼通り休戦を申し入れる。了解なら何か布を振って頂きたい。なお貴官の位置は判っている。我々から見て左側の崖下にある岩陰だ。居場所を隠す必要は無い。」
キング伍長はまだ頭が混乱していたが、とにかく休戦はブラウン中尉の命令である。それに居場所がすでに知られているなら、合図しても問題なかった。携行袋からタオルを取り出して振った。
また秋山大尉の声が聞こえた。
「了解した。」
補給少尉は休戦が成立したと受け取り部下に命じた。
「全員で負傷者と戦死者の収容に行く。工兵隊にも依頼しろ。担架になるものを掻き集めろ!」
補給少尉の部下は散った。
また秋山大尉の声が聞こえた。今度はかなり大きな声だった。
「河の対岸に居る米軍将兵に告ぐ。まず、聞こえていたら小銃を一発撃って合図して欲しい。」
補給少尉はすぐ一発撃った。射撃音は崖に反響しながら洞窟へ届いた。
「了解した。まず貴官たちに報告する。ブラウン中隊は壊滅した。今はキング伍長が中隊長職を委譲されている。我々とキング中隊長との間で、負傷者及び戦死者収容の為、休戦することに合意した。貴官たちに収容作業をお願いしたいとのブラウン前中隊長の依頼である。ただし収容作業を行う者の武器の携行は許可しない。了解ならまた合図をお願いする。」
補給少尉はまた一発撃った。
「了解した。休戦中は我が陣地に赤十字旗を掲げる。安心して出て来られたい。なお、可能ならばお願いしたいことがある。我が軍の将兵の収容もお願いしたい。すべて戦死者であるので最後で構わない。」
補給少尉は少し考えてから一発撃った。
「心より感謝する。では只今より休戦に入る。」
洞窟の入り口に赤十字の旗が掲げられた。
キング伍長はようやく落ち着いてきた。とにかく休戦だ。彼の頭が動き始めた。
補給部隊と工兵隊がやって来て収容作業を始めた。補給少尉は伍長のもとへ走ってきた。
「中隊長、補給大隊少尉のスミスであります。とにかく水を飲んで下さい。」
水筒を差し出した。伍長は水を飲み、さらに落ち着きを取り戻して来た。
「スミス少尉、中隊長だなんて…。」
伍長は言った。
「いえ、ブラウン中尉が直々に職責を委譲したのです。私はそれに従います。」
少尉は言った。伍長は、はっとした。
「ブラウン中隊長は?」
ブラウン中尉の遺体はまだ塹壕の側に倒れていた。伍長は岩陰から飛び出て駆け寄った。そして膝から屑折れた。
「中隊長…。」
後は言葉にならなかった。両手を地面に着き、ただ涙があふれた。スミス少尉は追いかけてきて後ろに立っていたが、伍長に掛ける言葉が見つからなかった。
その時、すぐ側で足音が聞こえた。伍長と少尉は振り向いた。そして驚いた。日本軍の士官が近づいていた。階級章には黄線一本に星が三つ。大尉だ。
「こいつが秋山大尉か。」
伍長は大尉を見上げた。眼には憤怒の色がありありと映っていた。大尉は伍長には眼もくれず、スミス少尉の階級章を見て言った。
「私が秋山だ。貴官が収容作業の責任者かね。」
英語だった。
「はい。スミス少尉であります。」
少尉は答えた。
「よろしくお願いする。」
と少尉に敬礼した。少尉も答礼せざるを得なかった。
大尉は遺体を見下ろし、言った。
「彼がブラウン中尉だね。」
「そうです。」
少尉が答えた。
大尉は中尉の横にまわり、おもむろにしゃがむと手を伸ばし、開いたままだった瞼にそっと手を当て、中尉の瞳を閉じた。そして両手を胸の上で組ませ、脚をまっすぐに揃えた。そして遺体の足元に立つと、突然威儀を正し敬礼をした。大尉も眼を閉じていた。長い長い敬礼だった。スミス少尉には、秋山大尉が何かを堪えているように見えた。
その後、大尉はブラウン中尉のヘルメットを外した。中隊長マークがペイントされているヘルメットである。そのヘルメットをおもむろにキング伍長の前に置くと、スミス少尉に「お邪魔した。」と言って洞窟へ帰って行った。
伍長と少尉は不思議なものを見たように秋山大尉の背中を見送った。
秋山大尉は洞窟に戻ると、生き残り憔悴しきった兵たちに言った。いつもどおりの冷静な大尉の声だった。
「皆、よくやった。」
そして続けた。
「水を飲め。食欲のある者は糧食を食べろ。休戦はしばらく続く。その間全員横になって休め。寝てもいい。」
兵の一人が言った。
「ですが、敵の監視を…。」
「心配するな、私がやる。」
大尉は言って、洞窟の入り口に立った。通気の為、鉄塀は開いていた。
「大尉殿!。休戦中とはいえ危険です。」
「大丈夫だ。敵だって私を撃てば重機に撃ち返される事ぐらい判ってるよ。」
収容作業が続く中、キング伍長とスミス少尉は岩陰に戻った。
「退却しないのですか?」
少尉が伍長に言った。
「はい。少尉のおっしゃった通り、私は今中隊長です。中隊の任務を果たします。」
伍長は答えた。そして続けた。
「街道の安全確保の為には奴らを全滅させるしかありません。我が中隊はここで敵をあの洞窟内に釘付けにします。この位置なら私一人でも十分です。それよりもスミス少尉、なんとか戦車か自走砲を一台調達して下さい。ブラウン中尉の言った通りの作戦をとります。」
つまり伍長が秋山大尉以下の日本兵を洞窟内に封じ込め、そこに砲を打ち込む、ということである。
「…。」
少尉は少し考えていた。そして言った。
「どうしても退かないのですか?」
「退きません。言わば、斃れた中隊の仲間が私をここまで運んでくれたのです。私はここで任務を果たします。それに、私の任務には彼から引き継いだものも含まれています。」
と、伍長はまだ収容されていない狙撃兵の遺体を見た。そして彼の狙撃銃を少尉に見せて言った。
「こいつで秋山大尉の眉間を撃ち抜くことです。」
伍長は怒りもあらわに言った。少尉は食い下がった。
「冷静になってください、中隊長。たった一人で何日封じ込め作戦を維持できますか? 一旦退いて体勢を立て直すべきです。」
「確かに少尉のおっしゃる通りかもしれません。でも敵を洞窟に封じ込め、私が狙撃銃と自動小銃を持ってここにいる。これは千載一遇のチャンスでもあります。」
「…。」
少尉はそれ以上説得する言葉が見つからなかった.
「判りました。」
少尉は言った。
そして肩から掛けていた水筒を差し出した。三本あった。そして戦闘服のポケットというポケットから食料を取り出した。
「万が一、中隊長が退かないと言った時に備えて持って来ました。食料はカロリーの高いものをと思い、チョコレートバーなどお菓子類が多くて申し訳ありません。とはいえ糧食袋をぶら下げて来るわけにもいきませんでしたので…。」
伍長は驚いた。少尉は冗談混じりに続けた。
「さっき秋山大尉が来た時は驚きました。水筒三本に膨らんだポケット。彼に気づかれないか、正直ひやひやしてました。」
「ありがとうございます、少尉。」
「中隊長、私からの依頼も任務に加えて頂けますか?」
「何です?」
「必ず生きて帰って来て下さい。」
伍長は笑顔で答えた。
「了解しました。スミス少尉。」
「では収容作業が終わり次第、大至急戦車を調達しに行ってきます。」
「よろしくお願いします。」
伍長と少尉は敬礼をし、少尉は収容作業をしている部下の指揮に戻っていった。
「さて…。」
伍長は何をすべきが考えた。ブラウン中尉ならどうするだろうか?
伍長は岩陰からそっと出て、収容作業を続ける戦友に紛れて煙を上げる戦車の近くへ行った。
吹き飛ばされた装甲板が何枚か転がっていた。伍長は二枚拾って岩陰に戻ろうとした。その時何かにつまずいた。それは吹き飛ばされた戦車の砲弾だった。伍長はつまずいた拍子に砲弾を拾い、装甲板に隠して岩陰に戻った。
明らかに戦闘準備に当たる行為だったが、気付かれなかったのか洞窟から射撃は受けなかった。伍長は自分の大胆さに自分で驚いていた。
「撃たれれば走るだけだ。当たりゃしねえ。」
と何故か信じ込んでいた。
岩陰に戻った伍長は洞窟を見上げた。驚くべきことに秋山大尉が入口に仁王立ちになって、収容作業を見つめている。伍長は反射的に狙撃銃を手に取った。岩陰から大尉に銃口を向け、スコープを覗いた。スコープの十字に大尉が重なった。
引き金に人差し指を掛けた。息遣いが荒くなった。彼の人差し指は震えていた。だが、引き金を引くことはできなかった。スミス少尉と話をしている間に彼本来の冷静さを取り戻してしまっていたのである。
「今なら奴を倒せる。だが、そのかわりに収容作業をしている兵たちが、あの重機に撃たれることになる…。それに…ブラウン中尉と秋山大尉は互いに策を弄したが、汚い闘い方はしなかった。俺は中尉から中隊長職を委譲されたのだ。ここで撃てば、栄光あるブラウン中隊の名を汚すことになる…。」
キング伍長は銃を降ろした。そして岩に背中を着けて座り込んだ。撃てない悔しさが苦しみとなった。そして、
「わざわざ身をさらしやがって!」
と秋山大尉に対する憎しみがどんどん大きくなっていった。
「必ず眉間を撃ち抜いてやる!」
声が出た。声にしないと気持ちを抑え切れなかった。
封じ込め
収容作業はほぼ終わりかけていた。スミス少尉は伍長の所へやって来た。
「後の指揮は部下の下士官に任せます。私は戦車を調達に行ってきます。」
「了解しました。よろしくお願いします。ところで…。」
伍長は口ごもった。少尉は察して言った。
「約三十%以上は負傷です。助かるでしょう。」
「そうですか。ありがとうございます。」
「では行ってきます。」
少尉は敬礼し走っていった。
収容作業が終わった。少尉に指揮を任された下士官は洞窟に向かってメガホンで言った。
「日本軍指揮官に申し上げる。収容作業は完了した。貴官の部下も収容したが全て戦死者であった。遺品等は我が軍にて保管する。なお休戦終了についてはキング中隊長と協議されたし。以上である。」
秋山大尉は答えた。
「我が軍の兵に対する貴官らの配慮に感謝する。休戦終了については以下の通りとしたい。貴官たちの姿が崖で見えなくなった時に赤十字旗を下げる。それを持って休戦終了としたい。キング中隊長、それでよろしいか?」
キング伍長ははタオルを振った。
「了解した。」
大尉が言った。
そして鉄塀が閉じられ、やがて赤十字旗が洞窟内に取り込まれた。
凄惨な戦場に静寂が戻った。キング伍長は今後の展開を考えていた。戦車はいつ来るのか? あの重機を相手に敵を洞窟内に封じ込められるか?そもそも敵は何人残っているのか? わからないことばかりだった。はっきりしているのは自分の任務だけだった。
伍長は足元の装甲板に気づいた。もうろうとした意識の中で拾ってきた戦車の残骸だ。重機相手にはとにかく遮蔽物が要る、と本能的に拾ってきた物だった。それを見て伍長は行動を起こした。まずはこの岩陰を『陣地』にすることである。
その時伍長の頭にひらめいたことがあった。あくまでも闘うと敵にアピールするために。
伍長は足元に転がっている石灰岩の石を使って、装甲板に字を書いた。そしてそれを岩の上に立て、もう一枚は岩の左に立て掛けて遮蔽物とし、装甲板と岩との隙間を銃眼にしようと考えた。こうすれば、射撃時に頭や体を敵にさらさなくてすむ。
その時、秋山大尉の声が聞こえた。
「キング中隊長に告ぐ。貴中隊が貴官一人であることは判っている。一人でそこを維持することは不可能である。よって退却を勧告する。十分間の猶予を与える。以上。」
だがその頃には、キング伍長は、ブラウン中尉や秋山大尉と同じぐらい大胆な闘将になっていた。
「俺は栄光ある勇猛ブラウン中隊を引き継いだ男だ。」
との自負である。
勧告を受けたキング伍長は、
「いいタイミングじゃねえか。」
と言いながら装甲板を岩に立てた。その装甲板には英語で大書されていた文字があった。
文字の内容は
「嘘八百草原野戦指揮所」
だった。
そして、装甲板と岩の隙間の銃眼から洞窟の鉄塀に向けて小銃を一発撃った。勧告拒否のつもりである。
秋山大尉の勧告が、キング伍長に居座られては面倒だ、ということの裏返しであることは伍長にも読めた。
「意地でも動くか」
という決意の銃弾だった。
「了解した。貴官の健闘を祈る。」
と秋山大尉の声が聞こえた。両者は戦争状態に戻った。
「大尉殿、奴はたった一人で闘うつもりなんですか?」
洞窟内で兵が大尉に聞いた。
「うむ。今の一発もそうだし、あの看板には『嘘八百草原野戦指揮所』と書いてある。一本取られたな。」
と大尉は苦笑いした。が、すぐに顔を引き締めて言った。
「彼はやる気だ。たった一人残って闘うなど米兵離れしている。どんな奴かわからん。皆、気を抜くなよ。」
「はい。ですが、あの前中隊長が最期に言った通り、戦車が来れば我々は坐して死を待つことになります。」
兵は心配そうに言った。
死は覚悟しているものの、洞窟の中で砲弾に吹き飛ばされるのは嫌だった。死ぬなら敵と刺し違えて死にたかったのである。
いわば自分の死に意味を持たせたい、それは、さらに言えば自分の人生に少しでも意味を持たせたい、との思いである。大尉はそんな兵の気持ちを十分に判っていた。
大尉は答えた。
「そうだな。だが、『早々に戦車が来る予定』というのはハッタリだ。そんな予定があるのならその到着を待って攻撃して来たはずだ。とは言え…」
大尉は続けた。
「戦車を一台でも新しく調達されれば、貴様やブラウン中尉の言う通りだ。」
そう言ってキング伍長の隠れている岩を見た。
「それまでに奴を倒し、塹壕に展開せばならん。」
キング伍長は狙撃銃からスコープを外し望遠鏡にして洞窟を窺っていた。何とか攻める方法はないか、と考えていた。スミス少尉が置いていってくれた水と食料ではいつまでもここを維持できない。
「ブラウン中尉ならどう考えるか…。」
と思いながら観察を続けていた。
その時、中尉の最期の姿が、あの鉄塀に向け射撃した姿が思い浮かんだ。と同時に洞窟の入口と鉄塀には隙間が多くあることに気づいた。特に上部が大きく開いている。覗き窓代わりでもあるのだろう。
「やってみるか。狙撃銃もある。」
その隙間に銃弾を撃ち込もうと思ったのである。上手くいけば洞窟内で跳弾となり敵に被害を与えることもできるかもしれない。それに何よりも洞窟から出てきて欲しいのである。出てくれば闘う方法もある。挑発のつもりでもあった。
キング伍長は狙撃銃を準備した。スコープを付け直し、銃口を銃眼に押し当てて固定した。そしてボルトを引き装弾した。
「ジミー、力を貸してくれ。」
伍長は、目の前で息絶えた狙撃兵のニックネームを口にした。
静かになっていた草原に狙撃銃の射撃音が響いた。
一発、二発、三発。銃弾はすべて洞窟内に吸い込まれていった。伍長は自分で驚いた。
「俺の射撃の腕も中々だな。」
洞窟内は一瞬恐慌状態になった。伍長の期待通り、弾丸は洞窟内を跳ね回ったのである。兵が一人負傷した。
大尉は兵が軽傷なのを確かめると、
「攻める気か。それにいい腕だ。悔しいが。」
そう言って重機を持つ兵に言った。
「敵の岩場をよく観察しろ。頭が見えなかった。銃眼になる隙間があるということだ。」
重機の照準器を覗いていた兵は言った。
「こちらから見て装甲板の左隅に隙間があります。あと右側にもありますがこちらは少し小さめです。」
大尉は頷いた。そして
「洞窟は奥の方が跳弾で危険だ。全員できるだけ鉄塀の近くに寄れ。重機は、敵の銃眼から銃が覗いたら射撃。」
と指示を出した。
キング伍長は地面に座り崖に持たれていた。ちょうど銃眼越しに洞窟が見えた。
「これなら洞窟を窺いながら休憩ができる。鉄塀の動きなら肉眼でも十分見える。ついているな。」
伍長は思った。そして、しばらく休憩しようと思った。
一方、補給大隊のスミス少尉は戦車調達に駆け回っていた。上官の大隊長に報告し、大隊長から北の陣地を攻めている師団司令部へ依頼を出してもらった。この大隊は師団直属だったからである。
回答は簡単だった。
「無理である。」たった一言だった。
少尉は怒りを抑えつつ、大隊長に依頼した。
「自分を師団司令部に派遣してください。参謀たちを説得します。たった一両、それも旧式でも自走砲でも、装甲車でもいいのです。キング伍長を救うためではありません。敵を殲滅し街道を守るためであります。それに、師団参謀長は自分が士官学校の時の教官でした。会えれば話を聞いてもらえると思います。」
「わかった。行ってこい。だが参謀長はともかく他の参謀の連中は自分の担当と目の前の敵陣地のことしか頭にないだろう。説得の為の『作戦』をしっかり考えて行け。」
「はっ。ありがとうございます。」
スミス少尉は大隊司令部を出てジープの助手席に飛び乗った。そして運転席の兵に行った。
「北の師団司令部へ行ってくれ。ぶっ飛ばせ。街道は安全だ。」
ジープは師団司令部に着いた。もう夕方近い。スミス少尉は意を決して司令部に入った。衛兵に用件を告げ、参謀たちの居る部屋に入った。部屋の中はピリピリとした異様な緊張感に満ちていた。
一人の参謀がやって来た。少佐だった。
「何の用だ。返信は大隊長に送信済みだぞ。」
はなから喧嘩腰だった。
少尉は勤めて冷静に、これまでの経緯、一人残っており一両の戦闘車両があればDポイントの敵は殲滅できることなどを詳しく伝え、何とか一両Dポイントに派遣して欲しい、と懇願した。
だが少佐は一言
「無理だ。」
と言うと、席を立とうとした。
「待って下さい少佐!」
思わず大きな声が出た。
「ブラウン中隊が全滅してようやく敵を洞窟に閉じ込めたのです。このまま放置してキング伍長が倒れれば、また街道を脅かされます。それに戦友を見殺しにするのですか?」
少佐も声が大きくなった。
「それくらい判っている。少尉ごときに教えられなくてもな!」
「いえ、判っていません。敵は単なる残兵の寄せ集めではなく、我々の後方撹乱を任務とした特別部隊です。指揮官も兵も優秀なのです。」
そしてスミス少尉は余計な一言を付け加えてしまった。
「そもそも一個中隊、事実上三個歩兵小隊で攻めること自体が無謀で無意味だったのです。」
少佐は激怒した。もともと気の短い性質なのだろう。
「だから連隊長が勝手に三両もM3を送ったんだろう!我々はあるはずの予備戦車が無いと聞き大混乱したんだ!」
話が逸れてきた。少尉はこの少佐と話をしても無駄だと思った。他の参謀は忙しそうに動き回っている。
少し落ち着きを取り戻した少佐が言った。
「とにかく無理なものは無理なんだ。帰りたまえ。」
少尉は途方にくれた。
その時少尉と少佐が座っている応接スペースのそばの扉が開き、参謀長の大佐が出てきた。二人は立ち上がり敬礼した。答礼した参謀長は言った。
「久しぶりだなスミス少尉。中へ入れ。少佐、後は私が話す。仕事に戻ってくれ。」
「はっ。」
少佐はほっとした表情で自分の机へ戻っていった。
「相変わらず元気そうだな。まあそこへ座れ。」
と参謀長は少尉に椅子を勧めた。少尉は椅子に座り参謀長を見つめた。
「話は聞こえていた。」
と参謀長は言った。
「何とかなりませんか。」
少尉は改めて懇願した。参謀長は苦渋の表情を浮かべて言った。
「結論から言うと無理だ。」
「そんな!」
少尉は気色ばんだ。参謀長はそんな少尉を手を上げて抑え、
「よく聞け。『送らない』と言っているのではない。『送れない、無理だ。』と言ったのだ。」
と答えた。
「どういうことです?」
「我が師団の属する軍司令部の方針が変更になった。この北陣地が予想以上に強固であり、攻略に時間が掛かることを、視察にきた軍参謀が認めた。それは良いのだが、問題はその対処だ。
軍司令部は、北陣地は包囲して時間を掛けて攻略する。そして次に予定されていた作戦を発動させるという方針になった。」
「ならばなおさら師団の戦闘車両をDポイントに動かしてもよさそうなものですが。」
少尉は問うたが参謀長は首を振った。
「いや逆だ。包囲に必要な戦力のみ残し、後は全て次の作戦地に引き抜かれた。今ここに残っているのは約一個連隊と戦車隊、砲兵隊などの最低限の戦力だ。我々師団司令部自体、次の作戦地への移動を命じられている。その後は残った連隊の連隊長が指揮を執る。」
参謀室が妙に緊張感と慌しさに満ちていたのはその為か、と少尉は合点した。
「では、Dポイントに回す車両そのものが無いということですか?」
「そうだ、今手持ちの車両は全て前線に出ている。新しく補給される車両も全て次の作戦地へ直行だ。貴官の補給大隊へは届かない。」
「…。」
少尉は口ごもった。
「一人、伍長が生き残って敵を封じ込めている、と言ったね。」
参謀長は言った。
「はい。岩陰に隠れ、こちらから食料も送れない場所に陣取っています。街道の安全確保ももちろんですが、彼を見捨てるわけにはいきません。」
少尉は参謀長の眼を見つめた。
「この戦場や次の戦場では毎日数十名の死傷者を出している。」
参謀長は無表情に言った。参謀長を良く知る少尉には、それは敢えて作った無表情だと判った。
「…。」
「その状況で、一人のために戦闘車両を割くのは無理だということだ。」
「…。」
少尉は何も言えなかった。それが戦理だった。
「伍長の属する連隊は既に次の作戦地へ移動した。私が連隊長と連絡を取り、伍長への退却命令を出してもらう。」
「はい。ですが…。」
「なんだね。」
「キング中隊長は退かないと思います。」
「中隊長?」
参謀長は驚いて言った。
「ブラウン中尉が、最期の時に伍長に中隊長職を委譲したのです。もちろんブラウン中尉の意図は、権限を与えることで伍長に退却の自由を与えることにあったのですが…。」
「だがキング伍長は、中隊長としてブラウン中尉の任務を遂行しようとしている、ということか。」
参謀長は眼を閉じた。
「はい。彼はそう言いました。さらに、中隊の皆が犠牲になって、自分をこの岩場まで運んでくれたのだと。そして戦車が来て洞窟に砲を撃ち込めばそれで終わる。それまでここで敵を封じ込める、と。そして私に戦車を調達するよう指示したのです。」
「指示した? 伍長が少尉にか?」
参謀長は驚いた。
「いえ、歩兵中隊長が補給少尉に依頼したのです。」
少尉はまじめに答えた。
「私は彼を伍長ではなく中隊長だと思っております。」
「…。」
「それに、ここでキング中隊長が退けば、壊滅したブラウン中隊の犠牲が無駄になります。」
参謀長は表情を一変させた。
「スミス少尉!話は逸れるが士官たるものが『情』だけで戦況を判断してどうする。それがさらに大きな犠牲を生むことにもなりかねない、と士官学校で教えただろう!」
「はっ、はい。」
少尉はうな垂れた。参謀長の言う通りだった。
「判っている。安易にブラウン中隊に攻勢に出るようにと師団長に進言した、さっきの兵站担当の少佐参謀には追って責任を取らせる。連隊長が独断で三両のM3を送ったことは不問にしている。」
参謀長は元の表情になって続けた。
「とにかく私は連隊長に依頼し、キング中隊長への退却命令を出してもらう。貴官のこれからの任務はキング中隊長の説得だ。」
「…。」
「スミス少尉、こらえろ。現場指揮官とはそういうものなんだ。」
参謀長はかつての教官になっていた。
「…はい。」少尉は答えた。
「声が小さい!」
「はい!」
連隊命令はすぐに届いた。それを持って少尉はジープに乗り込んだ。
「Dポイントまで行ってくれ。その後は帰隊せよ。」
「はい。」
兵はジープを発車させた。
岩陰ではキング伍長が新しい作戦を思いついていた。
「秋山大尉の前にあの機銃手をやってやる。」
もう夕方で薄暗い。小銃の発射炎は目立つだろう。それが狙いだった。そして銃眼から銃身を出せば反射的に重機を撃たれることも。
伍長は狙撃銃のボルトを引き装弾した。そして右手に持ち人差し指を引き金に掛けた。そして自動小銃を左手に持ち、同様に引き金に指を掛けた。伍長は大きく深呼吸し、そして動いた。
岩の左側面の銃眼から小銃を連射した。間髪入れず敵の重機が小銃を狙い火を吹いた。伍長は小銃の引き金を繰り返し引き続けながら、右に体を移動し狙撃銃を右の銃眼にあてがった。
もちろん小銃はあさっての方向を向いている。だが薄暮と発射炎のため銃口の向きが変わっていることに、洞窟の機銃手は気づかなかった。変わらず小銃の銃眼を狙い続けた。
小銃の連射が止んだ。機銃手も射撃を止めた。その時伍長は右の銃眼から狙撃銃を撃った。
「どうだ?」
スコープ越しに、うつ伏せになって頭を持ち上げ重機を構えていた兵を見続けた。その頭は一瞬のけぞり前に落ちた。両手は重機の握りを握ったままだった。伍長の銃弾は機銃手の眉間を撃ち抜いていた。
「よし!」
伍長は崖に寄りかかり作戦成功を一人喜んだ。
「ジミー、とりあえず貴様の仇はとったぞ。」
彼は狙撃銃に語りかけた。
洞窟内では何が起こったのか判らなかった。機銃手が発砲を始めた時は
「また奴が銃身を出したかな」
と思った次の瞬間、機銃手が倒れたのである。慌てて彼を引き下げたが眉間を撃ち抜かれ絶命していた。
「重機に狙われながら狙撃したとでも言うのか?」
洞窟内で伍長の作戦を見抜いた者はいなかった。大尉にも判らなかった。
大尉は歯噛みした。
大尉は考えていた。おそらくあの少尉が戦車の調達に動いているだろう。そして戦車一両くらい米軍なら明日中にも届けるだろう。
それまでにあの伍長を倒し、塹壕に展開しなければならない。そして伍長を攻撃するには夜しかなかった。昼間に身を晒して洞窟を出て草原を進むのは自殺行為だ。となると今夜しかない。だが今夜は奴も緊張して監視しているだろう…。
大尉は苦悩した。兵たちは大尉の新しい命令を待っていた。
「大尉殿。意見具申してもよろしいでしょうか。」
「うむ。なんだ。」
「今夜、あの伍長を倒しに出ましょう。明日になれば戦車が来ると思われます。」
「貴様の言う通りだ。私もそう思う。だが、今夜は奴もかなり警戒しているはずだ。夜襲とはいえかなり危険な作戦になる。」
大尉は言った。そして少し間を置いてから再び口を開いた。
「皆はどう思う。」
兵たちは驚いた。秋山大尉が作戦について兵に意見を求めるなどこれまでに無かったからだ。一般的にもまずありえないこととも言えた。兵たちは口々に答えた。
「やりましょう大尉殿。今夜しかありません。」
「危険など覚悟の上です。そんなことを心配していては死んだ戦友に申し訳が立ちません。」
大尉は弱気になってしまっていた自分に気づいた。体とそして心の疲労からだろうか。
大尉はいつもの鋭い眼に戻って言った。
「すまん。愚問だった。確かに今夜しかない。やるしかないな。」
自分に言い聞かせているようだった。
夜襲
日が暮れた。岩陰のキング伍長は考えていた。
「敵は今夜、夜襲をかけてくるはずだ。戦車が届けば奴らは終わりだからな。必ず今夜来る。」
星明かりしかない暗い中で、洞窟を見つめながらそう思っていた。そして、
「例の肉弾突撃はないだろう。こっちは一人だ。そっと近づき手榴弾一発でカタがつく。そうであればおそらく少人数で来る。勝ち目はある。」
彼は自分に言い聞かせた。自信を持て、と。
洞窟内では、大尉が悩んでいた。何人出すか、である。伍長が推察した通り、作戦は夜陰に紛れて進み、手榴弾攻撃で仕留めるつもりだった。奴が寝てしまっていたらありがたいが、そんな可能性はまず考えられない。残っている兵の人数の問題もある。
大尉は四人と決めた。内二人は手榴弾、二人は小銃である。
夜がふけ、作戦開始時間になった。大尉は静かに言った。
「作戦開始。」
鉄塀がゆっくりと音を立てないよう少し空いた。縄が四本ゆっくりと下ろされた。
キング伍長はすぐ洞窟の動きに気づいた。「来るか。」と。
キング伍長はそっと狙撃銃のボルトを引いた。自動小銃も手榴弾も手元に置いた。
「迎撃準備完了。」
とにやりとした。自分で茶化し緊張をほぐそうとした。
「さてどう出てくるかな。」
伍長はもう敵を恐れていなかった。多くの戦友が死んだ場所だ。彼らが守ってくれると信じていた。
洞窟から一人の兵の姿が見えロープを伝って降りてきた。伍長は撃たなかった。それが伍長の作戦だった。とにかく一人でも多く倒すためには洞窟から出てきてもらわなければ困るのである。攻撃にくる全員が降りるまで射撃は控えていた。
その時半分くらい降りて来ていた兵が、急に飛び上がって洞窟内に戻った。
「?」
伍長は目を疑った。人間があんな動きをできるはずがない。
「ダミーか。」
すぐ伍長は気づいた。自分の様子や出方を見るために人形のようなものをロープに結び降ろしてみた、そして引き上げたというわけだ。
「さすがは秋山大尉。慎重さも持っているか。」
伍長は妙な感心をした。
洞窟では人形に射撃が無かったことを受けて大尉が言った。
「よし降りろ。奴は出たところで撃つ気はないようだ。」
四人の兵が一斉に縄を伝い飛び降りた。
「四人か。舐められたもんだな。」
伍長はつぶやいた。伍長は自分でも理解できないほど自信に満ちていた。
「さて。」
伍長は降りてきた兵を観察した。二人は小銃を構え、もう二人は背中に銃を背負っていた。伍長はにやりとした。
「やはり手榴弾攻撃だ。小銃を背負った二人が攻撃要員だな。あとは護衛だ。」
そして洞窟を見た。重機の銃口はこちらを向いているようだった。
「夕方の作戦しかないな。」
二つの銃眼と二挺の銃を使い、発射炎で重機の照準を避けつつ攻撃する。
「まず狙撃銃で重機の照準を左の銃眼に引き付ける。そして右の銃眼から小銃の連射だ。」
彼の中で作戦と戦術が決定した。
敵兵は身をかがめて進んできた。重機の援護射撃が始まるか、匍匐前進であくまで静かに近づいて来るか。
「先手を打つべきだろうな。」
伍長は狙撃銃に装弾すると左手に持ち、小銃を右手に持って射撃姿勢をとった。
そして左の銃眼にあてがった狙撃銃の引き金を引いた。発射炎が光り、射撃音が草原に響いた。
「!」洞窟の機銃手は思ったよりも早い敵の発砲に驚きつつも射撃を開始した。照準は発射炎のあった銃眼である。
重機の射撃開始と同時に四人の日本兵は突撃して来た。伍長は日本兵を引き付け狙いを定め、一気に四連射した。四人が倒れたのを確認しつつ、すぐ左へ体をずらし、右の銃眼から離れた。そこへ重機の弾丸が集中した。
伍長はすばやく狙撃銃に装弾し、左の銃眼から機銃手を狙撃した。しかし今回の弾丸は鉄塀に当たり火花を散らしただけだった。
その左の銃眼に重機の照準が移動し、伍長は二つの銃眼の間に身を潜めた。
洞窟で秋山大尉は言った。
「撃ち方止め。」
重機は静かになった。洞窟内の兵たちは、夕方に機銃手が狙撃された理由がわかった。敵は二つの銃眼と二挺の銃を使い分けて重機の狙いをかわしていたのだ。九二式重機関銃の命中精度の良さがかえって仇になってしまったのだ。
大尉は唇を噛んだ。
「なんて奴だ。」
「ジミー、貴様は一挺しか面倒を見てくれないのか?」
作戦成功に気を良くした伍長は軽口を叩いた。そして洞窟の鉄塀が閉じるのが見えた。
「これで、明日戦車砲を撃ち込めば任務完了だ。」
伍長は少し気分が楽になった。
そしてまた崖に寄りかかり鉄塀を見つめていた。
戦死の意味
空が明るくなり始め草原がはっきり見えるようになってきた。
洞窟で大尉が言った。
「どうだ?」
「だめです。四人とも動きません。」
「そうか。」
大尉はつぶやいた。そして思った。おそらくもうすぐ戦車がやってくる。その時どうするか、である。
洞窟内で砲弾に吹き飛ばされるのは嫌だった。それは兵たちも同じだ。一気に飛び降りて突撃するしかないと大尉は覚悟を決めた。
そして部下に言った。
「残念ながらキング中隊長にしてやられた。おそらく今日中には戦車がやって来るだろう。車両の音が聞こえたら一斉に洞窟を出て、散開して一つ目の塹壕に走る。ガソリン風船と手榴弾で出来るだけの抵抗をする。最期はキング中隊長を道連れにする。」
少し置いて大尉は再び口を開いた。
「ゆっくり休んで心の整理をしろ。作戦開始までは無礼講だ。私に言いたいことがあれば何でも聞く。文句でも愚痴でもいい。」
兵たちは少し考えていた。
やがて一人の兵が言った。
「無礼講ということですので失礼を申します。大尉殿、いまさら何を言っているのですか。闘将秋山大尉はどこへ行ったのですか。そんな気概では戦車を破壊して、あの中隊長を道連れにすることなど不可能です。」
上官に対して思い切った意見だった。大尉は素直に頷いた。
「貴様の言う通りだ。すまん。」
本当に無礼講だ、と安心した他の兵が言った。
「覚悟は出来ています。ただ…。」
「どうした。」
「大尉殿に対してではありません。愚痴でしかありませんが…。一体この戦争をおっ始めたのは誰なんです? 自分はキング中隊長たち米兵よりもそいつが憎いです。そもそも中国で泥沼のような戦争をしている時に、なぜさらにアメリカやイギリスなどとも戦う必要があったのです?自分には判らないことだらけです。」
彼は一気に言った。皆が心の底で思っていることだろう。
ただ、
「国を、家族や大切な人を護る為。」
と自分に言い聞かせ、粛々と過酷な任務を遂行し、ある者は死に、ある者は生き残って来たのである。
大尉は無言で頷いた。
もちろん大尉にはこの戦争の原因がある程度は判っていた。
中立といいながら、自国の権益を守るために蒋介石の国民政府に軍事援助をし続けていた米英の行為。さらに言えば日本の問題、満州事変以前からの対ソ連政策の未熟から結果的に中国との全面戦争に至ったこと、またその原因が政党政治の腐敗によって国民の政治不信を招き、結果、軍部が政治の実権を握ったからであること…など、理由は数え上げればいくらでも考えられた。
だがそれは、それなりに年齢を重ね、国内と世界の情勢に対する知識と論理的思考力を身に付けた秋山大尉だから判ることであった。
それに、いまさらそんなことを若い兵たちに講釈したところで意味は無い。秋山大尉の役割は若い兵たちの気持ちを真正面から受け止めてやることだった。
兵たちは、口々に言った。
「自分にも判りません。」
「自分もです。何のために仲間は死んでいったんですか? 国民を護るために自分たちは闘いました。国を護るとはそういうことでしょう? その国民がみな徴兵されて戦地に散っていきました。国に残っているのは女子供と年寄りだけです。いえ、もちろんそれはそれでいいのです。ただ、そこまでしてでも、する必要のある戦いだったのですか? 自分は中国戦線からこの南方へ来て愕然としました。米軍の力にです。M4戦車、火炎放射器、自動小銃…、こっちは四十年前の日露戦争時の装備に毛が生えたような物しか持っていません。戦争の原因が何なのかなんて私には判りませんが、この武力の差を知っていて戦いを始めたのですか? 三八式小銃では機関銃に勝てない、ということが参謀本部には判ってなかったのですか?」
血のにじむような叫びだった。その言葉が皆の思いを代表しているようだった。自分が死ぬ事、戦友が死んだ事の意味が揺らいでいるのである。兵たちの視線は自然に大尉に向いていった。
「…。」
大尉はしばらく何も言えなかった。
同じ思いだった。だが士官で部隊長という立場上、私もそう思う、とは言えなかった。ようやく大尉は口を開いた。
「皆に話したことは無かったが、私はノモンハンの生き残りだ。当時は中尉になる直前で小隊長だった。あの夏が終わった時、この戦いはなんだったんだ、と思った。どうでもいいような場所の国境線の為に、本当に多くの仲間が死んだ。まるで戦うために戦っているような戦争だった。私が生き残ったのも奇跡と言っていい。」
兵たちは静かに聞いている。
「ソ連の戦車は大きかったよ。キャタピラの幅だけみても我が軍の九七式戦車の倍近くあっただろう。こんな相手に戦いを挑むなんて、参謀たちは、師団長は、何を考えているのかと思ったよ。」
「…。」
兵たちは静かに聞いていたが、大尉が何を言いたいのか判りかねていた。
「私は、日本という国、その国民の為になるなら喜んで死ぬ。だが、今の日本はノモンハンでの高級将校たちのような人々が動かしている。つまり日本にとって一番大切なことは何かを考えず、戦うことが本来の仕事である人たちだ。
自分や仲間がそんな連中の駒として死ぬのは…納得が行かない。皆の思いや苦しみの元もそういうことなんじゃないだろうか。」
「…。」
兵たちはそれぞれ考えながら聞いていた。
しばらくして、大尉は意を決したようにはっきり言った。
「日本は負けるだろう。」
兵たちは、上官にそう宣言され驚きと困惑で眼を見張った。大尉は続けた。
「いや、ここに至れば、日本の将来を思うと負けた方が良いのではないかと私は考える、と言うことだ。ただ、何もアメリカやイギリスなどに正義があるからと言っているのではない。むしろ今回のこの太平洋の戦争の根本的な原因は、欧米列強がアジアを侵略して来たところにある。
そして我が国も彼らと同様に大陸を侵略した。もともとは欧米列強から我が国を守るためだったはずだが、気が付けば軍が政治の実権を握り、侵略のための侵略を行うようになってしまった。そして中国戦線が泥沼になり、米英とも戦争しなければならなくなったのだ、と思っている。
だから…、日本は生まれ変わる必要があると思っている。明治維新以後をもう一度やり直すといっても良いかもしれない。
その為には…もう今となってはこの戦争に負けて、今の政治状態を敵に破壊してもらうしかない。もっとも、そのまま米英の植民地にされてしまう可能性もあるし、また陛下に累が及ばないか判らないが…。
それでも我が国ならばいつか必ず立派な独立を果たし、欧米の真似をせずとも生きていける国を創るだろうと思っている。」
兵たちは複雑な表情で考え込んでいた。
やがて一人の兵が訊いた。
「…では、なおさら自分たちは…、死んだ戦友たちは…無駄死にということになるのではありませんか?」
詰問に近かった。当然だった。大尉は静かに答えた。
「そうかもしれん。だが歴史を見ろ。明治維新の前、幕末の動乱で一体何人死んだ? 戊辰戦争で幕府側に付き、死んでいった藩兵たちを考えろ。彼らの死は無駄だったか? 西南戦争で死んだ士族は?」
「…。」
兵たちは考え込んでいた。
「人によっては無駄死にだ、と言うかもしれない。だが私はそう思わない。世の中が、国が大きく変わる時に必要となる尊い犠牲だと思う。賊軍も官軍も生き残った者は、またその戦いを経験した国民は、彼らの死を無駄にしない為にも立派な国を創ろう、と思ったはずだ。君たちの祖父母や曽祖父母の時代だ。新しい国創りの時代の話は聞いているだろう? 欧米列強の植民地にされることを避け、むしろ列強と伍していける国を創りたいと。
こうした社会の変革とそれに伴う犠牲は、明治維新や日本に限ったことではない。世界中の歴史で繰り返されて来たことだ。」
さっき詰問した兵が再び訊いた。
「では、自分たちや死んだ戦友たちは日本を変えるための犠牲だとおっしゃるのですか?それは…詭弁ではありませんか?」
思い切った問いだった。
大尉は小さく頷いた。そしてまた言った。
「確かに詭弁に過ぎないかもしれん。それに犠牲にしてはあまりにも多すぎる。だが、それだけ今の日本がおかしくなってしまった、ということだろう。」
「…。」
兵たちは沈黙していた。
「時代を変える為の尊い犠牲」
と言われても判るような判らないような複雑な気持ちだった。そんな理由で、死んだ戦友は浮かばれるのか? 自分は納得できるのか? 兵たちはそれぞれ考えていた。
長い沈黙の後、一人の兵がその問いを大尉にぶつけた。大尉は答えた。自分に言い聞かせるようでもあった。
「今ではなく未来を考えてはどうだろう。我々は今の日本を、国民を護ることはおそらく出来ないだろう。だが、未来の日本がより良い国になるのならば、我々は国民を幸福に導いたことになる。少なくとも私はそう考えている。」
「より良い国になるのでしょうか?」
兵は訊いた。大尉は少し苦笑いしながら答えた。
「それは判らない。だが歴史は、そうやって人間の社会が進歩してきたことを教えてくれている。未来の日本も良くなるはずだと信じるしかない。」
少し置いてまた大尉が言った。
「すまん、答えになってないな。」
と苦笑した。
しばらく洞窟内は沈黙していたが、やがて一人の兵がつぶやいた。
「未来…か。」
「…いいんじゃないか、それで。俺は信じることにする。」
別の兵が答えた。
「現在でも未来でも、同胞を護るということには変わりはないさ。」
兵たちは口々に話し始めた。大尉は黙って聞いていた。
「そうだな。未来の同胞の為、子供たちの為、と思った方が死に甲斐もあるような気がするな。」
「ああ、俺もそう思う。後は生き残った連中が、良い国を創ってくれるよう祈るだけだ。」
兵たちはそれぞれ、心を落ち着ける場所を見つけたようだった。
その様子を見て大尉は安心した。一人の上等兵が冗談を言った。
「生き残った連中がもし変な国にしやがったら、俺はどこかに化けて出てやろうかな。」
大尉は調子を合わせた。
「国会議事堂あたりなんかはどうだ?」
皆笑った。
「その時はお供しますよ。大尉殿。」
大尉の隣に座っていた兵が笑いながら答えた。別の兵も言った。
「自分もお供します。こいつ持って。」
と重機を軽く叩いた。皆爆笑した。
「一人で持てるのかよ。」
「じゃあ貴様も付き合え。」
洞窟内に笑いが響いた。
キング伍長は驚いた。洞窟から笑い声が聞こえたからである。
「もうすぐ死ぬかもって時に、何やってんだ?」
理解不能だった。
さらに耳を疑う声が聞こえた。歌である。軍歌ではなく素朴な歌だった。伍長の聞いたことの無い日本の歌のようだった。
洞窟の中では兵たちが歌っていた。よりよき未来の到来を祈りながら。
『赤とんぼ』や『ふるさと』といった童謡だった。出征以来これまでは避けてきた歌だった。歌えば故国を思い出し、帰れないかもしれないと哀しくなり、戦意が鈍るからだ。
だが今は違った。彼らは希望に満ちた未来の『ふるさと』を想像しながら歌っていたのである。兵たちはみな泣いていた。理由のよく判らない涙だった。大尉はそんな部下たちの姿を慈しむような眼で見つめていた。
キング伍長と秋山大尉
キング伍長は、洞窟内の不思議な連中の歌声を聞きながら、戦車の到着を待っていた。
歌が終わった。
「何か仕掛ける気か?」
と伍長が警戒した時、足元に白い物が転がってきた。後ろからだ。
それは、何か石のようなものを紙で包んだ物だった。伍長は包みを開いた。命令書だった。それと石かと思った物は小銃と狙撃銃の弾丸の入った箱だった。紙の命令書を投げるために重量物を包んだということだ。そしてどうせなら弾薬を包んでやれ、と考えたのだろう。おそらくスミス少尉の知恵だと思った。
伍長は命令書を読んだ。連隊長命令だった。
「キング中隊は河の西側まで退却すべし。戦車は手配できない。」
伍長は目を疑った。
「一輌も廻せないってのか?」
命令文の下の余白に手書きの文字があった。スミス少尉からの手紙だった。手紙には少尉の一連の行動と、師団の動きなどが綴られてあった。
つまり北陣地は攻略から包囲に作戦が変わった、師団主力は次の戦場に行き、北陣地は最低限の兵力で包囲しているということだ。戦闘車輌に余裕が無いのでDポイントの攻撃は不可能、よって退却せよ、ということだった。
「なんてこった。」
キング伍長は落胆した。だが少尉は師団の参謀長にまで直訴してくれたのである。無理なものは無理ということなのだろう。伍長は水筒の水を少し飲んで自分を落ち着けた。
「さて、どうするかな?」
伍長は考えた。命令である限り退かなければならない。敵は喜んで退かせてくれるだろう。彼らにとって伍長は邪魔で仕方が無い存在だ。特に秋山大尉なら休戦して無事に退かせてくれるはずだ。
伍長は好敵手として秋山大尉を認め始めている自分に気づかなかった。
「だが、しかし…」
伍長は思った。
自分が退けば、敵はまた街道の攻撃に出てくる。何人残っているのかは判らないが、これまでの伍長の経験上、日本兵は最後の一兵まで任務を果たそうとする。必ず出てくる。そして街道の守備をする部隊はいないのである。少尉の補給部隊と工兵隊が少しいるだけだ。それも前線に引き抜かれているかもしれない。
北陣地が包囲作戦に変わったのなら少々補給物資に損害を受けても構わないだろうが、物資を運ぶ補給大隊の兵たちに損害がでる。自分一人が助かることで、何人もの補給部隊の兵が倒されるかもしれない。そう思うと退けなかった。中隊の仲間の死を無駄にすることにもなる。
だが命令は命令だ。伍長は苦悩した。長い間考えた。
ついに伍長は結論を出した。拒否する、である。伍長は命令文の書かれた紙の裏に手紙を書いた。明確に
「命令を拒否します。」
と書いた。理由も書きスミス少尉に感謝する旨も書いた。
そして最後に改めて書いた。
「街道を通る補給部隊を護ることが我が中隊の任務であります。その目的を達するには現在地点が最も効果的であります。任務完了まで退却はできません。」
伍長は足元の石を拾うと手紙で包んだ。投げ返すためである。伍長は敵の掘った通路に向かって投げた。手紙は通路の壁に当たり上手く崖の向こう、つまり重機の死角に転がった。伍長は、これなら少尉に届くと安心した
一方、受け取ったスミス少尉は落胆した。だが戦理は伍長の言う通りかもしれなかった。伍長が退けば敵は出てくる。それは少尉の部下が狙われることを意味していた。
だが「任務完了まで」というが、いつ完了するか全く判らないのである。水も食料も最初に少尉が隠し持っていった分だけだ。どうするつもりなのか。
スミス少尉は気づいた。
「キング伍長は中隊長として任務に殉ずるつもりだ。」と。
事実だった。キング伍長は自分が一人だけ生き残ったのはこの岩場で敵を封じ込める為だと信じていた。そう考えないと心の平静を保てなかったのである。
目の前で重機や小銃に撃ち倒された仲間や塹壕で炎に包まれた仲間の姿が脳裏に浮かぶ。その都度、なぜ俺だけ生き残ったんだと気が狂いそうだった。敵の鉄塀と重機を睨みつけている時だけ心が落ち着くのである。
「みんな、俺はまだ闘っているぞ。」と。
「もう五人も倒したぞ。」と。
洞窟では秋山大尉が外を覗いていた。そして、崖の向こうとキング中隊長との間での白いもののやり取りが見えた。
「先に送ったのは崖の向こうだったな。キング中隊長に何か伝えることがあったということか。何だ。」
大尉は自問した。そして足元で重機を構えている兵に言った。
「今の白い物、見えたか?」
「見えました。」
「貴様は何だと思う?」
「自分は手紙ではないかと思いました。最初に向こうから飛んできて、しばらくしてから中隊長が投げ返しましたから。何かを中隊長に連絡して中隊長が返事を送ったと。」
「貴様もそう思うか。」
「はい。」
「ならば問題は手紙の中身だな。今、キング中隊長に伝えなければならないこととは何だ。」
大尉の自問でもあり兵たちの意見を聞く質問でもあった。
「やはり戦車がいつ来るか、ということではないでしょうか。」
兵が言った。
「うむ。私も最初そう思ったのだが、それなら返事を送る必要はないと思う。」
「そうですね。」
大尉は言った。
「止めよう。判らないことをあれこれ想像しても始まらん。手紙のやり取りが有った事だけ覚えておけ。」
「はい。」
だが大尉は一人で考え続けていた。
「返事が必要なこと、だな。命令なら従うだけだ。返事はいらん。」
やはり判らなかった。
日が傾き夕方になった。
「敵さん来ませんね。」
洞窟内で一人の兵が言った。
「戦車の調達にてこずってるのかな。」
「一輌くらい米軍ならすぐ手配できそうなものだけどな。M3で十分なことは判っているだろうし。変だな。」
兵たちは話していた。
「大尉殿はどう思います?」
「わからん。意外ではあるがな。」
だが日が暮れて夜になっても草原は静かなままだった。そしてそのまま朝になった。
「何も無かったな。」
仮眠を取っていた大尉が起きて言った。
「はい。」
「彼はまだあの岩場に居るのか?」
「はい。動きは有りません。」
「やっかいだな。」
大尉は答えた。
その時一人の兵が言った。松下という二等兵で明るくよく冗談を言い、いわば秋山部隊のムードメーカーでもあった。このときも洞窟内の雰囲気が悪いと思って冗談を言った。
「まったく、蛇の生殺しみたいですね。なんならこの際、直接キング中隊長に聞いてみましょうか? 戦車は来るのか来ねぇのか、って。」
と笑いながら言った。
だが戦友達の反応は彼の期待したものではなかった。誰も笑わなかった。変わりに、「あっ!」という顔で松下二等兵の顔を見ている。大尉もそうだった。松下二等兵は
「何が拙いこと言ったかな。」
と不安になった。だがそうではなかった。兵の一人が言った。
「戦車が…来ない?」
皆、「いつ来るか」ばかり考えていて、「来ない」など想像もしていなかった。当然と言えば当然である。相手は物量の米軍だ。大尉は言った。
「希望的観測は避けなければならんが、来ない、という可能性が全くないわけではないな。」
秋山大尉の頭が回転し始めた。
「よし、松下の言う通りキング中隊長に訊きに行こう。」
と大尉は言った。
「あそこへ行くのですか?」
兵が驚いて言った。
「カマを掛けてやるんだ。その時の彼の反応を見る。それには行って直接話すしかないだろう。」
「危険です大尉殿。ここから出た所で撃たれます。」
「判っている。休戦するんだ。四人の遺体も気になっていた。これを理由にする。」
キング伍長は洞窟を睨みながら考えていた。
「いつまで生きられるかな。いや、いつまで任務を遂行できるかな。」
少尉が持ってきてくれた水も食料も、せいぜいあと2日分くらいだった。といって退却して生き残っても、それは
「何故俺だけ生き残ったんだ。」
と苦しむ人生が待っているだけのように思えた。
伍長は考えるのを止めた。
「考えても意味が無い。自分の納得のいくことをするだけだ。」
と割り切った。それはつまり、命ある限り秋山大尉以下の将兵を洞窟に閉じ込め、街道の安全を守ることだった。
その時キング伍長の目に赤十字旗が見えた。洞窟の入口に差し出されたものだった。続いて秋山大尉の声が聞こえた。
「キング中隊長に申し上げる。一時休戦を申し入れたい。理由は戦死者四名の遺体埋葬である。」
そして続けた。
「埋葬後は全員必ず洞窟に戻ると約束する。休戦の受け容れをお願いしたい。」
伍長は戸惑った。もし洞窟に戻らず塹壕に展開されたら…。だがそれは伍長にとってはむしろ有利な展開でもあった。洞窟内に篭られていては自分一人では手が出せない。外に出て来てくれれば攻撃する方法も有るだろう。戦車は来ないのだから塹壕に展開されても問題なかった。
伍長はタオルを振った。
「了解した。」
の合図である。
「感謝する。」
大尉の声が聞こえ、鉄の扉が開いた。日本兵たちが降りてきた。最後に士官が降りてきた。秋山大尉である。
日本兵たちは斃れた戦友の遺体を運び始めた。一方それとは別に秋山大尉と一人の兵が岩の方へやって来て少し離れた所で立ち止まった。大尉は言った。
「休戦を認めて頂き感謝する。ついては貴官と少し話がしたい。」
伍長は警戒した。相手は策士秋山大尉である。だが、どんな男か知っておくのも必要かもしれなかった。
伍長は考えた末答えた。
「了解しました。その位置でお待ち下さい。」
彼の『陣地』である岩陰に招きいれることはできないからである。
伍長を待つ間、松下二等兵は大尉に尋ねた。
「なぜわざわざ、洞窟に戻ると約束する、なんて付け加えたのですか。」
「あれもカマの一つだ。洞窟に戻らない可能性もあるぞ、と彼に気付かせるためだ。
戦車が来るなら何があっても我々を洞窟から出さないだろう。逆に戦車が来ないなら我々を洞窟から出して、戻るという約束を破られた方が、彼にとっては攻撃の機会が生まれることになる。」
「なるほど。では休戦を受け入れたということは、戦車は来ない可能性が高いということになりますね。」
「いわゆる状況証拠でしかないがな。」
大尉はにやりとした。
「大尉殿は商売人になっても、かなりやり手になりそうですね。」
かつて問屋で働いていた松下二等兵は笑いながら言った。
大尉も笑った。
「ははは、ありがとう。だが今からは先入観を持つなよ。奴の表情に注意してくれ。最初は雑談を続ける。カマを掛ける質問をする時の合図は煙草をもみ消した時だ。」
大尉は英語の判らない松下二等兵に言った。二等兵も顔を引き締めて言った。
「了解です。大尉殿。」
キング伍長は警戒しながら岩場から出て秋山大尉と兵の元へ向かった。二人とも丸腰だった。大尉は軍刀も下げていない。二人の側まできた伍長に二人は敬礼した。伍長も答礼をした。伍長は言った。もちろん英語である。
「何か用ですか? 秋山大尉。」
言いながら改めて大尉の顔をまじまじと見た。軍人らしい鋭い眼、だがその眼光には闘志だけではなく、知性と優しさがあるようにも見えた。いわゆる策士や謀略家というような嫌らしい光は無かった。
ただ、大尉にしては歳を取っているなと思った。四十歳は過ぎているか。
大尉は英語で答えた。
「いえ、特に用事があるということではありません。勇敢な敵中隊長殿に対する表敬訪問であります。」
「…。」
伍長は大尉の意図を探り続けていた。
「良い天気ですな。」
大尉は言った。そして、
「洞窟の中にいると空の色を忘れてしまいます。外は気持ちいいですなあ。」
と続けた。
「そうですね。」
伍長は無表情に答えた。
「本官は日本の神戸という街の生まれです。神戸をご存知ですか。港町です。」
「知っています。大きな造船所があって海軍の軍艦をたくさん造っていると。」
伍長はちょっと皮肉を言った。大尉は気付かぬ振りをして答えた。
「よくご存知で。川崎と三菱ですな。両社の造船技術は世界に誇れるものでしょう。」
伍長は少し驚いた。軍事機密ではないだろうが、造船所の会社の名前までしゃべって良いものなのか? 伍長は平静を装い返事をした。
「そうでしょう。そうでなければ真珠湾まで北太平洋の荒波を乗り越えて来る機動部隊を造ることはできません。」
伍長は会話の主導権を大尉に奪われないよう必死だった。
「神戸の港は世界一美しいと思っています。扇形で地元では扇港と言ったりします。」
「そうなんですか。」
伍長は無関心に答えた。何しに来たんだ? と思った。
秋山大尉は振り返り、埋葬作業をしている兵を見て言った。
「まだ時間が掛かるようです。立ち話もなんですから座りませんか。」
と言って地面にあぐらをかき煙草に火を点けた。
伍長も作業を見ながら座った。五名程の兵が作業していた。その時伍長の頭に閃いた。カマを掛けてやれ、と。
「そうですね。残兵総出の作業ですね。」
秋山部隊の残兵の数を知ろうとしたのである。
だが、大尉はあっさりと答えた。
「はい。本官以下七名ですね。」
伍長は驚いた。確かに七名だ。あまりにもあっさり答えられて伍長は戸惑った。その隙を大尉は見逃さなかった。
煙草を地面に押し付けもみ消しながら、当たり前のことのように言った。
「貴官も、戦車が来ないとなると厳しい立場ですな。」
「!」
伍長は絶句した。なんで知ってるんだ? と自分もカマを掛けたことを忘れて動揺した。眼が泳いだ。
「い、いえ、北の作戦が今日で終わるので明日には来る、と連絡を受けています。」
しどろもどろだった。
「そうですか。なら貴官は無事に帰国できそうですね。出身はどちらです?」
もう大尉にとってもどうでもいい質問だったが、もう少し伍長の様子を窺おうと思ったのである。
「カ、カンサス州です。」
伍長はまだ動揺が収まっていなかった。
「ほう、内陸の州ですな。海はこの南太平洋に来るまでご覧になったことはなかったのでは?」
「…。」
伍長は返事が出来なかった。
「それなら、戦争が終わったら神戸に行ってみるとよろしいですよ。港の海も美しいものです。ご案内差し上げたいが、明日戦車が来るのなら無理のようですな。」
「…。」
「どうやら作業が終わったようです。我々も引き上げます。失礼しました。」
大尉は立ち上がった。伍長も呆然としながら立ち上がった。敬礼を交わし大尉と二等兵は洞窟へ戻っていった。そして約束通り全員洞窟内に入った。
洞窟に戻った松下二等兵は言った。
「まちがいありませんね。大尉殿。」
「うむ。あそこまで動揺してくれるとは思わなかった。」
「しかし、こちらの兵員数を教えてよかったのですか?」
「なに、この状況では対した問題じゃない。奴のカマにあっさり乗ってやれば隙ができると思ったんだ。予想通りだった。」
と大尉は答えた。
「やはり大尉殿。いつでも商売人になれますよ。」
松下二等兵は笑った。大尉も笑った。
そして大尉は六名の部下に言った。
「戦車は来ない。少なくとも当面はな。新しい作戦を考えよう。」
「はい!」
洞窟内の士気は天を突く勢いになった。
キング伍長はまだ動揺していた。カマを掛けられたのか? それとも本当に情報を摑んだのか? だが、伍長も歴戦の勇士である。落ち着くと、思った。
「カマを掛けられたのかどうかは判らないが、戦車が来ないことは遅かれ早かれ察知されることだ。奴らにとっては重要な情報だろうが、俺の任務には無関係だ。それに残兵はたった七人だと教えてくれた。いい情報だ。」
伍長の闘志が甦って来ていた。
伍長も、洞窟内の大尉たちと同様に新しい作戦を考え始めていた。
同じ
昼になった。強い日差しが伍長を照りつけた。水筒に手を伸ばしかけたが止めた。大切な水だった。スミス少尉が隠し持って来てくれたチョコレートバーを食べ、少しだけ水を飲んだ。
「昼間の攻撃は、まず無いだろう。」
と伍長は予想していた。
敵は七名、昼間の攻撃はこちらの的になるだけだ。日本軍得意の夜襲で来るだろう。
それも無理はしないはずだ。なぜなら秋山部隊の任務は自分を倒すことではなく、街道の攻撃だ。自分を倒すのに残り少ない兵を犠牲にする訳にはいかないだろう。
「それよりも、何故まだ頑張るんだ? もう北陣地への攻撃が始まってかなり経つ。俺たちの中隊が来る前から考えると、秋山部隊は十分に任務を果たしたはずだ。秋山大尉ほどの隊長なら十分判りそうなものだがな…。」
伍長は秋山大尉の顔を思い浮かべた。そしてすぐに合点がいった。
「…俺と同じか…。」
大尉や部下たちも、あくまで任務に殉ずる気なのだと思った。多くの仲間や部下を死なせておめおめ生き残れるか、と思っているのかと想像した。
伍長は秋山大尉とその部下たちに妙な親近感を覚え始めていた。
それは洞窟内の秋山大尉以下の兵たちも同様だった。
「それにしても奴さん、戦車が来ないってのになんで頑張っているんだ? じきに飢え死にするだけだぞ。」
兵たちは語り合っていた。
「あのブラウン中尉の遺言を守っているんだろうな。」
「街道防御の任務か。奴はその任務に殉じるつもりなのか? 米兵がそこまでするか?」
「判らん。でもそれ以外考えられない。彼は下士官だし今は一応中隊長だ。たくさんの仲間や部下を失って、一人生還する方が辛いのかな。俺たちと同じかもな。」
「確かにな。任務に没頭していれば辛さは忘れられる。」
しばらく沈黙が続いた。
松下二等兵が言った。
「いまさらですが変なもんですね。キング中隊長と我々秋山部隊は敵同士ですが、個人的にはなんの関係も無い。」
一人の上等兵が答えた。
「松下、それは戦地に来た新兵が皆思うことだ。敵兵と俺に何の関係がある?って。そんな無関係な人間をどうして殺さなければならないって。」
「そうですね…。」
上等兵は少し大きな声で言った。
「松下、しっかりしろ。確かに何か変な気はする。だが現実に俺たちはずっと闘ってきたし、目の前に敵が居るんだ。貴様だって昇進の機会が無かっただけで、下士官としても十分やっていけるぐらいの経験と実力を持っているじゃないか。今は奴を倒し、街道を攻撃するという俺たちの現実の任務に集中しろ。」
「はい!」
松下二等兵は大きく返事した。だが間近でみたキング伍長の顔は頭から消えなかった。
秋山大尉が口を開いた。
「松下。貴様の疑問はとても大切なことだ。だがそれは平和な時代に皆で考えることだ。今は上等兵の言うとおり、目の前の現実を見なければならない。」
一呼吸おき、兵たちに言った。
「そこでだ、兵法の基本は『敵を知る』ことにあることは判ってるな。キング中隊長は任務に殉ずる覚悟であの岩陰に潜んでいる、ということを皆心しておけ。奴は…我々にとっては厄介極まりないが…勇士だよ。自分を犠牲にしても街道の仲間を護ろうとしている。皆判っているだろうが手ごわいぞ。」
「はい!」
だが兵たちの間にはキング伍長への、やはり妙な親近感が芽生え始めていた。
「俺たちと同じだ。」と。
大尉は無表情に、鉄塀の隙間から岩場を見つめていた。
第二次夜襲
キング伍長は夜襲に備えて準備をしていた。
二つの銃眼を使い分けて敵の重機を避ける戦術はもう使えない。
伍長は戦闘服の上着を脱ぎ、ポケットに大きめの石をいくつか入れた。そして岩の左に置いてある装甲板は、凹みを使って盾のように持てるようにした。
いざとなれば岩場から出て、この盾を遮蔽物にしようとしたのである。上着は岩場から投げることで自分が飛び出したと機銃手に思わせる為の用意だった。夜なら誤認するだろう。
後は鏡が欲しかった。敵が出てきて重機が援護射撃をしてきた場合、今度は二つの銃眼の両方を交互に牽制射撃してくるはずだ。その時岩陰から敵の方向を窺うには、以前斥候に来た時使ったように鏡を使いたかった。
伍長は鏡の替わりになりそうなものを探した。周りは石ころだらけだ。彼はポケットを探った。オイルライターが手に触れた。小さいが表面は磨き上げられていて鏡に使えそうだった。
「よし。戦闘準備は完了だ。後は臨機応変、自分の経験に自信を持て。」
伍長は出来るだけ楽な姿勢で体を休めながら夜を待った。
秋山大尉も作戦を練っていた。基本的には重機で援護射撃し兵を接近させ手榴弾で仕留める方法だ。キング中隊長が重機や小銃の前に身を晒すとは考えられない。大尉は思い切った。
「六名で攻撃。」である。
大尉が機銃手として洞窟に残るがそれ以外全員出る、ということである。
「一気にケリを着ける。私も行きたいが重機を担当させてもらう。今回は最初から重機を撃つ。その間に洞窟から出て前の塹壕に入る。散開して左翼に二名が動き手榴弾攻撃。奴まで届くはずだ。残りの四名は右翼から援護射撃。岩陰まで射線に入れば狙撃だ。それらが失敗した場合は、重機の援護のもと匍匐前進で接近。手榴弾でケリをつける。」
そして付け加えた。
「ただし…負傷しても自決攻撃は認めない。他の兵で制圧する。その為六名で行く。我々の任務はあくまでも街道攻撃だ。これ以上キング中隊長相手に犠牲を出す訳にはいかない。」
夜になった。満天の星空の下、闘いが始まった。
キング伍長が銃眼から洞窟を窺っている時、突如重機が火を吹いた。左右の銃眼あたりに交互に撃ち込んできている。伍長は
「やはりな。こっちの眼を塞ぐつもりだ。」
と合点し、伏せて銃撃を避けながら、用意しておいたオイルライターをそっと岩の外へ差し出した。小さなオイルライターでは視野が狭く見にくかったが、六人の兵がロープを伝って飛び降りたのが見えた。
「六人? じゃあ今、重機を撃っているのは秋山大尉か。」
そして察した。
「大尉はこれでケリをつけるつもりだ。」と。
六名の日本兵は塹壕に飛び込んだ。あの深く、多くの戦友が重機に撃たれ、ガソリンの炎で焼け死んだ塹壕である。伍長の闘志が高まった。
「さて、どう出るか?」
伍長は様子を窺いなからすばやく考えた。
「確か塹壕の一番手前の端からなら手榴弾が届く。なら先制攻撃だ。」
伍長は手榴弾を用意し、塹壕へ向けて投げた。昼間に十分観察していたので、狙いには自信があった。
伍長の投げた手榴弾は塹壕に吸い込まれていった。そこには中間の足場に立ち、今手榴弾を投げようとしていた日本兵が二人いた。伍長の手榴弾は深い塹壕の底で爆発した。日本兵は下からの手榴弾爆発に晒され傷を負い、塹壕の底に落ちた。自分たちの手榴弾は何とか塹壕の外へ放り投げた。
塹壕の手前で二つの手榴弾爆発が起こった。それは伍長にとっては敵を二人倒した合図になった。もちろん生死や負傷の程度などは判らない。
しかしその直後、左から射撃を受けた。塹壕の向こうの方からのようだった。
「なるほど、あそこからならこちらは丸見えか。」
伍長はつぶやきながら急いで左の装甲板の向きを敵兵の方向へ変えた。敵弾の跳ねる音が何度か響いた。正面からは重機が断続的に射撃を続けている。
左の敵の発射炎は間隔を空けて四つだった。最初の二人のいた位置には展開してこないようだった。
重機の射撃は断続的だった。秋山大尉が一人で撃っているのだ、弾の供給なども一人でしなければならない、その為だろうとキング伍長は想像した。
また重機の射撃が止まった。その時大尉の声が聞こえた。
「一人は左翼へ!後は前進せよ!」
日本語である。むろん伍長には意味がわからなかったが、何か指示が出たということは理解できた。四人が新しい動きをするということだ。
四人の射撃が止んだ。重機はまた断続的に唸りを上げた。岩の上の装甲板は火花を上げつつ弾を弾き返した。
三人の日本兵は匍匐前進を開始した。重機の弾が防弾版に当たった時の火花が、進行方向の目印になった。
他の一人は塹壕の底を岩場に近い方向へ走った。二人の仲間が倒れている。二人とも背中に手榴弾の細かな破片を受けていたが、生死に問題はなさそうだった。彼は中間の足場に上り様子を窺った。岩場は、撃ち込まれる重機の兆弾以外動きは無かった。
彼は手榴弾を思い切り投げた。手榴弾は放物線を描き、岩の上の装甲板すれすれを通過した。
キング伍長は背後に何か物が落ちる音を聞いた。反射的に持っていた装甲板をそちらに向け、身を小さくし装甲板の陰に隠れた。と同時に爆発した。
装甲板のお陰で手榴弾に詰められている小さな鉄片などは防げたものの、至近距離の爆圧はすさまじかった。
伍長は装甲板ごと吹き飛ばされ岩に叩きつけられた。瞬間、伍長の意識が消えかけた。
その時、また秋山大尉の声が響いた。
「右翼三名は敵前十五メートルまで接近!油断するな!」
四人の日本兵は、今の手榴弾でキング伍長を倒した、と思った。だが大尉はまだ重機を断続的に撃ち続けている。気を引き締めつつ三人の兵は言われた地点まで接近し、伏せた。もう一人は塹壕の中のままである。
キング伍長の失いかけた意識は、皮肉にも秋山大尉の大声の指示で目を覚ました。
だが背中を中心に強い打撲を負ったようだった。ただ重傷箇所はなかった。手持ちの装甲板を改めて左に向けた時、彼は十五メートルほど先に伏せようとしている三人の日本兵を見た。
「くそ!これまでか!」
そう思った時、記憶がよみがえった。南の密林で彼の分隊長以下七名が敵の自爆攻撃に倒された時のことである。
もちろんキング伍長は、その敵兵が宮崎曹長という名の秋山大尉の右腕であったということは知らなかった。
だが、
「このままでは手榴弾を叩き込まれ吹っ飛ぶだけだ。一か八か彼と同じ手を使ってみるか。」
と考えた。
そしてうつ伏せに横たわり装甲板を頭に立て掛けるように倒した。
しばらくして日本兵の声が聞こえた。
「倒れています!動く気配ありません!」
大尉に何か報告しているようだった。
「投げろ!止めを刺せ!」
大尉の声が聞こえた。何かの指示だ。伍長は三人を窺った。三人は一斉に膝立ちになった。
「今だ!」
キング伍長は自動小銃を連射した。三人は倒れた。だが一人は手榴弾を投げた後だった。伍長は装甲板を持ち上げ飛んでくる手榴弾を跳ね返し、そのまま伏せた。爆発音が響いた。伍長はすぐ気付いた。三人?、もう一人は?
伍長は手榴弾を手にすると最初の二人のいた場所に投げた。残る一人がいるとすればあそこしかない、経験から来る直感だった。同時に狙った場所からも何かが飛んできた。
「手榴弾か!」
伍長は装甲板を持ち上げ、さっきのように跳ね返そうとした。重機が火を吹いた。手榴弾は岩の反対側に弾くことが出来た。だがその時、伍長は左肩に激痛を感じ後ろに飛ばされた。重機に撃たれたのだ。
一方塹壕から手榴弾を投げた兵は伍長の手榴弾で負傷していた。
伍長はとにかく定位置に戻り装甲板を倒れた三人の日本兵の方へ向けた。息があれば小銃の引き金くらいは引ける。その用心だった。
伍長はとにかく左肩の応急手当をした。重機とは言え口径は七・七ミリ、小銃と同じである。貫通銃創だった。血さえ止めれば何とかなる、と伍長は思った。
洞窟では重機の握りを握り締めた秋山大尉が唇をかみ締めていた。奴は倒したものの生死は不明だ。しかも部下全員が倒れたのである。
大尉は重機から手を離し軍刀を握り締めた。
戦場には静寂が戻ってきた。星明りに薄暗く草原が照らされている。伍長は
「どうやら生き残ったようだな。」
と思った。
その時、うめき声が聞こえた。三人の兵が居た左側だ。
思わず応急セットとタオルを持ち駆け寄った。一人の日本兵がわき腹を撃ち抜かれ倒れていた。昼間大尉と一緒に来た二等兵だ。伍長は傷口を抑え止血を始めた。日本兵は驚いて頭を上げ伍長を見た。伍長と眼が合った。伍長は頷いた。日本兵は頭を降ろした。
倒れている三人の端にいた日本兵が伍長に気付いた。彼は脚を撃たれていた。伏せたまま小銃を引きずり伍長に向け、三八式小銃のボルトを引き装弾した。その音に、三人の中央にいて肩を撃たれ倒れていた兵が気づいた。
「撃つな!奴は松下の手当てをしている!」
小銃を構えた兵は驚いて銃を降ろした。
秋山大尉は鉄塀を開いた。軍刀一本でキング中隊長と刺し違えよう思ったのである。
だが大尉の眼に飛び込んできたのは予想外の光景だった。キング中隊長が大尉の部下の側に座り込んでいる。何をしているのかは暗くて判らなかった。
その時「撃つな!」の声が聞こえた。大尉は驚き、絶句した。
「手当てしている、だと?」
伍長は鉄塀が開き軍刀を下げた大尉が洞窟の入口に立っていることに気がついた。すぐにタオルを振った。休戦の合図である。大尉は叫んだ。
「休戦を申し入れるのか?」
返事は無かった。伍長は自分の傷の痛みで大声を出せなかったのである。タオルを振り続けた。大尉は伍長も重傷を負っているのだと察した。
「休戦する!これから負傷兵の手当てにそちらへ行く!」
大尉は軍刀を納め、赤十字旗を掲げ、救急用品を持てるだけ持って洞窟から降りた。
まず塹壕へ行き叫んだ。
「損害は?」
塹壕内からは以外に元気な声が返ってきた。
「戦死なし。三名全員負傷。手榴弾に吹き上げられ背中を中心に多くの傷を負いました。ですが深い傷ではなく致命傷ではありません。お互いに手持ちの救急用品で応急手当をしています。」
「了解した。後でまた来る。」
大尉はそう答えて三名の部下とキング伍長のいる場所へ走った。
秋山大尉に気付いた伍長は座ったまま敬礼をした。大尉も急いで答礼をした。そして伍長に訊いた。
「三名の様子は?」
伍長は松下二等兵を見ながら言った。
「彼は左わき腹の貫通銃創です。後の二人は判りません。」
大尉は日本語で叫んだ。
「負傷の程度は?」
暗闇の中から二つの返事があった。
「左足大腿部貫通銃創です。止血中です。」
「自分は右肩貫通銃創です。同様に止血中。」
大尉は少し安心した。全員致命傷ではなさそうだ。止血が上手くいけば当面は大丈夫だ。
はっとしてキング伍長を振り返った。英語で訊いた。
「貴官の負傷の程度は?」
「左肩貫通銃創です。大尉の重機にやられました。」
にやっとしたようだった。
「手当ての用品はあるのか?」
「とりあえずはありました。ですが残りは彼に使いました。」
と松下二等兵を見た。そして続けた。
「血が止まりません。救急用品をお持ちですか?」
「ああ持ってきた。替わろう。彼を看た後、貴官の傷も看せてくれ。小銃と同じ口径とはいえ重機は重機だ。かなりの重傷だろう?」
「そうですね。一応止血は上手くいきましたが。」
「了解だ。横になっていてくれ。」
「はい。」
休戦
不思議な光景だった。たった今、銃を打ち合い手榴弾を投げ合った者同士が傷の手当てをしているのである。
伍長は横になり星空を見上げていた。南の空は彼の知らない星座ばかりだった。
「…俺も知らないことばかりだ。」
と伍長は思った。
「自分のことも知らない。判らない。」
なぜ、俺は敵のうめき声を聞き飛び出したのだろう。他でもない自分が、殺そうと思って撃った相手だ。伍長は痛みに耐えながら思った。
ひときわ明るい星が眼に入った。
「あの星から見れば俺たちって何なんだろうな。」
『俺たち』の中には秋山大尉以下の日本兵も含まれていた。
「俺たちと日本兵たちは、与えられた任務の為に命を掛けて闘った。そして死んでいった…。」
伍長は痛みでそれ以上考えられなかった。
伍長は眼を閉じた。虫の鳴き声が聞こえた。ついさっきまでの爆発音も、まだ漂っている硝煙の臭いも、彼ら虫たちには関係ないようだった。伍長にはそれもまた何か不思議なような気がした。
「俺たちが生きようが死のうが彼ら虫には全く関係ないんだよな。」
そしてつぶやいた。
「…任務、か…。」
「キング中隊長、キング中隊長!大丈夫か?」
秋山大尉の声が聞こえた。伍長は眼を開き頷いた。
「脅かすな。死んだかと思ったぞ。」
大尉は伍長が目を閉じていたので絶命したのかと思ったらしい。
しかし、それもまた不思議な台詞だった。秋山大尉が、自ら殺そうとして撃った重機の弾で傷ついた敵兵の安否を気遣っているのである。伍長は自分が秋山部隊に対して、なぜか抱いた親近感のようなものを大尉も感じているのか、と思った。
塹壕に居て手榴弾に傷ついた三名の兵が支え合いながら歩いてきた。彼らも生き残ったのか。伍長はなぜか安心した。岩場の周りは不思議な空気に包まれていた。
塹壕にいた三名の兵は、松下二等兵たち倒れている三名の手当てを始めた。大尉が応急処置をしていたので問題はなさそうだった。
秋山大尉はキング伍長の傷を看ていた。
「かなりの傷だが失血しなければ大丈夫だろう。痛むか?」
大尉は伍長に訊いた。
伍長は答えた。
「そりゃあもう。なんせ部隊長殿が自ら撃たれた弾ですからね。」
と伍長は軽く笑った。
大尉も少し頬を緩めて言った。
「ジョークを言える様なら大丈夫だな。」
そう言いながら消毒をし痛み止めのモルヒネを打った
そして倒れている三人を見て振り返って言った。
「なぜ急所を外した? あの距離で貴官の腕なら三人とも眉間を撃ち抜けたはずだ。」
「…。」
伍長は自分でも判らなかった。正直に答えた。
「判りません。あえて外したのかどうかも覚えていません。必死でしたから。」
「…。」
大尉は少し考えているようだった。そして、
「そうか。」
とだけ言った。そして部下の所へ戻っていった。
再び戻ってきた秋山大尉は伍長に言った。
「キング中隊長。河の向こうへ退かないか?野戦病院へ運んでもらった方が良いと思うが。」
「私が退けば街道へ出るでしょう?」
伍長は答えた。
「我が部隊は見ての通りだ。もう戦闘力は無い。」
「いえ、大尉は一人でも任務を全うしようとする方だと思っています。何よりの証拠は、あの鉄塀が開いた時あなたは軍刀を抜いていました。」
伍長は言った。そして続けた。
「大尉以下七名が一緒に来てくれるのであれば退きましょう。彼らも病院へ行く必要が有ります。」
「それは受け容れられない。」
「なぜ?」
「それが我が軍の伝統だからだ。」
「ナンセンスです、大尉。あの『生きて虜囚の辱めを受けず』とかいう奴ですか?」
「よく知っているな。そういうことだ。」
「なら私も退きません。」
「なぜ?」
「任務に殉じようとする敵を抑え込むには、任務に殉ずる覚悟で闘わねばなりません。それに…。」
「何だ?」
「私は中隊でたった一人生き残ってしまいました。このまま生きる方が辛い。」
伍長の本音が口をついて出た。
大尉の表情が少し優しくなった。
「…そうか、なら言おう。私も例の一文はナンセンスだと思っている。」
「!」
伍長は驚いた。秋山大尉は士官である。士官自ら軍規を否定するのか?
「そう驚くな。私は大学を出てから志願兵となって士官になった人間だ。良かれ悪しかれ大学で合理的な物の考え方を学んで来た。あの一文に合理性は無い。本来は、それくらいの気概で戦え、という意味合いのものだと思っている。」
「ではなぜ?」
伍長は訊いた。大尉は静かに答えた。
「貴官と同じだよ。私の特別任務部隊は六十五名いた。今は六名だ。それにこれまでに死んでいった私の部下は百人を超える。もう、一人のうのうと生き残ることは耐えられない。ブラウン中尉が死を選んだのもその為だっただろう。仲間が死ぬのと部下が死ぬのとは同じようで違う。部下が死ぬのは、兵が思う以上に苦しいことなんだ。」
伍長はやっと判った。あの時のブラウン中尉の遺体に対する秋山大尉の長い長い敬礼と、何かを堪えているような表情の意味が。
「では大尉の部下たちはどうするのです? 投降させないのですか?」
「彼らの意思に任せる。だが退かないだろう。皆、貴官と同じ気持ちだ。」
「…。」
伍長は何も言えなくなった。大尉は口調を改めて言った。
「キング中隊長に依頼する。休戦は明朝七時までとしたい。理由は負傷兵の手当てのためだ。それと、我が本部を地面に接した洞窟に移動したい。負傷兵は縄梯子を上れないからである。」
少し考えて伍長は了解した。
「七時まで五時間ほどしかない。陣地移動と負傷兵の手当てで我々は手一杯だな。」
独り言のように大尉は言った。ようするに七時までは伍長に一切干渉しない、ということである。
そして大尉は消毒薬と痛み止め他を袋に入れて伍長に差し出して言った。
「たった一人生き残るのは嫌なんだろう? だが傷が悪化して、あの岩場でのたれ死にするのはもっと嫌なんじゃないか?」
伍長は受け取った。そして言った。
「ありがとうございます。お陰で大尉の軍刀と刺し違えることができそうです。」
と笑った。
大尉も笑った。そして表情を引き締めると言った。
「貴官の勇戦に敬意を表する。また部下を助けてくれたことに感謝する。」
「はい。私も大尉の武士道精神と兵のみなさんの勇気に敬意を表します。」
二人は敬礼を交わし、大尉は脚を撃たれた部下を背負い戻って行った。
キング伍長は仰向けに横になった。とりあえず七時まではゆっくり寝ようと思った。「七時まで休戦」という秋山大尉の言葉をなぜか信じていた。
伍長はまた星空を見上げた。痛み止めのお陰か少し楽になっていた。さっき見た明るい星を探した。星は変わらず輝いていた。虫の声も聞こえた。風が草をなでていく音も聞こえた。
伍長の脳裏に、子供の頃遊んだカンサスの田舎が浮かんだ。そして同じように星が輝き、虫が歌い、風が草を揺らす光景を思い出した。
「何も変わってないんだな。…人間以外は…。」
伍長は眼を閉じた。虫の声、風の音が一層はっきりと聞こえた。さらに草の匂いや土の匂いも感じた。自分が自然の一部になった気がした。それとともに肩の痛みが和らぐように感じた。
「人間だってそもそも自然の一部だったんだよな。そういえば。」
伍長は眼を開け手元の自動小銃を見た。
「何の為にこんな物を人間は作っちまったんだろう?」
そう思いながら再び眼を閉じた。また大自然が彼を包み込んだ。やがて彼は深い眠りに落ちていった。
変わらない空
日が昇り七時が近づいた。伍長はまだ寝ていた。
「おーい!中隊長殿!起きたか!」
日本兵の声が草原に響いた。
その声で伍長は眼を覚ました。もちろん今の日本語の意味など判らない。時計を見れば七時前だった。崖を見ると一番下の洞窟に赤十字旗が掲げられていた。肩の痛みがこたえた。
「キング中隊長!休戦終了前に一度そちらへ行きたい。許可願う。」
秋山大尉の英語だった。
「了解です。」
伍長は肩の痛みに耐えながら何とか返事した。
大尉が歩いてきた。伍長が立ち上がろうとすると手で抑えた。そして水筒を一本出して言った。
「我が部隊全員からの贈り物だ。」
「?」
「夕べ部隊全員で話し合った。貴官に水を与えるかどうかを。」
「なぜ?」
伍長は問うた。大尉は苦笑いしながら言った。
「結構な議論になったのだがな。結論からいうと、貴官のような勇士を渇死させるのは忍びない、ということになった。渇死は最も苦しい死に方の一つだ。狂い死にと言ってもいい。貴官をそんな方法で倒すのは我々としても本意ではない。」
「…。」
「受け取って欲しい。」
伍長は夕べの不思議な感覚を思い出した。あの自然と一体になったような感覚である。
思わず伍長は大尉に問うた。
「秋山大尉。なぜ我々は闘っているのでしょうか?」
「…。」
大尉は沈黙した。何か言いたいことがあるようだが、我慢しているように見えた。
ようやく大尉は短くそして無感情な声で答えた。
「任務だからだ。」
「…。」
その頃洞窟の入口には日本兵たちが集まって秋山大尉とキング中隊長の様子を見ていた。その時、一人では動けない松下二等兵が洞窟の奥から言った。
「自分も入口に連れて行って下さい。外の空気を吸いたいのです。」
軽傷の三名が二等兵を入口に運び、横たわらせた。
「大丈夫か?」
「はい。大丈夫であります。」
「貴様のことだ。無理に元気な振りなどするなよ。」
「はい。」
仰向けに横たわった松下二等兵は外の空気を大きく吸った。
すると彼の視野はどこまでも青く美しい空に覆われた。彼は思わず口にした。
「綺麗なものですね。ずっと忘れていました。」
兵たちは足元に寝ている松下二等兵を見、その視線が空を向いていることに気付いた。彼らもまた空を見上げた。
美しい空だった。あまりにも美しすぎる青だった。宮崎曹長が最期に見た空と同じだった。どこまでも青く、吸い込まれるような美しさだった。
兵たちは言葉を失った。
「彼らは何をしているんですか?」
洞窟の兵たちに気付いた伍長は大尉に訊いた。
大尉は振り向き部下たちが空を見上げているのを見た。そして大尉も空を見上げた。
そこには美しい空があった。顔を戻し伍長に言った。
「空を見ているようだな。」
「空…。」
伍長は夕べの星空を思い出した。そして見上げた。
今度は星空ではなく、青く染められた一面の空があった。美しかった。
大尉もまた空を見上げた。
しばらくして大尉は言った。
「休戦終了までまだ時間がある。どうだ、横になって見上げないか?」
「はい。」
二人はおもむろに仰向けに寝転がった。二人の視界一杯に空が広がった。しばらく二人は黙って空を見上げていた。
やがて伍長が口を開いた。
「大尉。私は夕べ同じように星空を見上げていました。そして虫の声、風の音、草や土の匂いを感じました。それは子供の頃、カンサスの田舎で感じたものと同じでした。」
「…。」
大尉は黙って聞いていた。
「そして、人間以外は何も変わっていないのだと思いました。大自然と一体になった気がしました。」
「…。」
「そして…自分の小銃を見て思ったのです。人間はなんでこんな物を作ってしまったんだろうって。」
「…。」
大尉はまだ黙って聞いていた。
「今、夕べとは違うこの青い空を見て、やはり人間以外は何も変わっていない、と改めて感じています。」
しばらく沈黙が続いた。ようやく大尉が口を開いた。
「神戸の空もこの空と同じだった。」
「…。」
今度は伍長が黙って聞いていた。
「今の私には美しすぎる。」
「…。」
「この手を見ろ。仲間と敵の赤い血で汚れ切っている。あの美しすぎる青が、私には皮肉に見えるよ。」
「…。」
伍長は大尉の心が少し見えた気がした。
取り繕うに大尉は笑いながら冗談を言った。
「貴官と私には哲学者のような気があるようだな。」
「そのようですね。」
伍長も笑った。
「七時を回ってしまったな。」
大尉は起き上がった。伍長も起き上がった。
「では、お邪魔した。」
大尉は敬礼をし、伍長に背を向けた。
「…待って下さい!大尉。」
伍長は思わず声を掛けた。自制心が無くなっていた。
「私はもう闘いたくありません!」
「…。」
大尉は振り向いた。眼は優しかった。
「とはいえ、大尉の部隊を街道に出す訳には行きません。それが私の任務です。では私は…、私は一体どうすれば良いのでしょう?」
伍長は一気に言った。質問というよりも心の奥底の思いが奔流となって溢れ出したようだった。
大尉は優しい眼のまま言った。
「貴官は敵の指揮官に指示を求めるのかね?」
「…。」
伍長は言葉に詰まった。
「貴官の気持ちはよく判る。だが我々にも任務がある。」
「…もう、誰も殺したり傷つけたりしたくないんです。」
伍長は涙を浮かべていた。
大尉は小さく頷いた。そして、
「だが、それが我々の任務なのだ。」
そう言うと、大尉は伍長に背を向け大股で洞窟に戻っていった。
やがて、
「休戦を終了する!」
という声が響き、洞窟入口の赤十字旗が取り込まれた。
伍長は岩陰に戻った。まだ感情の昂ぶりは収まっていなかった。岩陰に小さくうずくまっていた。
「何で中隊の仲間と一緒に死なせてくれなかったんだ。」
思わず神を恨んだ。
だが、彼はまたベテランの兵士でもあった。
「仲間の死に報いる為に闘う。スミス少尉たち街道の仲間を護るんだ。」
自分に言い聞かせた。何度も何度も言い聞かせた。
伍長はそっと顔を出し洞窟を窺った。俄然重機が撃ち込まれた。伍長はすぐ頭を引っ込めた。重機もご丁寧に新しい洞窟へ移したようだった。
「やってやる。最後の最後まで闘ってやる。仲間を護るんだ。俺は名誉あるブラウン中隊を引き継いだ中隊長なんだ。」
重機の音で伍長の闘志が甦ってきた。彼は自分のヘルメットを取り、岩陰に大切に置いていたブラウン中尉のヘルメットを被った。中隊長マークのペイントされているヘルメットである。
「ブラウン中尉。自分は任務を果たします。」
伍長は一人つぶやいた。
反撃
伍長は敵の動きを予想した。敵兵力は無傷が秋山大尉一人、重軽傷が六人の内戦闘可能なのはおそらく塹壕にいた三人だろう。最大で四人だ。それと重機は重傷者でも撃てるだろう。脚を撃たれたあの兵なら、寝そべって撃つ重機なら扱える。そう分析した。
その兵力でここを攻めるには…?しかも死傷者は出したくないはずである。秋山部隊の任務は、あくまでも街道の攻撃なのだから。
ならばやはり手榴弾攻撃か、と伍長は結論付けた。小銃で肉薄して白兵戦に持ち込む戦法には無理があるだろう。いくら精兵とはいえ負傷しているのである。第一小隊がやられた時のように鮮やかな攻撃は出来ないはずだ。
「となると…。」
伍長は前にある深い塹壕に眼がいった。
「投げるにはあそこが一番のはずだ。負傷兵の力でここまで遠投できるかは疑問だが。」
そういう伍長も重傷の負傷兵なのである。左手は使えない。装甲板を盾にしつつ小銃を応射したり手榴弾を投げることは出来ない。
伍長は腹を決めた。一つずつでも敵の攻撃ポイントを潰す、と。
日が暮れた。夕方から雲が出て夜になると草原はいつもに増して闇に包まれた。伍長はヘルメットを叩きつぶやいた。
「ブラウン中尉、行きます。」
伍長は大きく深呼吸した。そして昨夜使わなかった石を入れた戦闘服を草原に投げた。
敵の重機が火を吹いた。伍長の狙い通り、投げた戦闘服に曳光弾は向かっていた。
「よし。」
伍長は装甲板を右手に持ち左側に構え、できるだけ低い姿勢で塹壕へ走った。おそらく機銃の発射炎で伍長の姿が見えなかったのだろう。伍長は塹壕の淵にたどり着き飛び込んだ。と同時に重機の射撃も止んだ。
塹壕内は洞窟から死角になっていた。下の洞窟に陣を移したからである。
洞窟内では秋山大尉が言った。
「何だ今のは?」
機銃手が言った。
「判りません。人影のようなものが岩から飛び出したのです。ですがその後動きがありません。」
大尉は言った。
「皆気をつけろ。奴は何か仕掛ける気だ。洞窟への接近を許すな。二人入口で伏せろ。近づくものがあれば撃て。」
二人の兵が洞窟から出て、そこで伏せた。
伍長は洞窟からの死角に隠れたまま作業を始めた。岩場に一番近い塹壕の壁を破壊して岩場から狙えるようにし、手榴弾攻撃ができないようにしようとしたのである。
伍長は塹壕の中間の足場に立ち、右に装甲板を立てて肩で支え、右手一本で穴を掘り出した。
「変化ないか?」
大尉が訊いた。
「変化ありません。」
洞窟入口に伏せている二人の兵が答えた。
「どこで何をしているんだ。」
大尉は自問した。
「奴の武器は手榴弾と小銃、それと狙撃銃だ。こちらを攻撃するつもりなら接近する必要がある。そのためには…。」
大尉は言った。
「照準器のついた小銃を取ってくれ。」
軽傷の兵が小銃を取って来て言った。
「どうするのです?」
「奴はさっきの銃撃に紛れて前進し塹壕に潜んだ可能性がある。見てくる。」
「大尉殿!危険です!」
「馬鹿野郎!負傷兵に偵察などさせられるか。それに俺が兵隊上がりだと忘れたか。」
まるで鬼軍曹のような物言いだった。
大尉は這って洞窟を出、入口に伏せている二人の兵に言った。
「一人ついて来い。塹壕に入る。」
「はっ。」
二人は這って塹壕にたどり着き底に入った。
塹壕は一直線に続いている。だが先の方は暗くて見えなかった。照準器を望遠鏡代わりにしても同じだった。大尉は小声で兵にささやいた。
「私の勘では奴はこの先で何かしている。こっちに近づいているかもしれない。ゆっくり静かに接近する。勝手に発砲するな。」
「はい。」
二人は腰を屈め、塹壕の壁に沿ってゆっくり進んでいった。
突然大尉が兵の首根っこをつかんだ。伏せ、の合図だ。大尉と兵は伏せた。
塹壕の先の方、壁中間の足場に鉄の壁が出来ている。見覚えのあるキング伍長の装甲板だ。二人は頷きあい、さらに接近した。
「何をやっているんだ?」
大尉は考えていた。
伍長は二人の接近に気付いていなかった。
そもそも装甲板から顔を出して様子を窺うようなことをしていなかったのである。装甲板で体は遮蔽されている。撃たれてもとりあえずは大丈夫だったからだ。背後だけは気を配っていた。
右は装甲板に任せ切っていた。伍長は完全に度胸を取り戻していた。
だが、それが大尉と兵の接近を許した。装甲板が大尉たちの気配を遮った為でもあった。
二人はさらに近づいた。もう五メートルほどである。時々装甲板が揺れるのも見えた。
「奴がいる。」
その時、装甲板が動き始めた。塹壕の先の方へ、大尉たちから離れて行こうとしていた。
「気付かれたか?」
装甲板は離れていく。大尉はさらに近寄った。その時ようやく伍長は敵の存在に気付いた。立ち止まった。
大尉は勝負を掛けようと思った。兵を手で制し一人装甲板の向こうへ走り、振り返り様に撃つ。
大尉は地を蹴った。装甲板の向こうへ回り込んだとき、キング伍長の声が響いた。
「動くな!爆薬を仕掛けた!」
下手な日本語だった。
「何っ!」
大尉の持ち上げかけた小銃が止まった。
「なんと、秋山大尉ですか。自ら索敵とは勇ましいですな。」
キング伍長は足場から大尉を見下ろしながら英語で言った。
手には小銃を持って大尉の胸に照準を付けていた。装甲板は肩から吊った左腕に固定してある。昼間の弱々しいキング伍長とは別人のようだった。
「大尉殿!」
後ろにいた兵が叫んだ。
「動くな!」
大尉と伍長の声が重なった。
「爆薬だと?」
大尉は言った。
「これですよ。」
伍長は小銃と一緒に握っている紐を見せた。その紐は塹壕の壁に掘られた穴に押し込まれた手榴弾のピンに繋がっていた。
「なるほど、それを引けば爆発すると。」
「そうです。大尉が私を撃ち私が塹壕の底へ落ちても、ピンは抜かれレバーが弾けるでしょう。」
「穴に手榴弾を入れても爆圧は噴き出すだけだぞ。」
大尉は言った。
「残念ながら大尉、この手榴弾の奥にはM3の砲弾が入っています。」
こっそり拾った砲弾だ。
「!」
「判ったら離れてください。」
と伍長は言った。
「何の目的でをここを爆破する?」
「大尉ならお判りでしょう。」
「…。」
大尉は歯ぎしりし、振り向いて兵に叫んだ。
「下がれ!命令だ!」
「はっ。」
兵は塹壕の向こうへ走り出した。大尉はここで伍長と刺し違えようと思った。
兵の後姿を見送った大尉は、振り向きざま小銃を持ち上げた。だが一瞬伍長の発砲の方が早かった。
伍長の弾丸は大尉の右肩を撃ち抜いた。大尉は後ろに倒れた。伍長は動かなかった。
「なぜ急所をはずした?」
大尉は叫んだ。
「反撃を封じたまでです。」
伍長は答えた。
確かに心臓を撃ち抜かれても意識が無くなるまでの最期の一瞬の力で引き金を引くことは出来る。
「ではなぜ止めを刺さん?」
「…判りません!」
伍長は正直に言った。そして続けた。
「退いて下さい!お願いします!」
伍長の眼は朝のそれになっていた。
「だが、無事に岩場へは帰れんぞ。」
と大尉は起き上がると言った。
「承知の上です。」
伍長は答えた。
大尉は肩を押さえ塹壕内を洞窟の方へ走っていった。
洞窟に戻った大尉は、すぐに重機の機銃手に言った。
「もうすぐ爆発が起こる。それに紛れて奴は岩場に戻るはずだ。そこを狙え。小銃を撃てる者も準備しろ!」
直後、大爆発が起こった。
伍長は爆炎を煙幕代わりに岩場へ走った。その彼を秋山部隊の一斉射撃が追った。伍長の装甲板は何度も弾を弾いた。岩場まで五メートルほどまで近づいた時、重機の射撃が止んだ。
「?」
伍長は不思議に思ったがとにかく岩場の陰にたどり着いた。走った為に左肩は激痛が襲っていたが、新しい傷は負わずに済んだようだった。
洞窟では大尉が言った。
「重機は弾切れか?」
「はい。残弾ありません。」
「そうか。」
大尉は言った。
塹壕の壁は伍長の狙い通り崩れ、遮蔽物ではなくなった。もうあそこを拠点に手榴弾攻撃を掛けることは出来ない。伍長は、ジミーの銃ではなく今度はヘルメットを撫でて一人言った。
「やりましたよ。ブラウン中尉。」
伍長はにやりとした。
秋山大尉も崩れた塹壕を見てキング伍長の意図が判った。
「そうか。」
「なんです?」
兵が訊いた。
「もう塹壕から、岩陰に手榴弾を投げ込むことは出来ない、ということだ。」
「奴は一体何者なのです?特殊部隊員ですか?」
「そんなことは無い。我々だって敵の中隊や補給部隊を恐怖に落としこんだんだ。今は奴の方に地の利があるだけだ。奴はベテランだが、ただの伍長だよ。もっとも今は中隊長だが。」
大尉はキング伍長が中隊長マークのついたヘルメットをしていたことに気付いていた。
「どうやら中隊長の自覚ができてしまったようだな。」
大尉はそう思った。
伍長はすぐに次の作戦に移行することを決めた。自分の『野戦指揮所』を、塹壕の崩れた部分に前進させることである。あの位置なら完全に洞窟の入口を封鎖できる。また崩れた形から見て敵からの射撃を避けることも出来そうだった。
「重機は変なタイミングで止まった。再射撃も無かった。ひょっとしたら弾切れになったか?」
伍長は思った。
「それもこの前進作戦で確認できるな。」
伍長は二挺の銃をはじめ、持てるものを全て身につけ、左腕に装甲板を固定し、岩の上の『野戦指揮所』と書いた装甲板に手を掛けた。
体の左側を二枚の装甲板で遮蔽し、伍長は岩場から飛び出て前へ走った。とは言え重量物を背負い傷を負った体である。情けない程遅い前進だった。
洞窟内は大尉の負傷で動揺していたところだった。
「敵が前進を始めました!」
見張りの兵の声が洞窟内に響いた。
「小銃射撃!」
大尉は命じた。
伍長の左側には小銃弾が撃ち込まれたが、全て装甲板に弾き返された。やがて伍長は目標の地点にたどり着いた。崩れた塹壕の上に装甲板を立て、その下の土を少し掘り銃眼を作った。そして思った。
「やはり、重機は弾が無くなったようだな。」
にやりとした。
「敵は塹壕の崩れたところに陣を移したようです。」
兵が報告した。大尉は頷いた。そして、
「こちらの重機の弾切れにも気付いただろうな。」
と独り言を言った。続けて、
「いい場所を取られた。あそこから狙われては塹壕に展開することも無理だな。」
洞窟から塹壕まで移動する間に撃たれる、また塹壕にたどり着いても明るくなれば狙い撃ちになる、ということだ。
「完全に封じ込められた。ということですか?」
兵が訊いた。
「いや、まだだ。よく考えろ。方法はあるはずだ。」
大尉は自分に言い聞かせるように答えた。
「大尉殿。とにかく手当ての続きを。」
兵が言った。
「うむ。頼む。」
大尉は横になった。そして小声で手当てしている兵に訊いた。
「ところで、松下はまだ立てないのか?」
「はい。わき腹の貫通銃創にしてはひどいようです。」
「心配だな。無理して冗談を言って皆を笑わせないでいい、と伝えておいてくれ。」
「はい。大尉殿。」
兵は答えた。
八人の空
そのまま夜が明けた。伍長が一人生き残ってから五日目だった。
洞窟の入口にまた赤十字旗が掲げられた。同時に、
「ヘーイ!、キング中隊長!」
という下手な英語が聞こえた。日本兵が秋山大尉に教えてもらったのだろう。
伍長は赤十字旗を見、タオルを振った。敵の目的は判らないがとにかく休みたかったのである。伍長も下手な日本語で答えた。
「オハヨーゴザイマス!ミナサン!」
洞窟での笑い声が聞こえた。そして秋山大尉の声が聞こえた。
「これからそちらへ行きたい。本官以下7名、部隊全員だ。もちろん武装は置いていく。」
「全員?何を考えている?」
伍長はいぶかしんだ。その疑問に答えるように大尉の声がまた聞こえた。
「他意はない。全員外の空気が吸いたいだけだ。それと死ぬ前に貴官の顔を見ておきたいらしい。」
伍長は納得した。秋山大尉は汚い手を使う指揮官ではないと信じ切っていた。
「了解です。両陣地中央でお願いします。」
「了解した。」
大尉が答えた。
伍長はタオルを『野戦指揮所』の装甲板の上に掛けた。
日米両兵は顔を合わせた。全員が負傷兵だった。
「まずは我々からの贈り物だ。」
秋山大尉が言い、また水筒を差し出した。伍長は素直に受け取った。
「感謝します。皆さん。」
大尉は伍長の返事を部下に通訳した。兵たちは頷いた。大尉は続けて言った。
「昨日の朝、貴官と私は横になって空を見上げた。皆、同じことがしたいと聞かなくてな。」
と大尉は笑った。伍長も笑顔で頷いた。
崖下の草原は、また不思議な光景になった。日米両軍の負傷兵が合わせて八名、無防備に横になり、空を見上げているのである。
突然、秋山大尉が伍長に言った。
「昨日、貴官がした話を部下たちに聞かせてやってくれないか。」
伍長は驚いた。
「良いのですか、あんな愚痴のような話をしたら部下の士気に関わりませんか?」
「構わんよ。あの程度の話で士気を失うような連中ではない。だが良い話だった。」
「はあ。」
伍長は語った。秋山大尉は通訳に徹していた。
星空も青空も子供の頃見たものと何も変わっていないこと、風の音、虫の声、土や草の匂い、これらも何も変わっていないこと。変わったのは人間だけだと思った、ということ。そして、小銃を見て、なんで人間はこんなものを作ったのか、ということ。
日本兵たちは黙って聞いていた。
伍長は思わず言ってしまった。
「私はもう誰も殺したり傷つけたりしたくない。」
大尉はそのまま訳した。
日本兵たちは少し驚いたような気配を見せたがすぐ収まった。
一人の上等兵が言った。
「我々も同じですよ。中隊長殿。」
「!」
今度は伍長が少し驚いた。だが、すんなりと納得できた。
「でも、それが任務ですからね。」
別の兵が言った。
「…。」
伍長は黙っていた。
しばらくしてさっきの上等兵が言った。
「自分たちは未来の日本の為に闘っているのです。」
「未来?」
伍長は以外な単語に驚いた。
「はい。日本はおそらく負けるでしょう。でも自分たちは無駄死にではない。生き残った人々が、自分たちの死を無駄にしないような、より良い日本を作ってくれると信じているのです。」
伍長は驚いて訊いた。
「日本兵は皆そう考えているのですか?」
上等兵は笑いながら答えた。
「いえ、この秋山部隊七名だけでしょう。」
日本兵たちは笑った。
伍長は返事に困った。何とか口に出た言葉は、
「それが皆さんの強さの秘密ですか。」
だった。
日本兵たちはその台詞を茶化した。
「何をおっしゃる中隊長殿。」
「そうそう。中隊長殿の強さの方が謎ですよ。」
また日本兵は笑いに包まれた。
そしてまた全員が青い美しい空を見、風を感じ、虫の声を聞き、土と草の匂いを感じた。
「変わったのは人間だけか…。」
上等兵がつぶやいた。
「良い言葉かもしれませんね。」
別の兵が答えた。
「大尉殿は、我々にそれを聞かせたかったのですか?」
大尉は軽く頷いた。そして言った。
「そろそろ戻るか。」
「はい。」
上等兵が言った。だが別の兵が言った。
「待って下さい。中隊長殿がお休みなんですが…。」
キング伍長は日本兵の会話を聞きながら眠りに落ちてしまったのである。
日本兵たちは顔を見合わせて笑った。足掛け五日間一人で闘ってきたのだ。無理もない。
「まあ寝かせてやろう。どうせ昼間はお互い身動きが取れん。」
大尉は言った。
終戦
その頃、街道沿いに展開している米軍補給大隊のスミス少尉は新しい命令を受け取っていた。
彼は二十名ほどの部下と大きなメガホンを持って河を渡り、崖が右へ曲がる地点まで進出した。この先は敵の銃弾が飛んでくる場所になる。
スミス少尉はメガホンを口に当て叫んだ。
「キング中隊長!キング中隊長!聞こえますか?スミス少尉です。聞こえたら小銃で合図して下さい!」
キング伍長は驚いて眼を覚ました。周りを見て洞窟に赤十字旗が掲げられていることに気が付き、朝からのことを思い出した。
「キング中隊長!キング中隊長!スミス少尉です。聞こえたら小銃で合図して下さい!」
再びスミス少尉の声が草原に響いた。伍長は慌てて自陣に戻り小銃を一発撃った。
「ご無事だったのですね!重要な報告事項があります。落ち着いてよく聞いて下さい!」
伍長はようやく頭がはっきりしてきていた。
「重要な報告?何だ?いまさら戦車が来るってのか?」
伍長は思ったが、スミス少尉の報告は予想を遥かに越えた事だった。
少尉はメガホン越しに叫んだ。
「キング中隊長!戦争が終わりました!日本政府は連合国の降伏勧告を受諾しました!」
「…?」
伍長は少尉の言っている意味が判らなかった。
洞窟では秋山大尉が奥歯を噛み締めた。英語の判らない部下たちは何事かといぶかしんでいた。
「これから秋山大尉以下の将兵を降伏させます!」
スミス少尉は言った。
少し間が開いて日本語の通告が行われた。日本語のできる兵なのだろう。スミス少尉の声ではなかった。
「日本軍秋山部隊の将兵に告ぐ。貴国政府は連合国の降伏勧告を受諾した。戦争は終了した。武装解除の上、白旗を持ち、我が部隊に投降するよう要請する。」
洞窟内は騒然となった。兵は口々に言った。
「どういう意味だ?」
「日本が連合国に降伏した?」
「武装解除して出て来い?」
兵たちはキング伍長同様、この草原の闘いに没頭していた為、そんな大きな政治の動きを理解できる頭の状態では無かった。
秋山大尉は兵たちを静め、静かに言った。
「我が国が負けた。戦争は終わり、ということだ。」
「負けた…。」
兵たちは絶句した。
ブラウン中隊の総攻撃の後、大尉は
「今となっては、日本は負けなければならない。」
と言った。
そして皆で語り合った。だが、いざ現実となると素直に受け容れられることではなかった。
キング伍長も同様だった。
「我々が勝った?」
ほんの数日前に中隊のほとんどを失い、五日間死闘を繰り返している最中なのである。実感など沸くはずがなかった。
「繰り返す。日本軍秋山部隊の将兵に告ぐ。貴国政府は連合国の降伏勧告を受諾した。戦争は終了した。武装解除の上、白旗を持ち、我が部隊に投降するよう要請する。」
通告が繰り返された。
「うるせえな。」
大尉はまた鬼軍曹のような口調で言った。
「拡声器持って来い。」
兵が持って来た拡声器を口に当てると大尉は言った。
「指揮官の秋山である。通告は受け取った。ただし少し時間を頂きたい。」
スミス少尉が通訳兵に命じた返事は、
「貴官に考慮の余地は無い。即時武装解除の上、投降せよ。」であった。
大尉は激怒した。珍しいことだった。
「何だと!舐めたことを言う!」
大尉は怒りに任せて叫んだ。兵たちが初めて見る大尉の姿だった。
大尉は拡声器を持ち喧嘩を売った。
「即時投降を命じるならば、我が国の内閣総理大臣がサインした降伏文書を提示せよ!」
「…。」
スミス少尉は言葉に詰まった。
大尉は少し言葉を緩めて言った。
「ただ少し時間を頂きたいだけだ。他意はない。またキング中隊とは現在休戦中である。」
「休戦?」
スミス少尉はメガホンを兵から奪い取って叫んだ。
「キング中隊長!現在休戦中なのですか?」
小銃音が響いた。
「秋山大尉。了解した。三十分待つ。」
少尉は通訳兵に言わせた。
洞窟内は少し落ち着きを取り戻していた。兵たちは言った。
「負けたのか…。」
「本当か?俺たちを投降させるためのハッタリじゃないのか?」
大尉は首を振った。
「事実だろう。そんなハッタリを使うのなら、もっと早く使っていたはずだ。少なくともあの総攻撃の前にはな。」
大尉は静かに言った。
「そんな…。」
「では自分たちは降伏して生き残るのですか。数え切れない戦友が死んで、生き恥を晒せと言うのですか?」
兵たちは皆、死ぬことを前提に心の落ち着け場所を見つけていたのである。そこに突然「生きろ」と言われれば当惑するのも当然であった。
兵たちの心は悶え苦しんだ。
どうすればいい? なぜ死ねなかった? なぜあいつが死んで俺が生き残った? 国の偉い人が『負けました。』と言っただけで、俺たちの死と生は簡単に入れ替えられるのか?
皆黙って下を向き心の苦しみに耐えていた。
やがて皆の眼は秋山大尉に向いた。いつもの大尉の顔だった。
「まず命令を伝える。街道攻撃の任務を解除する。そして全員武装解除の上投降せよ。すぐに病院へ入れ。」
「た、大尉殿!」
上等兵が叫んだ。大尉は手で制して静かに言った。
「四人が戦死したあの日、俺たちは自分たちが死ぬ意味を語り合った。そして生き残った者が、死んだ者に恥じない国を創ってくれることを信じて逝こう、と言った。その為の尊い犠牲なのだ、とも言った。未来の為、子供たちの為、とも言った。」
「…。」
「だが運命は残酷な結果を我々に与えた。」
兵たちは頷いた。
「しかし考えろ。この太平洋や大陸の広い戦場で我々のように死に切れず生き残った者がどれくらいいるだろうか。きっと相当な数の将兵が生き残っているはずだ。そして我々は彼らに未来の期待を掛けて死のうと決意していた。」
「…。」
「その『未来を創る生き残り』の役割が俺たちに回ってきたのだ。いいか、単なる偶然で生き残ったのではない、生き残るべくして生き残ったのだ。君たちがこれからの日本に必要だから生き残ったのだ。」
「判りません!」
兵の一人が叫んだ。
「大尉殿!それこそ詭弁です!」
「そんなことはない!」
大尉は大音声で言った。
「生きるんだ。貴様たちは選ばれて生き残ったのだ。日本再生の為に生きるんだ。それが…貴様たちのこれからの任務なんだ。」
「…。」
やがて洞窟内にすすり泣きの声が響いた。そして、それは号泣となった。人間の肉体と心の限界を超えて闘い抜いた六名の勇士が号泣していた。
大尉はそんな部下たちを慈しむような眼で見つめていた。
しばらくの時間が経った。秋山大尉は少し落ち着いた兵たちに言った。
「休んでおけ。私はキング中隊長の所へ行って来る。」
大尉は伍長の陣地の側まで来て声を掛けた。
「中隊長、お邪魔してもいいかね。」
まだ呆然としていた伍長は驚いて答えた。
「は、はい。どうぞ。」
「ありがとう。」
大尉と伍長は向かい合った。
「どうやら終わったようだな。」
「はい。でも自分には良く判りません。」
「ははは、難しく考えなくていい。もう銃を撃たなくていい、それだけだ。」
「はい。でも、勝ったなんて気持ちは全く感じられません。」
「そうか。最後にお互い辛い闘いになったからかもしれないな。」
「はい。そうですね。そう思います。」
「ここへ来た用事は、貴官を称えるためだ。貴官はたった一人、重機に狙われ手榴弾の雨をかいくぐって私の部隊を追い詰めた。見事に前中隊長から委譲された任務を全うした。その勇気に心より敬意を表する。」
「いえ、秋山大尉。あなたの戦いぶりこそ見事でした。正々堂々と倍する敵に当たられました。そしてあなたの武士道精神にも心より敬意と感謝を捧げます。」
「ありがとう。最後に貴官のような好敵手に出会えてよかった。」
「ありがとうございます。」
伍長は頬を緩めた。
大尉も少し表情を崩した。
だが二人とも、眼は憂いに満ちていた。
新しい任務
少し間をおいて大尉が言った。
「中隊長。お願いがある。部下たちを投降させる。彼らを連れて行ってくれないか。そしてすぐに病院へ入れて欲しいのだ。」
「はい。それは結構ですが、大尉はどうするのです。」
「部下の任務は私が解除して、投降するよう命令をだした。だが私は別だ。私の任務は解かれていない。洞窟に残る。もちろん、もう攻撃はしないがな。」
「大尉!戦争自体が終わったんですよ。もう任務も無いではありませんか。」
「終わったと言っても、スミス少尉の言葉だけだ。士官として信用するわけにはいかない。」
もっともと言えばもっともだった。
「では日本軍の軍令が来るまでは降伏しないと?」
伍長は訊いた。大尉は頷いた。
「判りました。」
伍長には判っていた。この人は自分が説得したところで翻意するような人でない。
伍長は繰り返した。
「判りましたが大尉。任務以外のことは絶対にしないと約束して下さい。」
「?」
「はっきり言います。自決は任務に入っていませんね。」
伍長の眼は真剣だった。
「入っていない。」
大尉は答えた。
「判りました。では六名を連れてスミス少尉の指示に従います。」
「よろしく頼む。」
大尉は洞窟に戻った。皆大尉を見つめた。大尉は穏やかな声で部下たちに言った。
「大丈夫か? 少しは落ち着けたか?」
皆頷いた。そして上等兵が言った。
「大尉殿、お願いがあります。」
「何だ?」
「命令して頂きたいのです。」
「何をだ?」
「先程のお話をです。我々に正式に任務として与えてください。それならば生き恥を晒しても頑張って生きて行けそうに思います。これは六名全員の総意です。」
大尉は驚いた。
そして優しい眼になって言った。
「判った。では我が特別任務部隊、最後の命令を伝える。」
立てる兵は立ち上がった。大尉は力強い声で言った。
「諸君に命じる。何があっても国へ帰り、日本を、死んでいった戦友や国民に恥じないより良い国に創り上げるよう努力せよ。やり方は各自の得意分野を活かすべし。以上である。」
「はっ。」
兵たちは敬礼で答えた。大尉はまた口を開いた。
「補足しておく。この任務は非常に困難を伴い、またおそらく終わりの無い任務であると考えられる。各自が自分の指揮官となり、無理のない指揮を執れ。また、この任務の達成の基準は各自が自分の良心と信念に基づいて決定せよ。以上だ。」
「はい!」
兵たちは声を揃えて返事した。
キング伍長を先頭に六名の日本兵がスミス少尉の元へやって来た。一人は担架に寝かせられている。やってくるなりキング伍長は言った。
「スミス少尉。お願いがあります。彼らは全て上等兵以下の兵ばかりです。尋問も無いでしょう。すぐに野戦病院へ送ってやって下さい。」
「…了解です。中隊長。でも中隊長も怪我を…。」
「それは後で結構です。それより秋山大尉を投降させねばなりません。」
「秋山大尉はまだ残っているのですか?」
少尉は驚いて訊いた。
伍長は手短に大尉とのやり取りを話し、大尉の上官からの命令書が必要だ、と言った。伍長は続けた。
「秋山大尉の上官は、北陣地の日本軍守備隊の隊長です。彼かそれに値する人からの命令が必要です。」
「判りました。北陣地の隊長は今村大佐という連隊長です。我々の師団参謀長と一緒にいるはずです。師団司令部は移動しましたが参謀長が終戦処理の責任者として残っています。連絡を取りましょう。」
「ありがとうございます。少尉。」
「ですが…、なぜそんなに秋山大尉を救おうとされるのですか?」
「救うに足る軍人、いえ人物だからです。」
伍長は言った。そして五日間のことを少尉に話した。
「判りました。すぐ参謀長に連絡を取りましょう。」
「よろしくお願いします。」
そう言うなり伍長は倒れた。伍長も限界を超えていた。
「中隊長!」
スミス少尉は叫んだ。
「大丈夫です。めまいがしただけです。」
「いけません。きっと栄養失調です。すぐに点滴を。」
「はい。ですが、秋山大尉に命令書を届ける時は私も連れて行って下さい。お願いします。」
「判りました。あとはお任せください。」
その言葉を聞き、安心した伍長は気を失った。
スミス少尉は伍長を野戦病院に運び、北の仮司令部に電話をかけた。この時には街道沿いに電話線が引かれていた。伍長の封じ込め作戦のお陰だった。
日本軍の北陣地は終戦まで健在だった。その為守備隊長である今村大佐は生き残っていた。彼はスミス少尉の上官である師団参謀長から尋問を受けていた。
そこへスミス少尉からの電話が入った。受け取った通信兵は、参謀長は今村大佐を尋問中なので電話の取り次ぎはできない、と言った。が、少尉は、是非そこに繋いでくれ、今村大佐にも関係のあることだ、と依頼した。
電話が参謀長室に繋がった。
「スミス少尉です。お忙しいところ申し訳ありません。参謀長。」
「どうした。Dポイントでトラブルでもあったか?」
「トラブルというほどではありませんが、日本軍は兵のみ投降し秋山という大尉が一人残っています。上官の命がなければ降伏できないと。」
「ふむ、なるほど。それで、その秋山という大尉に今村大佐から命令を出して欲しい、というわけだな。」
「その通りです。」
その時、参謀長の受け答えを聞いていた今村大佐が驚いて言った。
「秋山が…生きているのですか?」
参謀長は受話器を持ったまま頷いた。
「貴官の命令がないと降伏しない。と言っているそうです。」
「判りました、すぐに命令書を…。いや参謀長、直接秋山の所へ行かせてもらえませんか?」
「…。」
参謀長は少し考えていた。そして言った。
「判りました、許可しましょう。しかし貴官がそこまで言うとは、その秋山という大尉はなかなかの軍人のようですな。」
「はい、我が連隊一の士官です。北陣地持久に当たり今回の後方撹乱作戦を上申したのも彼です。逃げ遅れた残兵と見せかけ集合し、あの地点で補給を寸断すると。全滅覚悟の作戦でした。」
参謀長は頷き、受話器の向こうで待ちかねているであろうスミス少尉に言った。
「連隊長の今村大佐自らが行くことになった。いいな。」
「連隊長自ら? 了解しました。ありがとうございます。」
スミス少尉は答えた。
今村大佐は警備の米兵と一緒に補給大隊所属のジープに乗り込んだ。
「秋山が生きている…。」
大佐にとって驚きであり喜びでもあった。そして、苦しい闘いを続けたことだろうと思い眼を閉じた。大佐は直接秋山大尉と部隊将兵をねぎらいたかったのである。
そう思い、はっと気付いた。
「兵は? 兵は何人残ったんだ?」
大佐は運転兵に訊いてみた。秋山部隊に狙われた補給大隊の兵なら知っていることも多いだろう。
運転兵は答えた。
「秋山大尉以下七名と聞いています。全員負傷しているそうです。」
「七名…。」
大佐は言葉を失った。秋山特別任務部隊は六十五名で編成した。それが七名…。
「いや、全滅を覚悟した作戦だった。七名も生き残ったと考えるべきだ。」
今村大佐は自分に言い聞かせた。さらに運転兵に訊いた。
「貴官の知っていることを話してもらえないだろうか?」
「はい。断片的ではありますが。」
運転兵は話した。
補給大隊にとって秋山部隊が脅威であったこと。三両のM3を伴った精鋭ブラウン中隊を壊滅させたこと。一人生き残ったキング伍長の奮戦の話もした。
「そうか…。」
大佐は再び眼を閉じた。そして眼を明けて言った。
「そのキング伍長にも会わなければならないな。秋山に勝るとも劣らない男のようだ。」
運転兵が言った。
「はい。我々補給大隊の兵にとってキング伍長は英雄であります。」
「そうだろうな。」
大佐は頷いた。
ジープはDポイントに着いた。
少尉と左腕を三角巾で吊った伍長が出迎えた。敬礼後二人は挨拶した。
「補給大隊スミス少尉であります。この地点の責任者であります。」
「ブラウン中隊、中隊長代理、キング伍長であります。」
今村大佐は驚いた。いきなりキング伍長と対面である。
「貴官がたった一人で秋山を封じ込めたというキング伍長…いや中隊長かね。」
「はっ。前中隊長より職責を委譲されております。」
伍長は自信を持って答えた。中隊の任務を果たしたと秋山大尉が認めたことが自信になっていた。
「貴官の勇気と健闘に敬意を表する。」
大佐は言った。
「はっ。ありがとうございます。」
伍長は答えた。
「よし、早速行こう。」
大佐はスミス少尉に言った。
「はい。」
今村大佐を中心に両脇にスミス少尉とキング伍長、後ろには十名の武装兵がついた。河を渡り草原を進んだ。崖が右に曲がるところでキング伍長が皆を止めた。そしてメガホンで言った。
「秋山大尉。今村連隊長をお連れ致しました。これからそちらへ向かいます。」
少し間を置いて小銃の発射音が響いた。今村大佐は反射的に身をかがめたが、少尉も伍長も兵も平気だった。
「何だ今のは?」
大佐が訊いた。スミス少尉が苦笑しながら答えた。
「了解の合図なのです。この戦場には特異なルールが出来てしまったのです。」
崖際を右に曲がると赤十字旗が掲げられている洞窟が見えた。
「あの旗もルールかね。」
大佐は訊いた。
「はい。休戦中の合図です。」
今度はキング伍長が答えた。
塹壕を超え洞窟に近づいた。右腕を吊った秋山大尉が出てきた。
「連隊長殿!ご無事でしたか!」
大尉は真っ先にそう言った。
「それはこっちの台詞だ。良く闘ってくれた。おかげで終戦まで北陣地は陥ちなかったぞ。本当に良くやった。感謝する。」
「はっ。ありがとうございます。」
大尉は答えた。二人は少し見つめあったが今村大佐は大切なことを思い出して大尉に言った。
「まず連絡だ。大日本帝国政府は連合国の降伏勧告を受諾した。大本営からは、各軍は武装解除の上連合国軍に降伏すべし、とのことだ。
これを踏まえ、貴官に連隊命令を伝える。秋山特別任務部隊の任務を解除する。並びに武装解除の上、北陣地を包囲している米軍連隊を擁する師団に降伏すべし。なお当面はスミス少尉の指示に従うべし。以上だ。」
「はっ。…しかし連隊長殿、その命令の為だけにここへいらっしゃったのですか?」
「うむ。このスミス少尉とキング伍長が、秋山大尉を救えと師団参謀長に掛け合ったんだ。それに貴様が生きているのなら直接命令を伝えるのが上官たる私の責任だからな。」
大佐は微笑んだ。
「…。」
大尉は言葉が無かった。
やがて秋山大尉はゆっくりと膝から崩れ落ちた。左手を地面に着き上体を支えたまま動かなかった。よく見ると背中が小刻みに震えている。
それに気付いた今村大佐は振り向いてスミス少尉に言った。
「申し訳ないが皆に後ろを向くよう指示してもらえないだろうか。」
少尉も大尉の様子に気付き、大佐の意図を察した。
「全員回れ右!そして、しっかりと耳をふさげ!」
少尉は号令を掛け自ら後ろを向き耳をふさいだ。米兵は皆それにならった。
今村大佐は秋山大尉の側に膝立ちになり、大尉の肩にやさしく手を掛けた。
「…宮崎…藤本…若林…山田…川田…木村…岡崎…吉田…川村…」
大尉は震える声で、死んでいった部下たちの名前を口にした。肩は震え続けていた。
今村大佐とスミス少尉が米兵に後ろを向かせ耳をふさがせたのは、士官である秋山大尉の名誉のためだった。泣く姿を敵に見せるわけにはいかない。少尉も部下に見せたくなかった。
だが左手を動かせないキング伍長は左耳をふさげなかった。その耳朶を打ったのは、秋山大尉の涙をこらえる苦しそうな呼吸だった。
やがて伍長も耐え切れなくなった。その場にくず折れると、大尉同様に地面に手を着き体を震わせ涙を堪えた。スミス少尉が伍長の肩に手を掛けた。
今村大佐もスミス少尉も、自身の頬に涙が流れていた。
病棟と収容棟
スミス少尉は、秋山大尉以下七名の日本兵とキング伍長を、北陣地の側に設置された仮設病院へ運んだ。
病棟は日本兵用と米兵用に分かれて隣り合っていた。また日本兵用は士官も兵も同じ病棟だった。日本兵用病棟の周りには当然鉄条網付きの柵が設けられ、完全武装の兵が監視していた。
そしてDポイントに用が無くなったスミス少尉の部隊に病院の警護任務が命じられた。
キング伍長は病室に入り、ベッドに寝て点滴を受けていた。
同部屋の負傷兵は皆ブラウン中隊の生き残りだった。彼らにとって伍長は中隊の戦友であると共に、休戦し病院へ収容してくれた命の恩人であり、たった一人戦場に残って闘い抜いた英雄でもあった。
部屋長の曹長は伍長の為に窓際の最も良い場所にあるベッドを空けてくれていた。
極限状態から開放された伍長の眼に、青い空が窓越しに見えた。そして地面には柵に囲まれた日本兵の病棟が見えた。伍長にとっては『最も良い場所』なのかどうか判らなかった。
あまりにも複雑すぎ、人に話して理解してもらえるような気持ちではなかった。
病室の兵たちは『英雄伍長』の武勇伝を聞きたがったが、伍長は看護兵に「しばらくそっとしておいて欲しい。」と依頼し、伝え聞いた兵たちも必要なこと以外伍長に声を掛けることを遠慮した。
伍長は横になりながら腰に違和感を感じた。ポケットに手に入れると、秋山大尉を迎えに行った時、無意識に拾った日本軍重機の空薬莢が入っていた。彼はそれを枕もとに置いた。なぜそんなものを拾ったのか自分でも判らなかった。
一方、日本兵の病棟では負傷者全員が押し黙っていた。北陣地で闘い生き残った者たちだ。
最初こそ新しい負傷兵が来るたびに、お互い生き残ったことを素直に喜び合ったが、やがてそれも収まると自分の心の世界に閉じこもっていった。
彼らの思いは共通していた。
「自分が生き残ったことを、素直に喜べない。」
ということだった。
「死に損ねた。戦友に申し訳が立たない。」
と思っている者も多かった。
心の底、もしくは無意識の所では
「生き残ったんだ。母国へ、家族の元へ帰れる。」
とは思っていた。だが、現実に意識に浮かぶのは、生き残ったが為の苦しみだけだった。
「なぜ、多くの仲間が死んでいった中で俺が生き残ったんだ?」
「俺なんかより生き残るべき優れた人物が斃れていったのに。」
「負けたのに、おめおめと生きて帰って生き恥を晒しながら生きて行くなど耐えられない。」
「あの時、もう一歩速く走れていれば砲弾をまともに喰らい、負傷ではなく死ねたはずだ。そうだったらこんな思いをしなくて済んだだろうな。」
「部隊長はどうして玉砕突撃をさせてくれなかったのだろう?」
『生きて虜囚の辱めを受けず』に代表される日本軍の精神は兵たちの心に染み込んでいた。いや、当時の日本国民の価値観だったと言ってもいいだろう。
そしてその国民自体、非戦闘員であるにも関わらず空襲で相当殺されたと聞かされている。
そんな国民の下へ、どの面さげて帰れるかという気持ちでもあったのである。そこに負傷の肉体的な痛みが襲う。皆、敗戦による環境の大きな変化に対応できずにいた。
日本兵病棟の空気は苦しみに満ちていた。
そんな中で秋山部隊の六名の兵だけが、なぜか比較的元気だった。
秋山大尉自身はベッドでいつも天井を見上げていた。そして夜になるとそっと外に出て病棟入口の階段に座り、煙草を吸いながら星を見ていた。
昼間、六名の兵は時々連れ立って病棟の外に出て、車座に座り話し合っていた。先任になる上等兵が皆に声を掛けたのである。
「大尉殿に与えられた最後の任務をどう果たすか、皆で相談しようじゃないか。」
皆、二つ返事で賛成した。病棟内は皆苦しんでいる。もちろん六名も苦しみの中にいたが、大尉の命令が彼らに生きる力を与えていた。そこで外で話をしようとなったのである。
皆語り合った。
「改めて考えると本当に難しい、何をすればよいのか判らない任務ですね。」
「そうだなあ。」
「俺たちに出来ること…『得意分野を生かし』か。」
「そして、『無理をするな』と『任務達成の基準は自分の良心と信念に基づき決定せよ』だ。」
「そして『指揮権は自分自身にある』と」
上等兵は言った。
「難しく考えなくて良いんじゃないか?国や国民の幸せの為に一生懸命働け、ということだと俺は理解している。だから『得意分野で』なんだろう。これまで命懸けで闘ってきたこと、射撃の上手い奴は狙撃銃を持ち、肩の強い奴は手榴弾を投げた。頭の良い奴は作戦を考えた。それと同じようなものだと思うが、どうかな。」
「そうですね。『よりよい国を創る』と思うととんでもない仕事のように思えますけど、大尉殿は俺たちに政治家になれ、と言ったわけじゃない。」
「そうだよ。俺は稲作農家だが、例えば一反から取れる米の量を倍にすることができれば、『よりよい国創り』に貢献したことになると思う。」
「できるのかよ。そんなこと。」
他の兵が笑った。
「まあ、俺の孫の世代まで掛かるかもな。」
言った兵も笑いながら答えた。
「じゃあ、子どもを生んで育てるのも『よりよい国創り』の大切な任務だな。」
「だからって女房以外の女と、あちこちに子ども作るんじゃねえぞ。それは指揮権の濫用にあたるぞ。」
皆爆笑した。
「わかってますよ。任務達成の基準は、自分の良心と信念でしょう?」
「いや、貴様の良心とやらは信用できねえ。」
また兵たちは笑いに包まれた。
六名の兵は他の兵たちに迷惑にならないよう外で話をしていたのだが、どうしても笑い声などは病棟内に聞こえてくる。病棟内の兵たちは、この状況下でなぜ笑えるのか不思議がり、不謹慎だ不愉快だ、という兵もいた。当然である。
日本兵病棟の責任者は加藤という少佐が担当していた。士官学校を優等で卒業し若くして少佐まで進級したエリートだったが、配属された連隊の長である今村大佐の薫陶を受け、現場任務にこだわったエリートらしくない男だった。
また秋山大尉の経験・能力・人柄に惹かれ、階級は追い越したものの、年長の秋山大尉を兄のように慕ってもいた。
加藤少佐も、秋山部隊の生き残りがなぜ元気なのか不思議だった。そして彼らの笑い声が他の将兵の神経を逆撫でしかねないことを危惧した。少佐は、秋山大尉に訊いて見ようと思った。
夜、いつものように秋山大尉が静かに外へ出て行った。加藤少佐は少しして外に出た。松葉杖をついて歩く少佐の右脚は膝から下が無かった。
「秋山大尉。少し相談があるんですが、いいですか。」
加藤少佐にとって秋山大尉は、階級に関係なく兄貴分のような存在だった。
「大丈夫だ。…あの連中のことだろう?」
大尉も気にしていたようだ。
少佐は頷いた。
「笑えることは決して悪くありません。むしろ歓迎だと思います。ただ大尉も判ってらっしゃるでしょうが、それを不愉快に思う将兵が多いのも事実です。」
大尉は無言で頷いた。
「それで教えて欲しいんです。なぜ彼らはあんなに元気でいられるのですか?」
「…俺は降伏の直前に彼らに任務を与えたんだ。それが彼らに『生きる勇気』を与えているのではないかと思う。」
「どんな任務を与えたんです?」
「もともとは命令でも任務でもなかったんだ。降伏前、彼ら六名はこの病棟の傷病兵と同じ気持ちだった。なぜ生き残ってしまったのか、死んでいった仲間や国民に申し訳ないと。」
「…。」
少佐は黙って頷き話の先を待った。
「俺はこう言ったんだ。皆、偶然生き残ったのではない、生き残る必要があるから生き残ったのだ、と。そしてそれは、死んでいった戦友や国民に恥じない新しくよりよい日本を創る仕事をする為であると。」
「新しくよりよい日本を創る…。」
大尉は頷いて言った。
「すると皆が言った。それを命令して自分らの任務にしてくれ、と。」
「…。」
「彼らは今、新しい任務をどのように遂行するか、自分に何が出来るか一生懸命考えているようだ。それが今の彼らの生きる力になっているのだと思う。」
「なるほど。…それなら大尉が参加していないのはなぜですか?」
「この任務に関しては、各自が自分の指揮官となり、自分の得意分野を活かして自分自身の指揮を執れ、と命じた。俺はこの件に関しては指揮権を放棄している。もちろん相談があれば一緒に考えるが、基本的に彼らが彼らなりに出来ること、したいことを自分で見つけることを期待している。」
「そうでしたか…。ようやく合点がいきました。しかし、すばらしい任務ですが非常に難しい任務でもありますね。」
「ああ、その通りだ。だから補足した。死んだ戦友や国民の為とはいえ自分に対して無理な指揮は執るな、ということと、任務達成の基準は自分の良心と信念に基づいて自分で決めろ、と。」
秋山大尉は話し、加藤少佐は頷いた。
そして少佐は少し笑顔になり明るい口調で大尉に訊いた。
「よく判りました。…ところで六名の中に金属加工の職人は居ましたっけ?」
「…?。いや、居ないが何のことだ?」
少佐は振り向いて病棟を見て言った。
「この中になら一人や二人はいるでしょうね。いやあ、国に帰れたら義足や義手作りで、より良い日本創りに貢献させようかと思いましてね。私以外にも手足を失った将兵はいくらでもいるでしょう。彼らに手足を与えることで仕事が出来るようになれば、またより良い日本が創られるわけですよね。」
「…。」
「ははは、自分の脚が欲しいだけですかね。」
加藤少佐は大尉を見つめて笑った。そして続けた。
「ところで今の大尉のお話ですが、病棟の将兵にも話してやってもいいですか?」
「ああ、もちろん。それで彼らの傷ついた心がなごみ、生きる勇気を持つことができるなら。ただ、押し付けにはならないように注意する必要はあるぞ。『選ばれて生き残った』なんて詭弁にすぎない、と思う者がほとんだ。あの6名もそうだった。こんな考え方もあるぞ、程度にして、後は本人たちの心に任せた方が良いと思う。」
「なるほど、確かにそうですね。まずは大尉が洞窟陣地でしたように、この病棟の将兵の気持ちを受け止めてやることから始めた方が良いようです。階級など関係なく、素直に人間同士語り合う、という気持ちでやりましょう。
…ところで大尉、私自身大尉に感謝します。私も『何故生き残った』と苦しんでいる一人です。各部隊長ならなおさらそう思うでしょう。ですが今、私が生き残った理由の一つが判りました。将兵を勇気付けるのが当面の私の任務です。秋山大尉、ありがとうございます。」
と少佐は笑った。
「加藤…病棟の将兵は大人数だ。無理はするなよ。」
大尉は少佐の脚を気遣った。
「はい。ありがとうございます。」
少佐は答えた。
翌日から加藤少佐は精力的に動き出した。杖をついて歩き回り、将兵一人一人と話し込んだ。
本来、少佐ともなれば現場の兵にとっては雲の上の存在に近いが、加藤少佐は違っていた。北陣地の戦いでは、指揮所に陣取る今村連隊長の『分身』として最も危険な最前線の指揮を執り、時には兵と肩を並べて小銃を撃ち手榴弾を投げた。また戦況が変わる度に銃砲弾の雨の中を指揮所へ走って今村連隊長と作戦を練り、また最前線へ駆け戻って来て効果的に反撃を指揮した。
北陣地の守備隊が一貫してまとまり、終戦まで陥ちなかったのは、今村大佐と加藤少佐の連携に拠る所が大きいと皆思っていた。
「少佐殿!危険です!指揮所への伝令なら自分が行きます!」と言った兵も多かった。だが加藤少佐は、
「馬鹿野郎!この陣地に安全な所などどこにある!あったとしても指揮官がそんな所に隠れていて戦になるか!それに俺は連隊長と作戦の打ち合わせに行くんだ。伝令で済む内容ではない!」
と怒鳴って、いつも自分が飛び出して行った。
敵の攻撃が一旦収まった時だった。ある兵が通り過ぎようとする加藤少佐を呼び止めた。その直後近くに敵砲弾が立て続けに打ち込まれた。加藤少佐は右足の膝下を吹き飛ばされた。呼び止めた兵も重傷を負った。
少佐は右腿を紐できつく結び止血すると、呼び止めた兵のそばへ這って行き負傷の程度を調べ始めた。
「し、少佐殿…。申し訳…ありません。自分が呼び止めたばかりに大怪我を…。」
「何を言う。貴様が呼び止めてくれなかったら、あのまま歩き続けて着弾位置にいたはずだ。木端微塵になっていたはずだ。貴様のお陰で助かった。ありがとう、礼を言う。」
そう言うと振り返り「衛生兵!」と叫んだ。
加藤少佐はそんな男だった。将兵の加藤少佐に対する信頼は厚かった。
終戦後、病棟に収容されても、将兵にとって加藤少佐は信頼のできる身近な存在だった。
その少佐が杖をついて、何やら将兵と語りだしたのである。将兵は少佐の言動を注視していた。
ある日、少佐と話していた一人の兵が大声で言った。
「少佐殿!いくら少佐殿のお言葉でも理解できません!」
病棟内は静かになった。皆、少佐と兵の会話に聞き耳を立てた。
「『選ばれて生き残った』だなんて…。自分が所属していた分隊は五つの壕に分かれて戦いました。そのうち自分の居た壕以外はみな砲弾に吹き飛ばされました。生き残ったのは自分の居た壕の者だけです。『選ばれた』とおっしゃるのなら誰が選んだのですか? 兵を配置した分隊長ですか? その分隊長が真っ先に吹き飛ばされたのですよ! 偶然、たまたまに決まっています!」
少佐は静かに頷き、そして優しく答えた。
「…貴様の言う通りだ。」
そして少しおいて続けた。
「確かに偶然だ。だが俺は、偶然にも意味があるのではないかと考えている。」
「?」
兵は困惑した表情を浮かべた。
「『偶然』に意味がある…ですか?」
少佐は少し頷き、兵の眼を見つめて言った。
「これから貴様は、国に帰り新しい人生を生きることになる。その人生が充実したものであり、かつ世の中に貢献した人生であれば…この『偶然』は意味を持つことになる、と思うのだが、どうだ?。」
「意味のある人生、でありますか?」
「近いが違う。『人生に意味を持たせる、または人生の意味を見つけられるような生き方を、自分で選んで生きる』ということだ。」
「…。」
兵は理解しようと考え込んだ。少佐は黙って待っていた。
「では…、自分に一体どうしろとおっしゃるのですか?」
少佐は少し微笑んで言った。
「死んでいった仲間の為、国民の為、そしてこれから生まれてくる新しい命の為に新しくより良い日本を創るんだ。」
「新しくより良い日本?」
少佐は大きく頷いた。
「難しく考えなくていい。政治家になれと言っているのではない。自分にできることを自分らしく、世の中のためになることをすればいい。」
「…。」
「あの秋山特務部隊の生き残りの一人は言ったよ。『俺は一反から取れる米の量を倍にする』と。素晴らしい生き方だと思わないか? 死んだ戦友たちも、『あいつが生き残ってくれて良かった』と思うんじゃないだろうか?」
「…。」
「今は苦しんでいい。数え切れない仲間を失ったのに自分は生き残ってしまった、そう思って当然だ。俺もそうだ。だから今は素直に、心の底から悲しんでいい。徹底的に苦しみ、悲しめば、やがて新しい任務が見えてくるはずだ。それもこれまでのような過酷な任務ではないぞ。日本が、世界が幸せになる為のやりがいのある任務だ。俺はそう信じている。」
兵はしばらくしてから尋ねた。
「少佐殿は…少佐殿は、ご自分の『任務』を見つけたのですか?」
加藤少佐は苦笑いして答えた。
「まだだ。ただ、今の任務はこの病棟にいる部下、いや…『仲間たち』に『生きる勇気』を取り戻させることだと思っている。」
「…はい…。」
兵は静かに答えた。
やがて少しずつ病棟内の雰囲気が変化してきた。夜にはやはり嗚咽する兵の声が聞こえる時も多かったが、昼間の将兵の眼は生き返ってきた。そして何人かは秋山部隊の六名の輪に加わるようになっていった。病棟外の笑い声の主は少しずつ多くなり、新しい将兵の輪も出来始めた。
病棟の雰囲気が変わって行くのを見て秋山大尉は加藤少佐に言った。
「見事だよ、加藤少佐“殿”。さすがだ。」
少佐は笑いながら答えた。
「おだてないで下さい。兄貴に“殿”づけで呼ばれるなんて、ケツが痒くなります。」
大尉も笑いながら言った。
「士官学校出の高級将校のくせに相変わらず口の悪い奴だ。」
「今村大佐と秋山大尉という上官に、そういう風に育てられたんですよ。」
「口の減らんところも相変わらずだな。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ところで大尉。この病棟の入口に看板を立てようかと思うのですがどう思いますか?」
「どんな看板だ?」
「新日本創造大隊本部、です。今村大佐なら許可してくれるでしょう。」
少佐は笑った。
「面白いな。いいと思う。皆元気が出るだろう。」
「はい、では大佐に許可をもらって来ます。」
加藤少佐の話を聞いた今村大佐は二つ返事で許可した。そしてさらに言った。
「どうせなら大隊ではなく連隊にしろ。その方が箔が付いて将兵も喜ぶだろう。私が名目上の連隊長になる。実際の指揮官は貴様だ。」
「しかし連隊の編成を我々が勝手にしては…。」
少佐は言い掛けたが、大佐は制して言った。
「いまさら参謀本部も軍や師団司令部もあるか。構わん、立てろ。何かあったら私が責任を取る。」
「はっ。ありがとうございます。」
加藤少佐は退出してから笑いがこみ上げた。
「今村大佐は『責任は自分が取る』と言ったが、もし参謀本部や師団司令部の高級幹部が文句を言って来ても、怒鳴りつけて追い返すだけなんだろうな。」と。
翌日、日本軍病棟の入口に看板が高々と掲げられた。
「新日本創造連隊本部」
である。兵たちは少佐の予想以上に喜んだ。
「いいじゃねえか。さすがは今村大佐と加藤少佐だ。」
「秋山大尉もだぜ。」
「しかし、全員本部要員かい?」
「そりゃそうさ、俺たちはみな自分の指揮官なんだぜ。」
「中隊長殿か?」
「いやいや、連隊の指揮官なんだから連隊長殿に決まってるだろ。」
「よく言うぜ。二等兵殿。」
みな大笑いした。
やがてその雰囲気は病棟の隣にある、日本軍捕虜収容所にも波及していった。彼らは負傷が無いため収容棟に入っており、日々米軍指揮の下労働をしていた。そこへ傷の癒えた負傷兵が入ってきて、“新しい連隊の任務”を伝えたのである。
やがて収容棟の入口にも「新日本創造連隊本部」の看板が立った。
だが、部隊長をしていた下士官、士官はなかなか心の整理がつかなかった。“新しい連隊の任務”の意味は判る。そう考えることで気持ちが楽になり生きる勇気が沸くなら、そう考えれば良い。そしてそう考えれば確かに気持ちは落ち着いた。
だが、仲間を失った兵たちと、自分の指示で死んでいった部下とは重みが違った。各部隊長たちは、「部下は自分が殺した。」との思いがどうしても抜けず、苦しみ続けていた。
ある夜、彼らは連れ立って病棟の入口に座っている秋山大尉を訪ねた。
「大尉殿自身はどう心の整理をつけたのだろう?」
との思いである。
だが、秋山大尉は苦笑して言った。
「私も心の整理などついていない。『あのとき突撃方向を少し左に指示していれば、損害は半分で済んだはず…』などと考えだすと切りが無い。やり切れんよ。貴官たちと同じだと思う。」
「大尉殿ご自身もそうなのでありますか。」
訪れてきた中尉、少尉や下士官たち最前線の若い指揮官たちは、答えは判らなかったものの、秋山大尉ですら苦しみ抜いていることを知り、どこか安心した気持ちにはなった。
大尉は言った。
「加藤少佐や今村大佐はもっと苦しんでいるはずだ。二人とも高級将校だが『現場指揮官』であることに異論はないだろう?」
みな頷いた。
「もっとも、内地の参謀本部の連中がどれほど責任を感じ苦しんでいるかは判らんがな。」
ちょっとした皮肉を込めた冗談だった。皆少し笑った。
「私が言えることは一つだけだ。今は皆、今村大佐や加藤少佐を見習うんだ。元気と生きる勇気を取り戻した部下の兵たちを応援するんだ。それが生き残った我々部隊長の当面の任務だと思う。また部隊長としての責任でもあると思う。どうかな?」
「…。」
部隊長たちは小さく頷いた。
「部隊長として部下を死なせた我々の心の傷は簡単には治らんさ。まじめに、部下を思いやり、任務の為に心を鬼にして部下を死地に送り込んで闘ってきた者ほどな。だから苦しんでいる貴官らは立派なんだよ。立派な部隊長だ。誰に恥じることもない。少なくとも私はそう思う。」
「…。」
部隊長たちは秋山大尉の言葉に聞き入っていた。
「もう一度言う。苦しみの大きな者ほど、立派な部隊長だったということだ。だから最後の任務も立派に果たそう。部下たちの生きる勇気を応援するんだ。自分のことはその後ゆっくり考えよう。ここへ来た貴官たちならできるはずだ。」
「はい!」
部隊長たちは返事した。涙を流しているものもいた。
秋山大尉は優しい眼で彼らを見つめていた。
遺言
米軍負傷兵の病棟からは、日本軍の病棟と収容棟の変化が良く見えた。静まり返っていた建物が、日を追う毎に活気付いて行く。建物の外で輪になって話している将兵からは笑い声さえ聞こえて来る。
「どうなってんだ、あいつら? 国が負けたってのに。」
米軍将兵は不思議がった。むしろ米軍の方が元気が無かった。戦争には勝ったとはいえ多くの仲間を失い、自分が生き残ったことを素直に喜べる状態では無かった。
キング伍長は最初に外で輪になって笑っていた兵が、秋山部隊の兵たちだと気づいていた。部隊の約九割が戦死し、自らも重傷を負った者ばかりである。
やがて噂が伝わってきた。
「日本兵たちは、新しいより良い日本を創ろうと考えているらしい。」と。
米兵には意味が判らなかった。だが伍長は、あの草原で日本軍の上等兵が言った言葉を思い出していた。
彼は確かこう言った。
「自分たちは未来の日本のために闘っている。日本は負けるだろう。だが自分たちは無駄死にではない。生き残った連中が、自分たちの死を無駄にしないような、より良い日本を作ってくれると信じているんだ。」と。
「皮肉にもそう言った上等兵たちが生き残ったわけか…。」
伍長は思った。
「だが…、そのように死を覚悟していた兵たちが、今度はよりよい日本を創るということで生きる覚悟を決めた、ということなんだろう。言葉にすれば易しいが、『死の覚悟』から『生きる覚悟』への転換は相当な苦しみを伴ったはずだ。」
伍長は想像した。そして、
「やはり秋山部隊は隊長も兵も只者じゃなかったってことだな。」
キング伍長は自分の好敵手を誇らしく思った。外からは秋山部隊を始めとする日本兵たちの笑い声が聞こえていた。
日本兵の笑い声が増えてきたある日だった。その日はよく晴れていた。
伍長は窓越しに青空を見上げ、草原で見た青空を思い出していた。あの時と同じ美しい空だった。そして、伍長は思い出した。
「あの時俺は思った。子どものころ見たカンサスの空と同じだ、と。自然は何も変わっちゃいない。変わったのは人間だけだと…。」
そこまで考えた時、外から日本語の叫び声が聞こえた。
「松下ぁ!」
「マツシタ? どこかで聞いた名前だな。」
伍長は思い出した。秋山部隊が総攻撃してきたとき、伍長がわき腹を撃ち抜き、その後手当てした兵だ。あの時隣に散開していた兵が確か「マツシタ」と言った。
伍長は日本軍負傷兵の病棟に眼を移した。そこには担架に横たわった兵が一人と六人の将兵が立っていた。見間違えようも無い、秋山大尉と部下たちだった。
伍長はよく見た。担架に横たわっている兵は動かない。周りの兵はしゃがみ込んでいた。
「まさか!」
伍長は驚いた。慌てて点滴の針を引き抜き、廊下へ飛び出た。外へ出た伍長は日本軍病棟の方へ走った。衛兵を怒鳴りつけ柵を開けさせ、秋山部隊の輪に飛び込んだ。
秋山部隊の兵たちは驚いたが、それがキング伍長だと判ると何も言わず場所を空けた。
伍長はしゃがみこんで担架に横たわっている兵を見た。まちがいなかった。伍長が思わず手当てしようと飛び出した松下二等兵だ。
伍長の手は震えていた。そして秋山大尉を見上げた。
「…。」
大尉は黙って首を振った。
「そんな…。」
伍長は絶句した。
秋山大尉が勤めて冷静に言った。
「当たり所が悪かったんだ。我々もわき腹の貫通銃創だと軽く思っていた。だが、ほんのわずか内臓にかすっていたらしい。少しずつ内出血していたようだ。松下は皆に心配かけまいと勤めて明るく振舞っていた。以前からそういう奴だった。」
大尉は眼を閉じた。
伍長は叫んだ。
「…松下二等兵!なぜ…なぜ今死ぬ!戦争は終わったんだ!もう命のやり取りは終わったんだ!なぜだ!」
血の滲むような叫びだった。
「…。」
秋山大尉も部隊の兵も押し黙っていた。
騒ぎに警備の米兵が集まってきた。スミス少尉も加藤少佐も来た。
「なぜ今になって…。これから『より良い日本』を創るんじゃなかったのか?」
キング伍長は叫んだ。
そして、さらに絶叫した。
「俺は…俺は人殺しだ!」
伍長は半狂乱になっていた。
その時、秋山大尉の左手がキング伍長の頬を打った。
周りの米兵は驚き銃を構えた。
「撃つな!銃を降ろせ!」
スミス少尉が叫んだ。
打たれた右頬を押さえ、伍長は大尉を見た。
大尉は大声で言った。
「しっかりしろ!キング中隊長!ブラウン中尉に仕込まれた度胸はどこへ行った!重機を物ともせず、我々を洞窟に封じ込めた勇猛キング中隊長はどこへ行った!」
「…。」
伍長は頬を押さえたまま立ち上がった。大尉は続けて言った。声は穏やかだった。
「しっかりするんだ。貴官は任務を果たしただけだ。世界の方が変わっただけなんだ。」
「…ですが大尉…。」
伍長はつぶやいた。
大尉は左腕を伍長の首に回し抱き寄せた。そしていたわるように言った。
「何も言うな。貴官の気持ちは良く判るつもりだ。昨日までの英雄的行為が今日は人殺しになる。人間はそんな世界を創ってしまったんだ。」
「はい…。」
「私はブラウン中尉という立派な人間を殺した。中隊のほとんどを殺した。任務の名の下にだ。それが英雄的行為か? 私だって立派な人殺しだ。」
大尉は穏やかに言った。
「はい…、私もあの草原だけで六名を殺したことになります…。」
伍長は答えた。
「戦友を亡くしたのと同じだ。いいか、これからは、この異常な世界の異常な任務の為に殺さなければならなかった人たちの為に生きるんだ。それが、なぜか罪に問われない人殺しをした人間の義務ではないか?」
「はい…。」
伍長は答えた。
しばらくして少し落ち着いたキング伍長は訊いた。
「松下二等兵は苦しんだのですか?」
秋山部隊の上等兵が答えた。大尉が通訳をしてくれた。
「突然空が見たいと言い出しまして、部隊の皆で外に運んだのです。松下は言いました。『あの時の空と同じだ。なんて美しいんだ。』って。その後眠るように逝きました。」
「空…。」
伍長はつぶやいた。
「そうです。あの草原の空であり、松下の故郷の空でもあります。キング中隊長のおっしゃった通り、昔から変わらない空でもあります。」
と上等兵は言った。
「…そうですか…。ありがとう。」
伍長は上等兵に礼を言った。
少しして、上等兵は躊躇しながら言った。
「実は松下二等兵からキング中隊長に伝言があります。」
「伝言?」
伍長は驚いた。
「はい。以下の通りであります。『我々ここの日本兵は、戦死者に恥じないより良い日本を創ろうと生きる勇気を取り戻しました。ですから戦勝国であるキング中隊長には、より良い世界、を創って欲しい。』と言い残しました。」
上等兵は伝えた。
「『よりよい世界』…。」
伍長はその言葉の持つ意味が判りかねた。だが一人の人間が死に臨んで言い遺した大切な言葉だ。それも自分に対して。伍長は松下二等兵の顔を見た。穏やかだった。
伍長は松下二等兵の足元に立つと、威儀を正し敬礼をして言った。
「松下二等兵殿、任務を承りました。自分に出来る限りのことを果たします。」
周りの日米軍将兵は、秋山部隊を除いて驚いた様子だった。
だが伍長にはそんな周りの空気などどうでもよかった。まだ良く判らないが、とてつもない任務を与えられたことだけは判っていた。
自分のベッドに戻ったキング伍長は天井を見つめていた。だが眼に浮かぶのは松下二等兵の死に顔と、自分宛の『遺言』だった。
「より良い世界…。」
伍長は頭の中で繰り返していた。
「大丈夫か?」
部屋長の曹長が声を掛けた。
「はい。取り乱してしまい申し訳ありません。」
伍長は答えた。
「敵だったとはいえ、終戦後に死なれると辛いものなのだな。」
曹長はねぎらった。
「はい。でも秋山大尉に一発もらって眼が覚めました。私がしたことは任務以外の何ものでもないと。これまでに倒した日本兵と何も変わらないと。」
伍長は曹長にそう答えた。
「そうか。」
曹長は答えた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」
伍長は答えたが、決して大丈夫では無かった。
理屈ではそうだ。他の日本兵と何も変わりはしない。だがなぜ、自分をさらに苦しめるような時に死ぬんだ、と彼は思っていた。あの草原で秋山大尉に「もう闘いたくありません!」と叫んだのは、『もう人を殺したくない。人が死ぬのを見たくない』という思いからだった。
それが無意識に急所を外した射撃になったのだ。なのに…松下二等兵は死んでしまった。なぜだ。
『なぜだ?』だけが伍長の頭を支配していた。
夜になっても伍長は一睡もせず考え続けていた。そしてふと思った。
「俺はなぜ『もう闘いたくない!』などと叫んだのだろう?」
そんなことを思ったのはあの草原での戦いの時が初めてだった。
「それまではただ無我夢中で戦ってきた…。『正義の戦い』だと信じて…。」
伍長は窓の外に見える日本兵の病棟を見て思った。
「奴らは…、いや、少なくとも奴らの国はファシズムの侵略国家だ。中国に攻め入り、そして宣戦布告もせず真珠湾を奇襲した。我が領土であるフィリピンや太平洋の島々も占領した。イギリス領、フランス領、オランダ領も占領し、オーストラリアや英領インドまで爆撃した。そんな奴らを倒すのは『正義』に間違い無いはずだ。俺は『正義』の為に命を賭けて戦い、『正義の敵』を倒した…。」
伍長は少し間を置いてさらに思った。
「…そのはずだ…。」
伍長は病棟から眼を離し天井を見上げた。
「なのに俺は『闘いたくない』と言った。そして『正義の敵』の死を見て苦しんでいる…。」
『なぜなんだ?』
その問いは松下二等兵の死ということではなく、それで苦しんでいる自分がわからない、ということでもあった。
星の空
伍長はまた窓の外に眼をやった。うつろに松下二等兵の遺体があった場所を見ては、「なぜなんだ?」と自問を繰り返していた。
その時、日本軍病棟から出てきた一人の士官が、入口の階段に座り煙草に火を点けた。その火に照らされた顔をみて伍長は少し驚いた。秋山大尉だった。
伍長は居ても立っても居られなくなった。大尉なら何か大切なことを知っているような気がした。
伍長は看護兵を呼び、日本軍病棟へ行くことを告げた。看護兵は外出禁止時間だと渋ったが、横から部屋長の曹長が言った。
「行かせてやってくれ。スミス少尉なら判ってくれる。何かあれば俺が責任を取る。貴官に迷惑は掛けない。」
「判りました。ただ傷に障りますので短時間でお願いします。」
看護兵は言った。
キング伍長は外に出た。空は満天の星空だった。
柵へ近づくと警備兵が言った。
「キング伍長でありますか?」
伍長は驚いた。
「そうだが、ちょっと通してもらえないだろうか。」
「はい、スミス少尉から伍長殿を通すよう連絡を受けています。どうぞ。」
警備兵は柵を開けた。どうやら部屋長の曹長がスミス少尉に連絡してくれていたようだ。伍長は改めて素晴らしい戦友たちに恵まれていることを実感した。
キング伍長は日本軍病棟の入り口に座っている秋山大尉に近づいた。だが、何と声を掛ければよいか判らなかった。
先に秋山大尉が伍長に気付いた。
「やあ中隊長。そろそろ来るんじゃないかと思ってたところだ。」
そう言って階段に座った腰をずらし、伍長に座るよう勧めた。
伍長はぎこちなく大尉の隣に座り、言った。
「私が来ると予想されていたのですか?」
「ああ。昼間に松下のことがあったからな。」
伍長は少し気分が楽になり軽口を言った。
「相変わらず、大尉の読みは鋭いですね。」
「ははは、ありがとう。」
その後、しばらく二人は無言で星空を見上げていた。
伍長は言った。
「大尉、報告です。ブラウン中隊は正式に解散しました。私もただの伍長に戻りました。」
「そうか。敵だった私が言うのも変かもしれないが、ブラウン中尉と貴官、立派な中隊長に恵まれた良い中隊だったと思う。兵も勇敢だった。」
「おっしゃる通りです。病棟にいる中隊生き残りの下士官兵たちはみな素晴らしい戦友です。スミス少尉も。」
伍長はさっきの柵のいきさつを話した。
「戦いが終わってみんな心に余裕が出来たのかもしれないな。心に余裕が出来ると他人を思いやることができる。」
大尉は言った。
「しかし大尉は激戦の最中も常に部下のことを思いやり、まして敵のことまで考えてくれました。私は大尉を軍人ではなく人間として尊敬しています。」
伍長は自分でも思っても見なかった『尊敬』という言葉が口にでた。大尉は苦笑した。
「おだてるな。戦場で指揮を執る下級指揮官なら当然のことだ。ブラウン中尉もそうだっただろう?」
「はい、素晴らしい中隊長でした。」
伍長は答え、大尉は頷いた。
「貴官もそうだったよ。死んで行った戦友の為にあそこまで闘える人間などそうはいない。それに中隊の総攻撃の時、あの岩場へ動いた時の貴官を私は覚えている。貴官は部下らしき兵を岩場へ送り出し、最後に自分が走った。貴官も分隊長か班長だったんだろう? 立派な指揮官だよ。」
大尉は静かに言った。
「ですが…、一旦伏せさせて、重機の向きが変わった時に走らせていれば、もっと助かったはずなんです。そう思うと苦しくて…。」
伍長は眼を伏せた。大尉は答えた。
「…それは結果だ。貴官は最善を尽くした。それでいい。その苦しみは、誠実な指揮官ほど強いものなんだ。ここに入院している部隊長たちも同じことを言っていたよ。…苦しむ者ほど立派な指揮官なんだ。」
「…。」伍長は答えられなかった。
「…キング伍長。私と何を話そうと思って来たのかね? 中隊解散の報告をしに来たわけではないだろう? …松下の死がまだ苦しいか?」
秋山大尉は優しく尋ねた。
「はい…。たまらない程に。ですが彼の死を苦しく感じる自分が…なぜ苦しく思うのかわからないのです。大尉が昼間おっしゃった通り、私は敵兵を倒すという任務を果たしただけです。ずっとそう思って戦って来ました。ですがあの草原で戦っている時から、私の中の何かが変わったように思うのです。」
「…。」
大尉は黙って頷き、先を促した。
「私は『正義』のために戦ってきたはずでした。なのに敵を倒したこと、言い換えれば『正義の敵』を殺したことを苦しんでいます。なぜなのか訳がわからないのです。混乱しています。」
「…。」
大尉は少しの間黙っていた。そして口を開いた。
「『正義』とは何か、考えたことがあるか?」
「?」
「今の貴官の『正義』は母国を守ること、だと思うが?」
「はい、その通りです。」
「なら言おう。我が国も『正義』の為に戦ったのだ。」
「?」
「判らないか? 例えばこの日米戦争の遠因となった満州事変だ。我が国は帝政ロシアやソ連の南下政策から自国を守るために満州を勢力下に置きたかったのだ。やり方はともかく、『自国を守ること』が『正義』ならば、我が国も『正義』の名の下に満州を占領したと言えるわけだ。」
「…。」
「その『日本の正義』を貴国やイギリス他の国々が邪魔をしようとした。それで戦争になった。」
「それは…」詭弁です、と伍長が言おうとした時、大尉が口元を少し緩めて言った。
「と、言ったら貴官はどう答えるかな?」
「我が国と貴国は違います。」
「どう違う? われわれは自国を守るという『正義』のために満州を侵略占領した。貴国は既に侵略したフィリピンや太平洋の島々を守るという『正義』を掲げた。イギリスとインド、ビルマは? フランスとインドシナは? オランダとインドネシアは? 中南米やアフリカは? 根本的には同じだと思わないか?」
「ですが…。」
「簡単なことだ。みんな自分勝手な『正義』を掲げているだけだということだよ。」
「…。」
「貴官はあの草原の夜、大自然を感じてそのことに気付いたのではないか? だから我々を『正義の敵』ではなく一人一人の人間として見られるようになったのではないか?」
「…では…では大尉は『本当の正義』は何だと考えているのですか?」
「まだ、そんなものは無いと思っている。」
「!」
「そう驚くな。正義などど仰々しい言葉を使うから混乱する。何が正しくて間違っているか、その『本当の基準』つまり世界中の人々が納得できる価値観を、まだ人間は発見していない、ということだ。」
「では人殺しも間違ったことではないと言われるのですか?」
「今の法律では戦争中ならば合法だろう? さらに言えば戦争そのものが合法だ。昔なら奴隷という名の人身売買が合法の時もあった。正しさの基準など時代が変われば変わるものであるし、同じ時代でも場所や民族、宗教が違えば基準は変わる。例えばカトリック教徒は金曜日に肉を食べてはいけないのだろう? 我が国は一年中食べても良い。だが、百年前の日本人は牛を食べることなど想像もつかなかった。私の言う『本当の基準』とは、時代も距離も宗教も越えた本当の価値観、すなわち真理のことだ。貴官はその真理に触れたのだと思う。だから苦しんでいる、と私は思う。」
「そうなのでしょうか…?」
「それは自分で判断することだ。それこそ『自分なりの正義』に照らしてどうか、ということではないかな。もう貴官は国が煽る『正義』に騙されずに自分の良心に則った『正義』をみつけることができるようになったはずだ。」
「良心…。」
「そうだ。これからは良心の声に耳を傾けて生きればどうかな。」
そして笑いながら続けた。
「とはいえ、法律は法律として守らないといけないぞ。法律は今の時代とその土地の人々の価値観であり、今の善悪の基準であることには違いないからな。」
よりよい世界
キング伍長はしばらく考え込んでいた。そして顔を上げると秋山大尉に言った。
「秋山大尉、実はまだ話したいことがあります。」
大尉は頷いて伍長の眼を見た。
「松下二等兵の言った『より良い世界』のことです。」
大尉は苦笑しながら答えた。だが眼は真剣だった。
「そのことか。松下の奴、途方も無いことを貴官に依頼しやがったな。」
「はい。ですが、自分にはまだよく判らないのです。『より良い世界』とは何なのかが。」
大尉は頷いて言った。
「そうだろう。実は私にも判るようで判らない。」
と笑った。そして続けた。
「ただ、日本兵たちはより良い日本を創ることをそう難しくは考えていない。彼らは自分の出来ることを一生懸命やり、豊かで平和な国を創りたい、と思っているだけだ。だから稲作農家の兵は、一反から取れる米を倍にする、と言った。彼らはそれでいいと思う。」
「では、我々戦勝国の人間にはもっと難しい任務があると?」
「うむ。だが基本は同じだと思う。豊かで平和な『国』ではなく『世界』を『地球』を創るということではないだろうか。
地上で殺し合いをしようが、空中戦や海戦をしようが、その上の青い空はいつも同じく平和だった。星の瞬きも平和だった。遥か大昔からな。」
「はい。空だけでなく、風の音も草木や土の匂いも同じでした。」
「そうだったな。貴官に教えてもらったんだった。」
大尉は苦笑した。伍長も笑った。大尉は言った。
「人間の世界を、貴官が感じた大自然と同じように、争うことなく平和に共存できるものにするんだ。」
「…やはり、とてつもない任務ですね。」
「だからさっき言ったろ。松下の奴、途方も無いことを貴官に依頼したって。」
二人は笑った。
伍長は大尉に訊いた。昼間からずっと悩み続けていたことだった。
「松下二等兵が、なぜ今日になって亡くなったのか、と思うと苦しくてやりきれない思いが押さえ切れないのです。」
「…そうだろうな。」
「大尉は、彼が終戦後に亡くなったことをどう思われますか? 私は、単に失血するまでに時間が掛かっただけでその間に終戦しただけ、と思いたいのですがどうしてもそれでは自分を納得させられないのです。」
大尉は少し考えてから言った。
「確かに…、単なる偶然といえば偶然に過ぎないだろう。だが、その偶然の出来事に意味が有ると考えるかどうかは別だ。意味が有ると考えれば、偶然は偶然ではなくなると思う。そしてそれは個人がいろんな出来事に対して自分で決めることではないだろうか。」
「…では松下二等兵の死に、どういう意味を感じるかは私次第だと。」
「そういうことだ。もし意味があるとすれば…、貴官はどんな意味や理由が有ったと思う?」
伍長はしばらく考えた。
「…あの遺言を私に伝える為でしょうか。そして彼の死を苦しく感じることで『正義』の正体を大尉に教えてもらう為だったのでしょうか?」
伍長はつぶやいた。
大尉は小さく頷いた。そして言った。
「私や戦友たちにとっては別の意味も有るだろう。だが貴官にとってはきっとそうなのだと思う。」
「はい。」
「ただ言っておく。出来事に意味が有ると『仮定』したらの話であることを忘れるな。松下が今日死んだのは貴官に遺言を伝えるためと、気づきを与えるためだったと、そう思うことで貴官の苦しみが薄れて『生きる勇気』が沸いてくるならそう信じればいい。そうでなければ信じなければいい。」
「はい、判りました。私は信じます。すでに彼の『命令』を、『自分に出来る限りのことを果たします』と受けてしまいましたし。」
伍長は笑った。
「そうだったな。」
大尉も笑った。
二人はまた星空を見上げた。
伍長が言った。
「より良い世界か…。」
「難しいな。」
大尉が答えた。
「具体的なことを考えれば、国家、経済、社会体制、科学技術、民族、宗教…、人間はお互いに対立するための概念や物を創りすぎたようにも思う。」
「…そうですね。」
伍長は答えた。そして続けた。
「ですが、それらは本来対立する為にわざわざ創られたわけではないですよね。」
「貴官の言う通りだ。民族の風習や、宗教が違うからといって殺し合いまでする必要は無いはずだ。人間が創った物は、全て本来皆が豊かに幸せになるために創り出された物だったはずなんだ。」
「それがなぜ対立の元になってしまうのでしょう? そしてそれに『正義』の名をつけるのでしょう?」
伍長は訊いた。
「貴官は何故だと思う?」
大尉は逆に質問した。
「…。」
伍長は考え込んだ。
大尉も少し考えて言った。
「少し質問を変えようか。例えば今回の戦争だ。貴国と我が国にどんな対立があった? 話し合いではカタが着かず、戦争までしなければならない程の対立とは何だった?」
「日本のファシズム体制を倒す為、真珠湾を攻撃され自衛の為だと思っています。それが『正義』だと思っていました。」
伍長は答えた。
「だが、本当にそうだったのか?と疑問を感じ始めているわけだ。」
「その通りです。」
「我が国がドイツやイタリアと同様のファシズム体制かどうかには異論が有るが、まあ仮にそうだとして、貴国に何の迷惑がある? それと、確かに先に手を出したのは我が国だが、武力で解決せざるを得ない程の状況になった、そもそもの対立軸とは何だと思う?」
大尉は訊いた。
「私のようなハイスクールしか出ていない下士官には難しすぎる質問ですよ。」
伍長は少し笑った。
大尉も少し笑って言った。
「そうか? 貴官はなかなか鋭い問題意識と思考力を持っていると感じるぞ。国に帰ってチャンスがあれば大学へ入ればいい。それまでにいろんなことの基本を学び、大学で詳しく研究するテーマを見つけることを勧めるよ。」
「おだてないでくださいよ。私が大学なんて。」
伍長は笑った。そして言った。
「さっきの質問の答えを教えて下さい。貴国と我が国が戦争までした対立軸って何だったのですか?」
大尉は答えた。
「一応私独自の見解だと断っておく。対立軸は『経済』だよ。さっきも言ったとおり本来人間が豊かに幸せになる為に、人間自身が生み出した制度だ。それが軸だと私は思っている。」
「経済?」
伍長はよく判らなかった。
「貴国と我が国が経済的に対立していたと? お互いに貿易で必要なものを売買して人々の豊かさに貢献していたのではないのですか?」
大尉は笑っていった。
「素晴らしい質問だよ。やはり貴官は大学へ行くべきだ。」
「茶化さないで下さい。」
伍長は言った。
「申し訳ない。調子に乗ってしまった。」
大尉は頭を下げ、そして続けた。
「直接の日米貿易はそうだ。だが問題は中国での利権争いだ。」
「中国ですか…。」
伍長は中国との関係には疎かった。
大尉は少し頷いて答えた。
「少し長い話になるかもしれんが…、日本は、貴国のペリー提督が来て開国して以来、さっき話した通りずっと帝政ロシアそしてソ連の南下政策を恐れていた。それが現実になったのが日露戦争だ。それ以降日本はソ連への防波堤として満州、つまり中国の東北部を見るようになった。そこに勢力圏を築いておきたかった。」
「…。」
伍長は黙って聞いていた。
「問題はやり方だな。強引に満州国を創るという方法を軍が勝手に取ってしまったが、他の方法もあったはずだ。むしろ中国の国民政府と協力してソ連に備えることもできたかもしれない。」
「でも実際は中国の一部を占領する方法を取ったと。」
伍長は訊いた。
「うむ。当然、中国の人々は侵略されたと思うだろう。日本が持っていたのは基本的にあの地域の鉄道の権利だけだったからな。それがまず日本と中国、国民政府との対立だ。」
「そしてそれが全面戦争になったわけですね。」
伍長は訊いた。大尉は頷いた。
「何が武力衝突のきっかけだったのかは、まだよくわかっていないらしいが、対立の内容はそういうことだ。そして全面戦争になった。」
「それで…。」
伍長は少し判ったように思った。
「そうだ。貴国やイギリスも中国に多くの利権や市場を持っていた。もし中国が日本に全面占領されるようなことになれば、それらの利権や市場を失うことになりかねない、いやなっただろう。」
「それが貴国と我が国との対立軸ですか。」
伍長は訊いた。
「と、私は理解している、ということだ。」
大尉は断言を避けた。
「こういうことは当事国ごとに理解の仕方が違うものだからな。」
「…。」
伍長はそういうものか、と思った。
大尉は言った。
「そこでだ、最初の話に戻ろう。経済は本来人間を豊かに幸せにするためのものだったはずだ。」と伍長の眼を見た。
伍長は答えた。
「それが不幸の原因になっています。今の例で、関係する国のうち勝とうが負けようが一般の国民が幸せになれる国ってあるのでしょうか。…『幸せにするための道具』の使い方を間違えた、ということなのでしょうか?」
伍長はしばらく考え込んだ。大尉は黙って星を見上げていた。
伍長は言った。
「…何かおかしい気がします。自分の国が豊かに幸せになるためという理由で、戦争して他国の人々を殺すことが許されるのでしょうか。」
「私もそうは思う。だがそれが今の世界の現実なんだ。戦争に訴えなくても各国は自国の利益しか考えていない。我が国もソ連が怖いから、資源が欲しいから、という自国の都合だけで朝鮮から満州を占領したわけだ。
中世以降欧州の国々も自国の都合だけでアフリカや南アメリカ、アジアを占領して植民地にしただろう。話し合いの外交でも自国の国益しか主張しないのが今の列強と言われる国々だ。むしろそれが外交のルールになっている。相手を思いやる気持ちなど持っていたら、逆につけ込まれる。」
「国益、ですか…。国というものは自国の国益しか考えていない、と。」
「そういうことだ。国際連盟が戦争回避に役立たないのは、国際連盟自体が単なる話し合いの場を提供する機関にすぎないからだ。各国より一歩高い立場で、対立する国々の主張を調整することができないからだ。」
「一歩高い立場? それは国家間の利害を超えた立場ということですか?」
「理論的にはな。例えば我が国は昔、鎖国していた時300程の藩と呼ばれる小国に分かれていた。それを圧倒的な武力を持った一つの国が他国を服従させていたに過ぎない。各藩は自藩のことしか考えていなかった。でも今は一つの国としてまとまっている。藩を超えた立場の人々が現れ、彼らが日本をまとめ直したからだ。」
「なぜそんなことができたのですか?」
大尉は笑って答えた。
「貴国のペリー提督のお陰かな。無理やりだったが開国させられて、列強の脅威を知ることができた。そして、これまでの封建体制ではだめだ、と気付いた人々がいたんだ。日本としてまとまって一つの力にならないと、他のアジア地域のように植民地にされてしまう、と。それで藩を超えた中央集権の政府をつくることができた。もっとも、もともとほとんど同じ民族で、歴史的には一つの国だったという背景もあるが。」
一息ついて大尉はさらに言った。
「私は貴国の歴史には詳しくないが…、最初の十三州が連邦政府を創った時もそうだったのではないかな。むしろ我が国よりもっと難しいことを成し遂げたのではないかな。」
伍長は少し考えてから言った。
「…つまり大尉は、世界の国々も国益を超えた一つのまとまりになれる、と。」
大尉は照れくさそうに言った。
「子どものような理想だろう?」
「そうかもしれませんね。でも人間はそれを目指すべきなのでしょうね。」
「同意してくれるのか?この夢物語に。」
「いいではないですか。日本の将兵は将来のよりよき日本を夢見ているのでしょう?私たちもよりよき世界を夢見ましょうよ。」
大尉はにっこりと頷いた。
「ありがとう。…では続けようか。人間は自分たちを幸せにする『道具』の使い方を間違えている。その理由は全て国益に縛られて利用しているからだ。そこで質問するぞ。なぜ国家は国益に縛られるのか、貴官はどう思う?」
伍長は大尉を茶化して言った。
「大尉。大学ってこういう風に授業するのですか?」
「ははは、一本取られたな。まあそんなもんだ。講義はハイスクールと同じ様なもんだが研究室ではそうかな。」
大尉は笑った。
「で、どう思う?」
「国家は国民の為に存在しているのですから当然のように思います。」
「だがその国家が、我々に殺し合いの地獄を与えている。なぜだ?」
「多数の国民の為に少数の軍人が戦う、ということではないでしょうか。警察官や消防士のように。だから戦死や殉職した者は、他人の為に命を投げ出した者として英雄とされるのだと思っています。」
「そうだ、国家は国民の為に存在している。昔はともかく少なくとも現在はな。特に貴国のように民主主義の発達した国ほどそうだろう。」
「はい。」
「私はそれが問題だと思っている。」
「?」
伍長は意味が判らなかった。
「いや、民主主義を否定しているわけではないぞ。国家単位の民主主義では国家は国益の縛りから解放されない、ということだ。」
「?」
ますます伍長は意味が判らなくなった。
構わず大尉は続けた。
「個人は、自分を守ってくれる国家に『根っこ』を張っている。だから国家の法律を守る。会社勤めをしていれば給料をくれる会社にも『根っこ』を張っている。だから社員は、会社を繁栄させるためにお互い協力して仕事をする。」
「『根っこ』ですか。」
「うむ。もっといい言葉が思いつけばいいのだがな。言いたいことは、何かに『根っこ』を張っているから『規律』が生まれる、ということだ。」
「規律…。」
「そうだ。例えば会社なら得意先や取引先、従業員、お金を貸してくれる銀行、株主、会社として認可をしてくれる国家など、いろいろなものに『根っこ』を張っている。お互いにな。だから国内で会社同士の競争があっても、まず国が安定して景気が良くないことには何も始まらない、という共通の目的があるわけだ。それが社会や会社のまとまりと活動の規律になる。」
「では、我々は…。」
「そうだ、我々は会社ではなく『軍』に『根っこ』を張っているが、その『軍』は国家に根っこを張っている。だから軍は国家の為に働くという規律を持っている。もっとも、今の我が国の軍は『根無し草』に近いがな。」
伍長に直観が働いた。
「…ということは今の世界の国家は一応国民に根っこを張っていますが、それは結局国家という独立した体制を守ることに『根っこ』を張っていることと同じだと。つまり国家という自分自身に『根っこ』を張っている…『根無し草』の状態だと。各国の国内は安定しても世界は『根無し草』の集まりだと。」
大尉は頷いた。
「その通りだ。それで『根無し草』の集まりだとどうなると思う?」
「さっき大尉の言われた、法律を守ったりお互いに協力するといった『規律』が無くなります。『共通の目的』も有りません。それに…『共通の正義』もありませんね。」
「そういうことだ。さらに言うと、さっき言った『一歩高い立場』の存在が無いから、『規律』や『共通の目的』が生まれないし、生み出そうともしない。」
「その通りだと思います。しかしそんな存在を人間は生み出すことが出来るのでしょうか?」
「そうだな。無理かもしれない。ただ私が思うのは『存在』と言っても物理的な、国際連盟のような機関でなくても良いと思う。というのは、これは私の信念に過ぎないが…世界中の人々の心の中には『一歩高い存在』いや『一歩高い価値観』が隠れていると信じている。それが表面化して世界共通の価値観になれば、世界は変わる。価値観こそ『正義』の基準だからだ。」
「…価値観ですか…。つまり国益を超えて世界中全ての人が豊かに幸せになることが理想の世界だとという価値観、それへの意識の変化ですね。」
大尉はまた頷いた。そして照れくさそうに言った。
「これもまた、子どもじみた信念だがな。」
「いえ、そんなことありませんよ。国益ではなく世界益、地球益という価値観ですね。」
「どうだ。松下の遺言はとんでもないことだと言った意味が判って来たか?」
「はい。とても私が生きている間に完了できそうな任務ではありませんね。」
伍長は笑った。大尉も笑った。そして二人はまた星空を見上げた。
大尉がつぶやいた。
「変わらないんだ。大自然は。」
しばらくして伍長は言った。
「人間は変わりすぎたのかもしれませんね。」
「そうかもしれないな。ひょっとしたら古代文明の人々の方が、物は無くても心は豊かで幸せだったのかもしれないな。」
「そうかもしれませんね。」
大尉は煙草を一本取り出し伍長に勧めた。伍長はくわえて火を点けた。大尉も新しい煙草に火を点けた。
「日本の煙草はどうだ?」
「クセは感じますが美味いものですね。」
「よかった。私は思うんだ。民族ごとの文明や文化の違いなど根本的にはこの煙草の違い程度にすぎないと。」
「そうかもしれませんね。」
「もちろん文化ごとにタブーはあるだろう。でも人間はそれをお互いに尊重して上手くやっていけるだけの知恵を与えられているはずなんだ。私はそう信じている。」
「そうですね。我々には『汝の隣人を愛せよ』という文化もあります。」
大尉は大きく頷いて笑顔で言った。
「そういった教えがすぐに出てくる貴官なら、松下の遺言を実行に移せそうだな。世界中の人々や大自然を『隣人』と思うことが出来ればいいわけだ。」
「いえいえ、とてつもない任務ですよ。私に何ができるか…。でも大尉は部下の将兵に言われたそうですね。『この任務は非常に困難を伴い、またおそらく終わりの無い任務であると考えられる。各自が自分の指揮官となり、無理のない指揮を執れ。また、この任務の達成の基準は各自が自分の良心と信念に基づいて決定せよ。』と。私は自分の出来ることを精一杯やるつもりでおります。」
「そんなことを誰から聞いた?」
「加藤少佐です。松下二等兵の遺体が運ばれた後に聞きました。」
「そうか。あの野郎め。」
大尉は舌打ちした。
伍長は笑って言った。
「『あの野郎』ですか?上官なのに。」
大尉も笑って言った。
「加藤少佐は士官学校を優等で卒業したエリートだ。それを徹底的に現場指揮官に育てたのが今村大佐と私なんだ。今では彼自身が参謀本部勤務なんて真っ平御免と思っているよ。」
「そうでしたか。とにかく私は大尉の命令通りに任務を遂行するつもりでおります。」
「私の命令? 松下の依頼だろう?」
「では、松下二等兵に与えられた任務を大尉の命令通りに遂行いたします。」
「わかった、わかった。」
大尉は両手を挙げ苦笑した。
それを見て伍長は笑って言った。
「あの草原以来、ようやく大尉をやり込めることが出来たようですね。」
大尉も合わせて笑った。
人間の任務
しばらくして伍長が言った。
「大尉、この任務について思うのですが。」
「何だ?」
「この任務は人間にとって究極の任務なのではないでしょうか?いわば神から人間に与えられた任務のように思います。」
「そうかもしれないな。ならば我が国の神々にもお気に召すようにしてもらわねばならないな。」
大尉は笑顔だった。
「神々?」
「日本には数え切れないほど神様がいるんだ。人間も動物も植物も機械や物にも神が宿ると考えている。山も川もみな神が宿っている。いわゆる自然崇拝だよ。野蛮人の文化だと思っている人もいるがそうではない。貴官自身、あの草原で大自然を感じて『変わったのは人間だけだ』という悟りを得ただろう?そういうことだ。もっとも一神教の貴官にとって都合が悪ければ神々ではなく精霊たちでもなんでも構わない。日本の八百万の神の信仰は文化であって宗教ではないからな。」
「幸福になるのは人間だけではだめだ、人間を含むこの大自然全体を幸福にするのが任務だ、ということですね。」
「そうだ。逆に言えば大自然が不幸で人間だけが幸福になどなれない、ということでもある。」
「はい。」
「それにこの任務の為には宗教をも超越しなければならない。」
「はい。お互いの宗教を尊重しあう、という価値観ですね。」
大尉は頷いた。そして続けた。
「イエスが、なぜ『汝の隣人を愛せよ』と教えたのか、と考えたことはあるか?」
「いえ、あまりにも小さな子供の頃から聞かされて来て、そんな風に考えたことはありませんでした。いわば当然の常識だと思っていました。」
「そうだろうな。だが大切なのはそこだと思う。イエスはどういう思想の元にそう説いたのかだ。それは残念ながら福音書には書かれていない。」
「言われてみれば確かにそうですね。なぜキリストは『愛し合う』ことを説いたのでしょう? 特に『敵を愛し憎む者に親切にせよ』とまで…。」
「東洋の思想の中には次のようなものがある。すべての生き物は本来神なるものであると。そしてその神性は全て繋がっており、本来の“神なるもの”にも繋がっている、というものだ。つまりすべてのものは本来ひとつで、かつ神なるものである、ということだ。これをイエスの教えの元の部分に当てはめてみたらどうかな?」
伍長は少し考えて言った。
「…不思議ですね、つじつまが合うような感じがします。『わたしは父の子であり、あなた方も同じである』という言葉もあったように思います。」
「貴官もそう思うか。まあ逆に『人間は生れながらにして罪人である』という教義のつじつまは合わなくなるんだが。」
と大尉は苦笑した。そして続けた。
「ただイエス自身はそんなことは一言も言っていない。福音書を読む限りはな。」
「では、あの教義は後世の創作だと?」
「さあな。それにそんなことは私にはどうでもいい。私はイエスの教えと仏陀の哲学に代表される東洋の思想に興味があるのであって、キリスト教や仏教という組織としての宗教に興味は無い。」
「なんだか、上手く逃げられた気がしますが?」
伍長は大尉を茶化した。
大尉は笑いながら答えた。
「私のように、宗教の影響を強く受けていない者に言わせるとこうなる。『真理は一つ』。仏陀もイエスも根本的には同じ真理を説いている、と。」
「大胆なご意見ですね。」
「そうかもしれないな。だがこう考えてみたらどうかな。例えば『真理』を『エベレストは世界一高い山であること』だとしようか。仏陀はそれをチベット側から見て悟った、そしてイエスはネパール側から見て悟ったと。ならば当然見える景色は違う。山の名前さえ仏陀側はチョモランマだと言うだろうしイエス側はサガルマータだ。だから、その『真理』を人々に教えようとしたら違った教え方になって当然だ。だが真理は『世界で一番高い山』ということだけだ。それ以上でも以下でもない。」
「…。」
「そこでだ、エベレストの北と南に住む人たちが、山の名前で対立して戦争を始めたとしたらどう思う?」
「あまりにもナンセンスです。馬鹿げています。」
「なぜだ?」
「真理と関係の無いこと、名前という、真理を説明するため『道具』のことで争っているからです。」
「その通りだ。だが、我々現代の人間はそれと大して変わらないことをやっていると思わないか?」
「あ…。」
大尉は伍長の眼を見て返事を待った。
「確かに…宗教にしろ政治や経済にしろ…本来は『みなが幸せになる』という真理…目的のための道具にすぎません。その道具の使い方で対立して殺し合いをしている…。」
「その通りだ。見事なまとめ方だよ、キング伍長。」
そして大尉は続けた。
「もちろん、どう考えようが貴官の自由だ。ただ、本当に一番大切な真理や目的を意識することが、お互いの価値観を尊重しあう方法として有効な考え方だと思っただけだ。」
「なるほど。確かにそれはそうですね。」
「押し付けはしない。ただ宗教を超えようと思うなら、いろんな宗教のこと、その神のことを学ぶ必要はあるだろう、それは政治経済にしろ、民族の風習にしろ、同じことだ。」
「そうですね。…本当に大変な任務です。」
「頑張れよ。キング伍長。」
「他人事みたいに言わないで下さい。大尉の部下から与えられた任務なのですよ。」
二人は顔を見合わせて笑った。
二人はまた煙草に火を点けた。今度は米国製だった。大尉は独り言を言った。
「美味いもんだ。」
伍長は煙を吸いながら考えていた。
「…やっと、これから俺のやるべき任務が判った。生き残った理由も判った。後はこの任務をどのように遂行するかだ。それは国へ帰ってからゆっくり考えよう。」
伍長の表情は穏やかになっていた。
「やはり大尉と話をしに来て良かった。」
そう思った。
大尉が言った。
「これからの貴官の健闘を祈るよ。」
伍長は右手を額に挙げ答えた。
「ありがとうございます。ですが大尉はこれからどうされるのですか? できれば一緒に夢の世界を創りませんか?」
大尉は微笑んで言った。
「ありがとう。だが、まだいつ国に帰れるか判らない。それに私には部下がいる。彼らを国に無事帰すまでは責任がある。」
「そうですね。失礼しました。」
「いや、ありがとう。」
そして二人はまた星々を見上げた。さえぎる雲一つ無い美しい満天の星空だった。
帰国
翌日、キング伍長は辞令を受け取った。補給大隊へ転属とのことだった。上官はスミス少尉となる。そして補給大隊には帰国命令が下った。将兵たちは狂喜した。
数日後、キング伍長は輸送船上にいた。太平洋は穏やかだった。乗り合わせた海軍の兵たちが時々海に花束を投げ、祈りを捧げていた。海戦のあった海域か同経度の位置なのだろう、と伍長は思った。
「本当に多くの人が死んだ。もうごめんだ。人間はこの大戦争を最後の戦争にする知恵を持っているはずだ。それを見つけるのがこれからの俺の任務だ。この任務は世界で最も崇高な任務だと思う。みんな、力を貸してくれ。」
伍長は心の中でそう思いながら、海軍の兵に混じって祈りを捧げていた。
船は無事カリフォルニア州サンディエゴの港に着いた。カンサスはまだ遠いが、夢にまで見た母国である。自然と涙が流れた。周りの将兵もそうだった。
その時スミス少尉がキング伍長に近づいて言った。顔はこわばっていた。
「秋山大尉のことで貴官に知らせておかなければならないことがある。」
「どうしたのです? 何かあったのですか?」
「我々の航海中に、秋山大尉が戦犯容疑で逮捕された。」
「戦犯? 大尉が戦争犯罪を犯していたと?」
「いや、容疑を掛けられたのは大尉の部下二名で罪名は捕虜虐待だ。だが大尉は、二名は自分の命令に従っただけで責任は自分にある、と譲らなかったらしい。」
「では部下二名は無事ということですか。」
「ああ、あの病棟と収容棟にいた将兵は、戦犯容疑者を除いて日本への輸送船に乗っている。」
「あの秋山部隊の兵が捕虜虐待などするとは思えませんが…。」
「いや、Dポイントの秋山部隊の兵ではなく、その前に今村連隊で中隊長を務めていた時の部下らしい。」
「それにしても、秋山大尉指揮下の兵が無抵抗の捕虜を虐待するなんて…。」
伍長は信じられなかった。
「私もそう思うが逮捕は事実だ。」
スミス少尉も信じられない、という顔つきだった。
「それで、秋山大尉は二人の部下をかばったということですか? 大尉がそんな命令を出すはずがありません。」
少尉は頷いた。
「秋山大尉は『自分の命令だ』と言ったきり、あとは完全黙秘を続けているらしい。だから正確なことは判らない。だが、おそらく貴官の言う通り部下をかばったのだろうと私も思っている。」
「…。」
伍長は言葉が出なかった。
「帰国早々嫌な連絡だ。だが伝えないわけにもいかんからな。」
「いえ、わざわざありがとうございます。」
伍長は敬礼し二人は別れた。
「何かの間違いだ!」
西に広がる太平洋の水平線を見つめながら、キング伍長は自分に言い聞かせていた。
補給大隊はサンディエゴの港で平時勤務に戻っていた。左肩を傷めたキング伍長は力仕事が出来ないため、大隊本部での事務が仕事だった。平穏な日々が続いていた。
一年後、スミス少尉は中尉に昇進し同じく本部に勤務するようになった。
キング伍長はこれからのことを考えていた。頃合を見て除隊し、まず勉強しようと思っていた。政治、経済、社会、宗教、民族、歴史…、あの任務の為に学ぶことは山ほどあった。
勤務中も時間を見つけては本を読んで知識を得、スミス中尉を始めあらゆる人と話をして、そこからいろいろな知恵や価値観といったものを得ようと心がけていた。
一方大隊長は、キング伍長とスミス中尉には分からないように、フィリピンのマニラにある裁判所と連絡を取っていた。厳密には裁判所に近い地位に士官学校時の同期生がおり、彼から時々情報をもらっていたのである。もちろん秋山大尉に関する情報だった。
あのDポイントで大隊長の部下を恐怖に陥れ、勇猛ブラウン中隊を壊滅させた恐るべき旧敵指揮官ではあったが、一方でキング伍長とスミス中尉という、大隊長にとって大切な部下に大きな影響を与えた人物でもある。その人物の動向を調べておき、必要なら二人に報告してやることも、自分の仕事だと大隊長は考えていた。
除隊
さらに数ヶ月経ったある日、電話を切った大隊長は部下を呼んだ。
「スミス中尉、キング伍長、ちょっと会議室に来てくれ。」
すこしこわばった声だった。二人の部下は返事をし、大隊長に続いて会議室に入った。
大隊長は無表情に言った。
「二人とも落ち着いて聞いてくれ。あの秋山大尉がマニラで処刑された。」
「えっ?」
伍長と中尉は同時に声を出した。
キング伍長は大隊長の言っていることの意味が判らなかった。大隊長は続けた。
「捕虜虐待の容疑で逮捕、裁判を受けていたことは知っていると思う。判決は死刑だった。ただ絞首刑ではなく銃殺刑となり、昨日執行されたとのことだ。」
「…。」
二人の部下は動揺し、言葉が出なかった。大隊長は静かに二人を見守った。
「秋山大尉はどんな…どんな様子だったのですか?」
スミス中尉が大隊長に訊いた。
大隊長は電話で聞いた内容を答えた。
「裁判中も完全黙秘を貫き、起訴事実を認めも否認もしなかったそうだ。刑が確定してからは収容所で禅僧のような静かな生活を送ったらしい。他の収容者が死の恐怖に怯え、発狂する者もいる中で、ただ静かに時を待っているようだったと。
ただ日本将兵とは少なからず話をしていたそうだ。特に下士官や兵は部隊長から罪を押し付けられた者もいたらしい。彼らとよく話をしていたそうだ。」
「…。」
キング伍長は黙って聞いていた。
スミス中尉はさらに訊いた。
「昨日の様子はどうだったのです?」
「初めて米兵にしゃべったらしい。従軍牧師に『言い残すことは?』と訊かれ『ある人に伝言があるが届けてもらえるのか?』と。」
「それで?」
自分のことだ、とキング伍長は直観した。大隊長は答えた。
「戦犯には遺書も遺品も残すことは許されていない。牧師が『それはできない。』と答えると、大尉は牧師を睨みつけ、大音声で『ならば意味の無い質問をするんじゃない!それに本官はクリスチャンではない。よって貴官の立会いは無用である。早々に立ち去りたまえ!』と怒鳴りつけたそうだ。」
「…大尉らしい…。」
キング伍長は思った。遺書も残させない連合軍のやり方に、大尉は我慢できなかったのだろう。もちろん自分のことではなく、他の将兵の為である。しかし、それで怒鳴りつけられた従軍牧師は気の毒ではあった。
大隊長は続けた。
「そして目隠しも拒否し、『構え!』の号令が掛かると、空に向かって秋山大尉は叫んだそうだ。
『ミスターキング!君の任務は全ての人間が背負うべきものだ!君の役割はその旗を掲げることだ!健闘を祈る!』
と。そしてその直後に銃弾が彼の胸に集中した。だが秋山大尉は倒れず、後ろの壁にもたれて空を見上げたまま胸を張り、立ったまま息絶えたそうだ。」
大隊長は話し終えた。
しばらく会議室には沈黙が続いた。
つぶやくようにスミス中尉が言った。
「…キング伍長、貴官への伝言は無事届いたようだね。」
「はい…。おそらく、牧師を怒鳴りつけ立ったまま息絶えるという壮絶な死を見せることで我が軍の兵に強い印象を残し、うわさ話としてでも伝言が私に伝わることを意図したのではないかと思います。」
「秋山大尉の最後の作戦は見事に成功した、ということか。」
大隊長はつぶやいた。
「はい…。」
キング伍長の頬を涙が一筋流れた。
しばらくして大隊長が訊いた。
「キング伍長、秋山大尉が言った『全ての人間が背負うべき任務』とは一体何なのかね?」
「はい。世界中の人々や国家が対立せず、自然ともに豊かに、幸福になれる世界を創ることです。」
大隊長は驚いた。
「とてつもない任務だな。秋山大尉に命令されたのか?」
「いえ、大尉の部下でDポイントの草原で戦った、松下という二等兵の遺言です。終戦後に病棟で亡くなりました。」
「貴官はそれを遂行するのかね。」
「はい。私に何ができるかまだ判りません。ただ私が生き残ったのはその為だ、と思っています。」
「…そうか。貴官が勉強熱心な理由が判ったよ。立派な任務だ。」
「ありがとうございます。幼稚な夢物語と笑われるかと思っておりました。確かにこの任務は、私がこれまでに遂行した任務と比べてはるかに困難で、また長い長い時間が掛かるものと思っています。ですが一方では、『世界で最も崇高な任務』だと思っています。」
「うむ。確かにそうだ。」
「そして秋山大尉は病棟で言いました。『この素朴な理想が世界共通の価値観になれば、世界は変わる』と。」
「なるほど。それで『全ての人間が背負うべき任務』なのだな。」
「はい。私は最近、人間にのみ特に優れた知能と知恵を与えられたのは、この任務を遂行するためなのだ、と思うようになりました。」
「いわば、創造主が人間に与えた任務、か。」
「はい。その通りです。」
「よく判った。」
大隊長は笑顔で答え、冗談を続けた。
「その任務と比べると、大統領直々の命令でさえ影が薄くなりそうだな。」
伍長は答えた。
「はい。ですが、あながち冗談でもないと思うのです。国益に縛られないこと、世界を一つと見ることがこの任務のポイントだと思います。」
「うむ、確かにそうだ。大統領といえども合衆国の国益に反してまで世界に貢献することは出来ないからな。大統領の選挙権が米国民にのみ与えられている限りは国益の縛りからは解放されない。そう考えると貴官は合衆国を飛び出すつもりなのかね?」
「いえ、そこまでまだ考えが及んでいません。今は準備期間です。とにかく知識と知恵を得るため努力しています。」
大隊長は大きく頷いて言った。
「キング伍長、頑張れよ。私も貴官や秋山大尉、松下二等兵の思いに賛同する。私で力になれることがあればいつでも言ってくれ。」
「はっ。ありがとうございます。」
キング伍長は立ち上がり敬礼した。
翌週、キング伍長は除隊願いを提出した。大隊長は受理してくれた。そして笑顔で言った。
「いよいよ、遥かな任務に向けて『作戦開始』かな?」
「はい。軍には本当にお世話になりました。ですが、これからは『人間の任務』に全力を注ぐつもりです。秋山大尉の死の知らせは、そろそろ動け、というメッセージのように感じました。何より大尉の最期の呼びかけは、『伍長』ではなく『ミスター』でした。」
大隊長は頷いた。横からスミス中尉が言った。
「何か困ったことがあったらいつでも連絡しろよ。私も秋山大尉の影響を受けた人間だ。相談に乗ることぐらいはできる。それにいつか私も貴官の任務に参加したいと思っている。」
そのスミス中尉の言葉を聞き、大隊長が大げさに手を振り笑って言った。
「おいおい、優秀な部下が二人も辞めたら私は仕事ができなくなるじゃないか。」
三人は笑った。
神戸港
一九八〇年、冬のある日の夕方、ニューヨークの国連本部に勤務するキング氏は日本の神戸市を初めて訪問した。仕事柄日本を訪問したことは何度もあったが、いつも神戸を訪れる気持ちにはなれなかったのである。まだ秋山大尉に会わせる顔が無い、という気持ちだった。
そのキング氏も六十歳近くなり、仕事の引退も近くなった今、ようやく神戸を訪問する気持ちになれたのである。
案内は、東大阪で義手や義足を作る工場を経営している加藤氏が買って出てくれた。あの病棟の責任者だった加藤元少佐である。
「社長といっても、金属加工や木材加工の職人だった部下が会社を創る時に担ぎ上げられただけなんです。実際は試作品ができるたびに着けさせられるモニター役兼事務員ですよ。」
と加藤氏は謙遜し、北陣地で失った右足の義足を叩いて笑った。
そして、一緒に連れて来た二人の部下をキング氏に紹介した。
「彼らは秋山大尉に命をもらった者たちです。」
「!」
キング氏は驚いて言った。
「ではあの時…、最初に戦犯容疑を掛けられた二人の兵とは、あなた達なのですか?」
二人は静かに答えた。
「はい。大尉殿が命懸けで護ってくれたお陰でこうして生きております。今は加藤社長の下で仕事をしております。」
「命懸けで…」
「はい。出頭しようとした我々を、大尉殿は制しました。『貴様たちはなんら罪を犯していない。代わりに私が行く。若い貴様らは一日も早く国へ帰り新しい日本を創れ』と。我々が反対すると大尉殿は『冤罪なんだ。仮に有罪になってもせいぜい三年ほどだろう。だが、四十歳過ぎの私の三年と、貴様ら二十歳そこそこの若者の三年は重みが違う。』と頑として譲りませんでした。」
「冤罪?」
キング氏は驚いて訊き返した。その問いには加藤氏が答えた。
「二人は、飢えた捕虜にゴボウを食べさせたのです。」
「ゴボウ?」
「はい。日本では良く食べる植物なのですが…、その米国人捕虜は『木の根を食わされた』と訴えたそうです。」
「では…、あなた方二人は飢えた捕虜にわざわざ食べ物を与えた、ということだったのですか?」
キング氏は動揺しながら訊いた。二人もぎこちなく頷いた。
「我々はそのつもりでした。大尉殿はいつも言っていました。『捕虜を蔑むな。彼らは捕虜になるまで逃げずに戦った勇士たちなんだ』と。」
「…。」
キング氏は絶句した。加藤氏が言った。
「二人は大尉に言ったそうです。『大尉殿こそ少しでも早く国に帰り、若い者を指揮して新しい日本を創ってください。』と」
「…それで…秋山大尉は何と答えたのですか?」
キング氏の問いに、二人の元日本兵は涙を浮かべて言った。
「『いや。私の仕事はこの戦争でもう終わりだ。』と。…死を覚悟していたのだと思います。」
キング氏の脳裏にあの草原が甦った。秋山部隊の残存兵が総攻撃してきた後のことだ。キング氏が松下二等兵たちを撃ち、思わず手当てに飛び出した後の大尉の言葉を思い出したのだ。
「…あの時私は、『中隊の仲間のほとんどを失って生き残る方が辛い。』と言った…」
加藤氏と二人の部下は黙って聞いていた。
「そして秋山大尉も言った…。『何百人もの部下を死なせてしまい、もう、一人のうのうと生き残ることは耐えられない。』と…。」
キング氏の言葉を聞き、二人の元日本兵は泣いた。加藤氏は唇を噛んで言った。
「秋山大尉は『死に場所』を求めていた…ということだと思います。だから逮捕後も黙秘を貫いたのでしょう。」
キング氏の頬にも、いく筋も涙が流れた。
しばらくして加藤氏が言った。
「実は私も、もう生きていたくなかった。」
「!」
キング氏は驚いて絶句した。加藤氏はあえて淡々と言った。
「秋山大尉が許してくれなかったのです。MPに連行される直前、かつて上官だったころの口調に戻り私に命令したのです。
『加藤!、貴様は這ってでも泳いででも日本へ帰れ。新しい日本で部下たちを活かすことが、これからの貴様の任務だ。わかったな!』と。」
「…。」
「その後、連隊長だった今村大佐も自決しました。秋山大尉が処刑された夜です。大尉が最後の死刑囚でした。今村大佐は、これ以上部下が死ぬことはないと確認して、責任を果たしたと自決したのです。」
「…。」
「秋山大尉はそれを見抜いていたのです。だから自分や今村大佐の代わりに、まだ若かった私に任務を与えたのです。」
「…。」
加藤氏は突然元気な声になって言った。キング氏と二人の部下を励ますような声だった。
「だからこの二人が私を頼って来た時も二つ返事で雇い、営業をさせたのです。ですがこの二人ときたら大尉の思想を受け継いでいますからね。日本中歩き回って腕や脚を失った元将兵に義手や義足を売って来るのは良いんですが、相手が困窮していたらとんでもない長期の月賦で売ったり、失業者なら、『代金は仕事が見つかってからでいい』と契約書も取らず口約束で帰ってくるんです。」
と豪快に笑った。それでいいという笑いだった。
キング氏も二人の元日本兵も、つられて静かに笑った。
そして、二人の元日本兵は先に帰っていった。
「港の、人の少ない所に行きたいのですが。」
というキング氏の希望に、加藤氏が案内してくれた場所はメリケン波止場と呼ばれる小さな埠頭だった。左右に大きな埠頭が伸びている。沖には来年博覧会が開かれるという大きな人工島が見えた。
メリケン波止場の名前は、『アメリカン』の発音が日本人には『メリケン』と聞こえた、ということに由来するらしい。いわば『アメリカン波止場』である。かつてはアメリカからの貨物船が接岸し、日米貿易の拠点だったのだろうとキング氏は思った。
今は、その役割を左に何本も見える大きな埠頭に譲り、小さな公園と、大型船を港内で誘導するタグボートの停泊場所になっているようだった。
「やっと神戸に来ることができました。」
キング氏は加藤氏に言った。
「それだけ一生懸命、秋山大尉や松下二等兵のことを思い頑張ってこられたということですよね。」
加藤氏は答えた。
だが、キング氏は表情を曇らせて言った。
「確かに私なりに精一杯頑張りました。でも…何もできませんでした。世界は何も変わっていません。植民地だった国々は独立していきつつありますが、むしろ東西冷戦とその為の小さな代理戦争がひっきり無しに起こり、それに巻き込まれている状態です。みんな自分の国や集団の利益しか考えていません。世界中がお互いを尊重し、同じように豊かに幸せになるべきという価値観は、少なくとも国家レベルでは生まれてもいない。残念です。」
「…。」
「スミス元少尉を覚えていらっしゃいますか?」
「はい。」
「彼は私の親友となりましたが…、朝鮮半島で戦い、そして連隊長として赴任したベトナムで戦死しました。」
「…あのスミス少尉も…。」
加藤氏はうなだれ、キング氏の眼は潤んでいた。
「やはり私は何もできなかった…。親友の命さえ守れなかった。」
キング氏は唇を噛んだ。
二人はしばらく、見るともなく海を眺めていた。
やがてキング氏は口を開いた。
「ところで、これに見覚えはありますか?」
キング氏はポケットから古びた薬莢を取り出した。
「これは重機の薬莢ですね…。まさか、秋山部隊が持っていた九二式重機の…?」
キング氏は頷き、加藤氏は驚いた。
「くじけそうになった時、目的を見失いかけた時、いつもこの薬莢が心を支えてくれました。スミスが戦死した時もです。」
キング氏は言った。
「そうでしたか。この薬莢が…。」
「この筒の中に秋山大尉と松下二等兵の思いがこもっているように感じまして。」
加藤氏は頷いて、二人はしばらく、キング氏の手のひらに転がる薬莢に見入った。
しばらくしてキング氏は言った。
「国際連合ができた時、私は狂喜しました。秋山大尉の言った『国益を超えた存在』がようやく誕生したと。しかも、価値観や意識ではなく実際に存在する機関が誕生したと。ですから私は猛勉強し大学へ入り国連に職を得たのです。」
「そうでしたね。私たちもあなたが国連職員になったと聞き、喜んだものです。」
加藤氏は答えた。
だがキング氏は首を振った。
「でも、残念ながら国連も『国益を超えた存在』ではありませんでした。そういう価値観もありませんでした。結局は各国の国益の調整機関に過ぎなかった。もっと言えば、今は多少変わりましたが、あの大戦の戦勝国の為の機関に過ぎなかった。
私は秋山大尉に教えられた貴国の明治維新を研究しましたが、歴代の国連事務総長も大久保利通ではありませんでした。新しい世界を創ろうという意思はありませんでした。もっとも事務総長の仕事にそんなことは含まれていませんし、国連自体が国家を超越した存在を目指すものではありませんでした。
やはり、まず世界中の意識が変わらないことには国連といえども機能しない、ということだったのでしょうか…。」
「…。」
「もちろん、国連本部の事務方内では私の思い、理想を仲間に説きました。みな賛同はしてくれますが、事務方はやはり事務方に過ぎなかった…。また、そんな夢物語をと馬鹿にされることも多かった。一体どうやれば良かったのでしょう…?」
「…。」
二人はまだ薬莢を見つめていた。
キング氏は加藤氏に話しているというより、秋山大尉に話している気持ちになっていた。
しばらくして加藤氏が言った。
「秋山大尉の最期の言葉を覚えていますか? 伝え聞いたものですから正確かどうかわかりませんが、あなたの役割は新しい価値観の『旗を立てる』ことだと叫んだと聞いています。」
「はい。その通りです。」
「ならば、あなたは立派に旗を立てたのではありませんか? それも国連という、現在最もふさわしい場所にです。」
「…。」
「夢物語だと言いながらも、その旗の下に集ってきた仲間がいるのではないですか?」
「…確かに…それはそうですが…。」
「でしょう?ならば我々一市民にとっては十分すぎる働きだと思います。それに秋山大尉は言ったはずです。『この任務に終わりは無い。各自ができることを無理なくやれ』と。」
「!」
キング氏の目つきが変わり光が戻った。
「どうされました?何かお気に障ることでも申しましたか?」
加藤氏は訊いた。
「とんでもない。大切なことを思い出させて頂きました。」
「何です?」
「『この任務に終わりは無い』ということです。私は自分が何とかしなければと、いつも焦っていたようです。」
キング氏は加藤氏を見つめて言った。
「止むを得ないでしょう。秋山大尉と直々に話をしたあなたなのですから。問題はこれからですね。」
加藤氏もキング氏を見つめて言った。
「これから…。」
「はい。あなたが秋山大尉と松下二等兵の思いを引き継いだように、今度はあなたの思いを一人でも多くの後輩に引き継ぐことが大切だと思います。」
「…。」
キング氏は黙って薬莢を見た。そして言った。
「私なりの『薬莢』を作ってできるだけ多くの後輩に引き継ぐ時が来たということですね。」
「ええ、私はそう思います。」
しばらくしてキング氏は言った。
「薬莢の輝きが薄れてきたように思います。自分の任務は終わったと。」
「はい。」
「今度は私が新しい『薬莢』を作ることが任務だということですね。」
キング氏はさっきの言葉を繰り返した。
「その通りだと思います。」
加藤氏も答えた。
もう夜になっていた。オリオン座と冬の大三角が港の沖の空に見えた。
キング氏の記憶が蘇えった。三十五年前のあの夜のことである。
秋山部隊と決戦をし、キング伍長は秋山大尉の放った重機の弾丸に左肩を撃ちぬかれたあの夜。お互いに銃を撃ち合い手榴弾を投げ合った直後に、負傷の手当てをしたあの夜。
あの夜に見たひときわ明るい星のことを思い出した。
「あの星が、私の、世界に対する価値観を変えたきっかけだった…。」
キング氏は思った。そして今、正面の空に明るく輝くシリウスがあの時の星に見えた。
「これからは、あのシリウスを秋山大尉だと思うことにします。松下二等兵は左上のプロキオンです。」
「いいですね。私もそうしましょう。」
加藤氏も言った。
「それで加藤社長、いえ加藤少佐。お願いしたいことがあります。」
キング氏は威儀を正して言った。
「何でしょう?」
「これから、秋山大尉と松下二等兵の魂を日本の海に還します。上官として号令をして頂きたいのです。」
「わかりました。…いや、貴官の依頼を了承する。」
二人は照れくさそうに笑った。
二人は薬莢を見つめた。そして眼を合わせて頷きあうとキング元伍長は薬莢を握り締め、そして思い切り海へ投げた。
薬莢は港の明かりを反射しながら放物線を描いて海面に落ち、小さな水柱を立てた。
加藤元少佐が号令した。
「気をー付けーっ!」
二人は直立不動の姿勢を取った。
「秋山大尉並びに松下二等兵に対し、敬礼!」
二人は右手を額に挙げ、いつまでも海を見つめていた。
エピローグ
夕方のニューヨーク、国連本部ビルの事務室では世界各国からやって来た職員たちが勤務していた。
「ようアントニオ、今日はミーティングの日だぜ。出るのかい?」
「やあビリー、ミーティングだって?」
「水曜日の勤務後はキング部長の勉強会でしょ。忘れちゃだめよ。」
「そうだったな。チャン、ありがとう。マーヤ、君は?」
「もちろん行くわよ。『夢の勉強会』へね。」
「よし、そろそろ行こう。ちょっと早いけどいい席に座りたいしな。」
「あ、ビリー。すまないがまた席をキープしておいてくれないか? お祈りの時間なんだ。」
「オーケー、カシム。僕たちの夢が叶うようにも祈っておいてくれ。」
「ああ。いつも、もう叶うものと信じて感謝の祈りを捧げているよ。」
「そうね、祈りは願い事じゃなくて感謝することよね。行動するのは私たち。神様はそのための意志と知恵を与えてくれるもの。」
「マーヤ、その通りだと思うよ。」
「キング部長の信念は夢物語かもしれないし、私たちは事務職員に過ぎないけれど、誰かがこの夢を追いかけないと世界はだめになってしまうわ。」
「僕もそう思うよ。さあ行こう。」
若い職員たちは連れ立って会議室に入っていった。
そこには、国益を超えて文化も主義も宗教も肌の色も、お互いに認め合い尊重しあうという、崇高な価値観を世界共通のものとすること?すなわち人類の意識の進化?を自分の任務と考えるメンバーが集まっていた。
そして、キング元伍長の立てた『旗』の下に集まる若者たちは、少しずつ、だが確実に増えていった。
(完)
任務