ハコ

  脳が、痺れる。
 この柔い脆弱な皮膚を揺らす程の強いビート、耳障りな高音の錯綜。実際、ここに来るようになって聴力が衰えた。うちのママなら「こんなの音楽じゃない」とでも斬って捨てそうなノイジー。混じる声、DJだかVJだか知らない。何を言っているのか判らないから彼の声は心地いい。
 強いアルコールにブッ飛んでいる。酒に弱くて良かったと考えている。
 カウンターの角が凭れる背に当たる痛みが気持イイ。酒ばかり飲んでろくな食事をしないので、最近あちこち骨が浮いてきてことあるごとに痛い目に合う自分が好き。
 ハント中ですと顔に書いてある獣っぽい男が声を掛けてくる。見上げて、ただ、笑う。
 短い間私の顔を眺めて沈黙してから、男は背を向けて遠ざかっていった。仲間であろう別の男達に示すジェスチャーが薬物中毒者を示していることくらいは判る。残念ながらただの疲れた酔っぱらいだ。赤提灯の親爺と大差ない。

 付き合っていた男とは最近別れたが、それ以外は上手くいっている。仕事も、家族とも。どこでもそれなりに役に立てる人材になって重宝がられ、物としてではなく人として大事にされていて、上司も目を掛けてくれる、家族とも仲良くしている、後輩や同僚とも信頼と親近感のバランス良く付き合っていて、不足はあっても不満はない。
 付き合っていた男と別れる時にはそれなりに揉め、それなりに許し合い、それなりに諦めと妥協を提示して、お互いがいずれお互いよりも良い相手に恵まれたらいいと社交辞令混じりにも願い合って握っていた手を離した。

 夢も希望も、無い。
 とても満たされていて、もう、手に入れたいと思うようなものはない。

 曲が、変わった。
 相変わらず何がなんだかわからない音と光の色。違いはパターンが変わることで見取れる。
 この瞬間にだけ、痺れる脳髄をグシャリと掻き回されて私は自分がまだ生きていることを知る。

 たくさんの人達を愛して、情を交わし合って、たくさんのものたちを愛した。
 この世界を愛した。この国を愛した。この街を愛した。この街で出会った人達を愛した。仕事を愛した。仕事で出会う人達を愛した。
 もう、貰うものは無いから、この身が全て枯れ尽きるまで返していく以外は思いつかない。
 力が、入らない。
 どうして皆、耐えられるのだろう。
 この自由と幸福の飽和。

 夢も希望もない。
 この馴染めない音と光をつくる、私を受け入れず放置しておくハコにしか、居場所は無い。

ハコ

ハコ

コバコで酒に酔う女の一コマ。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-08

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