過去は記憶、未来は想像、僕はそう思うんだ
幼少期の記憶がない僕が、本当の自分を取り戻すために。
自分とは何か、記憶とは何か。
僕はそれを、確かめに行く。
【写真】
「ここから見る景色もだいぶ変わったな。でも匂いは、あの頃のままだ」
僕は幼少期の記憶がほとんどない。小学校時代、誰と、どんな遊びをしたのか。学校はどうだったのか、修学旅行すら思い出せない。もちろん家庭のことも。
僕は胸ポケットから一枚の写真を取り出した。10歳くらいの僕の写真だ。小さい自転車にまたがり楽しそうに下り坂を降りている。胸には数字の“5”と記された赤いゼッケンを付けており、その顔は満面の笑みを浮かべている。僕はスイミングスクーに通っていて、その時のレクリエーションで一泊の旅行があった。これは、その時撮られたものである。
僕はその写真をしばらくその写真を眺めたあと、もとの場所にしまい、ひと呼吸ついた。
「さて、行くか」
僕が唯一覚えている、心の奥深くに眠っている記憶、その場所へ。
【情景】
スイミングスクールだった場所はもう跡形もなく、今はパチンコ屋に変わっていた。僕はレンタカーの車内から情景を静かに眺めていた。あの頃入口があそこで、階段は確か3段くらいだったか。入口を入ってすぐにカウンターがあり、僕は自分の名前の欄に丸を書いていた。レッスンが終わると急いで着替え、外のマイクロバスに乗り込んだ。バスはあの辺りに停まってたんだっけ。バスの車内にはテレビが付いていて、泳ぎ疲れた身体でぼんやりとそれを見てたんだ。夢を見るような眼差しで、窓の外はもう暗くて。思い出せるのは冬の季節ばかりだったけど、あのレクは夏だった。強い日差しを覚えている。
情景は次々に流れ、そして消えていった。目の前のパチンコ屋からは人が入っては出て行った。その度に店内から訳の分からない雑音が鳴り響く。
僕は車のエンジンを掛けた。
【記憶】
小さい頃のことについては何度も親に聞いてみたことがある。母親は楽しそうにその頃のことを語ってくれた。僕が勉強しなくて成績が悪かったこと。体育館の屋根裏に忍び込み、足を踏み外して落ちそうになったこと。およそ楽しい思い出とは言い難いが、それでも母は笑顔で話してくれた。しかし僕の記憶は冷たく閉ざされたまま。何も思い出せない。唯一心の奥底から拾い出せるのはあのスイミングスクールでのレクのこと。でもことその事に関しては母は口を閉ざした。遠い眼差しで壁に掛けてある時計を見つめるばかりだった。
古めかしい旅館に泊まり、僕はスクール仲間と4人の部屋になった。僕がふざけてクローゼットの中に入り、仲間が開ける度に何度も笑っていた。何がそんなに面白いんだよ。だって面白いじゃん。そういう会話をした。夕食は大きな食堂でみんなで食べた。また僕がふざけているとコップの水をこぼしてしまった。仲間は少し不機嫌な顔をした。サイクリングは翌日の朝食後だった。みんなそれを楽しみにしていた。その時の写真が、今僕が持っているものだ。
そこまで話しても母は口を開いてはくれなかった。遠い眼差しからは何も感じ取ることが出来なかった。ただ、今思えば少し悲しい目をしていたような気もする。
僕はあの場所へ行くべきなんだ。記憶を取り戻しに、自分を取り戻しに。
【あの場所】
旅館は完全な廃墟と化していた。ツタがその壁を覆い、辺りは雑草が生い茂っていた。かなり以前に閉鎖されたことが伺える。山の奥にあるこの場所は、この旅館以外何もなく、時折通り過ぎる風に木々の音だけが静かに響いた。
僕は車を降り、旅館に向かった。廃墟としてはめずらしく荒らされた形跡もなく落書きひとつない。管理地の表示もないし、立入禁止の看板すらなかった。
僕はエントランスの扉に手を掛けた。施錠はされておらず、不思議なくらいすんなりと中に入ることができた。入ってすぐ右手に受付のカウンターがある。カウンターだけじゃなく、あらゆるところの壁や天板が剥がれ落ちていた。
僕は旅館内をしばらく歩いたあと、古びたロビーの椅子に腰を掛けた。ロビーには時計が掛かっていたが、もちろん時を刻んではいない。止まった時計、時間、過去の記憶、そして僕。僕はもう一度あの写真を取り出した。
「君は、僕だよね」
口にした僕の言葉は静寂の時に吸い込まれて行った。
「分かってる。分かってる」
写真に写っていた坂は旅館からさほど離れておらず、すぐに見つけることができた。写真と違って地面にはいくつものひび割れがあり、その隙間から雑草が伸びている。陽が沈みかけの暗がりが、写真との違いをより一層重く冷たくさせた。
僕は坂道を登る。一歩一歩という意識はなく、ただぼんやりと、泳ぎ疲れたあの日のように進んで行った。道を上まで登り切った時、太陽は完全に沈み、暗闇が当たりを包んでいた。風が吹き木々が揺れる。僕は懐中電灯を取り出した。
頼りない丸い光が闇に浮かぶ。僕はその光で周囲を照らしてみた。道の片側は崖、もう片側は林となっていた。
僕は林の中へ足を進めた。林は次第に深くなり、しばらく歩くと大きな木々が生い茂る森となった。上を見上げてもほとんど空は見えない。
僕が白骨死体を見つけたのは、そこからさらに50メートルほと先に進んだ場所はだった。
【再会】
その身体は小さく、歳にして10歳くらいだろうか、明らかに子供のものである。着衣は半ズボンに半袖のTシャツ、全て泥にまみれたように変色しており元の色は分からない。かなりの時間が経過しているのだろう。身体は完全に白骨化しているが、欠けている部位もなく、それもまた“完全”だった。
「やっと逢えたね」
僕は死体の側に座りながら言った。
「僕さ、小さい頃の記憶がないんだ。でも中学からのことは覚えてるよ。中学でも勉強が苦手でさ、それで母親に無理矢理塾に連れて行かれたんだ。その時同じ学校のデキる奴にバカにされてさ、それが悔しくて猛勉強したんだよ。そしたら3年の時には学年でもトップクラスになってて、それから地元のそこそこの高校に進学。中学ではテニス部だったけど、高校では陸上をやった。ほとんど活動してなかったけどね。
で、また勉強しなくなってさ、受験した大学は全滅。それを報告した時の担任の顔が忘れられなくてさ、人をバカにしたような目で見てたんだ。浪人時代にまた勉強し直してさ、そこそこの私立大に入ったよ。大学時代は楽しかったな。講義なんてほとんど行かなくてさ、バイトと女に明け暮れてたね。もちろん酒にも。いやほんとに楽しかった。こう見えても結構モテてたのかな。一人暮らしだったから家で好き放題やってたよ。そのせいで留年しちゃったけどね。就職活動も全然やらなくて、他の連中が何十社も受けてる中、僕が受けたのは一社だけ。試験会場に行ったらみんな対策本みたいなやつを真剣に読んでてさ、吉本ばななの“キッチン”を読んでたのは僕くらいだったよ。もちろん落ちたけど。卒業してからはしばらくフリーターやってたけど、今はどうにかちゃんとした職に就いてるよ」
彼は黙って私の話を聞いていた。
「僕さ、ずっと考えてたんだ。自分ってなんだろう。自分を構成するものっていったい何だろうって」
「時間の流れ中でいろんなことを経験してさ、その経験や考えがあって今を生きている。そしてこの先の未来へと繋げていく。人は時間の流れの中で生きている」
「でもね」
僕は彼の目を見つめながら続けた。
「でもね」
「過去は記憶、未来は想像、僕はそう思うんだ」
「時間なんてものは存在しないんだよ。過去も未来も。あるのは今だけ。昨日の出来事も“今”、明日の出来事も“今”、なぁ、僕が言ってること分かるかな」
彼は相変わらず黙っていた。
「時間なんて概念は人間の想像力が生み出した幻想にすぎない。だったら、“自分”も同じなんじゃないかな」
「時間も自分も世界も、目的や価値や意義も、そして僕も君も、全てが幻想」
「だから、安心して」
風の音と木々の音、次第に闇も深まりつつあった。私は彼との会話を続けた。
「技術の進歩って、普段僕らが思ってるよりもずっと進んでるもんなんだよね。あの頃父が何かの研究をしていて、ほとんど家に帰って来なかったけど、今はそれも何となく分かる。スクリーンに映された映像を延々と見せつけられる日々、何日も何日も。これが本当の僕の記憶だったんだ」
空を見上げても何も見えない。僕は胸ポケットから写真を取り出した。小さい自転車にまたがり楽しそうに下り坂を降りている。その顔は、満面の笑みを浮かべていた。
「これ、君に返すよ。僕の記憶は、君が持ってるから」
僕は写真を彼の胸元にそっと置いた。
「過去は記憶、未来は想像、僕はそう思うんだ」
11月の人知れぬ森の中、5の数字が記された彼は、ほんの少し微笑みを浮かべているように見えた。
過去は記憶、未来は想像、僕はそう思うんだ