蒼い空に

羽のない人

空を渡る鳥たちは列を連なり気流へと乗ってゆく。空を翔るというのはどんな気持ちなのだろう。僕には一生体感する事はないであろうその気持ちを、あの鳥たちは悠然と唯飛んでいる。
「いいなぁ…飛んでるよ」
「当然だろ。鳥なんだから」
誰にともなく口にした言葉に、律儀に返す友人。どんなに忙しい時でも必ず返してくれる友は校舎の屋上、堅いアスファルトに横になりながら、目の前に広がる青空を眺めていた。
「ペンギンも飛ぶ?」
「常識をレクチャーしなきゃいけなのか?俺は」
「でも海の中では飛んでるよな」
フェンスを背もたれにしながらパンを頬張る。少し食べにくい。それに背中もなかなかに痛い。
「…あぁ、飛んでるんじゃないか」
呆れた表情を惜しげなく僕に使う友は、横になったまま飲み物を口に含む。
「う!…げほっ!げほっ!」
「俺自分のことバカだと思うけど、おまえはアホだよな」
ひとしきり噎せてから咳払いをする友。取り繕っているのだろうが、あまりに格好悪い。
改めて座り直し、口に含む。透明なストローの中を色を伴った液体が流れてゆく。
気泡を少しだけ含んだそれは、きっと炭酸なのだろう。
物好きな奴だ。なぜ二酸化炭素を好き好んで飲むのだろうか。
「…そういえばこの後の昼休みにあいつ話したいことがあるって」
「ん?話したいこと?」
「うん。なにかはわからないけどメール来た」
惣菜を箸で摘みながらついでにと言った様子で友は話す。友はいつものことだからとあまり気にはしていないらしい。
「ふーん、相談かな?」
「かもしれないけど。ノロケ話じゃないといいけどな」
「あはは、確かに。最近聞かないけどそろそろジャブ来そうだよな」
本当に、どうでもいい中身のない話を永遠と繰り返す。
でもそれが高校生という生き物の全てではないだろうか。
「…早く、昼休みになって欲しいな」
「…ん?あぁ」
二人して見上げた空は高く、秋の冷たい風が頬を撫でていった。
いつからあの鳥たちはいなくなったのだろう。
僕たちを置いて、彼らはこれからもずっと空を飛び続けるのだ。脇目も振らず、一心不乱に。それが僕たちには到底出来るようなことではなくて、眩しいくらい生きることに一生懸命な鳥たちを唯同じ場所から見上げることしか出来なかった。

「またサボってたのか…この不良二人組は」
昼休みを知らせるチャイムがなり終わるとほぼ同時に屋上のドアが痛々しく押し開けられた。
肘打ちをくらい、体当たりされ、最後は乱暴にも足で蹴られるドア。悲鳴にしか聞こえなくなった閉まるときの音は僕たちが開けた時の何倍も大きかった。多少手荒いのだ、この女は。
「不良言うなって。好き好んでサボってる訳じゃないんだ」
「そうなんだ。廊下で立ってなさいの屋上版ってわけ」
「言い訳もだんだんお粗末になってきたね、二人とも」
そこまで問いつめる気もないのか、それ以上攻められることなく、その場は収まった。毎日の攻防の末の賜物だろう。
妙に誇らしげになる二人をため息一つであしらうと、近くに座り込む。
「先生、結構怒ってたよ?またあの二人が授業放棄したって」
ホイップやチョコが大量に掛かったパンを無造作に開けると早速口にする。
いつものことだけあって、もう無碍なツッコミはしていない。少し前までは頑張って「昼に菓子パンかよ!」「いやいや太るから!なにその脂肪とタンパク質の固まりは!」など体重を気にしないこのスレンダーな女に忠告していたのだが、まぁ聞く耳は持たない。むしろ食欲の秋に近づくにつれて量が増えていく。いくら脂肪が付きにくい体質とは言え、健康面に少しばかり不安になる。
高校に入ってから甘いものが苦手になった二人は女の食いっぷりに思わず目を背ける。
少しの間、咀嚼する音と風の吹き抜ける声だけが辺りを包み込む。
一息付いた女は残り少ない昼休みに全てを話す勢いでしゃべり倒すだろう。たやすく想像できる。すぐ先の未来に口を挟む隙もなくマシンガンの用に口を動く様が。
いつものことの反復だ。誰だってこのくらい分かってくる。この女がどういった性格なのか、毎日撃たれれば身を持って学ぶのだ。
「んく…。でね、さっきメールで話したいことがあるって言ったと思うんだけど…」
「あぁ、うん。なに?」
いつものように始まるはずのマシンガンは今日、何故か撃ってこない。言いよどんで下を向く女に、通称不良二人組は顔を見合わせる。
「…なんかジャムってる?」
「あぁ…玉詰まりを起こしてるようだな」
冗談を言うも反応をしなくなった女。
普段のように軽い話題ではなさそうだ。意識を変えて座り直す。
「…なぁ、なんかあったのか?」
「うん、なんかいつもらしくないって言うか…」
心配で聞く友人、そして興味で聞く僕。気持ちは違えど、何故言いよどむのか知りたい二人は正面を向かない女に言葉を投げかけた。
「…うん」
ゆっくりと縦に首を動かし、肯定する女はひどく弱々しく見えた。友に見せてもらったメールではあんなに明るかったのに。ここに来るまでは、あれほど元気に溢れていたというのに。
どういうわけかこの女は今、相当に何かに対してショックを受けているようだった。
一言、「うん」と発してからどれほど時間は経ったのだろう。気が引けながらも横目で腕時計に目をやると、あと数分で昼休みが終わろうとしていた。
実に三十五分、何も会話が無いまま過ぎたのだ。
そういえば居心地の悪さに何度も座りなおした記憶がある。この面子では異例過ぎる出来事だ。いや、高校生にとってイレギュラー過ぎる。
いくつも頭の中で憶測が飛び交うも、サッパリ分からない。当然だ。等の本人が全く話さないのだから。
「…えっとね」
顔をあげたその時、昼休みが終わる鐘の音が響いた。
「…えへへ、私もサボっちゃおうかな…」
本当にこのとき程、無力や孤独さを感じた時は無かった。
それほどに、三人に取り巻く重い空気はしんどかった。

「知ってるとは思うけど…私付き合ってた人が居たの」
どれほど、言葉を紡ぐのに勇気が必要だったのだろう。僕ら二人を見つめる瞳には涙が膜を張り、肩を緊張に強ばらせ、きつく握った手は白くなってしまっていた。
「あぁ…それは知ってる。毎日お前がノロケてたからな」
友は平然さを装って平坦な口調で答える。僕にもその時の緊張した友の声だけは、この先いくつになっても覚えていることだろう。
「うん…そうだよね。私いっつも自慢してたしね」
「…うん。でもそんなに嫌でも無かったけど」
取り繕ったのが分かりやすい答え方だったが、女は微笑むだけだった。
「一つ上の先輩と三ヶ月前に付き合いだしたんだけど、最初は結構優しかったんだ」
でもね…。話し続ける女は次第に目線が落ちてゆく。口を挟むことすら許されぬ重い空気。いつもの何ともない会話が、この時ばかりはどんなに望んだことだろう。
ここに来る前の女は、屋上に上がる前の女はとても明るかった。いつもの乱暴さで二人の背中を何度も叩き、少しも遠慮のない口調で二人に話し始めるものとばかり思っていた。
「少し前から…本当に少しずつ、素っ気なくなってきちゃったの」
女の気配が強ばる。
「でも倦怠期ってあるし、先輩も例外じゃないかなって思って、ずっと好きで居てくれるように努力してた」
「ある日ね…いつもみたいに休日、先輩の家にお邪魔したの。馴れてないお菓子作りもやって、持っていって…食べてもらおうと思って」
とうとう、女の視線は真下に落ちた。こんなに、深い悲しみに心が沈んでいる人間を、僕は生まれて初めて見たんだ。
「実はね…私…。…マワされちゃって」
「「……え?」」
不良二人はその時に初めて言葉を失うという場面に直面した。これまでに、とっさに嘘をついたときや驚いた時に、これが言葉を失うということなのだと、これこそがそうなのだとばかり思っていたが、本当はもっと息すら許さぬほどの苦しいものだったと、今知った。
「その日…先輩ね。私との約束すっかり忘れてて友達と遊んでたの。」
涙の雫が、黒い陰を屋上に広げる。無造作に置かれていたパンの袋にも涙は落ちた。袋が弾いた涙は、僕の手にほんの少し当たった。冷たい涙だった。
やっと紡ぐ言葉の端々をくみ取って聞くと、その日約束を失念していた先輩は、女を見た途端に不機嫌になったそうだ。
それを見た女は遠慮し、手作りのお菓子だけでいいから皆で食べてねと、その場を去ろうとしたところ先輩はそれを目の前で捨てたらしい。
友達から、からかわれるのが恥ずかしいかったからやったことなのだと、女は頭では理解はしていた。
でも気持ちが追いつかなかったのだと。責める女に友達の面前で怒りを露わにした先輩は女に手をあげた。
ベッドに投げ出され、乗られ身動きが出来ない女に尚暴力を振るいつつ、言葉でも心を殴られ、気を違えたのか野次馬と化した友達の前でこう言い放ったのだと言う。
「この女、犯したい奴いる?」


「ごめんね…こんな重いこと聞きたくないと思うけど。…でも他の人に話せない」
さらに言葉を発する。
「私が汚れちゃったって。私がレイプされたって皆に知られたら私…。もう、生きていく自信なくなると思う…」
「……」
「先生に話そうとも思ったけど、でも他の先生に話されたら?友達に話したら陰で噂になるよね。家族なんてもっと話せない……だから…」
…だから…二人に話そうって思ったの。
そう言った女は堅く、冷たいアスファルトの地面に泣き崩れた。心の奥底から、言葉に表せない程の痛々しい泣き声を出しながら。その声は決して大きくはなかったが、あまりにも悲痛な叫びに、二人は受け止められず、目を背けた。

結局丸一日サボることとなった二人は放課後、寄り道をする気にもなれず、帰宅の道をゆっくり時間を掛けながら帰っていた。
お互いに電車通学なのでほとんどの日を二人で帰るのだが、道中全く言葉が出なかった。
隣を歩く友もまた、会話をしようとする気はないらしく、空を見上げてはため息ともつかない吐息だけを幾度となく吐いている。
雑踏の音が耳にうるさい。肩に掛けた鞄も無意味に重く感じた。
「なぁ…さっきのどう思った?」
友が問いかけるそれは答えようの無いもの。
ただの感想だけが口をつく。
「…正直、びっくりした。想像してたものとだいぶ違ってたからな」
「あぁ…そうだな」
「…お前はどうなんだよ?」
聞き返す僕はその時、友の顔色を見ていなかった。
唯単に言い淀んでいただけなのだと。自分と同じように今の女の状況に頭が、気持ちが着いていかずに困惑しているものと思っていた。
「……あの野郎共を殺したくてしょうがない」
すぐ隣から自分に向けられたことのない殺意を感じた。
驚愕し、視線をやる。そこには殺意で顔が歪んだ友の姿があった。

吐露

女の告白から一週間がたった今も、僕は何も出来ないでいた。普段から行動力が乏しい僕は、目の前で悲しむ女が居るにも関わらず、消極的なままだった。あれから、女は僕たちに涙を見せることはなくなったけれど、きっと未だに悔やみ続けているのだろう。
後日、一言だけそれに関して声を掛けられたのだ。
「あの日の話忘れて良いから…もう解決したし」
笑って僕と友にそう話した教室での出来事。呆気にとられた二人は席に戻ってゆく女の背中を目で追いながら、意味も分からず呆然としていた。

女の言う解決とはなんなのか。それだけが頭の中を掛け巡り、授業など到底受けられる状態になくなった二人は鞄を残したまま教室を出た。
「どんだけ俺らはサボるんだよ」
「でも無理だって。なんだよあの顔」
ドアを挟んで、喧噪の声がくぐもる。予鈴がすでになった今、廊下に出ている生徒は二人しか居なかった。
「顔って…お前はそこで気づいたのか」
「お前は?」
「仕草というか目というか…。あいつ嘘つく時いつも目合わせようとしないだろ。あと顔って?」
「あぁ、隈だよ。徹夜とかしないのに、おかしいだろ」
ドアについた小さな窓から女を見つめる。教科書を出して席に着く姿がそこにあった。
どんだけ悩んでんだよ…。普段用意なんてしてないだろ。
最後まで騒いで先生に注意されるのがあの女なのだ。全く、別人すぎる。
「…先生が来る前に行くぞ」
言うが早いか友は駆けだした。その背を追おうとしたとき、僕は何かの引導をこの手に、友から渡されているような気持ちになったのだ。
あの日の帰り道の友の歪んだ顔。殺したいと呟いた憎悪の声。
きっとこの後に起きる出来事は僕ら二人と女、その三人の内輪で終わることは絶対にないだろう。どんな形になるかは分からないが、きっと誰かがこの中に割って来る。
それがどういう事態に陥ってゆくのか。
まだ漠然としか感じることの出来なかった僕はきっと、まだ空を飛ぶ鳥にはなれていないのだろうと悟っていたのだ。

「きっと、先輩に会ってきたんだろ」
屋上に続く階段を上っている最中に結論を言う友。まぁ、そうだろうとは思っていたけれど、もしかしたら他に何か理由はあるんじゃないかと考えはしないのか。
「そうか?もしかしたら違うかもしれない」
「お前は…じゃ聞くが他に何があるんだ」
若干小馬鹿にしたように息を吐き、ドアを開け放つ。
どんよりと重い雲が空を覆っていた。重く垂れ込んだ厚い雲は灰色で、今にも雨が降り出しそうだった。しかし、この前の時は晴天で良かった。女が吐露した日が曇天だったなら、女はもっと自暴自棄になったかもしれないから。
「言っておくがな、女があんなに落ち込んでるのはどう考えてもあのことが原因だ。さっきだって`あの日の話`って言ってたじゃねぇか」
「まぁ、そうだけどさ」
「おい、お前さ…」
重いドアが閉まる。鉄のドアが背中越しに閉まると、友は僕に向き直って威圧的にこう言う。
「…この話に関わりたくねぇってツラしてんな」
「…そうじゃない。俺が言いたいのは、決めつけるのは良くないってことだよ」
「ふざけてんのか?あいつはこの一週間ずっと苦しんでて、それでも俺らに心配掛けたって悩んであんなこと言ったんだ!」
「落ち着けよ…別に俺だって心配してない訳じゃないんだ」
「落ち着けだ?!お前正気なのか、おい!」
激情する友を見たのは今回を入れて三回。
一度目は中学の頃、部活の先輩に嫌がらせを受けたこと。
二度目は高校に入ってから少し、買ったバイクを誰かに傷を付けられたこと。
そして三度目が今回のこと。
友が誰かのために怒ることはあまりない。そんなに出来た人間ではないことは、二人とも知っているし、自覚している。だからこそ、友がこんなに感情に任せて怒鳴るには相当な琴線に触れたのだ。
「お前は昔からそうだよな!誰に対しても、何に対しても無気力で!いつも俺が一人で苦労して、一人で悩んで…お前は逃げて楽して!なんなんだよお前は!あいつの悩みじゃ流石に背負うと思ったけど今回も逃げんのか!」
「そうじゃないって言ってるだろ。唯、俺らが勝手に何かしてもあいつに迷惑が掛かるんじゃないかって言ってるんだ」
授業中の学校に二人の声が響く。すぐ下で何十人の生徒が居る中、こんなにも声を荒上げて気づかれないだろうか。すぐにでも先生が屋上に飛び出してきそうで内心焦る。
友の声に圧倒されながらも、そこでふと、気づいたのだ。
あぁ…友の言っている無気力とはきっと、このことなのだ。
何か物事に対して、真剣に悩んだ試しがない。他のことに心配をする自分はきっと他人から見て、どんなに不真面目に見えるのだろうか。
どんなに他人から独りよがりな独裁に見えるだろうか。
友の激怒した荒ぶる感情が少しずつ、心に入ってくる。
沸々と、怒りが募ってくるのだ。
「逃げて楽して、俺が悩んだってきっとお前は何もしてくれないんだろ。お前はそういう奴だもんな。きっとお前には周りが馬鹿に見えてしょうがないだろ。疲れるだけなのにって!」
うるさく感じる。この友の言葉が。
「共感なんかする訳ないよな。お前はいつも一人で遠目になってるんだよ。当事者になることなんて絶対にないんだ」
無意識のうちに歯を食いしばっていた。目尻が上がり、友を睨んでいた。何なのだ、こいつは、何様だ。感情がだんだんと己のコントロールから離れていく。
続けて吠えるのかと思っていたが、違う。友は諦めるように言うのだ。僕は駄目な奴なのだ、とでも言うかのように。
「お前はきっと…誰かのためにってことを、したことはないんだろうな」
頬に冷たい物が当たった。
ポツポツと、雨が降ってきたのだ。本降りになるのはきっと直ぐだろう。すでに雨足は強くなりつつあった。
「…なぁ、俺が感情的にならないって言ったよな」
降り出しの雨の臭いが辺りに漂い始めた。髪が雨を吸っていく。セットしたのに台無しだ。あぁ…嫌になる。
「俺があまり感情を表に出さないのは、それで解決しないからだ。俺が泣かないのは誰も助けてくれないからだ。焦っても、怖くても…誰も手を貸そうとはしないから、考えて解決するんだ。だからおまえみたいに衝動的に動いて事態を悪化させることもないし、良くすることもしない。結局誰も俺を見ないから頑張ることも意味ないんだよ」
だからずっとそうやってきたんだ。
昔感じた鈍い痛みを思い出す。吐きそうになった。
「どうでもいいなんて思っちゃいない。でも感情的にならない。それは代わりにお前がそうあってくれるから、俺は考えられるんだ」
あぁ…また、逃げてしまった。
真剣に面と向かって立ってくれた友に嘘をつく。でも、それで上手く回るなら、それでいい。
「…やめた。それがお前なんだって、とっくの昔に結論は出てたんだ」
馬鹿みたいだな俺。
友は自嘲気味に呟いた。
髪は少し滴るくらいに濡れた。服も色が所々変わっている。
「場所変えよう。さすがに風邪引く。」
「…あぁ、そうだな。じゃあちょっとつき合え」
来たときと同じように友が先導する。今日は金曜日、そして一限だからきっとあそこは空いてるだろう。そうだ、怒りを発散するのは怒鳴るだけじゃないのだ。

黙考

音楽室についた頃には、雨はすでに本降りになっていた。一限の授業が始まってからまだ二十分足らずだろう。それに二限も確か音楽室は使われない。時間は気にしなくてよさそうだった。
「久しぶりだな、ここに来るのは」
「最近は日向が暖かかったからな。うん、少し寒いかな」
電気を付けて中に入ってゆく。幾つも並んだ机と大きなピアノが二台。整頓された譜面台や据え付けのテレビ、音楽の先生の趣味で置いてあるぬいぐるみも、綺麗にピアノに飾ってある。合唱部が毎日せっせと掃除してくれているから清潔だ。屋上に次ぐ良い安息の地である。
友と僕は一直線にピアノに歩み寄る。少し冷たいひんやりとしたピアノの感触を撫でるようにして感じる。家にあるピアノより、ここのピアノの方が好きだ。調律は極たまに入れる程度のこのピアノは、いつ弾いても癒され、和む。きっとたまに外れる音が人っぽく感じて物じゃないように思えるから。
ピアノの大屋根を開ける途中の友に声をかける。
「それで、選曲は?」
「最近はジャズっぽく編曲して、遊んでばかりだったからな。久々にアップテンポな曲で暴れたい」
「なら楽譜貸して。どんな曲?」
「楽譜なんか必要ねぇよ」
制服を脱ぐ友は、その上着を近くの机に無造作に放った。肌寒く感じる僕とシャツのみの友。さらに腕を捲る友を見て鳥肌を立てる。
そっと鍵盤に手を添える友。顔を伏せた友の髪から一滴の雫が落ちる。その一滴を見つめながら友は端的に言う。
「タランテラ。今日はこの曲にする」
先ほどの激しい感情とはほど遠い、穏やかな口調で僕に、そう告げた。

ータランテラー二台のピアノの為の組曲。
イタリア、ナポリの舞曲をピアノでの組曲に変えたもの。
元々は町の名前に由来しているのだそうだが、諸説はいろいろとあるが、定かではない。
でも、歴史なんてそんなものだろう。確実なんてものはないのだ。今、この時でさえも。
…ちょっとセンチメンタルになってみたりして。
「でもこの曲ってある意味でスパルタだよなぁ」
激しく乱舞する二つのピアノもメロディが重なりあう。
テンポの速い曲、そして激しい音の起伏に先ほどまでの激烈とした感情がそのままに反映されていた。
鍵盤を乱暴に叩き、気持ちをぶつける。突上棒で支えられたピアノの大屋根を、奏でた音でガタガタと揺らす。錯覚だと分かりつつ、今この世界に二人の狂騒だけが世界を揺らす。
二人だけの世界。唯一の世界。
だから二人はお互いに遠慮せずに舞うのだ。フォルテを!もっと!フォルテを!
「タランテラっていう町の祭りで、踊る際の意味もこの名前にあるらしいんだけどさ」
「あぁ、それがどうした」
弾きながらも口調は至って平凡の二人。弾きなれている曲ならではの芸当だ。だが相当に難しい曲ではある。鍵盤を滑る二人の手は駆けるように動き、身体は揺れ、髪から滴る水滴も辺りに散る。窓に叩きつける雨、吠える風、そして鳴り響く雷鳴。激し揺れる二人の世界に、静寂はない。
「最初はすごくゆっくりとしたテンポらしいんだけど、だんだんと速くなって最後は誰も踊れないくらいになるらしいんだ」
「ふーん、そうなんだ?」
「祭りってさ、感謝の祈りとか慰霊のために、祖先とかをまつることだろ。でもこのタランテラって何かを祭ってるとは思えないんだよ」
友が音を畳み掛ける。それを僕は押し返す。攻めぎ合う幾つもの音が交差する。
音が跳ねて振動が部屋全体に響く。身体が、感情が高ぶってきた。友に生返事だけを返し、神経を腕に集中する。もっと速く、もっと荒々しく。
音を、飲み込んでやる。
「…あとで話すわ」
友の声色が変わる。音が急に艶やかになる。本気になったのが一発で分かる音の変化だった。
まるで駆ける馬のように、けれども抜かそうとはせず、共に支え合う。
本来の協奏曲に戻りつつあった。

「さっきの話の続きだけどさ」
弾き終わった二人はそのまま座ったまま、向きだけを変えて息を整える。
感情も入ると疲れるのだ、これが。
「祭るとか祈るとか、そういうのじゃないって話だっけ」
「あぁ、それで諸説は色々とあってな。ちょっと調べたりもしたんだ」
身体が火照る二人。友は襟に手を当て、ネクタイを緩めている。肌寒いと思っていたのにブレザーの下はすっかり汗をかいている。鞄からクリアファイルを出し、団扇の代わりにしようと思ったけれど、教室に置いてきた事を思い出す。
あぁ、悔やまれるな。
ブレザーを脱いで、座っている椅子の端に置く。
暑い。まるで走った後のようだ。
濡れた髪の水滴も蒸発する妄想が浮かんだ。
「調べていくうちに、この曲の諸説は殆ど、違うような気がしてきたんだ」
「殆ど…」
「そうだ。でもさっきの話した物とは違う、もう一つある話」
弾いていた間窓の外は騒がしかったけれど、今は全く淑やかだ。雨粒の大きい雨がまっすぐと地面に吸い寄せられるだけの日常的な雨。きっと先ほどの雷鳴や風は僕たち二人の創った幻想なのだ。
しかし、想像するほどに笑える。そんなに僕たちは感情的になっていたのか。幻想までしてしまうなんて。いや、妄想か?
「実は毒蜘蛛に刺された女人が、その毒を抜くために踊り続けるっていうのもあるらしくてな」
「そうなんだ?」
でもきっとそれは踊りを見た第三者の話だ。だってそう何度も毒に当てられるなんてふつうはあり得ないし。
踊れるはずのないテンポで狂ってしまったように身体を動かす女人たちの踊りに、その祭りのことを知らない誰かが
勝手に勘違いを起こしたのだろう。
「この話はきっと俗説だ。でも俺はこの話が一番好きなんだよ」
「…初めて聞いたよ、そんなこと」
「あぁ、だって最近好きになったからな」
極端だなぁ。友に心の中でそっと嘯いた。
そばに置いてあった飲み物を手に取る。ここに来る前、買っておいたのが良かった。今から買いに行くのは流石にしんどい。
ペットボトルのキャップを開け、口をつける。勢いで半分ほど飲んでしまった。
口を拭うと友が手招きをする。手の中のペットボトルを投げると片手で受け取った友が、残ったそれを飲み干した。
あぁ…今日一日分の飲み物が早々に無くなってしまった。財布の中は惨事だってのに。午後どうしよう…。
「蜘蛛に刺されて毒を抜くために踊り続ける。でも踊るだけじゃ絶対に抜けない。だからずっと踊り続けるしかない」
毒が抜けることを願い、祈り、踊り続ける。どんなに必死で、それも死と向き合いながら踊ったのだろうか。
友は語る。
「この話はお前が思ってるようにきっと俗説なんだろ。でもこの話を一目見たとき思ったんだ。こういった…似たような話が身近にあるんじゃないのかって」
手に持つ空のペットボトル。友はそれを遊ばせながら話し続ける。
「状況は違う。でも似たような場面はこの世界に溢れてるんだ。そう思ったのは友達の実体験」
なぜ、この話をしたのか。それ以前になぜ今日、この選曲だったのか。だいたいの検討はついていたが、やっぱりか。
「この話、今のあいつに似てるなって思ったんだ」
「…そうかな」
「今までこの曲を弾いてて楽しかった。お前と弾いてたからかもしれないけど」
手に持ったペットボトルが形を変える。手に力を込める友が痛々しい音を立てながら潰してゆく。表情を変えずに友は続ける。
「似てるなって…あいつが苦しんでる姿に既視感を感じた途端、ある光景が浮かぶんだよ」
きっと、それは彼女が最も想像して欲しくはないものだろう。周りの人たちに相談しない一番の理由がきっと、それなのだから。
「あいつが元彼氏から、その畜生のダチから暴力を受けてる姿が浮かんでくるんだよ。無理だ…もう、耐えられない」
俺はもう、この曲は引けない。
彼女が苦しむそれは、想像する事さえ嫌悪のものとなる。
それを友は一人弾くときにも、今僕と弾いている時でさえも感じていたのだ。
「さっき踊り続ける説が好きって言ったけど、少し違う」
「…うん」
「本当はこの説が一番俺に合ってるからなんだ。あいつの為に、何度もこの説を思い出して助けてやりたいって。そしてもう一つ」
潰れていたペットボトルがまた音を立てる。僕はもう、友を見ていたくはなかった。また、あの殺意に満ちてしまった顔を見ることになるから。
「あいつらを憎む気持ちを増すためにも…」
友の話は悲壮と憎悪に満ちあふれていた。
彼女が苦しむことで、友もまた苦しんでいる。負の連鎖が始まっている。危機感を感じ、僕は戦慄した。
この出来事はどこまでその陰を落とすのだろう。僕たち三人で終わるはずがないと分かっていたとしても、見えない闇の先を恐怖に感じずにはいられなかった。
「悪い、話が逸れたな。あいつが先輩に会ってきたことについてなんだが」
「あ…あぁ、そうだな。なんだ」
「俺も一度先輩に会ってこようと思う」
ペットボトルを机に置きながら友は言った。
「まずはその先輩とやらが、どんな奴か分からない事には何も始まらない」
「…会いに行くのか?」
頷く友は短く答える。
「心配すんな、殴ったりはしないから」
まるで自分に言い聞かせるように呟く友は深く息を吸う。鋭く細められた眼光は、彼の面影を無くすに相当するものだった。
友は気付いているのだろうか。今友が持つ感情は、自身をも憎むものになるのだと。
僕は、それを言葉にすることが出来ずにまた、彼から逃げ出してしまったのだった。

想いと思惑

時の流れは異様に遅く感じる。友や僕に、彼女が打ち明けた日からまだ二週間と経っていないのだ。何気なく過ごせば早く感じる時の感覚も、常に考えごとをしていると何故か遅くなる。それは内容が重いだけに、楽しめる話題ではないからだろう。
家に居ても、学校に通う最中でも頭から彼女の相談が離れない。心を奪われたようにずっと考えてしまっている。
「ちょっと、いつまでソファで寝てんの。起きなさいって」
「母さんや、少しの間放っておいてくれ。心ここにあらず状態なんだよ」
「なにが心ここにあらずよ。さっきから放置してたっての。もう掃除するから立った立った」
強引にソファから引き剥がされる。諦めて部屋に戻ろうと出しっぱなしだった飲み物を片づける。
「ねえ、心ここにあらずって言ってたけど…もしかして、彼女?」
「母さん、いい年してそれは無いわ」
「慰めようとしたのに、連れないわね」
「いや、茶化しただけだろって」
リビングを後にして、そのまま階段を上がる。二階の部屋に向かうと母の声が背中を追いかけた。
「あんまり気負うんじゃないよ。あんたも潰れるかもしれないから」
冷や汗が出る一言だった。何も話していないのに、何故こうも的確な注意を出来るのだろうか。
母に少しの畏怖を抱いた瞬間でもあったが、何より心強い気持ちを持った。もし僕が、彼らと友に沈んだとしても母はそんな僕を助けてくれる。そう感じることが出来る一言だった。
「母さん、別に悩みなんてないよ。色恋の話でもないけど」
「どうだか、いきなり彼女を家に連れてきても部屋に二人きりは無しだよぅ?」
「だから、茶化すなっての」
思わず笑ってしまう。それを階段の下から見ていた母は一つ頷いて戻っていった。満足そうな微笑みは、母独特の笑顔だった。
「…ありがと」
「なんだってー!?きゃー!柄じゃない一言頂きましたー!」
呟いてしまった僕はどうかしてたんだと思う。そう思うことにした。
きっとそう思わないと顔が真っ赤になっているだろうから。
部屋のドアを閉めるまで、下のリビングから母の騒ぐ声が聞こえていた。
「…うん、共倒れはしないさ。だって」
だって…僕は友のような出来た人間ではないから。
一緒に倒れず、傍観するのが僕なのだ。友に言われたように。だって、それしか出来ないのだから。

俺は彼女の為に何が出来るのだろう。
一人で動いても出来ることはたかが知れている。けれど、何もしないのは性分にも合わないし、何よりあいつと同じように眺めているだけなのは絶対に嫌だ。どうにか彼女を手伝いたい、助けたい。そう思うことに不満や不平はもちろん無い。けれど、どうしたら救えるのだろう。
「…驕ってるかも知れないけど、それでも俺は…」
彼女を助けたい。
彼女をこの手で救ってやりたい。だって俺は…。
考え事が逸れた。
「でもどうすりゃいいんだ」
今の彼女の心境を察することは到底出来ない。そんな俺に何が出来るのだろう。
女子の気持ちを考えることもままなら無い俺が、どうしたら相談や悩みに紳士に向き合えるのだろう。
「…しょうがない、か」
無頓着なあいつに言われたように俺一人で動けばろくな結果にならないのだろう。実際にこれまであいつ無しで一人、独断で動くと余計に面倒な事が起こり、ややこしくなってしまうのだ。
少しの合間だけ逡巡した後に、隣の部屋の戸をノックする。
「姉さん、ちょっといい?」
「……」
返事が無いのはいつもの事なので気にせずに入る。
一応ノックするのはいざというときの口実にしているだけなので普段はあまり意味が無いのだ。
…いざという時って。まぁ姉さんに限って無いだろうけど。
机に向かう後ろ姿に目をやる。ヘッドホンを付けて勉強しているのだろう。すごい速度で腕が紙の上を走っている。
「姉さん、ちょっといい?」
無理矢理ヘッドホンを外す。
「うおぁ!びっくりした。何、なにか用?」
「うん、相談」
「珍しいね、相談なんて」
机の上に視線をやると大学のレポートを作っていたのだろう、開いたパソコンや資料に専門的な内容が所狭しと埋まっていた。
「レポート?大変だな」
「そうなんだよね。レポートと課題で四つ程あるの。もう大変で大変で」
「どんな事やってんの?」
「んー?アルツハイマー型認知症にドネペジルっていう薬はどんな作用機序があるかなーとか、どんな副作用あるかなーとか。そんな感じの」
意味分かんないよねー。いや分かるけど、面倒だよねー。問題形式だったら、問一で終わりなのになんじゃこりゃ。
…うん、苛立ってるようだ。関係ないけど。
「そんな中、折り入って頼みたいんだわ」
うーん、と悩む姉。いやいや、ポーズはいいから早くしてくれよ、姉さん。
「どれ、休憩でもしよう。珈琲飲みたい濃いやつ」
「…まぁ、作ってくるよ」
「挽きたてでね」
「……」
大人しく部屋を出る。小言を言いたくなるが相談する手前そうもいかない。
インスタントしか飲まないのに、挽き方なんて分かんねぇよ。

結構な時間が経ってしまった。挽き立てを部屋に持っていくと、姉はベッドに突っ伏していた。寝息を立てているような気配は無いが、夜遅くまで机に向かっているのだろう、相当に疲れているのだ。
姉のカップ一つだけを机に置いてベッドに腰掛ける。
「姉さん、持ってきた」
「おー…、ありがとう」
もぞもぞと這い寄る。一口啜り、すると顔を少しだけ歪ませた。
「…うん。もう挽いてくれなんて頼まない」
「え、そんなにか?」
「豆が細か過ぎて全然美味しくないよ」
カップを持ったまま色々と言ってくるが初めて挽いたのだ。しょうがないだろ。
「まぁいいや。話してみなよ」
クッションを抱きながら俺に問いかけてくる。自分の用事が多々あるにも関わらず相談に乗ってくれたことは嬉しい。けれど何だろう、いやに落ち着かない。
「で?相談ってもしかして恋いバナかな?かな?」
あぁ、これだ。落ち着かない原因は姉のテンションにある。今の俺の気分とは対照的過ぎて話をしにくいのだ。
「違う、そんなんじゃない。もっと真剣な話しなんだよ」
浮ついた姉の雰囲気が消えていく。落ち着いた姉も、飲みかけのカップを置いて座り直した。
「実は今、俺の友達が危ないんだ」
危ない。そう言った俺は彼女を取り巻く現状を説明し始めた。
中学から付き合いのある女子の友達である事。その友達がある男と付き合い、酷く傷つけられた事。それに悩む彼女が、俺や共通の友達に何も話さなくなった事。悩んでいるのに平然を装って苦しんでいること。
姉に話している事で気づく。俺はあまりにも、彼女が苦しんでいる出来事に対して知っている事が少ない。
「…あんたも相当に混乱してるね。所詮は他人なんだからもっと客観的に考えなよ」
「他人じゃない。親友なんだよ」
「友達は所詮他人。そうやって割り切らないとあんた、その子に引きずられて心残り出来ちゃうよ?」
「心残り?そんなの関係ないんだよ。あいつが死ぬほど苦しんでるから。助けたいって思って何が悪いんだ」
嘆息する姉。一息つくためにカップに手を伸ばす姉は、冷めた珈琲を喉に流し込む。
手持ち無沙汰となった俺は壁に掛けられたカレンダーと服を眺める。
カレンダーには所々予定が書き込まれている。その中でも明日の休日に大きな丸が一つ。掛けられた服もいつもより可愛いものだった。
あぁ、明日デートだから課題に必死だったのか。
少し悪いことをしたな、と申し訳なく思った。
「ねえ、あんたはその子のことが好きなの?」
「そんなの関係ない。あいつが今、しんどいなら力になりたいって思っただけだ」
「なら助けたいって思うくらいには特別なんだよね?」
「そりゃ…親友だから」
「…いい?私はね男女の間に友達関係は出来ても、親友になれるとは思ってないの」
友達より大切な異性になったら、それはもう特別な関係なんだよ。
姉が言うすべての言葉が、欲しい回答とは違う。見当違いにも程がある。
そう思ってしまった途端に、姉からのアドバイスに頷くことが出来なくなってしまった。
「駄目だ、やっぱり分かんねえよ。相談に乗ってくれた事はありがたいけど、もう十分だ」
話し半ばで腰を上げる。
「課題の邪魔して悪かったな。それじゃ」
「あ、こら。まだ話しの途中なのに」
「もういいって。ありがとな」
「…ねえ、所詮は他人だって言ったよね。あれさ…」
部屋を出てゆく。最後まで言えなかった姉は閉められた戸に向かって呟くことしか出来なかった。
「他人だって思ってるのは、あんたじゃなくて、その女の子なんじゃないの…」
ねえ、あんたが思ってるほど、あんたはその子の事知らないんだよ。なのに、なんであんたがそこまで必死になるの。
息を吐く。クッションに顔を埋めながら、思わず付いた一言が何より危機感を感じてしまった。
「危ないなぁ…」
弟のフォローは私がしっかりしよう。突っ走ったあいつを
私がケアすれば少しはマシになるだろう。
不安な気持ちは収まることを知らない。まるで映画のように、深みにはまる出来事から抜け出せない主人公たちのように。
…悪い方に、行かなければいいのだけれど。


家族は敏感だ。私が何も話していなくても、彼らはすぐに分かってしまう。
「なあ、何かあったのか?」
「え?どうしたのお父さん、そんな顔して」
お父さんに話を振られたのは朝食の時だった。その日はまだ、私自身整理が付いていなくて、二人に話す前の出来事だった。
「いや、お前には明るく居て欲しいだけなんだ。だから何か、落ち込んでいるように見えて…気がかりでな」
「心配性だな、と言いたいけど。まぁ悩んでいる事は事実だし」
「やっぱりか!こんな朝っぱらに聞く事じゃないし、俺の柄でもないのは承知だが、でも相談なら聞くぞ?」
「うん…実はね」
「あ、あぁ」
手に持った箸を置いて姿勢を正す父は、眉を寄せて心配そうな瞳を私に向ける。
「私、最近口内炎が酷くて、美味しい物食べれないの」
「…そうなのか、なら今度の休みに診てもらうか?」
「うん、ありがと。でもすぐに治ると思うし」
お父さん…ごめんね。お父さんには言えないと思う。だって、家族に打ち明けた瞬間から、私は家族の顔を見れなくなってしまうと思うから。
「心配してくれてありがとう。それじゃ私もう出なきゃ遅刻しちゃう!」
「あぁ…行ってらっしゃい!気を付けて行くんだぞ!」
「はーい!行ってきまーす!」
鞄が肩に食い込む。そんなに重くないはずなのに、鞄が重い。
どうして、こうなってしまったのだろう。


「あなた、どうでした?」
「…話しては、くれなかったらしい」
「そうですか…」
娘が家を出た後、私は妻と共に嘆息していた。
娘に異変を見て取れたのは昨日、私が帰ってきた時だった。唯、娘に何かが起こったのは一昨日であると私は考えている。一昨日の土曜、私は休日にも関わらず出社していた。立て込んだ仕事に首が回らない状態の時、妻から連絡が入ったのだ。
「あの子がなにかおかしい。早めに帰ってきて」
悪寒がした。何故だか分からないが、たった一文のみのメールに、私は焦燥感を抱いた。
上司に頭を下げ、無理を言って急いで帰宅したとき、リビングに娘の姿は無かった。
「あの子は、あの子はどこに!」
「あなた落ち着いて。今は部屋に居るの。けれどもう寝てしまってて」
妻から聞くと、それは耳を疑うものだった。
帰って来た時、まず今朝と服装が違っていたということ。シャツの上に着ていたカーディガンは無く、またスカートは水に濡れていたということ。まるで何かを洗い落とすかのような水のシミは、所々に見受けられ、さらには時間を掛けて結っていた髪も唯下ろしていた状態だったこと。
そして何より、帰ってきて早々に、風呂に篭もったこと。
ここまで聞いて、もしやという感情が芽生える。しかし、まさか娘にそんな。
「あなた、本当に落ち着いて。憶測だけで考えたら混乱してしまうわ」
「…そうだな。私が混乱してしまったら駄目だな。あの子は…何か言っていたか?」
「…何も」
そうか、と吐息混じりに吐いてしまった一言。それは私のふがいなさを如実させるに十分なものだった。一人娘であるあの子が、今まさに悩んでいる現状で、私はあの子にどう接してやれるのだろう。仕事に打ち込み、娘と向き合ってこなかった私が、どうしたら手を差し伸べてやれるだろう。玄関で靴も脱がず、立ち尽くした私と妻は、言葉が出ずに唯頭を垂れるばかりであった。


思い返せばあの時、真っ先に娘の部屋に訪ねることをしなかったのは、ある意味で失策であったのかもしれない。
こうして二の足を踏んでいることを考えると、早めの解決を計るには最早、良い案はないだろう。
朝食に出たパンに口を付けながら、昨日の出来事を思い返す。時間が癒すモノは極端に少なく、偏っている。自然と立ち直るには、問題の質が影響するが、今回の娘では、きっと望めない。
私に出来るのか不安はあるが、これは家族で解決するモノではないだろうか。
「…あの子には申し訳ないが、警察や児童相談所に問い合わせてみないか?」
対面の席に腰掛ける妻に打ち明ける。昨日から考えていたことだ。
「警察…ですか」
「あぁ。似たような事件もきっとある。素人の私たちで話し合っても埒があかないと思ってな」
「…私たちが考えているようなことではないかもしれませんよ?」
「構わない。もし違っていたとしたら、それに越したことはないだろう」
妻は悩んでいるようだった。相談したことを娘が知ったらどうなるかと。私も一番頭を悩ませた想像だった。
「…分かりました。なら連絡先は私が調べておきます。あなた、早く支度しください。もう時間ですよ」
壁に掛けた時計を見るとすでに家を出る時間を過ぎていた。
あわてて鞄を掴み玄関を飛び出す。電車に間に合うだろうかと焦りながら、今までの話をまとめる。娘の精神的な状態が気になるが、今は妻に任せよう。帰ってきたら娘は顔を出してくれるだろうか。ご飯はちゃんと食べたのだろうか。
目尻に皺が寄る。年を重ね結婚し、娘を授かった安穏な生活に、初めてと言える陰が差し込んだ。
私が娘を、家族を守らなければ。

離別

「今日は一人なの?」
僕を訪ねてきたのは友ではなく、女であった。
冬が迫る寒い正午、好き好んで屋上に訪れるのは、大抵が一人になりたいとき。もしくは顔を合わせたくない人から遠ざかる為に来る人がほとんどなのだ。僕も例外に漏れることなく、会いたくない人から逃げるために来ていたのだ。まさに今、顔を合わせたくない人と対面しているのだけれども。どうして今日、友が居ない一人の時に女が来るのだろうか。
あの告白から顔を見せなくなった女がなぜ来たのか。僕は内心不安に思いながら、女に笑顔を向けた。
「そうなんだよ。あいつ今日一人で食えってさ」
「そうなんだ。なにか用事でもあったのかな?」
あるよ。先輩に会ってくるっていう用事が。
とても言えたものではないので、僕は黙る。
隣に腰を下ろす女は、普段と変わりなく菓子パンに手を付けた。ビニール独特の耳障りな音に混じって、女の鼻歌が聞こえる。
手元の昼食に目を落としながら僕は目を見張っていた。
二週間と経たないのに、女の様子が明るすぎるような気がしたのだ。
盗み見るように女の顔を覗いてしまう。口元に笑みすら含んだ彼女は依然となんら変わりないように見えた。
その光景は異様に思えるほどいびつな物で、僕は多少の恐れと錯覚した。
「屋上は寒いね、もう冬が近いのかな」
「平年通りって言ってるけど風がある分、体感的に寒く感じるよね」
「そういえば今日の授業寝てたね。寝不足?」
「寝不足なのはいつものことだよ。予習で終わってた所だったから暇で」
平凡だ。なにもかもが安穏とし過ぎている。
かつてこの女が、どのような境遇に至ったのか知る僕にとって、今の女は恐怖や戸惑いの対象でしかない。
「そういえばさ、話すようになってからずっと不思議に思ってたんだけど」
女が僕に疑問を投げかける。
「いつも二人でしか話してないよね?他に友達は居ないの?」
「いや居るから」
飲み物に口を付けて一拍置く。
「居るけど、なんていうか気楽なんだよ。あいつと居る方が」
そう言いつつ、僕は首を傾げる。別段、友と居ても気楽には感じない。多少の緊張感を保持したまま、僕は友に接している。
友達は居るととっさに突いた一言を、僕はゆっくりと思案する。
友達と呼べる人は、友ぐらいだろうか。友はなんというか、僕の性質に似通った一面を持っているように思った。それは出会った頃から感じていたことで、連むきっかけの一部だと思っている。
「…いや、居るって言うのは嘘かな」
友の話しは僕自身も納得のいく理由が無い。だから他に友達の居ない理由を打ち明ける。
「嘘…?」
そう。相づちを打って続ける。
「友達と呼べるような奴が他にいないんだ。名前は知ってるし、話をする時だってある。けれど」
何も言葉を発しない女、しかしその目は絶えず僕を見続けている。
「けれど、みんな裏を持ってる。表は良い奴だったとしても、その場を離れれば他人以下の下衆なんだ。その内面を知ったから、俺は交友関係を広げないようにしたんだと思う」
「それは一部の人じゃないかな?私の知る人たちは皆良い人だよ?」
朗らかに笑う彼女。その表情を見ながらつい、思ってしまう。
皆良い人たちか…。それは付き合ってた先輩も、またその友達も含まれているのだろうかと。
「私はね、何も良い人達ばかり居るとは思ってないの。けれど私自身、裏のない素直な感情で人と接すれば、自然に気持ち良い人達が集まると思ってる」
「…そうだね、俺には出来そうにないけど。参考にはさせてもらうよ」
「あ、真面目に聞いてないでしょ。もう失礼するなぁ」
いつしか前のめりに僕に詰めていた女は、腕を組み、僕に向かって精一杯のしかめっ面をした。
どれほどに、今の時間が異常であったか、僕は気づいてはいなかった。
女が笑っていることだけでも、僕には上手くハマらないピースのように思えた。
けれどその気持ちが、女と会話している内にどこかに消えてしまっていたのだ。
取り留めない会話を聞けば、和やかな雰囲気そのものだ。
けれども、女は闇を抱えている。薄暗い気持ちの淘汰を必死に抑えている。
僕はその状況に気づかなかった。
僕は見誤っていたのだ。それぞれが思うように動くこの状況下で改善の余地があるはずがないのに。
それを僕は女の笑顔、いや作り笑いで誤解をしてしまい、更には、友の行動が僕の知り得ないところで吉と出たのだろうかと、希望を疑わずに受け入れてしまったからに他ならない。
どれほど悔いただろう。この時に僕が少しでも気づけば彼女や友と、少しでも分かりあえたかもしれないというのに。
「それじゃあそろそろ私は行くね。この後体育だから着替えないと」
「いやいや、同じクラスなんだから。僕も体育だから着替えに行かないと」
「え?授業に出るの?」
「出ない前提で話されている所を見ると、どうも信頼みたいなものがないことに気付くよ」
取り留めのない話をする女に暗鬱とした感情は無かった。それに違和感を感じつつも、僕はそれに浸ってしまったのだ。
女との会話は緊張こそあったものの、とても楽しかった。雰囲気というのだろうか、そういった些細な感情の吐露が僕らを優しく包んでいた。女と二人きりで話す事は、数える程に少ないけれど、これが本来の女の明るさなのだ。
作り笑い、強がりの末の明るさだと分かっていたとしても、僕が目を背けるには十分な要素だった。
友が女を心配して勝手に動いてはいたけれど、結果が出る前に、彼女は自力で助かろうとしている。その傾向が垣間見えただけでも僕は安堵する。これでまたいつもの三人に戻るのだ。またあの安穏とした、普遍的な日常に戻るのだ。
そう感じた今回の出来事は、鐘の音が学校に響いたことで終わりを告げた。
これで、僕らに取り巻く負の出来事はある種の結末を迎える。
友は納得しないだろうなと、女と別れた後に心の中でそっと、呟いた。


「…なんか随分と久しぶりに思えるよ」
思わず友に向かって呟いたそれは、軽く振った手によって流された。朝の駅前で待っているとメールで伝えてきた友は、改札前の柱に寄りかかって僕を待っていた。
大勢の人々の行き交う駅の入り口。待ち合わせには不向きな場所で直ぐに見つけられたのは、僕が衝動的に近くのコンビニで飲み物を買いたくなった偶然によるだろう。
足元に置いていた鞄を背負い、並んで歩き出す友。何とも言い難い雰囲気に僕は思わず閉口してしまう。
そんな僕を察してか、ちらりと僕の顔色を窺った友は昨日の出来事を話し始める。
「一応言っておくけど、そんなに話す内容は無いからな」
前置きをつけた友はゆっくりと話し始める。
「例の先輩に会って来たはいいけど、話してる限り普通の人って印象」
何事も無かったと知った僕はほっと一息吐いて、友に冗談を言う。
「そうか、俺はお前が無茶しなかった事が喜ばしいよ」
「単細胞って言いたいのか?お前は」
別にそうは思っていない。ただ考えなしに動く癖を知っているだけだ。
「まあ成果だけ話せば、メアド交換したってのと、今度会う約束したってことくらいか」
「え?なんで一度会っただけで約束取り付けられるんだよ」
「お前じゃ一生出来なさそうだよな」
鼻で笑われたが、友の社交性というものに驚愕する出来事だった。
僕は少しだけ考える。一度会えば友は気が済むと踏んでいたのに、またも会おうとしている。女の友達だと知られれば、面倒な事になると思っていたから、これは想像していた以上に状況が悪くなるかもしれない。
「それで、また会ってどうするんだよ。もう関わらないほうが良いんじゃないか?」
「一度会ったくらいで人間性なんか分かるかよ。当然何度も会うつもり」
友の話くを聞いた途端に、足取りが重くなった。まるで足に友の言葉がまとわりついたかのように。
どうして友は、こうも僕の望まぬ歩みを唯勢いに任せ、推し進めてしまうのだろうか。
ほんの少しだけ空を仰ぐ。いくつもの雲の切れ目から、降るように注がれた光芒が、まるで僕達を惑わせる妖光のように見えた。
そう思ってしまったのはきっと、暗い心情を持って歩き続けるからだろう。
まっすぐに伸びる先の道は、雲の影が重く染める。冷たい風が吹き抜ける薄暗い目の前の道と、相対するかのように光溢れる脇道。それはまるで、僕達の未来を諭しているようではないか。
それでも僕達は目の前の道を歩く。唯ひたすらに歩みを進める。自らが、暗雲の未来に足を運ぶ。
今思えばとても愚かだった。少なくとも僕はそれに気づき始めていたというのに、止まらずに突き進む友に、優柔不断な考えでついて行ってしまったのだから。
同じ制服を着た周りの生徒。同じ通学途中の彼らは笑い合い、冗談を言い、軽快な足取りである。それに比べ僕らはなんと重い足取りだろうか。
昨日の昼休みの時、女と会った事を友に言おうか。
そう不意に思ったけれど、きっと友は話しても止まらないだろう。友はすでに、女の為にではなく、自分のために動いていたのだから。
なんと愚かな事か。そう関わりの無い人々は言うに違いない。僕は何もせず、友は無暗に動き、当の本人である女は自力で助かろうともがいている。
何もしなければ終結した話を、友の行動が混沌にさせる。どう足掻いても、僕らの足並み揃わぬ行動が裏目に出てしまうのだ。
勇気を出して、僕が必死になればどうにか物事が動いたかもしれないけれど、その気概は起きなかった。
このことから、僕は一つの結論を出したのだ。
所詮友と女もまた、僕の大切な人では無かったということに。
この出来事も静観していよう。僕は何もせず、行く末を見届けるのだ。誰からも責められず、己の保身に徹する僕は、隣を歩く友からひっそりと心を離した。

蒼い空に

蒼い空に

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 羽のない人
  2. 吐露
  3. 黙考
  4. 想いと思惑
  5. 離別