或る聴取

「……で、あなたが見たのは本当にゴリラだったんですか?」
 若い制服警官が真面目にそう聞いてきたので、僕は思わず吹き出しそうになった。
「ええ、間違いありません」
 顔を引き締めながら僕はそう言った。若い警官は黙って軽く頷くと、調書とおぼしき紙に何やら書き留めた。
「うむ、しかし……、何かの見間違いということはありませんか?」
 少し間を置いてから、警官は感情を押し殺した口調で言った。
「いえ、そんなことはありません。あれは確かにゴリラでした」
 我ながら滑稽な問答とは思いつつも、僕は毅然と相手を見据えて言い放った。僕は真剣だった。
「んん……」
 相変わらず顔色の変化はないものの、その若い警官は困惑しきっているようだった。
「あの……」
 遂に警官は顔を横に向けると、物欲しそうに見上げた。そこには、悠然とこちらを見下ろす年かさの警官の姿があった。ベテランらしいその警官は、若い部下に頷くと身をかがめて僕の顔を覗き込んだ。
「わたしからも質問させてもらいますよ」
 ベテラン警官は頑丈そうな顔に柔和な微笑をたたえながら、おおらかな口調で言った。しかし、その表情や言葉遣いにはやや大げさな所があり、彼の一連の所作は相手の警戒心を解くための老練なテクニックではないかとさえ思えた。事務的な部下と、人間味あるベテラン……、それが意図的かどうかはともかく、役割分担ができているのは確かだった。
「それでその、ゴリラ……」
 ベテランの口調は実にゆったりとしている。彼は「それでその」の後で一拍置いた。しかも人当たりのいい笑顔を崩そうとしない。その張り付いたような笑顔のまま、もったいつけるように僕を見据えながら、はっきりと、「ゴリラ」と発音した。その絶妙な間と、「ゴリラ」という間抜けた語感に、僕はまたしても笑いがこみ上げてくるのを感じた。
(いかん、いかん)
 僕は下腹に力を込め、必死にその衝動を抑えた。笑っている場合ではない。僕は奥歯を噛み締め、眉を険しく寄せながらベテラン警官を見返した。
「そのゴリラ、いやゴリラみたいなものを見たのは、いつ、どんな場所でしたか?」
 引っ掛かる言い方だった。
「ゴリラみたい、じゃなくて、ゴリラ、でした」
 僕は言葉を区切りながら明瞭に発音した。特に「ゴリラ」に力を込めた。
「ああ、ええ、そのゴリラをいつ、どこで見たんですか?」
 警官は何気なく言い直して質問を繰り返した。そこには、どことなくなげやりな響きが感じられた。人の良さそうな物腰の裏で、僕に対する不審の目を光らせているのかもしれない。
「僕がゴリラを見たのは、ついさっきのことです。場所は、自宅前の路上でした」
 警官に挑みかかるように、僕は淀みない口調できっぱりと言い放った。
「ほお、路上でねえ」
 依然、警官は穏やかな微笑を崩さないが、その口ぶりは軽薄さを含んでいた。
「ええ、家を出てすぐの角を曲がった所に立っていたんです。ああ、立っていたといっても、手は地面についていましたけど」
「うむ、なるほどねえ……」
 そう言い終わると、ベテランは一瞬、眠たそうな目をした。彼の四角い顔を睨むように凝視していた僕は、そのきわどい変化も見逃さなかったのである。傍らの若い警官はというと、先程から無表情に手元の調書を見つめ続け、固まったように動かない。……どちらも退屈しているのは明らかだった。
「しかしねえ……」
 ベテランは煮え切らない口調で呟いた後、
「……ゴリラって、あのゴリラですよね?」
 抑揚なくそう言った。
「はい。あのゴリラです」
 「あの」が何を指すのかよくわからなかったが、僕が見たのはとにかくゴリラだった。「ゴリラ」としか表現の仕様がないものだった。あのゴリラは、すべてがゴリラ的要素で構成されており、他の要素を全く持ち合わせていなかったのである。
「ううん、しかしねえ……」
 ベテランは、またも歯切れ悪く唸るように呟いた。僕はじれったさに身悶えする思いだった。
「あの、まさか僕の言うこと、信じてもらえてないんですか?」
 その時、僕はベテランの顔が一瞬強ばるのを見たが、それはすぐに取って付けたような笑顔に戻った。
「え? いえいえ、そんなことは……。ただねえ……」
「ただ、なんです?」
「いえ、疑っている訳ではないんですよ。ええ、確かにあなたは何かを見たんでしょう。……ただ、それがゴリラというのはちょっと……」
「ゴリラが信じられないんですか?」
「ええ、いくら何でもゴリラはねえ……」
 ベテランは今までとは異なる笑顔(おそらく苦笑いと思われる)を浮かべ、若手警官に目を遣った。しかし、相手に同意を求めるためのその動作は、敢えなく空振りに終わった。部下の警官は相変わらず頑なに手元の書類を睨みつけており、上司の所作には一切気づいていない様子だったからである。
「……まあ、例えば、ニホンザルとかだったらまだわかるんですがねえ……。なあ」
 ベテランは、先程の失敗を繰り返すまいと、今度はしっかりと若手警官の肩を叩きながら言った。
「はい? ええ、まあ、そうですね」
 若手は感情のない口調でそっけなく答えた。彼は、この質疑応答に関心がないようだった。むしろ、苦痛を感じているようにすら見えた。しかし、僕はそんなことに気を回している場合ではなかった。
「ニホンザル、ですって? そんな馬鹿な。いくらサルの仲間だからって、見間違うはずないでしょ。第一、大きさが比べ物にならない。僕の見たゴリラは、手を地面につけた状態で優に僕の背丈を越えていたんですから」
 僕は改めてゴリラの姿を思い返した。あの時、僕は確かに見下ろされていたから、ゴリラの大きさは手をつけた状態で二メートルを下らないだろう。立ち上がったら、三メートル近く、いや、それ以上になるか。
「そんな……、いよいよ何かの見間違いとしか思えないな。それに、確かさっき、路上にいる所を見たとおっしゃいましたね」
「はい。間違いありません」
「それもちょっと引っ掛かるんですわ。サルなら普通、木の上とか、屋根の上なんかに登りたがるもんじゃないんですかね?」
 ベテランの口調が次第に馴れ馴れしくなってきた。おそらくこれが彼の素の顔なのだろう。
「僕はサルの専門家じゃないし、サルでもないから、そんなことは知らない。僕はただ事実を語っているだけです」
 僕はこれ以上ないほどに毅然と言い切った。心にいささかでもやましさがあったなら、こうもきっぱりと断言することはできないだろう。
「まあまあ、落ち着いて」
 ベテランは部屋の片隅に置かれた回転椅子を引き寄せ、腰を下ろした。彼は今まで、立ったまま身をかがめた姿勢で問答を続けていたのである。
「ええと、こういうことは考えられませんか。それはゴリラの着ぐるみで、中に人が入っていたと」
「いえ。話になりませんよ。本物と着ぐるみの区別ぐらいできます」
「そうですか。でも、最近じゃあ、本物そっくりによくできたものもあるんじゃないですかね」
 警官はどうしても僕の言うことを認めたくないようだ。その態度は僕の反骨心を掻き立てた。
「そりゃあ、よくできた着ぐるみもあるでしょう。だけど、所詮は作り物です。……あれは、あのゴリラは……」
 僕は口をつぐんだ。その先を言うのはあまり気が進まなかったのである。
「どうしたんです? やっぱり着ぐるみだったと……」
「違います!」
 思わず声を張り上げてしまった。どうやら手持ちの札を切るしかないようだ。
「僕は、そのゴリラの匂いを嗅いだ……」
 しばしの沈黙。もう誰も笑っていなかった。若手警官は前にも増して表情をなくし、ベテランは中途半端に口を開けたまま固まってしまった。
「匂いを嗅いだんですよ。いかにも動物らしい、あまり具体的に説明するのはよしますが、あの、濃厚な野生の匂いを」
 言い終わって、僕は二人の警官を見た。彼らは先程と全く同じ状態だった。室内は、時が止まったかのように静寂で満たされている。
 ややあって、そんな部屋の空気を再び揺り動かすように、ベテランは鼻から長く息を吐くと、太く短い腕を組んだ。
「ほお、そうですか」
 ベテランはそれだけ言うと黙ってしまった。今度は僕の発言を否定しようとはしなかったが、納得していないのも明らかだった。何やら考え込んでいるのか、しきりに「ううん」と低く唸っている。
 僕は、歯がゆかった。これだけ言っても信じてもらえないものだろうか。そんなに信用が置けないのか、僕という人間は。……なんだか感傷的な気分になってしまった。人格そのものを否定されているような気がして、悲しかった。
 僕はもう一度奥歯に力を込めると、二人の人物を凝視した。このままでは終わらせない。何としても彼らに認めさせなければ。
 意を決すると僕は口を開いた。……これは、できれば言いたくなかった。
「それに、見ましたよ。……そのゴリラが、大きい方をするのを」
 顔に血が上ってくるのを感じた。
「はい? なんですって?」
 察しの悪いベテランは、四角い顔を突き出して聞き返してきた。くそ、二度も言わせるな! 折角、直接的な表現を避けたというのに。これではそんな僕の心遣いも台無しだ。もう、オブラートに包んではいられない。
「だから、見たんですよ。そのゴリラが、固形消化物を排泄する所を。……いや、もっとはっきり言おう。僕はこの目でしかと見た。ゴリラが、平然と、山のように大量の糞をする所を。黒々と輝きながら仄かに湯気を立ち上らせた、巨大な糞をね!」
 僕は荒くなった呼吸を整えながら、静かに彼らの様子を窺った。僕をしてここまで言わしめた彼ら(特にベテラン)の強情、もしくは懐疑も、今やその拠り所を失って、あっけなく崩れ去った(はずだった)。
 事実、この切り札は効いた。
「ちょっと、いいですか」
 口を開いたのは、今まで石像のようにひたすら同じ様態を維持していた若手警官だった。その声には、今日初めて興奮の響きが込められていた。
「そ、そのゴリラは、マウンテンですか、それとも、ローランドですか?」
 若手警官は僕を見た。その表情はさすがに崩れず、彫刻のような精巧さを誇っていたが、目が違った。彼の目だけは、その奥から生々しい力を放って、その力は眼球を通して僕の体内に注ぎ込まれる。それは、まるで僕の脈拍に呼応するように躍動した。
「なるほど。ゴリラの種類を言っているんですね。それは非常にいい質問ですよ。ですが、その質問に答えることはできません。僕がゴリラについて無知だから? そうじゃありません。そんなつまらんことではないのです。いいですか、あのゴリラは、人間が作った便宜的な区別なんて超越しているんですよ。やれ、骨格がどうとか、毛の色が異なるとか、そんな浅はかな人間の判断など、おこがましくて持ち込むことはできない。つまりは、あれはゴリラとしか言い様のない存在、ただ、ひたすらゴリラなんです。誰が何と言おうと、未来永劫、究極的にゴリラなんですよ」
 そもそも「ゴリラ」という名称そのものが、人間による勝手な分類なのではないかという素朴な疑問に、その時の僕は気がつかなかった。いや、気がついていたとしても、僕は同じことを言っただろう。なぜなら、「ゴリラ」という名前は、人間がその生き物を発見し、相対的な区別をするためにその呼び名を発案する遥か昔に、もう決まっていたからだ。あのゴリラは、人類が地球上に誕生する以前から既に「ゴリラ」であったはずだし、人類の存在、もっと言えば宇宙の存在とは無関係に「ゴリラ」なのだ。僕は「ゴリラ」という響きに(たとえそれがいかに滑稽に響いたとしても)、言わば普遍の真理を見出だしていたのである。
「そうですか。なるほど」
 若手警官は眼光に熱いものを宿らせながら、力強く頷いた。
「お、おいおい、お前までどうしたんだ」
 僕達のやりとりを退屈そうに眺めていたベテランは、部下の急変に狼狽しているようだった。しかし若手の耳には上司の声は届いていない。
「それで、そのゴリラはどんな様子でしたか? 興奮して暴れたりはしませんでしたか?」
「いえ、そんなことはありませんでした。実に穏やかなものです。おそらく、非常に知能が高いんでしょうね。こちらに敵意がないのを見抜いて、全く警戒する素振りはありませんでした。僕らの邂逅は終始、友好的なものだったのです」
 奇跡とも言えるその体験は、鮮明に脳裏に蘇って、僕を再び恍惚とさせた。
「あの時、人間とゴリラの壁は完全になくなっていたんです。僕達はひとつになった。嘘じゃない。何しろ、僕とゴリラは固い握手を交わして別れたんですから」
 若手警官は神託を受けるかのように厳かな面持ちで、僕の言葉に聞き入っていた。彼はもはや完全に僕の手に落ちた。
 すると、実に失敬なベテラン警官はわざとらしく咳払いをし、重そうな体を乗り出してきた。
「ちょ、ちょっと、わかりました。もう結構ですから、お帰りください」
 彼はこの場を一刻も早く撤収しようと躍起になっているようだった。
「いや、まだです」
 僕にはまだやらなければならないことがあった。目の前の無理解な年長者を何としても承服させたかったのである。
 一向に立ち上がろうとしない僕を前に、ベテランはこれまで静かに蓄えてきたであろうその苛立ちを、遂に爆発させた。
「ほら、立って。もうたくさんだ。全く、馬鹿馬鹿しい!」
 彼は荒々しく僕の腕を掴む。
 僕は溜め息をついた。
「ここまで言ってもわかっていただけないとは……。僕は人間が嫌いになりそうですよ」
 もう腹は決まっていた。
「どうやらあなたの耳は僕の言葉を完全に拒絶しているようですから、もう何も言いません。その代わり、あなたのその目で見たものはしっかりと受け容れてください。あなた方警察の好きな、物証というやつをね」
 本当に最後の切り札だった。僕は左手を使って彼の手を静かに引き剥がすと、右腕に力を込めた。
 そして、今までずっと上着のポケットに差し込んでいた自らの右手を、ベテラン警官の眼前に悠然と掲げた。……あの惜別の握手の際、ゴリラの桁外れな握力によって、一瞬にしてものの見事に粉砕された、枯れ枝のような頼りない右手を。

或る聴取

或る聴取

あるものを目撃した主人公と警官とのやりとり。オチのアイデア先行でそこにたどり着くため書き進めていったら、こんなことに。面白いかはともかく、シュールです。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-06

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