大運動会
大運動会
(一)
太陽は何色だ!
「赤だ!」
太陽を隠す雲は何色だ!
「白だ!」
長い夏休みが明けた。季節はこれから秋へと一気に加速する。赤と白の帽子をかぶった子どもたちが、グランドという名の悠久の大地に居並ぶと、小学校では十月に行われる年内最大のイベント『運動会』に向けて、いま練習が始まったところ───。
六年生の赤組応援団長の女の子が声をあげた。
「身体を流れる血は何色だ!」
それに呼応して一年生から六年生までの赤の帽子をかぶった集団が、
「赤だ!」
と、叫んだ。続いて白組の応援団長がちょっと自信なさそうに、
「栄養満点の牛乳は何色だ!」
「白だ!」
白い帽子をかぶった白組が、赤組に負けじと大声をはりあげた。こうして応援合戦は続く。
「燃える炎は何色だ!」 「赤だ!」
「炎を打ち消す水は何色だ!」 「白だ!」
「長野のリンゴは何色だ!」 「赤だ!」
「リンゴの皮を剥いたら何色だ!」 「白だ!」
と、ここで朗らかで軽快な音楽が流れ始める。橋本祥路氏作詞作曲(作詞花岡恵は同人物)の『ゴーゴーゴー』という運動会の歌である。
♪フレー! フレー! 赤組!
フレッ、フレッ、赤組、ゴーゴーゴー!
ぼくらは輝く 太陽のように
燃え上がる希望
力いっぱいがんばろう!
赤、赤、赤、ゴー、ゴー、ゴー
赤、赤、赤、ゴー、ゴー、ゴー
燃えろよ燃えろ! 赤組!
♪フレー! フレー! 白組!
フレッ、フレッ、白組、ゴーゴーゴー!
ぼくらは白い稲妻だ
突き進む光の矢、雷の音轟かせ
元気いっぱいがんばろう!
ゴー、ゴー、ゴー、白、白、白
ゴー、ゴー、ゴー、白、白、白
地球を回る稲妻だ! 白組!
実はこの歌、三番は赤組と白組が同時に歌う。微妙に違う旋律が、時にハーモニーを奏で、時に輪唱となって、赤、白が見事に混在した美しくも勇ましい曲に仕上がるのである。毎年、恒例のように歌われるこの応援歌は、観戦する父兄達の心を幾度となく鼓舞してきた。
子どもたちの正面の体操台に立って、譜面台の楽譜を見ながら大きく手を振り音楽指導をするのは、音楽科専任の持田房子教諭。教師としてはベテランの独身アラフォー女性である。子どもたちが歌い終わったところで、すかさず、
「違う!違う!」
とダメ出しを始めた。
「歌い始めは“mezzo forte”!そしてゴーゴーゴーのところから“forte”になるの!そして全体のテンポは4分音符が112から120だから、このくらい……」
と手を打って速さを示し、
「はつらつと歌う!楽譜にそう書いてあるので、その通りに!では、もう一回!」
持田はそう言うと、両手を振り上げ「さん、はい!」と指揮をはじめた。が、歌い始めた途端、
「ダメダメダメ!違います!」
と両手をパンパンと叩いて歌を止めた。
「出だしは“mezzo forte”と言ったでしょ。田中さん、どういう意味?」
持田は吹奏楽部で部長を務める児童の名前を呼んだ。
「……はい、『やや 強く』です」
田中と呼ばれた6年生は少し照れながら答えた。
「そう。そしてこの曲は弱起の曲だから歌い始めが肝心なの!こう歌うんです!」
持田はそう言ったかと思うと、声楽家特有の澄んだ太い声で『ゴーゴーゴー』を歌い出した。上手いといえばその通りで、市内の音楽教師で彼女ほどの美声を持つ者はまずいない。毎年行われるサイトウ記念フェスティバルには、なにはさておき必ず第九を歌いに松本まで出かける熱心さなのだ。しかし、運動会で歌うには“非常に”がつくほど上手すぎて、これが体育館だったらまるでオペラ観賞をしているかのようだ。彼女は自分の声に酔いしれているふうに、楽譜通りの几帳面さを歌声に乗せていた。その様子を見守る他の先生達は、顔を見合わせて苦笑した。
長野県須坂市の北に位置する場所に蛍ヶ丘という町がある。大通りを挟んで北と南とに別れた、町としては比較的新しい新興住宅街で、町が興った当初は若い世帯が密集する元気な町だったが、今となっては当時からある市営住宅や県営住宅に住みついた者は老い、その二世、三世が町政を支える老若男女が混在する地域になっている。全体で3千世帯はあろうか、この町に創立四〇周年を迎えた蛍ヶ丘小学校があった。全校児童数六〇〇名程度の中規模な小学校。そこに四十名ほどの教職員が勤めていた。
その日の職員会は、運動会を控えた赤組と白組の団長を決めるのに多少の時間を割いていた。そして赤組の団長には六学年の学年主任を務める城田兵悟先生が、白組の団長には四年敬組担任の新米教師、桜田愛先生が選出された。その名前が挙がったとき、
「えっ?私……?でも、私、運動会ははじめてですし……」
桜田は躊躇して白組団長を拒んだ。
「桜田先生、なんでも経験ですよ!」
同じ四年生、愛組担任の佐藤清美先生が背中を押した。続いて赤組団長に選出された城田も「そうですよ、運動会はみんなで作り上げていくものですし、団長なんてあくまで形式なんですから」と、軽く決意を促した。烏山校長も、
「桜田先生、ここは若いパワーで受けてみてはいかがでしょう?」
と言ったものだから、桜田は曖昧に「はあ」と答えて、そのまま団長選出の議題は終わってしまった。
「ところで今日の全体練習ですがね……」
声を挙げたのは一年信組担任の山崎将雄先生だった。彼は既に定年を迎え、根っからの子ども好きが祟ってついには管理職の道を選ばなかった。一学期いっぱいで産休に入った先生の換わりに臨時で勤めはじめた超ベテランの臨時講師である。
「あの応援歌はないんじゃありませんか?」
誰もが思っていたことではあるが、あえて口に出そうとはしない、それはそれぞれの教師が持っているはずの、各人固有の教育理念に関わる領域だった。それには音楽主任の持田が閉口した。
「どういう意味でしょうか?」
「相手は子どもですよ、音楽会じゃないんだし。運動会なんだから、のびのびと元気に歌えたらそれでいいと思いますが……」
山崎は、少なくとも昔はこういった自分の教育に対する考え方を主張し議論しあう気風が学校内にあったと言わんばかりに語り始めたが、途中に来て「いまは違うの?」と急に自信をなくして、「と、思いまして……」と付け加え、尻切れトンボのように声を小さくした。
「山崎先生、それは聞き捨てなりませんわ。“子どもだから”とはどういうことでしょう。運動会とはいえこれは音楽教育の一環です。『音楽活動の基礎的な能力を培い、豊かな情操を養う』ことは指導要領の目標にもなっています。“子どもだから”こそ、その実現のために基礎知識と基礎能力を身につけなければならないのです。今の言葉を撤回してください!」
「まあ、まあ、持田先生……」
険悪なムードを抑えるように烏山校長が口を挟んだ。そして続けて、
「山崎先生、音楽のことは持田先生にお任せしようじゃありませんか?」
山崎は話し合いを荒立ててしまったことに反省しながら、小さな声で「はい」と答えた。
こうして職員会が終わり、先生達はおのおの翌日の授業の準備や、ノートパソコンを開いて書類の作成等に没頭しはじめた。桜田も夏休みの日記帳を添削しようと教室に向かうため職員室を出た。
「桜田先生!」
呼び止めたのは城田だった。
「お互い団長頑張りましょうね!赤組は負けませんよ!」
「あら、さっきは団長は形式だって言ったばかりじゃありませんか?」
「立て前ですよ。勝負は勝負です。やるからには本気で戦わないと」
体育系の大学を卒業している城田は、根っからの体育界系男子であった。男子といっても四十を越えた独身で、「昔はラグビーで花園に行った」とは、飲んだ時の彼の自慢話である。
「ところで桜田先生のクラスに紅矢希さんって子がいるでしょ?背の小さい」
「紅矢さん?彼女がなにか……?」
「もしかしたらご協力いただくことになるかも知れません」
「協力って、なにを?」
「それはまだ言えませんが、今年の運動会は大いに盛り上がりますよ!いや、一緒に盛り上げていきましょう!」
城田はそう言うと、なんだか妙に嬉しそうな素振りで先に歩いて行ってしまった。
(二)
蛍ヶ丘の大通りを挟んでほぼ真向かいに、二件の飲食店があった。道の南側にあるのが日の出食堂、北側にあるのが夕焼け弁当「クック・モット」という名の県下に点在するチェーン店のひとつである。
日の出食堂の方は、蛍ヶ丘ができた当初から区民の腹を満たしてきたいわゆる大衆食堂で、出前もやっている。以前は景気もすこぶる良かったようだが、今は二代目の原田友則が妻の良美と一緒に切り盛りをしており、六年生に萌という女の子と、四年生に輝という男の子の二人がいた。
一方、夕焼け弁当「クック・モット」の方は、紅矢春子という未亡人が店長をしており、女手ひとつで育てている娘の希は現在4年生、桜田愛のクラスであった。事情は知らないが、数年前に日の出食堂の営業を邪魔するかのように突然越して来た。日の出食堂の景気が大きく傾いたのもその頃で、以来、両店はあいさつもろくにしない犬猿の仲である。
いきさつを話せば長くなるのでかいつまむと、日の出食堂の原田とチェーン店夕焼け弁当クック・モットのオーナー(社長)は昔同級生だった。名を水島友作といって北蛍ケ丘に住むが、彼らが小学校6年生の時、水島が原田にファミコンのゲームソフト(確か「アイスクライマー」だったか?)を貸したのが事の発端だった。中学に進学して二人は別々のクラスになり話すこともなくなるが、卒業を控えて久しぶりに合ったとき、水島が「あのファミコンソフト、返してくれないか?」と言った。ところが原田の方は「何のことだっけ?」ととぼけた。実はなくしてしまっていたのだ。怒ったのは水島である。当時なけなしの小遣いをはたいて死ぬ思いで買ったソフトで、しかも四十八面中四十七面までクリアしたところで原田に強くせがまれて嫌々貸したものだったからだ。激しい口論となったが、なくしたものは出てくることはなく、その後二人は絶交したまま成人し、一方は親の後を継ぎ食堂の店主となり、一方は弁当のチェーン店を経営する実業家となって同じ町に住んでいた。しかし水島の方はずっと根に持っていた。「いつか日の出食堂をつぶしてやる!」という怨念に変わって、いやがらせにチェーン店の一つを蛍ケ丘にある唯一の食堂の真ん前に店舗を作ってやったのだ。折り合いが悪い事は重なるもので、水島の息子友太と原田の娘萌とは城田が学級担任の同じクラスであった。
そんないきさつがあるとはつゆ知らず、紅矢春子は貧乏くじを引いた。もちろん「どうして食堂の真ん前に弁当屋を作るのだろう?」と疑問を抱くことは何度もあるが、まさかオーナーと向かいの食堂の店長の因縁など知る由もない。来る日も来る日も大通りを挟んで顔を合わせながらも、陰険な眼差しに悩まされた。売り上げも両店で客を分けていたので一向に良くならないし、こちらが唐揚げ一個プラスセールを行えば向かいは唐揚げ無料サービスを行い、こちらが期間限定三〇〇円弁当を出せば向かいは二九〇円の仕出しセットを始めるなど、熾烈なサービス競争と価格競争は両者の経済的体力をそぎ、果てしなく続けられていた。
ところで今年度の蛍ケ丘小学校のPTA会長は、6年生に太一という子がある音無宗司という男である。南蛍ケ丘に一軒家を構え、以前は大手電機メーカーに勤めるサラリーマンだった。妻は公子といって、子供が保育園の頃から保護者会長や、小学校になってからも学級会長や町の役員など積極的に受けてきたハリキリママさんで、そんなところから音無のところにPTA会長の話が回ってきた。入学式の時などはたいそう立派な挨拶を述べ、保護者や先生の間でもけっこう評判になったが、6月に入ってリストラで職を失った。以来、意気消沈してPTA行事にも足が遠のき、毎日酒を飲んでうっぷんを晴らす始末。そんなところに電話が鳴った。
「あなた、学校からよ。いま2学期のPTA活動についての打ち合わせをやってるんだって。行かなくていいの?」
「やだ!行きたくない!」と、宗司は駄々っ子のようにコップの酒を飲み干した。公子は呆れて「すぐ行きます!」と電話を切って、そのまま代理で学校へ走って行った。残された宗司と6年の太一は、少し気まずい雰囲気をつくりながらテレビを見ていた。
「太一、学校の方はどうだ?」
「どおって?」
「面白いか?」
「まあまあ」
「もうじき運動会だな、何かやるのか?」
「白組の応援団長」
「ほお!すごいじゃないか!」
「ぼくはヤダって断ったんだけど〝おまえの父ちゃんPTA会長なんだからやれ〟って言われて、仕方なくやることになった」
宗司は申し訳なさそうにコップに酒を注いだ。
「紅組の応援団長は誰なの?」
「萌ちゃん」
「日の出食堂のあの元気いいお姉ちゃんか。いいか、女になんか敗けんなよ!」
父親の心無い発言に、太一は怒ったように立ち上がると、自分の部屋へ入ってしまった。
ちょうど時を同じくして北蛍ヶ丘の公会堂の玄関先では、何かもめごとがあったらしく静かな口論になっていた。見ればいかつい顔をした五、六十代の男が数人と、大きな手提げ袋を抱えた中年女性集団と、さらにはヨボヨボのお年寄りが七、八人、みな口々にああでもない、こうでもないと自分たちの主張をしているようである。
「だいたい今日は区の三役会があるから他の団体は公会堂を使わないようにと回覧しておいたでしょ?」
と区長らしき男(実際区長だが)が主張する。
「なに言ってんの!紙っぺら一枚回覧しただけで全員に伝わっているとでも思っているの?そんな大事な会合をやるんだったら、前もって婦人会長に菓子折りのひとつでも持って挨拶に来なさいよ。こっちは半年も前から予約して、こうしてお料理教室で使う材料まで買ってきちゃったんだから」
と婦人会の料理教室主宰の女性が言い返す。どうやら公共施設の使用権をめぐっての争いのようだ。
「我々も予約をしたけど婦人会の予約なんか入っていなかったよ」
と今度は区の会計らしき男が言う。予約といっても公会堂の入り口に置かれた大学ノートに、月ごとのページに日付と団体名を記入するだけの簡素なものである。そこへ「わしらだって」と八〇くらいの老人が口をはさむ。区長はむっと睨んで、「老人会は辺りが暗くて危ないから、寄り合いは昼間にやってください」と問答無用で聞き捨てた。
やがてこのままでは埒があかないと、『予約ノート』を確認しようということになったが、肝心のノートが見当たらない。公民館長が持っているんじゃないかと連絡したところ、おずおずとやって来たのが今年度の公民館長鈴木逸美という男と、クック・モットの社長水島友作だった。鈴木は三期十二年間市会議員を務め、須坂市長の五木雅雄氏とはツーカーの仲で町でも一目置かれる存在であり、議員を辞してからは地域に貢献したいと、今年度は公民館長を任されていた。たまたま水島とは区内に建設予定の多目的センターの資金繰りについての打ち合わせの最中だったので伴って来たようで、「いっちゃん、なんとかしてよ」と、選挙の際にいろいろ世話になった旧知の老人会メンバーに迎えられた。
「これが予約ノートだけどナ……」
と鈴木がカバンから出すが早いか区長が奪い取るように広げると、8月の今日の日付の夜の欄にははっきり『区三役会』と書かれてあった。「ほれみろ!」と言わんばかりの区長からノートを奪い取った婦人会メンバーは、ひとつページをめくり、9月の今日の日付の欄に『婦人会料理教室』の文字をみつけた。
「あらやだっ!わたしったら日にちを間違えて書いちゃったみたい!」
と、さっきまで機関銃のようにあくたれを述べていた婦人は赤面したまま黙ってしまった。
「それでは今日のところは私たちに軍配があがったようなのでお引き取りください」
と勝ち誇った区長が言った時、「ちょっと待った!」と老人会の一人が叫んだ。
「そのノート、昨年のじゃないかいの?」
と、見れば確かに表紙には昨年の西暦とともに年号が記してある。
「いっちゃん、今年のノートと間違えて置いたんじゃないか?別に今年のノートがあるはずだよ」
案の定、鈴木のカバンの中から今年度のノートが出てきて、今日の日付に記されていたのは『老人会お茶のみ会』の文字だった。
「あ~、ごめん、ごめん、間違って置いていたみたい。悪かったねエ~」
と公民館長は高笑いしてごまかした。「間違いは誰にでもありますからね」と、水島社長も助け船を出したものだから、区長は「予約ノートは持ち出し禁止です。ちゃんと公民館に保管願いますよ!」とだけ言い残し、婦人会メンバーと一緒に何も言わずに引き下がっていった。およそ金持ちと権力者には弱い輩なのだ。
こうして老人会の無言の「お茶のみ会」が行われている頃、蛍ケ丘小学校の煌々と電気が光る理科室の、一人の男が扉を叩いた。PTAの役員会は校長室で行われていたはずなので、それとは違う目的で訪れた者に違いない。
(三)
「ガリ先生、ちょっといいですか?」
男の正体は城田兵悟先生だった。一方、理科室にいたのは通称「ガリ先生」と呼ばれる理科の専任教師で、翌日の理科の授業で行う実験の準備中だった。皆が口をそろえて「ガリ先生」と言うものだから、本名を思い出すのに時間がかかる。「ガリ」とは「ガリレオ」の略で、本人もいたく気に入っているようなのであえて本名で彼を呼ぶ者はいなかった。その名の通り物理学の傾倒者で、多感な二〇代のくせに物理以外に興味を示すものはなく、その堅物さは一見近寄りがたい印象を与えるが、話してみれば案外穏やかで、笑いもすれば怒りもした。ただものの考え方がいちいち理論的で、まともに話していると非常に疲れる。通常彼は、いつも一人でいることが多かったので、突然の理科室への訪問者が嬉しかったらしく、
「城田先生。明日は振り子の実験でその準備なんです。こんな時間にどうなさいました?」
と珍しい客を笑顔で迎え入れた。
「ちょっと折り入ってご相談がありまして……」
城田はそう言うと、ガリ先生の脇に椅子を引き出してゆっくり座った。そして暫く何も言わないでガリ先生の準備の様子を眺めていたが、いくつかの振り子の玉が同調して同じ動きになったとき、
「相談というのは物理のことでして……」
城田の言葉にガリ先生の目つきが変わった。
「5、6年生の運動会種目なんですが、すっかり分らなくなってしまいまして」
「運動会?物理のお話じゃないんですか?」
「それが物理と非常に関係がありまして、組体操なんですが……」
「そういえば今年の運動会の日は、皆既日食が見られますね!」と言葉をさえぎって、ガリ先生は興奮して言った。
「皆既日食?今年、見られるってニュースでやってましたが、運動会の日なんですか?」
「そうですよ!楽しみだなあ。そうだ、黒メガネを配布して、運動会を中断してみんなで観察するのもいいですね!」
「そりゃいい。で、組体操のことなんですが……」
城田にしてみれば皆既日食などどうでもよい。
「組体操?ああ、いろいろな体位がありますが、物理的に可能かというお話ですね」と、物わかりの早いガリ先生は準備の手を休めて城田の正面に腰かけ、「で、何をなさるお考えなんですか?」と、城田の顔を興味深そうにみつめた。
「実はですね……」
城田は少し躊躇したあと、生唾を呑み込んでこう言った。
「十段円塔を建てたいなあ……なんて、思いまして……ね……」
「十段円塔……?ピラミッドじゃなくて、円塔ですか?」
ガリ先生は別段驚いた様子も見せず、淡々と「円塔」という言葉を繰り返した。
「十段ピラミッドじゃダメなんですか?最近どこかの学校でも成功させたようですが」
「ダメなんです。ピラミッドには仏は住まない。仏はやっぱり〝塔〟なんです!物理的に可能でしょうか?」
普通の人間ならば何故ここで〝仏〟が出てくるかの方に意識がいくはずだったが、ガリ先生の関心は既に可能かどうかの方にあり、しばらくは首を傾げたまま右手を頬に当てて動かなかった。城田は続けた。
「過去に日本でも六段円塔を成功させたという話は聞いたことがあるんです。ただいくらものの本を調べても、四段円塔の作り方までしか載ってない。でもスペインのカルターニャ地方では〝人間の塔〟という十段の塔を作り上げる技があると聞きました。もし十段円塔が可能ならば、今回の運動会でなにがなんでも成功させたいんです!」
「理論的には可能ですよ」
ガリ先生は涼しげな口調で答えた。「そうですか!」と思わず城田は声を上げそうになったが、
「ただし、小学5、6年生にそれだけの筋力と体力、それに高度に優れたバランス力があればの話です。失敗のリスクを考えたらやらない方が利口だと思います。怪我人が何人も出ますよ」
「怪我人は絶対出しません!」
強い口調は城田の決意だった。ところがガリ先生はそんな感情などには全く興味がないらしく、突然立ち上がるとチョークを握り、黒板にいくつもの棒人間を描きはじめた。
「知りたいのは、成功させるに何人必要か?ということなんです」
城田の言葉をよそに、すっかり自分の世界に入り込んでいる様子のガリ先生は、
「仮に一人の体重が四十キログラムだとします。頂点の1人を支えるのに最低3人必要ですからここで160キログラム、更にその下は6人で、倍、倍となっていきますから5段目は24人、ここまでの総重量が1840キログラムになりますね。これを十段まで作り上げるわけですから全部で1534人必要で、一番下の人達は768人で30640キログラム、つまり約30トンの重さを支えなければならないことになります」
とそこまで言って、「う~ん」とうなったまま止まってしまった。
「それじゃ全校児童を総動員してもぜんぜん足りませんね……」
「問題はそこではありません。この塔全体の重心の問題です。唯一成功の条件は、この塔の重心が常に一段目の円の中心にあることなのです。仮にこの千五百人あまりのうちの誰か一人がバランスを崩したとします。すると一番下のこの人一人にかかる総重量は30トン。一人でその重さに耐えられるでしょうか?」
「崩れますね……」
「即死ですよ!」と、ガリ先生は他人事のように哄笑した。
「失敬々々、もっと現実的に考えましょう。現在5、6年生は何人いましたっけ?」
「6年生が3クラス合わせて98名で、5年生が88名ですので全員で186名です」
「へえ……、それは神の思し召しですね」
「と、いいますと?」
「最上段の九段目十段目の4名の人員は四年生から選抜しましょう。その条件は一番軽い子です。以下八段目から四段目に必要な人員が186名ですから5、6年生の数とピッタリです。しかし数の上では7段円塔にしかならない」
「あと何人必要ですか?」
「三段目に192人、二段目に394人、一番下がさきほど言ったように768人で、合計すると1354人です。……これはどうも実現できそうにありませんね」
ガリ先生はそこまで考えて、ようやく実現不能という結論を導き出した。
「PTAの父兄にお願いしましょう!」
「PTA?それはちょっと難しいでしょう。この前の人権講演会では十人くらいしかいませんでしたよ。閑古鳥が鳴いてました」と、またガリ先生は哄笑した。
「名簿上は四〇〇世帯くらいあるんですから、本気でやれば200人くらい集められるでしょう」
「それでも千人以上足りません」
「じゃあ地元の地域にもお願いしましょう。区長さんに頼んで!」
城田はそこまで言うと何かを思い出したように理科室を飛び出した。残されたガリ先生は、
「無理だと思うけどナ」
と、ぽつんとつぶやいた。
城田は職員室に戻って荷物をまとめ、入口の出欠の名札を裏返すと、そのまま急いだ様子で学校を飛び出した。そしてかなり走り込んだシルバーの車のエンジンをかけると、蛍ケ丘の大通りに出、通り沿いの夕焼け弁当クック・モットの前で車を止めた。
「唐揚げ弁当ひとつください」
「城田先生……、いまお帰りですか?お疲れ様です」
やつれた印象を受ける店長の紅矢春子は、城田のことをよく知っている様子で、作り笑顔でそう言った。
「希ちゃんは?」
希とは4年生で彼女の一人娘である。
「2階で宿題でもやってんじゃないかしら?お味噌汁はどうします?」
「付けてください」
「まいど……」
「でも驚いたなあ、4月に蛍ケ丘に転任になって、ふと立ち寄った弁当屋に春子先生がいるんだもの。またどうしてこんなところで弁当屋なんか?」
「いろいろあるわよ。はい、おつり……」
「来月の運動会、必ず来てくださいね!すごいものをお見せしますから!」
「もうそんな季節なのね。でもお店があるから」
「5、6年生の恒例演目で組体操をやるんです。希ちゃんにも……」
「運動会の話はやめにしましょ?もうお店、閉める時間ですから、ごめんなさい」
城田は春子に追い出されるように弁当屋を出た。そして車の中から、店の戸締りをする彼女の姿を見つめながら大きなため息を落とし、やがてにぶいエンジン音を鳴らしながら車を発車させた。
看板のクック・モットの電気が消えたのは間もなくのことだった。
「のぞみ~!お仏壇にご飯のお供えしてくれた?」
「まだ~!」と、1階の厨房から話しかける春子に、2階から女の子の声がする。
「お母さん、まだ洗い物が残っているからやってくれる?」
「わかった~!」
春子は厨房の流しで最後の片づけを終え、レジを開いて本日の売り上げを数えながら頭に手を当てた。出納帳を開いて過去にさかのぼってみても、売り上げは増えはしない。分り切っていることだが、いつも体が勝手に動き、帳面とPCの変わらない数字を数えてしまう。幾度となく計算し尽くした数字に、間違いなど見つかるはずもなかった。
「算数の答え合わせじゃあるまいし……」
春子は深いため息を落とした。
「今月もきびしいの……?」
突然、脇から希の声がした。春子ははねあがって驚いた。希の表情は、母の心の曇りが反映されているためか暗かった。4年生にして家計を大きく左右するお店の売り上げが、ひどく気がかりなのだ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ!あんたは心配しなさんな。それより急に驚くじゃない」
「ごめん、お父さんのご飯をとりに来たの。お店の余り」
「今日は少し多めに残っているから山盛りにしておやり。お父さん、喜ぶから」
「わかった」と、希は小さな腕で茶碗にご飯をよそうと、そのまま2階へあがった。
「ちゃんと手を合わせるのよ」
「はーい」
仏壇の前にちょこんと座った希の目線には、父親であろう眼鏡をしたスーツ姿の遺影があった。希は日課のように鈴を鳴らすと、手を合わせてお辞儀をし、その後やりかけの宿題を終わらせようと机に向かって鉛筆を握った。
●更新を忘れていたらこちらでお読みください。
http://www.takaramushi.com/e_books/manju/index.php?gphplog=daiundokai
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