ママの知らないひと

美奈子が電話に出ると、娘を預かったとの男の声が。学園祭中の学校へ慌てて電話を入れ、美沙は登校しているという担任の先生の返事を聞いた美奈子は、ほっと息を吐いた。しかし学校に美沙の姿は見当たらなかった。

「美沙、おまえ本当に美沙か?」
「そうよ、なに大きな声出しちゃって……。何かあったの?」
 パパの大きな声に思わず受話器を耳から離していた。
「お前何処にいるんだ。すぐ迎えに行くから、場所を言いなさい。」
「ちょっと、一体どうしちゃったのよ?」
 色々考えた末に電話をしたものの、あまりに予想外の反応に美沙は戸惑いを隠せなかった。こんなに慌てふためいたパパの声を聞いた事がない。しかもその後ろではママの啜り泣く声まで聞こえていた。
「お前を誘拐したって……金を要求する電話が掛って来たんだ。送られて来た写真はお前に間違いなかったから……」
「ゆうかい? 何言ってん……の……」
 途中で話しを遮った美沙だったが、最後まで言葉は続かなかった。
「…………」
 突然沈黙した美沙の耳に、不自然さを感じたらしいパパの声が再び響き渡った。

 ***     

 ピンポーン。
 玄関チャイムの音に、急いでインターフォンに駆け寄って画面を確認した美奈子だったが、そこに人の姿はなかった。
 イタズラかしら? と思いつつ、それでも一応外まで見に行ってみた。今日は宅配便の荷物が届くはずだった。しかし門を開けて左右を見渡してみたが、道路には車はおろか人の姿も見当たらない。
「出て来て損した。」そう呟いて、戻り際ふと見た郵便受けにささった封筒が、口から大きくはみ出しているのを見付けた。
 取り出してみれば、宛名の面に大きく”至急”とだけ書かれた封筒は少し厚みがあり、しっかりと封がされている。
 チャイムを鳴らした人が押し込んで行ったのかしら? 何か不気味な物を感じたが、美奈子は取り敢えずそれを持って家の中へ入り、扉を閉じた。
 すぐに鋏を使い、丁寧に開封した封筒から出て来た物を見て、美奈子は短い悲鳴を上げた後、
身体が硬直して動けなくなった。テーブルの上には、少量の髪と女性物の下着、そして見たような手帳が散らばっていた。
 恐る恐る手帳を手に取り、中を開くと、そこには美沙の写真が貼られていた。間違いなく娘の生徒手帳だった。という事は、この下着や髪が誰の物かは考えるまでもない。
 美奈子は背筋が寒くなって、身体を震わせた。まさか、という思いが頭を突き抜ける。
 封筒の中に何か残っていないか覗き込んでみたが、他には何もなかった。
 実はついさっき、今夜出張でいない夫を思い出した美奈子は、美沙に夕飯をどこか外で食べないか誘おうと電話したばかりだった。もっとも美沙は催し物で手が離せないのか電話に出てくれず、伝言を吹き込んだ美奈子は、後で連絡をくれるように言って切っていた。
 すぐに電話に飛び付いた美奈子は、娘の携帯に掛けてみたが、何度掛け直しても繋がらない。さっきと違って、電波の届かない所または電源を切っていて云々、というメッセージが繰り返されるだけだった。
 やっぱりこれは現実なの? 美奈子はテーブルの上の品々に目を向けた。
 連絡が着かないのは単に忙しいだけだと思いたかったが、とにかく美沙がちゃんと学校に着いたのか確かめなくては……。時計を見ればすでに九時を大分回っていて、普通ならとっくに学校に到着しているはずだった。 
 ただ今日も学園際が行われているので、通常の授業日のように出欠の確認がきちんと行われるものなのか美奈子には分からなかった。もしかしたら美沙が登校しているのか学校も把握していないかもしれない。
「今日もクレープ屋を切り盛りするのに忙しくなりそう」そう言いながら出掛けて行った、娘の背中を思い出した。
 冷静に冷静にと自分に言い聞かせながら、それでも美奈子は学校に電話する事にした。他に確かめる術を思いつかなかった。
 事務の人に担任の先生に引き継いでもらうようお願いする。しかし先生が捕まらないのか、受話器を耳に当てたまま、美奈子は延々待たされる事になった。
 イライラしながら待ち続けた美奈子だったが、ようやく電話口に現れた先生はしかし、美沙は確かに登校していると言ってくれた。こんな日でも出席の確認はきちんとしているという。
「何かあるんでしたら捜して来ましょうか?」先生はそう言ってくれたが、イタズラ電話があって心配だったので、と適当に誤魔化して美奈子はその申し出を遠慮し、電話を切った。
 とにかく学校にいるのならひと安心だった。校内で連れ去られるなんて考えられないし……。きっと今頃クレープを焼いているに違いなかった。
「よかった……」
 美奈子は急に気が抜けて、傍にあった椅子に腰を下した。
 美沙が無事なら、これは悪質ではあるがイタズラという事になる。それならわざわざ大事(おおごと)にする事はなかった。
 帰って来たら、美沙に気を付けるよう言わなくては……。いや、しばらく車で送り迎えした方がいいかもしれない。
 そう思うと、今日の帰りも心配になった。
 学園祭には昨日少し顔を出して、娘の張り切った姿を眺めて来たが、念の為に娘の通学路を辿って学校まで行ってみようと思い立った。やはり顔を見ないと不安が残る。そしてどこかで時間を潰してでも一緒に帰るようにしようと決めた。
 下着や髪は本人の物とは限らないが、生徒手帳は誤魔化しがきかない。美沙が失くしたと言っていた記憶もなかった。どこかで拾ったのか、それとも盗んだのかもしれない。
 やり掛けの家事を放り、急いで出掛ける支度をした美奈子が、家を出ようと靴につま先を突っ込んだ時、家の電話が鳴り始めた。

 ***

 木内健二。最近ABC銀行本社の常務取締役に昇格し、調べた所によれば、親から受け継いだ遺産を含め、相当な資産がある事が分かっている。
 地方銀行最大手のABCで、この若さで常務とは相当やり手なのだろうな、と男は普通に感心しながら、写真を放った。確かにそんな顔をしている……。
 家族構成は、妻の美奈子。それに高校二年生になる娘、美沙、の三人家族。机の上にはその3つの顔を隠し撮りした写真が並んでいる。もっとも顔も行動パターンもすでに頭の中に入っているので、捨てても問題はなかった。
 そしてその娘は、隣の部屋のベッドでまだぐっすりと眠っているはずだった。

 男は車で少し離れた場所まで移動してから、使い捨ての携帯を使い、身代金として一億円の要求を突き付けたばかりだった。
 ほとんど言葉を発しなかった母親は、今頃呆然と立ち竦んでいるに違いない。送り付けた品物と考え合わせれば、娘が攫われた事に疑いは持たないだろう。

 男は別に木内家に恨みがある訳ではなかった。ただどうしても金が必要だった。それも早急に、だ。
 金を求めて捜し回っていた所、たまたま目に付いたのが木内家だったというだけの事で、一億という金額も、決して彼らが丸裸になるような額でない事は調査済みだった。
 誘拐が割に合わない犯罪だというのは知っているが、手に入れたい額と切羽詰まった状況とを秤に乗っけた結果、やる事に決めた。

 娘を拘束している見捨てられた別荘のひとつで、男は遅い朝食を取りながら次にやるべき事を頭に思い浮かべた。これからが勝負だった。

 ***

 退社後、そのまま出張先に出掛けると聞かされていた夫に電話を掛けた美奈子は、「美沙が誘拐されてしまった」と叫んでいた。


 男からの電話を受けた美奈子は、とにかく学校までタクシーを飛ばし、学園祭真只中の賑やかな校内を、娘の姿を求めて必死の形相で捜し回った。
 途中ですれ違う娘の友達に美沙の居場所を尋ねながら、教室でやっているクレープ屋を目指した。
 廊下側の窓が取り払われて飾りが付けられ、そこが商品の注文や受け渡しの窓口になっている。今日も店は繁盛していて人が集まり、中でも何人もの生徒が忙しく動き回っているのが見えた。でもエプロン姿の女の子の中に娘はいないようだ。
 教室のドアをそっと開けて中を覗き込んだ美奈子が、近くにいた生徒のひとりを捕まえて訊いた所によれば、「美沙は確かに朝見掛けたが、そういえばそれから全然見ていない」と言う。手のあいた他の娘にも訊いて貰ったが、皆口を揃えて、「見ていない」と頷き合った。
 そこへ店の班長らしき生徒が、「美沙は今日、店番の担当には当たっていなから、あちこち見て回っているんじゃないかな?」と言った。
「美沙、担当じゃないの?」
 こくりと頷くその娘が、あっ、と廊下を行き交う生徒や父兄を指差した。
 その指先に目をやると、美沙の一番の友達で、自分ともすっかり打ち解けている、亜衣の姿があった。美沙が亜衣と仲がいいのは皆知っているのだろう。
 美奈子は、「ありがとう」と礼を言って、教室を飛び出した。

「亜衣ちゃん」
 彼女に追い付いた美奈子は、後ろから肩を叩いて呼び掛けた。
 あれ? という顔をしてこちらを振り向いた彼女は、昨日も訪れていた美奈子に気付いていたようだ。
「美沙と一緒じゃないの?」
 美奈子は開口一番彼女に訊いてみた。
「本当はそうしたかったけど、今日は一人で見て回りたいからって言われて、一緒じゃないです」
 口を尖らせる彼女は、どうやら一緒に校内を巡るつもりだったのに肩すかしを食らわされて、大分ご機嫌斜めらしい。それに別れてからは、やはり美沙を見ていないと言った。
「そうだ、いい事教えてあげましょうか?」
 何か思い付いたらしく、その目を少しイタズラっぽい物に変えた亜衣は、美奈子を強引に廊下の隅に連れて行くと、秘密を暴露するように耳元で囁いた。曰く、美沙にはカレシができたのかもしれない、というのだ。
 まさか……。美奈子は亜衣に向き合って、「それ本当?」と訊き直した。
「最近美沙の様子がおかしい時があるし、放課後もひとりでさっさと帰っちゃう事が何度もあったし……」 
 彼女は首を傾げながら、その根拠を語って聞かせた後、「もっとも現場を目撃した事はないけどね」と舌を出した。
 半信半疑のまま、美奈子は彼女にお願いして、美沙を捜すのに付き合って貰う事にした。しかし校内を隈なく捜してみたものの、美沙の姿はどこにも見当たらない。
「これは、外に遊びに行っちゃったかな?」と亜衣がぽつりと呟いた。
 いつまでも彼女に手伝ってもらう訳にもいかないので、お礼にアイスを奢って亜衣と別れた。
 必死に娘を捜す美奈子を、亜衣はカレシを見付け出す為とでも思っているらしく、あまり深く突っ込んではこなかった。知らなかったフリなんかしちゃって、とでも思っているのだろうか。
 それはともかく、彼女の言う事が本当ならば、美沙は学校を抜け出してそのカレシと遊んでいるのかもしれなかった。
 でも本当にそうなんだろうか? 美奈子にはそんな娘の姿を想像する事が出来なかった。男の子に夢中になって、浮かれているようにはとても見えなかった。
 別れ際、亜衣に持って来た生徒手帳を見て貰っていた。
 確かに今年配られた物で、去年の物とはデザインが違うらしい。
 中身をぱらぱらと捲った亜衣は、「見覚えのある書き込みがある」とも言った。
 そしてカレンダーを開いた亜衣は、「見て」と言って、美奈子に"s"と書き込まれている今日の日付を指差してみせた。
「多分、これだと思うんだよね」亜衣が物知り顔で言う。
 他にも何か所か"s"はあったが、さほど頻繁に現れる訳でもない。カレシならもっと"s"だらけになっていても不思議ではないと思ったが、わざわざ学園祭の日を選んで抜け出そうとするのだから、相手は他の学校の生徒かもしれない。いや、亜衣ですら知らないのだから、きっとそうなのだろう。
 手を振って亜衣と別れた美奈子が分かった事は、少なくとも手帳は本物だという事だけだった。

 学校を出る前にもう一度美沙の携帯に掛けてみたが、やはり繋がらない。ふと思い付いて、美奈子は”至急電話を入れて。”とメールを送った。メールをチェックした時に気付いてくれたら、何かあったのかと思うだろう。 送信ボタンを押した美奈子は、他にする事を思い付かなかった。
 取り敢えずどこかで時間を潰そうと歩き出した美奈子だったが、そんなのんびりした対応で大丈夫なのかと心配なり、すぐに足が止まった。
 美奈子にはどうしても娘の行動が府に落ちなかった。
 美沙ももう高校生だし、恋のひとつやふたつしているのかもしれなかったが、ここまでして隠す理由とはなんだろうか? 別に恋愛禁止なんて言った覚えもない。まさか妻子ある男とでも付き合っているなんて事は?
 それこそ美奈子の想像外だったが、とにかく美沙は自分から姿を消している可能性が強くなった。そして携帯は繋がらないまま、行方は知れない。
 電源さえ入っていれば、と思ったが、それも分かっているからこそ切っているのか、と思い付いた。そうならメールを送っても無駄だったかもしれない……。
 とにかく身代金の要求は実際にあったのだ。最早イタズラというレベルを超えている、と美奈子は思っていた。
 でも全ては八方塞がりだった。誘拐されたのか、デートしているだけなのか、こんな事が分からないなんて……。
 ただ言えるのは、もしどこかでデートしているのだとしても、夕方までには必ず帰って来ると
いう事だった。ホームルームがあるのかはともかく、勝手にいなくなってはマズいと考えるだろう。
 待つしかないか……。美奈子は腕時計を見て、もうじきお昼なのだと知った。
 美沙はいつ戻って来るか分からないし、実はたまたま見掛けなかっただけで実は校内にいるのかもしれない。このまま学校にいた方が会える確率は高いか、と思い直し、美奈子は元来た道を戻り始めた。
 とにかく美沙からの連絡がほしかった。美奈子は祈るように携帯を見詰めた。
 

 でも、そんな思いはじきに砕かれる事になる。 

 ***

「いいから、落ち着けっ!」
 突然の夫の恫喝に、涙声の美奈子は口を開いたまま固まっていた。同時にスピーカーから聞こえていたざわめきまでなくなっている。
 喚き散らす美奈子の言葉を、夫は最初何を言っているのか分らなかったらしく、ただただ困惑して聞いていたが、何度も繰り返す妻にようやく自分達に降り掛かった禍(わざわい)を認めたらしかった。そして止まらない美奈子の口を夫が静める事になった。
 急に声を潜(ひそ)めた夫の声に従って、美奈子は写真を転送した。
「すぐ帰る」短い沈黙の後、夫はそれだけ言うと電話を切った。

 どう言い訳をしたのか、出張を取り止めて飛んで帰って来てくれた夫に、美奈子は郵便受けにあった封筒の中身や自分の携帯に送られて来た写真やを見せながら、これまでの経緯を話して聞かせた。
 発信元は知らないアドレスだった。多分フリーメールなのだろう。しかしそんな事はどうでもいい。写真には、美沙が生気のない表情で今日の新聞を持たされている姿が映っていたからだ。 髪も、制服も乱れ、何かされた事を予感させる写真だった。しかも髪が大分短くなっているように感じた。送られて来た髪は僅かだったが、ざっくり切られてしまったのかもしれない。
 美沙が受けた恐怖を思うと、美奈子の胸は張り裂けそうだった。しかもそれは今も続いているのだ。
 自分が何時間も無為に過ごしている間に、こんな目に遭わされた娘を思って、美奈子は悔やんで泣いた。

 もう疑う余地などなかった。美沙はカレシと遊んでいたのではく、誘拐されのだ。きっと校外に出たのも、犯人に何か理由を付けて呼び出されたのに違いなかった。
 写真では暗くて見にくいが、美沙の背後に木製のベッドが見えるし、床もフローリングだった。どちらも美沙が校内にいない事を示していた。
 それに美沙の通う高校は割合裕福な家庭の子が多い。学校は警備が厳重で、いくら学園祭中とはいえ不審者を簡単に入れるとは思えなかった。だからこそ美奈子も、登校さえしていれば安心だと思ったのだ。
 美奈子の考えを夫は神妙な顔で聞いていたが、頭では別の事を考えている気がした。
 案の定、話しを聞き終えた夫は、「すぐに警察に通報しよう」と言った。
 そうした方がいいのは分かっている。でも美奈子は犯人を刺激するのが怖かった。まだ何の話しもしていないのに、美沙はひどい目に遭わされている。なら、何か齟齬が生じた時、どんな目に遭わされるのか、想像する事すら恐ろしかった。
 それに、美沙がどうして易々と誘い出されてしまったのかも疑問だった。何があったにせよ、今は携帯がある。おかしいと思えば、自分にでもに夫にでも、すぐに電話して確かめる事が出来たはずだ。
 もし亜衣の言う通りだったとして、そのカレシがこの事に一枚噛んでいたり、もっと言えば学校内の気を許した人間が関わっているとしたら、こちらの動きなどすぐに伝わってしまうかもしれない。少なくとも犯人は自らここを訪れて、ポストに封筒を突っ込んで行ったのだから。
 美奈子がそう答え、お互いが黙って考えに耽った時、二度目の電話は掛ってきた。

 着信の表示から見知らぬ人間からの電話だと分かった二人は電話に飛び付いた。案の定、聞こえてきたのは、明らかに最初の電話のそれと同じ低い男の声だった。美奈子は夫に頷いて見せた。
 最初の電話は、「封筒の中身を見ただろう? 娘は預かった。身代金として一億円用意しろ」と、一方的に告げて切れてしまったので、美奈子はまるで二時間ドラマで使われるようなチープなセリフにどうしても本物だと思えず、受話器を握りしめたまましばらく突っ立っていた。
 今度も「送った写真を見ただろう?」という同じような言い回しで始まった。 
 電話の男はこちらから口を挟む事を許さず、再び一方的に話し始めた。
 再度要求金額を提示した後、「今時の誘拐は警察に通報されるのが折込み済みだと思っているとしたら大間違いだ」と男は続けた。
「もし警察に通報したり要求を呑めない場合には、身代金の取引は中止し、娘は永久に戻らない。娘の身体で身代金分の金を稼いで貰う事にする」とまで言い放った。
「金の準備を始めろ」
 薄ら笑いを浮かべながら電話を切った犯人に、夫はついにひと言も口を挟む事が出来なかった。

 ***

 マナーモードにしてある携帯が震えて、亜衣はポケットから出したそれを目の前に翳した。着信は、知らないメールアドレスからだった。
 それでも壁に寄り掛かって無言のままタイトルを見た亜衣は、驚いてすぐに中身を確認し始めた。
「困ったな……」
 すべてを読み終えた亜衣は、ずるずるとしゃがみ込んでから呟いた。こういうのは苦手だった。
 しかも詳しい内容を知らせず、一方的なのが癪に障る。
 トラブルはそっちで解決してほしいと思ったが、どうやら適任なのは自分だけだと認めない訳にはいかなかった。

 ***

 いくらなんでも一億なんて無理だ……。リビングのソファで健二は頭を抱えていた。テーブルには通帳や登記簿などの書類が拡げられていた。果たして全ての財産を手放したとしても一億などという大金を作れるか分からなかった。
 犯人の電話がまさに妻の話しを裏付けるような内容だったので、ぞっとした健二も警察に届けるのを躊躇していた。
 そして取り敢えずいくら準備できるのか調べるようと、妻とふたりで滅多に出さない書類を掻き集め、ひとつひとつ中身を確認していった。
 さらにネットなどを使って有価証券などの価値を調べ進めると、自分達の資産が思った以上に少ない事が分かり、”警察”の二文字が再び頭に浮かんだ。
 美沙の身に起こっているであろう状況に、大きな衝撃を受けたのは健二も同じだったが、しかし誘拐などという事件に警察でもない自分達が対応しきれるのか、健二は一歩間違えば自分が娘を殺してしまう事になり兼ねない重圧を感じずにはいられなかった。
 まだ不動産は調べていなかったが、バブルの頃ならいざ知らず、今ではその価値が大幅に目減りしている事など、銀行に勤めている自分でなくとも分かる事だ。
 時間が経つに連れ不安が増すのか、心ここに在らずという感じの妻は数字を追う事が出来ず、部屋の中をぐるぐる回っては、座るという事を繰り返していた。


 前回から三時間の後、すでに窓の外が暗くなり始めた頃になって三回目の電話は掛ってきた。また番号の違う携帯からだった。いつまでに金が用意出来るか、という確認の電話だった。
 預貯金は現金で二千万程度しかなく、後は様々な財産を処分するとしても三千万くらいが限度だと健二は訴えた。しかも現金化にはそれなりに時間が必要だった。
「とても一億などという大金は作れない。なんとか金額を考え直してほしい」健二は繰り返し懇願した。一億が用意出来ない以上、美沙が戻ってくる為には、どうしても金額の折り合いが必要だった。
 身代金を下げてくれる事を望んだが、しばらく沈黙した犯人は、「取り敢えず手持ちの現金を、後で送る添付ファイルの口座に今日中に振り込め」と要求してきた。
 そして、「明日までに現金化出来そうな資産のリストと、それを担保に借りられそうな金額を弾き出しておけ」と言った。
 結局肝心な点には何も答えてもらえず、唐突に電話は切れた。

 じきに送られて来たファイルと開くと、口座名などが書かれた画用紙を持たされた美沙の姿が映っていた。多分前の物と一緒に撮影したのだろう。場所やアングルが同じだった。
 妻が画面を覗き込み、すぐに離れてソファに腰を下ろすと、手で顔を覆った。
 そこへ、ファイルが開けたか、男から確認の電話が掛って来た。
 健二は画像から書き写したメモを読み上げて確認し、そしてもう一度金額を下げてくれるよう頭を下げた。

「美沙を返して!返して!返して!」
 突然立ち上がった妻は、振り向いた健二から携帯を奪い取ると、電話に向かって絶叫していた。止める間もなかった。
「声を聞かせて!お願いだから……」
 そのまま泣き崩れる妻から携帯をもぎ取り、健二が再び口を開こうとした時、男が言った。
「いいだろう。後で映像を送ってやる」
 男は意外にも要求をあっさりと呑んだ。
 荒い息をしながら立ち尽くす妻を宥めて座らせた。健二もいっぱいいっぱいで、妻の神経が切れ掛かっている事に気付いてやれなかった。しかし……。

「やだ。助けてっ!やめてっ!」
 ほぼ闇の中で蠢く二つの人影と美沙の叫び声だけが数秒響き渡り、そして消えた。
 美沙の声を聞かせてやると言った犯人の悪意が、送られてきたビデオファイルに詰め込まれていた。
 身代金を減額してほしいと頼んだ事への報復なのか? 健二は犯人の無慈悲を恐れて震えた。
 どさっと音がして横を見ると、妻が床に倒れていた。


 口座は日本の物ではないらしい。聞いた事のない銀行の物だったが、犯罪の金を振込ませる以上はまともな口座であるはずがなかった。
 インターネットの画面で振込先を確認しながら、健二はこの先どうしたらいいものか、考えを巡らせていた。
 隣では妻がソファに横になったままだ。
 溜息を吐いて窓を振り返ると、すでに外は真っ暗になり、反射したガラスに疲れ切った自分の姿が映り込んでいた。
 やはり警察に通報するしかない、と思った。犯人と金額を交渉する知恵もあるだろうし、いくら銀行の役員とはいえ、実際に金を借りるとなればきっと便宜を計ってくれるだろう。
 これ以上犯人に減額を迫る勇気はなかった。このままでは美沙は殺されてしまうかもしれない。
 健二は妻の横顔を再び眺めた。
 犯人は今日中にと言ったが、電話が掛ってきた時点ですでに十五時を過ぎていたから、今振り込んでも実際に作業が行われるのは明日になってからだ。つまりまだ考える時間は残されている。
 さっき部下に連絡して、無理を言ってこの口座の持ち主を洗うように頼んでおいた。ただ本名など使っていないだろうし、そこから先は他行のテリトリーだ。自分で調べる事は不可能だった。
 しかし警察なら口座を調べる事も、送金された金の行方も追う事が出来る。いずれ引き出すであろう犯人に迫るには、その為の時間が必要に違いなかった。
 妻を説得して警察に通報しよう。その方がきっと美沙を無事に取り戻せる。
 頭を振りながら画面に目を戻し、振り込みの最終確認の画面を一度閉じようとしたまさにその時、再び電話が鳴った。

 ***

 待ち合わせの時間になっても彼女は現れなかった。もう一度場所を確認してから携帯を開いたが、やはり電話は繋がらない。こんな事は初めてだった。


 美沙に腹違いの妹がいると知ったのは半年程前だった。それは”向こう”からやって来た。
 学校帰りに突然声を掛けて来た彼女は、本当に美沙によく似ていた。多分二人共父親に似たのだろう。だから姉妹だという彼女の告白が嘘ではない事を、美沙は出逢った一瞬で悟っていた。
 もっともそれは心の中だけで、実際はそんな話しは信用出来ないと言って、突っぱねた。それから美沙の中で二つの思いが交錯する事になる。

 彼女は美沙の行動を事前に調べていたらしく、その後も出掛ける先々で美沙を待ち伏せをしては付き纏って来た。
 そして半ば無視する美沙に並んで、彼女は勝手に自分の境遇や好きな事などをしゃべって聞かせた。 
 その内容から、パパは彼女の事を認知しておらず、しかし若干の経済的な援助はしているらしいと分かった。パパは彼女の存在を知りながら、ずっと家族に隠していたのだ。
 なぜ今頃になって現れたのか質問すると、美沙という姉がいる事を母から聞かされて、どうしても逢いたくなったから、と笑った。それは嘘ではなさそうだった。
 突然現れては去って行く彼女は、とにかく美沙の事を知りたがった。そして父親の事も……。
 そぞろ歩きながら、喫茶店や甘味所に連れ込まれては、根掘り葉掘りの質問攻めだ。もちろん自分の事も話したが、その言葉の端々から美沙の境遇を羨んでいる様子が窺えた。
 訊けば彼女はひとつ歳下の高校一年生だった。つまりパパは自分が生まれた頃に浮気をしていた事になる。それは信頼していたパパに失望した瞬間でもあった。
 しかしそれはともかく、初めは反発したものの妹はかわいかった。よくしゃべり、よく食べ、いつも元気いっぱいの彼女は、母親にギューギュー躾けられて育った美沙にはない天真爛漫といった雰囲気があった。
 自分にはないそんな彼女の魅力が羨ましくもあり、同時に少し幼く見えた美沙は、自分が姉になった気分で接するようになっていた。ひとりっ子の美沙に、兄弟に対する憧れがあったのも確かだった。がさつな所もあったが、そういう部分をフォローしたくなる自分がいた。
 やがて彼女と連絡を取り合うのは当たり前になり、自分の方から会いに行く事もあった。

 言うまでもないが、当然この事はママには秘密だった。パパは彼女の事を知っているはずだが、美沙が知っている事を明かせるはずもない。彼女はかわいかったが、この事が家族に知れれば、我が家はきっと崩壊の憂き目に遭うに違いない。妹はまさにかわいい爆弾だった。 
 

 そして今日。彼女の希望で、ずっと憧れていたという美沙の通う高校に行く事になった。
 学園祭は二日目で、別に入れ替わらなくても自由に校内に入る事が出来たが、どうしてもこの制服が着たいという彼女の要望を受け入れてそうなった。
 実は美沙は彼女とこれまで二度程入れ替わった事がある。もちろん授業時間にやれるはずもなかったが、放課後などにイタズラ半分校内を歩き回った彼女は本当に楽しそうだった。
 今までは極短時間だったが、今日は半日制服を着て過ごせるという訳だ。
 本当は中を案内して回りたかったが、髪型や服装が違っても、校内で同じ顔が並んで歩いていてはマズイので、美沙はその間街をぶらついて時間を過ごす事にした。

 買い出しを装って学校を抜け出した美沙が待ち合わせの場所に行くと、妹は制服ではなく私服で現れた。
「昼間っから制服でぶらぶらしていたら、何か言われるかもしれないでしょ?」
 確かにそうだ。
「こういう事には頭が回るんだから」
 そう言ってふたりは笑った。何と言って家を出たのかは敢えて聞かなかったが、彼女の母親は働いているので、どうにかしたのだろう。
 服を交換したふたりは、ついでに携帯も一緒に交換していた。美沙の携帯にはGPS機能が付いているので、ママに万一検索される事があったら学校にいないのがバレてしまうからだ。
 それくらい慎重に考えを巡らせた。
 ママが見に来るのを学園祭初日、つまり昨日にして貰ったので、鉢合わせする心配はなかった。
 こうしてふたりで考え抜いた秘密の冒険は決行された。

「何かあったら電話して。それと絶対に帰りのホームルームに間に合うように戻って来てね」
 小さく手を振って、じゃあね、と別れたふたり。
 彼女はこれまで無茶を言う事もする事もなかったし、トラブルを起こすような事態は想像していなかった。美沙は美沙で、今まで選んだ事のない服装を纏い、別人になった気分で平日の自由時間を過ごしていた。
 そして夕方前……。
 再び服を交換し合い、それぞれの生活に戻る時間がやって来る、はずだった。


 辺りはすっかり暗くなってしまい、美沙は途方に暮れていた。打っておいたメールの返事も来ない。学校に戻りたかったが、今友達に会うのはまずかった。
 それに携帯の電源が切れているのもおかしい。電池はきちんと充電して渡したし、彼女が携帯を落とした可能性も考えると、おいそれとこの場所を離れる訳にもいかなかった。
 学園祭もすでに終わっているだろう。亜衣に頼んで、もし自分がいない事を指摘されたら、保健室に行った事にしてもらった。
 嘘が下手な亜衣はイヤがると分かっていたが、他に頼める相手がいなかった。でも彼女の頑張りで、そこはなんとか乗り切れたようだ。亜衣には感謝してもし切れなかった。
 そこまでは単に時間を忘れているのだろうと思っていた。でも生徒以外は校外に出される時刻になっても、妹は戻らなかった。そしてもうこんな時間になっている。
 これ以上家に連絡を入れずにいたら、今度はママが心配して携帯に電話を入れてしまうかもしれない。基本、互いの電話以外は出ない事に決めていたが、親からの電話をあまりに無視しては不審がられてしまう。それは彼女の方も同じだろう。
 いざとなれば声も似ているし、緊急事態のやりとりも考えていたが、さすがに受け答えが不自然になるのは避けられない。
 仕方がない……。取り敢えず時間稼ぎが必要だった。もう少し学園祭の用事で帰るのが遅れると電話をしておこう。その間に彼女がやってくれば、何も問題はない。
 ただこちらの携帯に彼女の母親から電話が掛かってきたらどうしようかと思った。
 ……悩んでも仕方ない、か。まず自分の方をなんとかしよう。
 美沙は公衆電話を探しながら、妹は本当にどうしたのだろうと不安が増した。
 学校で何か騒ぎがなかったか、亜衣にそれとなく訊いてみたが、さあ? と言うだけで、心当たりはなさそうだった。
 もし交通事故にでも遭ったのなら、家に連絡が行ったかもしれない……。

 そうでない事を祈りつつ、頭の中でママに言われる事をシミュレートしてから、美沙は一呼吸おいて家に電話を掛けた。
「もしもし、美沙だけど……。なんでパパが家にいるの? 今日は出張だって言ってなかったけ?」
 それには答えずパパは怒ったように意気込んだ声で話した。
 「美沙、おまえ本当に美沙か?」
 そしてパパは事情を話して聞かせる。

 ゆうかい?
 美沙は真っ青になった。妹が自分の代わりに誘拐されたというのか? でもそれなら、全く連絡が取れない理由にも納得がいく。
 「パパ! その写真、これから言うメルアドに転送して!」
 「イヤ、これは、その、お前には見せられない……」
 「なんでもいいから早くしてっ!」美沙の声はひとりでに大きくなっていた。
 それでもパパは渋った。
 「その写真、私にそっくりなのね? 制服を着てるのね? そうなのね?」
 「ああ、どう見てもお前にしか見えない……」しわがれたパパの声がそう言った。
 美沙は沈黙した。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
 美沙の頭はフル回転していたが、妙案など浮かぶはずがない。
 生徒手帳も制服も妹が誘拐された事を示していた。なら妹を助けなきゃいけない。でもその時、すべては白日の下に晒されてしまう……。そうなったら……。

 妹の喜ぶ顔が見たくてやったのに、こんな事になるなんて……。
 美沙は受話器を手にしゃがみ込んだ。どうしたらいいのか分からなかった。
  
 電話ボックスの中で蹲(うずくま)る美沙を、何人もの通行人が不審そうに眺めては通り過ぎて行く。
 一枚だけしか持っていないカードの残り度数が減っていく。
 突然声を失った美沙を不審に思ったパパの声が、受話器から響いていた。

 長い長い沈黙の末、美沙は立ち上がって言った。
「パパ。これから言う所までひとりで来て。いい? 絶対にひとりでよ、分かった?」

ママの知らないひと

ママの知らないひと

美奈子が電話に出ると、娘を預かったとの男の声が。学園祭中の学校へ慌てて電話を入れ、美沙は登校しているという担任の先生の返事を聞いた美奈子は、ほっと息を吐いた。しかし学校に美沙の姿は見当たらなかった。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-11-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted