午前三時の落陽

【夕焼け・手のひら・瞬き】

 大きく息を吐くと力が抜けて、自分が今まで肩に力をいれていたことに気がついた。
微かに白い息が寒さを思い出させる。 ペンを握る手も白く冷たい。私は机の隅に置いたマグカップを両手で包んだ。すっかりぬるくなったブラックコーヒーを一口飲む。マグカップのわずかなぬくもりが手のひらから身体中に広がる気がした。
漫画家になると言って家を出てから暫く経った。バイトをしながら漫画を描いて、コンクールに応募するものの、結果はどれも芳しくない。初めの頃は自分の好きな漫画雑誌や、有名な漫画雑誌のコンクールにだけ応募していたが、最近は手当たり次第に、と言う感じだ。出版社に直接持ち込んでみたこともあるが「もう一捻り欲しいって感じですね。」と曖昧に言葉を濁して原稿を返されてしまった。
昔は漫画家になることを反対していた両親も、最近では実家に戻って少し家のみかん農家を手伝ってくれるなら、漫画を描いていいと言ってくれている。
でも、私は帰るつもりはない。自分でバイトをして生活しながら漫画を描いて賞を取りたい。そうやって成功している人はたくさんいるのだから、私にできないわけがない。
しかし、バイトを掛け持ちしながら漫画を描くのは決して楽ではない。2日くらいの徹夜はよくあるし、締め切り前は一週間仮眠だけで過ごすこともある。
今夜も週明けに迫ったコンクールの締め切りのために2日目の徹夜だ。
私はペンを握り直して再び原稿用紙に向かった。
どのくらい経った頃だろう、ふと窓の外が気になって、少しカーテンを持ち上げた。そこには、目を疑う景色が広がっていた。
夕焼け。あり得ないが、それしか思いつかなかった。まだ朝日にも随分早い時間だが、窓の外には確かに夕焼けの景色が広がっていた。
 唖然とする私などお構いなしに、夕焼けが揺らめく。大きな粒の錠剤を飲んだ時みたいに違和感が喉の奥に引っかかっている。違和感の正体に気付いたのは、夕日が地平線に半分以上沈んだ頃だった。普通、夕日は西に沈むものだ。そして朝焼けは東の地平線から顔を出す。しかし、この窓は北北西を向いている。こんな場所に、こんな時間に、朝日はおろか夕日が見えるはずがないのだ。
 きっと疲れているんだ。寝ていないせいだ。少し仮眠を取ろう。そう思いながらも目が離せない。こんなに長い時間夕日が沈んでいくのを見るのはいつぶりだろう。
 実家のみかん畑は人里離れた小高い山際にあり、そこからは生まれ育った町並みと、その向こうに続く海が見渡せた。収穫前のまだ青いみかんの硬い香りで胸を満たしながら、その海に夕日が沈みきってしまうまで、ずっと眺めているのが好きだった。
 実家を離れてからは、いや、それよりも前から、学校やバイトや漫画を描く時間に追われて、ただじっと夕日を見ることはなくなった。当たり前になって、気に留めなくなった。
 毎日、太陽は沈んでいたはずなのに。
 やがて、燃えるような夕焼けは地平線の彼方に消えて行った。辺りは再び、当たり前の宵闇に包まれた。空に明星が瞬き、瞼の裏で朝を待った。

午前三時の落陽

午前三時の落陽

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-04

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