キャッチボール(9)
九回表・九回裏
九回表
チ―ンー。
鈴の響きが終わるとともに、父との思い出は消えた。
「さあ、ハヤテ、次は、お前の番だ」
父に促され、仏壇の前に立った少年は、線香に火を点け、鈴を鳴らす。手を合わせた隙間から、線香の煙が漂ってくる。沈黙の時間が流れた。
お辞儀した顔が上げ、後ろに振り返った少年は、傍らにいる父に話しかけた。
「父さん、キャッチボールでもしようか」
「キャッチボール?そうだな、やるか」
父はまだ座ったままだ。手は、数珠を握りしめている。彼は、仏壇に手を合わせると、深々と一礼し、居間から家の外に出ようとした。父も、息子につられて立ち上がった。
「あら、お父さんに、ハヤテ、今からどこへ行くの。少し休んで、お茶でも飲まないの。近所で評判の大粒イチゴの大福があるわよ。ジェイジェイの大好物だったので、お供え用のほかに、余分に買っておいたの」
「ジェイジェイは、仏壇の中で、既にお茶を飲んで、大福餅は食べ終わっているよ。今から、僕と父さんは、ジェイジェイも含めた三人で、キャッチボールをするんだ」
「ジェイジェイと?あなたたち、本当に、キャッチボールが好きなのねえ」
母は、半ばあきれ、半ばうらやましそうに、呟く。
「父さん、さあ、行こう」
息子に急がされて、父も一緒に動く。
「おっと、その前に、ジェイジェイも誘わないとな」
父は、仏壇の前で、もう一度鈴を鳴らし、静かに手を合わせた。
「さあ、ハヤテ、行こうか」
何かがふっきれたように、今度は、父の翼が、先頭に立って玄関を出た。
今は、二月の終わり。暦の上では、まだ冬だが、空気は、確実に春に衣替えしている。その証拠に、日向に出ると暖かく感じ、思わず羽織っていた上着を一枚脱ぎたくなる。まして、軽く運動をすれば、夏とは言わないまでも、顔に、背中に、汗をかく。その時、一陣の風が舞い込めば、爽快感が増す。学年末と進級、卒業と入学、就職など、何かに区切りを付け、一から始める季節は、もう直ぐだ。新しい希望が芽吹いている。
「はい、父さん」
ハヤテは、もう既に、艶も、膨らみもない使い古しのグラブを手渡す。父の愛用のグラブだ。そう言えば、父も、ジェイジェイが亡くなってから、このグラブと同様に、ちじんでしまった気がする。自分は、光沢があり、しなやかに動くグラブをつける。
「いくよ」
ハヤテは、ウォーミングアップも兼ね、山ボールを投げる。ボールは、大きく弧を描き、父のグラブの中に吸い込まれた。
父は思う。親子のキャッチボールは、これで何度目だろう。確か、ハヤテが、つたえ歩きをしだし、あやすために、ゴム製のプヨン、プヨンボールで遊んだことが始まりのはずだ。「ほら」とボールをハヤテに向かって投げたとき、ハヤテは、両手を出して、ボールを捕まえようとするが、まだ、反射神経が十分発達していないため、手が交錯する。
掴みきれなかったボールは、柔らかい皮膚で覆われた顔面に当たる。一瞬、顔を歪めるわが子。今にも泣き出すのではないかと心配になり、慌てて近づくが、直ぐに「あばばばば」と笑い声を上げ、両手を振って喜んでいる。顔に当たって、足元に転がったボールを拾い上げ、さっきより近くからボールを投げる。いや、手渡すといってもいいくらいの距離だ。
両手を差し出す子ども。だが、今度も、手は空気を掴んだだけだ。赤らんだほっぺに、もうひとつのほっぺが、一瞬、くっつく。そして、再び、笑い声が部屋にこだまする。その声に呼応して、子をあやす父も微笑む。笑いの伝染、喜びの連鎖反応、温かい空気が、蒸気のように部屋全体に充満する。笑いをせんとや生まれけん、キャッチボールせんとや生まれけん。
例え、言葉が話せなくても、言葉が通じなくても、心と心のキャッチボールは可能なのだ。いや、キャッチボールを望んでいるのだ。まずは、こちらから、心を投げかければ、必ず、相手からの反応はある。それが、必ずしも好意的なものでなく、冷笑や嘲笑、果てまた、何の返事もない、無視の行動かもしれない。
それでも、彼は、笑顔というボールを投げ続ける。目の前三十センチのぬいぐるみの犬にも、一メートル先の父親にも、台所で、夕食の後片付けをしている母親にも。笑顔光線は、地上の果てを、そのまた果てを通り越え、地球を一周して、再び、彼の元に戻ってくる。サンタクロースのように、世界中に向けて、放射線状に放たれた微笑みのお土産箱は、誰の元にも贈られる。あなたが気づくかどうかだ。
九回裏
「父さん、父さん」
息子の大声に、父は、現実へと舞い戻った。
「早く、ボールを投げ返してよ。父さんが、ずっと持ったままでは、キャッチボールにならないよ」
「ああ、そうだな」
彼は、グラブの中のボールを、人差し指、中指、そして、親指の三本で、しっかりと握り締める。このボールに、自分のすべての愛情を注ぎ込んで、息子に、そして、その子どもに伝えるのだ。
「いくぞ」
ここ何年間で、もっとも大きな声を出した。やがて自分の記憶から消えていく父に、今後の将来を託した息子に、そして、まだ見ぬ、我が孫に。
ボールは、声に負けまいと、ここ何年間か、投げたことのないスピードで、息子のグラブを射抜いた。
「父さん、すごいじゃないか」
父は、唇の端を上げ、にこりとした。息子は、大きな口を開け、笑い声を放った。
キャッチボールは、永遠に続く。
翼、ハヤテ、マタ、アイマショウ!
仏壇に飾られているジェイジェイの写真は、笑ったままだ。
キャッチボール(9)