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十七



 時計屋の主人の明らかな確信に,急いで巻かれた午前中の雰囲気が店内で辛そうになって,また泣きそうになっていたから,その奥様は手で柔らかくした疑いを隠して,背中があるようにショーケースのだいぶ上の中空を優しく撫でる振りをした。はたき棒ではたいたばかりだからキラキラと目立つ埃は舞っているけれど,光は確かに差して,古くて一番大きい柱時計がコチッと一分を進めた音を聞かせる。凝りは解けて,その奥様が身に付けている無関係な皮ベルトの腕時計にも一分は刻ざまれていた。午前中は,それで少し安らいだようで,時計屋の主人に見つからないように店内を歩き始めて,短く並んだショーケースの端が終わる度にそこに置かれたものを見て,静かにまた走った。その配置に合わせて直角に曲がらなければいけないところが,午前中は一番楽しいようで,キャッキャと笑いながら時計回りに曲がっては,主人に近付くとコソコソと歩いて,曲がってはしゃぐ。集中を原動力として先を進む主人は一つの道具を固定して,そこの箇所で使いたい道具を見失っては,何処に在るのかを手探りで見つけようとしていた。ここで口を出すと忽ちに不機嫌になることを知っている奥様も,近くを知らん顔で通り過ぎて,時計屋の主人は暫く人に出会えそうにない。午前中はコソコソと歩いて来て,また曲がってはしゃいだ。
 外で積もる雪はもう降っていない。
 覗ける窓から覗けるだけ,この時計店が面する通りを見れば,歩ける人がいない代わりに,本当の白ウサギが雪高くなった道路の上を跳んでは跳ねていた。お客様が見当たらない今のうちに『も』と,気持ち良くはたき棒をはたいていた奥様は窓辺で足を止める。黒ウサギなら,雨も除いた残りの天気によく街路樹の下で群がって人を見るから,奥様もよく見かけていた。白なら多分,午前中も見たことがないはず,雪のものと区別するために掴むように見分けようと見ては瞬き,見ては瞬きを三回した。上手いこと,移動を止めていたウサギがまだ長い距離を少しも移動していなかったために(恐らくひとっ跳びを,したかそれともしていなかったかで),奥様が目を瞑る前と比較して付けられなかったけれど,いま跳んだウサギに白の影はあった。重みで沈めて,踏み固めた雪の分もまた一つと増えれば,白と現実が向こうからやって来る。動かない窓辺の近くで見えれば,人馴れしている不自然さと他人を見極めようとする自然さがあるように見えた。側に丁度来た店内の午前中にも,一応聞いてみたけれど,曲がり続けるのに夢中でろくに見もしない。道具をまだ見つけられない主人には,聞いた先から聞くこと自体が聞かれたことを見失う。本当の白ウサギはいま窓辺の一番近くにいて,白の影が足場の雪をからかって遊んでるのもこうして見れて分かった。奥様はだからこう思ったはずである。飼っている,という人も居るかもしれない。ウサギの一羽と同じくらいに。
 こんな日にも,時計に関してお店を訪ねて来る予定の人は居るからやっぱり主人は探すことに手を休めていない。今朝一番にかけた電話でその変更がないことを,主人に代わって奥様がお客様に確認した。ハットが似合いそうな深い年齢を感じさせる男性は,奥様とは一度顔を合わしていて,午前中は生憎眠っていたときだった。男性は時計店に時計を預けて修理を依頼して帰られた。複雑な技巧に潜在する単純な問題の解決は容易でない,と主人は楽しそうにボヤいて,設計図から起こして顔を付き合わせては,あーでもないとこーでもないを話し合うことに没頭している一週間以上になる。無駄なく噛み合う機構の中で,本来にない動きが生まれる要因と影響を把握してから始めるのが時計の修理である。ムーブメントは帰るものだと,主人は奥様によく言うのだ。帰り道に迷いは要らない。真っ直ぐそこに向かえばいい。眠ってむずがる午前中の頭を撫でて(時計屋として,主人はこうして午前中に触れるから),変化の乏しい主人の表情を奥様は読み取らない。付き添って起きることもあればいい。それが二人の時間になると,出て行った午後が残した言葉だ。
 その午後の話は一度しか出来ない。大きなリュックにおもちゃばかりの内訳に数少ない実用性を瓶詰めした荷物を抱えて,いつも夜間を踏破していると聞いている。午前中と似て,足腰は丈夫な方だったから心配なんて二人して,してはいない。方向音痴なところがあって,時間をかけて遠出をするのが好き。歌より絵本を好んでいるのに,何よりも声が良く響いた。真っ暗な地面に座って,規則正しい天体より蟻の行くところを考える。声をかければ振り向いて,ひとつ一番と,駆け寄って離れなかった。おやすみなさいとすぐに言えたのも,その近しい距離とその抱きしめられる存在感があってのこと,午後は最初が大好きだった。
 ティーカップ集めは奥様の趣味で,午後と一緒によく買いに行った。買う場所はまちまち,気に入ったら買うというのが奥様と午後のルールだった。花柄を好んだ時期に,午後が勧めてくれたのはラインで魅せるシンプルなソーサーとのセットで,持ち合わせとの関係から青色のものと水色のもののどちらを買うか,両方買うかで奥様は迷って午後と悩んでいた。どうしようをもう一回,そうしようをまた一回と決められない奥様と午後は瀬戸物屋の店主に取り置きをお願いしてみた。店主はそれを快諾してくれた。けれどそれは一週間と待てないという条件付きであった。懐中時計を取り出して,店主はそこから時間を数え始めた。買えると良いねと午後が言い,買えると良いねと奥様が答えた。それからまた悩んで,奥様はティーカップとソーサーをセットで一組だけ買うことにした。色は水色,午後とジャンケンして決めた色だった。青色を任された午後は奥様に約束をした。青色のものは,見つけたら必ず箱に入れて贈るから,気付いてもすぐに開けないでね,美味しい紅茶もカゴに乗せて側に届けるから。奥様はお菓子作りが得意だ。午後には手作りのお菓子をお返しにプレゼントすることになっている。
 食器棚の一スペースに空きが今もあることに,時計屋の主人はちゃんと気付いている。時計職人としてどの時間にも気を配っていなければいけないから,午後だからといって特に何かをしてやったりはしなかったけれど,その長い時間のひと時には一緒に過ごしたことも少なくなかった。作業部屋に転がるように入って来ては,よじ登った背中から作業中の手元を覗き,今のは何をしたのと聞く午後に,主人は一から懇切丁寧に説明する。無駄な事はしていないために,行っている作業の説明は初めからしなければいけないからだった。午後は分かっていないような返事をすることが多く,それは当たり前だったが(主人は説明にも手を抜かない),時々の天気予報より正しくその先にすべき行程を言い当てることが少なくなかった。背中で感じる大きくなった存在感とともに嬉しくも満足しながら,その次にすべきことを意地悪く聞いたりして,からかい,手を休めるその時までともに過ごしては,午後を背中から降ろす。外から帰って来ると解けてる革靴の靴紐は,気を付けることを注意しながら主人がしゃがんで片方ずつ直した。抱き上げて,膝の上で奥様とに話を聞けば,そうかと頷き手遊びをしてあげる。叩く手を掴み,たまに「食べてあげたり」して,喜ぶ午後に影絵を教えてあげたのは時計屋の主人だ。手元がよく見えるようにと,暗めにしている部屋の中で午後がする影絵は上手であった。白い壁面上の動物的な動きから,好きな絵本を組み合わせたお話から午後の言葉で,響く声で,届く台詞も生まれた。顔を上げるように最後に求められる感想にも,主人は手を抜かない。午後はいつもはにかんだ。主人はそれも忘れていない。




 純粋なお話の中で,純粋に保てる仕組みがあるとするなら,回るだけ回せば良いのだろうし,動かせるだけ動かせばいい。磨耗によって削れる木屑がそよ風に乗って,見えないように他のところで積もった様子になるとしても,それもまた一つの仕組みとするお話もまた語れられる。姿形を表すための,掃き掃除が間に合わないことは手を抜いていい理由にはなり得ないし,そこで色を練らない訳には向かない。滑り落ちた穴の中で,目覚めたばかりの子に聞かせることが出来る話は大きな欠伸をして,目覚めたばかりの男の子にも聞かせることが叶うのだろう。それを信じる午後は,またひとつ進む。




 午後が出て行った日が過ぎても,一日が半分になることはなく,時計屋はいつもの時間に開いて,いつもの時間に閉まった。日がな一日,ゆっくりと訪れるお客様を迎えては,主人が整備した時計が手渡されたり,ショーケースの中から時計が新たに売れていった。無事に予約を済ませて,ひと段落が付けば,奥様は趣味のティーカップ集めのために出掛ける。主人にそれを伝えて,主人はそれを許している。午前中は作業場に持ち込んだベッドに寝かせて,主人は黙々と手を動かす。突然の来訪にも手を休めて,応対出来るようになった。不慣れなところはまだ目立つものの,時計の知識も携えてから,訪れたお客様に一つでも多く時計のことを知ってもらえることを意識していたから,それは評判にもなった。昼寝は少しも出来なくなったけれど,主人は手を抜かない。眠る午前中の,手の位置を毛布の上で直すのも忘れない。それから手を動かす。作業部屋は変わらず暗めである。
 お茶受けにと,焼いたクッキーを眉をしかめる主人の前に差し出しながら,奥様が父親に連れられた女の子の話をしたときは,閉店してから眠る前の間で,使い慣れたティーカップが新しいソーサーに乗って紅茶の色を零さずに湛えていた。それに口を付けながら,複雑時計の修理は父親でなく女の子が持ち込んだそうだった。亡くなった祖父の遺言で,その時計を所有することになった女の子はたどたどしくも聞こえる声で,「出来ますか?」ということを強く聞いた。父親はそこでただの一言も発しないで,そこで頼まれていることの主役が誰であるかを示して,邪魔にならないように心掛けて側にいるようであった。話を聞いた後で連作先を聞き,奥様は依頼をすぐには受けずに話を主人に伝えておくと,女の子に言うに留めたには可能でない修理の依頼は受けてはかえって失礼だからで,複雑時計となれば尚更であったからだ。奥様は主人にどうかと聞いた。主人は話を,明日の午前中にでも直接聞くと言った。
 午前中が作業部屋から覗くままに放って置いて,時計屋の主人はやはり父親と再訪した女の子の手から複雑時計を受け取って,外面からその状態を検分した。女の子がするには長い黒のベルトが新調されていても,文字盤の上の長い短針は震え,長針は動かず,時刻が十時で止まっていた。文字盤に仕掛けられた絵柄があるが,空だけ広々として進んでいない。ぽっかりと浮かんだ,雲の端っこも切れていた。
 電池にはない不具合の原因は,開けてみないとやはり分からない。同種の時計を修理した経験はあるけれど,もしかしたら出来ないかもしれない。その時は,このまま返品をすることになってしまう,それでも宜しいかということを依頼主である女の子に主人は,きちんと伝えた。それを聞いた女の子に,直ぐに直りそうにない残念さを隠せない表情はあった。でも女の子はそれでもいいからお願いします,と丁寧な言葉で主人に修理を改めて依頼した。父親はそこに一度も口を挟まない。だからその依頼を受ける返事を,主人は女の子に返した。それからこの複雑時計を暫く預かることも,怠ることなく言葉で伝える。女の子はうんと頷き,そのまま大きくおじぎの仕草を表した。
 側で立つ父親とも挨拶を交わして,女の子と父親がそのまま帰路に着こうとするときに興味津々を抑えきれない午前中は勢い余って女の子の前に立って,それから恥ずかしげに主人の足元に隠れた。非礼を詫びるために主人が申し訳ないと言うと,今度は女の子が午前中の近くまで来てニコリと笑う。午前中は喜びはにかんだ。女の子と一度握手をして,女の子の方から今度は遊ぼうと持ちかけてから,午前中と女の子は約束をした。父親はここで初めて口を開く。女の子にも,こうして居てくれる午後がいるそうだった。午後は優しいと,聞いていた女の子がぶんぶんと握手し続ける午前中と,その主人に言った。そうでしょうねと主人は女の子に丁寧に答えた。




 ムーブメントは帰るものだと,主人は奥様によく言うのだ。帰り道に迷いは要らない。真っ直ぐそこに向かえばいい。
 午前中に届けられる絵葉書には,送り主がいない。時計屋の主人も奥様もそれを分かって午前中に見せている。秋の様子が続いていた何処か知らない景色はまだ続いていて,一昨日も森の景色が届いた。午前中はそれを見て笑う。壁に貼り付ける順番は,それでも午前中のオリジナルだった。
 窓辺の白ウサギが二,三度と跳んでも,その姿は道路となってる雪の上で,のんびりと後ろ足で耳の後ろを掻く。奥様がはたき棒でもう一度,店内から窓枠を気持ち良くはたけば午前中のように興味津々と見上げる店外のウサギの足跡を追ってきたかのように,予約をしていたお客様が小さい姿のままで,ゆっくりとこちらに歩いて来ていた。奥様は主人に声をかけて,午前中はまた喜びはしゃぐ。迎えるべき主役は,走りたくて走れない,その女の子と決まっていた。
 朗報は完全でなくても伝えられる。扉は開いて,物語が少しずつでもまた進む。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-03

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