6番目の男

ホテルに入るとすぐに彼女が熱いコーヒーを淹れてくれた。時刻は22時を回っていた。2人とも新幹線の中で眠っていたために眠気は感じなかった。薄暗い白熱灯の光の中でコーヒーテーブルをはさんでソファに座わり、軽い疲労をともなった沈黙の中でブラックコーヒーを飲んだ。
辺りはひどい大雨で、駅から歩いてホテルに向かう途中で徐々にみぞれが混じっていた。ホテルに入るとお互いの着ていたコートについたみぞれを払ってクローゼットに吊るした。明日は積もるかもしれない。客室の重たいカーテンを指で引っ張った。高層階のホテルの窓からは駅のロータリーが見えた。煌煌と車のフロントライトがロータリーの前で列を作っている。夜が更けるにしたがって、みぞれは大粒の雪へと姿を変えていた。
「15年ぶりの故郷はどう?」と彼女は聞いた。
僕はゆっくり首を振って、引っ張っていたカーテンを元に戻した。「あまり変わっていないな。あいかわらず田舎だよ」
彼女はふぅん、と小さく声を上げてコーヒーカップを見つめた。目を伏せて、聞きにくいことを考えているように見える。何を聞こうとしているのか、なんとなく想像がついた。
僕が実家のことをあまり話したがらないのは、彼女にはよくわかっていた。今の彼女とはつきあってもう1年になる。その間に、実家のことが話題になって、ちょっとした行き違いがもとで何度か口論になったこともあった。両親が生きていたころにもつきあっていた恋人を生まれ故郷に連れてきたことはなかった。
ちょっと込み入った事情のために帰省することができないでいたからだ。それをうまく説明するためには、20歳のときに失ったKの話をしなくてはならない。もちろん彼女のことは愛しているが、僕が自然に人を愛する気持ちを取り戻すことができるようになったのはそれなりのプロセスを踏んだからだ。彼女には、正確にそのプロセスを知ってほしいと思った。それが正確に伝わるかどうかは別として、僕はそれを丁寧に彼女に伝える義務があるように感じた。
「どうして突然2人でここに来たのか、多分それが気になっているんだね?それを話すには少し時間がかかるんだ。たぶん、そのことを話すには、今日はうってつけの日だと思う」

君にこの話をするのは初めてのことだ。というよりも、僕は誰にもこの話をしたことがないんだ。すごく込み入った話だし、冷静にあのときの話をすることができるようになるまで、ずいぶんと長い時間がかかった。
僕は地元の高校を出たあとで地元の大学に進んだ。その頃の僕は、住み慣れた地元から離れることをうまくイメージできなかった。君からすると、ここには何もないかもしれないけれど、その時の僕には、ここにはすべてがあるように見えたんだ。
高校のころから山に登るのが好きだったので、大学にはいるとすぐに山岳部にはいった。Kとはそこで知り合った。汗臭い山岳部の部室の中でKは先輩に部則や活動内容の説明を受けていた。ほっそりとして色白で、まるで女の子のような顔立ちをしていたために僕は部室を間違えたのかと思った。話を聞いてみるとKはそれまで運動らしい運動をしたことはなく、子供の頃から病弱だったらしい。物静かな男で、大勢の人と騒ぐような遊びよりも一人で静かに本を読むことを好むのような性格だった。大人になって、虚弱体質もだいぶ改善されたので体力のつくことをしたいと山岳部の部室を訪ねたのだそうだ。
山岳部にはその年僕を含めて7人の部員が入ったけれど、僕は6番目の部員だったKと1番気が合った。僕は当時から身体も大きかったし、生まれてこのかた病気らしい病気にもかかったこともない。あらゆる面でKとは正反対だったけれど、登山経験があることもあって、自然と僕がKの面倒を見ることになった。必要な装備の買い出しに、装備をザックの中に詰めるパッキングの方法、登山の最中にはよくKに声をかけて元気付けた。Kは見た目とは裏腹に、とても根性のある性格だった。確かに体力は他の部員に比べてあまりなかったけど、弱音も吐かないで黙々と僕たちの歩幅に合わせてついてきていた。山小屋についてから夕日に沈んで行くころ、Kは小さなスケッチブックを取り出して野草や風景のスケッチをしていた。よく削った鉛筆でその場の風景が描き出されているのを後ろでみていると、鉛筆の先端に魔法がかけられているのかと思えた。
県外から来て一人暮らしだったKの部屋をたまに訪ねた。彼の部屋は狭いながらもよく整理されていた。実家にいたころからやっていた料理の腕もたいしたもので、買い出しの帰りなどによく夕飯をよばれにいった。その時に彼の描いた絵を幾つか見せてもらった。野草についても勉強中のようだった。大きな図鑑があって、スケッチをした野草の名前をそれで調べていた。
今にして思えば、それが純粋な才能というものだったのかもしれない。学科こそ絵とは関係ない学部だったけれど、もしも彼がそのまま社会に出ていたらイラストレーターや絵に関する職業に就いていたかもしれない。
体力が続かないで部活を辞めてしまうかもしれないと思っていたけど、Kは精力的に部活に参加していた。夏には北海道や南アルプスを登って経験を積んでいた。

あれは、大学3年になったときのことだ。
就職活動か、進学か、そろそろ進路について決めなくてはならないころ、僕は厳冬期の信州に行くことにした。僕たちの登山部は冬山はほとんど行かなかった。装備も知識も体力もいるし、リスクが高い。4年生の先輩たちに反対されるだろうと考えて、部員の誰にも言わなかった。Kを除いては。
Kにうちあけたことを僕は今でも後悔している。冬山の美しさ、素晴らしさに僕は魅了されていたので、大学生活を終える上での最終的な目標になっていた。しかし、それにKをまきこむべきではなかったのだ。積極的にKを雪山登山に誘ったわけではない。雪山に行く計画をしているとKに打ち明けただけだ。今までの登山経験から自信をつけてきていたKはそれを聞いて、自分も連れて行って欲しいと言った。内心では僕はそれを嬉しく思った。
僕たちは必要な装備を整えて、雪山の知識を本や知人から得て、その日に備えた。

旅立ちの日はこれ以上ないくらいの好天に恵まれた。穏やかで風も吹いておらず、雪に包まれた大地は太陽の光を反射してきらきらと煌めいていた。厚いゴアテックスのウエアを着ていたら陽光に包まれているうちにじっとり汗をかいてきて、僕はジャケットを脱いで軽いスポーツ用の長袖を腕まくりして進んでいた。Kも元気そのもので、ジャケットの前をはだけていた。食料も水もたっぷり3日分はあったし、テントも寝袋も問題ない。アイゼンが柔らかい雪をしっかりと踏みしめていく感覚が足の裏につたわってきて、僕もKも嬉しくなった。信州の山は思い描いていた通りに美しく、いくら歩いていても歩き疲れるということがなかった。その日の夕方につくはずだった山小屋には、その日の昼過ぎにはついてしまうくらいに順調すぎる滑り出しだった。
夏にはたくさんの登山客で賑わう山小屋には僕たち二人しかおらず、誰に気を遣うでもなく寝床を決めることができた。その日の夕食のカレーを作って食べ終えるとさすがに夕方になっていたが、Kは遠くの山々をスケッチしていた。
一心不乱に筆を走らせているKを横目に、僕はラジオを付けて地図を広げた。今の山小屋から3時間ほどで山頂にたどり着く。その後は稜線沿いに別の山を目指す。次の宿泊地までは山頂から5時間ほどのところだ。昼には着いておきたいので、当初の計画通り、朝の4時には起床して朝食をたべて、5時には出発するべきだろう。
日が落ちると、僕たちはそれぞれの寝袋に入った。今日の登山の興奮をお互いに話しているうちに、どちらともなく会話が途切れて、深い眠りに落ちていた。

まだ暗い山小屋の中で食パンにハムとチーズを挟んだサンドイッチに噛り付き、熱いコーヒーで流し込んだ。山小屋の中は凍てついており、チーズのセロファンを剥がすとき以外には厚手のグローブを外すことすらままならなかった。Kはガチガチと歯を鳴らしながらココアを飲むばかりで、サンドイッチに手をつけていない。「ちゃんと食わないと身体が温まらないぞ」と注意すると、「うん、食べるよ」と言ってサンドイッチを口元に持って行った。僕はサンドイッチを食べたあとに固形のチョコスティックを貪るように食べた。とにかく、山では取れる時にたくさんのカロリーをとっておかなくてはならない。食事はエネルギーになるし、冷えた身体を温めてくれる。Kの少食は心配の種だった。ただでさえKの体重は軽く、いざというときに力を発揮できなくなるのではないかと思えた。
山小屋を出ると、強風が吹き荒れていた。風は冷たく、まだ辺りは薄暗い。地面の雪は硬く、力一杯アイゼンを突き立ててようやく安定するが、ともすれば足を滑らせてそのまま滑落してしまいそうだ。仄暗いクレバスの中に吸い込まれるイメージが頭に浮かんで小さく身震いした。ピッケルを強くにぎりしめて、「いくぞ」とKに呼びかけた。「うん、行こうか」とKが応じた。
僕が先頭を歩き、Kが僕のすぐ後ろについた。Kはこの固い雪に苦戦しているようだった。気がつくと僕とKの距離が離れている。Kのヘッドライトが視界の端でゆらゆらと揺れて、振り向くとKは足元の雪にうまくアイゼンの歯が立たないでもたついていた。僕は空を見上げてKが追いつくのを待った。せめてこの風がなくなってくれたらいい。
最初に滑落したのは僕の方だった。氷のようにつるつるとした雪にアイゼンがうまくささらず、右足を踏み外して両手をついた。重たいザックが僕のバランスを崩し、驚くほどのスピードをだしてKの横を滑った。Kの驚いた顔が見えた。Kの手が僕の手をつかもうとしたがそれはかなわない。とっさに手に持ったピッケルを地面に突き立てるとピッケルが氷を削り立てる音と手応えがあってようやく止めることができた。長い間滑ったかと思ったが、Kの2メートルくらい後ろで止まることができたらしい。
心配げにこちらを向いていたKに追いつくと、「君が滑っていったらどうしようかと思ったよ」とKが笑いながら僕の肩を叩いた。
それからしばらくは黙々と斜面を登って行った。山頂までつけばあとはずいぶんと楽になるはずだ。疲労感は初日とは比べものにならなかったが、それも山頂につくまでだとわかっているので、僕もKもただ黙って耐えた。
やはりKが遅れがちであることが気にかかった。地図の確認はこまめに行うこととして、Kを先頭に、しんがりは僕が務めた。
しばらく歩いていると、太陽が姿を現しはじめた。光のない、囚人のような世界に色がついたように思えた。それまで黙々と登っていた僕たちは、足を止めて天を仰ぎ見た。僕とKは久しぶりに見た太陽の光に顔をほころばせた。「やあ、太陽が暖かい」Kの背中を叩くと、「本当に」とKが笑った。
僕もKもだいぶ体力がなくなってきていた。太陽が見えて、風もだいぶ収まってきたので先を急ぎたい気持ちもあったが、休むことにした。Kの疲労はだいぶ膝にきているようで、目に見えて歩く速度が落ちていた。
なるべく斜面がゆるやかな場所を選んで腰を下ろした。
「少し時間があるかな」
とKはスケッチブックを取り出した。「大丈夫だけど、あまり遠くには行かないでくれ」と僕は言った。
Kはザックを下ろして、身軽な格好でスケッチの場所を決めにいった。僕はそれを横目に地図を広げた。

始めにそれに気がついたのはKの姿が見えなくなってすぐのことだった。地図を広げた状態でわずかにきしむ音に気がついた。ぎし、ぎし、という不吉な音がどこからか耳に届いた。はじめはそれをKの足音だと思って気にも留めていなかった。カチカチの凍った雪から、辺りは細かい粒子のような雪に変わっていた。この辺りは早朝に吹雪いていたのかもしれないな。僕はそう考えるだけで特に重要な問題だとは思っていなかった。
何しろ光のない強風の世界から光のある平和な雪山に戻ったのだ。ぴんと張りつめた緊張の糸がゆるんでしまった。生死の境が紙一重だった場面lから一転して、足下は新雪。気温は暖かく、のどかな風景が広がっている。
その姿は一見して危険の潜んでいない牧歌的な風景だった。あたたかな日差しの下にいると、心が安らいでくる。ともすれば眠ってしまいかねなかった。
Kの姿を探すと、急勾配の山肌近くにまで行って何かを眺めている。
そこからの景色がとりわけ美しく、Kを魅了しているのかもしれなかった。Kは茫然と立ち尽くしたまま、スケッチブックを開くことすら忘れている。その間にも光の世界の裏では静かに暴力的な力が流れていた。ぎし、ぎし、という音が僕の耳から離れなかった。
それが一体なんなのか気づくまでにずいぶんと時間がかかっていた。何故これほどまでに時間がかかっていたのか、今でもよくわからない。それは疲労によるものなのか、経験不足によるものなのだろうか。
それが雪崩の兆候だと気がついたのは、ぎし、ぎし、という音が僕たちの頭上から響いていると気がついたからだ。頭上には急勾配の斜面が続いている。雪崩の巣のようなものが、そこにたまった雪をすこしずつ削り取ってより巨大な雪の塊を形成していた。それはそこらへん一帯をすっぽりと覆ってしまうほどに巨大で、膨大な質量をもった雪の移動だということが僕にはわかった。今にもそれは僕たちを暴力的な勢いで飲み込みさらおうとしているのだ。闇に潜んだ巨大な猛獣が獲物を狙って姿勢を低くしているように感じられた。恐怖で足がすくみ、のどがカラカラに乾くのが感じられた。
僕はなんとかしてKにそこから離れるように伝えたかった。Kは雪崩の巣の中心に立っていた。すぐにその場を離れなければ雪崩がKをさらっていってしまうだろう。だが、大きな音を立ててしまえば今にも雪が辺り一帯を襲いかかるだろうと感じた。もしも今雪崩が起きたら、僕もまたKと一緒にそれに巻き込まれてしまうだろう。僕はKの名前を呼んだ。始めは小さく呼ぶ。Kは一度自分の世界に入ると、熱病に浮かされたようにぼんやりとして注意力というものがなくなってしまう。駆け寄ってKの手を引っ張ってやればよかったのだと思う。だが、命の危険を感じ取っていた僕は一刻も早くこの場から離れたいという本能に逆らうことができなかった。徐々に後ずさりを始めながら、声を大きくしていった。
雪の塊を作って、Kの方に投げたりして必死にKの名を呼んだ。そしてついに音はぎし、ぎし、という小さな音から地鳴りのような、どどどどという腹の底に響いてくるような音に変わりはじめた。それでもまだKは気がつかなかった。Kの手を引っ張って力づくでその場から離してやればよかったのだ。僕は今から何が起きるかしっているし、Kはそれを知らないのだから。でも僕はそのとき自分の意志とは反対にKから離れる方向に走り出していた。やわらかな雪の上を転げるように駆けてもう大丈夫だというところまで来て叫んだ。
「あぶないぞ。雪崩だ」
もうすでに雪崩は轟音とともに起きていたので今度こそ大きな声でKに向かって叫ぶことができた。Kが僕の声に気がついてこちらを振り向いたときの顔が今でも忘れられない。何が起こっているかまるでわからないという表情から、それが徐々に恐怖に染まっていくその顔が。わずかにこちらに走り出そうとしたのが見えたが、逃げられるわけがなかった。次の瞬間には轟音と一緒に雪がKを呑み込んだ。地鳴りが烈しく大地を揺らして僕の方にも迫ってきた。僕は姿勢を低くしてしゃがみ込み、頭をかばい、衝撃に備えた。雪が僕の視界一杯に広がって、頭を、腹を、足を烈しく打ち付けた。それでも足をしっかりと踏ん張って谷底に落ちないように耐えた。満員電車で押し合うように雪が四方八方から僕の身体を叩き付けてきた。僕はただ目をきつくつぶり、歯を食いしばって耐えた。
たぶん時間にしたら1分か2分くらいのものだったと思う。全身を強く打つ雪が止まった。頭はまだぼんやりしており、身体は傷かった。雪に埋もれた身体は重く、一ミリも動かないような気がした。意識が遠のくのを感じたが、なんとか意識を保ち、手を伸ばした。右手はかろうじて地面から近いところにあるようだった。右手で身体を持ち上げて、顔を出し、左手を出して全身を持ち上げた。息を切らして雪の中から出てくると身体がまるで自分の身体じゃないかというくらい言うことを聞かない。しばらくその場に倒れ込んで、ただ呼吸を整えていた。
呼吸がだいぶ整うと、Kの恐怖に歪んだ顔が脳裏をよぎった。Kを助けなくては。身体を起こすと、Kの立っていた辺りに顔を向けた。その瞬間に僕は絶望した。Kのいた地点は足跡はおろか、目印ひとつなく、真新しい雪が遥か500メートルくらい先のほうまで続いている。Kはどこにいるのだ。僕はかろうじてその場で踏ん張ることができたが、Kの体力を考えると流されていってしまったに違いない。

すぐに荷物を取り出すために雪を掘り出した。僕の荷物も、Kの荷物もすぐには見つからなかった。Kの携帯電話に電話を入れるが、壊れているのか電波がないのか、つながらなかった。すぐに警察に電話するべきだったのだが、ここでも僕はミスを犯した。天気のいい今のうちならばKを自力でみつけることができるかもしれないと考えたのだ。Kがすぐに見つかれば笑い話として終えることもできる。雪の中に埋もれてしまったKは、発見が遅れれば遅れるほど生存率が落ちていく。僕はこのときすぐにでも警察に電話をして、彼らが到着するまでの間にKの捜索をすればよかった。荷物もKも見つからないままに時間ばかりが空費されていく。僕はKの名前を呼びながらほとんど泣き顔になっていた。
昼すぎになってからやっと思い当たって警察に電話をかけた。そのころには雲行きが怪しくなっており、助けを呼ぶころにはひどい吹雪になっていた。なんとか現在位置を伝えると、再び、雪崩がまた起きるかもしれないので、できるかぎり山荘へ引き返すように指示を受けた。自分の荷物とKの荷物はなんとか掘り起こすことができた。Kの荷物を目印代わりにするため、派手な赤色の防水カバーをかけた上で、なるべく雪が積もらなさそうな高い場所にひもで固定した。元に来た道を引き返しながら、僕は血の気が引いていくのを感じた。もしもKがまだ雪のなかにいるのだとしたら、呼吸ができない深くて暗い雪の底で徐々に身体が冷えて、脳の細胞が活動を停止して、やがてろうそくの炎が吹きさらしの風にもみ消されるようにKの命は途絶えてしまうだろう。そんな中で僕は山荘に引き返してもいいのだろうか。僕は足を止めて、雪崩で崩れた山道を振り返った。僕一人だけが助かっていいのだろうか。
一方で早くこの場所から立ち去りたいという気持ちもあった。僕の身体は疲れて冷えきっており、手足の先は厚いグローブや登山靴の間から容赦なく浸食してくる寒さでかじかんでいた。全身を強く打ったときの傷みが今も続いていた。一歩踏み出すたびに全身の体力がこぼれおちていくようだった。
新雪が登山道を埋めつくしていたために朝とは比較にならないくらいに歩きやすかった。山小屋に着くと、ザックをおろして隅の方に腰掛けた。警察に、無事山小屋に着いたことを報告すると、全身の力が、穴の開いたタイヤのように一気に抜き出てしまった。山小屋の隅に身体を押し付けながら、膝を抱えた状態でまったく身動きがとれなくなってしまった。意識ははっきりしていた。それどころか、興奮状態にあったために普段よりも意識が研ぎすまされていたくらいだ。ごうごうと雪が山小屋の屋根を叩き付ける音や、汗で濡れた髪から落ちる雫を肌に感じることができた。意識は完全に覚醒しているのに、僕の身体は鉄でできたみたいに重くて、関節は錆びついてしまったようだった。自分で思っている以上に消耗していて、うまくコントロールすることができていないのだ。
あるいは、そのときに起こったことは信じてもらえないかもしれない。信じてもらえなくても仕方のないことだろうと思う。僕自身がそのことについてうまく説明できないし、納得することができない。でもそれは幻でも錯覚でもない。嘘偽りなく実際にそのとき起こったことだ。僕はそのとき警察に電話をかけた直後だったので、右手に携帯電話をもって、膝をかかえるようにして座っていた。
外は烈しい風が雪を伴って山小屋の壁を打ちつづけていた。それはとても大きな音で、しかも絶え間なく続いていた。他に何もすることがなかったので、僕はその音をずっと聞き続けていた。すると、風の音に混じって他の音が聞こえてくるのがわかった。ぎし、ぎし、という雪がきしむ音だ。僕は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
あのときKを呑み込んだ雪の塊が動く音が耳の中で反響して、徐々にこちらに向かって来るのを感じた。あれから何百メートルも歩いているし、Kを呑み込んだ雪がこんなところにまで迫ってきているはずはない。頭でそう言い聞かせてみるが、今すぐにでも走って逃げたい衝動にかられた。立ち上がって、力の限りに走って一人で何も持たずに登山口まで引き返したいという欲求が僕の中でどんどん大きくなって、その考えが風船のように頭の中に広がって隙間なく埋め尽くしてしまった。僕はその場から逃げること以外なにも考えられなくなっていた。でも僕の気持ちとは裏腹に、身体は指ひとつ動かすことができなかった。膝を抱えた状態のまま、手には薄い黒の折りたたみ式携帯を握ってうつむくだけだった。ひどく寒いはずなのに僕は額に汗がたまっていることに気がついた。
ぎしぎしという音は徐々に大きくなってきていた。あの雪崩の前と同じように、不吉な雪の塊が徐々に大きく凶暴な力に変わっていく音が僕を焦らせた。
突然、携帯が手のひらの中で振動し始めて、僕の心臓は痛いくらいに鼓動を速めた。あわてて液晶を見てみると、そこにはKの名前が映し出されていて、僕は烈しいめまいと恐怖を感じた。汗はさっきよりもさらにひどくなり、全身の毛穴から吹き出しているかのようだった。バイブレーションはずっと続いていた。のどがからからに乾く。身体は今も動かない。電話に出たら、いったいどうなるのだろう。僕は直感的にこの電話にでてしまったら、この黒いソリッドな携帯電話の向こう側にある何かとつながってしまうと確信していた。そして、それは本来隔絶されているべきものなのだ。僕たちの世界とは距離をとって、つながってはいけないものなのだ。僕は右手に持った携帯電話が沈黙するのをただただ祈るような気持ちで待った。
実際にはたいして時間はたっていなかったのだと思う。だけど、それはそのときの僕にとってはほとんど永遠に続いていたかのように長い長い時間だった。やがて、鳴りはじめたときと同様に、突然携帯電話は振動をやめた。静寂のなかで僕は生唾を飲み込み、深く息を吐いた。すると、今度は山小屋の壁を力に任せて拳で打ち付けるような音が聞こえた。何度も、何度も打ち付ける音が連続して聞こえた。明らかに風が壁にぶつかるような音ではない。そこには何か作為的なものがあったし、さらに言えばむきだしの悪意が壁にぶつかっているように感じた。Kが壁を叩いているのだ。その想像は僕を暗い気持ちにさせた。目をかたくつぶり、身体をこわばらせた。何があっても絶対に動かないと決めた。壁を何かが強く叩き続けている間、僕は指先ひとつ動かさなかった。ただ、かたくまぶたを閉じて、携帯電話を握りしめていた。

そこで僕は気を失ってしまった。警察の人が声をかけてくれたとき、僕の身体は体温が下がっていて危険な状態にあったらしい。意識が朦朧としていてそのときのことは覚えていない。気がついたら病院のベッドの上にいて、脇には母親が座っていた。頭がぼんやりとしていて、身体が熱かった。Kのことも雪山のことも覚えていなかった。もう二日も眠り続けていたんだと母親から聞いた時、ああ、そう。とだけ答えて、また眠りについた。とにかく眠たかったのを覚えている。
高熱がしばらく引かないで眠り続ける日々が続いた。栄養は点滴から取っていたが、若かったのでそれでは間に合わない。なんとか流動食のようなものを口に入れるが、すぐに戻してしまった。そのころの僕はひどい状態で、生きているのか死んでいるのか自分でも判然としなかった。身体はだるく、頭は常時頭痛に悩まされていた。起きている時間よりも眠っている時間のほうが多く、起きていてもぼんやりとしてうまく会話することもままならなかった。高熱はいつまでたっても引かず、食べ物もすぐに戻してしまうのでみるみる衰弱していった。このまま意識が失われて永遠に目覚めないのではないかと僕の両親は本気で心配していた。確かにそのときの僕の状況はそうなってもおかしくないくらいに深刻なものだった。しかし肉体的にはその危険な状態は2週間ほどで回復し、3週間目には日常生活に戻ることができた。普通の食事をとり、学校にも戻ることができた。でも、なにもかも元通りという訳には行かなかった。
地元の警察が大規模な山狩りを何度も行ったにもかかわらず、Kは見つからなかった。僕が保護されてから、直後に捜索を行ったが、そのときにはKのザックすら見つけることができなかった。天候が回復した3日後にまた再度捜索が開始された。その時点ではもうKの救出ではなく遺体の捜索をメインに考えたものだった。そのときにはようやくKのザックを見つけることができたものの、肝心のKの遺体は発見できなかった。年が明けて春が来た頃、雪解けを待って、また捜索が行われたがそれでも見つけることができずに捜索は打ち切られた。Kの行方がわからなくなったあたりは切り立っており、傾斜も大きい。大きな雪崩であったので、何百メートルも雪に運ばれたのちに森の奥深くに行ってしまい、そこで動物や虫のえさになってしまったのかもしれない。葬儀はとうとう行われず、Kの両親は取り乱して半狂乱になってしまった。直接会った日はとりたてて異常だとは思わなかったが、Kの両親はそれからこの街に何度もきて登山道の近くを徘徊していたらしい。偶然彼らを目撃した登山部員の何人かが僕に報告した。ほとんどコミニュケーションをとることができなかったそうだ。目が合ってこちらが軽く会釈をしても目もくれない、何かぶつぶつとつぶやきながら登山道を徘徊していた。Kの両親がこのような状況にあったにもかからわず、僕は彼らから責められるような言葉をかけられたことはなかった。僕の両親も努めて僕のいる前ではKのことを話題に出すこともしなかった。それが逆につらく、僕を追い込んでいった。僕にはわかっていた。そうしようと思えば雪崩が起きる前にKの腕を引いてその場から離れることができた。タイミング的にはギリギリだったかもしれないけれど、何度も記憶をたどってみても僕が気がついてから実際に雪崩が起きるまでの間にそのくらいの時間があった。でも僕は圧倒的な恐怖心に負けてKを見捨てて一人で逃げてしまった。
誰からも責められることはなかったが、それが逆に僕を追いつめた。誰にも会いたくなくて部屋から一歩も外へ出なくなった。大学にもいかなくなり、部活はもちろん、買い物にさえ出ない日が続いた。その頃の僕は部屋の隅で横になり、じっと天井を眺めて過ごしていた。そんな時に思い出すのはKのことだった。雪崩の直前のKの顔が頭から離れない。山小屋で遭遇したあの奇妙な体験のことを思い出して、発作的な恐怖から布団をかぶって一晩中震えていたこともあった。夜眠ると、あの日の山小屋の中にいて、猛吹雪の中でうずくまっている夢を見る。壁を烈しく叩く音に堪え兼ねて、僕は大声でわけのわからないことをいって暴れまわる。夢の中の僕は完全に精神が犯されていた。そして、猛然とドアから外へ飛び出していくのだ。そのとたんに何かに烈しく右の手首を掴まれてゆきの中に引きずりこまれる。手を掴むのは何者かと見ると、吐く息が頬にあたりそうなほど近くにKの顔があった。その顔は朽ち果て、虫に喰い散らかされ、蛆が暗い落窪んだ眼窩からこぼれ落ちている。僕は声にならない叫び声を上げて雪の中にひきずりこまれる。
その夢を見た晩はびっしょりと汗をかいて、声にならない叫び声を上げながら夜中に飛び起きる。

その年の秋に僕は大学をやめて県外に出たいと両親に打ち明けた。大学へ行けばどうしてもKのことを思い出してしまう。僕は体重が何キロも落ちており、慢性的な寝不足のために肌は荒れ、顔色もずっと優れなかった。このまま大学に在籍し、この町に留まっていたら身体がもたない。僕の両親は僕が見違えるほど弱り切っていたのをよく理解してくれていたのですぐに手続きを進めてくれた。名古屋に親戚の経営するソフトウェア会社があり、そこでプログラマとして働くことになった。数週間の研修があってすぐに仕事に組み込まれた。生来静かに一人で作業するのが苦でなく、また数学も得意だったのでプログラミングは性に合っていたようだ。始めはたいした仕事も与えられなかったが、少しでも早く仕事に馴染めるように家に帰ってからも勉強をしていた。次第に任される仕事が重要なものになっていくにつれて忙殺されるようになったが、それはむしろKのことを考える時間がなくなり、僕にとっては願ってもないことだった。目の前の仕事を集中してこなすことで僕はそれ以外のことについて何も考えなかった。
Kのことを忘れるためには常に頭の中を何か他のことで埋め尽くさなければならないと考えていた。おかげで仕事は順調そのもので、残業もまったく苦にならなかったので金銭的にも余裕があった。社長との縁故採用だったのではじめは色眼鏡でみられていた。大学中退の理由もいろいろと詮索されていたに違いない。でも、いっしょうけんめいに働いているうちにまわりも僕の努力が認められて、一目置かれるようになった。プライベートではなるべく家に帰りたくないので夜の街をはしごしてまわった。同期入社の友人や先輩に連れられて最終電車がなくなるまで飲んでいることも多かった。一人で眠るのが怖くてその時期は特定の彼女をもたずにいろいろな女性を抱いた。頭がとろけるまでセックスに没頭することで眠る前にはまるで意識を失うように眠り、朝まで目覚めなかった。うまく立ち回っていたので放埒な女性関係は仕事には影響することもなく両立することができていた。
その間20年間、僕は故郷に戻ることなく、ましてや山に入ることは絶対にしなかった。何度かスノーボードやスキーに誘われても、僕は絶対に誘い乗ることはなかった。あれだけ好きだった登山も、夏山にさえ入ることができなかった。なんとなく気分が乗らないというだけでなく、山の近くに行くと息苦しく、脂汗がどっと吹き出すのだった。一度など、仕事の都合で山道を車で走っていたときにパニックになってしまい、何度も崖からタイヤを脱輪しそうになりながら路肩に停めて発作のような症状を抑えるまでハンドルをきつく握りしめていたことさえある。幸か不幸か、そのときに同乗者はいなかったためにそれが他人に知られることはなかったし、発作もすぐに収まったので出張先に迷惑をかけることもなかった。その日から車で山道を走ることさえも自重するようになった。山に入ると、あの暴力的に山小屋を叩く音が頭の中に響くように聞こえるのだ。Kが迎えに、すぐそばまできて執拗にドアをノックしているイメージが僕の意識を掴んで離さなかった。
僕が実家を再び訪れたのは去年の夏だ。
父が癌で亡くなって、兄が財産分与のために生家を売却したとき、物置を整理していたら僕の大学時代の持ち物がまとめて段ボール箱に詰めてあったのがみつかり、それがまとめて僕の家に届けられた。大部分はがらくただったが、その中にKが私に描いてくれた絵が一束あった。おそらく両親が僕のためにその絵を記念品としてとっておいてくれたのだと思う。僕はそれを見て恐怖のあまり息が詰まりそうになった。絵の中からKの魂が目の前に蘇ってきそうな気がした。すぐに処分してしまうつもりで、僕はそれをもう一度元のように薄紙で包みなおして段ボールのなかにしまいなおした。しかし、どうしても処分してしまうことができずに、さんざん迷ったあげく、数日後、意を決して薄紙をふたたびはがして、Kの描いた絵を手にとってみることにした。
絵は全部で十枚程度だった。スケッチブックからはがしたラフ画や、メモ帳の端っこに走り書きしたもの、大きな画用紙一杯に描かれた水彩画。そのすべてが静物画であり、風景や植物の絵だった。色とりどりの花畑を鮮やかに描いたものがあり、鉛筆一本で濃淡が繊細に描かれたものがあった。すべてKらしい丁寧で正確なタッチだった。草木の一本一本に至るまで手を抜かずに描かれており、みずみずしい生命力にあふれている。光はいつもやさしく、その場所を包み込んでいた。それは僕の記憶にあったKの絵よりもずっと巧く、芸術的にも優れたものだった。時折僕はKが絵を描いている時、彼に絵をくれないかとねだった。だから、僕はその絵の一枚一枚に見覚えがあるだけでなく、絵に描かれた風景や植物にもまた見覚えがあった。
絵を眺めていると、Kと交わした会話や、行った場所、楽しかった思い出が次々と思い出された。それは少し不思議な感じがするのだけど、Kのまなざしであると同時に僕のまなざしでもあったのだ。
それから僕は毎日会社から帰ると、Kの描いた絵を一枚一枚手にとって眺めた。デスクチェアの背もたれにゆったりもたれながら、何の音楽も聞かずにぼんやりとKの絵をただただ見つめていた。あの日に損なわれたしまったなにかが、僕のなかでゆっくりと時間かけてもどっていくような、不思議な充足感に満ちた体験だった。
そしてあるとき、一週間ほどたったころ、僕はとんでもない思い違いをしていたのではないかと気がついた。Kが雪にさらわれて、山小屋まで現れたというのは僕の錯覚で、人の気配もノックの音も夢の中の出来事ではなかったのだろうか。Kからの着信だってKの携帯が壊れていたのかもしれない。Kの描いた絵を子細に眺めていると、その絵の中に暗い憎悪は影もかたちもなく、汚れのない穏やかな魂しかみいだせなかった。
僕はそれから長い間ずっと座り込んでいた。腰を上げることもできなかった。日が暮れて、夕暮れの淡い闇がゆっくりと部屋を包んでいった。やがて深い沈黙の夜がやってきた。夜が果てしなく続き、闇の分銅が耐えかねるほどの重さに積まれたころ、ようやく夜明けがやってきた。新しい太陽が空に淡い紅を染め、鳥たちが目を覚まして啼き始めた。
生まれ育ったあの街に戻らなくてはならないと思った。それも今すぐに。
スーツケースの中に手当たり次第に荷物を押し込んで、会社に急用ができたと連絡をいれて休みを取ると、始発に乗ってこの街に帰ってきた。駅でレンタカーを借りると、すぐにKと登った山に向かって車を飛ばした。不思議な高揚感に包まれていて、運転中眠いとは思わなかった。昨晩は一睡もしていないにもかかわらず、電車の中でも眠気を感じなかった。登山口に着いたときに僕の心は大学時代に戻っていた。Kとこの登山口から山を見あげたのが昨日のことのように思い出された。季節は夏の終わりで、雪もない、何の変哲もない道なのに、不思議とその場所が僕の気持ちを穏やかにした。
その日は普通のスニーカを履いていたけれど、少し登ってみようと思った。何も持たず、身軽な格好で登山口から登り始めた。秋風が肌に心地よく、天気は厚い雲が立ちこめていて薄暗く、快晴とは言いがたかったが、とりあえず雨は降っていなかった。涼しいとはいえ登り始めると少しずつ汗ばんでくるので、柔らかいネルシャツの袖をまくって、額の汗をぬぐった。
Kと一緒に登ったこの道は、以前と同じように美しく、緑が風にそよいで気持ちがよかった。あれほど恐ろしかった森が、山が、今では大学時代と同じように心地よく感じられた。僕は黙々と無心で山道を登り続けた。木々のざわめきが、自分のスニーカーが土を踏みしめる音が聞こえてきた。軽く息が上がってきていたので、自分の息づかいが、鼓動が聞こえてきた。
しばらく歩いていると、木々がなくなり、岩肌が露出したごつごつとした道になった。もうじき見えるかと思った頃、あの山小屋が見えてきた。僕はすこしだけ迷ったけれど、結局中に入ってみることにした。中は日差しが入り込んでいて思ったよりも明るい。風通しが良くて、涼しい。僕はスニーカーを脱いで、山小屋の中に入り、そこに座って目を軽く閉じた。それまで山道を歩いていたので鼓動の音を感じることができた。風が吹くと、僕の髪はわずかになびいた。少しだけ汗をかいていて、それが乾いていくのが気持ちよかった。高揚感はしばらく続いていたが、やがて荒い息づかいとともに徐々に落ち着いていった。脈拍も早鐘のよう打ち続いていたのが、少しずつ緩やかになっていった。
どれだけの時間その場所にいたのか、良く覚えていない。ふと気づいたとき、僕の中の深い暗闇は完全になくなくなっていた。それはやってきたときと同じように唐突に、どこかに消え失せてしまったのだ。
僕はゆっくりと立ち上がって、スニーカーを履くと、山小屋の前で稜線を見あげた。風が優しく頬を撫でていった。秋のさわやかな風が穢れをすべて洗い流してくれるような気がした。それは赦しであり、和解であった。かつて恐怖のために気を失ったこの場所にいたが、僕の心の中には恐怖はもはやひとかけらも残っていなかった。それは過ぎ去ったものであり、もう恐れる必要などはないのだ。

「それ以来、Kの夢を見ることはなくなった。悲鳴を上げて夜中に起きることもない。僕は改めてこれから人生をやり直そうと思うんだ。ここに至るまでずいぶんと長い時間がかかった。ここに至までに僕はたくさんのまわり道をしてきた。口に出して言うこともはばかられるようなこともした。いろいろな人を貶めたり、傷つけたりもしたのだと思う。僕が純粋な恐怖から逃げるのに必死だったからまわりを見る余裕なんてなかった。でも、そのことについて僕は言い訳をするつもりはない。罰があるなら甘んじて受けようと思っている。でも、暗闇のなかで自分の影におびえるような今までの生活よりもきっとずっとましだと思う。今僕はとても満ち足りた気分でいるんだ。確かに僕は長いあいだ暗闇の中を生きてきた。でも、それはもう過ぎ去ったことだ。これからどれだけの時間が僕に残されているかはわからない。でも、もしかしたらずっと暗闇の中を生きなければいけない未来も十分にありえた」
僕はしばらくの間、黙って彼女のことを見つめた。彼女は一言もしゃべろうとせず、身動きもしなかった。まばたきすらしていなかった。外は物音ひとつしなかった。駅前のロータリーには車の姿はなく、雪も今では降っていなかった。
その夜、ホテルのダブルベッドの中で抱き合った。どちらからともなく唇を重ねて、ゆっくりと時間をかけてセックスをした。お互いに、生まれたばかりの柔らかくて壊れやすい生き物に触れるかのように優しく、ていねいに身体を重ねた。
ことが終わってからも、服を着ないでお互いに裸で抱き合って横になった。しばらくお互いに何も話さないでいた。夜が更けてから、胸の中に裸の彼女を感じながらつぶやいた。
「僕はずっと恐れていた。それは混じりけのない恐怖そのものだった。でも今になって思うと、真実怖いのは恐怖そのものではないと気がついたよ」彼女が眠っているのか、起きているのか判然としなかったが、僕は続けた。「恐怖は確かにそこにあって、僕たちの足をすくませる。圧倒的な引力で僕たちを翻弄して混乱と破壊の世界に導いていく。でも、何よりも怖いのはそうした恐怖に背中を向けて目を閉じてしまうことだ。そうすることによって自分の中にある一番大事なものを何かに譲り渡してしまうんだ」
僕は彼女の肩を軽く抱いて、つむじの辺りに唇をつけた。そして、今度こそ深い眠りの中に落ちていった。

6番目の男

本作は習作です。
村上春樹の短編「七番目の男」のプロットを使っています。

6番目の男

15年ぶりに故郷に帰ってきた男は雪の降る夜に失った親友について語る。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-03

Copyrighted
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