ただれ

ただれ

深海の様に重く冷たい圧力が、私の頭髪一本一本から爪の先まで満遍なく掛かる。この小さなアパートの一室は静かで広大な田舎の緑にのまれて、恐らく孤独に暮れて居るであろう。又私自身もその様である。この儘柔らかいだけの氷にも似た布団にくるまれて、静寂を連れて永遠の眠りに就くことができるなら、何れ程夜明けが楽しみだろう。誰の目にも触れる事なく、暖かい黄金色の朝陽に包まれ、朝霧の粒を身に纏った姿でひとり、私自身のためだけに永久に生きたい。自分の背負った罪悪などこれっぽっちも気にしなくて良い。身体という容れ物から抜け出して、どろどろに溶け腐敗した脳味噌を置き去りにして、汚い私という物体は捨てよう。きっと虫や鳥がそれを得体の知れない腹の中に仕舞って、自由な旅をしてくれるだろう。
瞼を介して見える強いひりひりとした光と共に国歌が流れる。点きっ放しのテレビが何かのスポーツの試合を延々と流し始めた様だ。スピーカーの向こうからは誰かより秀でようと必死にあがく人間の声がする。皮肉の言葉を発する事も瞼を開ける事も億劫だ。左手を布団からほんの少し出して、周辺にリモコンが落ちて無いか探す。逸れらしいもの見つけ、今度は数あるゴム質の突起から電源ボタンを探す。恐らくこれだろうと適当なものを中指で恐る恐る押すと、狂った様に大音量で砂嵐の画面が現れた。大きな音に吃驚し飛び起きた。音のする方に目を向け、机の上の眼鏡を拾い上げて耳と鼻に掛けると、音の主は無機質ながら意思を持った表情で、猛獣をも震え上がらせるほどの邪悪な唸り声を上げていた。命を持たない尸が急に目を開け大きく息を吐いたようだ。薄気味悪さに駆られ私は直ぐにリモコンを手に取り電源を落とした。しんと、何もかもが息を已めた空間に独り取り残された。死骸だらけの空間に私唯独りの心臓の鼓動と血脈の轟々と流れ行く音が響き渡る。掌に滲んだ汗水を袖口で拭って溜息を一つ吐いてからまたもとの通り冷たい布団に背を預けた。
再び目に蓋をするように無理矢理瞼を閉じると、美しく哀しい女性の姿が見えた。清楚に結わえた絹糸の様なやわらかい黒真珠色の髪を揺らしながら目の前を歩いている。
「駄目なら駄目と、はやく言ってください。」
彼女は曇らせた瞳を私に向けて震える声を抑えながらそう言った。返事をしようとすると喉の奥が乾燥して上手く言葉を発する事が出来ず、ああと情け無い声が出た。咳払いをして、その、と言ったぎり何を伝えるべきか悩んだ挙句、何も言い出せなかった。それでも目の前で私の返事を待つ彼女に、私は自分の情けなさに怯えながら言った。
「もう少しだけ、時間を下さい」と。

ただれ

ただれ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-02

Copyrighted
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