マクロ喫茶・ミクロ録
メル・セブンティーン(1)
「なんだろう、吹き替えのディズニー映画を見てる時だわ、日本語の無力さっつーものを感じるのは」
「……ほう。」
「いいよ、無理やり相槌うたなくても」
「……うん……。」
「いいから、もう」
どいつもこいつも話が通じてんだか通じてないんだかわからない。外国語とかそういうんじゃなく同じ言語を使っているのに言葉が通じない人の存在というのは、大人たちの会話だったり小説の中でだったりで間接的に知るばかりだったが、私もこうして高校生になり、世の中の何たるかをちょっぴりわかってきた年頃になって、そういう相手とちょくちょく邂逅するようになった。
カウンターにつっぷしたら手の甲が濡れて、グラスが少し傾く感覚がある。
「もう、ほら、こぼれちゃうから、ね。」
カウンターの向こう側から声がするので顔を少し上げると、ツルッツルのなまっちろい腕によってアイスティーのグラスがひょいと救出されていくのが見えた。
オジサンオバサンに言わしめれば青春だねぇの一言ですまされてしまうことでも、今の私にとっては重大なことで、みんなあの時期は色々大変なのよあなただけじゃないのよなどと言われても、痛むのはあなたがたオジサンオバサンではなく紛れもない私自身の心と身体なので、と言いたい。自己中だと言われようが、それが事実なのだからしょうがない。分かち合うことで軽減する類の痛みもあれば、一方で、ひとたび口にしてしまうことでよりズブズブと孤独の底なし沼にはまってしまう痛みもある、あると思う。
「あの〜……まず一つ申し上げたいのは僕はまだオジサンではないということ〜……」
「うぜぇんだよ」
「メルちゃんも今にわかるよ。僕が君のことわかってあげられないように、メルちゃんも僕らがいかに君たちティーンエイジャーのことを考えてるかっていうのもわからない。」
「アイスティー返せ」
カウンターにふせりながらこの男を睨んでいたが、そろそろ限界だろう。目の上のあたりがなんか痛いから多分白目ひんむいてるに違いない。
「お待ちどおさま。」
私の話を聞いている間に、奴は新しく作りかえたアイスティーを用意してくれていたようだ。グラスの周りの水滴もきれいに拭き取られていた。そういう気遣いが
「むかつく」
「おーこわ。」
「どうせもうちょっといるんでしょ、でも夕飯までには帰んなね。」
「氷でかすぎ大きすぎバーカ!」
「ハイハイ。」
猛烈にガムシロと牛乳をかき混ぜる私を横目に、注文を聞きにカウンターから出て行った。そう、彼はこの喫茶店の店長兼ウエイターだ。
元はといえばここは、この住宅街にずぅっと前からあった小さな和菓子屋さんだった。店主のおじいさんが亡くなってしまい、奥さんも店主が亡くなる七年前にすでに他界、夫婦の一人息子も家を出て会社員をやっている。もちもち感だけでなくふわっとした食感もが特徴のお餅で作ったみたらし団子に、甘いけれどもくどくないこしあんと舌先に少し酸味を感じるいちごとが絶妙はバランスで共存しているいちご大福。夫婦の古くからの知り合いだとかいうせんべい屋さんのおかきも置いてあって、お菓子を買ってくれた人にちょこっとおまけしてくれる。お菓子はおいしくてささやかな気遣いもあたたかくて、街中の老若男女から愛されていたお店だった。でも継ぐ人がいないのならば仕方ない、このまま店じまいか。そう皆が思っていた矢先に現れたのがこの男だった。
和菓子屋さんだったころの店の面影もうまく残しつつ、カフェへと作り変えた。和洋折衷、どこか大正・昭和初期時代のレトロモダンな雰囲気のする内装の喫茶店へと改装したのだ。ちなみにこの喫茶店のメニューには、みたらし団子もいちご大福もあるし(テイクアウトもOK)、例のおかきも引き続きレジ横で販売して、おまけも忘れない。この喫茶店の店主とおじいさんとの間につながりはあるのか。あるならばそれはどういったつながりか。彼はどこから来たのか。年齢はいくつか、今まで何をやってきたのか。もう何もかもがさっぱりわからないのだが、気がつけば、この喫茶店は住宅街に馴染んでいき、ご近所さんがたのご愛顧を受けるようになっていった。そして私もそのお客の一人というわけだ。
そんな私はといえば、家から徒歩15分の高校に通っている。この街からだいぶ離れたところにある名門私立の中高一貫の女子校に通っていたのだが、まぁ、訳あって
中学三年間で辞めて、別の高校に入ることにした。
そりゃあ苦労して入った難関のお嬢様学校だ。14歳、中学2年の頃だ、転校したいと申し出ると、両親は当然のことながらモーレツに反対した。この時の私と両親との血で血を洗うような闘いは端折らせてもらうことにして、とにかく、私の鋼鉄の意志に負けてポッキリ折れた両親は、せめて自宅から近い高校かつ女子高で、という妥協案を出してきた。本当は電車で20分くらいかかるところにある共学高がよかったのだけど、転校して今の環境から解放されることが最優先事項であったので、私は仕方なくその妥協案をのんだ。結果、そう悪くはない学生生活を送ることができているし、こうして女子高までの通学路にあるこの喫茶店とも出会うことができたのだから、花マルとはいかなくとも評価は△または○といったところか。
もうすこし奴と話したかったけど何やら忙しそうだったので、お気に入りのマイメロディのメモ帳を一枚ちぎってメッセージをささっと書いた。その上にお代を乗っけて店を出てみれば、17:48。
そろそろ帰らなければ。
ノコ・シックスティーン(1)
「すみません」
「あ、ハーイ」
カウンターで読んでいた文庫本にスピンを挟み、注文伝票帳を片手に店内を見回す。奥のボックス席から指先が少し突き出ているのが見えた。
「あれ、ノコちゃん、友達は帰ったの?」
「そうなんです。さすがにもう、この時間じゃ」
腕時計に目をやると、20時を少し過ぎていた。少し待っててね、とノコに声をかけると、テーブルいっぱいに広がる空のグラスや食器をお盆に載せて下げ、ふきんで一度テーブルを綺麗にふいた。
「じゃあ、今日もご両親は?」
「はい、帰りが遅くなるっていうんで、ここでお夕飯、頂こうかなって。あ、注文いいですか?」
ええと、ミックスピザLサイズとグレープフルーツジュースで、とノコははにかむ。少しふくよかな顔がほんのりと赤らんだ。その様子を見た店主は思わず口許を緩めた。
「はいよ。飲み物は後で?」
「いえ、食べ物と一緒でお願いします」
「かしこまりました。サラダ、サービスするよ」
では少々お待ちください、と言い残してカウンターへ引っ込む店主を見つめながら、ノコは更に顔を赤らめた。ノコはダイエットをしているのだが、気が緩んでついつい、脂っこいものばかり食べてしまう。またこの喫茶店のミックスピザというのが絶品で、なんてことはない、サラミとピーマンと玉ねぎに彩られたオールドファッションなピザであるにも関わらず、使っているチーズに何か秘密があるのか、熱々はなおのこと、冷めてもそのジューシーな美味しさは失われることがない。店主が美男であることも手伝って、ノコもはじめは女子高生らしく通常の一人前を注文していたのだが、食いしん坊の悲しき性か、花より団子、いや、華の女子高生を気取るよりも目の前のミックスピザ、Lサイズを頼まなくては満足しなくなってしまっていた。
このままじゃ、ただでさえ肥満体型だっていうのに…。年頃の女の子らしく、ノコは静かにため息をついた。
さて、店主がピザを窯の中に入れたころ、ノコは赤いルーズリーフファイルに手を伸ばし、辺りを見回した。この時間の喫茶店は基本的に空いていることが多い。いるとすれば会社帰りのサラリーマンかOLか、それもお一人さまか多くてせいぜい2、3人グループといったところで、客と客は適度な距離感でもって各自席についているのが常だ。今の時間は、出入口近くにサラリーマンらしき人が1人、アイスコーヒーとサンドイッチをお供に、ノートパソコンで黙々と作業をするばかり。ノコは店の一番奥、お手洗いの入り口近くにいて彼とは遠く離れているし、しかも4人がけのボックス席に1人で座っているのだというのに再三、前後左右を確認してこっそりゆっくりと、赤いルーズリーフファイルの付箋のしてあるページを開いた。
「ンフッ」
ノコの口から、だらしない笑い声が漏れる。
それもそのはず、ファイルのそのページには、彼女が愛してやまないアニメ「静謐のカスパニア」に登場する、長髪の見目麗しい男性キャラクターが全面に描かれていたのだから。何やら凝ったデザインの軍服を身にまとい、剣を今にも引き抜こうとする瞬間を見事に描ききっているイラストは、絵の上手い友人に頼んで描いてもらったものだ。昨晩その友人から「イラスト描けたから明日の静カス会の時に渡すね(^O^)」とメールが届いたのだが、イラストを拝めるということへの嬉しさのあまり携帯を握りしめたまま床を何回転かしてしまったノコである。
ルーズリーフの下部には、完璧に模写されたアニメタイトルのロゴと、キャラクター名、ガルーダ・フォン・カスパニアも描きこまれている。
「(ガルにゃん……、かっこかわいい……)」
心の中でそうつぶやきながら、ノコはタイトルロゴとキャラクター名を指でそっとなぞる。
「(けど、これ以上見続けたら心臓に悪い!バチが当たる!ひとまずこのページは閉じることにして、今日の会話内容をまとめて直しておきますか。)」
スクールバッグの中の束からルーズリーフを2、3枚取り出すと、「ガルにゃん」イラストのあるページを一枚めくった次、上の欄外から下の欄外まで文字びっしりのページをファイルからぱちんぱちんと取り出し、その内容を先ほど取り出した新しい紙にまとめはじめた。それが、静カス会の中でのノコの役割であり、ノコにとっての至福のひと時でもあった。好きなアニメや漫画について、気の合う友人たちと心ゆくまで語り合い、それを簡単にメモする。皆と別れてから改めてメモを見返し、会話内容を脳内で反芻させながら、『ガルにゃんの苦手なものは、ファンブックにはイカと書いてあるが、ガルにゃんショタ時代にガルパパと荒廃の灰海で巨大イカに襲われたトラウマエピソードがあるかもww』『リイナは絶対に原作者入ってる。自分のことあんな美少女に描くとか終わってる』『ギャスパーの声、イノジュンはいいけどなんでいつもより声が低めなの?ギャスパーが老け声なのは〜(泣)』等々、綺麗に書き直し、次の集まりの際に皆に見せてまた盛り上がる。「(一生こうやって過ごせたらいいのにな〜。)」頬を緩ませながら、幸せの余韻に浸るのだった。
「お勉強?」
集中して書き写し作業に没頭している間に、あの美男の店主が焼きあがったピザを片手にノコに声をかけてきた。
「あああっ、うぇ、あ、お勉強ですねお勉強、ハイ。ええ。」
ノコはこういう不意打ちに弱い。これはノコに限らず、静カス会参加者も皆そうだし、オタクと呼ばれる人種の多くは不意打ちに弱い。静カス会を毎回この喫茶店で行い、盛り上がってしまう時は大声で騒いでしまうこともあるのにも関わらずそれをただただ優しく見守っていてくれるこの店主は、自分が今どんな内容の物事を紙に書き記しているかなど気にも留めていない、それどころかじっくり見てもいないだろうことは重々わかってはいる、わかってはいるのだがそれでもノコはつい反射的に、ルーズリーフをスクールバッグの中にしまいこんでしまう。オタクには、一人でも大胆な行動を取れる人とそうでない人とがいる。ノコは後者であった。
「はい、ミックスピザとサラダです。グレープフルーツジュースも」
店主は、そんなノコの様子を見てもニコニコと笑ったまま動じない。自分の挙動の不審さを、親切心からか、笑いにしようとあえていじってくる人もいるが、咄嗟のリアクションというのを取るのが苦手なノコにとってそれはありがた迷惑で、こうしてここの店主のように黙っていてくれるのが一番助かる。
「ありがとうございます」
「はい、ではごゆっくり。」
軽く一礼して店主が下がってゆく。奥へ引っ込む店主を見つめながら、こうしてしょっちゅうこの喫茶店には来るけれど、彼のことを何も知らないな、とぼんやり思う。年齢も、家族構成も、この喫茶店ができる前にあった和菓子屋さんとの関係も、そもそもこの街との縁も、何もかも。イケメンだし彼女はいるのか。指輪は見当たらないので結婚はしていないかも。
既にある程度切りこみがなされているピザのいちピースをゆっくりと切り離すうちは、店主を思い少し真面目にモヤモヤしていたものの、一口ピザにかぶりつき、口の周りに伸びたチーズをペタペタ貼り付けながら舌鼓をうっているとそんなことがどうでもよくなってきた。
「(あ〜神様、このピザがメニューから永遠に消えませんように!この喫茶店が潰れませんように!)」
誰にも見られないことをいいことに鼻息荒く、だらしない笑みを口もとにたたえながらピザをほおばるノコは、自分が、自分こそがこの喫茶店を支えるんだ!ミックスピザ存続のために!と、心のうちで右の拳を高く天に掲げるのであった。
マクロ喫茶・ミクロ録