鐘が鳴る
教会・アップルパイ・古時計
教会の鐘が鳴り響く。小さな町の、小さな教会。私たちの育った町。お兄ちゃんが隣で小さく咳払いをする。親族控え室の中は緊張感と沈黙で満たされ、呼吸をする音にさえ、何故か気を遣ってしまう。お姉ちゃんはさっきからずっと鏡の前で、しっかりとセットされた髪をしきりに気にしている。弟はアンティーク調のお洒落な椅子に浅く腰を掛け、オレンジジュースの注がれたグラスについた水滴を見つめているように、じっと動かない。おじいちゃんとおばあちゃんの姿は少し前から見なくなった。きっと落ち着けなくて、外の空気でも吸いに行ったのだろう。
母さんは、女手一つで私たち4人の兄妹を育ててくれた。当然のように裕福じゃなかったし、いつもみんな忙しくパートやバイトに励んでいたせいで、団欒なんて滅多になかった。物心ついた頃にはお兄ちゃんは就職していたし、しっかり者のお姉ちゃんはバイトを3つも掛け持ちしていた。そして、まだ高校生の弟ですら、自分のお小遣いは自分で稼いでいる。私も学生時代はバイトに明け暮れ、卒業後は飲食店で働くようになった。
不意に、部屋の隅に置かれた古時計が大きな音を立てて、時間を知らせた。部屋の中の沈黙が破られ、お兄ちゃんが息を吐いて立ち上がる。まるで止まっていた時が動き出したかのように、人が動き出した。私も、立ち上がってお兄ちゃんとお姉ちゃんの後に続く。振り返ると、弟だけが、どうしたらいいかわからないというように椅子に座ったままこちらを見ていた。
「母さんとこ、行こ。」
弟は立ち上がり、私たちは部屋を出た。
廊下の突き当たりの扉を開けると、まるでおとぎ話に出てくるような純白のドレスを着た母さんが、ゆっくりと振り返った。
「お母さん、綺麗だね。」
お姉ちゃんが涙ぐむ。お兄ちゃんは何も言わなかったが、どこか誇らしげな顔をしている。弟は少し硬い表情で、でも必死に笑おうとしているように見えた。
「ご親族の皆様は、そろそろ会場の方へ。」
係員の柔らかい口調に促され、私たちは再び部屋を出る。
会場には、ヴァージンロードの真っ赤なカーペットの代わりに、真っ白な絨毯が敷かれていて、祭壇の奥には大きな暖炉があり、そこにくべる為の薪が積まれている。
私はそれを見ながら、小さいころに母さんが一度だけ作ってくれた、アップルパイの味を思い出した。普段お菓子なんて作らない母さんが、突然作ってくれたアップルパイ。サクサクとバターの香りが口いっぱいに広がって、熱々のアップルからは甘いシロップが溢れだしてくる。たった一度きりのことだったけど、あれ以来、あれより美味しいアップルパイを食べたためしがない。
そんなことを考えていると、また、教会の鐘が鳴った。後方の扉が開き、私たち兄妹は振り返る。純白のウエディングドレスはお姉ちゃんが選んだものだ。胸元にあしらった白いバラは、花屋で働くお兄ちゃんの彼女が、用意してくれたもの。
私は胸がいっぱいになって、涙がこみ上げた。滲んだ視界の先で、母さんがゆっくりと、真っ白な絨毯を歩く。
今日、母さんが、結婚する。
鐘が鳴る