リバーズエンド
海・ピンクのマニキュア・約束
水面が夕陽を反射して、その眩しさに目を細めた。家まで続く歩き慣れた川原が今日は、途方もなく長く感じる。このまま歩いたら川が海に合流するところまでたどり着きそうだ。左肩から斜めにかけた部活用のエナメルバッグがいつもの何倍も重い気がした。
今日、俺の高校サッカー人生が終わった。高校最後の公式戦。俺たちのチームは毎年県大会に出ている言わば常連校だった。そんなチームで、運よく一年の時からレギュラーをやってきた俺は、当然自分たちの代でも県大会に出場するつもりだったし、自分たちの代こそは先輩たちのベストエイトと言う記録を塗り替えるつもりだった。
それなのに。
それなのに、フタを開けてみればこのザマだ。俺たちはベストエイトどころか県大会出場をかけた地区予選で、あっさりと負けてしまった。
悔し涙も出ないほど、あっさりと。
同じ三年の志波は、ろくに喋りもできないほどしゃくり上げて泣いていた。三年になって、ようやく試合に出られるようになったのに、こんなに簡単に終わってしまったことが悔しいと言っていた。自分のせいで、とも。
負けたのは誰のせいでもない。相手は格下だったが、確実に力を伸ばしてきているチームだった。勢いがあった。そして、俺たちにも奢りがあった。県大会常連校の奢り。俺たちはきっと、そんな自分たちに負けたんだ。
ふと川原を見ると、濃いオレンジに染まった水面に向かって石を投げている女がいた。足元には缶が転がっていて、アルコールなのか女の足取りはおぼつかない。俺は余計なお世話だと思いながら「危ないですよ。」と声をかけた。
「なに?あんた誰よ。」
そう言って、虚ろな目で振り返った女は思っていたよりもずっと美人だった。
「あんた、酔ってるだろ。そんなんでそんなところにいたら死んじまうぞ。」
俺は親切心で注意してやっているのに、喧嘩腰で答えられたことにムッとした。いい大人の女がこんなところで酔っ払っているのはだらしがないと思った。
「私の事はもうほっといてって言ってるでしょ。」
「言ってるでしょって、なんだよ。」
俺はまだ一度しか言われていないから、もしかしてこの女は俺以外にも誰かに注意されたのだろうか。俺は仕方なく女の傍まで歩いて、その肩を掴んだ。
「危ないからとにかく座れよ。」
「ヤダ、触んないでよ。」
女はおぼつかない足取りのまま俺の手を払おうとする。
「おい、暴れるな、危ないから。」
俺は予測できない女の足取りに戸惑いながらその腕を掴んだ。まだ日暮れは遅いが、酔った女が足もつかない川に落ちたらとんでもないことになると思った。なおも抵抗を続ける女の両肩を掴み、動きを制した。女は驚いたように一瞬目を見開き、直後その目から大粒の涙を零し始めた。
「え、ちょっと。」
狼狽える俺などお構いなしだ。バケツをひっくり返したような、と言う表現を思い出した。女はバケツをひっくり返したように次から次に涙を零し、子供のように声を上げて泣いた。
こんな風に泣く大人を、俺は始めて見た。高校生でも見たことないのに、明らかに俺より年上の女が目の前でうわーんと声を上げて泣いている。時折「ゆうとの」とか「ばか」とかそのほかにもわけのわからないことを言っている。
これは、と思った。
これは明らかな失恋だ。
恋愛経験の少ない俺にでもわかるくらい、明らかだった。
「おい、泣きやめって。これじゃあまるで・・。」
俺が泣かしてるみたいだろっ!
そんなことを考えている間にも、女は全く力のこもっていない拳で俺の胸を叩きだした。女の肩から外れた俺の両腕が女の肩の向こう側で虚空を抱いている。
どうにでもなれ。そう思った。そう思った瞬間、俺は女を、その、あれだ。抱きしめていた。自分でやっておきながら、瞬間湯沸かし器のように顔が熱くなるのを感じた。きっと鏡を見たら、今の俺は金槌で打たれる前の熱せられた鉄みたいな色になっているのだろう。しかし、効果があったのか、腕の中の女は静かになった。どうしていいかわからない居心地の悪い沈黙が川のせせらぎとともに流れて、俺は自分の心臓の音を聞かれているんじゃないかとさらに恥ずかしくなった。
「よ、よーし、よーし。」
俺は昔よく遊んでいた年下の従妹が、転んで泣きだしたときのことを思い出し、同じように肩をさすった。
女はさっきとはうって変わって大人しい。かと思いきや、不意に自分の前髪を抑えるように右手を上げた。ピンクのマニキュアで塗られた長い爪がピカピカと光って見える。
「なによ、生意気。」
女は真っ赤に腫らした目で、情けないほどの鼻声で言った。そのまま俺の胸から離れる。
「三年経って出直しなさい。」
冗談っぽく肩をすくめて笑う女に、俺はかける言葉が見つからなかった。
「三年経ってまた会えたら、そのときは相手してあげる。」
女は一方的にそう言い放って、楽しそうにケタケタと笑った。さっきまで泣いていたのに、なんなんだよ。俺は半ば呆れながら足元に散らかった酒の缶をビニールに詰めた。
「その時までいい男になってなさいよ。約束。」
小指を立てて歌うように言い放つ女を見ていたら、あっという間に夜が近づいていた。
リバーズエンド