魅惑の呼び声
みぞおちが張るのを感じた。
痛む胃を庇いながら前かがみになってトイレに駆け込む。
髪を後ろに束ねながら今しがた、咀嚼していたものを吐き出す。
胃が空っぽになるまで吐いて、便器と向い合せに体育座りをする。
苦しさから逃れた一瞬の安堵の後に、いつもの空しさがやってくる。
2年前に高校を卒業して県外の大学に入学し、同時に一人暮らしを始めた。
大学は実家から通えないこともないが、通学時間を考えて一人暮らしをすることに決めた。
小さいころからずっと狭い部屋を妹と共同で使っていて、自分だけの空間に憧れもあったし高校卒業後、実家から仕事に通う兄と父の衝突にも辟易していた。
実家からの仕送りと奨学金と週3日のファミリーレストランのアルバイトで特に過もなく不足もない暮らしをしている。
人並みに勉強して単位もとっている。
中学、高校と6年間はテニス部に所属し、高校3年生の時に地区大会で準優勝をするくらい、そこそこ部活には打ち込んだ。
しかし大学ではテニス部はなく、唯一あったテニスサークルもほとんどテニスはしない、手ごろな恋人探しの場としてだけの集まり、という感じだったので入らなかった。
大学はどことなく活気がなく他に入ろうと思えるサークルもなかった。
高校のころは部員と毎日、部活後は寄り道をして帰ったが、大学に入ってからはめっきりなくなった。
学科の友達とは同じ授業が多くそれなりに話もするが、授業や昼休み以外の時間にわざわざ会って話したり、ましてや休日に遊ぶこともない。
バイト先も同年代が多いが同じような雰囲気だった。
母親は1週間に一度くらいの間隔で電話をしてくる。
「変わったことはない?元気にしているの?お金は足りている?」
「特に問題ないよ。」
毎回、それだけの会話だ。
大学が始まってから2か月、なんとなく口寂しいことが多くなりおやつをつまむことが多くなった。
結果、1か月で5キロ以上も増え、焦りを感じた時にインターネットで「モデルは好きなだけ食べたいものを食べるが、その後、全部吐くから細い。」を言う記事を目にした。
お腹がいっぱいになった時に、試しに体を二つ折りにして喉の奥に指を突っ込んでみたら、意外とすんなりと吐けた。
食べ過ぎた罪悪感からも、満腹すぎる苦しさからも逃れてすっきりとした気分だった。
それ以来、夜、帰宅すると際限なく食べては吐く、をいうことを繰り返していた。
今度は体重はみるみる減り、気づけば入学当初より8キロも減っていた。
夏休みに帰省するとさすがに母は心配したが、筋肉質でもとから見た目は引き締まっているほうだったので一人暮らしを止められるほどではなかった。
しかし、最近はいくら食べても吐いても残るのは空しさだけだった。
今日も大学で授業を受けた。3限が終わるとまだ授業のある友達に別れを言う。
遠い。
夕方からのアルバイトも先にいた同僚に挨拶してから、いつものようにこなし、まだ残る同僚にまた挨拶をして帰る。
遠い。
帰り道に近所のスーパーに寄り、安くてボリュームのあるパンや菓子を買い込む。
いつもの店員が顔も上げずに機械にバーコードを読み込ませる。
遠い。
なんだって、どうしたって、みんな遠い。
街灯もまばらな暗い帰り道を歩きながら、高3の秋に同じテニス部員でダブルスでも何度も組んだことのある友人との会話を思い出した。
「なんかさ、受験勉強って孤独との戦いだね。」
夏休みが終わり、とうとうクラスの雰囲気も受験モードといった感じだった。
部活も引退したし、それぞれ勉強が忙しくて遊ぶどころか、話すことすら少なくなっていた。
「人なんてしょせん、死ぬまで孤独だよ。」
「何それ。」
こういうセリフをたまに悟ったように言う子だったのでこの時もふざけているだけだと一笑に付したが、あながち冗談でもなかったのかもしれない。
高校生のころまでは、もっとみんな、他人は自分の近くにいた。
たしかに受験期は何日も友達とも会わずに勉強することもあったが、受験さえ終わって大学に入れば、また以前のように友達と毎日、賑やかに遊ぶものだと思っていた。
でも今のこの遠さはなんだろう。
自分が思い描いていた大学生活と今の現実があまりにもかけ離れている。
一方で、たまに帰省した時に合う高校のころの友達の様子からはそのような不満は感じられない。
こんなの聞いてない。
みんなは知っていたのだろうか。
もしそうだとしたら、私は今まですごく勘違いをしていた。
例えるなら、自分が立っているのが地球だと思っていたら、ある日突然、「ここは火星ですよ。」と言われたような感覚だ。
大学の学生課前の掲示板に学生相談室の広告を見つけた。
少し考えたが予約を入れた。
帰りに本屋に立ち寄り、スティーブ・ジョブスの顔写真の上に「自分の打ち込めるものを見つけろ!」と帯をまかれたビジネス書を手に取る。
パラパラと目を通すが、その分厚さにうんざりしてけっきょく手ぶらのまま店を出た。
オルガンの音が講堂に響く。
讃美歌が終わると礼拝者はみんな着席した。
日曜日、私は近所の教会にいた。
学生相談は悪くなかった。
特筆することもない、簡単な生い立ちと近状を話しただけだったがカウンセラーは真剣に聞いてくれているように見えた。
けれど、何か違う。
学生相談の帰り、近所の教会の前を通った。
毎週日曜日のお昼前になると、この教会からピアノの演奏と讃美歌が聞こえてくる。
「協会はいつでもあなたを歓迎しています!」と書いてある扉を半信半疑で開けると、小さくて人のよさそうな顔をしたおばあさんが「ようこそ。」と笑顔で握手を求めてきた。
おばあさんはこの教会の牧師らしく、ミサの後に教会に来ていたほかの人に私を紹介し、みんなで私のためにお祈りをしてくれた。
「天にましますわれらの父よ。今日、若い彼女を協会に導いてくださったことに感謝します。…」
お祈りの内容はほとんど耳に入ってこない。
帰り際にまた、牧師さんが握手を求めてくる。
「神様はいつでも、あなたと一緒にいてくださるのよ。」
空しさは消えない。
夜、また食べて吐いた。
いつもの空しさがやってくる。
気を紛らわそうとテレビのバラエティー番組をつけると、よりいっそう空しさは膨らむ。
耐え切れなくなって、家を出る。
家の近くの河原に降りた。
それなりに大きな川で週末になると小学生がサッカーや野球をしたり、釣りをする人もいる。
堤防を越えるとすぐ目の前の道路の喧騒が急に遠のく。
静かに水の流れる音と風と虫の鳴き声と、遠くに車の音が聞こえる。
緩やかな流れの水面に月と遠くの道路の光が反射してゆらゆら光っている。
流れる水のひんやりとした冷たさを指先で確かめて、濡れないぎりぎりの砂利の上に腰を下ろす。
突然、すぐ隣で石を踏む音がした。
驚いて目を上げるとそこに色が白く、細身で眼鏡をかけた同い年くらいの男の子が立っていた。
じっと水面を見つめている。
眼鏡に水面が移って同じように光っていた。
体も動かないし声も出ない。
頭もボーっとして現実じゃないみたいだ。
「どうしてここに来たの?」
高くも低くもない、落ち着いた小さな声で男の子が言った。
「他に行く場所がないから。
一緒にいる人もいないし、することもないから。」
「そう。でも何か問題があるからここにいるんでしょう。」
「問題はない。
何もない。
問題も問題以外のものも何にもないの。」
すると男の子はこっちを向いた。
私を見ているはずなのに、その眼鏡には水面が映ったままだった。
「突き詰めて考えて出てくる答えは、いつだって望まない真実だよ。
だからなるべく考えないように、ただ淡々と暮らすことだよ。」
翌日、いつものように、河原沿いの道を通って大学へ向かう。
昨日の砂利のあたりに犬を両手に抱きかかえるようにして立っている人影がある。
毎朝、足の不自由なゴールデンレトリーバーを連れて散歩しているおじいさんだ。
周りには元気な犬を連れて散歩している人も何人か歩いている。
抱えられている犬は忙しなくその元気な犬たちのほうに鼻を向けて吠えたりする。
幸せな犬だな、と思った。
しばらくしたある日、ベッドから起き上がろうとしたら体が重くて動かない。
私の中にある、暗く大きな穴が私の内臓から皮膚まで、全部飲み込もうとして引っ張っているみたいだ。
それから1週間、家にこもっていた。
昨日は母親から電話もあった。
「特に問題ないよ。元気にしてるから。」
いつものように答える。
娘二人の学費に私への仕送り、家のローンもまだ残っている。
父親は平均的な収入あるがそれだけでは心許なく、母は私が小学生のころからフルタイムで働いていた。
仕事の忙しい母を心配させたくはなかった。
携帯にはバイト先から伝言メッセージが入っていた。
無断欠勤を咎めるものかと思ったら、心配している、どうしたのか、というものだった。
学科の友達からも心配するメールが何通かきていた。
みんな、優しい。
でも、誰も親しくない。
夜、河原へ行った。
砂利に座っているとまた、すぐ隣で石を踏む音がした。
「ねぇ、『ただ』淡々と暮らす、なんて言っていたけどそれが一番、難しいよ。」
「うん、そうだね。一度、真実に気づいてしまったらもう、ごまかせないんだ。
目をそらして、何も知らないふりして生活する。
それができる人と、できない人がいるんだ。」
「私は、できない。」
カウンセリングも、神様も、打ち込める何かも、この空しさを埋められない。
「うん。孤独をいやせるのは他の誰かの孤独だけだよ。」
そういうと男の子は私のほうを向いた。
眼鏡にはきらきら光る水面が映っている。
男の子がしゃがんで私と目線を合わせる。
眼鏡に突然、私の顔が映りこむ。
男の子の手が私の手を握り、引っ張った。
ひんやりと冷たい手だった。
凛と空気の澄んだ、気持ちのいい朝だ。
男性はいつものように足の不自由な愛犬を抱えて河原の道を歩いていた。
いつもの砂利のところに来ると一台のパトカーが止まっていた。
浅い水辺で数人の制服を着た警察官が何やら作業をしている。
ここはもうずいぶん昔、息子が死んだ場所だった。
特に何も問題のない普通の日常の中で、それはある日突然起こった。
事故か、自殺かはけっきょく分からずじまいだった。
何人かいた野次馬の話す声が聞こえる。
「若い女の子ですって。」
「かわいそうに。足をすべらしたのかしら。」
安置所でみた息子の青白い顔を思い出されて目を閉じた。
川の水面は数時間前まで、そこに女の子の死体があったとは信じられないほどいつもどおりに朝日を反射して、きらきら光っていた。
魅惑の呼び声