大きな柿の木の下で
【江戸・納豆・着物】
通学路の公園の片隅に、大きな柿の木がある。何年もこの公園を通って通学しているが実がなっているのを見たことはない。木の知識がほとんどない俺は「樹齢約300年柿」と書かれた古びた木の立て札がなければ、それが何の木なのかもわからない。花が咲く木は花を、実がなる木は実を見て始めてそれが何の木であるかわかる。そもそも、自然に囲まれた土地で育った俺は、木は常にそこにあるもので、そこに季節ごとに付く花や実こそが主役だと思っていた。
だから、実のならない通学路のこの柿の木は何のために長い間この場所に立っているのだろうと。昔は実がなっていたのかもしれないし、今でもどうにかすれば実が付くのかもしれない。
俺が生まれる少し前まで、この公園は神社だったと聞いたことがある。この柿の木は元々、その神社の境内にあったもので、神社を移転する際、あまりに大きくなりすぎたこの柿の木は、動かすことができなかったらしい。そして、神社があった場所に公園ができ、春には公園の入り口の桜が咲き乱れるようになった今、柿の木は公園の片隅で寂しく佇んでいる。
300年ということは、江戸時代くらいだろうか。そんな昔から一体どれだけの人々がこの木を見上げてきたのだろう。この木は、一体どれだけの人間を見下ろしてきたのだろう。
「この木がどうかしました?」
不意に声をかけられて心臓が飛び出そうなほど驚いた。いつの間にか俺の隣に白髪の老婆が立っていた。
「あ、いえ、あの、大きな木だなと思って。」
俺はドギマギしながらそう答えて、横目で老婆を見た。
草色の着物にまるで柿の実のような橙色の帯。小柄な体だが、老婆とは思えないほどしゃんと背筋を伸ばしている。
柿の木の精霊。そんなわけないだろ。脳裏に過った言葉をすぐに脳内で打ち消す。
しかし、柿の実を形どったガラス玉がついた帯留めを見て、もしかしたらもしかするのではという考えが浮かぶ。
「この木は大昔からここで人々の生活を見守ってきたのですよ。葉を茂らせ、雨をしのぎ、木陰を作り、食料がない時代にはその実で人々の命を繋いできました。今でこそ、木陰で休む人も、雨宿りをする人もいなくなりましたが、実も結ばず、公園の隅に一人ぼっちになっても、この木はきっと寂しくはないのですよ。」
老婆はまるで昔話に思いを馳せるような、穏やかな表情で言った。
「あなたのように、こうやってこの木を思ってくれる人がいるだけで、十分に幸せなのよ。」
俺は、もう一度柿の木を見上げた。300年もここにいて、それでも毎年新緑の葉を茂らせる。まるで特別なことなどなにもないように。300年間ずっと当たり前に葉を茂らせ、実がならなくなっても、足を止める人がいなくなっても、巡る季節のサイクルの中で生きる。
「これからも、この木のこと思ってあげてね。」
老婆は顔の皺を一層深くして笑い、俺の手を取った。柔らかな手だった。俺の手の平に飴玉の包みが乗せられる。
「あの、あなたは。」
柿の木の精霊の可能性をわずかに捨てきれず尋ねた。
「昔ここにあった神社の者です。今は神社がお引越ししてしまって、この木は一緒に連れて行くことができなかったから、時々こうして見に来るのよ。」
柿の木の精霊ではなかったことに、納得と少しの失望感が入り混じった複雑な気分になりながら、手の平の飴玉を見た。納豆飴。何とも奇抜なセンスだ。
「もうすぐ、花が咲くのよ。」
老婆がとっておきの秘密を打ち明けるように言った。
柿の木の花なんて見覚えがないが、実がなるのだから当然花も咲くのだろう。
「薄黄緑色の地味な花だから、よく見ないと咲いていることにも気が付かないけれど、咲いているのを見つけると何だか得した気分になるのよ。」
無邪気に笑う老婆と俺の間を、初夏の風が吹き抜けた。
大きな柿の木の下で