ファミリーⅡ another side story

ファミリーⅡ another side story

家族とは? 結婚とは? 
子供を残す意味、家庭を持つ意味とは?
自分の年齢、相手の年齢や過去に、ためらいを持ちながらも
人生の一歩を踏み出していく女性のストーリーです。

人生の選択とは、こうやって乗り越えて行くのかもしれませんね。

それは私にとってかなり唐突なアプローチだった。
九月の半ばの水曜日、合唱団の練習終了後、解散してそれぞれに帰宅する時の事だった。
彼、岡野智之は私を呼びとめて、こう切り出したのだ。

「酒井さん。僕と付き合ってくれませんか。お願いします。」
私は、その瞬間、彼の言おうとしている事が理解できなかった。
付き合うって、これから飲みに行くから、一緒に行かないかっていう事。それとも、男と女としての交際の事を言ってるの。
そんな事が頭の中を巡って、私はその場で立ち止まった。なんて返事をすれば良いのだろう。どう切りかえせば良いのだろう。思考が混乱していた。

「突然のこんな話でごめんなさいね。いきなりだから驚いたでしょう。いつ、どんなタイミングで切り出そうかと、迷っていたんですけどね。
あなたの事が大好きです。個人的にもっと親しい関係になりたいと思っています。お付き合いをしてくれませんか。」
彼は改めて、私の最初の疑問を払拭するように、言葉を重ねた。

私たちは同じ混声合唱団のメンバーだ。地域のアマチュア愛好家三十名程で活動している。私はアルト、彼はベースのパートだ。アマチュアのローカル合唱団なので、構成メンバーは様々だ。
高校や大学の頃に合唱をやっていて、卒業後も続けたいと言って入ってくる若いメンバーから、子育ても終わって孫も居るようなおじさんおばさんまで、年齢層もキャリアも幅広い。

私はその中では中堅くらいだろうか。合唱経験者だった会社の同僚に誘われてこの団のメンバーに加えてもらってから、もう十数年になる。
その同僚は、付き合っていた彼と結婚し、夫の転勤に伴って県外に引っ越して、この団を辞めてしまった。誘われた私の方は、もうすっかり馴染んでいたので、そのまま合唱を続け今に至っている。
酒井美歌。三十六歳、独身、両親と自宅に同居、会社員。それが私だ。

一方で彼は、たしか妻子も有る五十歳代だったんじゃなかっただろうか。
どういうつもりで、私の事を誘っているのだろうか。都合の良さそうな不倫相手。つまみ食い。そんな悪い単語が頭に浮かぶ。

「ごめんなさい。いきなりで、なんて返事をしていいのか判らないの。ちょっと考えさせてください。」
「もちろん、すぐに返事をしてくれなんて言いませんよ。ゆっくり考えてください。良い返事を期待しています。」
そう言って、そこに立ち止まったままの私を残して、彼は駐車場の方に去って行った。

私の持っている彼の印象は、優しい男だ。年相応の社会性も有り、いろいろな場面でも、落ち着き払って物事を解決していく大人というイメージが大きい。合唱団のトップでは無いが、そのブレインの一人のようなポジションに居て、演奏会やイベントなどの時には、あれこれと雑事を片付けてくれる。
メンバーの乗り合わせる車の手配やら、会場を借りる時間の交渉やら、事務屋さんのような裏方の仕事を切り盛りしているようだ。
そして、メンバーにも気を使い、優しい口調でいつも接しているし、物をちょっと取ってくれたり、ドアを出るときに押さえてくれたりと、気遣いも効いていて紳士的だ。
年下の独身女を誘って不倫をするなんていうのは、イメージが違う。

帰宅してから、パソコンに向かい、彼に関するデータを調べてみた。
ミクシイやフェイスブックなどというツールで調べると、彼のデータは、ある程度把握できる。団のメンバーのページからたどると、両方とも登録が見つかった。
特に個人の情報を隠している様子も無い。
合唱団でのイベントの時の写真、三人の子供の事、家庭内での奥さんやお母さんとのあれこれの事、オーケストラの話や楽器の事など、さまざまな事が書き込まれている。
彼が合唱団以外にオーケストラにも所属しているなんて、初めて知った。
そして、その情報の中に、特に大きく取り上げられることもない一節を見つけた。
彼は一年前に奥さんと離婚していたのだ。

二十五年間の結婚生活は、性格の不一致という理由で、終焉を迎えていた。
長男は奥さんと一緒に隣県の奥さんの実家に行き、大学生の長女と今年高校を卒業した次男は彼と同居、現在は母親との四人暮らし。正確な年齢は、私より十五歳年上だった。

なるほど、現在独身であれば、バツイチだろうがこぶ付きだろうが、誰かにアプローチをかけるのに問題は無い。
でも、彼はもう五十歳代だ。どういうつもりでいるのだろう。
一人身が淋しい。人恋しい。離婚後、家事を自分でこなすのが嫌になった。老齢期に自分の面倒を見てくれる都合の良い妻が欲しい。動機としてはどれも有りそうな話だ。

それはそれでも良いとは思うが、どうして私なのだろう。
自分でも思うが、私よりは家庭的な人は、沢山いるだろう。
私と彼の共通の知り合い、合唱団の中でも、何人かは名前を挙げられる。夫と死別した人。結婚願望を持ったまま年齢を過ごしてしまった四十歳代。いろんなイベントの度にお弁当を作ってきたり、団員全部に行き渡るように、おそろいの小物を作ったりと、家庭的な様子を見せている人も多い。
私も普通に家事一切は出来るつもりだが、両親と同居しているので、毎日家事をこなしているわけでもない。特に美味しい料理を作って皆に振舞った覚えも無い。
何を思って私にアプローチをしてきたのか。理由が良く判らない。

疑問も好奇心も大きくなるだけだが、一人で考えていても答えなど出ない。
機会を見つけて、訊ねてみるのが一番だろうと思って、疑問はそのままにしておく事にした。
何を聞こう。どんな訊ねかたをしよう。そんな事をあれこれ考えながら、その晩は眠りに落ちた。

話をする機会は一週間後に訪れた。
合唱団の練習は、毎週水曜になっている。仕事や家庭の都合などで欠席する人も居るが、私も彼も、出席率は良い方だ。
彼は、集まった時も普通に挨拶を交わし、練習中も特別な態度は見せなかった。
私は、先週のやりとりが気になって、ベースパートの方をチラチラと眺める事が多かったが、彼は特別な態度も、こちらへの視線も感じさせなかった。

練習後に、先週と同じ処で、今度は私が彼を待ち構えた。
彼は私の姿を見つけるとにっこり笑って、当然のように誘いの言葉をかけてきた。
「ちょっと遅くなるかもしれないけど、お茶でも飲みに行きませんか。車だから、ちょっと飲みにっていうわけにはいかないものね。」
私が頷くと、彼はそのまま歩を進め、自分の車の助手席のドアを開けた。
「どうぞ。大丈夫、どこかに拉致したり襲ったりはしませんから。」
そんな冗談を言って、私を促す。

車内には小さな音でジャズのスタンダード曲が流れている。メロディは知っているが、曲名が思い出せない。
「この曲ってなんていう曲でしたっけ。」
「これはバイバイブラックバードっていう曲ですよ。演奏はケニードリュートリオ。なんだか、いかにもおじさんくさいBGMだよね。」
そう言って笑う。
「ジャズが好きなんですか。」
「そうですね。音楽は好き嫌い無くなんでも聴くけど、スタンダードジャズは良く聴きますよ。」
「ご自分でも演奏するんですか。」
「まあ、ウッドベースを弾き始めたきっかけがジャズなんで、真似事くらいはね。」
そんな会話をしている間に、車は近所のファミレスの駐車場に入った。
「ここで良いかな。最初から遠くまで出かけたり、山の中に夜景や星空を眺めに行ったりしても、とんだ勘違いって言われそうだしね。」
そう言って店内に入り、飲み物を注文する。
ドリンクバーに自分で飲み物を取りに行く方式の店だ。私と二人並んで、ドリンクバーへと向かう。
彼はためらいも見せず、コーヒーを選ぶ。私はちょっと迷ったが、何種類か有るハーブティーの中からひとつ選んで、席に戻った。

「先週、突然あんな事を言ったから、驚いたでしょう。こんなおじさんからのアプローチだから、それだけで嫌われるんじゃないかって、心配してたんだけどね。」
席で私と向かい合うと、そんな話から切り出す。
「私が思ったのは、どういう理由なのかなっていう事と、どうして私なのかなっていう事の、ふたつなんです。
あなたのプロフィールをネットで見させてもらいました。奥さんと別れてしまったんでしょう。どうしてそれから一年後に、私にアプローチするのかな。もしかしたら、毎日ご飯を作るのが嫌になって、家事をしてくれる女ならだれでも良いのかなとか、そんな事まで考えちゃいました。」
「そうだよね。バツイチのおじさんが女性にアプローチをかければ、そういう事も考えるよね。もちろん、そんなつもりは全くないんだ。」
「じゃあ、どうして。」
「うーん。人を好きになるのに、どうしてって言われてもね。好きになることに理由なんかないんだよ。こういう理由で好きになったんだとか、こういう利点があるから付き合いたいって言ったら、それは打算だろう。」
「純粋な好きっていう感情で、アプローチしてきたっていう事なんですか。」
「そうだよ。きっかけは些細な事かもしれない。でも、ある人が気になる。その人の事に目が行く。もっと気になる。好きになってしまう。もっとお近付きになりたい。親しくなりたい。
友人として。恋人として。一緒の時間を持ちたい。もっと一緒に居たい。結婚したい。
そういう想いがエスカレートするのは、普通の事でしょう。」
「そこまで考えているんですか。」
「うん。まあ、これは一般論だから、そうなるかも知れないっていう話だよ。そこに至るまでに、この人はこんな一面もあるんだって知って、熱が冷めるかもしれないし、自分や相手の立場を考えて、アプローチをあきらめるかもしれないからね。」
「既婚者だからとか。」
彼は苦笑いして、ちょっと考え込む。

「そうだね。去年までの僕はそういう立場だったからね。君の事が好きでも、付き合ってくださいって言うのは、君に失礼だろう。」
「人の道に反するからっていう意味ですか。」
「いや。人の道なんていうのは、思いの強さで、燃やしたり断ち切ったり引きちぎったり出来るだろうけど、そういうゴタゴタに君を巻き込むのは、男として卑怯かなと思うってだけなんだ。」

「じゃあ、いつ頃どんなきっかけで、私の事を意識するようになったんですか。」
「そうだね。もう四、五年前くらいかな。演奏会の後で、控室に戻る時だったと思う。
男声パートが先に歩いていて、その後ろに女声パートが来ていた。
僕はベースの一番後ろを歩いていたから、扉が閉まらないように、ちょっと立ち止まって押さえていてあげたんだ。軽く頭を下げて通る人、当然のように通り過ぎる人、いろんな人が居たけど、その中で君だけが『ありがとうございます』って言葉にしたんだ。
そして僕が押さえてる扉を、代わって押さえようとしてくれた。『男性は先に行っちゃいましたよ。』って言ってね。
その時に、この人は言葉に出して感謝を伝えられる人、他人の立場を気遣う事が出来る人なんだなって思ったんだ。それがきっかけ。」
「そんな事ありましたっけ。」
「そうだね、君は覚えてないんだろうな。それは、君にとって特別に気を使ってしたことじゃなくて、ごく自然に出た行為だからなんだ。普段呼吸をするのと同じなんだよ。だから覚えてないんだ。」

「それで、何となく気になって、君を眺めていると、かなり僕の理想像に近いイメージを感じたんだ。いろんな意味でね。」
「どんなところが。」
「そうだね。性格は今言ったような性格だし、容姿も僕好みだ。
みんなの中に居る時のポジションの取りかたって言うのかな。先に立って引っ張っていくわけでもなく、ただ付いて行くっていうわけでもない。自分が何処に居ればいいんだろうって、常に考えながらポジションを取っている処なんか、頭の良さを感じさせる。そういうすべての面で気に入ってしまったんだ。」
「頭の良さですか。団の中にはもっと頭の良い娘も居るんじゃないかな。大学院まで出た娘とか。」
「そうじゃないよ。学歴と頭の良さは同じじゃない。知識と知恵は別なんだ。日々の生活で、頭を使って自分の立ち位置のバランスを取るのは、知恵が無いと出来ないんだよ。」

「もっと賢い娘も、若くて美人も居るのに。」
「そんな事は別の話だろう。
『世界で一つだけの花』っていう曲が有るよね。花屋の客はどうやって花を選ぶと思う。人の判断基準はそれぞれなんだよ。バラが好きな人も居ればカスミソウを選ぶ人も居る。チューリップでもカーネーションでもね。それは好きになった人の価値観なんだ。」
「じゃあ、あなたはどんな花が好きなの。」
彼はまたちょっと考える。
「彼岸花かな。誰が植えたわけでもないのに、真っ赤に咲いてるからね。」
それは、私のイメージが彼岸花と重なるという事なのだろうか。
私もあの花は好きだ。ポツンとひとつだけ咲いているのも、群生で一面を真っ赤に染めているのも美しいと思う。そういう意味では、この人の感覚は私に似た部分が有るのかもしれない。
花屋の話をしているのに、いきなり野生の彼岸花がイメージされるのも、考え方が面白いと思わせる。
「それから、樹に咲く花もいいね。桜とか桃とか林檎なんかもね。」
「それって、果実が美味しそうっていう打算も入ってませんか。」
「うん。そうかもしれないね。」
そう言って笑って見せる。素直に認めてしまう部分も好ましい。
話をしていて楽しいと感じる、良い友人にはなれそうだ。

「ありがとうございます。私の事をそこまでほめてくれて。」
「じゃあ、僕の真剣な気持ちも解ってくれたかな。」
「そうですね。気持ちは受け取りました。お付き合いできるか、それが進展するかは、これからの事ですけどね。」
「そうですか。」
彼はちょっとがっかりしたような表情になる。
「でも、お話をしていて、楽しい人だと思いますから、これからもこういうふうに誘ってください。その先がどうなるかは、私にも今は判りませんから。」
「わかりました。一生懸命、気に入られるように頑張りますよ。」
そう言って笑う。

「ずっとこうやって顔を眺めて居たいけど、明日も平日だし、そろそろ帰りますか。」
そう言って、伝票を手にして席を立つ。
私が財布を取り出すと、それを手で制する。
「今日は僕が誘ったんだし、お茶の一杯ぐらい奢りますよ。」
そう言って勘定を済ませる。
「すみません。ごちそうさまです。」
私が素直に財布をしまうと
「じゃあ、今度は割り勘で飲みに行きましょう。」
と言って笑う。
それは私への気遣いなのだろう。きっと一緒に飲みに行った時にも、何かと理由を付けて、私に払わせないようにするのだろう。それとも三回に一度くらいは割り勘にするのだろうか。
そんなところも、大人の余裕を感じさせる。
私の車のところまで送ってもらって、その晩は別れたが、私はこれからの展開に、期待のようなものを感じていた。

そう言えば、私にはこういう年上の男性と付き合った経験は無い。
それどころか、ここ何年も男女の関係のお付き合いをした相手は居なかった。
学生時代の男女交際から、二十代の若い恋愛など、それなりに過去に経験はしているが、それは一過性のもので、その時は夢中になるけれど、無くしてからずっと後を引くような重いものでは無かった。

彼はもう結婚と離婚を経験した大人の男だ。私の知らないステップにまで、踏み込んだ事があるのだ。その彼が、私をどこまで連れて行こうとするのか。私は、未知の世界を覗き込むような期待と一抹の不安を感じていた。

彼とはその後何度もデートを重ねた。
体の関係を持つわけでは無かったが、一緒にどこかに出かけたり、食事をしたりと、時間を共有した。いろいろな処で一緒に過ごす度に、私は彼の意外な一面に驚かされた。

一緒に映画に行った時だ。
映画はアニメだった。普通カップルで映画と言えば、甘い恋愛ものなんじゃないかと思ったが、彼は私にこう言った。
「ジブリの最新作を観たいんだけど、一緒に行かないか。好みじゃなきゃ映画で無くてもいいんだけど。」
私もその映画の話題は聞いていたし、興味は有った。だけど、私と一緒にアニメって、どういうつもりなんだろう。
「もっとその気にさせるような、甘いラヴロマンスじゃなくていいの。」
笑いながら訊ねる私に、こう答えたのだ。
「アニメだって十分ロマンスの要素は有るだろう。それに、そんな甘い映画の余韻でその気にさせて口説くなんてずるいんじゃないかな。
興味のある映画だから観たいんで、つまらない映画を一緒に並んで観てるんなら、向かい合って話をしてる方が良いよ。」
なるほど、それももっともだ。
彼の言葉にこんなふうに納得させられることは、度々あった。

映画館のロビーでも、意外な彼の行動を見せられた。
幼稚園児か小学生くらいの子供が、半べそできょろきょろ周囲を見回しているのを見つけたのだ。
人ごみの中で、途方に暮れた様子の子供だが、周囲に助けの手を差し伸べる者も居ない。
彼はその子に向かい合うようにしてしゃがみこんだ。
「どうした。お母さんが居なくなっちゃったのか。」
にっこり笑いながらそう話しかける彼に、子供は黙って頷いた。
自分の顔と同じ高さで話しかけられたので、知らないおじさんに声をかけられても怯える事も無かった。なだめるように、頭をポンポンと叩き、話を続ける。
「そうか。じゃあ、おじさんが一緒に探してあげよう。」
「名前は。」
「ゆういち。」
「今日は何の映画を観に来たのかな。」
「ポケモン。」
「もう、観ちゃったのかな。それともこれから見るのかな。」
「これから。」
「お母さんと二人で来たの。」
「ううん。みかと三人で来たの。」
「みかっていうのは、妹かな。」
「うん、そうだよ。ねんちゅうさんなんだ。」
「そうか。じゃあ、みかちゃんとお母さんがどこかに行っちゃって、ゆういち君だけが置いてかれちゃったのかな。」
「ぼくがね、モンスターボール見てたら、居なくなっちゃったんだ。」
映画館の売店には、子供が興味を示しそうなおもちゃも置いてある。それを眺めているうちに、はぐれたのだろう。
それにしても、この年代の男性が子供をおびえさせず会話を交わせるというのは、私には意外だった。子供は男性よりは女性に懐くし、この年代の男性が小さな子とコミュニケーションを取るのは苦手だろうという先入観が有ったのだ。
「たぶん、みかちゃんがおしっこしたくなって、女の人のトイレに行ってるんじゃないかな。これから映画を見るんなら、ポケモンの映画の入り口で待ってれば、きっと来ると思うよ。
それでもおかあさんが見つからなかったら、おじさんが映画館の人に頼んで、探してもらおう。」
そんなふうに、その子に説明して、ロビーの隅のベンチに座らせる。
お母さんや妹の服装などを聞きながら、数分過ごしていると、案の定、女子トイレの方から、女の子を連れた母親が現れた。
「あっ、お母さんだ。」
そう言って母親に駆けよる。
「お母さんが居なくなっちゃったから、このおじさんが探してくれるって言ってたんだよ。」
「ありがとうございました。下の子がトイレに行くって言うから、この子にはここで待ってるように言っておいたんですけどね。」
「きっとモンスターボールに夢中で、お母さんの声が聞こえてなかったんでしょう。」
「ゆういち君。お母さんが見つかって良かったな。」
「うん。ありがとう、おじさん。」
ゆういち君はこちらに向かって手を振り、母親とスクリーンの入り口に向かう。
その一切のやりとりを、私は傍らでただ眺めていた。

「あんな子供も相手に出来るんだ。」
「まあね。子供は好きだからね。それに自分でも三人育てたし、地区の育成会の役員やPTAの役員もやった事がある。」
「そうは言っても、世の中の父親なんて、そういうことは母親任せっていう人も多いんじゃないの。」
「そうだね。そういう人も多いけど、僕は結構自分で手を出して関わったんだ。子供の相手も、学校の先生の相手もね。」
自信を持った顔でそう言う。
「それよりもこちらの美歌ちゃんは、おしっこは大丈夫かな。そろそろ入場時間になるよ。」
そんな事を言って笑って、二人でスクリーンの扉に向かった。

映画を観終わって、食事をしている時にも、また子供の話題になる。
彼はかなり子育てに関わってきた様子だ。奥さんよりも学校に行った回数が多いと言う。
「あんなふうに上手に子供の相手が出来るか、自信が無いわね。」
「まあ、僕は経験をしてるからね。それに二枚目だし、子供を怖がらせないような顔をしてるだろう。」
「そうね。髪にもちょっと白いものが混じって、人がよさそうな外見だからね。」
「髪の話は余計。二枚目っていう方の話に食いついて欲しいな。」
そう言って笑う。
「でも、男には子供は産めないからね。こればかりは自然の摂理で、どうやっても女にはかなわない。」
「まあそうだけど。でも、女だって一人じゃ子供は作れないわよ。」
「そうだね。どう、作ってみる。」

いきなりのストレートな言葉に驚かされる。何度かのデートで彼の人柄は解っている。自然な成り行きで手を繋ぐくらいはあったが、それ以上の行為には至っていない。
好ましい男性だとは思っているが、恋愛、結婚、妊娠、出産というステップのどこまで一緒に進めるだろう。
彼の年齢や家族の事、私の家族や仕事の事、考えはじめると、なかなかそんな先まで想像が出来ない。

「それはまたストレートなお誘いですね。私を抱きたいっていうことなのかな。」
「いや。もちろん、男の欲望として、そういう気持ちが無いわけじゃないけどね。
文字通り、子供を作るっていう意味だよ。」
私は黙り込んで、目の前のお酒に手を伸ばす。どう答えれば良いのだろう。

彼もまた、自分のグラスのビールを口に運んで、こんなふうに切り出す。
「君は今、三十六歳だ。三十年後のことを想像してごらん。一生独身で過ごして、仕事をしてそこそこお金を貯めて、老後はその金で養老院にでも入って人生を終わらせるなんて、もったいないと思うんだ。
人が生きてきた証っていうと大げさだけど、なにか世の中に残すものがあるとすれば、それは自分の血を受け継いだ子孫が一番確実なものだと思うよ。
もちろん、一生独身で過ごしても、後世に残る偉業を成し遂げる人も居る。でも、それはほんの一握りの天才だろう。
自然界の生き物は、自分の遺伝子を残すために生きてるんだよ。人間だってそういう生き物なんだ。」
「それで、あなたが私に子供の種をくれるって言うの。あなたはもう五十過ぎでしょう。もう子育ても終わって、子供も成人したのに。
私一人でその子供を育てろって言うの。それとも、また一から子育てをするの、私と一緒に。」
「そうだよ。君がイエスって言ってくれたら、僕はあと二十年頑張るつもりだ。」
「二十年って。」
「子供が生まれて、成人するまでだね。
まだ五十一だから二十年後でも、平均寿命にはなっていない。体力は落ちて行くだろうけど、経験でカバーできる。
それに、もしも僕に何かがあっても、君っていう母親も居るし、もう成人している兄や姉が居るから心強いだろう。父親が居ない子が全部不幸になるわけじゃないしね。」
その言葉は、自分の人生の終着点まで考えた男の言葉だった。
私がまだ考えてもいない、私の将来の事まで心配して、彼なりにその対処方法を示して見せてくれたのだ。

「そうね。そろそろ子供を作るか、一生子供を産まないか、考えなきゃいけない歳だものね。」
世間では、女がある程度の年齢になった時の、妊娠や出産のリスクや可能性の低さが騒がれている。四十歳代になれば、可能性という意味では、一生子供を産まないという選択肢しか無くなるだろう。
そういう意味では、今、目の前に差し伸べられた手は、ラストチャンスなのかもしれない。でも、彼を相手に、その選択をして良いのだろうか。私は、あれこれと考えて黙り込んでしまう。

「ごめん。突然重い話題になっちゃったね。いきなり今夜襲ったりしないから、もう一杯どうかな。」
そう言って、自分のグラスに残ったビールを飲み干す。
私のグラスも空に近い。彼が自然に、二人分のお代わりをオーダーする。

「こんな美人で性格の良い人が、遺伝子を残さないなんて、人類の損失だと思ってたんだ。」
「それはまた、大げさな褒め言葉ね。」
「いいんだよ。恋愛と戦争では手段より結果が優先されるんだから。宇宙で最大の損失って言って褒めても。」
そんなふうに言って笑う。私もつられて笑ってしまう。
「そんなに言われれば、私が子供を作らないのは、人類に対する罪みたいに感じちゃうじゃない。」
「そうだろう。だから前向きにこの件を検討してみてくれないか。」
「では、この件は持ち帰って検討させていただきます。」
二人とも多少はアルコールの影響も有って、気持ちも口も軽くなっているのだろう。
「商談をしてるんじゃないんだからね。そんな口説き文句っておかしいわよ。」
そんなやりとりで陽気に笑ってしまう。

その晩は素直に帰宅した。
私の住む町は、交通機関に恵まれないから、車での移動が主流だ。最近は一緒に出掛ける時には、彼が家まで迎えに来てくれるし、今夜のようにアルコールが入れば、運転代行を頼んで、私の家を経由して帰る。
「残念だな。飲んでさえいなければ、このままの勢いで、君をホテルに連れて行くのに。」
そう言って笑うが、そんな気が無い事は、私にも解っている。
「あなたはそういう事はしない人でしょう。それに私もまだどうしたらよいか決断が出来ないわ。」
「まあ、どちらにしても、運転代行でホテルに行くのは、恥ずかしいからね。」
駐車場の車の中で、代行を待つ間に唇を重ねたのは、アルコールが入っての成り行きだったのだろう。

帰宅すると、母が居間から声をかけてくる。
「お帰り。いい人とデートかい。」
「どうして、そんなこと思うの。」
「車を置いて出かければ、エスコートしてくれる人が出来たんじゃないかと思うだろう。」
「そうね。映画を見て食事をしてきたわ。ちょっとお酒も入って。」
コートを脱いで、母の向かいの席に腰を下ろす。
「ねえ。私にいい男が出来たって言ったら、どうする。」
「どうもこうも無いよ。いい事じゃないか。我が家の末っ子の行かず後家も、とうとうそんな気になったかい。」
「まあね。でも相手がね。」
「なんだい。妻子持ちとの不倫なんて話じゃないだろうね。」
「奥さんは居ないわ。子供は居るけど。問題は歳の差かな。」
「バツイチの男かい。まさか年下じゃないだろうね。」
「そうじゃないわよ。なんで年下なんて思うの。」
「いや、小さな子供を抱えた二十代の若いのが、子供の面倒と自分の面倒と、両方見て欲しいなんて、年上の女に甘えてるんじゃないかって、そんな事を想像しちゃってさ。」
「年上の人で、子供も成人していて、良いパパになってくれそうな人よ。」
「それなら文句ないじゃないか。」
「私より十五歳上なの、もう五十代の人なのよ。」
「大丈夫だよ。男はいくつになっても、種は蒔けるって言うからね。ぐずぐずしてるとお前の方が、種が実にならない年齢になっちゃうよ。」
「でも、今から結婚して子供を作って、その子が大きくなる頃には、もういい年になっちゃうでしょう。」
「そんな先の事を、今から心配していてどうするんだい。まだ種が着くかも判らないんだろう。これから先に何か起こるかもしれないなんて心配してたら、何も出来なくなっちゃうよ。」
「じゃあ、お母さんは、私がその人と結婚して、子供を作ってもいいと思うの。」
「もちろんだよ。兄さんも姉さんも孫の顔を見せてくれたんだから、今度はお前の番じゃないか。結婚しないで、一生独りで居られたら、私もお父さんも安心してあの世に行けやしないよ。」
「私がお嫁に行って、この家にお父さんとお母さんの二人だけになっても、淋しくない。」
「馬鹿だね。二度と会えないところに行くわけじゃないだろう。お前たちが生まれた頃から、そんな事は考えてるよ。自分たちの世話をさせて、娘の人生を縛り付けるつもりも無いしね。」

その後も変わらず、彼とのお出かけは続いた。休日に迎えに来て、あちらこちらに出かけて、家まで送ってもらう。行き先はさまざまだ。山間のワインディングロードを車を走らせて紅葉の景色を眺める時も有れば、サッカー観戦に行ったことも有る。動物園やプラネタリウムにも行った。

動物園では猿山を眺めながらこんな話も聞かせてくれた。
「遺伝子って最優先だけど、模倣子っていうのも生物学の概念では有るんだよ。
一匹の猿が芋を海に落とした。拾って食べたら塩味が付いていて旨かった。それからそうやって食べていたら、いつの間にか周りの猿も真似をするようになった。
こういうのは、親から子供に遺伝として伝えるより、早く広まるんだって。」
「それって、文化とかの話じゃ無いの。」
「まあ、そういう意味も有るんだろうけどね。ジーンとミームって言うらしいよ。
人間だって、江戸時代には家名を残すために子供がいなければ養子をもらった。そして、その子に、家訓だの何だのを教え込んで、後継ぎにしたんだ。そういう形でも後世に繋がるものを求めたんだね。」
「それは現代でもそうなんじゃないの。子供を残さないで仕事に打ち込む人も多いんだから。」
「そうだね。そういう生き方も有ると思うよ。でも江戸時代のそれは、子供が出来なかった家の話で、あえて子供を作らないっていう選択をしたんじゃないだろう。やっぱりちょっと違う気がするな。」

「この前の話って、今でもそう思ってるの。」
「この前って。」
「子供を作るっていう話。」
「ああ、もちろん。真剣にあと二十年、君と一緒に頑張ろうと思ってるよ。」
「どうしようかな。まだ迷ってるんだけどね。」
「一生を賭けた仕事だからね。迷ったり臆病になったりするのは当然だと思うよ。」
「あなたが二十年後にどんなふうになってるのか、見てみたいわね。」
「それは簡単だよ。一緒に二十年間過ごせばいいんだ。」
彼はいかにも簡単な事のように言う。
「そんな、一言で二十年なんて言わないでよ。」
「大丈夫。僕は既に二十五年間、家庭を守って子供を育てたっていう実績が有るんだ。
もう一度やる事も自信が有るよ。」

帰りの車内でも話は続く。
「でも、結局は二十五年の結婚生活も終わっちゃったんでしょう。奥さんとの性格の不一致って、どんな事が有ったのかな。」
「それを話しだすと、長くて重たい話になるんだけどね。
いつかは言わないといけない事だろうから、ここで話してしまおうか。」
そう言って、車のBGMのヴォリュームをちょっと絞る。

「簡単に言ってしまえば、まだ若かった頃、愛情とか優しさとかの意味を間違えていたんだ。
結婚して僕の親と同居して、子供も生まれて、外からは和やかな家庭のように見えたんだ。でも嫁姑問題っていうのは多かれ少なかれ起る。
当時、僕の両親は五十歳代で父も健在だった。家事に慣れない奥さんが、子供の世話をしながら、食事の支度とかしてたんだけど、それに口も手も出してしまう。
親父は昔ながらの人だから、きちんと十二時ちょうどには、食卓に着いてお昼を食べるような人だったし、お袋は何十年もそういう親父に従って来たから、嫁も当然そうするべきだと思っている。
それで、奥さんがもたもたしていると、時間に間に合わないし、親父の機嫌も悪くなるから、さっと自分で二人分の食事の用意をしてしまう。お昼だけじゃなくて三食ともそんな感じだった。
奥さんが手間をかけて、大人四人分と子供の食事の支度は出来た頃には、もう食べ終わっちゃって、『私たちはもう済んだからいいよ。』って言うんだ。」
「それはちょっと可哀そうね。」
「メニューの内容だって、年寄りは漬物とか佃煮とかで済ませちゃうだろう。子供向きのメニューを作っても、『こんなものは、年寄には・・・』って言って手を付けない。
自分たちの支度をした調理道具なんかも流しに置きっ放しだから、奥さんが何かするには、まずそれを洗って片付けるところから始めなきゃならない。ますます時間がかかってしまう。悪循環だよね。
そのうちに、奥さんはそういうことを回避するようになっちゃったんだ。」
「回避って。」
「たとえば子供が小さい頃は母乳で育てたから、授乳を食事支度の頃にする。そして
『ごめんなさい。今おっぱいをあげてるから、お義母さんたちだけで先に済ませてください。』なんて言うんだ。そうすれば誰も文句が言えないからね。
もうちょっとすると、頭が痛いって言って寝込んでいたりするようになった。」
「それで、あなたの間違いって言うのは何なの。」
「それを容認しちゃった事だよ。」
「だって、そんな話なら奥さんの味方になってあげなきゃ、可哀そうじゃない。」
「そうだよ。味方になったんだ。奥さんが頭が痛いって言って寝込んでいる。家中が仮病じゃないかって疑惑の目で見ている。でも、僕は仮病じゃないって言い張って、自分で食事の支度をするようにしたんだ。
それが愛情とか優しさだとか思い込んでね。
親父もお袋も、実の息子の僕には強い事は言えない。作った料理がまずかろうが、出来上がりがちょっと遅かろうが、『文句があるなら食うな。』くらいの事は言い返すからね。」
「奥さんも安心したでしょう。」
「そうじゃないんだ。そうやって庇ってやる事は、奥さんをますます逃避させるだけの事だったんだ。
本当なら、きちんと両親と奥さんと四人で話し合って、こういうルールにしよう、って決めなきゃいけなかったんだよ。
今になればそう思う。でも、当時の両親と話し合いをすれば、結論も見えていたんだ。
『これが今までもやってきた我が家のルールだ。嫁としてそれに従え。出来ないのは努力が足りないからだ。私は何十年もやってきた。』口論では勝てないだろうって解ってたんだよ。」
「そうね。親にそう言われると、反論は難しいわね。」
「それで、一方的に回避してその逃亡を幇助して、その挙句、奥さんは何もやらない人になってしまった。もちろん、日々のいろんなことをやってはいるんだけどね。
子供がある程度になると、パートで働きに出た。家に居ないようにしたかったからかも知れない。誘われてママさんバレーのチームにも入った。でも、そうやって出かけたりはするけれど、嫌いな事はできるだけ避けるような性格になってしまったんだ。」
「そんなに避けて通るような事があるの。」
「たとえば、この前話したPTAの役員の事とか、子供の授業参観だとか。」
「だって、子供の事って気にならないのかな。授業参観なんて観に行きたいんじゃないの。」
「単純にそれだけならね。行くのに何を着て行こう。あそこの奥さんは噂話ばかりでしつこいから、出来れば一緒になりたくない。この前息子が喧嘩したのを、先生になんて言って謝ろう。いろんな余計な事を考えると、混乱してしまうんだよ。
そしてその挙句、僕に『あなたが行ってくれない。ほら、私はパートだから、休めばその分だけ収入が減るけど、あなたは正社員で有給休暇も有るんだから、行っても大丈夫でしょう。』なんて言う。」
「まあ、そう言われちゃうと、駄目とは言えないわね。」

「そんなふうな事が何年も続いてしまったんだ。日々の食事だって、朝も晩も僕が作る事が多くなった。朝も起きて来ないし、子供たちは学校に行かせなきゃいけないからね。子供のお弁当も作ったよ。」
「それで疲れちゃったのね。」
「ああ、日々の家事は別に問題無いんだ。フルタイム働いているお母さんも居る。そういう人は当然やっている事だろうから、男の僕がやっても問題は無いと思うんだ。」
「じゃあ、どうしてなの。」
「日々、アドリブを続けてたからね。家に帰るまで、奥さんが夕飯の支度をしているかどうか判らない。帰宅して様子をうかがう。これは僕がやらなきゃいけないとなったら、そこからいろんな事を考え始める。冷蔵庫の材料で何を作ろうかな、とかね。そんな事を続けるのに疲れたんだ。最初から居ないなら、メニューを考えるのも出来るし、帰宅途中で買い物も出来る。ここにあるもので何か作れって言われるより、よっぽど楽だからね。」
「大変だったのね。」
そうとしか言えない。家庭の内部事情で、他人が口をはさめるものでもないし、もう終わってしまった事なのだ。

「でも、もうそんな時期は過ぎ去ってしまった。親父ももう居ないし、お袋も年取って煩い事は言わなくなった。僕も家事全般、きちんと出来るし、子供たちもそうだ。今、僕と一緒になれば楽だよ。」
話をそういう方向に持って行って、明るく振舞って見せる。
きっと彼の中に二十五年掛けて刻まれた傷だって有るのだろうに、それは見せようとはしない。
「別に、一緒に暮らしたくないなら、お袋と子供達をあの家に住ませたままで、君と二人っきりの生活をしてもいいし、君の家でマスオさん生活をしたって良いと思ってるんだよ。」
「そんな事、できっこないでしょう。あなたがそこまでして守ってきた家族を、私の為に捨てさせるなんて。」

「こんな話をしても、同情を買うだけのような気がするから、あんまり話したくは無かったんだ。
でも、理由を言っておかないと、君も不安だろうと思うからね。
離婚の理由なんて、人それぞれだろう。僕だって、もうちょっと我慢していれば良かっただけかもしれない。」
「誰にでも限界は有るんだから、しかたないんじゃない。」
「性格の不一致って言っても曖昧だからね。こんな理由で良かっただろう。性の不一致じゃなくて。」
「何よ、それ。」
「いや、セックスに不満を持って、別れる夫婦も居るって言うからね。」
「うーん。それに関しては何とも言えないわね。よっぽどおかしな癖が有るって言うのなら問題だけど。」
「実はそうなんだ。僕はベッドルームで女装する癖が有ってね。奥さんはレザーのコスチュームで鞭を振り回す癖が有ったんだ。」
「馬鹿。」
結局はそんな馬鹿な話をして、笑い話にしてしまうのだ。
「じゃあ、今度は私が鞭を振るってあげるわね。」
「そうか、それなら君とベッドに行くときは、女装の支度をして行くことにしよう。」
「本当に。じゃあ、どんな風になるのか楽しみにしてるわ。」
「それって、僕と一緒にベッドに行ってくれるっていう事かな。」
笑いながらそう問いかける。笑い話にしてしまっても良いし、真剣に頷いて受け入れても良い雰囲気を作る。
「そうね。前向きに検討しておくわ。」
「なんだ。またその返事か。そろそろ決断してくれてもいいんじゃないか。」
「大丈夫よ。前向きに考えてるから。あなたはそんなに急ぐ人じゃないでしょう。」

帰宅して、夜ベッドに入っても、彼の話が思い出されてなかなか眠りにつけない。
彼の過ごした二十五年もの年月は、彼に大きな影響を与えているだろう。私の兄や姉も、結婚して子供を持って家庭を築いている。やはり彼と同じような様々な日常が有るのだろうか。そして、私はどうなのだろう。
彼の人柄に惹かれながらも、その人生の重さにためらっている私が居る。
そして、私は、一つの結論を思いついた。

季節は雪のシーズンに変わっていた。
クリスマスも年末年始もそれなりに会う事は有ったが、特別な事も無く過ごした二人だった。もちろんクリスマスのプレゼントは交換したが、ごく普通の物だった。彼にはマフラーと手袋をあげた。彼は私の新しい手帳をプレゼントしてくれたのだ。
彼はきちんと事前にリサーチしていた。
「クリスマスには手帳か日記帳をプレゼントしようと思うんだけど、どうかな。」
「そうね。日記よりは手帳の方が良いかな。日記って日々改めて書いたりしないし、空白のページばかりだと悲しいからね。」
「じゃあ、手帳にしよう。なにかリクエストが有るかな。見開きでひと月入るものだとか、日々の細かい予定が書けるものだとか。」
「その辺りはあなたのセンスに任せるわ。大きさは、今使っているバッグに入るくらいの物がいいわね。」
そうやって、きちんと訊いてからプレゼントを選ぶ率直さも、彼が長年の経験で身に付けたものなのだろう。
サプライズを狙って期待外れの物をプレゼントするような若い男より、よっぽど安心できる。

年が明けて日常が戻った頃、雪の話題になった。
「雪は好きかな。」
「そうね。嫌いじゃないわよ。何、スキーにでも誘ってくれるの。」
「スキーか。もう十年以上やってないからな。君が行きたいって言うなら付き合うけど、あんまり自信が無いな。」
「それでも、やった事は有るのね。」
「ああ、最後にやったのは、娘が小学校でスキー教室に行く冬だったかな。一度もスキーを履いた事が無かったから、ちょっとだけ予習ってことで、冬休みに連れて行ったんだよ。
その時に初心者コースの緩斜面のゲレンデで滑ったのが最後かな。」
「そうなんだ。滑れるのね。実は私、今まで一度もスキーってやったことが無いのよ。」
「それは良かった。僕も初心者コース以外は滑った事が無いからね。」
「雪は眺めてるのが好きだな。」
「雪見酒かな。」
「温泉に浸かって、雪を愛でるなんていうのが良いですね。」
「それは最高だね。」

私は以前から考えていた事を、実行するチャンスだと思った。
「じゃあ、今度そういう温泉に連れて行ってください。」
「それは良いけど、ちょっと淋しいかな。せっかく一緒に行っても、男湯と女湯に別れて雪を愛でるんじゃ。」
「もちろん混浴の温泉で。お部屋は一緒の部屋でね。」
「本当かい。」
「うん、そのつもり。なるべく人の居ない鄙びた温泉宿が良いわね。そういう処に一泊で出かけるの。」
「人目を忍ぶ恋の道行ですかね。そんな隠すような立場でも無いんだけど。」
「そういう雰囲気もたまには良いんじゃないですか。日常生活を離れて。」
「じゃあ、そういう宿を探してみよう。期待しててね。」
私の方から一泊旅行を切り出したような形になったが、遅かれ早かれこういう事になるとは予感していた。
彼のアプローチは相変わらずだったし、それに抵抗出来ない私の気持ちは、自分自身で良く解っていたのだ。

こういう形で彼と恋人関係になるのは良い。一緒に居る事が楽しいし、付き合っていて安心できる。
でも、彼の言う結婚とか、子供を作るとかは、未だ迷いが有る。
自然にお付き合いを重ねて、自然に結ばれて、もしも三十六歳の私の中に、五十一歳の彼の種が宿ったら、その時は、それが与えられた運命だと信じて、彼と一緒に生きれば良い。
もしも、子供が出来なければ、それはそれで、私に与えられた運命なのだ。彼と恋人同士という関係のままに、年月を重ねて行けば良い。
ある意味で、ギャンブルのような気持ちで、成り行きを考えていたのだ。

彼との温泉行は、とても充実した楽しい時間になった。彼は、女装道具も鞭も持ってきたなどと言って笑ったが、実際にそんなものが有るわけも無く、鄙びた温泉で二人で湯に浸かり、お酒と雪の眺めを楽しんだ。
裸の体よりは化粧を落とした素顔の方が恥ずかしかったり、彼の年相応のお腹をつついてみたりと、日常と違う姿をお互いに見せながらも、それを笑い飛ばして過ごした。
もちろん、一緒の部屋で過ごした一夜も充実して満足行くものだった。
ギャンブルのダイスは振られた。ダイスにいかさまは無い。
私の体は妊娠可能な時期だったし、二人とも避妊などは考えなかった。これで子供を孕んだならば、その運命に従おうと心を決めていた。

彼にもその決心は話してあった。そして、その決断に同意してくれた。
「別に、子供が出来ても出来なくても、君に対する気持ちは変わらないんだけどね。どうして子供と結婚をイコールにするのかな。」
「だって、あなたが二十五年かけて、今の形に落ち着かせてきたファミリーのスタイルなのよ。そこに私が割り込んで行けば、また波風が立つでしょう。子供達にしてみれば、実の母と別れた後の空席に入り込んだ女だもの。そのポジションに居座るだけの大義名分が有れば、堂々と入って行けるわ。」
「それが子供の存在か。まあ、そういう意味では良い判断かもしれないね。うちの子供達も、もう大人だから、義理の母親に対して悪い感情は持たないとは思うけどね。」
「それにお義母さんの気持ちも有るだろうし。言葉にはしなくても、良い感情も悪い感情も、持つものよ。」
「そうだね。ともかく、ギャンブルの結果を待とう。今回だけって限定じゃないんだろう。いつか出来た時には、っていう条件なんだろう。」
「そうね。でも五年も十年も先になれば、可能性は低くなるから、現実的にはこの先数年の間かな。それに、毎日こうして居られるんじゃないから、チャンスは少ないかもしれないわよ。」
「じゃあ、これからも毎週のようにデートに誘って、毎回ホテルに連れて行って、せっせと励む事にしようかな。」
「嫌よ。それだけの為のデートなんて。あなただって義務で種付けしてるんじゃないでしょう。競馬の馬じゃないんだからね。」
「そうだね。すべては運任せだ。」

その一泊旅行から後も、二人の付き合い方は以前とあまり変わらなかった。
合唱団の練習には、何事も無いような顔で参加し、休日には一緒にどこかに出かけて過ごした。
私の両親には、まだ何も告げてはいない。だが、帰宅が深夜になったり、翌日まで帰らなかったりする事で、なんとなく両親は、彼の存在がどういう大きさになったのかは感づいていただろう。
休日に一緒に居るところを、合唱団のメンバーに見られた事も有ったし、彼や私の職場の人と遭遇する事も有った。二人とも後ろめたい事は無いので、ニコニコと笑って挨拶を交わした。


季節は巡り花の頃になり、私も彼も一つ年齢を重ねた。
雪の頃に蒔いたギャンブルの種は、意外に早く結果が出る事になる。
あの温泉泊以来、私が妊娠しなかった証拠が、私に訪れる事は無かった。
桜の咲く頃に、私は市販の検査薬で、結果を確かめた。ギャンブルはファーストトライで成功していたのだ。
その結果を彼に告げると、彼はとても喜んでくれた。
「実はちょっとだけ不安も有ったんだ。男の種も、年を取ると劣化するって言うからね。きっと二人の相性の良さと運の強さが、こういう結果にしてくれたんだよ。」

二人で一緒に病院に行った。専門の医師に診察してもらって、きちんとお腹の中の赤ちゃんも確認出来た。
運命は私に新しい道を示した。
二人とも家族に新たな結婚の事を話した。どこにも問題は無く、反対する者も居ない。
そうして私は、酒井美歌から岡野美歌になったのだ。

ファミリーⅡ another side story

このストーリーは「ファミリー」というお話のanother side storyです

そちらには、彼の立場から、以前の奥さんとの別れ、再婚、その後の人生などの
長いスパンでのストーリーが記されています。

そちらもお読みいただければ、このストーリーの背景もお解りいただけると思います
ぜひどうぞ。

http://slib.net/23249

ファミリーⅡ another side story

恋愛から結婚に踏み出す一歩は? 自分の人生の岐路で揺れる心 結婚や出産という人生の選択 過去を乗り越えて先に進む男と その男に惹かれる女のピュアなラブストーリーです

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-30

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