渚のリフレイン
夕焼けに濡れた海風が彼女の長く伸びた黒髪を揺らす。
春になったばかりの海辺はまだ肌寒く、堤防の上に一人分開けて座った彼女との間に、ひしひしと言い表せない思いだけが積もっていく。
長い沈黙だった様な気がするが、四年間という彼女との空白の時間には必要なのかも知れない。そんなことを冷静に考えていても、実際には内心焦っているのをわかっていた。
最初の一言が出てこない。
「髪、伸ばしたんだな。最初誰かわからなかったぞ」
結局焦って口にしたのはそんな言葉だった。
「大人っぽくなったでしょ」彼女は不敵に笑う。
「でも最初の第一声がそれってちょっと複雑かも。他に何か無いの?」
彼女は少し不貞腐れたように口を尖らせる。その仕草は子供のそれ、ではなく、どこか陰を含んだ、むしろ歳不相応と思えるほど大人びたもので、素直に美しいと思った。しかし、そんな言葉はいくら海外の生活に馴染んでしまった今でも、口にすることはできない。
四年間、と彼女は遠慮がちに言う。
「どうだった?」
その言葉はひどくそっけない、簡単なものだったが、彼女の気持ちが全て集約された物の様な気がして、簡単には応えることが出来ない。
「四年、か……」
今振り返ってみると、フランスを出るときに感じた、とても短かった、という無味乾燥な感想は、ただ卒業という事実を呑み込めていなかっただけだったように思える。
音大で共に技術を磨きあったオーケストラの仲間達やルームメイトとの思い出は楽しかった事も、苦しかった事も、星の数ほど自分の胸のなかに残り、輝いている。
もちろん、その間彼女のことを忘れていた訳ではない。しかし自分から連絡は出来なかった。勝手に留学を決め、四年前のあの日のこの場所で、一方的にその事実を告げた自分から連絡するのは後ろめたかったのだ。
少し強くなった風と共に、波の音が二人の静寂に染み入っていく。さっきまであった夕暮れの暖かさは完全に雲にのまれてしまった。
なにも言えずに黙っていると、ねえ、という今にも波音にかき消えてしまいそうな声が聞こえた。
「一曲吹いてほしいな」
その願いは弱々しく、震えていたが、どこか聞き流せない、聞き流してはいけない様な力が籠っていた。
言われるがままオーボエを取り出し組み立てる。何年も使っているこの愛機はすぐに指に馴染み、心を落ち着かせてくれた。
少し気になって彼女の方を見ると、膝を抱き、じっと何かに耐え、待ち望むかのように遥か遠くの水平線を見つめている。
自分はまだ彼女に何も伝えられていない。
四年前と同じだ。
あの時も結局留学の事実だけで自分の言葉は伝えられなかった。
すると不意に何年も昔の思い出とメロディーが彼女に重なる。
――『曲作ったんだ。聴いてくれる?』
――『いいよ!』
緊張に指が少し震えていたが、必死に考え、紡いできたメロディーを奏でる。
――『わぁ、いい曲だね!』
彼女は満面の笑みと共にそう言った。
あの日の笑顔を取り戻したい。そう切に願うと、指は勝手にあの日と全く同じ様に動き出していた。
音は真っ直ぐ太陽の方へ伸びていく。強くなった波の音でさえ、伴奏のように心地よい。
横目に彼女がピクリと動いたのが見えた。なんの曲か気が付いたのだろう。
吹き終わると、期待や緊張、恐れが混ざり合った複雑な感情が一気に襲ってくる。
しかし彼女からの声はない。
恐る恐る彼女の方を伺うと、
「いい曲だね」
そこには全く別人の様で、しかし、どこか懐かしい笑顔があり、あの時と全く同じ暖かく柔らかい光が彼女を照らし、光の粒が頬を伝っていく。
雲に隠れていた太陽はいつの間にか再び顔を覗かせ、空を朱に染めていた。
渚のリフレイン