あめもよう

【長靴・オレンジ・空洞】

 雨は嫌いだ。湿った空気も、気分まで滅入りそうになる程の分厚くて重い雲に覆われた空も、嫌い。子供の頃は、雨が好きだった。雨が降るたびに母さんがどこからともなく持ってきて着せてくれたオレンジ色の雨合羽や、カラフルな水玉模様の傘、そしてお気に入りだった長靴。晴れの日にまで身につけたいとねだる私を叱って、どこかに仕舞われていたそれらと出会える雨の日はいつも待ち遠しかった。
「ん、雨?」
窓の外を見つめる私の背後から声がした。
「うん。雨。」
 私は声の主が誰だかわかっているから、振り返らずに答えた。その背中を、声の主が後ろから抱きすくめる。長くて、細い腕は案外力強くて、私はいとも簡単にその胸に引き込まれた。そのまま床に二人して座り込む。フローリングに安物の絨毯を敷いただけの、固くて居心地の悪い床。それでも腕の中に包まれた熱は、私を安心させた。
 顎をくいっと持ち上げて、唇を重ねる。流れるような動き。寝起きのにおい。乾いた唇。どれがなのかわからない。あるいは、そのどれもなのかもしれないけれど、何故だか無性に寂しくて、空しくて、胸の中にできた、名も知れぬ空洞を埋めるように何度も強く唇を押し付けてみた。
 でも、空洞は深くなる一方のような気がして、私はほんの少し慌てた。それを悟られないように、唇を離して再び窓の外を見る。当然のように雨は降りやまない。それどころか、雨足は次第に強さを増しているようにも思える。
「やべぇ、帰んないと。」
 そう言って、私を包んでいた腕が柔らかく解かれる。私は一瞬、ほんの一瞬その腕を掴むことを考えて、躊躇って、そのうちに温かい身体は離れていった。
 空洞が、深くなる。
 暫くして、再び、
「もう帰んないと。」
 と声がした。着替えを済ませたのだろう。私はTシャツとタオル地のショートパンツという、部屋着のままの格好で、玄関で靴を履く彼の元まで行った。
「ごめんな。夜勤ってことになってるから。」
 謝るのは、ズルいっていつも思う。子供じゃない私はごねることはできないのだから。
「次は、出張ってことにするから。」
 そう言って、また流れるような動きで、唇を重ねる。ほのかな歯磨き粉のにおい。それから、いつもの香水のにおい。ワザとのようにだらしなく着たスーツと、黒い折り畳み傘。空洞はもう、底も見えない程深くなっている。一度離れた唇を、今度は私から重ねた。少しずつ唇を湿らせて、彼もそれに応えるように何度も唇を重ねる。
 ほんの少し空洞が埋まった気がしたのは、ときめきや満足感なんかじゃないことくらいわかっていた。そんなキラキラしたものじゃない。もっと黒くてどんよりとした、そう、まるで今日の空を覆っている雲のような分厚くて、重い感情。
「それじゃあ。」
 目も合わさず、彼が玄関扉を開けた。
 湿った空気と、一層強い雨音と、いつもの香水のにおいが流れ込んでくる。彼が出て行った後の閉じた扉を見つめながら
「嫌い。」
 と呟いた。そんなことは無駄だとわかっていても、言わずにいられなかった。そして、乾いた唇に触れながらお気に入りの長靴を見て、オレンジ色の雨合羽とカラフルな水玉模様の傘を、買いに行こうと思った。

あめもよう

あめもよう

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-29

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