practice(15)




十五



 針子見習いは開店前の店先で使い古された自転車のタイヤに空気を入れながら,通りを歩いて浮かんで消えてく黒外套の紳士の裾を眺める。解れの有る無しを歯型のリズムで決めてから,手縫いで茶色のフェルト地に結び付けて,それから出来ればの話とし繋ぎ止める,型紙に整理番号と特徴を記して取って仕舞う。仕舞う先は革で仕上げられた深い赤色のアタッシュケースの隅から隅で,持ち手の方から下へ下へとクルクル巻いて収めていく。一枚も逃がさないのが師匠から褒められるところで,無節操なのが呆れられるところだけれど,一枚も逃がさないのだからこれは仕方が無い。「感心の軽さに肝心の重みが追っつかないお前さんには,それを実感させるのが何よりの近道だろうね。」と言って,ズシリと重い鉄瓶を一日中実際に持たせた師匠にはその繊細な技術でガッチリとポッケの口を縫われた。そのポッケには縫われる前に師匠が何かを入れたことは目隠しの上の,拘束されている中で感触として分かっているけど聞けやしない。「大切な教え」だ,「師匠の思い」だと,はぐらかされるのは目に見えているし「聞くことは許しやしないよ。」と,それを口にすることを心から畏怖で覆われてしまっている。
 シュッシュッと単純に空気を送り込んで,タイヤがパンパンに破裂しないようには気を付けながら今日はけれど厳選を重ねるのを止めて,取れるだけ取れるということに運命を託している。『良く浮かぶ日だから採集が良く出来る』,ということもあるけれども今朝から師匠は仕立ての注文を受けにお得意先に出向いていて,無節操に採集しても肝心なお説教を受けることもないし,何より渡したい相手がいてそれが師匠でない。知られたら当然に大目玉をくり抜かれる勢いだろうけれども,こればっかりは師匠相手でも譲れない肝心なこと,渡したい『ことたち』なのだ。自転車はだからそのための,師匠が帰って来るであろう二時間を移動するための大切な手段で,店を留守にすることになるのだけれど同じく留守を預かるノギクさんがこなしてくれる約束になっている。師匠の一番弟子で兄弟子にあたるノギクさんは大抵の仕事を一人でこなせるし,人が出来ていて優しい。しかも『やるなら今のうち。』を信条にして大胆なことをこそこそとする人だ。面と向かって事情を話せば「やるなら今のうち。」と言って,こうしてせっせとタイヤに空気を送り込みながら,また一つと名前付きの型紙を採集する時間を許してもらっている。さっきの紳士の,丸みがかった型紙もそのおかげ,帽子から縫い付けた夫人もそうだ。立派な鞄を何故か抱えた若者も通りかかっている。
 けれど,まだ足りない。




「畳まなかったらそのまま翔んでいきそう。振り返りもしない本体を追いかけたがっているようで寂しそうだし,やっぱり翔んでいきたそうだし。」
 夕方になって珍しく通りを歩いて来て,店先で見たいと珍しく言ってから,針子見習いの隣に立って風船屋の跡取りが浮かべた印象はどの型紙にでも当てはまりそうで,フェルト地と型紙を結び付けている糸を針子見習いが鋏で切る仕草を見せてから,手繰った意識で上下の色が合わない背広を引き寄せて,整理番号を記してからそれを手に取った。そして「はい。」と差し出して,風船屋の跡取りが「触ってもいいんだ。」と言いながら,既に触っていたその感触を確かめて「良い紙質だね。」と評して針子見習いに返す。「これならお師匠さんにも褒められるんじゃない?」と聞いてきたから,針子見習いが「どうだろう?」と返して,畳んだ後でアタッシュケースの一番右隅に仕舞った。一番上の列がようやっと埋まったペースは,針子見習いがいつもより意識している証左だった。
「そっちの『話』は進んでる?」
 気持ちの上で,そろそろ灯りが必要になる手元の暗さに,店先を照らす蛍光の明かりが『理の合図』で点くのを針子見習いは今すぐに欲しいと思いながら聞いた。風船屋の跡取りの答えは明るく帰って来なかった。
「進んでるって私は思うんだけど,先生はそう言ってくれないの。肝心要のところが止まってるんだって。些末事ばかり,風も吹かない。陽光の角度ばかりじゃ世界は一日も迎えられないんだよって。あと,下駄ばっかりで路はガタガタとも言われた。」
「そんなに道を脆く描写したの?下駄でガタガタって,古臭い街なここのどこにも無いよ。」
 風船屋の跡取りは針子見習いが聞いたことに正しく答えた。
「路はきちんと描写した。整備された,コンクリートみたいな頑丈なものとして描いた。『なのに』,なのか,もしかすると『だから』なのかもしれないけど,そこを通る人たちの踏み込みに配慮も思慮も見当たらなくて,足音だけが荒くて仕方無い。ベクトルだけで,顔が浮かばない人ばかり。『何か言葉を言ってるの?』っていうのが最近の締めのお言葉なの。」
 針子見習いは聞く。
「人物描写が足りないってことか。苦手だったっけ?」
 風船屋の跡取りは答える。
「ううん,苦手意識は持ってない。芽生えそうではあるけど。」
 「そっか。」と言って,針子見習いが店先の前の通りを歩いて浮かんで消えそうな三人組の青年の着物の裾を糸を用いてフェルト地に手縫いで結び付けてから,出来ればの話として繋ぎ止める。三人分の型紙がここに残るまでにそのままにして,針子見習いは集中した。撫で肩や怒り肩,肩よりも猫背にその特徴がある三者三様の浮かび方と残り方が目に見える。「上手だね。」と,風船屋の跡取りが零すように言った。『集中の在り方が如実に表れる。』と師匠が言っていたのを針子見習いは思い出して,バサバサと夕方の強い風にバタつく三枚を見てよく理解した。あの三枚の手触りは固いだろうと,針子見習いはそれに実際に触れる前に思っていた。
 風船屋の跡取りに,針子見習いは言う。
「型取るより,浮かばせる方が断然難しい。というのはやったことないけど分かるつもりだよ。最初の『話』を割って見たときに一番感じた。色も匂いも,もちろん手触りも,直に感じさせるのは風船屋だからこそだし,風船屋にしか出来ないよ。だから同じに思ってもいいけど,同じに思わなくてもいいと思うよ。」
 意識を手繰って,三者三様の着物を手元に引き寄せようと見つめていた針子見習いは風船屋の跡取りを見れなかった。風船屋の跡取りの答えを待ちながら近付き大きくなって来る三者三様の見た目に,加える一工夫は無いことを針子見習いは確認してから赤鉛筆を手に取って,頭の中で記すべき番号を三つずつ数えていた。
 話さないのも少しだけ,口を開く風船屋の跡取りも数える。
「さん,しー,ご。さん,しー,ご。ねえ,当たってる?」
 針子見習いは答える。
「丁度十個,足りないね。」
「じゃあ足す。じゅう,さん,しーご。じゅう,さん,しーご。」
 風船屋の跡取りが隣で数えるのを聞きながら,針子見習いは撫で肩な一枚目を目の前にして合わせるようにその番号を書いて畳む。アタッシュケースの二列目はそうして始まっていった。怒り肩な二枚目にも同じようにして,猫背が分かりやすい三枚目にはそうしなかった。削られていない方を風船屋の跡取りに向けて,削られている先は自分に向けて,針子見習いは言った。
「番号はそれでいいから,特徴は思うままに書いて見たらいいよ。」
 聞いて,笑顔を浮かべてから風船屋の跡取りはそれを断る。
「いいよ。それはいい。大丈夫だから。お師匠さんにも怒られちゃうよ。」
 聞いて,笑顔を見せてから針子見習いはまた一度言った。
「叱られるのは慣れてるし,そのくせ認めてくれるのも師匠の奇妙な優しさだから,多分大丈夫。書いてみてから試すと良いよ。うちの師匠で,君の『話』を。」
 それを聞いても,まだ躊躇いを見せていた風船屋の跡取りは差し出されて引っ込みやしない針子見習いの赤鉛筆を見つめて,針子見習いも見てから浮かべた苦笑いを見せて,きちんと握って型紙に描き始めた。その見た目からは分からないはずの内実に,感じ取れたことと分かったと思えたことを加えていく。今にも鳴きそうなことまで描かれて,針子見習いは思わず吹いたのだけれどしてやったりの風船屋の跡取りは描き残すところなく最後の最後まで描き切った。もう話せそうな三枚目の型紙に,二人それぞれ名前も付けてアタッシュケースに畳んで仕舞った。削られていない方を今度は風船屋の跡取りが針子見習いに向けて,風船屋の跡取りは針子見習いに言った。
「動き出したりしたら言ってね。今度は羽根も付けてあげるから。」
 受け取って,口が閉じたポッケを気にしながら針子見習いも言う。
「尻尾をお願いするよ。羽根は書いておくから。」




 風船で作ったお話には『黒い目がただ浮いていた。』と最後に書いたけれど,『目だけがただ浮いていた。』と最初から書き始めても良かったかもしれない思う。
 そう書き出していた風船屋の跡取りの書き置きは,その先生が山道を歩いて浮かんで消えてから一週間後に店先に届けられた。店先で,その日も通りを歩いて浮かんで消えてく,何人目か知れない黒外套の紳士の型紙を針子見習いは,結び付けたフェルト地からはっきりとした意識で手繰りつつ,鋏を用いて糸を切る仕草をしてからその日一枚目の番号を記して畳んで,仕舞った。だから受け取ったのは針子見習い自身で,誰の手も介していない。店内で大量注文を捌くのに忙しい師匠の目をそれでも慎重にかい潜って,雲の切れ間に朝の光が射し込むタイミングで読んでいった。
 風船屋の跡取りは動く『話』をきちんと浮かべて,広い表面積一杯の中で広々と生きる命あるものを活かすことに成功した。それは先生が消える前だったから,その出来栄えを先生に見て貰って概ね良い方向に評してもらったようだけれど「ただ一つ,ただ一つだけだね。」と,ある点の評価は留保されたそうだった。
 風船屋の跡取りがそれを今まで通りに素直に受けられなった理由は力を出し尽くしたという点と,先生がその場で言わない理由の不可解さにあった。何度も何度も懇願して,その一点の評価を求めても先生は取りつく島も無く,自室に篭ってその日はもう眠ってしまった。風船屋の跡取りは悔しさのあまりに泣きたくて,行くことを禁じられていた山の裏に歩いて行った。下り坂が続き,一緒について来た瓜坊が歩いて浮かんで消えてくことも,もう気にしないで歩いていった。消えるなら消えればいいと,風船屋の跡取りは思っていたから,妙に作り込まれたその物置に辿り着くまで止まることをしなかった。物置のドアは外されていて,夕陽が丁度中に届いていなかった。
 物置小屋には,けれど物が置かれてなくて地下に下る階段が一つだけあった。その段差の一段一段は当然に暗がりの中にあって,降りるにしたって壁伝いにならざるを得ない。暗所恐怖症で,家の中の押入れも嫌う風船屋の跡取りに底に行く気はなかった。見慣れた風船が一つだけ,誰かに押されたように出て行くまでは,それを見つけてしまうまではその入り口に近付こうともしなかったのだ。だから近付いたのは,風船屋の跡取りとしての意地と,先生への対抗心だった。暴けるものがあるのなら,それを暴いてやろうという気持ちも込めての。
 心の震えが歯ぎしりとなって表れてまで,壁伝いが深いものになってしまうまで,風船屋の跡取りは下っていってそこに明るい大小様々な風船を見つけてしまうまで,風船屋の跡取りはここで風船屋が担っていることを知らなかった。疑いもしない,そこに浮かんでいても,それはごく当たり前のことと感じて閉じて,受け入れていた。膨らむことを,吸って吐くように。破れることを,覚えていないように。
 記憶に有るから,必要とあれば紐だけでも結び付けて『話』の通りに『話』の数だけ浮かべるように底から出した風船屋の跡取りは大小様々な風船を物置小屋にとどめ置いてその場で迷ったそうだ。描ける『話』の,結末が明るいものになりそうになかったから,どうしようかと,どうすればと迷ったそうだ。
 鳴き声が聞こえていなかったら,何も決心は出来なかったと思うと,風船屋の跡取りは針子見習いだけしか読んでいないその書き置きにしっかりと書いていた。そこから先は何も書かずに,膨らんでから消えたように。




 空白も物語を物語ると言うのなら,風船屋の跡取りが書かずに置いた『話』の続きがある。
 通りを歩いて浮かんで消えてく事象が裏山辺りから広がって,街中の針子が呼び出されては日中夜働いて,それでも型紙が無闇に浮かんで消えていくことを押し留めることが出来ずにいた中で,針子見習いは師匠の許しを得て整理箪笥を上から下から引っ張り出して仕舞い込むことを繰り返していた。ノギクさんの助けも借りて探したのに三枚目は収めたところに収まっていないどころか,店内から逃げるように消えていた。師匠の疑いの目は,きちんと付けていた伝票と一緒に示すことで躱すことが出来たけれど,謎と事態は一向に進んでいない。『話』は一つも前に,進んではいかないのだった。
 師匠は,あの三枚目のことを覚えてはいなかったけれど,特徴を描いていたことに仕事の基礎という基礎から一から教わるという三時間超えに及んだ形式的な座学と,実質的なお叱りを受けながらも師匠は「まあ,悪くないけどね。」という評価を下してくれていた。そのことを風船屋の跡取りには勿論伝えて,たった一度の喜ぶ顔を針子見習いと分かち合った。
 風船屋の跡取りは,それから『話』を描くことに困ったりはしていなかった。大事に取ってあるさきの書き置きは除いて,先生との話もそれからは聞いていなかった。
 だから閉店後の店内で,手元を照らす灯りを頼りにしていた針の練習途中で許されない私語として,針子見習いは師匠に思い切って聞いてみた。
「師匠,師匠に失敗はありましたか?」
 ギロっと睨んだ師匠が答えてくれた訳を針子見習いは知らない。ただ師匠は針子見習いに言った。
「当たり前。あったに決まってる。」
  覚悟を決めている針子見習いは続けて聞いた。
「成功も,それが糧になりましたか?」
 またもやギロっと,睨み続けながらも師匠は針子見習いに言った。
「さあ,知らないね。」
「知らないのですか?」
 それを聞いて針子見習いは師匠にすぐに聞き返した。睨みながら,師匠も針子見習いにすぐに答える。
「ああ,知らないね。」
「それは何故ですか?」
 ゴン,っと針子見習いの頭を小突いて師匠は叱った。
「聞くな。考えろと私は常に言ってるだろ?」
 手元で針の動きを見失って,針子見習いは手を止めた。見つけ直すまで時間がかかった。
「すいません。」
 そう謝り,灯りで輝かせて針を持ち直した針子見習いはボッケを気にしてポッケを真似て口を閉ざす。手を動かすのはそれからにしようとした。
 コンコン。師匠がそう叩く店内の壁は仄暗くて温かい。秘密は暖房機には無いと答えを知るノギクさんはいつも針子見習いに言っている。
 「成功も失敗も,その時限りの問題なのさ。結局同じようにやり続けるしかない。自分に問うて,自分に答える。繰り返すのはそこさ。」
 それで「ほら,手を動かしな!」と叱ってくれる師匠はその日の最後に「立体を意識しな。」と言い続けた。針子見習いの,しようとしていることを見透かしているようなアドバイスだった。




 立体を意識する。
 着られて完成する衣服は,その発想からして身体を始めに置かなければならない。それが人であれ,そうじゃないものであれ,その特徴を捉えてそれを繋ぎ合わせて動かさなければいけない。『作ろう』とするならそうだ。『生み出そう』とするならそうだ。
 深い赤色のアタッシュケースの隅から隅まで,持ち手の方から下へ下へとクルクル巻いて収めていった型紙はマフラーを大切にする伯爵をフェルト地に縫い付けて終いを迎えた。仕草で鋏を用いて,糸を切ってから意識して手繰り寄せてその特徴と整理番号を記す。一工夫して付け加えるのなら,それは喉を大事にするということで鳴き声もその例外にならないということだと決めていた。
 針子見習いは針を持つ。糸は白でも構わない。
 型紙からその特徴を縫い付けるのなら,隣り合う事柄同士の関係性にも着目して切り取る。大きな羽根の運動はなだらかな坂道みたいな猫のイメージ。撫で肩も怒り肩も,関係のない事実。
 目の前の通りを歩いて浮かんで消えてく何人目かもう数えない黒外套の紳士はまだある意識をもって針子見習いの針の動きを上から見下ろしている。そのために生まれる意識で,すぐに消えずに留まっている。黒外套の紳士は,かき集めたような言葉で最後に針子見習いに聞いてきた。しかし針子見習いは答えない。無駄口を叩いては,良い針仕事は出来ない。
 黙々と,手を動かしつづければそこに風船があるように,糸を離さない気配が満ちて,辺りを包んで膨らむ。自信はまた無さげに振る舞って,どこから進めばいいのか,どのようにして進めればいいのか,躊躇って動けない。見学するように,隣に立っていいのかも分からないから,進行形の対面はまだ再開になっていない。
 針子見習いは言う。
「畳まなかったらそのまま翔んでいきそうなんだ。振り返りもしない本体を追いかけたがっているようで寂しそうだし,やっぱり翔んでいきたそうだし。」
 それは完成前だから,針子見習いは恐らく師匠に小突かれるけれど,奇妙に褒めてもくれると思う。だから続けて構わない。口が閉じたポッケを気にしながら,そんなに変えるところもないから。
 そうして針子見習いは言った。
「だから尻尾をお願いするよ。羽根はこうして,『書いて』おいたから。」

practice(15)

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-10-27

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